ケニス・ハリスン(Keneth Harison)の著書「あっぱれ日本兵」にみる西洋乞食、強盗のオーストラリア人

ケニス・ハリスン(Keneth Harison)の著書「あっぱれ日本兵」にみる西洋乞食、強盗のオーストラリア人
9月15日火曜日晴れ△
DSCN3939私の父親は最後の予科練、飛行機がなくドカレンといわれた甲飛第十四期で、宝塚に新設されたした予科練教育航空隊に入隊しました。その時に親が準備してくれた入隊時に持って行った日本刀を戦後実家の牛小屋の天井に積んだ藁の奥に隠したままにしていました。

それには戦後下記のようなことがあったからです。
終戦直後の我が国での行状を書いたオーストラリア軍人ケニス・ハリスン(Keneth Harison)氏の書著に書かれている下記の文を読めば、普通の日本人は誰でも胸くそ悪くなると思います。

DSCN4048<マッカーサー元帥がヤマシタの刀を要求したとラジオが伝えていると聞いた。それで数人の中間が、日本軍将校のひとりが近くに住んでいるのを思い出し、記念品を求めて将校の家に押しかけ、刀を要求した。驚いたことに、刀は無抵抗で差し出された。この一件から「刀狩り」が始まった。方法は面白いくらい簡単だった。日本人将校や下士官が刀を携えていると、「武器没収中」の口実で教養された。もし持ち主が抗議すると、堂々とした受領書が渡された。大抵「ネット・ケリー」「ボブ・メンツィーズ」「ファー・ラップ」などと署名されていた。
情け深く、気前の良いアメリカ軍は補給の豪雨を降り注ぎ、貧困と欠乏の国にあって、キャンプは金持ち食通の楽園となった。私の友人が言った。「タバコ吸うのか。ケン」私が頷くと、キャメル、ラッキー・ストライク、フィリップ・モリス、テェスター・フィールド、オールド・ゴールド、トェンティ・グランド、サー・ウォルター、ラレイ、その他、ざっと二百箱近く入った雑嚢を私に寄越した。それで今では、日本人に時間を聞いた時など、私はお礼にアメリカ産タバコをさりげなく投げ与えることにしている。するとなみだにむせたような「アリガト」が何回もうやうやしく返ってくる。特別に頭を低く礼をした人たちには、しばしばもう一箱・・・・庇護者の親切が与えられた。
刀集めは実に面白い遊びで、私は成功率百%の手順を徐々に開発した。とてつもなく役立った小道具は、アメリカ軍が落とした厳かに印刷された書状で、はからずもそれは性病警告書だった。もし日本軍人が抗議し、刀を差し出さなかったら・・・・こんなことは滅多になかったが・・・・力で解決することは不可能だった。なぜなら「刀狩り」の実効性は完全にはったりに依存していたから。
こんな場合、私は性病書状を取り出してこんな具合に言う。
「オーケー。刀はお持ちになっても結構です。しかし武器引き渡しを拒絶した旨書いてあるこの証書にサインしなければなりません。それから、マッカーサーが来た時、裁判所に出頭して弁明しなくてはならないでしょう」
もしその証書を彼らに突きつけたまま、長々と呪文のごとくマッカーサーの名前を存分に発すれば、勝利は確実だった。
土産物狂いの捕虜がキャンプの周辺をうろつくと、刀剣はすぐに供給不足に陥り、とりわけ地元民は賢くなって、刀を包み、あるいは長い竹の中に隠して運んだ。
それで我々はナカマ(福岡・中間)に止まる列車を漁り始めた。私はこうして十七本目の刀ーーーー断然傑出していたーーーを手に入れた。
私は貨車の車掌車に踏み込み、米俵に腰をおろしていた二人の老人を調べようとした。一人はものすごく見事な刀を両足で支えていた。私はその刀を要求すると、老人は刀を両手でひっつかんで体にぴったしと抱きしめた。彼のにらんだ目はあまりにも激しかったので、私はすんでのところで思い止まるところだった。しかしながら、我々はただの土産物あさりであることが露呈することは絶対に避けたかったので、「武器没収」のマニュアル通りに、鉛筆と性病証書を取り出そうとしてポケットに手を入れた。
しかし、私が用紙を取り出すより先に、老人の連れが何か明らかに警告を発し、刀をつかみとって、文字通り私に押し付けた。
略)
十九連隊のクラリー・ハーヴェー軍曹は小柄、金髪、碧眼だったが、その童顔は本物の根性を秘めていた。ある夜、クラリーは私のところに来て言った。「おい、ケン、ナカマで列車を漁ったところで高がしてれいる。どうだ、数人でモジに言ってトウキョウ急行を止めたら?」
もちろん、それは気違い沙汰だった。しかし、クラリーの抜群の指揮力を前に私は同意し、ただひとつ、日本人がかなり尊敬している「ケンペイ」の腕章を通訳から我々に支給させるように勧告した。
次の日の夕方、腕章を完備して、我々十人はモジ駅長に押しかけ、武器を全部没収するまで急行列車を留め置くように命じた。
略)
果たせるかな、長い列車が駅に入ると、追い剥ぎどもが一両一両あさっている間中、その急行列車は留め置かれた。
略)
刀狩りが無事終わると、クラリーは不思議なぐらい弱腰な日本人客のトウキョウ行きを許可すると駅長に丁重に示した。駅長は頭を下げて「アリガト」を繰り返し言った。手に持ったランプは震え、我々の地位に対する畏敬の大きさを表していた。
我々は得意満面でキャンプに帰った。私は今や二十三本の刀持ちとなったが、自分の高級志向にそぐわないものはいくつか仲間に譲った。
生活が俄かにバカバカしいほど楽になった。我々は東洋の独裁者のように暮らし、多くの点で私はこんな生活が永遠に続いたらと願った。
旅行に行きたくなったら、最寄りの列車に乗って、最上の席を取った。たとえ座席がなくとも困らなかった。なぜなら、日本人はすぐさま仲間の押しやって、席を譲ってくれたからである。
略)
腹が空くと、最寄りの食堂に入って腰を下ろし、食事を求めた。支払いの請求はなく、サービスは至れり尽くせりだった。金銭は全く不要となった。>
P二百十〜二百十三

帰国途中のマニラでは
<マニラではアメリカ軍の指揮下で多くの日本軍捕虜が働いていた。ピーターはそのうち十人を「借り」られるかどうか、ある軍曹に尋ねた。そのアメちゃんは喜んで同意して言った。「奴らを徹底的に打ちのめしてやれ、任せたぞ」
ピーターはひどく心配顔の日本人捕虜十人を円座に座らせ、鉢盛りのライスを各人に与えた。「さあ、どうぞ」彼らはとまどっている捕虜に優しく言った「早く食べて」
十個の頭は下がり、微笑んで感謝と安堵を表した。鉢が空になると、ピーターは次々とライスを盛り付け、休まずに食べるように優しく強いた。しばらくすると、今や食傷顔の日本兵にけしかけて、食べていない者を見つけては直ちに蹴り付けながら十人の周りを走った。
やがて、ピーターの仲間が数人現れ、面白そうに眺めていた。まもなく・・・老練のライオンと人間の悪戯をないまぜにして彼らは叫んだ「ピーター、見ろ、あそこに食わない奴がいる」
一九四五年のマニラは刺激に満ちた所だった。そこには多くの素晴らしい呼び物があったが、今も忘れられない思い出は、青い顔をした日本兵がいやいやライスを噛み続け、ピーター・ドーソンが、食事を止めた者の背中を強く蹴り付けては一人一人巡っていた姿である。
p二百二十四
「あっぱれ日本兵」ケニス・ハリスン(Keneth Harison)成山堂書店 平成十三年刊

くそ気分の悪い文章の連続です。

これがオーストラリア人です。
オーストラリア人については手元に他の著書よりの引用もあります。

オーストラリア軍による我が国軍人捕虜虐殺

一名様来店。
一名様来店。
Mさん来店。

ドンチャン。
記憶あり。
猿よりマシ