天皇を戴くということ

2月23日月曜日晴れのち雨△
産経新聞の記事より
<神話や建国記述「間違ってない」「感動した」 一宮市教委の注意で削除の中学校長ブログに激励産経新聞2015.2.22 11:50
愛知県一宮市の市立中学の男性校長(56)が、学校のホームページ上のブログに、神話に基づく日本建国の由来などに触れながら、自国に誇りを持つよう訴える記事を掲載したところ、市教育委員会から「神話を史実のように断定的に書いている」との注意を受け、記事を削除していたことが21日、分かった。学校側には教職員組合から抗議文も出されたが、「校長は間違っていない」「感動した」などと記事内容を評価する声も多数寄せられているという。ブログ記事は削除しなければならない内容だったのか。(河合龍一)
市教委や校長によると、校長は建国記念の日を前にした9日、朝礼で「日本の起源」について話し、同日午後に、その基になった原稿をブログに掲載した。
記事では冒頭、日本の建国について「初代神武天皇が即位した日が始まり」と記し、16代仁徳天皇が家々から炊事の煙が上がらないのを見て民の窮乏を知り、税を免除して自らもつつましく暮らしたという「民のかまど」の話を紹介。「この話は神話」と断った上で「こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言える」と書いた。
その上で「皆さんは世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んでほしいと思います」と締めくくっていた。
記事を批判する電話が12日に1件寄せられたことを受け、市教委が校長を注意。校長は「生徒や職員に迷惑をかけたくない」として自ら記事を削除した。
中学社会科の学習指導要領では「神話・伝承などの学習を通して、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせるよう留意すること」と明記されている。
校長は「神話を通じ、子供たちに『自分より人のため』という古代からの日本人の精神性を伝え、自国に誇りを持ってもらいたかった」と話した。市教委学校教育課は「部分的に読むと史実と受け止められかねず誤解を招く」としている。
市教委にはこれまで「偏向教育だ」という匿名の手紙が1通寄せられたほか、一部報道を受け、賛否の電話が十数件あった。学校側にも海外在住の日本人を含め、電話やファクスが多数寄せられ、大半が記事を評価したり、「削除する必要はない」などと校長を激励したりするものだという。
元公立小学校長で狭山ケ丘高校(埼玉県)校長の小川義男氏は「神話と断っている上、学習指導要領にも即しており、何の問題もない」と指摘している。

≪愛知・一宮市立中学校長のブログ全文≫
2月11日は建国記念日です。そこで、今日は日本のルーツ、日本の起源について、お話をしたいと思います。日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、初代、神武天皇が即位した日が始まりです。世界一広いお墓、大仙古墳で有名な、16代仁徳天皇が、ある日高台に登って遠くをご覧になられました。すると人々の家からは、食事の準備のために煮炊きする煙が少しも上がっていないことに気付いたのです。
仁徳天皇は「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、三年間、税を免除されました。
税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。天皇は衣を新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。
三年がたって、仁徳天皇が同じ高台に出られて、遠くをご覧になると今度は、人々の家々から煮炊きする煙が盛んに立つのをご覧になり、その時、仁徳天皇がこのように言われたということです。
「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」
そして、一緒におられた皇后に「私は豊かになった。喜ばしいことだ」とおっしゃったということです。
皇后はそれを聞いて「陛下は変なことをおっしゃいますね。衣服には穴があき、屋根が破れているのに、どうして豊かになったといえるのですか」
すると「国とは民が根本である。その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、天皇は引き続き、さらに三年間、税をとることをお許しにならず、六年が経過して、やっと税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったといいます。
この話は神話であり、作り話であるという説もあります。しかし、こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言えるのです。
こうした天皇と国民の関係性は、何も仁徳天皇に限ったことではありません。敗戦直後の1945年9月27日、124代昭和天皇はマッカーサーと会見をしました。そして、その会見で昭和天皇はこのようにマッカーサーに話したのです。
「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのであるから、東郷や重光らを罰せず、私を罰してほしい。ただし、このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充ててほしい」と述べたのでした。
それまで、天皇陛下が、多くの国王のように、命乞いに来たのだろうと考えていたマッカーサー元帥は、この言葉を聞いて、やおら立ち上がり、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして陛下の手を握り、「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの際は、マッカーサー自らが出口まで見送りの礼を取ったのです。
このように、初代、神武天皇以来2675年に渡り、我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です。
日本は先の太平洋戦争で、建国以来初めて負けました。しかし、だからとを頂いたいってアメリカから初めて民主主義を与えられたわけではありません。また、革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません。
古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな民主主義精神に富んだ国家であったのです。
私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。皆さんは、世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んで欲しいと思います。(原文のまま)>

非常に立派な校長先生だと思います。
先帝陛下、今上陛下も同じお気持ちをお持ちでいらっしゃいます。
有名なエピソードですが、先帝陛下は大東亜戦争において昭和二十年五月の米軍の爆撃により焼失した明治宮殿より防空施設である御文庫でお過ごしになるようになりました。
その建物自体が非常に劣悪な環境でしたが、先帝陛下は宮殿の建て替えをお許しにならずに、御文庫でお過ごしになり、やっと新宮殿である吹上御所が完成し移られたのは昭和三十六年、戦後十六年も経過してからです。その時は先帝陛下は還暦を迎えられていた。

<昭和天皇のエピソードより
http://royal.must-reading.info/main/showa1.html>

今上陛下も東日本大震災の時、体調を心配する宮内庁職員に対し「被災し苦しんでいる人達が大勢おり、電源すらない人もいるのだから。寒いのは服を着れば問題無い」とこのようにおっしゃり、三月十五日より御所のブレーカーを落として「自主停電」とも言える状態にしていた。
菅直人という史上最低レベルのドアホウ総理がこの時にやったことは、時差操業にすればいいのに、計画停電という名称のいつ停電になるかわからない最低のやり方であった。
皇居は東京電力の計画停電の対象となっていなかったが、陛下は第一グループの実施予定時間に合わせて、二時間の自主停電を行うことを決断された。

以下週刊新潮の記事より。
<宮内庁担当者は言う。
「十五日以降、第一グループの計画停電は二十回(三月二十八日現在)予定されましたが、実際には停電が回避された回も含めて、多い時には朝晩二回、自主停電は欠かさず実行された。いかもそれは、非常用発電装置の電源を残してブレーカーを落とし、照明も暖房も使えなくするという徹底したものでした。
停電時には御自身で懐中電灯をお持ちになり、時には蝋燭の下で食事をされた事もあったようです」
事情通が続ける。
「自主停電を行っていない時でも、執務室の照明は陛下の御意向で電気スタンドのみ。御所の廊下やロビーも薄暗く、宮内庁関係者によれば、廊下で人とすれ違っても、よほど近くならなければ誰だか分からないという。侍従ら側近としては警備上も不安だし、何より陛下のお身体のことを心配しているのですが、戦時中のことを思えば、何でもない・・・・とおっしゃっているのだそうです」
そんな御覚悟ゆえか、徹底した節電は御所のみならず皇居全体に及んでいる。
略)
天皇の御学友でジャーナリストの橋本明しが言う。
「陛下は自ら進んで停電の闇に身を置くことで、被災者の生活を疑似体験されているのです。それによって、たくさんの被災者が、また停電で生活に支障がでた人々が、陛下の我共に在りというメッセージを感じ取っているはずです。
また、前立腺癌の治療で御自身の体調が万全ではない中、他人のことを慮ることができる、そんな日本人の美しさも体現された。それを国民に、言葉でなくまさに背中で伝えている。
総理も閣僚も頑張っているのだと思いますが、彼らが束になっても敵わない励ましを、陛下は国民に示しているのです」>
週刊新潮平成二十三年四月七日号p二十八〜二十九
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西村眞悟先生は著書に国民との絆であるとして下記のように著書に書かれています。
<三月十一日に発生した東日本の太平洋側を襲って甚大な被害をもたらした巨大地震と巨大津波から五日後の三月十六日に、天皇陛下は直接国民にお言葉を発せられた。その天皇陛下のお言葉は、国民との絆により我が国の「統治者」として発せられたものである。では、その天皇陛下と国民との絆とは何か。それこそ、万世一系百二十五代、二千六百七十一年にわたる天皇と国民との絆である。佐々淳行氏は、この天皇を「最高の危機管理機構」と表現された。同氏は「我が日本民族は、一世紀に一回ぐらいの割合で起こる国難に直面するたびに、救国の危機管理機構=天皇によって危機を乗り越えてきた」と述べられる(『歴史通』二千十一年五月号より)まさにそのとおりでないか。
しからば、我が国における天皇の御存在をいかに表現するのか。大日本憲法第一条、「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。
これ以上に適切な表現があろうか。我が国は、この権威ある尊い統治者を戴いて一貫して断絶なく日本なのである>
「支那討つべし西村眞悟が歴史に学ぶ」西村眞悟 K&Kプレス 平成二十五年刊P百五十八〜百五十九
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私はこの日本に生まれることができ、本当に良かった、幸せであると思います。

店の片付け。
ついでに、早く消費しないといけないと、残り物を肴にカミさんがストックしていたビールを二人で飲む。