ビクトル・古賀とナイフ

10月8日木曜日晴れ△
日本人初のサンビストであり、公式戦四十一連戦すべて一本勝ちのサンボ界最強のビクトル古賀氏は終戦後、満州ハイラルより十歳の時にたった一人で我が国に帰ってきた。
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(ウィキペディアには「終戦間際の10歳の時ひとりで満州から父の故郷である九州の柳川市に帰国。」となっているが明らかな間違いである。
古賀氏がひとりで困難を克服し帰国したのは終戦後、昭和二十一年十二月のことである)
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スキャン 31 のコピー 2ビクトル古賀氏はコサックのフョードル・ミハイロヴィチ・ラーバルジンを祖父に持ち、その娘クセーニア・フョードヴィナ・ラーベルジナ(十七歳)を母親、柳川の藩主・橘家の流れをくむ石橋家に生まれのちに一族である古賀家の養子となった父・古賀仁吉の長男として一九三一年一月一日に満州に生まれた。
そして、コサックの集団を統率する頭目である祖父は日露戦争において、我が軍の捕虜となるが、帯剣も許され、人力車に乗って街を観光したという。
たった一枚残された古賀氏の祖父の写真はその捕虜時代のものである。

日本びいきになって帰国した祖父は十月革命によって内戦状態になったロシアより満州へと移り住む。そこが、コサックの共同体が存在する世界でただ一つの地域となった。
仁吉との結婚話が持ち上がった時、祖父・フョードルは嬉しそうに言ったという。
「日本のサムライは素晴らしい。サムライの一族と親戚になれるとは」

ビクトル古賀はこの祖父によって日本人として唯一、コサック式の騎馬訓練を受けた少年であった。
コサックの男の子は六歳で自分の馬を与えられ、若者のコサックを先生に乗馬、方位の見方、風の読み方、天候への対処方法など森羅万象に関する一切の訓練を積む。
その先生役のコーリャより刃渡二十センチほどの手作りナイフを贈られる。

昭和二十年八月九日に卑劣で残虐なソ連軍の侵攻により、生活が一変する。
日本語はもちろんロシア語、支那語が喋れたビクトル・古賀氏は共産党政府の留用者として残留させられた父親を残し独り十歳でありながら我が国を目指す。一緒にいた日本人に裏切られ持ち物も全部取られてしまう。
その後、ロシア人や支那人の残虐な攻撃から逃れ、日本兵が持っていたロシア製ナイフを手に入れる。そのナイフによっていろいろな困難を乗り越えていくことになる。
古賀氏は
「ナイフがあったから、独りになっても、パニックにならないで済んだんだ。コサックのこどもにとってナイフは凶器じゃあない。五、六歳のころから持たされて、外に出る時は必ず携帯する身体の一部だよ」p二百十
と言っているように北満州ハイラルより錦州までの一〇〇〇キロを走破し、無事に祖国である日本にまでたどり着いたが、その間にハイラル在満国民学校五年生であった十歳のビクトル少年の命を支えたものは、ナイフとコサックとしての知恵であった。

モスクワのスポーツアカデミーにはビクトル古賀氏のロシア名であるビクトル・ニキートヴィチ・ラーバルジンの偉業を称えるレリーフが飾られていて「史上最も美しいサンボの英雄」との賛辞が添えられている。

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「たった独りの引き上げ隊」石村博子著 角川書店 平成二十一年刊

DSCN4174良い子のコレクション。
ダマスカスナイフ。
先日、仙台からSさんがいらしてくださった時に、見ていただき、
こういうのって、男は好きですよね〜と意気投合。
そして、子供時分はよく失敗してナイフや包丁で怪我をしたものだという話になり、
怪我することで扱いを覚えたが今の子供は怪我しないように彫刻刀さへ安全カバーが付いているのだとか。
もっと、普通でいいと思うが。
指先を切るぐらい・・・・痛いですけど。

Sくん来店。
三名様来店。
Mさん来店。
一名様来店。

早い時間からドンチャン。
一応記憶あり。
猿よりマシ。