日露戦争と大東亜戦争での武士道

日露戦争と大東亜戦争での武士道
12月20日土曜日雨○
 日露戦争時、第三軍司令官乃木希典大将が旅順二百三高地を占領した後、戦死した日本兵の遺体よりも、先に露西亜兵の遺体を片付けさせた上に、戦死者のための慰霊碑も、先に露西亜兵の慰霊碑から建立させ、日露合同慰霊祭を挙行した。
nogisyougun26.11.24

 写真は「日露戦争陸戦写真史」(人物往来社 平成九年刊)に掲載されていた勇将コンドラチェンコ少将の慰霊碑の写真。
nindoratyenko26.12.21

 コンドラチェンコ少将は無能なステッセル中将に代わってスミノフ中将を常に第一線で戦って支えていたが、明治三十七年十二月十五日、東鶏冠山で我が軍の二十八センチ榴弾砲により戦死する。
 旅順開城後、露西亜軍のある現地指揮官は
 「コンドラチェンコ将軍が死ななかったら、まだこの要塞はお渡ししなかったはずなのに−−」
 と言ったそうである。
 「日露戦争陸戦写真史」には乃木将軍の命により黄金山山麓の民家に妻や孤児達(旅順の戦闘で弊れた将兵の子供達)と仮住まいしているステッセルを訪ねた川上俊彦外務書記官の回想談が掲載されています。
 「ス将軍の住宅を訪れると、将軍夫妻は手を摂って歓待された。よって予は乃木将軍の贈り物なる葡萄酒、三鞭酒と鶏二十羽とを将軍に呈し、『陣中素り珍品に乏し、これただ乃木将軍の微志のみ、幸いに受納されよ』と述べたところが、将軍は満面の喜色を以てその厚意を謝し、且乃木将軍の家庭を問われから、予は『乃木将軍はその愛児二名とも戦死し、さらに養子にせんと内定された将軍の甥たる某士官もまた戦場の露と消えられた』と話したところが、将軍夫妻は暗涙を浮かべ、ことに婦人はすこぶる感動された模様であった」
(「乃木将軍とス将軍」戦時画報明治三十八年二月一日発行)

 米英記者団の要望で、水師営で会見した旅順要塞司令官ステッセル中将らとの記念撮影の際に、乃木大将は、帯剣を許しただけでなく、たった一枚の写真しか写す事を許さなかった。

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 乃木将軍は、露西亜の軍法会議(明治四十一年)で銃殺刑を宣告されたステッセル将軍の命を救うために、露西亜皇帝ニコライ二世に対して嘆願書を送って十年の刑に減刑させた上、死ぬ迄ステッセルの家族に生活費を送り続けたのである。後に、崩御した明治天皇の後を追って、乃木将軍が殉死すると、露西亜から匿名で香典が届けられたが、この香典は、ステッセルからのものだといわれている。

 日本海戦でバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥も、バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー提督を助けるためにニコライ二世に嘆願書を送り、これが幸いして帰国後の裁判で無罪となっている。
 
 この武士道は大東亜戦争でも同じであった。

 「ドイツはみな、万歳万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ」
 これは、大東亜戦争末期の総理大臣鈴木貫太郎海軍大将が昭和二十年四月十二日に病死した米国大統領ルーズベルトの死を悼んで送った弔電に対する、ドイツのノーベル賞作家トマス・マンの言葉である。
 当時、ナチスの迫害から逃れて米国に亡命していたユダヤ系ドイツ人のトマス・マンは、日本の総理大臣から送られてきた弔電に感銘し、ラジオを通じて「ヨーロッパの騎士道がアジアの日本に生きていた」と、全ヨーロッパのユダヤ人同胞に対して励ましのメッセージを送ったのである。

 「世界が語る神風特別攻撃隊」 吉本貞昭著 ハート出版 平成二十四年刊P二百三十八〜二百三十九 
 「日露戦争陸戦写真史」(人物往来社 平成九年刊)
 P二百十三〜二百三十四

 今日の東京は寒いうえに雨。
 まあ、寒いと言っても雪国の方達にとったら大した事はないのだろうが。

 二名様来店。
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 皆様、初めてのお客様ばかり。

 今日は酒は飲まず。