本間富士子と本間雅晴陸軍中将裁判

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


平成18年5月28日日曜日  平成27年11月13日金曜日晴れのち雨 追記
過去の日記に書きました本間富士子さんのことですが、少しでも充実したく一部追記させていただきました。比べていただけると有り難いです。

<本間雅晴陸軍中将
本間賢吉の長男として新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生れる。佐渡中学、陸軍士官学校(十九期)を経て、一九一五年(大正四年)陸軍大学校(二十七期)を優等で卒業。バターン死の行進の責任者(戦犯)として一九四六年(昭和二十一年)四月三日午前〇時五十三分、マッカーサーの本間への復讐のためにちょうど四年前の第十四軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて銃殺刑を執行された。略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった。>

本間雅晴と高田富士子が陸士時代からの友人である河辺正三(当時中佐)の紹介で結婚したのは富士子が二十一歳、本間が三十六歳の時である。ちなみに、本間も富士子も再婚である。

IMG_0029本間は陸軍中将で参謀次長の末女の田村智子(としこ)と陸士時代からの親友である今村均(後の陸軍大将)の忠告にもかかわらず陸大在学中の大正二年(一九一三年)に結婚した。智子の母親は赤坂の芸者であり、厳格な本間の母親はこの結婚に猛反対した。
今村と本間の母親の心配は的中する。
陸大を恩赦の軍刀で卒業後、英国のオックスフォードにある英国陸軍師団に派遣され、一九一八年、第一次世界大戦中のことであった。本間は英国の欧州派遣軍の従軍武官として派遣軍について仏国を転戦し、最後は獨逸に入った。

その頃、本間は母親より本間の二人の子供が妻の智子より母親の住む佐渡に預けられたことを手紙で知る。智子より母親への手紙には本間の陸軍大尉の俸給では東京で二人の子供を育てることはできないから佐渡で育てて欲しいと記されていたが、実際は俸給の問題ではなく、智子は非常に自由奔放の生活を送り、女優を真似て舞台に出たり、多くの男と浮名を流すなど貞節を捨てていたのである。
本間は破局を知りロンドンのメイフェア地区にある小さなホテルの部屋(日本料理屋・日の出屋の出屋)を借り、深酒に溺れ、失意のあまり窓から飛び降りようとした際には今村に止められている。
この離婚の時には智子は弁護士をたて理不尽な要求をしているが、本間はそれに従いほぼ全財産を智子に与えた。
なぜ、そんな馬鹿げたことをしたのかと今村が聞いた時に、本間は「俺が金を払ったのは、七年間慰めてくれた恋の屍の葬式費用のつもりなのだ」(大正十年十二月十六日協議離婚)
と述べている。
「将軍の裁判」p五十四

本間のこのような律儀、真っ直ぐな性格は富士子との結婚生活においては幸せな方向に向く。
大学教員との離婚歴があった富士子であったが、家柄も良く当時としては珍しい海外旅行の経験も広く、米国で滞在したこともあった。本間同様、温和な教養のある女性であった。
優しく物静かで、高尚な富士子に本間は惹かれ結婚することにより自己の精力を軍務に集中することができた。

本間将軍 31 のコピー

元フィリピン派遣軍総司令官・本間雅晴陸軍中将を戦犯として裁くマニラ軍事法廷に証人として昭和二十一年(一九四六年)一月十三日夕、本間は妻富士子との面会を許された。本間は漆塗りのシガレット・ケースを富士子に渡したが、その中に何が入っているか富士子も理解していた。その中には二つの白い包みが入っていた。形見として一つの方は、切り取った一房の毛髪であり、もう一つには爪が入っていた。
IMG_0028

二月七日、マニラ軍事法廷の最終日の最後に本間中将夫人である本間富士子(当時、四十二歳)が弁護側証人として証人席に立った。マニラの気候に合わせ、夏向きの和服姿で、終始、理知的な表情を崩すことなく毅然として証言を続ける彼女に、法廷内の人々の視線が集中していた。証言も終わりに近づく頃、被告の人となりを問われた彼女は、しっかりと顔をあげて答えた。

「私は東京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘がひとりおります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり会い、結婚することを、心から願っております。本間雅晴とはそのような人でございます。
本間は、小さなことでも逃げ口上を言う男ではございません。彼は心の広い人で、細かいことにこだわりません。また彼は平和的な雰囲気を創り出し、その中で過ごすことを好みます。彼の行為はすべて、このような姿勢に基づいているのです。たとえば、外で嫌なことがあっても、彼はけして家に持ち込んだことはありません。常に微笑を浮かべて帰宅しました。本間はそのような性格の人です。
彼の趣味の第一は、読書でございます。古今東西の書物を読みます。また詩作もいたします。
スポーツの趣味については、青空の下でテニスに興ずることを好みます。毎週日曜日にはテニスをやっておりました。狩猟や魚釣りは好みません。それは本間家代々の伝統でございます。彼は、生きるためならいざ知らず、趣味として楽しく遊んでいる鳥を撃つことはできない、と考えておりました。それもまた、本間家代々の家風です。
宗教でございますが、本間はすべての宗教について研究し、それらに関する多数の書物を持っております。キリスト教をはじめ、多くの宗教指導者について語っておりました。しかし、本間家は仏教徒でございます。本間も仏教を信奉しております」

本間将軍31 本間将軍31 のコピー 2

この言葉が通訳によって伝えられると、法廷のあちらこちらからすすり泣きの声があがり、米軍検察官の中にも感動のあまり涙をぬぐう者がいた。そして本間中将自身も、妻の自分に対する絶対的な尊敬と愛の言葉に接し、ハンカチを顔にあて嗚咽していた。当時の法廷の様子を描いた諸記録が伝えるところである。
終戦直後のマニラは、日本人とみれば罵声が浴びせられ、石が飛んでくるほど、反日感情が充満していた。しかし、夫人の証言を聞いたフィリピン人たちまでもが、証言を終えた彼女に争って握手を求めた。翌日のマニラ・タイムスをはじめとする地元紙も、彼女に対する好意に満ちた記事をこぞって掲載した。

マニラに向かう前の夫人の会見を伝えた新聞記事
「主人の命乞いに行くのだというような気持ちは、毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、真実の本問を全世界の人々に一人でも多く知っていただきたいのです…裁判の結果などはいまから念頭にありません」
「私の責任の重大さは十分認識しています。衆人環視の法廷に立って少しでも気怯れがして言うべきことも言えなかったりしてはなりません。日本の家庭婦人としての面目を少しでも傷つけるようなことがあったら日本の皆様に本当に中し訳ないことだと思います。日本の女として初めて世界の視線に立つだけの覚悟は十分致して参るつもりでおります」                      (昭和二十一年一月十二日付朝日新聞)
夫の命乞いではなく、”日本の誇り〃を決然と示すため、彼女はマニラに向かったのである

夫人は帰国する直前の二月九日夜、夫と最後の面会を行った。時間は三十分と制限されたが、監視役の米憲兵大尉はわざと酒に酔い、二時間後に帰ってきた。夫妻のために時間を作ったのである。
本間を身近に接した米軍人は、いずれも彼に敬愛の念を持つようになっていた。
今日出海も、帰国直前に本問と面会した際、本間が収容されていた房に、警備のMPが自分の小遣いで買って差し入れたチョコレートの缶の山を見ている。また、MPが「あんな立派な人に接して名誉だ」と語ったことも記している。

この裁判がどういったものかよく現しているのが昭和二十一年十二月十八日の起訴状を読み上げるに先立ち、首席検察官フランク・E・ミーク米陸軍中佐が裁判官たちに向かって、この訴訟手続きは厳密に法律的なものではないことになっていると通告した。そして、マッカーサーの定めた裁判規定の一節を読み上げ、裁判官に注意を促したことである。
<「本裁判所は迅速なる審理を達成すべく、ここに定める証拠及び弁論に関する規定を最大限度に適用するものとす」
彼はまた、次の点についても裁判官に注意を促した。すなわち、有罪もしくは無罪、及び刑の最終的な決定は、「本裁判所を設置したる武官の承認をもって確定するものとす・・・。上述の武官は被告人に科せられたる刑罰を承認、軽減、その全てもしくは一部の免除、変更、延期、猶予もしくはその他変更し、あるいは再審理すべく新たなる裁判所へ差戻す権限を持つものとす」
つまるところ、マッカーサーは裁判所の判決が気に入らなければ、その決定をほとんど完全に無視することができるというわけである。>
「将軍の裁判」p一六五〜一六六

マッカーサーの胸三寸というかまさにこの「将軍の裁判」の副題となっている「マッカーサーの復習」として結果は決まっていると言っているのである。

そして、本間将軍に対して、四十七項目にのぼる戦争犯罪を告発するリストを手渡した。
起訴状を受け取った首席弁護人であるスキーン少佐は、裁判官に対し、検察側に起訴事実をもっと特定させるように求めた。なぜなら素因のほとんどが漠然としており、申し立てられる残虐行為がいつ、どこで発生したか、誰によってなされたものであるのか、明確な認識が得られにくいからである。しかし、この要求は、あたかも先買いされていたかのように即座に拒否され、弁護側は「無罪」を主張した。
ついでスキーンは裁判官たちに対し、弁護団は任命されたばかりであり、四十七項目の起訴事実のそれぞれにつき十分に調査し弁護を準備するには、時間が足りないとして公判延期を申し述べた。
理由として、起訴事実は発生したのが三年前であること、証人たり得るものの七十五%は現在日本に、その他韓国、中国にいる者もいることを挙げたが、裁判長のドノバン米陸軍少将は即座に否定し、昭和二十一年一月三日の再開を宣言する。
「将軍の裁判」p一六六〜一六七

裁判は山下奉文大将と多くの点で性格や形式において似通っていた。
<検察側立証の大半を恐るべき残虐行為の犠牲者たちのオンパレードで終始させた。犠牲者たちは次から次への証人台に立っては、苦しい体験を思い出して述べ立て、そのぞっとするような傷跡を裁判官たちに見せた。また山下裁判と同じく、本間がそれら残虐行為のどれか一つでも実際に命じてやらせたか、少なくともそれらの行為を知っていたことを証明する明確な証拠は、全く何一つ提出されないまま終始した。さらに検察側は、義務を怠ったという不明確な説の上に立ってその訴訟行為を進めていった。
スキーンは、検察側にその説の実体を明確に特定せよと要求した。そして、
(a)日本陸軍のフィリピンにおける最高司令官が果たすべき義務のうち、どれを無視または怠ったとして本間は訴追されているのか。
(b)その義務を彼はどのように、またいかなる仕方で無視または怠ったのか。
(c)指揮下の部下を統制すべく彼はいかなる手段を取るべきであり、またそれを無視もしくは怠ったとして訴追荒れているのか。
以上について明確に述べた起訴事実明細書の提出を要求した。
換言すれば、本間の弁護人たちは、義務を怠ったという過失説とは、いったいいかなるものか、少なくともそれを知りたいと強く主張したわけだ。それにはどういう基準があり、本間はどのように背いたというのか?
ところが、裁判官は、この単純明快な要求を満たすことすら拒否したのである。
こうして本間は、山下がそうであったように、従来全く述べられたこともなければ考えられたことのない、先例のない過失説の上に立って裁かれることになるのである。
「将軍の裁判」p一六七〜一六八

二月九日、最終弁論にたった本間の弁護人スキーン少佐はこれまで提出されてきた証拠を要約したのち、最後に凄まじい警告を持ってその弁論を締めくくった。
<ある一定の期間におけるどれだけの数の行為があれば「広く行き渡ったパターン及び意図」を構成することになるのか。それを決定する基準もないのでありますから、そうしたパターン及び意図が本件において確証せられたとするのは、後世に対して危険な先例を打ち立てることになるのであります。もし将来の戦争において我々が破れることがあれば、指揮官の将軍たちが告発され裁かれることは避けられないのであります。
最後に指摘したいことは、証拠の全てが、活字にされた記録の中には見出せないことであります。六週間という短い期間でありましたが、我々弁護人全員は、本間将軍の誠実さと高潔さを完全に信ずるにいたり、彼の代理人たることを誇りとするものであります。
証人台における彼のマナーをご覧になられたではありませんか。
弁護側及び検察側の証人が証言を続ける間、幾週間にもわたって被告人席に座り続けた彼を観察してこられたではありませんか。
彼と話した後、この人物が、もし知っていたら彼の部隊が残虐行為を許すような、そんな冷酷で残虐な男だということができるでありましょうか?
もし彼の生命が奪われるようなことになるならば、世界は、平和の維持に多大の功績をなし得る一人の人物を失うことになるのであります。>
「将軍の裁判」p一八七〜一八九

 

 本間将軍31 のコピー 4 本間将軍31 のコピー 3

マッカーサーが選んだ五人の裁判官
パシリオ・J・パルデス フィリピン陸軍少将
ロバート・ A・ガード米陸軍准将
ワレン・M・マクノート米陸軍准将
アーサー・G・トルードウ米陸軍准将
レオ・ドノバン米陸軍少将(裁判長)

弁護団
ジョン・スーキン米陸軍少佐
ジョージ・ファーネス米陸軍大尉
フランク・コーダー米陸軍大尉
ジョージ・オット米陸軍大尉

本間中将3 31

旧紀元節の二月十一日、銃殺刑の判決が下された。山下泰文大将も真珠湾攻撃の前日にあたる十二月七日に絞首刑の判決(アメリカ時間では真珠湾攻撃の日)が下され、同じ二月十一日にマッカーサーから処刑執行命令が出されている。本間雅晴中将の処刑は一九四六年四月三日、享年五十ハ歳。処刑日の四月三日は旧神武天皇祭で、日本軍バターン総攻撃の日。山下大将は二月二十三日の初代アメリカ大統領ワシントンの誕生日であるワイントン・デーにマンゴーの木に作られた簡易処刑場で絞首刑にされます。この日にち合わせは、アメリカなかんずくマッカーサーの下司な復讐心を物語って余りある。かって史上最年少の米国陸軍参謀総長を務め、フィリピンを第二の故郷と呼ぶマッカーサーにとり、バターン半島で傷つけられた誇りへの復讐の念が深くこもっていた。のちに連合軍総司令官として厚木に乗り込んだマッカーサーの使用機は「バターン号」と名付けられていた。
本間中将を裁く五人の裁判官は、いずれもバターン半島で日本軍に白旗を揚げた将校だったことでもこの裁判という名前のマッカーサーにとっての復讐劇ということがよくわかる。
山下大将と本間中将は陸士第十八期の同期であり、フィリピン戦緒戦の攻略戦を本間中将が、最後の攻防戦を山下大将が指揮をとった。

戦勝国と同様に恥ずべきは、勝者に迎合した少なからぬ日本国民かもしれない。本間の娘の助命嘆願運動には、勝者の宣伝を鵜呑みにした日本人から横槍がはいった。

東京に進駐してきたマッカーサーは判決後の三月十一日に、弁護人ファーネスト大尉とともに尋ねてきた富士子と会い下記のような会話をしている。

「あなたが最後の判決をなさるそうですが、そのときは裁判記録をよくお読みになって、慎重にしていただきたい」
「私の任務について、あなたが御心配なさる必要はありません」
「夫の裁判に関する全記録をいただきたい」
「よろしい、コピーをとってあげましょう。生活に不自由なことがあれば、なんでも援助したい」
「お気持ちだけで結構です」
(『悲劇の将軍・本間雅晴とともに』本間富士子 文芸春秋昭和三十九年十一月号)私は「南十字星に抱かれて」p二八〜二九

富士子夫人は夫である本間中将の助命を嘆願にいったのではない。裁判記録をきちんと読めば「りっぱな軍人である」死刑になる理由などないと確信していた。
後日、富士子夫人はこの日マッカーサーと会ったことについて、
「本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」
(『いっさい夢にござ候』角田房子著 中央公論社)
と語っている。

マッカーサーは富士子夫人のことについて、まるで本間中将の命乞いに訪れたかのように、次のように語っている。

「本間夫人が直接寛大な措置を訴願する機会を得たいといってきたので、私は夫人に会う事を承諾した。夫人は本間裁判で弁護に当たった米軍将校たちに伴われてやってきたが、教養のある非常に魅力的な婦人で、この会見は私の生涯でいちばんつらい時の一つとなった」
(『マッカーサー回想記』津島一夫訳 朝日新聞社刊)

本間夫人が決して命乞いなどに訪れたのではない事はあきらかである。それは先の『悲劇の将軍・本間雅晴とともに』にも「私は決して命乞いのために元帥に会ったのではありません。そのことについてはひとこともふれませんでした。なぜなら、敵将の前でそんな態度をとることは、主人の最も嫌うことだと知っていたからです」(『悲劇の将軍・本間雅晴とともに』)

富士子夫人にとって守るべきは本間中将の名誉であり、無実という確信であったのです。
同じ「マッカーサー回想記」に記されたマニラ裁判についてのつぎの言葉ほどこのマッカーサーという男を表しているものはない。

「これほど公正におこなわれた裁判はなく、これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見をともなわない審議が行われた例もない」

以上「南十字星に抱かれて」p八〜三二より引用

IMG_0067

連合軍司令官最高司令官として我が国に君臨し、離日の時には多くの日本人が泣いて見送ったというマッカーサーという男の姿です。

参考及び引用文献
「正論」平成十七年七月号に掲載された米田健三帝京平成大学教授の「米軍検察官が泣いた 凛とした本間雅晴中将夫人の『戦犯』法廷証言」
「将軍の裁判」ローレンス・テイラー著 立風書房 昭和五十七年刊
「南十字星に抱かれて」福富健一著 講談社 平成十七年刊
「東京裁判」新人物往来社 平成七年刊

今日は金曜日だというのにめちゃ暇
バンブーさん来店。
Sさん来店。
のみで、私もドンチャン。
記憶あり。猿よりマシ。