一部追記・支那を中国と言ってはいけない理由

一部追記・支那を中国と言ってはいけない理由
10月4日火曜日晴れ暑い△
下記は随分前に来たアホからのメールです。(アドレスは一応、一部隠してます)

差出人 torres_支那人人的屑猫狗以下@sohu.com
送信日時 2011年 7月 2日 土曜日 1:12 AM
宛先   gomi-daisakutokin@tamanegiya.com
件名   てめえ
内容
<頭が悪いの、シナ シナって!
日本はなぜ世界大戦にそうなんに可哀そう?
なぜ世界の優秀の人材がアメリカに行って、日本に行かないの?

てめえみたい頭が悪い動物が多過ぎるさ 分てるの?>

この「sohu.com」とは支那の大手ポータブルサイトのようです。
でっ、この低能支那人らしき人物が言って来た事が正しいかどうか。

まず、支那人自身が下記のように言っています。
以下引用
<「シナはべっ称でない」中国
最大級ネットが改名拒否

【北京21日清水美和】
中国で最大規模のポータルサイト「シナ(sina)・ネット」を経営する新浪網公司は二十一日、本紙の取材に対し「シナ(支那)は中国へのべっ称」と一部の学者などから出ていた改名要求を拒否する方針を表明した。「シナは英語のチャイナを語源としており、それ自体に侮辱の意味は込められていない」というのが理由だ。

最近、「中国青年報」など一部新聞が、中国最大のネットが「シナ」を名乗るのは国辱的だと、日本から帰国した学者などの意見を紹介する形で批判。北京大学の劉金才教授は「日本が中国への侵略を開始するにつれ中国へのべっ称として使われるようになった。シナは支那と発音が全く同じであり、もし日本で中国のことをシナと呼べば中国人とけんかになる」と名称の再考を促した。

これに対し新浪網広報部は「シナは英語のチャイナの過去の発音。中国の英語名を変える必要がありますか。シナに侮辱の意味が込められているというなら、自身の国家を強大にすればいいだけの話。新浪網は将来、シナを世界のブランドにし、中国人が誇れる呼び名にする」と批判を一蹴(いっしゅう)。シナ・ネットにも「欧米人にチャイナと呼ぶのを許しながら日本人にだけシナと呼ぶのを許さないのは不公平」など同社を支持する意見が寄せられている。

[東京新聞ニュース2000年9月22日]>

このゴメールを送って来たクズは、このニュースにあるように「支那と言うな」と他国にも言っているのであろうか。言ってはいないであろう。
我が国だけに言っているのである。

呉智英氏は下記のように産経新聞に書いている。
以下引用
<私の正名論】評論家・呉智英 「支那」は世界の共通語
2008.5.14 03:08

必ずや名を正さんか。孔子の言だ。名は言葉。
言葉が正しくないと社会も文化も混乱してしまう。迂遠なようでもまず名を正す(正名)のがすべての基本である。

その孔子の故国に批判が噴出している。農薬まみれの野菜、毒入りギョーザ、少数民族抑圧、過剰な愛国主義…。批判も当然。私はこれに同調する。しかしまず名を正すべきだと思う。

昨夏、中国食品という会社が倒産した。健全な経営の食品会社であったが、農薬汚染食品の輸入会社だと誤解されて製品が売れなくなったのだ。この会社は広島にある。社名が中国食品で何の不思議もない。中国放送、中国新聞、中国電力、中国ガス、中国銀行…これらは全部日本の中国にあって、支那にあるわけではない。知名度の高いこれら公共企業であれば特に誤解も起きないが、それ以外の、岡山や広島や山口など中国にある中国何々といった会社や団体がみんな迷惑している。中国は「中国」、支那は「支那」とすれば、こんな混乱は起きるはずはない。
中国食品も倒産などせずにすんだのだ。

この混乱の責任はどこにあるのか。第一に「中国」を日本に対してだけ強要する支那。
第二に、この異常な主張に諾々として従い、言論機関にこれを強制した昭和二十一年当時の外務省。第三に、この言論抑圧に屈するのみならず、これをなにか「民主的な」改革だと正反対に勘違いしている自称良識人たち。この三つが連動して混乱をもたらしているのである。

詳論しよう。

まず第一の点。「支那」禁止は理不尽な言いがかりである。「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦(しん)」に由来し、世界中でその近似音で支那を呼んでいる。支那人自身が支那を「支那」と呼んだ記録もあり、清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。しかし、かつての朝貢
国である日本には自分たちを世界の真ん中にある国「中国」と呼ばせたいのである。

第二の点。「支那」が抹殺されたのは、戦後の混乱期である昭和二十一年六月の外務省次官・局長通達による。支那は形式上アメリカを中心とする連合国の一員であり、日本に対して戦勝国である。
その力関係を背景に「中国」を強要してきた。外務省は従順にそれを受け入れ、各言論・報道機関に「支那」を禁止し「中国」を使うように通達を発した。その中にこんな文言がある。

「今度は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使はぬ様に」。
占領下では、正当な理屈さえ禁じられていたのである。

第三の点。明白な言論弾圧を、自称良識人たちは、侵略戦争への反省や民族差別解消の名目で歓迎した。
二十世紀末まで支那を植民地支配していたイギリスでもポルトガルでも「チャイナ」「シーナ」と呼んでいることを知らないふりで。また「中国」が差別的な自国中心主義を意味することも知らないふりで。
そもそも外務省通達の存在を、これは本当に知らないのである。

私は四十年前の全共闘の学生だった頃からこの不合理を批判し、支那は「支那」だと言い続けてきた。最近やっと「支那」解禁の動きが出てきた。六十二年前の言論抑圧通達は無効だと外務大臣に言わせる議員はいないのだろうか。(くれ・ともふさ) >
引用終わり

竹下義朗氏は著書「汝の敵 中国を知れ」(竹下義朗 雷韻出版 平成十五年刊)において支那の語源について下記のように書いています。

nannjinoteki23.7.4<「支那」は支那市場最初の統一帝国「秦(ちん)」(Chin 前二二一〜二〇七)が語源であり、この「チン」(秦)がインド(サンスクリット語)へと伝わり、「チーナ」(Cina)、「ティン」(Thin)となり、更にヨーロッパへ伝わり、「シーヌ」(Chine 仏語)、「チャイナ」(China 英語)へと変化していった事は既に書いた(木下注 竹下氏の著書「検定不合格 教科書になれなかった史実」にて)通りです。そして、日本で慣用されていた「支那」も又、梵語(サンスクリット語)の「チーナ」がインドの仏典(仏教経典)と共に、中国へと逆輸入され、仏典の漢訳作業の際に、中国人自身が「チーナ」の語に「支那」・「脂那」の漢字を当てたのが起源である訳です。つまり、英語の「チャイナ」と日本で慣用されていた「支那」は起源を同じくする同義語(姉妹語)という訳です。>
「汝の敵 中国を知れ」(竹下義朗 雷韻出版 平成十五年刊)p十八〜二十

同じく呉智英氏は著書「サルの正義」(呉智英 双葉社 平成五年刊)において下記のように書いています。
saru23.7.11<英国だが、英国による支那侵略・植民地化は、少なくとも時間的には日本によるものより長い。日本は約半世紀。英国は阿片戦争以来実に百五十年である。しかも、今なお英国は支那に植民地香港を領有し続けている(当時)。その侵略者イギリス人は支那を何と呼んでいるのか。「支那(チャイナ)」だ。侵略者イギリス人が「支那」と呼ぶのは差別ではないが、侵略者日本人が「支那」と呼ぶ場合のみ差別なのだろうか。
「支那」を差別だと言いがかりをつける人は、侵略や差別に敏感な人なのではない。反対に、侵略にも差別にも鈍感な人である。黄色ン坊の日本人が侵略したことが許せず、黄色ン坊の日本人のすることは、是非を弁ぜず、すべて差別だと言いたいのである。白人と黄色人種にこのような違いをつける差別意識に、私は暗然とせずにはいられない。
英語だけのことではない。ロシア語では、支那は「キタイ」である。契丹(きつたん)のことだ。大統一帝国の秦どころか、支那の北部を支配しただけの契丹を支那の呼称とするソ連・ロシアに、抗議の声が上がったという話は聞いたことがない。中ソ紛争が核戦争になりそうだった時期でもである。
ちなみに言うと,キャセイ航空の「キャセイ」も契丹が語源で、意味は支那である。
それのみならず、実は、当の支那人自らが「支那」という呼称も用字も使っているのだ。清朝末期の革命家、陳天華、宋教仁らが発行していた雑誌名は「二十世紀之支那」であったし、清朝中期の乾隆期の『四庫全書総目』には「支那著述」の文字が見えるという(原田種成)。当然のことだろう。青木正児『中華名物考』によれば「支那」には「思慮深い」とか「文物に富む」とかの称賛の意味が込められているからである。
それでもなお、相手の人が現実にイヤだと言っているんだから、と言う人がいる。恥知らずとはこういう人の別名である。こういう人は、中華民国を「台湾」と呼ばないのか。台湾は自ら「台湾」と呼んだこと等一度もない。最近は知らないが、一時は、台湾とかFormosaと書かれた海外からの郵便物を拒否していたほどである。
私は自らの判断で文脈に応じて「支那」とも「台湾」とも「中華民国」とも使う。>
「サルの正義」(呉智英 双葉社 平成五年刊)p二十六〜二十七

同じく、呉智英氏はご自身の別の著書に下記のようにも書いている。
DSCN3494<多くの人は「侵略」と絡めて考え、そうすることが良識と知性の証だと盲信しています。ちょっと思い起こしてほしい。
略)大きな話題となった「香港返還」は侵略の清算ではなかったのでしょうか。返還という以上、その前に奪取があったことは明白です。誰が何を奪取したのか。イギリスが支那を侵略し、その領土を植民地として奪取した。それが香港ですよ。一八四〇年の阿片戦争以来一九九七年まで、実に一世紀半、イギリスは支那を侵略し、支配し続けてきました。そのイギリスの言葉すなわち英語で、支那はもちろんChinaです。これをChugokuと呼ばないのは差別だなどと、支那人はイギリス人に対してはただの一度も言ってません。
それだけではない。ポルトガルは、その後なお支那を侵略し続けていました。マカオは一九九九年までポルトガルの植民地だったのです。そのポルトガル語でも支那は当然ながらChinaです。これも問題になったことはない。
日本の支那侵略は、起点については諸説あり得ますが、もっとも古く考えても日清戦争からで(私はこの説には賛成ではない)、大東亜戦争の敗北までの五十年間。一方、イギリスやポルトガルは、百年以上前から、ほんの昨日まで侵略を続行しています。そのイギリスやポルトガルが支那を「支那」と呼ぶことは全く問題にならず、日本が支那を「支那」と呼ぶと、「反発」し「嫌がる」のはなぜでしょう。
ここには、支那人の欧米崇拝、日本人などの亜細亜人への露骨な差別意識があります。
略)
差別されている方が何も考えずに卑屈になっているのです。
略)
日本人のみを差別した「中国」強制によって、日本文化が破壊されていることも目を向けなければなりません。
略)
かつて日本では、「中国」は中国を意味し、「支那」は支那を意味し、「中国」と「支那」を混同することはありませんでした。「中国」と言えば、それは「中国」のことだったのです。
朝日新聞の「天声人語」(九九・一・二九)にこんな一文を見つけました。
「インフルエンザが猛威をふるった。まず長崎で発生、中国地方から関東に達し、さらに東北へと進む」
なぜ、関東や東北には「地方」がつかず、中国にだけ「地方」がついているのだろう。支那と混同されないためですね。「中国地方の子守歌」は、本来こんな言い方をする必要のない「中国の子守歌」でいい。それなのに「地方」を付け加えなければわからなくなる。
東京の西武線中井駅の近くのに高台に、中国銀行の社員寮があり、「中国銀行」と大きな看板が出ています。しかし、その脇に小さく括弧して(本店・岡山)と書いてあるんですね(笑)。
私、ここ通りかかるたびにいつも一人で大笑いしていました。本店・岡山と但し書きしておかないと、ここの寮に住んでいる行員たちは、支那人だと思われて迷惑?する、という配慮なんでしょうかねぇ(笑)
もっとひどい例、最悪の例もあります。岩中祥文という人の『中国人と名古屋人』(はまの出版・九五年)という本があります。俗流比較文化論なんですが、粟粒かどうか以前に前提が間違っているんです。岩中センセは、明治の宗教家、内村鑑三が中国人と名古屋人は気質がよく似ていることをいくつも指摘したことを紹介し、その検証をしていきます。しかし、内村鑑三が名古屋人と比較したのは、広島人と山口人、すなわち中国人であって支那人ではないんですよね(笑)。
この岩中祥文っていう人、東大文学部を優秀な成績で卒業した有名な脚本家だそうだけど、大バカヤローですね。こんな大バカヤローが生まれたのも、全マスゴミ、全教育機関が「支那」抹殺に唯々諾々として協力してきたためです。
日支共同宣言に「過去を直視し歴史を正しく認識すること」という一節があります。これこそが日支関係を発展させる基礎だというわけです。大賛成ですね。過去を直視し、歴史を正しく認識しようじゃあありませんか>
「呉智英ホントの話」(小学館 平成十三年刊)P一一六〜一二〇

正に正論であろう。このように、支那は支那なのであって、中国などではないのである。

これもすでに何度も書いてきている事であるが、
「支那」と言われて怒っている連中がおかしいのである。
日本人にだけ「支那」と言われたくないだけなのである。
もうひとつ、付け加えたいのは、支那人が戦後の混乱期に我が国において行ってきた蛮行を思い出したくない為に「支那」を使わせないという事もあるだろう。
それは「三国人」「朝鮮人」にも通じるものだろう。
日本人と言われて怒る日本人はいない。ドイツ人と言われて怒るドイツ人はいない。支那人と言われて差別だと怒る支那人がいるのであれば、それは支那人側の問題である。朝鮮人と言われて差別だと怒る朝鮮人がいるのであれば、それは朝鮮人側の問題である。
在日朝鮮人ではなく、在日コリアなどというわけのわからん単語が在日朝鮮人を現す言葉として使われている事でもそれが現れている。
同様に、いずれ、中国人、在日コリアという言葉が「差別」と言われる時代も来る事だろう。
民族名である「支那人」「朝鮮人」を差別だと感じる事があるのであれば、それは支那人、朝鮮人自体に問題があるのである。
どのような単語が支那人、朝鮮人を現すことになっても、いづれは差別といわれるようになるであろう。

最後に竹下義朗氏、呉智英氏のそれぞれの文章を引用しておきたい。

<しかも、オランダ語やポルトガル語で、「シーナ」或は「シナ」と発音しており、日本の「支那」と起源が同じどころか、発音レベル迄酷似しています。然し、「中国」がオランダやポルトガルに、更にはポルトガル語を公用語としているブラジルに対して、「シーナ」(シナ)の使用を止める様、圧力を掛けたという話は一度も聞いた事がありません。若しも、「支那」が彼の国が言うような蔑称であると言うならば、日本で慣用されてきた「支那」と発音レベル迄酷似している「シーナ」を使用しているオランダやポルトガルに対しても、日本同様に使用を止める様、主張すべきですし、それをしないと言うのであれば、日本に対してもオランダやポルトガルに対するのと同様、使用を認めるべきです。
「日本人にだけ『支那』と言われたくない」という主旨の発言が、以前、在日外国人が出演していた某民放の人気番組に於いて、支那人の口から飛び出しましたが、それこそが支那人の「本音」であり、日本人に対するある種の逆差別であると感じたのは、果たして私だけだったでしょうか。
略)
「支那」の呼称に対して「中国」が日本に対して取ってきた行動と言うものは「支那」の語源の検証や、類義語・同義語の実例に関係なく、単に「日本人だけから使わせない」・「日本人だけは使われたくない」といったレベルの話である訳です。
これはどう見ても、日本人に対するある種の「人種差別」であるとしか言い様がありません。この不当な圧力・要求を受け入れると言う事は、ある意味に於いて日本人が支那人からの「人種差別」を甘受するという事に他ならない訳で、それは同時に、日本人としての「尊厳」を自ら放棄する事にも繋がりかねない行為である共言えるのです>
「汝の敵 中国を知れ」(竹下義朗 雷韻出版 平成十五年刊)p十九〜二十二

<迷信に毒された、しかも善意の人達が、日支友好を願うつもりで理不尽な言論統制を支えている。
この迷信に、与野党・保守・左右・官民を問わず、日本中一木一草に周まで深く侵略されていて、誰もがこれを怪しまぬ。
大日本愚民民主主義帝国の知的現状がまことによく現れている>
「サルの正義」(呉智英 双葉社 平成五年刊)p二十七

だいたい、支那、つまり中華人民共和国政府の、公式な英語表記は「People’s Republic of China」である。
だから、呉智英氏が例えで出している「中国銀行」は「CHUGOKU BANK」であり、支那の「中国銀行」は「BANK OF CHINA」と英語表記してある。

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こんな後発の腐れ銀行を我が国で「中国銀行」と名乗ることを許可すること自体がおかしい。

知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人と世界の癌の支那人

くそアホらし

今日はニュースになってなかったから新記録ではないが、十月としたら記録的な暑さだそう。
確かに暑い。

築地に降りたら、ホームがえらくド派手になっていたのに今日気がついた。
いつからなんだろう。

 

 

IMG_2869のコピー

 

よかったおチャッピーでなくてW
でっ、明日は河岸が休みだし、ドンチャン
記憶あり。
猿よりまし