台湾と南朝鮮の戦時売春婦

台湾と南朝鮮の戦時売春婦

1月13日火曜日晴れ×

下記のニュースは台湾と南朝鮮の政府が出した声明です。

<外交部、「従軍慰安婦」めぐり日本の正しい歴史認識呼びかけ/台湾

【政治】 2015/01/11 12:12フォーカス台湾

(台北 11日 中央社)外交部の高安報道官は10日、日本の教科書会社「数研出版」が発行する「現代社会」と「政治・経済」の教科書から「従軍慰安婦」と「強制連行」の言葉を削除する申請が文部科学省に認められたことを受け、日本に対し「正しい歴史認識と深い反省」を呼びかけた。

高氏は従軍慰安婦について「第2次世界大戦中の暗い歴史だ」とした上で、事実を忘れたり消去することはできないと強調。また、被害者とその家族に対して謝罪と賠償を要求した。

(謝佳珍/編集:齊藤啓介)>

 

<日本は慰安婦問題解決を=北朝鮮に対話要求―韓国の朴大統領

時事通信1月12日(月)11時23分配信

【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領は12日、年頭の記者会見を行った。朴大統領は日韓首脳会談について「環境をしっかり整え、意味がある、一歩でも前進する会談にすべきだ。日本の姿勢の転換、変化が重要だ」と述べ、従軍慰安婦問題解決のための日本の前向きな姿勢が前提との考えを改めて示した。
 朴大統領は今年、日韓国交正常化50周年を迎えることに触れ「今年が、正しい歴史認識の下、両国が未来に向けて新たな出発をする契機になることを願う」と関係改善に意欲を表明した。一方で、「元慰安婦は高齢で、早期に解決しなければ永久に未解決で残り、日本にとっても重荷になる」と早期解決を要求。日韓の外務省局長級協議を今年も続け、国内世論も国際社会も納得する解決案を導くために努力すると語った。>

台湾におけるアホカン、ルーピー鳩ともいえる総統の馬が過去に台湾戦時売春婦とわざわざ面会し下記のような事をほざいています。

以下引用

< 馬総統、元慰安婦と面会 日本に問題直視を呼びかけ/台湾

フォーカス台湾2014/04/17 17:56

(台北 17日 中央社)馬英九総統は17日、総統府(台北市)で旧日本軍の従軍慰安婦だった台湾女性2人と会談した。慰安婦問題について、「日本は過去と向き合う姿勢をとるべき」との認識を示した。

馬総統は、元慰安婦への助成金の提供や慰安婦を記念するメモリアルホールの設立支援など、政府の取り組みをアピール。下関条約(日清講和条約)の調印から119年となったきょう、元慰安婦を総統府に招いたことについては「被害者の運命を決めた日だから」と理由を説明した。

一方、ソウルで16日、慰安婦問題をめぐる日韓の外務省局長級協議が開かれたのを受け、外交部の高安報道官は17日、駐日代表処(大使館に相当)に対して詳細の把握を指示したとするとともに、「日本側には正式な謝罪と賠償を求める」と従来の立場を改めて強調した。

元慰安婦の支援団体「婦女救援基金会」によると、1992年に対日賠償請求運動を始めて以来、58人の台湾女性が元慰安婦と認定されたが、現在も健在なのは5人のみで、平均年齢は89歳になっているという。

 

このように、戦時売春婦については南朝鮮と台湾は完全に連携しているのです。

この馬が会ったという台湾人戦時売春婦は鄭陳桃です。

この戦時売春婦は過去に下記のように証言しています。

< 1942年にインド洋アンダマンへ連れて行かれる。アンダマンの海をみながらいつも泣いていた。
学校へ行く途中だった。普通の女の子だったのに・・・。
死ぬ思いで帰国したら、「汚い女」とののしられ、それ以来家には帰らない。

学校へ入ってまだ一ヵ月もたたないある日、警察の前を通った
ときに、日本の警官が車でおくってあげるといわれ、そのまま高
雄の港へ連れて行かれました。

家族に別れを告げる機会もないうちに、海外に連れていかれて、
「慰安婦」になることを強要されました。>

台湾もと慰安婦裁判を支援する会のホームページより

http://www.jca.apc.org/taiwan-ianfu-support/ama_act/ahma_story/tei_chintao.html

 

< 日本語で証言した鄭陳桃さん(84)。一九四二年六月四日、高等女学校への通学途中、いつものように派出所の前を通ると、日本人の警察に呼び止められました。「ジープで学校に送ってやる」。警察を恐れていた鄭さんは断ることもできずに乗りました。

ジープは学校の前を通り抜けました。着いた先は小さな旅館。「魏」という姓の夫婦に引き渡されました。ほかに二十余人の若い女性がいました。

翌日、高雄のふ頭から「アサヒマル」という軍艦でインド洋のアンダマン島へ。一年二カ月後には、サイパン島へ連行されました。鄭さんも妊娠しました。

2007年7月5日(木)「しんぶん赤旗」>

 

裁判では下記のようになっている。

<鄭陳桃氏の場合14

従軍慰安婦

鄭陳桃氏は1922年11月14日台北生まれです。3歳の時に実母を7歳の時に実父を亡くし、継母と叔父に育てられています。中学に進んでいることから当初は継母や叔父が鄭陳桃氏を大切に育てていたと推測できます。しかし、鄭陳桃氏は結局卒業することができず中退となります。鄭陳桃氏16歳の時(1938〜1939年頃)、継母と叔父らによって台北近郊の板橋の林金という者に売られています。形式上は売春ではない住み込み女給だったようで、継母・叔父らもそのように認識してた節がありますが、売春することを要求されています。鄭陳桃氏が売春を断ると、林金は鄭陳桃氏を台南塩水にあった「月津楼酒家」を経営する柯鼻という者に売り飛ばしています。鄭陳桃氏はここで女給として働いていますが、17〜18歳の頃(1940〜1941年頃)には新竹の叔母の所に逃げていますが、月津楼酒家に連れ戻されています。

略)

1942年、鄭陳桃氏19歳の時、月津楼酒家から高雄の魏という者に売られます。形式上は「魏の妻は、原告鄭に対して看護婦の助手として読み書きのできる人が必要だから」という虚偽の理由による勧誘でした。

略)

こうして1942年6月4日、鄭陳桃氏は魏に連れられ高雄から貨物船「アサヒマル」でアンダマンに向かいます。

略)

アンダマンは、チャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府が(日本の傀儡とはいえ)支配できた唯一のインド領です。鄭陳桃氏は1942年6月から1943年8月頃までここで日本兵相手の売春を強要されました。1943年秋、サイパンに向かうためにアンダマンを離れますが、シンガポール対岸のジョホールで軟禁状態にされ、女衒も逃げ出し見知らぬ外国に放り出されています。1944年頃、無一文で放り出された鄭陳桃氏らは結局ジョホールの慰安所に行くしかなく再び慰安婦とならざるを得ませんでした。もし日本軍に人道的な配慮が出来たなら、異国で路頭に迷っている帝国臣民である彼女らを助けて直ちに台湾に帰国させたでしょうが、日本軍は慰安婦になる選択肢以外何も与えなかったわけです。

略)

1945年7月、「「見晴荘」に客として通ってきていた山口看護長と称する者」が帰国できるように手配してくれ敗戦間際の8月上旬に台湾に帰国しています。

略)

原告ら訴訟代理人

弁 護 士   藍  谷  邦  雄

弁 護 士   池  田  利  子

弁 護 士   小 野  美 奈 子

弁 護 士   笠  松  未  季

弁 護 士   清 水  由 規 子

弁 護 士   鈴  木  啓  文

弁 護 士   中  川  瑞  代

弁 護 士   番    敦   子

 

 

<学校へ入ってまだ一ヵ月もたたないある日、警察の前を通った
ときに、日本の警官が車でおくってあげるといわれ、そのまま高
雄の港へ連れて行かれました。

家族に別れを告げる機会もないうちに、海外に連れていかれて、
「慰安婦」になることを強要されました。>

<一九四二年六月四日、高等女学校への通学途中、いつものように派出所の前を通ると、日本人の警察に呼び止められました。「ジープで学校に送ってやる」。警察を恐れていた鄭さんは断ることもできずに乗りました。

ジープは学校の前を通り抜けました。着いた先は小さな旅館。「魏」という姓の夫婦に引き渡されました。>

<鄭陳桃氏は結局卒業することができず中退となります。

16歳の時(1938〜1939年頃)、継母と叔父らによって台北近郊の板橋の林金という者に売られています。

1942年、鄭陳桃氏19歳の時、月津楼酒家から高雄の魏という者に売られます。>

 

このように経過がえらく違いますが、その事には一切ふれず、我が国に謝罪を求めるアホ馬とその配下ども。

今更ながら、朝日新聞、反日日本人どもの罪は重い。

 

あほらし

 

二名様来店。

Iさん三名様来店で来店。

二名様来店。

一名様来店。

 

ドンチャン。

 

記憶無し。

 

サル以下。