拝啓 安倍内閣総理大臣殿  西川 清 一部追記

9月22日金曜日雨△ 10月8日日曜日一部追加
下記は産経新聞よりの引用である。
<安倍晋三氏とケネディ氏に送られた「慰安婦問題のデタラメ」を糾弾する手紙とは? 「朝鮮の真実」知る日韓古老が送る
2017.7.17 14:24産経新聞
【「慰安婦」裏話】
2年前、日韓の間で最終的かつ不可逆的に解決したはずの慰安婦問題が再び、蒸し返されようとしている。新たに就任した韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は日韓合意の見直しをほのめかし、アメリカでは、韓国・中国系住民の運動によって慰安婦像の設置の動きが止まらない…。こうなることを見越したように「慰安婦問題の虚構性」を糾弾する手紙を日米の政治家宛に書いた2人の日韓の古老がいた。いずれも日本統治下の朝鮮にいて「真実」を知る生き証人である。
■慰安婦問題をめぐる「事実ではないこと」を見逃せない
在米の韓国系米国人古老は、日本統治時代の朝鮮で生まれ、そこで教育を受けた。年齢は90歳に近い。戦後、韓国の名門大へ進み、朝鮮戦争に従軍。その後、渡米して帰化し、在米の大手企業に勤めた。残念ながら彼の個人情報はこれ以上明かせない。家族や親類にまで累が及ぶ懸念もあるからだ。
2年前、米国のキャロライン・ケネディ駐日大使(当時)宛に手紙を書いたのは、アメリカで慰安婦問題をめぐって「事実ではないこと」がまかり通っている事態を、どうしても見逃せなかったからだ。
「強制連行され、日本軍の性奴隷になった20万人もの婦女子」「かつてないほど残酷な20世紀最大の人身売買」…。2007年には日系のマイク・ホンダ米下院議員(当時)が主導して、日本の謝罪まで求めた決議が下院で可決された。在米の韓国・中国系住民の働きかけによって、各地で進む慰安婦像の設置計画。事実ではない“日本軍の蛮行”は、教科書にも掲載され、「日本人の名誉」はおとしめられるばかりだ。
ケネディ大使への手紙は、「(この問題が)東アジアにおける米・日・韓の同盟関係を弱体化させている」と始まり、事実の分析を踏まえた虚構性の根拠を個条書きにしている。
・狭い朝鮮半島から日本軍が20万人もの婦女子を大衆の抵抗もなく強制連行できるはずがない
・済州島での“慰安婦狩り”などを記した吉田清治氏の本が1989年に韓国で翻訳されるまでこうした「話」は聞いたことがなかった
・もし、実際にこうしたことが行われていたなら朝鮮にいた欧米の外交官、宣教師、メディア関係者らが何らかの報告をしていたはずだ-。
■アメリカでの事態を放置すれば、子々孫々にまで禍根を残す
彼は当時、父親と済州島へ行ったことがあり、この問題が政治化するきっかけになった吉田清治氏が本に記した“慰安婦狩り”のような話は「一切聞かなかったし、日本の軍人が多数いるような物々しい状況にもなかった。だから(吉田氏の)本を読んだとき、おかしいと思った」とも答えている。
彼には民族を裏切る気持ちも政治的な意図もない。さらにいえば朝鮮人を含め、慰安婦の存在自体を否定しているわけでもない。
「当時は“おしん”の時代ですよ。家が貧しいがために、身を売られた若い女性は日本人にも朝鮮人にもいました。私も当時、朝鮮語の新聞で慰安婦募集の広告を目にした記憶があります。『親権者同伴、戸籍抄本持参で業者がいる旅館まで来るように』と書かれていたのが印象的でした」
こうした自身の体験や客観的な事実を踏まえた上で彼はこういう。
「前述のような話(日本軍が強制連行して性奴隷にした)は客観的に分析すれば、あり得ないと分かるでしょう。それなのに日本政府は事なかれ主義で謝ったり、お金を出したりした。アメリカでの事態を放置すれば、在米日本人、日系人、日系企業、旅行者…子々孫々にまで禍根を残すことになると思いますね」
彼の思いとは裏腹にアメリカでの事態は悪化する一方。歯がゆさが募るばかりだ。「僕はいうなれば『部外者』です。動いたのは義侠(ぎきょう)心のようなものかな。本来なら日本人自身がやるべき仕事でしょう。特に当時の朝鮮にいて実際に見聞きした日本人たちがもっと声を上げて、今こそ『真実』を証言すべきですよ」
■「軍や官吏の強制」は絶対にない
和歌山県田辺市に住む西川清さんは、大正4(1915)年生まれ、今月末で102歳になる。
地元の林業学校を出て、日本統治下の朝鮮へ渡り、総督府の官吏になった。やがて20代の若さで、郡の内務課長に抜擢(ばってき)される。郡とは内地で言えば、都道府県と市町村の間に位置する自治体の単位。内務課長は人事や総務、そして、戦時動労働員(官斡旋(あっせん)や徴用)に携わる職だった。
西川さんが安倍首相宛てに手紙を書いたのは平成25年。そこには「(韓国などがいう)従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行などに関係したことは絶対にありません。かく私が断言できるのは郡の内務課長を歴任した経験があるからです」とあった。
強制連行、私の耳に入らないはずがない
当時の行政系統は、朝鮮総督府→道→郡→(内地の市町村にあたる)邑(ゆう)・(さらに小さい規模の行政区分にあたる)面となっている。西川さんが携わった、朝鮮人の戦時動労働員は、総督府の指示によって、道・郡が邑・面に割り当てを行い、実際に人員を集める。
西川さんは「朝鮮に徴用令が適用(昭和19年9月~)される前から『徴用』と呼ばれていたが、その際には労働条件をきちんと提示し、納得した上で内地へ行った。待遇も悪くなかったし、殴る蹴るで無理やり集めるなんて絶対にあり得ませんよ。もし、軍などが婦女子を慰安婦として強制連行したような事実があれば、(内務課長の)私の耳に入らないはずがありません。慰安婦を募集していたのは女衒(ぜげん)とよばれた業者です」と話す。
■戦前、戦中の実態も知らず机上の空論をもてあそぶのは慨嘆に耐えない
記憶にあるのは、当時の朝鮮にあった娼家の姿だ。「カルボチブ(朝鮮語で娼家)」と居酒屋を指す「スルチブ」の2通りがあり、どちらの店にも、朝鮮人の若い女性の娼婦(しょうふ)を置いていた。公娼制度があった時代で、面事務所があるような街には必ず、2種類の店があったという。慰安婦になった中には、こうした店の女性も多かった。
手紙で西川さんは、「カルボチブ、スルチブの戦前、戦中の実態も知らぬくせに、いいかげんに机上の空論をもてあそぶのは慨嘆に耐えない」と憤りをあらわにする。慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野談話」の見直しを求めたが、返事は来なかった。
西川さんはいう。「(日本統治時代の朝鮮は)治安もよく、穏やかな社会だった。創氏改名だって強制ではありません。役所の上司にも同僚にも朝鮮人はたくさんいたし、仲良くやっていたんです。こうした『真実』をぜひ、知ってほしいと思いますね」(文化部 喜多由浩)>
http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/170717/plt17071714240007-n6.html

同じく産経新聞の記事より
<2015.11.16 11:00産経新聞
【歴史戦WEST】
「慰安婦狩りなかった」朝鮮総督府〝100歳生き証人〟が語る「強制」の虚構、事実ねじ曲げに憤怒

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朝鮮総督府官吏時代の朝鮮について振り返る西川清さん。「女性を強制的に慰安婦にしたなんてありません」と語り、誤った〝史実〟が国際的に広がっていることに憤った

慰安婦問題をめぐり韓国が「歴史戦」を仕掛けてくる中、元朝鮮総督府官吏の西川清さん(100)=和歌山県田辺市=が取材に応じ、「強制的に女性を集めることはなかった」と慰安婦募集の強制性を明確に否定した。11月上旬に行われた日韓首脳会談では、安倍晋三首相と朴槿恵(パク・クネ)大統領が慰安婦問題の交渉加速化で一致した。しかし、朴大統領は問題が日韓関係改善の「最も大きな障害物」と指摘しており、日韓の隔たりは大きい。昨年、朝日新聞が慰安婦に関する記事の一部誤報を認めたが、「日本軍による強制連行」の象徴として海外都市に慰安婦像が設置され、今も誤解が根強く残る。韓国側の反日攻勢に対し、当時を知る官吏の貴重な証言は、〝慰安婦狩り〟のような事実がなかったことを改めて示している。

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朝鮮総督府江原道の正式な官吏になったころの西川清さん=昭和12年ごろ(西川さん提供)

平穏な日本統治時代
セピア色の古ぼけた写真。満開の桜の下で肩を組む男性4人が写っている。「80年もたってこんな状況になるとは、当時露ほども思わなかった」。西川さんは見習い官吏だった若き日の写真を手に、ため息をついた。

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朝鮮時代、日本人と朝鮮人の同僚と花見をした西川清さん(左から3人目)。「差別感情はなかった」と振り返った=昭和9年、江原道の春川神社(西川さん提供)

写真は昭和9年春、朝鮮半島東部にある江原道(こうげんどう)の春川(しゅんせん)で撮影された。職場の同僚と行った花見の際の記念写真で日本人と朝鮮人が2人ずつ納まり、うち1人が西川さんだ。8~20年に総督府に勤めていた。
「差別感情はなく、同等という雰囲気だった。今、韓国が日本統治時代はすべて悪業として批判していることは、事実としてあり得ないことだ」
正式に総督府江原道の官吏になった12年当時、朝鮮には日本の県にあたる道が13あり、その下に市にあたる府と郡、さらに町村にあたる邑(ゆう)と面があった。職員の多くは朝鮮人。同僚や上司、知事や部長クラスの重席にもおり、分け隔てなく野球をやったり、飲み会をしたりもした。

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日本人と朝鮮人の同僚らと花見をする西川清さん(左手前)=昭和10年、江原道春川郡春川邑郊外で(西川さん提供)

 

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同僚と一緒に花見をする西川清さん(右端)=江原道の春川神社(西川さん提供)

「朝鮮人同士は朝鮮語を話していたし、朝鮮名の職員も多かった。何でもかんでも日本が強制したということはありませんでしたよ。ましてや女性を強制的に慰安婦にしたなんてありません」
歴史をゆがめた「河野談話」
韓国側は「20万人以上の女性を慰安婦として強制的に動員した」などと主張している。この誤った慰安婦強制連行説は、証拠資料や信頼に足る証言もないまま慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野談話を根拠に世界に流布され、朝日新聞などメディアの報道も後押しした側面がある。
西川さんは「併合時代の朝鮮は、むしろ治安が良かった。そして何より、女性を強制的に集めることがあれば、当時の朝鮮人が黙っていないでしょう」と韓国の主張を否定。「男性の徴用はあったが、だからといって軍や警察も一緒になって暴力的に連行するということは決してなかった」と証言する。
西川さんは昭和18年、江原道寧越郡の内務課長を務めた際、労働力不足を補うための労働者として男性の募集を担当した。19年9月以降は日本国民と同じく課せられた「徴用」となったが、18年当時は総督府自らが集める「官斡旋(あっせん)」方式だった。
西川さんによると、男性の労働力を集める官斡旋は総督府が道庁に人数を割り当て、さらに郡、邑、面に降りていく。前任者は10人の割り当てでも5~6人しか集められない状態だった。「だから村長ら住民のリーダーにきちんと説明して納得してもらうことが必要だった。軍については総督府と指揮系統は別だったが、仮に軍が慰安婦を集めていたなら、われわれの耳にも少なからず入ってくるはず。でもそんな話はなかった」と証言している。
「事実と異なる歴史像」元官吏ら2人も反論
「女子の強制連行があったような兆候を感じたことは一度もありませんでした」。元朝鮮総督府江原道地方課長で、「慰安婦強制連行はなかった」の著書がある大師堂経慰(だいしどう・つねやす)さんは生前、こう述べていた。
大正6年に朝鮮で生まれ、「戦前・戦時中を朝鮮で過ごした者の体験」として「慰安婦強制連行」を一貫して否定していたのだ。
「もしも万を数える女性の強制連行があったとすれば、その何倍の目撃者がいるはずだ」。平成15年の月刊誌「正論」3月号の紙面対談で大師堂さんはそう指摘している。強制連行が事実なら、住民の間に深刻な動揺と反発が起きていただろうが、実際は「発生したはずの(抗議運動といった)事象は何ひとつ起きていないのです」と断言していた。
《平和でのどかな農村にある日、突然日本軍が乗り込んできて無垢(むく)な娘たちを無理やり軍用トラックに押し込んで連れ去り、慰安婦にした》
韓国側が主張する慰安婦の強制連行は非人道性がことさら強調され、海外でもこうしたイメージが広がっている。
しかし朝鮮総督府の元警察官僚で、戦後に埼玉県警本部長や大分県副知事を務めた坪井幸生さんも生前、大師堂さんとの対談で韓国側の主張を真っ向から否定していた。「強制連行があれば、必ずトラブルが起き、田舎では日本人はとても普通の生活はできなかったと思う」
しかも、朝鮮に13あった道の警察部では、トラブルの情報は上がってこなかった。「朝鮮人の警察官も半分以上いたのが実情ですから。しかし、そんなトラブルは全く聞いていない」と語っていた。
大師堂さんは著書で、「私の体験した朝鮮とは全く異なった歴史像が作り上げられている」と、国内の偏向報道や韓国側の主張を疑問視。「総督府施政を抑圧と反抗の連続であったような伝え方がされるが、これは事実ではない」とも書き記していた。
安倍首相への〝直訴〟
平成5年の河野談話は、慰安婦問題に「軍の関与」を認め、募集について「官憲等が直接加担したこともあった」とした。日本の軍や警察による強制連行の論拠とされたが、政府が集めた公式資料に強制連行を裏付ける証拠はない。
元朝鮮総督府官吏、西川清さんは当時の朝鮮に、朝鮮人が経営する「カルボチビ」という売春宿があったことを記憶している。日本でも貧困から女性が遊郭に身売りされていた時代だ。
「朝鮮でも身売りはあった。こうした女性が朝鮮人の女衒(ぜげん)によって慰安所に連れられたことはあるだろうが、あくまでも民間の話だ。もしも日本の公的機関が関与していれば、絶対に文書で残っているはずだ」
国際的に誤った〝史実〟が広がっていることに憂慮を深める西川さんは2年余り前、日本軍や官吏による強制連行を否定する手紙を安倍首相に郵送したこともある。
「当時の朝鮮の仕組みを知る者からすれば、いわゆる『従軍慰安婦』は戦後に作り上げられた机上の空論です」
今夏に100歳となった西川さんは、事実がねじ曲げられた現状にいまなお憤りを感じている。>

この西川清氏の著書「朝鮮總督府官吏の最後の証言」には安部首相への手紙という文が掲載されている。
以下西川氏の著書よりの引用

<安倍首相への手紙
拝啓 安倍内閣総理大臣殿
和歌山県田辺市 西川 清 (九七歳)
日夜国事に精励されている総理大臣に対し、
名もなき一介の老耄がお手紙を差上げるご無礼をお許し下さい。

私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。
それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります。

結論から申せば、朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官が強制連行など関係したことは絶対ありません。
かく私が断言することができるのは、私が朝鮮・江原道の寧越群及び原州群の内務課長を歴任した経験があるからです。
以下、当時の状況等について申し述べます。
私は昭和八年に朝鮮に渡り、江原道庁に奉職致し、
敗戦により引き揚げてくるまで勤め、
その間一年間臨時召集により入隊しました。

朝鮮の行政は、總督府から道庁に伝わり、道庁から出先機関の群庁に伝わり、
群庁より府・邑・面(日本の市町村)を通じて施行されました。
(当時、江原道内には府はなく、邑と面のみ)。
群長は群守といって、殆どが朝鮮人で、その下に内務課、勧業課があり、
内務課長は殆ど日本人で、経験豊かな四十歳を越す属官で、
人事その他一般事務を司り、群庁の実権を握っていました。

内務課長の所管事務のなかに、邑、面の指導監督や兵事等もありましたが、
朝鮮人に徴兵の義務がありませんので、
兵事は主に在郷軍人に関するものぐらいでした。

朝鮮人男子青年には徴用があり、
總督府より道に対し人数の割り当てがあり、道はこれを群庁に、
群庁はこれを邑、面に対して割り当てをして、
集めた青年を釜山に連れて行き、総督府の係官に引き渡しました。

女子に対してはこのようなことは一切なく、軍が慰安婦を集めんとすれば、
朝鮮軍司令部が総督府に依頼して、
前述の系統をたどり集めるしかありませんが、
このようなことは一切ありませんでした。

売春婦が強制連行されたの拉致されたというのは、
女衒かその類の者の仕業であって、
軍や官は一切あずかり知らぬことであります。

日本婦人でも売春婦として軍の居る所に多くいましたが、
一人として従軍慰安婦などという者が居たでしょうか。
日本人と違って、恥を恥とも思わず、金さえ儲かれば良いと思う輩が、
敗戦により日本人が委縮しているのにつけこんで、
あらぬ嘘を申し立ててくるなんて腹立たしい限りです。
今はもう、總督府の事務官はじめ、道や群の行政府にも軍にも
当時の実情を知る者は殆ど亡くなられたものと思われます。
然るに、今を生きる日本人のなかにも、自虐性に富む輩のうちに、
従軍慰安婦なるものに軍や官が関与したなどと申す者がありますが、
朝鮮売春婦の故郷とも申すべきスルチビ(居酒屋)、
カルボチビ(娼家)の戦前戦中の実態も知らぬくせに、
いいかげんに机上の空論をもてあそぶのは誠に概嘆に耐えません。

国威を失墜し児孫に負の遺産となる河野談話の見直しは、
安倍総理を除いては望むべくもありません。
ぜひぜひ誇りある日本の為に、
この際断固たる訂正を心からお願いし奉る次第であります。
最後になりましたが、邦家の為にも総理のご健康をお祈り致します。
敬具>

「朝鮮總督府官吏の最後の証言」桜の花出版編集部 平成二十六年刊 p一七六〜一七九

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―――――
西川 清氏の略歴
大正四年:和歌山県田辺市生まれ。
昭和八年:和歌山県立熊野林業学校卒業と同時に朝鮮江原道内部産業課勤務。
昭和十二年:朝鮮総督府地方官吏養成所第1回卒業。朝鮮総督府江原道属に任官。
昭和十三年:臨時召集により歩兵第76連隊入隊。
昭和十四年:招集解除。
昭和十八年:寧越郡内務課長。
昭和十九年:原州郡内務課長。
昭和二十年:道庁鉱工部鉱工課勤務(主任属)。引揚。
昭和二十一年:厚生省属 下関引揚援護局仙崎出張所勤務。
和歌山県へ出向。農地課主任、総務課長、税務課長・次長などを歴任。
昭和四十二年:依願免職

二名さま来店。
Tさん、Uさん六名さまで来店。
営業終了後、Mさんと近所のうどん屋さんで軽く一杯ゆえ記憶あり。
猿でもエビでもなし