「日朝の大義」に生きた崔慶禄元駐日大使と小野武雄少将

「日朝の大義」に生きた崔慶禄元駐日大使と小野武雄少将
5月4日水曜日朝雨と風で大荒れのち快晴◯

6-1大正九年(一九二〇年)九月、忠清北道陰城に生まれる。昭和十三年(一九三八年)、日本陸軍に志願(志願兵一期)。歩兵第七十八連隊で下士官候補生試験に合格した後、陸軍士官学校の試験にも合格した。入校待機状態である途中、南方に送られニューギニアの戦いを経験した。昭和十九年(一九四四年)、豊橋予備士官学校を卒業して少尉に任官。
戦後、昭和二十一年一月軍事英語学校卒業、韓国軍少尉。第一連隊の創設に参与し、同連隊A中隊(中隊長:蔡秉徳大尉)小隊長。
昭和二十三年(一九四八)六月二十一日、第十一連隊長として済州島に赴任。
昭和二十五年(一九五〇)六月、朝鮮戦争が勃発すると臨津江の戦闘で勇戦した。同年七月、首都師団参謀長。
昭和二十六年(一九五一)、憲兵司令官。
昭和二十七年(一九五二)国防部第一局長。
昭和二十八年(一九五三)アメリカ陸軍指揮幕僚大学卒業。
昭和三十年(一九五五)第二軍副司令官。
昭和三十三年(一九五八)国防大学院卒業。
昭和三十四年(一九五九)国防大学院院長。
昭和三十五年(一九六〇)参謀次長。陸軍参謀総長。
昭和三十六年(一九六一)三月 第二軍司令官。
昭和三七年(一九六二)六月予備役編入。ジョージ・ワシントン大学に留学。
駐メキシコ大使、駐イギリス大使、交通部長官、駐日大使を歴任した。

 

日朝の大義に生きる

昭和十七年、八月上旬に始まったガダルカナル攻防戦以来、反抗を開始した連合軍は南西太平洋方面において急速にその勢いを増しつつあった。日本海軍としては最重要拠点ラバウルを確保するため、何としてもその攻勢を撃退しなければならない。焦慮した大本営は朝鮮の竜山に配置し、対ソ戦勃発の際はウラジオストック攻略に当たるはずであった陸軍最精鋭の第二十師団を急遽、南西太平洋戦線に投入することに決定した。

翌年十二月に命令を受けた同市団は早くも十八年一月には東部ニューギニアのウエワクに上陸、更にマダンに進出して迫り来る米豪軍迎え撃つ態勢を整えた。この第二十師団の一員に、後の韓国陸軍参謀総長や駐日大使を歴任する崔慶禄氏(日本名新田慶吉)がいたのである。崔慶禄氏は師団の出撃命令当時、同師団麾下の歩兵第七十八連隊に所属していたが、その人柄と成績の優秀さを見込まれ、陸軍士官学校入学を推薦されて既に合格の内定通知を受けていたのであった。本来であれば、帝国陸軍の根幹である将校を養成する士官学校への入学は全てに優先する。生還を期しがたい最前線への移動は避けることができた。しかし、崔慶禄氏は熟慮の末、日朝の大義と朝鮮民族の誇りの為に「日朝の大儀に生きるべし」として敢えて戦地に赴いた。
「日朝の大儀に生きる」。これを崔慶禄氏が自らの信念とするに当たっては一人の日本軍人との出会いがあった。その人物は小野武雄陸軍大佐(陸士第三十三期戦死後少将)で、同師団作戦参謀(後同参謀長)であった。

小野大佐スキャン 32小野武雄大佐は崔慶禄氏を見所ある青年と聞き、昭和十七年に師団司令部で面談するのが、二人の交流のきかっけである。

小野大佐は明治三十一年(一八九八)生まれ、小中学時代を通じて常に首席を通し、山口中学時代には後の首相である岸信介や佐藤栄作とは親友だった。特に佐藤氏は大臣、首相になってからも、小野大佐の命日には、秘書を通じて墓参を欠かさなかった。決して秀才型でなく温情溢れる武人であった小野大佐は最初に崔慶禄氏に会った時も「内地人が朝鮮民族に随分すまんことをしている。困ったものだ」と話し「日朝は、一視同仁で、手を携えて立派な国造りをしなければならない。お互い喧嘩などしている時ではない」と語りかけ、崔氏は「一視同仁といってもお互い歴史習慣からそれぞれ得意な事情もあるので、なかなか一視同仁にはならないでしょう。しかしお互い努力はすべきだと思います」答えたら小野大佐は笑いながら「若いに似合わず立派な見識を持っている」と褒め、家庭の事情などを聞き、また士官学校の受験を励まして「君は将来は朝鮮民族の指導者となるべき人物だ。その資質は充分にある。これから以後は何事も親と思って遠慮無く相談に来なさい」と懇切丁寧な言葉を掛けた。最初は小野大佐のその本心が信じられなかった崔氏もその後何度も会ううちに小野大佐の誠意が本物であることを感得し、本当の父とも想うようになった。

ある時、小野大佐は特に写真班に指示し大佐と崔氏が二人並んだ写真を撮らせ、その写真に自らサインして、「この写真を机の上に飾り、しっかり勉強すること。俺はいつも君の勉強振りを見ているから」と崔氏に手渡した。
崔氏も其れに応えて、毎日の猛訓練にも負けず、深夜まで受験勉強に励み、士官学校合格を勝ち取った。
そうした実の父子をも凌ぐ深い交流の中で、小野大佐は崔氏に、日朝の大義に生きることを教え、崔氏もまた小野大佐という人物に接することで、其れが単なるスローガンでなく生きた信念・思想であることを知り、自らもその実践に人生を貫くことを誓った。

最も小野大佐は、崔氏が師団と共に東部ニューギニアに赴いた時はまだ師団にいることを知らなかった。
崔氏が敵捕虜尋問の通訳として師団司令部に出頭して初めて戦地にいることを知った小野大佐は大層驚き、「お前は陸士に入らず何故戦地に来たのか。絶対に死んではいかん」と強く叱りつけたという。その後も崔慶禄氏が出頭する度に「必ず生きて帰って日朝の大義に生きよ。体を大切にせよ」と諭した。
しかし、深刻さを増す戦況の真っ只中では必ず生還できるような場所などあろうはずもない。ましてや、崔氏の所属する第二十師団の作戦は全て実の父とも仰ぐ小野大佐が参謀長として指導するのである。崔氏は、この地で必死に勇戦敢闘することこそ、自らの生きる道であるとの決意を固める。

昭和十八年初頭よりブナ、ラエ、サラモアと東部ニューギニアの要地を次々と奪回していた米豪軍は、同年九月二十二日、ラバウルと東武ニューギニアを結ぶダンビール海峡の要衝フィンシハーフェン付近に上陸作戦を敢行した。我が軍は、此の地を敵との決戦場と定め、既に第二十師団の一部を配置すると共に、その主力をマダンから駆け付けさせた。主力が到着した第二十師団は、十月十六日第一次総攻撃を開始、以後約三ヶ月に及ぶフィンシハーフェン攻防戦の幕が切って落とされた。東亜戦争の中でも最も激戦の一つに数えられるこの戦闘は、制空権を完全掌握した米豪軍が、爆撃と戦車によって攻撃するのに対し、第二十師団は肉弾による切り込みを持って対抗。彼我の戦力差十倍以上にも関わらず、翌年一月まで米豪軍をこの地に釘付けにするのである。

第二十師団がこの地より後退するのは所属する第十八軍の命令によって新たな戦線に集結するためであった。フィンシハーフェン攻防戦により第二十師団は一万二千五百名の内、五千五百名を失う。崔慶禄がこの死闘に参加し十一月十九日の第二次総攻撃で連隊の斬込隊長となり、部下十九名を率いて三度の切り込みを敢行している。三度目には敵の機銃陣地からの猛射で部下十八名は戦死、自身も全身に八箇所の銃弾を受けて瀕死の重傷を負った。もはやこれまでと覚悟を決めたところ、ただ一人生き残っていた出田与一上等兵が腹部に被弾していながら、動けない崔慶禄を担ぎ、あるいは引っ張って、三日かかりで我が軍の第一線まで運んだ。

二人が最前線に辿り着いた丁度其の時、偶然にも小野大佐が前線視察に来ていて崔氏を発見した。小野大佐は「絶対に死んだらいかん、しっかりせよ」と激励し、小野大佐は自分の雨合羽を着せて、恩賜の煙草を口に咥えさせて、「この男を殺したら陛下に申し訳が立たない。絶対に助けなければならない」と軍医を呼び二人の後送の支持と添書きを渡した。崔氏と山田上等兵は直ちに衛生隊にまで運ばれ、応急手当を受けた。しかし、この時すでに、出田与一上等兵の負傷した腹部はすでに腐敗しており、遂には絶命してしまった。

崔慶禄氏は後年、
「旧日本軍が厳正なる軍紀のもと、上下信倚し、進んで職責に殉ずるの美風には今なを、感嘆を禁じ得ないものがあります。あのフィンシハーフェンの当時、私は一斬込隊長、しかも韓国の出身です。然るに、私の伝令、出田上等兵は、自らも重症を負いながら、私を背負い敵の重囲を突破して救い出し、そして、自らは到頭死んでしまったのです。あのように最悪な状況でもなを軍規が守られていたことはさすが精鋭師団でした。私は何時の日か、出田兵長のお墓参りをすることが悲願です。」
と回想しています。

崔氏は翌日軍医大尉の付き添いで後送され、通常ならマダンの前線病院に入れられるところであるが、小野大佐の計らいは万全周到であった。身動きできない崔氏には、陸軍大佐の参謀肩章が着いた雨合羽が着せ掛けられていた。帝国陸軍では参謀肩章の威力は絶大である。しかもその肩章をつけた陸軍大佐となれば、東部ニューギニア戦線では三人しかいない重要人物である。さらに軍医大尉が付き添っている。崔氏は一気にウエワクまで運ばれ、さらに重爆撃機に乗せられマニラの陸軍病院に入れられたのである。
そこで、手厚い治療を受け、八箇所全てが致命傷ともいえる重傷を克服し、遂に九死に一生を得、その後も更に小倉、別府、東京の陸軍病院に送られて完全に回復するまで充分な手当を受けることができたのである。

一方、第二十師団は、その後も終戦まで米豪軍と激闘を続け、その中で、小野大佐も壮絶な戦死をしている。第二十師団に所属した将兵は合計二万五千五百九一名で復員したのは八百十一名のみである。

崔慶禄氏は昭和十九年、豊橋予備士官学校を卒業して少尉に任官する。

後年、崔慶禄氏は戦後、第一連隊の創設に参与し、首都師団参謀長、憲兵司令官、国防大学院院長、陸軍参謀総長、第二軍司令官などを歴人後、駐メキシコ大使、駐イギリス大使、交通部長官、駐日大使を歴任した。
その間、崔氏の机の上には常に小野武雄少将の大佐時代に一緒に写っている写真が飾られていた。
そして、常々「自分は韓国を愛するが故に親日派である」と言明し、韓国世論を覆う反日派からの攻撃にも決して屈することはなかったという。

スキャン 31 のコピー 昭和五十六年十月、駐日大使として着任すると、最初に宮中へ参内して、天皇陛下に信任状を捧呈した。
元帝國陸軍少尉新田慶吉が、かつての大元帥陛下に会って、韓国大統領から駐日大使に任ぜられたことを報告したのである。其の時の会見は十分の予定が四十分にも及んだという。崔大使はこの時のことを誰にも漏らしていない。
崔氏は駐日大使として中曽根首相の訪韓と全斗煥大統領の訪日を実現する。
崔氏は平素「小野大佐は命の恩人であり、私は実子以上に父としての愛を受けた」と洩らしていた。赴任後、激務の間を縫って、山口県の小野大佐の墓に詣でた。
大使赴任は五年間に及んだが、「其の間が自分として一番楽しかった。日本語で仕事ができ、沢山の友人に恵まれ、好きな軍歌や民謡や詩吟を歌うことができた。」
崔氏は特に乃木将軍を尊敬し、大使の乃木稀典作「金州城」(山川草木転荒涼)は誰も真似ができないと日本の詩吟の大家が激賞するほどだったそうである。

崔氏はかって連帯を同じくしていた福家隆氏(陸士五十三期)とは、特に親しくしていた。福家氏に語ったこととして
「私は幸運にも陸軍時代、良い上官に恵まれた。それは小野少将ばかりでなく、朝鮮軍司令部の最後の参謀長であった井原潤次郎中将(陸士二七期)にも可愛がられた。
その他馬奈木敬信連隊長(陸士二十八期 後に中将)、松田靖彦中隊長(四十八期)も視野が広く、日韓関係を深く理解しておられた。私もこういう指揮官になりたいと憧れていた。しかしこれらの人々は全て亡くなられて今会うことができない。何としても残念だ」
「戦前の日本人には信頼できる立派な人々が多かった。それに対して現在の日本の政治家は周囲に気兼ねしてか、正直に本当のことを言う人が皆無に近い。
私がもし日本の首相だったら、一日でよい。洗いざらい本当のことを発言してみたい。それでやめさせられたら本望だし、それによって日本国民の目は覚め日本は本来の姿にたちかえるに違いない」

そして、産経新聞のインタビューに答えて
「日本の政治家に”何故日本の軍隊は自衛隊なのか。名称を変えて日本国軍とすべきではないか”と質問したが、時期尚早だとの答だった。私も日本の平和憲法を知っていいる。しかし自衛隊は誰が見ても軍隊である。その実態をごまかし”自衛隊”というのは極端に言えば詐欺じゃないか。侵略はゆるされないが、敵に攻撃されたとき、堂々と備えるのは、国家として当然の権利であり、義務である。どうして世界の一部諸国及び一部国民の顔色を窺う必要があるのだろうか。…アジアの強国日本が、自衛隊を”日本国軍”と名称変更し、堂々と軍事力を強化し、アジアの防波堤になることを期待する。」

(産経新聞インタビュー昭和六十三年一月十一日)

こんな人が日本の政治家でいてほしかった。

しかし、崔慶禄氏はこの文章を理由に反日派より激しく攻撃され、帰国後自らの意志で日本との連絡を断ったそうです。

その後平成十四年(二〇〇二年)九月二日に八十一才でソウル市でお亡くなりになっております。

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「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明誠社 平成十四年刊 p四五六〜四六一

今日は朝方はめちゃ雨と風で大荒れの天候が、その後、快晴。
掃除で一日が終わる。
酒は飲まず。
猿でもエビでもない。