マレー華僑虐殺事件と反日日本人の暗躍 林博史・中島正人・小林正弘・松井やより・朝日新聞・高嶋伸欣

マレー華僑虐殺事件と反日日本人の暗躍

林博史・中島正人・小林正弘・松井やより・朝日新聞・高嶋伸欣

「日中戦争いまだ終わらず」によりわかる反日日本人の暗躍
高嶋伸欣と林博史
平成21年9月17日木曜日晴れ △
中島みち氏の著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(文藝春秋 平成三年刊)を読む。
この著書には先の大戦でマレー半島において日本帝国陸軍が行ったとされる「住民虐殺」の実態について、そして、売国奴どもとの繋がりなどが詳しく描かれている。
何よりも、支那人とはどこにいても同じ事をやる、「平気で嘘をつく」民族だということがよくわかる。

中島氏はシンガポールに行った時に戦争資料館において、中共支那にある「南京虐殺記念館」と同じ空気を感じる。
そこには、広島に落とされ多くの方が虐殺された時の原爆雲の写真が展示され、記念品売り場には、一九八五年処版の黒地に鮮血飛び散る装幀にて、「1942-1945 日本統治下的新加城」と題する大判の写真集が、華文と英文で書かれた解説と共に売られていたそうである。
これは、国立公文書局が同局主催の同名の展示会の内容を収めて出版したもので、その内容は、今後益々日本に対して告発して行く姿勢が伝わるものであった。
「シンガポールは英国の難攻不落の要塞都市であったが、住民の暮らしは素朴とはいえ平和で、みんな植民地生活に満足していた。
ところが、ある日、コタバルに上陸した日本軍は、たった五十五日間でシンガポールを攻略し・・・・」(実際は五十五日間でシンガポール半島を攻略)
日本軍の華人虐殺と日本軍政を告発し
「自由は奪われ、食物は不足し、ビジネスは停止してしまい、今もシンガポールの古老たちは、まざまざと日治時期の塗炭の苦しみを思い返す」
「しかし、日本軍政側は関係書類を一切残していない。そこで我々は一九八一年にプロジェクトを作り、口述記録を集め、戦争と日本統治に関するかぎりの、ありとあらゆる文書、写真、身の回り品の類まで探し出し、後世に遺す作業に取りかかった」
「戦争と日治時期を知らぬ若いシンガポール人にこの経験を分かち与えたい。そして、まだまだ資料は足りない。語り伝えるべき話、写真、資料、あるいは品物を持っている人は、どんどん出て来て、このコレクションを充実させてほしい」
と訴えている。

戦争資料館内のパネルで二万人以上となっていた第二十五軍による敵性華僑粛清、華僑側のいう「大検証」の犠牲者数が、この本では五万人にまでふくれあがっているそうである。

中島氏は松井太久郎中将の長男に嫁がれた方であったが、この本に掲載されていたのは、松井太久郎中将ではなく、松井岩根大将の写真であったそうで、このような簡単なチェックもできない連中の仕事に疑問を持ち、調査をされている。

街中で売られている一九八四年発売の華文の「新馬華人抗日史料」という本などでは、山本五十六大将、東条英機大将などの写真が並び「混世魔王群像及其罪行」と題されているそうである。
(同書P二十八)

そして、なぜ今の時期に(一九八六年)告発なのであるか疑問を抱いている。
その裏には、南京虐殺記念館には日本社会党の活躍?があったのと同じであるが、反日日本人どもが暗躍している事を突き止めている。

「日治時期森州華族蒙難資料」(森美蘭中華大会堂出版)の出版目的として、あの我が国の教科書問題の誤報に端を発した教科書検定、そして、靖国参拝への「追討」まで掲げているそうである。
キーワードとして、
「被害者としてのヒロシマから加害者としての広島の自覚へ」
「原爆都市ヒロシマは、加害の軍都広島であることに目を向けよ」
であるそうで、
一九八六年十二月八日、マレー半島上陸から四十六年も経た時に、広島を本拠地とする第五師団および歩兵第十一聯隊の「住民大量虐殺の陣中日誌発見」という新聞記事が掲載されたそうである。
(同書P三十三)

防衛庁防衛研究所図書館に遺されていたという歩兵第十一聯隊第七中隊の陣中日誌の内容は
「治安粛清の命を受け支那人掃討を行い、昭和十七年三月の約三週間で計五百八十四人を刺殺、八月には銃殺も交えて八十人殺したと記録されている」というものであり、この後、第十一聯隊関係者への風当たりが強まったようである。
これらは、高嶋伸欣筑波大学付属高校経論(一九九六年附属高校教員を退職し、琉球大学教育学部教授に就任。二〇〇八年、同大を停年退職。現在、同大名誉教授、非常勤講師)と、林博史関東学院大学講師(現経済学部教授)の二人が、日本側での裏付け資料を探しているうちに、林氏が見つけたものであるという。
ちなみに、開戦記念日にこの共同通信配信記事を掲載しているのは地方紙のみであったが、翌年二月には、目出たく?全国紙に掲載される。

全国紙初登場は当然、朝日新聞(一九八八年二月二十七日)
「日本軍のマレー華人虐殺・・・生存者が証言、資料集に」
その記事は、マレーシア華僑による資料集「日治時期森州華族蒙難資料」の作成経過については、「歴史教科書を侵略でなく進出に書き換えた教科書問題をきっかけに、ネグリセンビラン州の華人団体が『歴史の真実を後世に残さなければ』と聞き書きした」ものであると説明するに留まるが、
この「日治時期森州華族蒙難資料」そのものにも、現地新聞(「南洋商報」一九八七年一二月二十五日)にも出版自体が高嶋氏、林氏の二人の供出金(全費用日本円で三六万円のうち、二六万円)により初めて可能であったと書かれているのに、朝日新聞は一切報道していない。
(同書P三十四~五)

そして、中島氏はたった三六万円の寄付も集まらないような写真集についても疑問をていしています。
同書に書かれていた内訳は
高嶋氏、林氏二六万円(現地通貨として四千五百五十元)
ネグリセンビラン州の「虐殺生き残り華人」より千元、中華交友会、華人公会など、約二十口、それぞれ三百~二十元の寄付に過ぎなかった。
反日日本人二人から二六万円を除いて、一元が五十七円として、一番多くだした華僑が五万七千円、その他は一万七千円から千百円程度の寄付しか集まっていない出版物を我が国の全国紙は隠して報道しているのである。
これらは、先に書いたように、南京大虐殺記念館が、日本社会党が建設費から資料まで提供し「作らせた」のと同じ構造により、我が国の反日グループとの連携によりこれらが問題化させられたのである。

六千~一〇万人とされる粛清とされた華人の数も支那人、朝鮮人が得意とするところの嘘八百であることが、中島氏の調査より解明されている。

あと、この中島氏の著書には我が軍の仕業であるとされる「赤ん坊を放り投げて銃剣で串刺しにする」事についての検証もされている。
これについては、林氏、朝日新聞との連係プレーとして、華人粛清数とともに改めて書かせていただきます。
ちなみに、
林博史氏は藤原彰氏、高嶋伸欣氏は家永三郎氏に師事している。
売国奴の系列というものがよく判る例です。

日本の為にならない事だったらなんでもする腐れ売国奴ども
「日中戦争いまだ終わらず」によりわかる反日日本人の暗躍
林博史 「赤ん坊を投げ上げ銃剣で刺し貫いた」
10月14日水曜日くもり夕方より大雨 ○
秦郁彦氏は著書「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫 平成十二年刊)において、マレーシア虐殺報道の奇々怪々の中に、英語教科書の赤ん坊刺殺記事でキローズアップされたマレーシア華僑粛清事件は、一連の流血史の中でどんな位置を占めるかとして、
一九八四年夏、現地華字紙の記事で知った朝日新聞の松井特派員が、スンガイルイを訪ねて三百六十八人の華人が虐殺された生々しいレポートを送ったのが最初だったとしている。(5)同書p四百二十七

その松井やより女史も著書に下記のように書いています。
<ティティ近郊ジュルブ村は、犠牲者千四百七十四人でマレー半島最大の日本軍による虐殺事件といわれる。
当時八歳で、何回も刺されながら奇跡的に助かった蕭招?さんは五人の子の母親だが、「日本兵が赤ん坊を放り上げて銃剣で刺し殺したり、妊婦のお腹を裂くのを見た」という>
(3)p百六十四
<華人中心のマラヤ共産党がマラヤ人民抗日軍を組織してジャングルの根拠地から、果敢執拗な抗日ゲリラ活動を展開した。
彼等を恐れた日本軍は抗日ゲリラをひそかに応援していると見なした華人の村を襲って、女性、子供、老人を含めて村民全員を無差別に皆殺しにした。まさに、殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす「三光作戦」を東アジアでも強行したのだった。>(p百六十三)

先にこの日記に書いたように「日治時期森州華族蒙難史料」というのは、高嶋伸欣氏、林博史氏がその出版費用の大部分を負担した事により、やっと日の目を見た本ですが、その中に日本兵がん坊を投げ上げ銃剣で刺し貫いたという三人の目撃証言が掲載されているそうです。
一九八八年十一月に林博史氏はわざわざマレーシアを訪ねて、そのうち二人の証言を得ています。(1)P三十七
それについて、これまた、朝日新聞がすぐに取り上げています。
<今度の教科書差し替えで、「事実かどうかわからない」という議論がまかり通っているが、事実を事実として直視し、なぜ普通の青年があんな行為に走ったか、過去の過ちから学ぶべきではないか>
(朝日新聞一九八八年十二月八日)私は(1)p三十七より
御丁寧に、事実かどうかわからない事を、開戦記念日に記事にする。流石はプラウダ、人民日報、朝鮮日報などの築地支社として生きてきた新聞社だけのことはあります。
中島みち氏はこの「赤ん坊を投げ上げ銃剣で刺し貫いた」という華人の証言は歩兵第十一聯隊第七中隊掃討地において起きた事となっているので、第七中隊の元兵士の方々にも取材しています。
<十人が十人、急に真剣な顔付になり、「出来るんかいのお?」とごく自然に卓の前を離れ、ひとり銃剣を構える姿勢を取った。殆どが七十歳を超えた人々で、私に突然襲われ甚兵衛姿のままの人もいたが、右手を右腰骨に着け、左手を四十五センチ離して空を握り、右足の内側を壁に直角に、そして左足を右足から三十五センチ、八十度の角度で開いて、きもち戻した。踏みしめのよい角度として訓練されている。
初めて質問した時、私はこの姿勢を見て、アッと思った。
そうなのだ。四、五キログラム以上の重さを持つものが上から降ってくる時、これを刺し貫くには、構えた姿勢から、踏み出して刺さねば無理である。好い加減な構えでは、剣にあたってもそのまま落下するし、剣にかかっても、重みを受けた左手が下がり、深く刺さらずに前に落ちてしまう。
真上から落ちて来てもその重みだけで刺し貫くことは難しく、がっちり構えて待ち受けて突き上げねばならない。
自分自身で投げ上げて刺し貫く場合は、待ち受けるほど空中高く赤ん坊を片手で投げ上げるというのは、およそ不可能であると、私は元将兵の姿を見て、一瞬に理解することができた。
「では仮に、別の人が投げ上げて、それを受けるとしたらどうでしょうか」
例の小冊子のケースである。
今、もし夫人が茶を入れ替えにでも現れえたらさぞや驚かれるであろうと思う程に、元将兵は部屋の隅で宙を見据え、幾度か、降ってくる想像の中の四、五キログラムの重みを受けてみた挙げ句、少なくとも鴨居の高さより一メートルくらい上まで、つまり三メートルくらい投げ上げてもらわねば、それは不可能であるという結論に達した。それも、ボールのようなものが落ちてくるのと異なり、身体のどこがこちらを向いて落ちてくるのかもわからぬのに、わざわざそんなことが出来るものであろうかという疑問が、誰からも必ず出た。
たまたま一人の人間が突発的に気がおかしくなり残虐な行為をしたというのならともかく、この場合には二人以上の人間が呼吸を合わせて行わねばならぬ。それは掃討隊の中に残忍な人間として自他とも許す、とてつもないはみ出しものが二人以上いなければならず、元日本兵としては、何処をどう考えても信じられぬ話であるようだった。
それにしても、そもそもこんな馬鹿馬鹿しいことを、私に証明して見せねばならぬことからして、彼等をやり切れない思いにさせていることが私にはよくわかった。
ましてや、例の挿絵のように、銃剣を持つ手を自分の肩より上に上げて、飛んでくる風船でも突くように、落ちてくる赤ん坊を刺し貫くなど出来得ないことであると納得し、この件は、まさに絵空ごとであったと、私は日本人というより、人間の一人として深く安堵したのであった。>
(1)
p四百十七~四百十八

ウソも百回言えば本当になる。
朝鮮人強制連行、南京大虐殺、百人切り、従軍慰安婦・・・・・
腐れ売国奴どもの常套手段です。
外の敵よりも、内に潜む敵が問題です。
今日は夕方から大雨。
まあ、そのせいでもあるまいが、メチャヒマ。
遅い時間に、初めてのお客様二名様来店。

今日も飲まず。十一日め。
昼頃にお客様にお送りした来月の「飲んべえの会 醴泉」はおかげさまで、深夜にはほぼ定員になる。
第二の吉田清治
中島正人 「華僑粛清計画書」
9月29日火曜日くもり一時小雨 △
下記は九月二十四日木曜日に書いた中島正人氏の「華僑粛清計画書」に関するものですが、大幅に加筆いたしましたので、再掲載させていただきます。
「反日華僑のゲリラ的抗戦に悩まされた第二十五軍が採った大規模な粛清・虐殺のあらし。山下軍司令官以下は、この実行に如何に関わったか。マレー攻略作戦に付随して起きた忌まわしき事件の全貌に迫る」
と書く「シンガポール華僑虐殺事件」と題した(作家という肩書きの)中島正人氏による「丸」の別冊の文章についてです。
中島正人氏が第一級資料を含む貴重な現代史資料であると書く「新馬華人抗日資料」(中島みち氏、松井やより氏の著書では「新馬華人抗日史料」)であるが、これは支那人らしい裏付けのない証言などを集めたものも多く、写真の間違いも多い著書です。

中島正人氏はその「丸」での論文で 「華僑粛清計画」立案の背景として、
<じつは抗日華僑の摘発に名を借りた「華僑粛清計画」という、おそるべき陰謀が存在したことが主要因となっている>
と書き、下記のように書いている。

<当時極秘とされた「方針」と「要領」という二つの文章からなる「華僑工作実施要領」という通達(一九四二年四月十九日付け)が、第二十五軍軍政部長渡辺渡大佐の名で、マレー、スマトラの各州長官宛に発令されたのが、今も記録として残されているが、これなどは、その謀略工作の典型的なテキストといえるのではなかろうか。
紙面の関係で全文を紹介出来ないのが残念だが、当時の日本軍の
華僑政策を知る上で誠に貴重な資料的価値をもっているので、その一部を次にあげておく。
「(方針)華僑の動向に重大な関心を持し、之が誘因工作を以て華僑対策の大部分なりとせるは既に過去のことに属する。今次大戦の勃発を契機として、特に占領地内の華僑対策は、従来の誘因工作に比し、その本質、動向ともに根本的転換の必要を生ぜり。即ちこの新たなる事態に当面し、現地の情勢に即応してここに華僑工作要領の大網を決し、以て馬来統治上の重大存在たる彼等華僑に対する処理上遺憾なきを期せんとす。」
「(要領)占領内における彼等の動向は彼等自らをして決せしめ、服従を誓い協力を惜しまざる者に対しては、その生業を奪わず、検疫を認め、然らざる者に対しては、断固その生存を認めざるものとす。」
「(同)協力に参加せざる者に対しては、極めて峻厳なる処断をもって処理す。即ち財産の没収、一族の追放、再入国の禁止を行うと共に、反抗の徒に対しては極刑を以て之に応え華僑全体に対する動向決定に資せしむ(後略)」
後に戦犯裁判で耳目を集めた第二十五軍による「華僑虐殺事件」は、こうした「華僑工作実施要領」を下書きにして作られた「華僑粛清計画書」に拠ったのは明白である。>
(「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊)P四百九十八

このように中島正人氏は「華僑工作実施要領」のを証拠に、それを下書きにして作られた「華僑粛清計画書」があったことは明白、とまで書くが、「華僑工作実施要領」の通達日である四月十九日は、すでにシンガポール、マラヤでの三次にわたる敵性華僑の粛清、掃討はほぼ終わっているという事はどう考えているのであろう。

後はゲリラとして活動している華僑とそれを指導している英軍に対しての戦闘による掃討活動となっていることは、戦後に行われた軍事裁判における「華僑粛清」関係の四件の裁判のうち三件が一九四二年三月であることが、それを示している。

「わざと」ではないと信じたいが、中島正人氏が略した「華僑工作実施要領」に何が書かれているか。
残念ながら全文ではないが、中島みち氏の「日中戦争いまだ終わらず」に掲載されている部分を引用させていただく。
(中島正人氏は三つの「要領」のうちの「其の一の一 積極的誘因工作ハ之ヲ行ハズ」、「其の二の三 処断ノ峻厳ヲ期ス」の二つのみを引用掲載している。)
<其ノ一 占領直後ノ応急要領
四)彼等ノ利用ヲ必要トスル場合ノ対所要領
軍需物資ノ交流等就中当面ノ食糧対策ニ対テハ彼等ノ実力ト経験トノ利用ニ俟ツコト大ナルモノアリ、此ノ場合ニ於ケル利用方法ハ一ニ命令ヲ以テ彼等ノ活動ヲ即シ方法、範囲等細部ニ亘ツテノ指導干渉ヲ以テ彼等ノ自由ニ委任スルガ如クシ而シテ其ノ活動ニ依ツテ得タル利益ハ後日有力ナル財源トシテ確保シ課税ノ対象トシテ保留スルモノトス
五)排撃保護何レニモ偏セズ
当分ノ間華僑トシテ特別ナル取扱ヲ為サズ支那人ト同一ニ取扱フモノトス
資力商権共ニ他民族に優越セル現況ニ於テハ治安維持商店街ノ秩序ヒ彼等ノ力ニ負フ所大ナルベキヲ以テ此ノ大勢ニ対シテ特別ナル手段ヲ取ルノ要ヲ認メズ
<粗ノ二 第一期作戦終了直後ニ於ケル対所要領>
<其ノ三 将来ノ対処方針及要領大網
一)全面的ニ利用ス
華僑ヲ弾圧排撃シ之ニ代ツテ日本人ノ進出ヲ期スベシト為スガ如キ軽断至ルコトナク宜シク彼等ノ実力ト商才トヲ我ガ南方経営ノ為に利用スベキモノナリ。
二)財源対策トシテ活用ス
彼等ノ有スル資力、経済力は有力ナル財源ナルヲ以テ之ヲ培養確保シ以テ南方経営に資ス
三)開発、生産ニ資力参加ヲ認ム
産業ノ開発、資源ノ獲得、交易ノ円滑等凡ユル部門ニ亘リ彼等ノ資本的参加ノ途ヲ開キ粗ノ商才ヲ活用スベキ方法ヲ講ズルモノトス
四)蒋政権覆滅ノ謀略ニ活用ス
新嘉坡ヲ中心トスル南方華僑ノ総動向ヲ決定的ナラシメ然ル後彼等ヲ利用シテ蒋政権覆滅乃至日支関係ノ整調ニ活用ス
五)南方全華僑ヲ率シム
南方一帯ニ商権網ヲ有スル全華僑約五百万人、資本総動員額見積約五十億元、此ノ人的資本力ヲ総動員シテ南方支那一円更ニ利用協力セシムル大方策ノ資源的推進力タラシメントス>
「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」p六十~六十三

このように、占領地における敵性華僑を排除後は、一般華僑に対しどのように接して行くべきかを示しているのであり、「華僑工作実施要領」は決して「華僑粛清計画書」の存在を示す物にはなり得ない。

一部だけを都合良く引用すべきでない例の一つではないかと思います。

その後に、中島正人氏は
<それでは「華僑粛清計画書」とはいたいどのようなものか。果たしてそのようなものが本当に実在したのか。 様々な疑問がおこるところだが、不幸な事に、それが実在したことは戦後、シンガポールの戦犯裁判で法廷に立った元憲兵隊長大西覚によってすでに立証されている。>(同p四百九十八)

と書いているが、戦犯裁判において大西覚氏が、「華僑粛清計画書」があったことを示すどのような証言をしたか具体的な証言について明示してはいない。

他にも、中島正人氏が、<「粛清計画」の策定には、山下奉文以下、第二十五軍のすべての参謀が協議に加わり、なかでも辻政信を筆頭に山下、林忠彦、朝枝繁春らが粛清強行派としてその推進を積極的に主張した事がいろいろな証言、私自身の取材・調査からも推定出来る>

と書き、その「華僑粛清計画」があった有力な証拠のひとつとして、「華僑粛清計画書」を実際に此の目で見たという取材中にペナンで会ったという劉果因氏の徴用時代の証言、があります。

<その人は劉果因といって、戦前、日本の大学で歴史学と日本文学を勉強したという学者だった。戦時中、マレーで日本軍に徴用され、軍司令部付の通訳や華字翻訳などの仕事を当てがわれていたという経歴の持ち主だった。
「その計画書を見せてくれたのはある憲兵隊長でしたが、私はそれを見たとたん、『あ、こんなことを実行したら大変なことになるな』と直感的に思いましたね」
と劉氏は私に話してくれた。
劉氏のいう「大変なこと」という意味は、まず日本軍が粛清の対象者として挙げているのが、「英語教育を受けたもの」「学校の教師」「ラジオを持っているもの」「貿易商人」といった知識人に重点を置き、そうした対象者をマレーやシンガポールから根こそぎ粛清してしまうことを、計画の基本としていた事だ。
略)
考えてみると、じつに滑稽であり、こじつけとしか言いようがないが、もともと理由などはどうでもいいのであり、真の狙いは華僑粛清の為の名目であったことを考えると、かえってそれは、狡猾に仕組まれた罠のようなものだった。
事実、この劉氏の証言は大枠でほとんどまちがいなかった。>
(p四百九十八~四百九十九)

<軍司令部で山下や辻が「シンガポールの華僑は皆殺しだ。シンガポールだけじゃあない、とにかくこの南洋から華僑を一人残らず追い出せ」と命令しているのを何度も耳にしたと話していた>
「丸」p五百

これについて、中島正人氏は自身の著書でも同様の事を書いています。
<その時、劉氏は私(中島正人)に重大な発言をしたのである。「華僑粛清計画書」というのを自分も見たというのである。そればかりではない。劉氏は、またその徴用時代、軍司令部で山下奉文や辻政信が「シンガポールの華僑は皆殺しだ。シンガポールだけじゃあない、とにかく南洋から華僑を一人残らず追い出せ」と命令しているのを何度も耳にした、と話した。
「あの山下奉文が、みずからそう言ったのですか・・・・・」
と、私は思わず問い返した。
「そうです。私は目の前で、山下自身が『華僑なんか皆殺しにしろ』と何度も口にしたのを聞いていますよ。」>
(「謀殺の軌跡 シンガポール」(中島正人 p七十九~八十)
(私は「日中戦争 いまだ終わらず」p二百二十六~二百二十七より引用)

と、書いているが、この劉果因氏について、その証言の確実性も、背景もなんら示していないだけでなく、その推定の元になった「いろいろな証言、私自身の取材・調査」によるというその他の証言、証拠をなにひとつ示さず、
<そういえば、戦犯に問われた大西覚も「華僑粛清に対する軍の方針は強硬で、その鼻息は荒く、馬奈木参謀副長も現地を視察したが、特に辻参謀、朝枝参謀の現地指導は常軌を逸したものがあった」と「秘録昭南華僑粛清事件」の中でこれを傍証している>
丸p五百
と、どこが証拠になるのかわからない事を書いている。
大西覚氏が書いている「華僑粛清事件」とは、華人ゲリラ相手の戦闘を含まない「敵性華僑」の粛清、掃討であり、それは第二十五軍がシンガポール占領直後に華人に対して行った検問による粛清、拠点となった華人村の掃討であり、短期間で軍法会議にもかけずに、処断するというやり方が、我が国のシンガポール占領史に汚点を残している事は事実であり間違いないが、だからといって、中島正人氏がいう「華僑粛清計画書」があったことには決してならない。

そして、決定的なのは中島正人氏に対して、証言したという劉果因氏について、中島みち氏は原不二夫氏の論文「シンガポールの日本軍政の実像を追って」(「アジア経済」一九八七年四月号)を引用し、下記のようにそれを否定しているだけでなく、シンガポール軍司令部にいたことが無い事を調査し確認している。
<この書評論文によると、劉本人が原に、「(自分が)言いもしないことを(「謀略の軌跡」で)証言として述べられた」と「憤りに唇をふるわせて訴えた」という
劉は、開戦でベラ州カンバルからビドールに避難していたところを日本軍に駆り出され、以後終戦までイボーの憲兵隊で通訳をしており、イボーの粛清のほんの一端しかわからないという。
原は、「(劉氏は)イボーについてさえ占領期の状況をほんの一端しかわからないと述べているのである。ましてや、縁もゆかりも無いシンガポールの軍中枢の様子が、劉氏の口から出る筈がない」と、さまざまな方向から中島正人の記述について「推測を史実に転ずる」ものとして重大な疑問を投じており、私自身はそれらを説得力あるものとして読んだ。
略)
(劉氏によれば、実際は、中島(正人)氏が「大虐殺に関係した軍人に会った」というので、「シンガポール占領後同値華人を皆殺しにする計画があったと、イボーの憲兵がふともらしたことがあったが、本当か」ときくと、中島氏は「確かにあった」と答えたのだという)
(同p八十六)
しかし、日本人である中島正人が、シンガポール華僑の皆殺し計画が「確かにあった」などと答えたとしたら、その正気を疑う以外はない。
略)
中島は、劉の証言テープを持っていると原に言ったそうで、劉果因と中島正人のあいだにどうしてこのような行き違いが生じたのかについては、私には想像がつかない。
しかしともかく、私はその後の調べでも、劉がシンガポールの軍司令部にいなかったことは明白であり、それであれば「華僑粛清計画書」なるものをみたり、山下泰文の華僑皆殺し発言などというものを直接耳にしたという華人も、今のところで滴定内ことも確実であろう。
また中島正人は、劉が、辻、朝枝ら作戦参謀について、その発言を聞いたかのように記しているが、劉が辻や朝枝にあったことなど全くありえないわけである。>
(「日中戦争いまだ終わらず」p二百二十七~二百二十九)

証言したという本人も否定し、なおかつその本人が軍司令部にいなかったことも証明されている。
つまり、中島正人氏という人間は、ありもしないことをあったように書いたあの職業詐欺師吉田清治氏と同類である。

こんな職業詐欺師の文章を掲載した「丸」・・・・・・・

この中島正人氏は他の事でも同じ事を繰り返しています。

第二の吉田清治・・・・・・
第二の吉田清治 中島正人 華人虐殺人数
9月30日水曜日くもり時々小雨 △
九月二十五日金曜日に書いた中島正人氏の「華人虐殺人数」についての記述ですが、オートラム監獄による華人虐殺について加筆させていただきましたので、再掲載させていただきます。
中島正人氏の確実な証拠を示す事の無い、己自身の「推定」により断定するというこういった姿勢は犠牲者数および殺害方法にまで及んでいます。

<こうして理不尽に拉致された華僑たちは、逃亡を防ぐため例外無く両手を背後に回され、麻縄で固く縛り上げられた。それからトラックに乗せられ、人気の無い海岸や山林に拉致され、多くは機関銃によって惨殺された>
「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊) p五百三

と、「多くは機関銃によって惨殺された」ように書くが、多くの敵性華僑の処刑方法は刺殺であることは、戦後の軍事裁判において争われた(実質的には一方的報復裁判であった)四件の華僑掃討に関する裁判(一件、スンガイルイ一九四二年八月である)で、一部銃を使った掃討はスンガイルイだけで、他の三件はすべて刺殺によるものであり、銃弾が使われていない事が明らかになっており、華人との間に殺害方法は争点とはなっていない。
少なくとも、「多くは機関銃によって惨殺された」と書くのは事実に反している。

軍事裁判開廷当時、六千人(日本側は千~二千人)で争われていた犠牲者数が今では五万人~十万人に膨らんでいるのは、中共支那の先の大戦における犠牲者数、南京における犠牲者数の増え方と同じである。
中島正人氏自身も
<それでは、「マレー進行作戦」途次に行われた華僑虐殺事件で、いったいどれくらいの犠牲者がでたのだろうか。
さまざまな推計が行われているが、前記の戦争裁判では、シンガポールだけで、一応、その数を六千人と推定している。
この数字は、警備司令官だった河村と憲兵隊長だった大石の両者で、約五千人、近衛師団の西村が「近衛では約千人殺した」と証言したことが根拠となっている。
略)
また占領中、「反日分子」としてオートラム監獄に収容されていた者のうち、死者千六百十一人(死刑者百四十一人、獄中死千四百七十人)も、もちろん、先の数字には含まれていない。
したがって、これらの数字を勘案、差し引き勘定し、総合判断すると、シンガポールだけで二万人以上の華僑が犠牲になったとみることができる。
少なくとも私の取材では、大東亜戦争中、南洋地域にあるシンガポール、マレー半島、フィリピン、インドネシア、香港の五カ国で優に八万人に達する中国系市民(華僑)が、日本軍人の手によって虐殺されたことが確認できるのである。
いま、これらの土地には、日本人観光客が訪うこともない閑散とした場所にそれぞれ慰霊碑が建てられ、当時の日本人による重い犯罪を冷厳に告発し続けている>
同p五百六
と書いている。つまり、虐殺と言っている限りは、ゲリラに対する掃討は入っていないで華僑が最近騒いでいる五~十万人という数字に近い犠牲者数を確認したという事になる。
どのような手法により、その数を確認したかは書いていないが、これは、あったとされる南京大虐殺の犠牲者数が、中共支那が三十万人と言っているのをそのまま書いているようなものである。
昭和四十六年(一九七一年)に出された「馬来亜華僑殉難名録」に収められた約八千六百名もの華僑について、中島みち氏は、全員について点検したが、その殉難時期は終戦後に及ぶものもあり、場所もシンガポール、マラヤ全土に広がっているそうです。
ましてや、虐殺されたというその慰霊碑のある箇所をひとつでも精査してるのであろうか。もしそうであれば、その人数、背景等において種々の疑問点が浮かび上がってくる箇所も多くあり、このような数字は中々出てこないものだと思うのだが。
それとも、華僑つまり、嘘のつく事を何も思わぬ支那人の言っている事をそのまま鵜呑みにしているだけで、取材と称しているのだろうか。

中島正人氏のこのような姿勢は、中島氏が書いているオートラム監獄に於ける死者千六百十一人(死刑者百四十一人、獄中死千四百七十人)という華人の死者数にもよく現れている。
オートラム監獄における我が国の戦犯とされた方々に対しての英国兵どもの醜い扱いについては多くの著書が出版されていますが、手元にある「戦犯叢書 戦犯虐殺の記録」に、オートラム監獄に関しても多くのページが割かれている。
そして、英国人による醜い扱いについての記述だけでなく、当時の昭南陸軍刑務所(オートラム陸軍刑務所)における虐待責任とされた法務部長二名(南方軍 日高己雄法務少将、第七方面軍 大塚法務少将)、刑務所長二名(小林庄造少佐 、神谷春雄少佐)を含む四十四名もの人員が起訴された事件が掲載されています。

起訴状記載の内容
<常軌被告等は一九四二年二月十五日より一九四五年八月十日に至る間、オートラム刑務所に於て行われた左の如き虐待行為に関係せるものである。
即ち戦争の法規および慣例に違反して不当る虐待蛮行を加えた結果英国人、豪州人、オランダ人、その他一般市民計四十一名を死亡に至らしめ、その他米国人、英国人、豪州人、オランダ人および一般市民多数に肉体的精神的苦痛を与えたものである>
(「戦犯叢書 戦犯虐待の記録」(佐藤亮 国書刊行会 昭和五十七年刊) P百三十五)
いかがであろう。各被告に対しそれぞれの個人責任を追求すべき起訴状において、かくの如く、漠然たる内容の起訴状が許されるような裁判においても、中島正人氏が記すような多くの華人に対しての記載が一切見当たらない。
中島正人氏は、いったいどこからその多くの華人虐殺人数を導きだしたのか。

ちなみに、
英国軍による裁判は
シンガポール、ジョホールパル、クアラルンプール、タイピン、アロールスター、ペナン、ラブファン、ゼッセルトン、ラングーン、メイミョウ、香港。
死刑二百二十三名、無罪百二十五名、有期刑五百五十六名であった。
(「南十字星に抱かれて」(福冨健一 講談社 平成十七年刊) p二百四十九~二百五十)
そのうち、英領マラヤで戦争犯罪人とされた方々の起訴理由については、「マラヤ住民の殺害」であり、その「マラヤ住民」の九十九%が、華人である。
訴え出た人々のほとんどが、イギリス人でもオーストラリア人でもポルトガル人でもない。マレー人、インド人も稀であり、殆ど華人なのである。
(「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(中島みち 文藝春秋 平成三年刊) P八十八)

中島正人氏は華人が千六百十一人も犠牲になったと主張するが、その、オートラム監獄に於ける最高責任者を含む四十四人が起訴されている戦犯裁判において、その理由に華人虐殺および暴行が一件も入っていないのはどういうわけか。

まさに第二の吉田清治という名前がピッタリの御仁です。
「日中戦争いまだ終わらず」によりわかる反日日本人の暗躍
華人掃討村の人口と掃討数
10月1日木曜日晴れ △
イロンロン村
このイロンロン村については、松井やより女史はティティ近郊ジュルブ村としているが、どちらの書き方が正しいかわかりませんが、「犠牲者千四百七十四人でマレー半島最大の日本軍による虐殺事件といわれる」となっているので、問題となっているのは、この村の事に間違いないと思います。
中島みち氏の著書に拠ると、「日治時期森州華族蒙難史料」にはイロンロン(余明明)村として
「桃源郷のような村」、「犠牲者千四百七十四人」、「家は一件残らず完全に焼き払われ、無人の里となった」と書かれているそうです。昭和十一年に設立された南洋経済研究所が、昭和十七年、つまり、掃討の年に編纂した「大南洋地名辞典」には、「ジェルンドン村」として載っており、「荒蕪地なるも、付近は錫産地なり」となっているそうです。
ところが、掃討直後から二キロ離れたティティの町に駐留していた将兵さへ知らないような小さな村であったそうだが、先に書きましたように、千四百七十四人という最大の犠牲者数????を出しています。
ちなみに、戦犯裁判では「九百九十名の殺害」とされています。ほんの五百人ばかり、たった「五割」の増加です。支那人の感覚からしたら、そのぐらいはたいした事ありません。
さて、このイロンロンの犠牲者数については、軍事裁判においては九百九十人、「日治時期森州華族蒙難史料」には千四百七十四人と掲載され、中島みち氏が平成十年(一九八八年)夏に、直接華人関係者から聞いた時には「千七百人超えたよォ」だったそうです。
(同書p一四一)
実際に、現在でも、マレーで工事の度に出てくる人骨はすべて「日本軍による虐殺の犠牲者」となっているようで、どんどん増え続けている・・・・
中島みち氏は、ではこのイロンロンには元々は何人の村人が住んでいたのか疑問に思い、調査しています。
英国が十六年ぶりに行った一九四七年の国税調査では、人口二百五十人未満、あるいは戸数五十件未満の町や村については、特別の事情が無い限り個別表記を除外していると明記している。
一九三一年については、実際には二百六人の村さへ載っているので、除外された町や村は多くても二百人未満と考えられる。
ちなみに、
第七中隊クアラピア警備隊本部の駐留地クアラピア町の人口
華人二千五百九十九人、マレー人四百六十人、インド人六百九十九人、ユーラシアン十六人、その他二百十七人 総数三千九百九十九人
第八中隊駐留地クアラクラワン町の人口
華人六百六十九人、マレー人二百十二人、インド人百八十九人、その他五十六人 総数千百二十六人
第十一聯隊本部のある州都セレンバン
華人一万四千百七十八人 マレー人千七百二十五人 その他五千五百五十人 合計二万千四百五十三人
中島みち氏が取材した第十一聯隊関係の元将兵では誰もイロンロン村(日治時期森州華族蒙難史料)、カンポン・ジュルドン(英国陸軍省一九五四年度版)、ジュエルドン村(大南洋地名辞典)のいずれの名称も知っている人はいなかったそうです。
それは、作戦命令にも、その中の攻撃要領要図にもこの村の名前は掲載されていなくて「チ?付近」という表現のためである。
中島みち氏は、命令書、攻撃要領要図にも村の名前、経度緯度も期されていないが、印されている山や川からの距離、標高数、里程標等から、英陸軍省マップのカンポン・ジュルドンに重なり、カンポン・ジュルドンが大南洋地名辞典のジュエルドン村に符合することを確認している。
その結果、「豊かな桃源郷」「ティティの姉妹村というべき大きな村で家屋の数は二百軒」と華人が伝えるイロンロン村と、日本軍将兵の語る、もともと「アタップが二十戸あるかないかのティティの外れの高蕪地」があまりにもかけ離れているので、念には念を入れ調査したが、間違いなくイロンロン村はカンポン・ジュルドンであると結論を出している。
その、カンポン・ジュルドンはティティの外れの村で、二百六人の村が記されている国税調査には記されていない規模の村である。

イロンロン村(カンポン・ジュルドン)より遥かに大きな一九三一年のティティの人口は、華人千二百九十三人、マレー人二十六人、インド人二人の全部で千三百二十一人である。
一九三一年の国税調査後、一九四二年の掃討までの人口増は錫鉱山が打ち捨てられている状態では大幅な人口増がある筈も無い。
現実に、十六年後の一九四七年の国税調査では、ティティの総人口は千五百五十人(華人千五百二十人、戸数三百軒)であり、わずかな人口増しかない。
(「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(中島みち 文藝春秋 平成三年刊)
p百四十二~百五十五
イロンロン村(カンポン・ジュルドン)とは、人口二百六人以上の村ではありえない村であり、
その、人口二百六人に満たないイロンロン村(カンポン・ジュルドン)において、我が軍は戦後すぐに九百九十人、その後は千四百七十四人、そして、いまや千七百人もの住民の虐殺をやったことになっているのです。
流石は我が軍です。
それを
<犠牲者千四百七十四人でマレー半島最大の日本軍による虐殺事件といわれる>
(「魂にふれるアジア」(松井やより朝日新聞社 昭和六十年刊p百六十四)
と、そのまま何の疑いもなしに伝えている反日キチガイ連中の多い事か。
あほらし
第二の吉田清治 中島正人の影響
第二の松井やよりと小林正弘の接点
10月2日金曜日雨時々曇り △
間違いの多い「新馬華人抗日史料」の編者のひとり蔡史君氏に関して、あの日本の為にならない事だったらなんでもやったという松井やより女史が著書「魂にふれるアジア」に下記のように書いています。
以下引用
<今「日本軍政」についての博士論文に取り組んでいる蔡史君さんもシンガポール人には珍しく、出世志向とは縁のない地道な女性研究者である。夫は華字紙論説委員。気楽に付合えるカップルだ。夫婦とも、満州出身の一族で、満州料理を食べに行ったり、一緒に泳ぎに行ったり、中国旧正月を共に祝ったりした。
蔡さんの専門は東南アジア史で、六十七年から東大大学院東洋史学科に留学、のちには英国リーズ大学にも学び、日本占領下のシンガポールの研究では第一人者である。
八十二年秋まで文化省公文書口述史局の四プロジェクトのうち「日本占領期」を担当、体験者からの証言をテープにとる仕事をしていた。>
(「魂にふれるアジア」松井やより 朝日新聞社 昭和六十年刊 p百五十~百五十一)
<蔡さんはしばらく休息した後、大きな仕事を引き受けた。シンガポールの華僑抗日義勇軍の生き残り隊員たちから抗日史編纂の仕上げを頼まれたのだ。元隊員たちが六十年代後半に集めた膨大な資料が出版されないまま十数年が過ぎていたが、蔡さんが一年以上かかって整理し、八十四年秋「新馬華人抗日史料」として中国語で刊行したのである。千百ページ、写真八百枚という分厚いこの資料には、華人虐殺を含む十四年間にわたる日本軍の侵略と抗日抗争の歴史が記録されている。これだけの歴史書が出版されたのはこのシンガポールでも初めての事だ。>
(同書p百五十三)

そして、新潟市立藤見中学校教師小林正弘氏は著書「シンガポールの日本軍」(平和文化 昭和六十一年刊)において、昭和五十九年(一九八四年)当時、シンガポール日本人学校の教師として派遣されていた小林氏に、松井やより女史と思われる朝日新聞記者から取材をされていることを書き、松井女史のこの蔡史君の記事も引用掲載している。
「日本に留学した時、友達に虐殺の事を話しても信じてもらえなかった。日本人は過去の事をもっと知るべきだと思う」
(朝日新聞夕刊 一九八四年二月十四日)

この松井やより女史の記事にある蔡史君の夫は卓南生という。一九四二年シンガポール生まれの華人である。
早稲田大学卒、立教大学、朝日新聞社にも在籍していたことがあるそうで、この卓南生について、松井、小林の両氏はその考え方を絶賛している。
小林氏は著書に教育者として、
<自国に都合の悪い事であっても、事実は事実として学び、それを乗り越えてこそ真の意味での民族的自覚と誇りが育つ筈である>
(「シンガポールの日本軍」小林正弘 平和文化 昭和六十一年刊)p百九十二
このように書く小林氏の教育者としての姿勢が一番よく判るのは下記の文だろうと思います。
<最初にお断りしておきたい事がある。それは、私には虐殺人数について検討する能力も、その気持ちも無いという事である。私の目に触れた範囲では大西覚氏の千人以下という数字が最小で、最大は伊沢信夫氏の一五万人(「紀行・流動のアジアへ」毎日新聞社)である。大西氏のように被個人としての虐殺数ならいざ知らず、その主張には「戦犯」としての一片の反省すら無く、検討に値しない。もっとも、「加害の側」において人数にのみ目を奪われるのは事件そのものを矮小化してしまう危険があるように思われる。中島正人氏も一万五千人前後とされ、李金泉史の証言として一万九千人をあげられているが、卓南生氏に聞いたところでは、卓氏が李氏に確認すると「そういう数字をあげたことはない」という返事だったと言う。
歴史教育者の立場でいえば、歴史教育は厳密な歴史学に立脚して行わなければならないことは言うまでもないが、人数が確定出来ない以上、「被害の側」の主張を教える、少なくとも伝える事が正しい態度ではないかと思うのである。
ましてや戦犯の証言に基づいた数字を教科書に載せる等、「加害国」のやるべきことではない。>
(同書 p百五十六)

戦犯とされた方々の名誉は我が国において、戦後、当時の多くの国民が署名運動をして、国会でも決議された事により回復している。
現在の我が国には戦犯となどとされる方々はひとりもいない。 (いわゆるA級戦犯とされ、七年の刑を受けた重光葵氏はその後外務大臣に復帰し、勳一等を授与されている。)
あの軍事裁判がどのようなものであったかは少なくとも歴史を教えている立場のものであったら、理解している筈です。
戦後、残念なことに我が国の国民は「戦犯」とされた方だけでなく、その残された御家族に対しても醜い扱いをいたしました。
マレーにおいても、「復讐」のために「戦犯」とされ、いわれなき罪をきせられ、英国兵に殺された多くの軍人がおられます。
終戦後も三年目に入った昭和二十三年一月二日、この日、クアラルンプール刑務所において、絞首刑台に登らされたのは歩兵第十一聯隊、第七中隊長岩田光儀大尉、同第二小隊長橋本忠中尉、同断3小隊長郷端逸人少尉の三人。
同時刻、第十一聯隊長渡邉綱彦大佐は、刑務所の構外にある、クアラルンプール射撃場で、銃殺されている。

そのうちのひとり、岩田光儀大尉の御家族は、米軍の無差別虐殺である広島への原爆により、次女は亡くなり、残った御家族も「戦犯の子」と追い回され、実際に飛礫まで投げられ、急遽、広島から宇部に引っ越している。

「戦犯虐待の記録」には、下記のような資料が掲載されている。
戦後七年も経過しているのに関わらず、戦犯とされた皆様七百三十一名を対象とした御家族の調査によると、

調査年月日 昭和二十七年十月二十八日
調査対象                 七百三十一名
離婚者                    二十八名
許婚解消                   四十一名
戦犯家族の故に、就職を拒否された者      二十二名
戦犯家族の故に、結婚を拒否された者       十二名
戦犯家族の故に、「村八分」を受けた者      五十六名
家族が自殺を試みた者              十二名
家族が精神異常をきたした者           十六名
計                     百八十七名
(P三百二十三~三百二十四)

退職した現在、自身のホームページでは、憲法九条至上主義を公言し平和主義者ぶっているこの元教師は、英霊の残された御家族に対し、掌を返した連中と同じ事をやっているという自覚が無いアホです。
ましてや、自分から検証を放棄し、
<「被害の側」の主張を教える、少なくとも伝える事が正しい態度ではないかと思うのである。>とほざく。
どんな嘘でも、支那が、朝鮮が、シンガポールが言っているのだから、そのまま教えろと言っているのです。

この小林正弘という人間は、それだけでも今井城太郎氏の著書の題名ではないが「国破れて自虐あり」の典型的な人間で、このような人間が、我が国の未来を担う子供達を教え、教壇に立ってきたのです。

流石は、先の中島正人氏の著書を「この本は恐らく、虐殺事件の実態を体系的に明らかにした唯一のものであろう」と書き(同書p百二十八)、その自身の著書において、中島正人氏の著書から発言者とされた劉果因氏自身から否定された山下奉文将軍についての発言を証拠とし(同書p百三十)、虐殺事件は一月から始まっていたと自説を書いているだけの事はあります。

アホらし。
マレー人と華人との対立について
秦郁彦氏の比較
10月6日火曜日雨 ○
秦郁彦氏は著書「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫 平成十二年刊)において、松井やより氏の著書よりの引用として、
<「日本の政策は意図的でなかったにせよ、・・・・・人種対立を助長した」(松井やより)と見るか、「大きな責任は日本軍にある」(林博史)と見るか、評価は分かれるが・・>(p四百二十六)
と、いかにも松井やより氏と林博史氏の考え方に相違があるように書いていますが、私にはこの二人の考え方には大した差はないとしか思えません。
松井やより氏は、秦氏も引用している著書「魂にふれるアジア」にて、マレーシアの歴史学者謝文慶の著書「マラヤの赤い星 日本占領期とその後(一九四一~四六)」を引用して
<「戦前のマラヤでの人種関係は平和であった。日本の政策は意図的でなかったにせよ、マレー人と華人の人種対立を助長した」と書いている>(p百六十四)
と引用掲載している。
つまり、秦氏の引用掲載している箇所は松井氏の考え方ではなく、謝文慶の著書よりの引用です。その引用箇所の前に松井氏は
<このような華人弾圧、マレー人利用という日本の人種差別政策がいかにこの複合社会に深い傷跡をのこしたか>(p百六十三)
と書いていますが、これこそ、松井氏の日本軍に対しての考え方であろうかと思います。

別の箇所にも
<日本占領が深刻な人種対立のきっかけを作り、戦争直後(ママ)、マレー人と華人(中華系住民)の血なまぐさい殺し合いとなったという虐殺後日談である。>(p百五十九)
(私はこの松井氏の文にある「戦争直後」は「戦後」の間違いと思うのですが、どうなのでしょう)

このように、松井やより氏の考え方は林博史氏と大差のない単純な「日本軍責任論者」であり、秦郁彦氏の近代史における研究成果はすばらしいと思いますが、この秦氏の著書における、二人並べての対比は間違っているものと思わざるを得ません。

マレーにおけるゲリラ華人掃討
10月7日水曜日曇りのち大雨(台風)○
中島みち氏はその著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」において、数カ所の「虐殺事件」があったという場所について調べ、その疑問点をわかり易く書かれている。
華人の村をどうして掃討する必要があるか。それは、当然、華人ゲリラの支援村、基地になっている場所があるからだが、その時、実質的に、各村の敵性華人掃討に何人の日本兵が派遣されるか。というより、派遣出来るか。
通常、中隊は百九十~二百名で構成されている。十五名の分隊四個で一小隊。小隊三個で百八十名、その他二十名以内となりそのような人数となる。
ただ、敵性華僑討伐において問題となっている歩兵第十一聯隊で、それに近い兵力が整っていたのは、昭和十六年(一九四一年)十一月にマレー半島に向けて上海の港を出た頃の事であり、マラヤ三月掃討のころには、「マレー作戦」による戦傷者の補充がつかず、第七中隊のように比較的人数が多い中隊でも八十~九十名内外であった。
林博史関東学院大学講師(現経済学部教授)が陣中日誌に華僑掃討の事が書かれている事を発見したと大騒ぎした(別に発見でもなんでもないのだが)第七中隊の場合、その陣中日誌により掃討に派遣された兵の数がわかる。
中隊総人数八十~九十名より警備隊周辺の第一から第四までの分哨に約二十人、指導班員、中隊本部残留員を加えて、三十名近くが掃討活動に加わらない。分哨だけで二十七人出している日もある。
掃討地に着いた後も、村外への道路の見張り要員等も必要となる。
よって、掃討に村に入れる兵は三十数名から多くても四十五名は超える事がない。
(中島みち氏の著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(文藝春秋 平成三年刊)p百十五
中島みち氏の著書に引用されている陣中日誌が、その掃討活動における人数を裏付けています。

スンガイルイ村掃討について
第七中隊陣中日誌より
<中隊長以下二十九名とクアラピラ警察署長以下八名で、バハウから汽車を使い、討伐。
不良分子八十名、大型拳銃一挺、同弾薬六発、焼却家屋十五件>
そして、陣中日誌には手柄を書くものであるから、少なく書く事はあり得ず、実際に、元第七中隊の人々に取材をし、三十数名程度という証言を得ている。
また、掃討後、住民が陸続と戻って来たと「日治時期森州華族蒙難史料」に書かれているそうである。
埋葬されたのはどこか。共同墓地なのか別の場所なのか。「日治時期森州華族蒙難史料」には「公※」(土に文)と書かれているそうで、村の共同墓地に当たるそうです。
戦後、それを掘り起こし、他の骨との区別はどのようにつけたのか。
中島みち氏のこの疑問に華人ガイドは
「あなた何でも細かく考えすぎるよ。そんなこと中人(華人)細かく考えないよ。日本軍、たくさん殺したこと、同じだよ」
(同書p百二十三)
いくら戦時中とは言え、村民四百人のうちの三百六十八人と皆殺しに近い掃討と、容疑者だけ三十人程度を掃討するのでは大きく違うと思うのだが、そうは思わないようである。
ましてや、村が無くなったとか、村人の強制移住というと、残酷な事のように思えるが、日本軍だけでなく、英軍、そして、独立後のマレーシアにおいても、兵糧攻めとして共産党ゲリラ対策として取られていた方法である。
これについては、別項にて書かせていただきます。

一部に銃を使った掃討は上記のスンガイルイ村掃討だけであり、この人数の兵が刺殺により華人が言っている人数を掃討できるか考える必要があります。
他にも、スンガイルイ村よりも掃討人数が多いとされるパリッティンギ村六百七十五人、イロンロン村千四百七十四人の場合は刺殺のみであり、三十から四十名の日本兵が七百から千五百名を刺殺したとされているわけです。
これらの刺殺による掃討方法ついては、戦時裁判において華僑側も日本側からも異論は出ていません。
日本兵一人が三十人から五十人の反日華僑を、短時間のうちに刺し殺した事になります。

・・・・・・・・・・・
流石に、南京では首の皮一枚残して、三十万人もの首を落とす事のできる日本兵の腕はたいしたものです。(棒読み・・・・)
ちなみに、この南京虐殺?についてのお話は、当店の常連さんがお連れいただいた関西の人から伺いました。
その人は、大学時代の恩師から聞いたのだから間違いないとおっしゃっていました。
私は、この人の余りにもバカ過ぎる頭の構造にお口あんぐりでした。

引用及び参考文献
1)「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(中島みち 文藝春秋 平成三年刊)
2)「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊)
3)「魂にふれるアジア」(松井やより 朝日新聞社 昭和六十年刊)
4)「シンガポールの日本軍」(小林正弘 平和文化 昭和六十一年刊)
5)「昭和史の謎を追う」(秦郁彦 文春文庫 平成十一年刊)
6)「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード 原書房 平成十七年刊)
7)「立ち上がれ日本人」(マハティール・モハマド 新潮新書 平成十六年刊)
8)「アジア人と日本人 マハティール マレーシア首相との対話」(大前研一 小学館 平成六年刊)
9)「命がけの夢に生きた日本人」(黄文雄 青春出版社 平成十八年刊)
10)「南十字星に抱かれて」(福冨健一 講談社 平成十七年刊)