青葉慈蔵尊と満州従軍看護婦集団自決物語とコピペ職人小名木善行

 

6月22日月曜日晴れ△
おそらく、六月二十一日には今年も埼玉県さいたま市の青葉園にあるに青葉慈蔵尊にていろいろな行事が催されていると思います。
ねずさんこと小名木善行氏はブログに下記のように書いています。

青葉慈蔵尊と満州従軍看護婦集団自決物語
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2677.html

魚拓

http://megalodon.jp/2016-0625-0950-53/nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2677.html

<略)

実はこのお話を最初にこのブログでご紹介したのは、平成21(2009)年のことでしたが、当時、この実話をご紹介するやいなや、「ねずがまた嘘を書いている」どころか、「ねずが書いていることだから嘘に違いない」などと他のサイトでずいぶんと書き立てられました。

本当のことであっても、私が文章にすることで、それが事実ではないと言われる。
自分が中傷されたり、悪口を書かれたりすることは、自分の不徳ですし、日本はそれこそ言論の自由の国ですから、いろいろな意見があってしかるべきだし、それは良いのです。相手にする値打ちもない。
けれど、お亡くなりになられた英霊のみなさまや、辛い日々を送って最後に自決までされたうら若き女性たちまでも自分がそれを文章にしたことでかえって貶められる、これは正直、とっても辛かったです。

ただ、不思議なことに「だからブログを書くのを辞めよう」とは思わなかったことで、たくさんの方々に励まされて、ほんとうに皆様のおかげをもちまして、現在に至っている次第です。
あれから6年が経ちましたが、その後、当時「嘘だ」と言いまわっていた人達が、どういう人達であったのかが、いろいろな筋から、ほぼはっきりとわかりました。
なんのことはない、お金をもらって反日運動をし、ネットでの保守系の人達への中傷や毀損をいわば職業にしている日本に住む日本人でない、異なる言語を母国語とする人達と、それにあおられ騙された日本人たちでした。実に哀れなものです。

略)

昔はそういう人達のことを「斜めの人」と言ったものですが、体が斜めなら、影も斜めです。
そして斜めの状態から真っ直ぐなものをみれば、その真っ直ぐなものが斜めに見えます。
そういうことなのだろうと思います。
おっと、考えてみたらその人達、日本列島からみたら斜め上の国の人達でした。>

なんだかな〜

どっからこういう結論になるのか。

まあ、誰のことかは知りませんが、私はただ、「事実は事実として書けよ」「検証できないものを事実として書いたらあかんだろう」「最低限検証ぐらいしろよ」と言いたいだけです。

なんども書くが、最低限事実を書けよ。

青葉慈蔵尊にお参りしているのだったら、その碑に刻まれていない氏名を「刻まれている」と書くなよ。
他人の書いてあることをそのままパクるなよ。
カルトをそのまま広めるなよ。

あほらし。

今日は当店のお客様方と中野「石松」さんでドンチャン。

DSCN3596

一応記憶あり
サルよりマシ

小名木氏の書いてある内容の矛盾点はこれまでも書いてきましたがもう一度書いておきます。
青葉慈蔵尊については


その顕彰碑には下記のように刻まれています。
 「昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国の新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受けその九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた
拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看浅婦が満身創痍瀕死の身を以て逃げ帰り全員堪え難い陵辱を受けている惨状を報告して息絶えた
慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した
先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び満州の土に消えた
二十三年の暮れ 堀婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此地に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた
九名の友の霊も併せ祀られ 昭和三十年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った
凛烈なる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純血を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂とこしなえに此処に眠る  合掌」

この青葉慈蔵尊についてのエピソードを多くの方が「事実」として書いておられますが、多くの矛盾点がございます。その中の最大の矛盾点は、青葉慈蔵尊の設立者である堀喜美子(喜身子)氏自身が著書などに書かれている肝心のお亡くなりになったとされる従軍看護婦の氏名もいい加減で、顕彰碑に刻まれていた氏名と堀氏の著書の氏名が一致しなかった事は私も確認いたしております。

私が確認した顕彰碑に刻まれたお名前


荒川さつき 井出きみ子 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子 垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子

池本公代 稲川よしみ 大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子 森本千代 渡部静子

石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 坂口千恵子 沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子

顕彰碑に書かれている氏名は以上三十二名です。

小名木氏が書いているような<地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。>

婦長である堀喜美子(喜身子)氏の名前などどこにもございません。

そして、<【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺>では
二十一年春ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に行かされたのは大島はなえさんら三人の看護婦。続いて一週間後、再び命令が来て三人の合計六人です。

これが、青葉慈蔵尊由来記によると、
<最初は大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名。予定の一ケ月を過ぎてた後、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が第二回目の後続として送り出された。第三回目の命令井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんの三名を送った。>
となっている。合計九名である。
そして、四回目の要請を受け、人選を終えたのちに大島看護婦がソ連軍から逃れてきて亡くなるとなっている。
二名については何も記されていない。
青葉慈蔵尊由来記にはソ連軍に慰み者にされ国際梅毒?をうつされた六名の事が下記のように書かれている。
<私たちは毎晩七八人のソ連の将校に犯されたので、すぐに国際梅毒をうつされてしまいました。私も看護婦です。今では大分悪化していることがわかります。こうなっては自分の体は屍に等しいのです。
どうしてこの体で日本に帰れましょうか。仮に今後どのような幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、この体では日本の土が踏めません。この性病がどんなに恐ろしいものか十二分に知っています。暴行の結果うつされたこの性病を私はソ連軍の一人でも多くうつしてやるつもりです。今は歩行も困難なくらいですが、それでも頑張って一人でも多くのお客をとることにしています。これが敗戦国のせめてもの復讐です」>
<コンジロームが局部一杯に広がってその先が全部化膿して膿が流れ、無花菓(いちじく)の腐敗したのを見るような感じに、長年看護婦をして馴れているはずの堀さんも全身総毛立ちの寒気がしたという。>
これがソ連軍に犯された約四ヶ月後、五ヶ月のことである。
梅毒とは四~五ヶ月で歩行も困難になるものであろうか。そして、そんな見て判る女性を梅毒が伝染する危険を承知で抱きたいと思うであろうか。
帰国の際について、<【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺>では
<二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。>

つまり行方不明者はいない。これによると持ってきたのは食べ物ではなくお金であったし来た人数は五人であった。

青葉慈蔵尊由来記では
<この六人のうち四人は、堀さんたちの引き揚げに際しては、ハルピンに身売りまでしてその費用を稼いでくれたという。>
となっている。拳銃自殺した事は書かれていないし、四人も身売りしてまで金を作ってくれたことになっている。
これが、堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」では下記のようになっているそうである。
< 昭和二十三年九月のある朝、その日午後七時、南新京駅に集結という、突然の帰国命令が出た。堀婦長は子供たちに準備を言い残すと走り出していた。そうです。ダンスホールで働いている、あの六人の看護婦、細井たか子・後藤よし子・荒川静子・澤田八重子・井出きみ子・澤本かなえさんらの所です。「みんな帰れるのよ。帰国命令が出たのよ、今夜七時、南新京駅へ集まるのよ」と話した。
彼女たちの言葉は、「七時までに準備して必ず参ります」というものだった。
しかし、その約束には衝撃的な永遠の別れが堀婦長を待っていた。約束の時間の二時間前に行き、六人の来るのを待ったが細井さんらの姿は見えなかった。
そのうち引揚げ用の貨車が入り、堀婦長は二人の子供らと共に貨車に乗った。
そして目線は六人の姿を求めて遠く近くをさまよった。その時、意外に近くに制服制帽の荒井、細井、後藤さん三人が貨車に向かって来るのが見えた。
三人を貨車に引っ張り上げ、堀婦長は「あとの三人は?」と問うと、「あとから来ます。これ、食料の足しにしてください」と言って抱えていた大きな包みを差し出し、「婦長さん、私たち澤本さんたちを探してきます」と言って貨車を降り始めた。
飛び降りた三人の姿が堀婦長の視界から消えてものの一分もしないうちに、「バーンという銃声、続いてもう一発」の銃声が鳴った。誰かが、貨車の下の方だ、と叫んだ。
何事かと堀婦長が立ち上がろうとしたその時、「婦長さぁん、さようならぁ・・・」と言う細井たか子さんの声が聞こえると同時に三発目の銃声が鳴った。
堀婦長は反射的に貨車を飛び降り自分の乗っていた貨車の下に目を注ぐと、「うおぅー」と狼のような声を上げて走り寄った。後藤さんと荒川さんの身体を覆うようにして倒れていた細井さんの右手には拳銃が握られていた。
おそらく、気丈な細井さんが先に二人を射殺し、最後に自分のコメカミを撃ったことが、堀婦長にはわかった。当然即死であった。
「わかる、わかるよう。あんたたち、こうする外なかったのね。こうしなければあの忌まわしい記憶から逃れる術がなかったのね。ごめんね。・・・早く、楽になってね。今度はもっと強い運をもらって生まれてくるのよ」 堀婦長はそう言って線路の砂利の上に座っていた。
嗚咽の中で冥福を祈り、もう一度合掌してさて遺髪をと、思いついた矢先引揚げ列車は無情にも、発車の汽笛を鳴らし、堀婦長は車上の人となった。
結局、澤本かなえ・澤田八重子・井出きみ子さんの三人は姿を見せなかった。
また、ソ連の病院に派遣された九人のうち、二人の行方は杳(よう)として知れずに終わった。>
堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」より
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/aoba.htm

集団自決二十二名、ソ連軍に呼び出され蹂躙された方は六~九名となっているので、最大三十一名だが、三十二名の氏名が記されている。
つまり、ソ連軍に恥辱された看護婦の人数は六~九人、その方達の最後は、お一人が大島はなえさんで逃亡後死亡、ダンスホールで働いていた細井たか子・後藤よし子・荒川静子・澤田八重子・井出きみ子・澤本かなえさんの六人
行方の判らないのは大塚てる、三戸はるみさんの二名である。
その六人のうち荒井、細井、後藤の三人は堀氏の前で拳銃自殺する。四人の身売りは何も出てこない。
この結果、下記の事が判る。

青葉慈蔵尊の顕彰碑に刻まれた氏名
「従軍看護婦の集団自殺」

井上つるみ
井上鶴美 集団自決

大島花枝
大島はなえ ソ連軍より逃亡後堀氏に見とられ死亡

三戸はるみ
三戸はるみ ソ連軍に連れ去られるその後不明

大塚てる
大塚てる ソ連軍に連れ去られるその後不明

澤本かなえ
澤本かなえ、ダンスホールで働かされる 最後は不明

細川たか子
細井たか子? ソ連軍によりダンスホールで働かされる 拳銃自殺

沢田八重
澤田八重子? ダンスホールで働かされる 最後は不明

井出きみ子
井出きみ子、ダンスホールで働かされる 最後は不明

後藤よし子 ダンスホールで働かされる 拳銃自殺

荒川静子 ダンスホールで働かされる 拳銃自殺

このように顕彰碑に刻まれた氏名のうち、堀氏の著書と名前が一致するのは六名。そのうちソ連軍に慰み者にされたという九名のうち五名。自決したとされる二十二名のうち一名のみ。
遺書に連名で記されてあったとされるが、井上つるみさん以外不明。
ソ連軍に慰み者にされた五名のうちかりに細井たか子さんが細川たか子さん、澤田八重子さんが沢田八重さんとしてもあと荒川静子、後藤よし子さんの二名は慰霊碑に氏名さへ見つからない。

堀氏は満州より昭和二十三年九月に帰国し、従軍看護婦として悲惨な最期を遂げられてた皆様のご遺族を捜したとおっしゃってます。
しかし、従軍看護婦については、顕彰碑にも<従軍看護婦三十四名>と記され<【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 第5部 抗議の自殺>では
<従軍看護婦の召集令状が舞い込み>となっている。青葉慈蔵尊由来記には<彼女たちが満州に渡る直前二週間幕舎生活をして訓練を受けた思い出の地、群馬県吾妻郡大泉村>となっているから彼女達は我が国国内で訓練を受けた従軍看護婦であるので、当然、その住所氏名が国にて管理されているはずであるが、その住所が不明で下記のように浪曲によって遺族探しをした事になっている。
<松岡寛さん。やがて結ばれて夫婦になるのであるが、春日井梅鴬の門下で若梅鴬と名乗る人気の高い浪曲師であった。堀さんの話しに感激し、『あゝ従軍看護婦集団自殺』と題する浪曲を作って全国を巡業したが、それによっても、奇跡的にも、まったく手掛かりもなかった十九人の遺族が名乗り出ることになるのである。>
私の叔母の山田竹子は従軍看護婦であった。国の命令で従軍看護婦として出征したものに対して、まったく手がかりがないはずなどあろうか。

また、 自決した二十二人の遺書に
<たとい命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。>とあったものを、
わざわざ、<葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。>
と、産經新聞の記事にございますが、当時の金で一人当たり千円もの金額というと百万円にも相当するのではないでしょうか。それを二十二人分二千二百万円分もポンと支那人(病院の人事課長、張宇孝)が出してくれたと書いています。
支那での火葬代がそんなにするのかは置いときましても、これ以外にも堀氏の著書、証言にはこのように多くの矛盾が見られます。

普通に考えて、<満州の慣習に従い、土葬の野辺送りをすませ、髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め>と大島はなえさん「だけ」を「満州の慣習に従い」埋葬しておきながら、どうして二十二人を今の金額にして二千万円以上も支那人が出してくれたからといって火葬にするのでしょう。
どうして、大島はなえさんのように髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納めなかったのでしょう。

<満州から一緒に引き揚げてきた軍医の平尾勉なる人物と相談して、冥福を祈るため毎月二百円ずつ貯金を積み立てる計画を立てたが、それではとても間に合わぬので、自分の持ち物一切、子供のものまでも質に入れて、五万八千円という大金を工面して平尾元軍医に預け、七回忌までに、彼女たちが満州に渡る直前二週間幕舎生活をして訓練を受けた思い出の地、群馬県吾妻郡大泉村に慰霊の御地蔵さんを建てることにした。堀さんは自分は現地に行けないが、平尾が当然実行してくれたものと信じていた。
しかるに数年後、当時堀さんの話に感動して浪曲にし、仝国を巡演していた松岡寛さんがお詣りをするつもりで大泉村に行ってみると、何も建っていない。平尾が堀さんの信頼を裏切り、金を着服してしまっていたのである。堀さんの受けた傷心は察するに余りあるが、しかし苦労し抜いた彼女の心は正に地蔵様のように思いやりと慈愛に満ちていた。「こんな時代です。みんな苦しいのです。平尾さんは決して悪い人ではないけれど、家族を養うためにどうにも仕方がなかったのでしょう」といって、もう何も責めず、愚痴も言わなかった。>
と、青葉慈蔵尊由来記に記されている平尾勉元軍医は本当に実在するのであろうか。

証言者が総て正しいという事も無いと思います。

青葉慈蔵尊に祀られている従軍看護婦の皆様が靖國神社に祀られていない事についてはいろいろと批判されている方も多いです。
この青葉慈蔵尊が「大東亜戦争においてソ連に蹂躙された従軍看護婦の慰霊碑」ではなく、「大東亜戦争終了後昭和二十一年六月二十一日に自らの命を絶った二十二人の従軍看護婦の碑」として建てられている。
昭和二十一年六月二十一日に自ら二十二人の従軍看護婦が命を絶ったその為に毎年六月二十一日に慰霊祭が執り行われているのである。
それが、二十二人の氏名も確認出来ないで事実とされている事が問題だと思う。

靖國神社に祀られていないのもその為である。

つくる会山形支部にて青葉慈蔵尊について中村武彦氏は下記のように書いている。
<最後に特記しておく。
この日本魂の権化と仰ぐべき女性たちは日本赤十字より派遣されて「満州赤十字」に所属していたというだけの理由を以て「日本」の従軍看護婦として扱われず、靖国神社にも祀られず、国から何の援助も弔意も受けていない。それでよいのか。法律とはそんなものか。彼女たちの祖国はそんな国であったのか。耐え難い悲しみと憤りをもって国民同胞各位にご報告申し上げる。>

同じく
< 六月二十一日、青葉慈蔵専の前で、自決した従軍看護婦さんたちの五十一回命日の慰霊祭が営まれた。多くの心探き男女が参列して、あらためて遺烈を賛仰し後に続くことを誓ったが、その場で、松岡喜美子さんが挨拶に立ち、厚生省や総理府に陳情しても官僚的な対応を受けただけだった経過を報告し、せめて大臣・局長でなくてもよい、当局の誰かから、「看護婦諸君よくやってくれた、有難う」とか「相済まぬ」という一片の暖かい言葉を霊前に供えてやっていただけませんかと嘆願したが、それでも聞き入れてて貰えなかったと、涙ながらに訴えておられた。
なんという政府の冷淡と不条理。あきらめてはっておけることではないと痛感した。
平成九年六月十日付け「新日本」第949号より転記 >

このように書くが、従軍看護婦殉職者として靖國神社に祀られる「はず」であったが、それを拒んだのはほかならぬ堀喜美子氏自身である。
これについては「日心Oを糺す会」と題したブログに他よりの引用として下記のような事が記されています。
<「日本の正しい歴史を学ぶ会」の会長、渡井昇が纏め、1998年6月21日の供養祭で参加者に配布したらしい『青葉慈蔵尊』と題された小冊子を得て、もう少し詳しいことが分った。興味深い内容を含んでいるが、自殺した看護婦の遺族ということでは、渡井昇らが既に調査をし、そして結局何も分らなかったということが書かれてあった。そのあらましはこうである。
渡井昇らは、集団自殺した看護婦たちは靖国神社に祀られるべきだと考えた。1997年の供養祭の主催者挨拶の後でその事を話し、参列者の同意を得た。その中に冨士信夫がいた。その日から十日程経った頃、冨士信夫から「先日の青葉慈蔵尊の靖国神社合祀のことだけれどね」と電話があった。その内容は、次のようなものだった。靖国神社で行なわれたある会合に官民の著名な方々が集まっていたが、そこで冨士信夫が青葉慈蔵尊のいわれと、その霊を靖国神社に合祀して頂くことはできないかということを現地関係者の希望として話をした。小田村四郎や中曽根康弘が出席していたが、「それは尤もな話である。この席に権宮司の三井さんもいらっしゃるのだから、後日その関係者が神社に三井さんを訪ねて話を薦めてもらってはどうか。」ということだった。それで、早急に資料を持参して靖国神社の三井権宮司を訪ねてお願いしてくれないかという。
渡井昇らは、靖国神社に訪問の日時を申し入れ、松岡喜身子に事情を知らせたが、その時の松岡夫妻の反応は意外にあっさりしていた。渡井昇と森哲也〔「日本の正しい歴史を学ぶ会」事務局長〕は指定の日時に靖国神社に権宮司の三井勝生を訪問した。三井勝生は快く面談に応じ、途中からは当時企画室長だった大東信祐も同席した。靖国神社としての合祀に関する見解は、戦争に関わったことの証明は省略として、「そのご本人の住所、氏名が国籍上確認できる者であること」が前提の条件という。
ところが、青葉慈蔵尊に祀られている看護婦の場合、住所氏名は全く確保されていなかった。松岡寛が浪曲の全国行脚で判明した十九人の身元も、その遺族の家庭の氏名を書いて、徳山市の堀家の菩提寺の住職に、預けている遺骨の中からその一部を送ってほしいと、そのつど連絡をしたもので、その控えも取っていなかった。

「それはその時の控えぐらいはあった筈」と言って責められても仕方はありません。でも、実際のところは「ああこれで、あの子も実家が解って良かったわね。早く帰ってご先祖のお墓に入れてもらって楽になってね。と安堵するのが精一杯で、後々のために記録を取っておくことなど、私たちには考えつきませんでした。」というのが、堀喜身子の「開き直った告白」である。
こういう次第で、渡井昇らは靖国神社への合祀を諦めた。

堀喜身子は、意外にこの件に付いてはサバサバとした表情で、それは、過去、何度となく、この話を伝え聞いた方々が、政治家を始めとするツテを頼りに、厚生省その他の関係団体へ陳情をしたが、その結果が靖国神社合祀の条件のカベ(そのご本人の住所、氏名が国籍上確認できる者であること)を崩せなかった、と述べた。
そして現在、松岡喜身子さんは次のように語るのでした。「今はこうして、毎年大勢の皆様方が青葉園まで来て頂いて、立派に供養祭をして下さいます。事件の概要を伝える石碑も建てて頂きました。私はもうこれ以上は望みません。満州の地で亡くなったあの娘たちの霊も、きっと喜んでくれていると私は信じています。」と言って涙ぐむのでした。・・・>
http://blog.livedoor.jp/t6699/archives/1263063.html

このように書いているが、お亡くなりになった方の氏名がいいかげんでどうやって遺族を探すのでしょうか。
また、これほど有名になったのちも、靖國神社にはひとりも祀られておりませんが、ご遺族の方は一人も名乗り出ておりませんのはすべて堀氏自身が望まなかった事です。

 

有名なブロガーであるねずさんこと小名木善行氏 「満州従軍看護婦実話」として「以下は、すべて実話です。」として肯定的に取り上げています。
満州従軍看護婦実話(1)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1184.html
満州従軍看護婦実話(2)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1185.html
満州従軍看護婦実話(3)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1186.html

そして、小名木氏は青葉地蔵尊の矛盾について、は御自分のブログで下記のように書いています。
<青葉慈蔵尊の物語でいえば、命を捨ててまで仲間たちを守ろうとした大島看護婦の勇気、操を命より大切なものとして集団自決の道を選んだ22名の乙女たちの心、半分死んだようになっていた拉致被害者の乙女たちを必死で救おうとした掘婦長の誠実さ、「日本に帰れる」そのことが本当に嬉しかったからこそ、現地で死を選ばざるを得なかった彼女たちの愛国の情、帰国後、何年かかかっても、彼女たちの冥福のために人生を捧げた掘元婦長の優しさ、その行動を意気に感じて名を捨ててまで「自分でできることで」全力で支援しようとした浪曲師、事態を知ってお地蔵さんを建立してくれた青葉園の創立者の心、私たちがこの物語を通じて「学ぶ」ことはたくさんある。

歴史を学ぶというのは、そういうことなのではないかと思うのです。
検証作業は、学者や、そういうことが好きな人に任せればよい。
私たちにとって必要なことは、どこぞのサイトに否定の文書が掲載されていたという「理屈」ではなく、この物語を通じて何かを得ることなのではないかと思うのです。

ですから、この物語を否定する人がいるというのなら、それはそれで良い。
その人には、そういう捉え方しかできなかったのだな、とボクは思うだけです。
もっと、はるかに大切なことを、その人は感じ取ることができなかった、かわいそうな人だとボクは思うだけです。

略)
「仮に」と申し上げました。青葉慈蔵尊にまつわる乙女たちの物語が、単に浪曲のための創作であったとしても、その物語は、終戦直後の国家を喪失したとき、すなわち「ゼロ時」の出来事として、国を考えるときの重要なメッセージが含まれている物語として、伝えていかなければいけない話である、と思うのです。

従軍慰安婦のような、単に欲ボケの利権屋のねつ造物語と、国を大切にすることの重要性や、その他多くのことを教えてくれる物語と、一緒にされては困る。
それこそ、勉強不足というものです。

三つ目に、真実かどうか疑わしいから「広めるのはどうかと思う」という議論です。

ま逆です。
この物語は、広めなければならない。
ボクはそう思っています。

この物語の論拠となっているのは、掘元婦長の話だけです。

伝えられている事件が、あまりにも悲惨で酷い物語であるだけに、これを否定する論が出てくるのは当然のことと思いますし、そうした論調があることも十分承知しています。
それでも伝えなければいけない。
物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。

いまとは比較にならないくらい貞操観念の強かった時代です。
大陸で強姦されたの性的おもちゃにされたの、梅毒に罹患したの、自殺したのとなれば、彼女たちだけなく、そのご家族の苦しみは想像を絶する。

もし、ご自分の愛娘が、この当事者であったのなら、ご遺族としてはどうするでしょう。
真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。

けれど、仲間のうちの何人かが、ソ連兵に拉致され、性的おもちゃにされた揚句、梅毒に罹患し、死んだとなれば、そのことについて住所、氏名を公表し、ご自分がご遺族として世間の前に晒されるという選択を、果たして望まれるでしょうか。

もちろん中には、靖国合祀となれば、氏名住所本籍の公表を受け入れようというご遺族もおいでになるかもしません。
けれど、ご遺族の何人かが「それは困る」と申し出れば、おそらく事態の悲惨さから、事件そのものについて、合祀さえもお断りする。
もし、ボクが彼女たちの誰かの親なら、拒否します。
なぜなら娘の恥を、世間に晒してなどしてほしくないからです。
靖国合祀などされなくても、関係者や「わかってくださる人」が、お地蔵さんを建ててくださったのなら、それだけで十分です。
毎年欠かさず、そこにお参りする。
鶴を持っていく。綺麗な花を手向けてくる。冥福を祈る。次に生まれてくるときには、絶対に絶対に幸多かれと祈る。
それが普通の日本人の感覚なのではないかと、ボクは思います。

それを、逆手にとって、靖国合祀されなかった、住所氏名本籍の公開がなかった、だから事実ではない、と声高に主張する人の方の心が、ボクには、逆に理解できません。
それが論理的帰結というのなら、その論は、あまりに人間を知らなすぎる。人の心を知らなすぎる。日本人としての心を失っている。そのようにボクは思います。

論理というのは、単にどこぞにこう書いてあるとか、どこかの学者がこう言っているというのが論理ではありません。

事実の積み上げが論理です。
そして青葉慈蔵尊の物語でいえば、その物語が事実であったかなかったかということよりも、もっと大切なメッセージがそこに込められている。
その「メッセージがこめられている」という事実を除外しては、それは論理にはならないとボクは思う。

百歩譲って、そのブログのように、この悲劇が単に浪曲の創作話にすぎなかったとしても(ボクはそうは思っていませんが)、この青葉慈蔵尊に関する物語は、語り継ぐべき内容と持った物語であるとボクは思います。

なぜなら、ゼロ時、すなわち国家というものがなくなったとき、私たちの同朋がどのような目に遭わされてしまうのか。
けっして能天気なお花畑ではすまない現実がそこにあるからです。

唯物史観などというもっともらしい言葉がついているようですが、証拠というものは客観的なものです。

けれどそれをつなぎ合わせて、どういう事実をそこに見出すかは「解釈」の問題であり、その「解釈」には、解釈する人の知識や人生観や主観がはいります。
だから対立や論争が起こる。

ボクは学者ではありませんし、歴史家でもありません。
そこいらにいるただのオヤジです。
そしてこのブログも、ねずきちの「ひとりごと」です。

そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。
略)>
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1232.html

<真岡郵便局事件のように、関係者全員が、ソ連兵に強姦される前に自決した、というのなら、合同法要もありかもしれない。>という。
確かに、多くの先人がソ連により醜いめに遭ったのは事実である。このような事もあったであろうことは想像できる。しかし、その中の「事実でなかったこと」を「事実として」後世に伝える事とは決して我が国のためにならないと思う。
ましてや、この青葉慈蔵尊が「大東亜戦争においてソ連に蹂躙された従軍看護婦の慰霊碑」ではなく、「大東亜戦争終了後昭和二十一年六月二十一日に自らの命を絶った二十二人の従軍看護婦の碑」として建てられているのである。
二十二人、いや、記されている三十二人の非業の死を遂げられたとされる方の実在さへ確認出来ず、十九人の遺骨を返還したという御遺族さへ確認出来ていない。このような状態確認出来ない三十二人の犠牲者の氏名を事実として伝えていく事の方が問題であろう。

それだけでなく小名木氏は<そこに書かれた「物語」が史実であるかどうかなどということは、ボクにとっては問題ではない。>とこのように書くが、果たしてそうであろうか。
多くの悲劇があったのは事実であろうが、事実と確認出来ない事を事実として伝えていいものだろうか。
私は決してそうは思わない。
事実は事実として伝えていく必要があり、事実でないものを事実として伝えれば、支那や朝鮮と同じになる。
何度も書くが、この青葉慈蔵尊が「大東亜戦争においてソ連に蹂躙された従軍看護婦の慰霊碑」ではなく、「大東亜戦争終了後昭和二十一年六月二十一日に自らの命を絶った二十二人の従軍看護婦の碑」として建てられているのであるから記されている従軍看護婦の存在が問われているのである。しかし、慰霊碑では二十二人自決したなかで名前が特定されているのは井上鶴美さんおひとり。あとはソ連軍に蹂躙された九名のうち五名のみ。三十二人の中でこの六名しか氏名さへ特定出来ないのである。つまり、二十二人のうち二十一人が名前を特定出来ないのである。
中川八洋氏は著書「歴史を偽造する韓国」に職業詐欺師である吉田清治と千田夏光について数字を駆使していることを指摘し、「日本人は嘘数字に弱い」と書いていますが、これと同じように堀氏自身従軍看護婦の「実名」を書きながら、その御遺骨を渡された御遺族は最低十九家族いるはずなのに、誰も名乗り出ていません。どなたか、慰霊祭に出られたのでしょうか。
少なくともこの二十二人は自らの純潔を守る為に、自ら命を絶った悲劇の方々のはずです。名乗り出ない理由などないはずです。慰霊祭に出席しない理由など無いはずです。靖國神社に祀られる事を拒む理由など無いはずです。

だいたい、「満州従軍看護婦実話」として「以下は、すべて実話です。」としていながら「物語として、ボクはこのお話をご紹介しています。」とはどういうことなのでしょう。
私程度の頭では理解出来ません。

 

青葉慈蔵尊について小名木氏は「実話です」として<本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。>と書いている。

元に書いているということは、そのままコピペということであろうか。
たとえば、
<調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けます。>
となっている。そして、九名がソ連軍の病院に行ったので、残りは二十五名のはずであるが、
<残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。>
となっている。小名木氏は矛盾と考えなかったのであろうか。

小名木氏のブログに下記のような記述がある。
<大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びます。
略)
日本側は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続としてソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送った。
略)
やむなく、井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出します。>
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1184.html

そして、下記のような記述もあります。

<地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。

(五十音順)
<荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子>
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1186.html

先に書きましたが、これはどういうことでしょう。
ソ連軍に慰み者にされたとされる九名のうち細井たか子、澤田八重子、荒川静子、後藤よし子の四名は小名木氏が引用している慰霊碑に刻まれたとされる中には見当たらない。
小名木氏は不思議に思わないのだろうか。

現実に慰霊碑に刻まれている氏名は先日の日記に書きましたように、

<荒川さつき 井出きみ子 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子 垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子
池本公代 稲川よしみ 大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子 森本千代 渡部静子
石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 坂口千恵子 沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子>
の三十二名であり、婦長の堀喜身子氏の名前はありません。

そして、小名木氏の引用した氏名のうち
<坂口千代子 滝口一子 澤田一子 服部きよ >
が、私の確認した碑に刻まれた氏名の中にはみあたらない。
それらしき氏名は
<坂口千恵子 澤口一子 沢田八重 服部律子>
であろうかと思います。

小名木氏は後日、青葉慈蔵尊に参った事をブログに書かれていますが、小名木氏にとって青葉慈蔵尊に参ったという事実が大切で、その時もおそらく、ご自身ではこういった事は確認はされてないのでしょう。
小名木氏は多くの話題でブログを書いていらっしゃるが、その引用先、参考文献が記してないあるいは不明なものが多い。
私も書かせていただいた台湾新竹省に神として祀られている廣枝音右衛門(広枝音右衛門)についてもそうです。
私が書いているブログ。
廣枝音右衛門(広枝音右衛門)

小名木氏のもの
部下たち二千人の命を守った警部・・・廣枝音右衛門
http://megalodon.jp/2014-0626-0819-10/nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-747.html

小名木氏の廣枝音右衛門についてのブログは引用先も参考文献も無く、碑文についても私が顕彰碑より読み取った部分のみの掲載であり、掲載された顕彰碑の写真も不思議と同じ場所で撮ってフラッシュの光のまで同じ箇所です。

私の写した顕彰碑
小名木氏のブログの写真


不思議な事があるものです。

あほらし

廣枝音右衛門(広枝音右衛門)

https://www.tamanegiya.com/ura/2015/01/30/廣枝音右衛門(広枝音右衛門)-2/

台湾民政府の危険性
https://www.tamanegiya.com/ura/2015/01/04/台湾民政府の危険性/