朝鮮人は戦後我が国で何をやってきたか その2

アメリカ人教授が見た戦後の在日朝鮮人
4月8日日曜日晴れ△

b0275b8efe36eff6d1d3c2db537c2952

のちのハーバード大学教授 エドワード・ワーグナー著『日本における朝鮮少数民族』は今まで三冊の訳本が出版されています。

元になったのは昭和三十六年八月に外務省が出版した本でその後に昭和五十年湖北社、平成元年に龍渓書社より出版されていて、幸いなことに三冊とも古本屋さんより入手でき比較することができました。

 

 

IMG_8454 のコピー IMG_8455 のコピー

昭和三十六年にだされた本にあって、他の訳本に省かれているものは、一番最初にある「本書の翻訳に当たって」と題された京城帝国大学卒で当時(一九六〇年当時)は外務省アジア局北東アジア課長であった前田利一氏(のちに一九八〇年代初めに駐韓大使)が書かれた昭和三十六年八月の文と、その次にある「序言」としての一九五一年五月三日の日付の駐日大使も務めたエドウィン・O・ライシャワー氏の言葉、そして著者による「自序」である。

スキャン 62のコピー スキャン 63のコピー スキャン 64のコピー スキャン 65のコピー スキャン 66のコピー

私がこの本を知ったのは鄭大均首都大学東京教授の著書「姜尚中を批判する」(飛鳥新社 平成二十三年刊)であった。

IMG_7412

鄭教授は『日本における朝鮮少数民族』よりの引用として、

<戦後の日本においては、朝鮮人少数民族はいつも刺激的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって先勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律は彼らに適用されえないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため日本国内に非常な混乱をおこした。 

占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。経済的領域における朝鮮人のいろいろな暴動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。 

1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引揚げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。 

このような、いろいろの要因および事件のために、日本人・朝鮮人間の伝統的敵対感情は一層深くなっていった。過去と同様に、戦後においても、在日朝鮮人社会は、日本人から不信と軽侮をうけ、また、日本人の一般的不満感のはけ口とされた>

Edward W.Wagner, The Korean Minority in Japan 1904-1950,Institute of Pacific Relations,New York,1951 「日本語訳『日本における朝鮮少数民族』外務省

(私は龍渓書舎 平成元年(1989)刊p2~3)

同書には鄭教授の引用以外にも興味深い箇所が多くあった。

緒言として鄭教授が引用した
<戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺激的な勢力であった。

数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に戦敗者の日本人に加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律は彼らに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱を起こした。

占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために、日本の重要産業たる石炭産業の再建は障害を被った。経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再興への努力を度々阻害した。1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育制度改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引揚げについては、占領当局が決定した政策を日本政府の手で実施しようとするのを妨害した。

このような、いろいろの要因および事件のために、日本人・朝鮮人間の伝統的敵対感情は一層深くなっていった。

過去と同様に、戦後においても、在日朝鮮人社会は、日本人から不信と軽侮をうけ、また、日本人の一般的不満感のはけ口とされた>
p2~3

<日本降伏直後に一朝鮮人団体が組織されて、日本在住の全朝鮮人ならびに、すでに朝鮮に引き上げた朝鮮人労働者のために活動すると声明した。
略)
表面は一種の生活擁護団体であったが、しかし中味は政治団体であり、共産主義ではなかったが、極左的であった。そして目的を達成するために、しばしば非合法と騒擾の手段に訴えた。連合国民の享有するべき権利と特権を朝鮮人に与えることを要求した。さらに特別待遇を与えるよう尨大にして執拗な要求をした。この団体の指揮下に朝鮮人は団結して日本の「帝国主義者」に対抗した。そして、占領軍もしくは日本の一切の官憲に対して筋の通らない極めて感情的な態度をとった。
日本降伏直後の半年ばかりは、朝鮮人はアメリカ占領軍のやり方、その全般的に同情ある態度から便益を得た。
略)
朝鮮人の各種団体が次々に行った過大な要求は、公式には決して承認されなかったが、しかし、はっきりと否定もされなかった。そして、若干の点では日本人以上の特権的地位を与えられた。
略)
朝鮮人の行う掠奪行為が確認・未確認を合わせて増大した結果、占領軍が当初朝鮮人に対して持っていた同情的態度は焦慮と敵意に変わった。こうした事情であったから日本に在住することを選んだ朝鮮人に対してやがて強硬手段がとられることとなった。全朝鮮人は引き上げる機会を与えられた。そして、引き揚げないものには、日本人のもたない権利は与えないことになっていた。彼らは日本国民として分類されることになり、他のすべての日本人と同様に日本の機関によって統治されるものとされた。
日本政府は朝鮮人問題を独自に処理するため、このような前進信号のでるのを長い間まっていたのである。極めて多くの朝鮮人が隊を組んで闇取引その他の不法行為に従事していた。彼らは公然と禁止行為を行い、日本の警察の干渉を無視してかかった。
略)
いかなる場合にも、朝鮮人の掠奪行為と要求は占領軍官憲に報告した。占領軍官憲の下にはたちまちこの種の報告が山のように積まれたが、日本当局者はこれらの報告を度々全体の関連から切り離して行った。そして、自分たちがいかに問題を処理する力がないかをアメリカ側に印象付けた。
略)
日本の一評論家は1939年次のように述べた。
「日本本土に定着した100万名近い朝鮮人が同化するかどうかは極めて興味深い問題である。彼らは二、三年経ったら、日本の言語・習慣・風俗を完全に吸収してほとんど朝鮮出身者たる痕跡を残さないであろう」
(T.Matsuzawa:”New Chosen”,Contemporary Japan,1939年6月463頁)
戦後日本における事態は右の意見がいかに完全な幻想であったかを証明することとなった。厳重な警察の取り締まりから解放された朝鮮人は、ここに楽観的に描かれたものと全く違った生き物であった。朝鮮人の同化力欠如、その本質的「朝鮮人根性」、しかもこの朝鮮人に変則的に日本国民という法的性格を与えたこと、ここに戦後日本における朝鮮少数民族問題なるものをおこした異常な混乱の根本がある。
p55~58

多数の朝鮮人が、その後、不法に日本に再入国しようと企てた。日本に帰りたいという願望は、大体、朝鮮における経済的圧迫によって促進された。これは戦争前の事情と同様であった。

しかし、また、日本にある財産を取り戻そうとするもの、日本の大学に入りたいというもの、事業を日本にもっているもの、やむをえない一身上の事情のあるものも多かった。しかし、日本へ旅行する許可をうることは殆ど不可能であったから、不法手段が用いられた。

1946年の7月と8月とで1万7,570名もの朝鮮人が不法入国を企てて逮捕された。(Scapin:Summation (Japan) No.24,1947年9月.33頁)

ところが、その他の多数のものは冒険に成功した。
p66

引用参考文献
鄭大均「姜尚中を批判する」鄭大均 飛鳥新社 平成二十三年刊
『日本における朝鮮少数民族』エドワード・ワーグナー著 前田利一(外務省アジア局北東アジア課長)訳 外務省  昭和三十六年刊 湖北社  昭和五十年刊 龍渓書社 平成元年刊

現在、我が国において朝鮮人どもは「差別だ、差別だ」と叫び、朝鮮人の犬である有田芳生は西田昌司をたぶらかし「在日特権保護法」の成立に成功した。

しかし、この本に書かれている朝鮮人どもの行状は戦後の混乱期においていかに醜いものであったかを占領軍の一員であった著者の目から見たものである。

なるべく多く引用し日記に残したいと思っています。

金慶珠」嘘つき腐れ朝鮮人東海大学准教授と不法滞在

今日は、ユーさんご夫妻とご近所のお店で肉ざんまい。

IMG_0877

その後はユーさんのマンションで磯自慢アダージョを飲む。
ドンチャン。
サルよりまし