<河田宏のデタラメぶり>

<「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)のデタラメぶり>

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)のデタラメぶり
平成26年7月31日木曜日晴れ△
「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)を読む。

どういうわけか在日朝鮮人の恥である犯罪者の金嬉老と護国の英雄である大東亜戦争の元帝国陸軍軍人・河田清治陸軍少尉(二階級特進で大尉)を題材にしているこの河田浩という著者の考え方は本を読んですぐ理解出来ます。

朝鮮について
朝鮮の美しさとして「美しき朝鮮」という項まで設けて下記のように書いている。
<美しき朝鮮
盧龍愚が生まれ育ったころは美しい入江であったろうと想像される。
略)
夕暮れ時、京畿湾に沈む真っ赤な太陽は村を茜色に染める。子供を家に呼び戻す母親の声が微風にのって聞こえてくる。
「ヨンウヤー・・・・・」
朝鮮の美しさ、母の叫び声、これは盧龍愚の原風景である。>
p一六
我が国について
<日本の静岡県清水市築地町で生まれ育った金嬉老の原風景はきびしいものであった。
略)
夕暮れ時、嬉老は幼い妹とオモニの引くリヤカーに乗って清水港の岸壁をいく。それが金嬉老の原風景であった。清水港に夕陽は無い。暗く寒々と闇が迫ってくるだけだ。>
p一九

日韓併合および創氏改名について
<韓国が植民地化されていた三十六年間は亡国の時代であった。韓半島は地理的な位置もあって他民族に侵攻されることが多かったが、そのつど歴代王朝というより民衆、後に義兵といわれる民衆の力ではね除けてきた。
他国の影響下になることはあっても、他国に支配されたのは日本の植民地にされた一九一〇年から四五年までの三十六年間だけなのである。長い朝鮮史の中で国として存在しなかった暗黒の時期なのだ。なかでも、韓国人最高の徳目である家系を示す姓名を日本風にかえさせられた一九四〇年から四五年までの五年間は屈辱どころか、族譜から抹消したいに違いない。悪い事をした人を、諺に「姓を変えるもの」という国柄なのである。韓国では暗黒期という。
盧龍愚はその時期に河田清治という日本軍人になって戦って死んだ人物であった。親族が語らないのは止むを得ないのかもしれない。
なお、韓国及び日本における植民地時代の研究は、現代史のテーマとして近年かなり進められているが、創氏改名され、いわゆる皇民化された時期については、特に韓国に置いては空白になっているように思われる。>
P二十一~二十二
これについては何度も書いていますが、創氏改名は天下の愚作であると思いますが、朝鮮人が金だとか朴という支那風の氏を名乗るようになったのはどうしてだという事を考えないアホウ。
創氏改名の誤解
堤岩里キリスト教会事件について
<盧龍愚が生まれた一九二二年は、三・一独立運動で韓国全土が万歳の声で沸き立ってから三年目になる。運動を弾圧した日本軍は、芝花里から六十キロほど南東にある同じ華城郡内の堤岩里でキリスト教徒二八名を教会に閉じ込めて焼殺するという事件を起こしている。さらに隣の采岩里では民家三一戸に放火し三十九名を虐殺している。この事件はアメリカ人宣教師が写真撮影して本国に伝えたので世界中に知られてしまった。>
p二十二
この御仁の書く虐殺事件の真相については
「水源郡堤岩里教会事件」の真相

続いて下記のように書く。
<目に見える形では、弾圧の前面に出ていた憲兵の姿が消えた。代わりに警察官を大増員して、面、里の隅々まで派出所を設けた。かえって監視体制は厳しくなったのだが、民衆の目には「文化統治」に映ったかもしれない。この時朝鮮人を警官補に六千人も採用している。官吏にもかなり登用した。>
p二十三
河田氏が書く厳しい監視体制とはどういったものであったのか。
朝鮮半島においては、警察官は、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

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「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店(中川氏は「総監府時代の財政」友邦協会p一二二より引用)

朝鮮半島において、日本人より偉かった朝鮮人

河田氏の書くように警官補(巡査補のことであろうか?)を六千人増員したとしても合計一万二千人である。   一九二〇年当時の朝鮮半島の人口は一七〇〇万人面積二十二万キロ㎡。つまり東北六県と北海道を足した面積に一万二千人が配置されていたことを厳しい監視体制という。一四一六人に一人の警察官である。我が国は現在都道府県別に見て一番多い東京都は四万六千人の警察官で一人当たり二八一人の都民を守っている。
約一万二千人の警察官は都道府県別には兵庫県、北海道、千葉県、埼玉県などであるが、それぞれ警官一人当たり四五九人、四六六人、四九三人、五八三人の県民、道民を守っている。
つまり、我が国は河田氏によると当時の朝鮮半島より厳しい監視国家ということになる。

あほらし

カミさんの朝ビールの残骸。

加藤さん二人様で来店。
ユーさん御夫妻来店。
Oさん来店。
二名様来店。
Mさん二名様で来店。
ドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。
「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)のデタラメぶりその2
8月1日金曜日晴れ×
土地調査事業について
<東洋拓殖株式会社、朝鮮を未開地とみなし日本農民を移住させる目的で設立した会社だが、日韓併合後の土地調査で収奪したり、買収した農地から五割以上の小作料を徴収した。>

これについての反論は下記を参照していただきたく存じますが、酷いデタラメです。
土地調査事業我が国の朝鮮統治と小作農家
南朝鮮の土地測量事業とウソ 朝鮮における土地政策(農地改良)
我が国は植民地政策、併合政策において他の欧米諸国の植民地政策、併合国家に対する政策とはまったく違う政策をとっている。

<総督府の下級官吏であった父親は、朝鮮人官吏は高学歴でも昇進が難しい事を知っていたので、実業界で生きた方が良いと判断したのかもしれない>p四十四
朝鮮半島において、日本人より偉かった朝鮮人
これについても何度も書いていますが、朝鮮人でも知事までなっています。 朝鮮人の下について多くの日本人が働いていたのです。
一九三一年よりの宇垣一成朝鮮総督の朝鮮治政について
<彼が朝鮮に来てまず着手したのは「農村振興運動」であった。全人口の八十%は農民である。その農民が日本内地の農業恐慌に連動して、一段と酷い状態になっていた。
略)
ほとんど総ての農家が高利の借金で崩壊かその寸前になっていた。宇垣は金融組合を全道の各面に造り、この組合の強権によって低利の融資に変更させた。それを直接指導したのは公立普通学校長と駐在所警察官である。彼らはそれだけでなく、土地の生産性を高める施肥の方法から生産物の多角化、例えば「南綿北羊」という流行語を生んだ南部では綿花の増産、北部では綿羊を奨励し、さらに営農計画を具体的に指導した。しかもそれを個別にやったのである。こうして総督府の方針は面里の隅々まで食い込んでいった。
これが第一の効果。第二の効果は、この政策が多少の経営基盤のあった自作農、小自作農にとってはある程度有効であったことだ。計画どおりにいけば五年で借金は返済され、土地の生産性も上がるので、多少の余剰も生まれる可能性も見えてきた。努力すれば何とかやっていけるという希望を与えた。>
これがどこが悪いのであろう。すばらしい施政であると思うのだが、河田氏によると下記のようになる。
<こうして農民は体制側に組み込まれていった。第三の効果は面里まで張り回された組織は、宇垣の次の南次郎総督の代になると三十八年からの志願兵兵、四十四年からの徴兵制、さらに強制連行のために機能した事だ。>
p四十五~四十六
また朝鮮の工業化についても
<宇垣が最も力を入れたのは朝鮮の工業化であった。朝鮮を大陸進出の兵站基地とし、日本の戦時総力戦体制に組み込む為である。しかし、近年になって、これで朝鮮工業化の基礎ができたとする見方も出てきた。いづれにしても、この政策によって朝鮮の社会構造に変化が生じたことに間違いない。
宇垣は金融税制で優遇し、今でいうと工業特区を設けて日本企業を誘致した。朝鮮にはまだ工業法(労働基準法)もなく、環境に留意する必要も無い。企業にとってこんな有利な条件はない。満州事変後ようやく不況から抜け出した企業は、豊富な資源と安い労働力を求めて次々に進出してきた。朝鮮の全生産額のうち工業生産額は一九一八年には十八%に過ぎなかったが、宇垣の政策によって三十年代末には四十%に達している。
それに伴って朝鮮人経営の中小零細企業が急増する。それまでにも生活に結びついた軽工業的な小企業はあったが、この時期になると大企業の下請けなどで機械工業が急成長する。朝鮮人労働者も増える。戦争が拡大すると日本人熟練労働者が次々と徴兵されていくので、朝鮮人労働者がそれに代わって高度な技術を身につけるようになる。>
p四十七
<興南のコンビナートに動員された朝鮮人労働者は亜硫酸ガスや塩素の臭気の立ち込める劣悪な労働環境で低賃金、長時間労働を強制されたわけだが、それだけではない。彼らの中から技術を習得し知識を蓄積していく者が出てくる。この時期になると中学、専門学校出身者も多くなるので、この人たちの中から管理、経営のノーハウを身につける人もいた。朝鮮の、朝鮮人の強靭さと能力をそこに見るべきだろう。
略)
宇垣は辞任した時「在任中に朝鮮は物心両面とも母国(日本)の進軍に貢献しえるよう基礎だけは出来上がっております」と自負していたが、朝鮮はこれを見事に逆手に取ったのである。独立後の経済発展の基礎としたのだ。>
p四十八

河田氏は自分が書いている事に矛盾というものを感じないようである。
河田氏によると我が国の朝鮮半島において治政は総て日本人のみの為であり、それを朝鮮人が後に朝鮮人の力のみで今の朝鮮を築いたように書いている。
朝鮮半島において、亜硫酸ガスや塩素の臭気の立ち込める劣悪な労働環境で働いていたのは朝鮮人ばかりではない。日本人は朝鮮人と一緒になって学んでいた。働いていたのである。
朝鮮は我が国が統治するまで醜い状態であり、それを近代的にしたのも我が国であり、そして、戦後、世界最貧国に転落した南朝鮮を経済的にも技術的にも救ったのもまた我が国である。
朝鮮人だけの力では決してない。

<孫優勝の朗報が入った八月十日には、京城をはじめ主要都市では人々が街に繰り出し、「バンザイ!バンザイ!」の声が溢れた。「マンセイ」は禁じられていたので「バンザイ!」としか叫べなかった。>
P六十一~六十二

南朝鮮の教科書にも「民族の言葉と歴史を学ぶ事が禁止され」と書いてあるが、我が国は朝鮮を併合した後、只の一度も朝鮮語を禁じた事はない。
朝鮮における日本語普及率
「一九四二年には全人口の二〇%に当たる五〇〇万人強の朝鮮人が日本語を解したのである」
中川八洋『歴史を偽造する韓国』のP五八(中川氏は森田芳夫『韓国における国語・国史教育』からの引用)
我が国が朝鮮人に対して「言葉を奪って」、日本語の強制をした結果がこの程度です。

朝鮮統治時代の教育
ハングルは日本が普及させた

あほらし
カミさんの朝ビールの残骸。

ウーちゃん、陽子さん、塩月さん、丸山さん、大野さん来店。
ホロンさん来店。
二名様来店。
ウチの店に来てくださっている一番古いお客様方。

昭和六十一年、早稲田で初めて店を開いた時はみなさん大学生であった。
ドンチャン。
一応記憶ありと思ったが、やっぱ、記憶がなかった。
サル以下。


「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)のデタラメぶりその3
8月2日土曜日晴れ
独立戦争とやらについて
<六月四日夜半、金日成の指揮する朝鮮人民解放軍(正確には東北抗日軍第六師だが通称こう呼ばれている)九十名が筏で鴨緑江を渡り、祖国光復会の八十名と合流、普天堡の公共施設数カ所を破壊、放火し、駐在所にあった銃器を奪って撤収したのである。
略)
問題はその後だ。恵山鎮の守備隊と警察隊一〇〇名が出動して鴨緑江の対岸まで追撃したが死者七名、負傷者十四名という壊滅的打撃を受けてしまった。
略)
連日掲載された記事を読んでいくと鮮やかな襲撃だったことがわかる。金日成という特定の人物名が繰り返し出てくるので現実味が増す。>
P六十六~六十七

<反日武装闘争=義兵闘争は併合前から続けられていた。啄木がテロリストの悲しみと詩った安重根は中国東北部吉林省北間島からソ連領沿海州を根拠地とする大韓義軍中将なのだ。彼はテロリストではなく、大韓帝国の軍人として戦争したのだ。
略)
彼は単身でハルピン駅頭で伊藤博文を射殺した。彼の義挙は朝鮮人一人ひとりの心に刻み込まれた。>
P六十八

<中でも金佐鎮率いる北路軍政署と洪範図率いる大韓独立軍約二千名が、吉林省青山里一帯で四日転戦しながら五千名の日本軍を破った戦いは、朝鮮独立戦争史上最大の勝利であった。>
P六十九

嘘が国技の朝鮮人の言う事を何も調べずにそのまま書いているこの河田という御仁ははっきり言って、どうしようもないドアホです。

安重根の伊藤博文銃撃事件について、テロリストではなく軍人としての戦闘行為であるとは笑止。軍人であっても軍服も着用する事無く政府要人である身に寸鉄もつけていない無防備な伊藤博文を射殺すれば単なるテロリストです。軍人とはどうして軍服を着るか。軍人と民間人との区別を付ける為です。これは義勇兵でも同じで、制服なり徴章なりを有しなければいけません。民間人のふりをして戦闘行為を行えば便衣兵として国際慣習法にて即刻射殺されても文句は言えません。
南朝鮮が潜水艦の艦名にまでしている金佐鎮は単なる山賊です。
金九および閔妃について
<一八九五年朝鮮王朝の王妃閔妃が王宮内に侵入した日本人に殺害され、焼き捨てられた。閔妃暗殺である。彼はまさに怒髪天を衝くごとく怒りを発し、偶然出会った日本人将校を殴り殺し、その血をすすって怨みを晴らした。その時彼は二十歳。『白凡逸史』でその詳細を知る事ができる。撲殺した将校の日本等を奪ってメッタ切りにし、その血を手で掬って飲むというほどの激しい怒りであった。
それから14年後の一九〇九年に安重根は伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した。彼は公判廷で、射殺の理由の第一に閔妃暗殺をあげている。この事件を日本の国家犯罪とみていて、事件当時の総理、伊藤博文を誅殺したのだ。
これほどの怒りを民族が共有しているのである。日本人である私たちはどうしたらよいのか。>
P七十四~七十五

これについてはこれまで何度か引用させていただいた事があるが、昭和十一年、京城帝国大学を卒業後、高等文官試験(行政科)に合格し大東亜戦争終戦まで朝鮮総督府に警察官僚として務めた坪井幸生氏は著書「ある朝鮮総督府 警察官僚の回想」に「戦時下朝鮮に不穏分子の策動無し」と題し下記のように書いています。

<保安課は一言で言えば、政治警察を主管する課であった。朝鮮に関する一般情報や政治情報を集め、総合的に判断して統治の資とする。
そして、治安維持法等の運用を主管し、その違反事件を検挙するための課である。
そのための特別高等警察係(特高係)は、共産主義による独立運動などを中心として、監視、捜査を指導する。高等警察係(高等係)は、民族主義などによる独立運動などを中心として対処するという二つの大きな係が伝統的にあった。そこに新しく第三の柱として外事係(外事警察係)が加えられた。その他にも内鮮係、宗教係、水平運動係、右翼係など、取り締まり対象などによって諸係があった。
略)
特高係も高等係も事件らしい特別の事件はなかった。一部反戦的言動を表するものはいたが、社会一般の銃後奉公の大勢に圧倒されて、問題にはならなかった。過去の事件関係者などにも目立った動きはなく、運動展開の企図を有する者はみな海外に脱出して、そこから遠隔操作で目的を達しようとしたが、まったく効果はなかった。
海外では一部の者によって「光復軍」や「朝鮮義勇隊」の旗揚げもあった。しかし、前者は民族系で蒋介石の国民党軍に依存しようとしたものの問題とならず、後者は共産系で、毛沢東の共産軍の指導下に組織の拡大を図ったが、結果的にはあまり重要視されなかった。
(戦後、この「朝鮮義勇隊」の後身の一部は北朝鮮の建国に参加しようとしたが、金日成によって粛清・抹殺された)
結局のところ、いずれも一部の気勢劇に終わり、朝鮮内にはほとんど影響する事はなかった。>
p一〇〇~一〇二

続いて、坪井氏は当時の朝鮮半島内の情勢につき具体的な数値をあげ下記のように記している。

<朝鮮内は滔々として戦意高揚一色となり、兵役義務のない朝鮮青年の中にも軍人志向が高まり、日本軍人を志願するものが急増し、昭和十三(一九三八)年、朝鮮総督府陸軍志願者課が新設されたのである。
志願者に対する採用者の比率を見ると、昭和十三年の二九四六人中、採用され、訓練後に正式に軍人として入営したのは一九二人であった。其の後の応募倍率は、昭和十四年が二〇・五四倍、同十五年が二八・二五倍、同十六年が四八・二五倍という数字を示している。
ちなみに、それ以降は徴兵制施行方針が決定された。
この雰囲気の中では共産主義者なども蠢動の余地はなく、のちに北朝鮮建国後に朝鮮共産党を代表するとして金日成の対抗勢力を標榜した朴憲永も、光州の煉瓦工場に工員となって逼塞し、全く活動していなかった。
戦時下の朝鮮は、戦後にいわれる評価とは裏腹に、まったく間然するところなく戦意高揚、日本国力の重要構成部分として、それと一体に機能したのである。>
p一〇二

そして、これは呉善花氏なども指摘していることであるが、坪井氏は朝鮮内の日本人の人数などに触れて下記のように書いています。

<当時の朝鮮の全人口は三千万余、その中の日本人は七十万余に過ぎなかった。日本人がいかに指導的立場にあるとしても、その量的比重はあまりにも差がありすぎた。朝鮮はあくまでも朝鮮人の朝鮮として在ったことは間違いのない事実であった。
朝鮮では京城をはじめ都市の占める地位は相当重要なウエイトを持っていた。しかし、人口比や地理的占有率からすれば農村の持つ社会的比重は比較にならないものがある。その農村の人口構成は、村人全員が朝鮮人であったと言えるのである。日本人は駐在所の巡査か小学校の校長がいるだけというところも少なくなかった。
そして、その邑(町)や面(村)を支配する邑・面の事務所は、邑長、面長以下職員全員が朝鮮人であった。また、戦時下の召集によって日本人警察官多くが朝鮮から姿を消し、第一線の警察官の半数以上が朝鮮人であった。
これは朝鮮は朝鮮人の朝鮮であるといいことであり、その朝鮮人による朝鮮が日本の一部として完全に一体化して世界戦争を戦ったのであった。>
p一〇三
そして、坪井氏はこの章を
<今は当時の朝鮮をいろいろと誣い、非難する者が少なくない。だが、その中の何人がその実情を見聞、体験していたか。その主張は妥当性ある証拠資料に基づいた確固たる立論であるのか、多分に疑わしいものが少なくない。私は、あえて当時の保安課に在籍した者の一人として、実地の所見をそのまま明言しておきたいのである。>(p一〇三)
と結んでいるがまさにそのとおりである。

「ある朝鮮総督府 警察官僚の回想」(坪井幸生著 荒木信子協力 草思社 平成十六年刊

戦時下における朝鮮独立運動の嘘

あほらし

今日のカミさんの朝ビール。

バンブーさん来店。
茨城よりAさん御夫妻来店。
Aさんとは「台湾フォーラム」の懇親会でお会いして以来。
直ちゃん来店。
「FLASH」に掲載された直ちゃんが次期横須賀配備空母「ロナルド・レーガン」に乗艦し取材してきた時、飛行甲板上で防音ヘルメットを装着したかっくいい写真。

ドンチャン。
記憶あり。
サルよりマシ。


「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)のデタラメぶりその4
8月3日日曜日晴れ
創氏改名について
<なんと言う事をしたのか。権力が特定の地域の住民の名前を変えさせたことはあっても、二千五百万もの民衆全員の名前を変えさせるとは、世界史上かってなかったことだ。>
P七十九
<本貫とは姓の発祥した地をいうが、具体例を、朝鮮韓国関係書著訳者金容権氏にとって説明すると、彼の本貫は金海金。慶尚南道金海が発祥の金氏である。この金海金氏も非常に多いので、いくつかの派がある。彼はその三覧派。三覧派の六十九代目には名前、ファーストネームに「容」がつく。これは百年も前から決められている。つまり金容権は名前を見ただけで金海金氏三覧派六十九代目とわかる。朝鮮人の名前はこれほど同族意識の強いものなのである。これは今も変わらない。>
P八〇

朝鮮人のいう族譜についての嘘についてはもう何度か指摘している。
玄大松氏(財団法人アジア太平洋研究会)の論文によると
<族譜を編纂時期別にみると、十五世紀に二十三点、十六世紀に四十三点、十七世紀に百四十八点、十八世紀に三百九十八点、十九世紀に五百八十点である。二十世紀には、一九四五年以前が四百十七点、一九四六年以後が六百八十四点である。(『姓氏の故郷』第3版、中央日報社、千九百九十年)編纂年度が不明な三百三点を含め、千九百九十年現在で把握されている二千五百九十六二点の族譜のなか、二十世紀以前のものが千百九十二点、二十世紀以後のものが千百一点である。現存する韓国の族譜の半分近くが二十世紀に入ってから編纂されたものであることが分かる。これは何を意味するのか。
略)

朝鮮中期まででも身分が低い人は名字がなく、出身地をあらわす本貫しかもっていなかった。韓国で誰もが名字を持つようになったのは身分制度が打破されてからであり、日本の植民地支配の過程で一九〇九年民籍法が施行されてからのことである。

では、今まで名字がなかった人々はどのように名字を付けたのであろうか。四つの事例がある。第一に、戸籍書記と警察とが本人の希望通り、あるいは適当に作ってあげた。第二に、奴婢の場合、主人の名字を使うことが多かった。第三に、出身地で最も多い大姓を名乗った。第四に、戸籍書記が記録のとき、漢字を間違ったのがそのまま名字になった。

改めて述べるまでもなく、十七世紀以降族譜の刊行が盛んであったため、族譜に名を連ねている祖先の多くの功績が文禄・慶長の役での活躍である。そして、彼らが公式的な文書、歴史物語のなかにも登場する。それと同時に、田舎には文禄・慶長の役で戦死した祖先を祀る霊廟が町内にあり、人々が参拝してはその祖先が成し遂げたことを回想する。祖先の物語が現在も生活の中に息づいているのである。
略)
しかし、前述したように韓国人のすべてが名字を持つようになったのは、二十世紀に入ってからである。
十五世紀に二十三点、十六世紀に四十三点、十七世紀に百四十八点に過ぎなかった族譜の刊行が、十八世紀に三百九十八点へと飛躍的に増えたのは、単に印刷技術の発達によるだけではない。族譜があれば軍役が免除されるなど、族譜をもつこと自体が特権であったためでもある。それゆえ族譜の偽造が大量に行われた事実は『朝鮮王朝実録』の記事にも散見できる。十九世紀末の身分制度の崩壊と、植民地時代での身分の変動に伴い、一九二〇年代には毎年族譜がベストセラーになったくらい、族譜の編纂は盛んになった。その多くが「作られた伝説」であることは言うまでもない。すなわち、いま各家庭で神聖なものとして奉られているほとんどの族譜が実は「幻の族譜」なのである。

十六-十七世紀には、姓氏さえも持っていなかった奴婢は全体人口の三十-四十%であり、人口の四十-五十%を占めていた百姓も族譜を持つことは不可能であった。にも拘わらず、現在韓国のほとんどの家庭が五-六世紀からの始祖から始まる族譜を持っている。族譜からみて、現在の韓国人は皆これまでこの国を作り、支配してきた王様か、両班貴族の末裔である。>
「族譜・アイデンティティ・日韓関係」玄大松氏(財団法人アジア太平洋研究会)
朝鮮人の族譜というウソ 

<朝鮮固有の文化を解体して、日本と一体化する内鮮一体、同化政策であり、近い将来に施行する徴兵制の準備だった。>
P八十一
<三八年二月に徴兵制の施行であった陸軍特別志願兵制度は初年度四〇六名の募集に対し二九四六名が応募。四〇年度は三六〇〇名の募集に八万五千名近くが応募している。実態は各面への応募者の割当があったからであり、深刻な問題としては農村の窮乏化があった。農村振興政策で吸い上げられなかった貧農層は、立て続けに襲った水害と干害で食も職も無い状態に陥っていた。兵隊の僅かな給料でも欲しかったのだ。だから、志願者の九割は小作農出身者であった。軍隊では給与に日本人との差がない。それに除隊後に警察官、下級官吏登用の途もある。応募に当たっては熱烈な願書や血判志願もあった。
略)
各家庭から壮丁(徴兵年齢に達した青年)を徴募するためには、日本同様の家族制度が必要だった。>
P八十一~八十二

創始改名は徴兵制の為に必要だったと言っているのです。
アホかと。

それ以外も

<朝鮮人にとって、創氏改名は自己のアイデンティティーを否定する事になる。伝統からの断絶を意味する。それだけでない。日本風の名字をつける事によって心が屈折し、かえって日本人との違和感はいっそう強くなった。結果として、総督府のいう内鮮一如から遠ざかる事になってしまった。>
P八十六
創始改名については何度も指摘しております。

創氏改名の誤解朴一の著書に見る創氏改名朝鮮と徴兵・徴用

下記の記述についても、著書の河田氏は矛盾というものを感じなかったのであろうか。
<金嬉老にも創氏改名はある。「清水安広」。その他に、一九六八年二月のいわゆる金嬉老事件を起こすまで近藤、金岡などわかっているだけでも七つの名前を使っていた。日本風の名前なんかどうでもよかったのであろう。
しかし、日本で生きていくには日本風の名前が必要不可欠であった。朝鮮人は日本内地ではマイノリティなのである。朝鮮人は朝鮮にいる限りは日本に抑圧されていてもマジョリティだ。朝鮮人という群の中で生きていける。ところが日本に上陸したその日から、彼らはマイノリティとして日本人にとして日本人と日本語に直接対応しなければならない。>
P八十七

朝鮮人がそれほど自分の名前に拘りがあるのであれば、別に日本名など名乗らなくても我が国では生きていける。多くの外国人は自分の名前だけで生きている。差別だ、名前を奪われたなどとほざきながら、偽名で生きているのは朝鮮人ぐらいである。
朝鮮人という人種の程度がよくわかる。

あほらし

私は店を片付けてから、横浜で友人と飲んできたカミさんと合流し、遅めの飯。
店に帰って生ゴミを出してから帰宅。
一応記憶あり。
サルよりマシ。


 

 

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