堀内豊秋海軍大佐といわゆる戦犯裁判について

堀内豊秋海軍大佐といわゆる戦犯裁判について
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。

平成17年10月19日水曜日晴れ ちょと肌寒い ○
大東亜戦争が終わって三年も経過した昭和二十三年九月二十五日にインドネシアのメナドでオランダ軍によりひとりの日本海軍大佐に対して銃殺刑が行われました。この海軍大佐は銃殺の時に目隠しを断り、死に臨みました。
この日本軍人は堀内豊秋大佐という方です。では堀内大佐は銃殺刑に処せられるような事をしたのでしょうか。この堀内大佐のひとなりを書いた本が、手許にあります。「堀内海軍大佐の生涯」(上原光晴著 光和堂刊)という本です。この本の題名になっている堀内豊秋大佐は海軍体操の創始者として知られていますが、海軍落下傘部隊司令として、昭和十七年一月十一日オランダ領東インド(インドネシア)・北セレべス・メナドに部下の先頭をきって降下し、オランダ軍を降伏させた勇将でもありました。
その堀内大佐は単なる勇敢なだけの軍人ではありませんでした。
他人に対して思いやりと優しさを持っている武人でした。そんな武人を銃殺刑にするという戦犯裁判についてです。
まず、この本に書かれている堀内大佐の人なりと生い立ちについてこの本より引用して書きたいと思います。

<以下の文章において少佐(昭和九年十一月一五日より)、中佐(昭和十五年十一月十五日より)、大佐(昭和十九年五月一日より)と堀内氏の海軍将校としての位がそれぞれの任地により変わる>

江田島の海上自衛隊第一術科学校が管理している教育参考館にはガラスケースのなかにバリ島在住であったドイツ人画家ストラッセル・ローランドによる大きな油絵が掲げられている。その絵にはメナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内大佐(当時中佐)の姿を描いている。
その油絵の下に、昭和十四年十一月より支那の廈門に当時少佐の堀内豊秋が陸戦隊司令として軍政に携わっていた時に、廈門駐留を継続してくれるようにと書いた廈門の百五十二村長の連名、押印による廈門海軍司令部牧田司令長官宛の陳情書があります。
廈門にて軍政に携わっていた堀内少佐は現地住民の信頼を一手におさめていました。駐留交代の知らせを聞くと、住民はこぞって駐留継続の嘆願書を現地の最高司令官である牧田覚三郎少将に出しました。さらに堀内少佐の軍政を讃えて、昭和十五年十月に百八人の支那人が寄付金を出し「去思碑」を建てました。
堀内大佐は「おれは原住民にもてるんだよ」と持ち帰った去思碑の碑文の掛軸を可寿夫人に見せています。
(戦後は暗転し戦犯とされた方々の御家族は皆様苦しい生活でしたが、堀内大佐は獄中より夫人にあてた手紙の中で支那・廈門の人々より贈られたこの掛軸とインドネシアの人々より贈られた肖像画と胸像以外の私物すべてを売り払い、子供達の学資とするように書かれているように、現地の方々の志をいかに大切に思っていたかが伺われます。)

その「恭頌大日本海軍陸戦隊堀内豊秋司令徳政」との書き出しの碑文は堀内豊秋の軍政について下記のように書いてあるそうです。

ーああ、総指揮官大権を職掌し廈門に駐箚すること二年。口碑流伝す。人民を領導し、よくその完全を致し、軍隊を使うに万略ありて寸毫も恋々たるなし。善政を施せる名声は僻遠の地に至まで広がり、人民の復帰する日に多く、各生業に安んじ、鼓腹にして皆歌う。時に乗じて建設し、日に異なり、月に新たなり。爾今爾後、日親に藉資す。赫赫たる司令、よく領民を安んじ、その徳、衆人におよび、昇平あらかじめ兆す。ここに節録を述べんか、禾山区一帯の者とともに明らかなるべし。石碑にこれを刻し、以て永久に伝えん。

この去思碑の除幕式は昭和十五年十月三十日、廈門の江顕五通でとりおこなわれました。当時の現地の新聞には
「禾山民衆敬愛日軍 為堀内部隊長立去思碑 昨晨挙行隆重掲幕典礼」
の見出しで、次のような記事を写真入りで伝えているそうです。

「(前略)地元側は趙署長以下書院ならびに各誘導員、各社長約二百名参集の下に開式。李恭氏の祝詞等あって記念品奉呈に対し、堀内部隊長はきわめて流暢な促成廈門語を使って謝辞を述べ、来会者に深い感動を与えた。これがすんで趙署長登壇、慈父と慕う部隊長の在任中の功績を讃え、今後その指導に基づいて禾山の発展のため、献身的努力を続けることを誓う旨、祝詞に代えて述べた」

ただ、海兵78期出身の作家、高橋玄洋氏が後年この記念碑を確認しに現地をまわってみたそうですが、見つける事ができなかったそうです。共産党支那においてその存続が難しかったのでしょう。

堀内大佐(当時少佐)はあるとき部下の非をとがめ、こっぴどく叱りとばした後、その非は自分の不徳の致すところ、責めの一半は自分にもあると深く反省し、以後自らを戒める誓いの印として、通訳を通じて、廈門の南西に浮かぶ小島コロンスの洞窟内に下記のような文字を彫ったそうです。
「以責人之心責己、以怒己之心怒人」
(人を責むる心をもって己を責め、己を許す心をもって人を許す)

堀内大佐が教えた海軍兵学校の生徒であった堀之内芳郎氏(六十二期)は昭和十五年夏にそのコロンスに遊んだ時に偶然この洞窟内の岩壁に彫ってあったのを見つけて、心にとめた堀之内氏は支那人の書家に揮毫してもらい、表装して大事にもっていて、処世訓のひとつとしていたそうです。それが堀内氏が彫らせたものだとわかったのは海上自衛隊幹部候補生学校の教官としてこの掛軸を持ち出して学生に説いていた時に、一人の学生から「陸戦隊司令が彫らせたもの」と言ってきたそうで、三十年ほどの長き年月を経て、この時期の陸戦隊司令が堀内豊秋氏だと知ったそうです。そして、堀内氏が戦後のオランダ軍による軍事法廷に召還された折に、部下の責めを負って従容として死についた恩師のその人なりを、改めて偲んだそうです。

海軍落下傘部隊長(補横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)司令)に昭和十六年九月二十五日に任命される。当時四十一歳という世界一高年齢の落下傘隊長だそうです。しかし、その体力、俊敏性、柔軟性は親子ほど年の違う部下をも凌いだとあります。
昭和十七年一月十一日午前六時三十分にフィリピン・ミンダナオ島ダバオの基地を二十八機に分乗し離陸。
(このミンダナオ島ダバオでは大東亜戦争開戦とともに、日本人居留民は全員強制収容所に入れられた。そこで、日本人女性はフィリピン土民兵に連れ出され暴行されるという痛ましい事件があり、自殺した女性も出ている)
この途中、一機はエンジンの不調で引き返し、そして第四編隊の五番機は味方の水上機の誤謝により撃墜されるという悲劇があった。
部下思いの堀内大佐は後々まで、この五番機の無念な最後を悔やんでも悔やみ切れないと残念がっていたそうです。
残りの二十六機三百十二人は午前九時五十二分に高度百五十メートルより降下。もちろん日本海軍伝統である指揮官先頭を切ったのは堀内大佐(当時中佐)です。この勇姿は報道班を乗せた飛行艇より本間金資カメラマンのアイモにより収められています。

オランダ軍の機銃掃射により戦死者二十名、負傷者三十二名と多くの犠牲者を出しながら、インドネシア・メナドのカラビラン(通称ランゴアン)飛行場を激戦二時間で制圧しました。
この降下で片腕とたのむ染谷副官をはじめ三名の副官を失ったことが、のちに堀内大佐にとって痛手となり、部隊の掌握に苦労をしいられ問題を起こす事になりました。

堀内軍政を示すものとして、堀内大佐の生家に今も大切に飾られている臈纈染の作品がすべてを物語っている。それはインドネシアの古代叙事詩を主題に描いた作品で、影絵や人物を素材にしたワヤンというこの形式の絵は、堀内大佐が占領下のインドネシア・バリ島シンガラジャ司令時代に、現地住民から贈られたものです。
画面の左側は悪人の頭に大きな石が落ち、驚いてあけたその口に槍が刺さっている。右側には人々が楽しそうに語り合う平和の風景が示され、正義のために戦った五兄弟の母親(伝説中の人物)と、天国にいる高僧と、自由にさえずる鳥が、豊かな色彩で描かれている。
古代戦争劇の一幕を表したこの画面の背景には無数の落下傘が舞い降りている。
ミナハサ地方には古くから、「わが民族が危機に瀕する時、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる」という言い伝えがあった。
本間報道員の写したニュース映画には、大勢の現地住民が画面一杯に写っていて、喜びの表情を隠しきれないでいる。
これは同じ我国軍人として現地の方々より慕われたミャンマーにおいての鈴木啓司大佐の物語にも通づると思います。

大隊付信号員長として堀内大佐(当時中佐)の側にいた坂田喜作氏が、上原氏に語った事として占領当日の一月十一日のこととして、著書で次のように書いています。
「その夜は付近の田圃のなかにあった一軒の民家に入り、通信隊の一部と本部付の人、そして司令(堀内大隊長)とで、その日の戦闘状況をまとめる準備をしていました。そこへ、原住民の敵兵を一人捕虜にしたという報告がが入りました。一晩拘禁し、翌十二日に調べてみると、捕虜は、そこの農民であることがわかりました。すると堀内司令は、早速その捕虜になった農民に『あなたがた住民の仲間で、私たち落下傘部隊に協力してくれる人がいたら連れてきてくれないか』といって、貴重な塩を与えて帰してやりました。その農民は十数人の住民を連れてきて、われわれが占領した飛行場の整備などを、熱心に手伝ってくれるようになったのです」
「降下したその日は、無人の農家に入って他の部隊と交信したりしました。翌日からは、地方の有力者シガラキ氏の申し出で、その家を使うことになりました。司令をはじめ総勢十名ていどで本部をシガラキ氏宅に、その他はオランダ軍の兵舎跡らしい建物や公共建物を兵舎にあてました。塩とか食料は応援部隊がきたので、内地から輸送したものと思われます。塩は大変貴重でした。
インドネシア兵が順次投降してきたので、捕虜にしていったん民家に収容しました。百数十人いました。みんなおとなしくしていたので、司令はかれらに休暇を与えました。一週間ぐらい休みをだして家に帰す時、堀内司令は『こうして元気にしていると、家族に話してきなさい』といって、塩を土産に持たせました。オランダ軍側にいたときは全く休暇などなかったとのことで、一週間の休暇が過ぎると、手土産を持って全員が帰ってきました。これをみても、堀内司令がいかに信頼されていたかわかるでしょう」

このような事がきっかけで、住民のあいだに驚くほどの早さで宣憮工作がゆきわたり、降下して一カ月後には、住民たちと一緒に演芸会を開き、ともに楽しむまでなった。常日頃堀内大佐は「女や子供には手を出すな、弱い者いじめはするな」と隊員に厳しく命じていたので、ますます住民に慕われていったそうです。

司政官の日記にみる堀内大佐の善政
上原氏のこの本は堀内司令の善政について数多くの例をあげています。
そのなかのひとつに中央官庁(農林省)から司政官としてメナドに派遣された角田武紀氏(現性・川戸)の当時の日記には下記のような記述があるそうです。

以下引用
昭和十七年四月二十五日、ランゴアン
落下傘部隊が転戦のために、ランゴアンから移動する前日、部隊本部を訪問した。今日は堀内司令も軍装を整えておられる。庭先に遠慮勝ちに立っているのは、身なりを整えた何組かのの村人である。堀内司令は、
「木部に入り代わり立ち代わり、送別の挨拶に来ているよ」
「婆さんに泣かれて弱った。爺さんも泣いて挨拶にならない。朝から泣いている。自分ももらい泣きをするので、なるべく顔を見せぬように覆ってしまうのだ」
などと話しながら、玄関先の人たちを招いている。緊張した顔で入ってきて、司令の手を握り、頭を下げ、挨拶をかわしているうちに泣きだしてしまう村人たち。そばで見ていて、ほろりとさせられる美しい光景である。兵隊の宿舎の中にも、年寄りも若い者も娘たちも、いっぱい来ている。
遠くからごちそうまで持って来て別れを惜しんでいる、

昭和十七年四月十六日、晴れ。
いよいよランゴアン川発の朝、別離の時である。村の真ん中の通りに長い列をなした約三十台のトラックにはすでに兵隊も乗り終わって出発を待っている。両側の数千人のインドネシア人の人垣に取り州まれた車の列。手をあげて挨拶する者、泣いている村長、娘たち、お婆さんたち。天より降った神兵のごとき珍客を迎えて百日余。別離の問際、わずかな時問を敬愛する兵十の手を一人でも多く握ろうと、狂人のように走り川る娘たち。無数の手が差しのべられ、くぎづけにされたようなトラックの列。
司令が先頭車に立って、いよいよ川発である。のろのろと動き出した。バンザイ、バンザイの絶叫。まさに感激のクライマックスの数刻である。司令も兵士も後ろ髪を引かれる思いで手を振り振り離れて行く。何と美しい別離の光景か。
親指を立てて、「ニッポン、ジョートー」と、絶叫する考。目を血走らせて車上の人を追う者。ぬれる椰子の木の下の草ぶきの家の前に、白い上着をきちんとつけて最敬礼する老人。向手を高々とあげて見送る母親たちの笑顔。
「ニッポン、インドネシア、ナカヨシ」と、大声をあげる考。ベラソダに並んで、うやうやしく頭を下げる家族。老若男女、狂気する椰子の林のなかの村。
「天下絶品の兵隊なればこそである。これもまた堀内司令の人格の現れである」とは、一緒に眺めていた軍医長の言葉である。

その夜、メナド橋本本部隊本部で、ささややかな送別の宴があった。二人の司令のやりとりがおもしろかった。
堀内司令が、「今夜はゆっくりと眠れるな。夕べは、でかいのと一緒だったのでベッドから落っこちそうになったよ」と、笑う。その意味はこうだ。
前夜は、堀内司令を迎えにメナドからランゴアンに行つた橋木卯六司令(堀内と同期)が堀内部隊本部に泊ったが、メナドの本部の大きな建物と違って小さ民家なので、部屋もベッドも足りない。
そうは言っても、堀内司令の一言で橋本司令のための一室は確保できるのだ。ところが、それには堀内司令が部下のだれかを動かさなければならない。部下に迷惑をかけたくない堀内司令が、「貴様、おれと一緒に寝ろ」「よしとも」という調子で、堀内司令のシングルベッドに、一緒に寝たというのである。
橋本司令は百七十五センチの大男である。
橋本司令は笑いながら、
「手を伸ばすと、何か気持ちのわるいものに触れたと思ったら堀内のひげだった」
と、やり返す。堀内司令は十五センチほどの豊かなひげを蓄えている。生死を共にしてきた二人の司令。片や音に聞こえる帝国海軍落下傘隊長、片や金鵄勲章を二つももらっている海軍陸戦隊の猛者。共に油の乗り切った海軍中佐の友情に、聞く者一同、笑いの中にも感銘を覚えたひとときであった。

昭和十七年四月二十七日 メナド出港。
略)
そこへ、昨日のランゴアンでの送別だけで満足できずにトラツクで山を下ってきた郡長、村長、その他の村人たちが、最後のお別れに近寄つてきた.司令の白手袋の手を握る六尺のモゴットの郡長は、堪えきれなくなって司令に抱きつき、男泣きをしている。泣きはらして目を赤くした少女が、打ったようにしゃくりあげながら司令の前で腰を二つに折って挨拶している。
三十人ほどの若者がかたまって、「司令殿がいなくなって、ランゴアンの私たちは寂しくてしかたがない」との趣旨の「堀内司令を讃える歌」を、涙を流しなから歌い出した。司令の目も赤く濡れている。そばに立っている私たちに、
「別れるということは、実に辛いものですね」「五十のおやじに泣かれるのには実際参る。本当に嘘がないですからね」
と、言われた。美しい別離の光景である。
いよいよ司令も乗船する。
「いろいろと貴重なご教訓をいただいてありがとうございました。武運長久をお祈り申し上げます」
と、申し上げる私の目にも熱いものがあふれてきた。
「どうぞしっかりやってください」と言う、優しい勇将堀内中佐の目は、高僧の目のごとく澄んで濡れていた。鼻水をハンカチでかみながら、ランチのほうへ歩き出された。
勇将の目に涙あり別離の日
引用終わり 「堀内海軍大佐の生涯」p159~164

堀内大佐の人間性を感じさせてくれる文章です。上原氏のこの著書には角田氏の後からセレべスに派遣された久保田義麿氏(後の国立国会図書館館長)の事も書かれており、久保田氏は昭和四十五年六月二十七日付け「週刊新潮」の掲示板コーナーにおいて
着任して驚いたのは、半年ほと前に進攻し、すでに移動していた堀内海車中佐の落下傘部隊が、原住民に深い愛情をもって語られていることでした。堀内さんといえば例の海軍体操の発案者。その後、念願の会見をしたときには、「罰を厳しくするよりは、罪を犯させない配慮がなにより」ということを話ってくれたものです。
腰布ひとつの島の女たちに胸を覆う布を配布し、日本兵との事故を防いだのもそのひとつとか。
(注・当時のバリ島では男女ともに上半身は裸であったという)やがて私自身もフロレンス島の民政統治をゆだねられ、堀内さんの教えは島民と心を交わす一助となりましたが、その私にどうしても解せないのは堀内さんが戦犯として現地裁判で処刑されたことです。ご遺族や部隊のかたがたに、事情を教えていただくかあるいは書いたものでも読みたいと思います。
という投稿をし、それに対して、多くの方々から「オランダによる報復裁判」「堀内大佐は部隊長としての責任を一身に背負って刑に服した」などと書かれた手紙が久保田氏宅とどいたそうです。
久保田氏はそれに対して
「いまさらながら大佐の偉大さに一層打たれるものがございます。本当に立派な方を失ったものと痛惜の念にたえません。(中略)私は、堀内大佐を日頃尊敬申し上げておりましたが、これを機に、さらに大佐の尊いご精神を体し、微力ながら、世のため、国のために献身的努力を捧げたいと誓っております」
とういう返事を出されたそうです。

抜粋集よる堀内大佐について
金曜日に「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 ー福祉友の会・200号『月報』抜粋集ー」が届く。これは新聞に発売の事がニュースとして掲載された時に購入したいと思いながら、ついつい延び延びになり、お願いした時点で、編集責任者の坂根氏から「もう全国の図書館に配る分だけしか残っていないので、お分けする分は無くなってしまいました」と御連絡をいただき、「増刷の時にはよろしくお願い致します」と返事を出したものの残念に思っていたところ、後日、坂根氏から大丈夫ですという御連絡を改めていただき、心待ちにしていた本です。
まだ、一部分しか読んでいませんが、興味深い話が山盛りです。少しずつ紹介していきたく思っています。転載禁止ですので、先人のエピソードという形での引用しての御紹介になります。その中のひとつに東北大学医学部・名誉教授の福岡良男氏の「医師が見た大東亜戦争ー巡回診療で知った堀内豊秋海軍中佐の善政と民族意識ー」というページがありました。
以下引用
このミナハサ地区に降下し、オランダ人を数日で駆逐したのは海軍の落下傘部隊であったが、部隊長の堀内豊秋海軍中佐が、現地住民を非常に大切にし平等に取り扱い善政をひいたために、住民の対日感情が非常によいということがあとでわかった。
また、オランダのインドネシア傭兵捕虜を、直ちに釈放したことも現地住民の対日感情を一層よいものにした。どこの村落にいっても「ニッポン インドネシアサマサマ(平等)」「ホリウチタイチョウ ジョウトウ」「ニッポンジョウトウ」といって親指を上に向け歓迎してくれた。堀内豊秋海軍中佐におくれて現地の守備の任に着いた陸軍は、堀内海軍中佐の善政の恩恵に浴した。
堀内豊秋海軍中佐とその部隊がバリ島に移動するとき、落下傘の降下地区のガラビランとラングアン地区の住民数百人が、別れを惜しみ六十キロの道を歩いてメナドまでホリウチ部隊を見送りに行った。
引用終わり 抜粋集p327より

福岡氏のインドネシアとのつながりについては別の機会に取り上げる事ができればと思っていますが、何度も書きますようにオランダはインドネシアにおいて徹底的な愚民政策統治をとったので、日本がインドネシアに侵攻したときには医者が七万人に一人しかいなかった(宮元静雄氏元ジャワ派遣軍作戦参謀談 「日本の心を語る34人」明成社刊p221 元南方特別留学生でもある元バハリン・ヤヒヤ氏 インドネシア外務大臣との対談にて)
そのような当時の状況の中で、福岡氏は医療に恵まれていなかった現地住民から無料巡回をしてほしいという要請に応えて、「責任は俺がとるから」という先任軍医坂方眞三大尉の厚意と、坪井定男准尉の員数外の薬品は自由に使ってよいという申し出と真野晃主計少尉の影での援助などにより、無料巡回診療を続けられ、現地住民の人々に感謝されたそうです。

B・C級軍事裁判
まず、下記の表を御覧戴きたい

裁判主催国 アメリカ イギリス オーストラリア オランダ フランス 支那(中華民国) フィリピン
起訴人数 1453 978 949 1038 230 883 169
死刑 140 233 153 226 26 149 17
終身・有期刑 1033 556 493 733 129 355 114
無罪 188 116 267 55 31 350 11
その他 89 83 36 14 1 29 27
合計
起訴人数 5700
死刑 934
終身・有期刑 3413
無罪 1018
その他 297

これ以外にソ連ではおよそ三千人、中共支那では三千五百人といわれている。
田中宏己著「BC級戦犯」より

戦勝国の報復・リンチであるいわゆる戦犯裁判において公開裁判の形式をとったA級裁判といわれるものに比べてB・C級裁判はほとんど非公開でおこなわれた。
この表を御覧いただければ、なお歪んだ一面が浮かび上がる。表に現れていないソ連の国際法違反による終戦真際の火事場泥棒といっていい一方的開戦による十日たらずの戦闘にもかかわらず、そのロシアという人種の特性をよく示している戦中戦後の暴行・暴挙による虐殺。そしてソビエト抑留という名の虐殺をおこなったソ連に裁判を行うべき資格がないのは当然であるが、イギリスとともに死刑・有罪数が多いのは、我国に対して侵攻後わずか一カ月の十七年二月に降伏したオランダの異常な死刑判決・有罪判決の多さである。これは復讐裁判といわれる戦犯裁判を端的に表している例です。

堀内大佐を裁いた裁判官について
オランダは戦後、日本軍の攻撃で逃げ出した後に降伏して捕虜になったオランダ軍のメナド付近の守備隊長をしていた男が終戦後、急に居丈高になり、自分達と違って現地で慕われていた堀内大佐に報復感をいだき、卑怯にも自ら裁判官となり大佐を銃殺にしました。(この事は中堂観恵元海軍少将が、戦後オランダ大使館武官より聞いた話として手記に書いている)

この卑劣なオランダ人裁判長の名は元歩兵大佐F・W・M・ティウオン(F・W・M・Tiwom)という。
他にJ・H・Warowo  W・G・VAN・de Leasar
の二名を加えた卑劣なオランダ人三名により、
多くの戦犯とされた先人の皆様がそうであるように、オランダの復讐裁判により堀内大佐は無念にも銃殺刑に処されました。
下記の証言もこの裁判の異常さをよく証明している。
「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」(昭和二十年代後半名古屋大学の学生だった堀内大佐の遺児堀内一誠氏が東京都内に住む堀内大佐の弁護人だった井手諦一郎氏を訪ねた時の井手氏の証言)
つまり裁判長自ら弁護人を脅迫し、強制送還していたのである。

「とても弁護できるような状態ではなかった。充分な審理がおこなわれず、法廷が開かれた回数も極端に少なかった。いきなり判決が下されたような状態だった。弁護人として発言の余地がなかったので、私は、自分が何のために来たのかわからないと、裁判長を問いつめた。裁判長は一瞬詰まった様子だったが、『それは、被告が日本国民であるからだ』と答えた。これほど露骨な報復感情を込めた言い方はない。はじめから裁判の形をなしていなかったのだ」
(昭和二十九年にたずねた緒方健一郎氏に対して井手氏の言葉)
オランダ人は先人によるこの史実を永遠に恥じなければならない。

堀内豊秋大佐の生い立ち
11月1日火曜日はれ ×
熊本県飽託郡川上村大字四方寄五六八 (御馬下)に堀内将直の次男として明治三十三年九月二十七日に生まれる。(西暦1900年)
豊作に恵まれた年にちなみ「豊秋」と命名される。
大正二年三月御馬下尋常小学校(現在川上小学校)卒業
大正三年四月
明治十五年に同心学舎を前身として開校した濟々黌中学(現在の県立濟々黌高校に)に入学する。
堀内家は代々庄屋を務め、古くから質屋をいとなむとともに、年間百石あまりの米を仕込む造り酒屋としても近郷にきこえていた。
江戸時代は家業の傍ら豊前街道を往来する大名の休憩所として屋敷を提供し、地名を取って「御馬下の角小屋」と呼ばれていた。千平方メートルにちかい敷地の中に建つその白壁の土蔵造りの建物は昭和六十一年一月に堀内家からの寄贈で、北部町の文化財として指定され、町が市に編入された現在は市の管理となっています。
(角小屋とは堀内家の屋号だそうで、小屋とは店の意味だそうです)
堀内将直は俳句や書もよくした無類の読書家であった。読書のあいまには坪井川に釣り糸をたれた。漱石の小説に出てくる高等遊民の趣があり、生業で自由な時間を邪魔されることのない身分であった。そして妻の縫は男勝りのしっかり者で、夫に変わって家業を切り盛りしていた。豊秋は父親から教養人の素質と思いやりの心を、母親からは艱難に屈せぬ強い意志とその奥に秘めた優しさを受け継いだと上原氏の著書にあります。

さらにこの著書によりますと、将直はメジロやホオジロを飼って鳴き声を競わせるこの地方の風習が子供達のあいだにあり、それをやろうとした豊秋に対して、「鳥の声を聞きたけかなら、裏の竹林で聞かばよか」といって生命の大切さをさとしたそうです。

堀内豊秋大佐の年譜
明治三十三年九月二十七日熊本県飽託郡川上村大字四方寄五六八 (御馬下)に堀内将直の次男として生まれる。(西暦1900年)
豊作に恵まれた年にちなみ「豊秋」と命名される。
大正二年三月御馬下尋常小学校(現在川上小学校)卒業
大正三年四月
明治十五年に同心学舎を前身として開校した濟々黌中学(現在の県立濟々黌高校に)に入学する。
大正八年三月卒業
同年八月 十八歳 海軍兵学校入校
大正十一年六月一日 二十二歳 海軍兵学校卒業
同年六月26日 横須賀発、練習艦隊に乗艦、北米、パナマ運河、南米、南アフリカ、東南アジア巡行の世界一周遠洋航海
大正十二年二月帰港
大正十二年九月二十日 23歳 任官海軍少尉、戦艦長門乗組、第五駆逐隊付被送付
大正十四年九月二十一日 霞ヶ浦海軍航空隊飛行学生被送付
同年十二月一日 任官海軍中尉、免霞ヶ浦海軍航空隊飛行学生
昭和二年十二月一日 任海軍大尉
同年十二月一日 海軍砲術学校高等学生
昭和五年十二月一日 補海軍兵学校共感兼監事(第一回)
昭和六年十二月一四日  三十一歳 福村可寿と結婚認許。
岡山市でデンマーク体操チームの演技見学。研究開始
昭和九年十月二十三日 三十四歳 補海軍砲術学校教官兼分隊長
同年十一月一五日 任海軍少佐
昭和十二年十二月一日 補五十鈴(軽巡)砲術長
昭和十四年三月五日~九月八日 妙高、長良、名取、掃海艇に乗艦を順次変更
同年十一月十五日 三十九歳 補廈門方面特別根拠地隊付
同年十一月二十五日 第二遣支艦隊軍法会議判士を命ず
昭和十五年十月十五日 四十歳 補海軍兵学校教官兼監事(第二回)
同年十一月十五日 任海軍中佐
昭和十六年九月二十五日 補横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)司令、落下傘部隊隊長となる
昭和十七年一月十一日 オランダ領インド(インドネシア)・北セレべス(北スラウェシ)の要衝メナド方面に海軍落下傘部隊司令として降下。ランゴアン、ジャワ島各地司令
昭和十八年一月十五日 台湾東港海軍予備学生教育主任を承命服務。高砂族教育主任
同年十二月五日 補高雄(重巡)副長
昭和十九年三月九日 海軍体操改正、体位向上の実績まことに大なる功により大臣表彰
同年五月一日 四十三歳 任海軍大佐
昭和二十二年一月六日 B級戦争犯罪容疑にて巣鴨プリズンに収容される
昭和二十三年一月二十九日 北スラウェシのメナドでオランダ軍により起訴される
同年五月十二日 死刑の判決下る
同年九月二十五日 四十七歳 メナドで銃殺刑

昭和四十年二月十日 金子啓蔵氏(元海軍嘱託で戦時中セレべス民政部勤務)により遺骨が御遺族のもとに帰る。
昭和四十四年十一月二十九日 叙勲正五位勲三等旭日中綬章