淡路島に帰省 鎧崎桜ヶ丘英霊墓地
10月8日月曜日晴れ△
日曜日から今日まで4日間河岸が築地から豊洲へ引っ越しで閉っているので、淡路島へ墓参りに帰省。
いつものように高速バスの停留所まで中学校のつれである前田のたっちゃんが迎えに来てくれていて、そのまま墓参りへ。
淡路島の古い墓にはご遺骨を入れる場所はありません。
今は淡路島でも火葬ですが、昔というか私の祖父、祖母の葬儀までは土葬でした。ご遺体は埋葬したままになり、お参りするのは単なる石である墓です。
ご遺体はそのままになり、時間が経つと何処に埋葬したのかもわかりません。
淡路島の新しい墓もご遺骨を納める箇所は小さく、ご遺骨の一部を半紙に包んで放り込むだけです。
うちの墓参りの後は前田のたっちゃんの車で送ってもらって終戦間際の昭和20年8月2日に散った最後の予科練と言われた「宝塚海軍航空隊第十六期甲種飛行予科練習生」82名が眠る「鎧崎桜ヶ丘英霊墓地」へお参り。
宝塚航空隊は教育部隊であり、飛行機のない予科練であり、そして多くは15歳から19歳の志願した若人であった。
親父もこの同じ宝塚航空隊甲飛十六期であったが、このときは鳴門要塞構築の機帆船には乗船していなかった。
鎧崎桜ヶ丘英霊墓地
由来
大東亜戦争の終戦を間近に控えた昭和二十年八月二日 宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生百余名は
杉本少佐指揮の下に 鳴門要塞増強工事の任務を帯び 鳴門市撫養港より期帆船にて鳴門海峡を横断
阿那賀港に向かって航行中 阿那賀鎧崎沖において 敵機の強襲を受け 一瞬にしてその大半八十二名は
壮烈なる戦死を遂ぐ あたら春秋に富む少年戦士の最期 洵に哀悼の情にたえず 爰に井植歳男氏を大願主と仰ぎ 十方各位の寄進を得て その顕彰碑と八十二基の墓碑を建立し 昭和四十年五月二十七日 盛大なる開眼供養を厳修する こえて昭和四十二年慈母観音像を建立し 同年十月五日 高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ開眼法要を厳修す 人の世に慈母を慕う心は永遠にしてまた尊し 祖国への至情に燃え散華せし空の勇者と雖も未だいたいけな少年なれば その心またひとしおならん 母の名を絶叫しつつ悲痛なる最期遂げし童顔を偲び 哀切の念やまず 茲に少年戦士の勲功に心から感謝の誠を捧げ 若き英魂の慈母の温かき懐に抱かれ 心安らかに眠らんことを願い 塚田正三氏等の発願により 満天下の善意を結集して 慈母観音像を安置し奉る 謹んで誌す
宝塚海軍航空隊予科練 鎧崎桜ヶ丘英霊奉賛会
甲飛十六期会 慰霊碑
碑文
こいねがわくは この淡路の地に 予科練といふ 童顔の防人ありて
壮烈なる戦死を 遂げられたることを いつの世までも 伝えられんことを
合掌
「鎧崎桜ヶ丘英霊墓地」は鳴門海峡を望む景勝の地にあります。
前田のたっちゃんと福岡氏と三人で今回も鳴門屋さんでお世話になりドンチャン。
記憶あり
猿よりまし