野中広務という売国奴

野中広務

金と女まみれの北朝鮮族議員
平成15年9月4日木曜日晴れ×
 日本の政界の北朝鮮族議員といわれている政治家は多いです。
万景峰号の入港問題でも活躍しています?
「万景峰号は不正送金、禁制品や覚醒剤などの密輸、工作員の密入国にもつかわれたといわれている。実際に警視庁が検挙した事例をみても、それは明らかだ。数年前に、万景峰号で対南工作の指示を受けていた人物を検挙している。
中略)
 本来は国として入港させない特別立法をつくるべきだった。私たちはその準備をしていたが、自民党にもいろいろな意見があって結局、通らなかった。要するに、自民党のなかにも北朝鮮族議員はゴロゴロいるということですよ」
「北朝鮮から金をもらい、訪朝した際には「喜び組」などの接待を受けているというはなしは枚挙にいとまがない。「喜び組」とベッドに2人でいるところを写真に撮られた政治家もいると聞いている。そうした北朝鮮との特別な関係が、弱味を握られる結果となって、北朝鮮の言うことを聞かざるをえなくなるのではないか。金正日体制が崩壊したら、そうした隠された事実が全部明るみに出てくるにちがいない」平沢勝栄衆議院議員の発言
(FLASH 2003年9月9日号 ページ19より)

 この北朝鮮族議員というのはだれをいうのでしょうか。
同じページで、「救う会」の佐藤勝己会長は「90年代以降は、自民党のなかに金丸信さん、渡辺美智雄さん、加藤紘一さん、野中広務さん、中山正暉さん、こういった方たちが、たえずコメを出すとか拉致問題を不問に付して日朝交渉をやれとかやってきたことが、今日まで拉致問題が問題にならなかった大きな理由の一つ」と述べています。

 黄元朝鮮労働党書記を日本に招こうとした行動にストップをかけたのは、中川秀直衆議院議員だそうです。
社民党、公明党だけじゃあなく、こんなに国賊議員がいるようです。
 同じく国賊で、史上最低の外務大臣の一人である河野洋平は単なるバカだったのでしょうか。

北朝鮮関係
 平成11年12月2日(幹事長代理当時)北朝鮮の錦繍山記念宮殿を訪問して
「ご生前中に3度にわたりご会見の栄を得ましたことに感謝し、金日成主席閣下の不滅の遺徳が、朝鮮民主主義人民共和国の永遠の発展と日本国との友好発展の上に、大いなるお導きを願い、永久不変万年長寿をお祈りいたします。」
(12月3日付読売新聞)

 平成11年11月23日(幹事長代理当時)、神戸市の新神戸オリエンタルホテルで開かれた党県連主催の会合で、北朝鮮政策について
「確かにテポドン、不審船、拉致疑惑といろいろある。(拉致疑惑で)先方と話をすれば、『三十六年間の(日本の)植民地支配はどうなる。日本は多くの人間を(朝鮮半島から)拉致していった』という互いにむなしい議論の戦わせ合いになる」
(11月24日付読売新聞)

 平成11年12月5日(幹事長代理当時)、NHKの報道番組に出演し。北朝鮮に対する食糧支援について
「隣国が困っているのに、援助をせず、心を通わせないで、拉致問題をはじめとする日朝間の課題が本当に解決するのか。日本の平和と安全のためにも、何らかのトビラをあけていくことが(戦争を知る)我々世代の責任であり、政治家の責任だと思う」
12月6日付読売新聞

 平成12年3月19日(幹事長代理当時)、島根県湖陵町で講演し、北朝鮮への米を十万トン支援することに関して
「日本人の拉致問題を解決しないで、米支援はけしからんというが、日本国内で一生懸命吠えていても(行方不明の)横田めぐみさんは帰ってこない」
3月20日付産経新聞

平成14年11月22日、都内で講演し、21日のテレビ番組で、地村保志さんの父、保さんが野中氏を批判したことを取り上げ、
「わたしは(地村さんと)一度もお会いしたことはない」と主張するとともに「蓮池薫さんの兄である)蓮池透さんもわたしが会ってくれなかったといっているが、面会を求められたことはない。このひとたちに冷たい汚い言葉をぶっかけたこともない」「身の危険を感じている。昨晩、標的になりつつある昨今のこわさを遺言に書きくわえた」
11月23日付産経新聞

 以上「正論」2003年11月号 政界を牛耳った野中広務猛語録 柿谷勲夫 P348~より引用

よ~く野中氏の北朝鮮への姿勢が表れている言葉の数々です。

「日本のメディアと専門家たちは、国民感情があるから拉致疑惑やミサイル、核問題などを先に解決しなければならないと主張するが、拉致問題といえば、日本は植民地支配当時、どれだけ多くの朝鮮人を拉致、強制労働、殺害してきたのか。
これに対する謝罪と補償を進めるという立場を、日朝国交交渉の過程で明確にすべきである。」
 この直後に、北朝鮮への人道支援として米の大量提供が始まる。

「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食料援助をすべきだと思って環境整備をしている」

お決まりの害務省からは

アジア局長を務めた槙田邦彦(現シンガポール大使)は、
「たった11人の(拉致被害者の)ことで、日朝国交正常化交渉が止まっていいのか」

拉致家族の方の会見における下記の言葉がすべてを物語っている。

「今までこの問題を無視し続けた国会議員の方々、社民・共産の方々、

 何か我々に言うことがあったら、連絡ください。」

何と重い言葉でしょう。

「もっと、はやく行動してくれたらあと、10年、5年早かったら」という家族の方達の言葉も重いです。

最後にこの売国奴どもに対しての
横田めぐみさんのお母さんのコメント
「それでやはり私は一番ね、本当に申し上げたいといつも思うんですけど、あの、今まで北朝鮮に何度か行って交渉しにいった方が沢山いますね、いろんな党派の方がいらっしゃいますけど、あの野中さんにしても土井たか子さんにしても、お名前を言っていいかどうかわかりませんけれど、そういう方達が一度も私たちに声をかけて下さったことは無いんです。
それでそういう方が「私たちは行ったけれども、なかなか大変な国だから、もうちょっとしたら分かるかもしれないから」と一声ね、声をかけて下さるとどんなにあれかと思いますけれど、どうしてそういうことができなくって、今はまたこういう事にこう出ていらっしゃるというのは本当に不思議です。
だから人というのは本当に恐いものだと思います。」

 土井とか野中とか村山、中山みたいに何度も北朝鮮にいきながら、偉大なる首領様バンザイしかやってこなかった売国奴どもは、このコメントをどう聞くのでしょう。
北朝鮮族議員といわれた野中広努

支那関係
*「戦争の惨禍を2度と繰り返さないために、歴史を鏡としてよりよき将来をつくる事が大事だ」
それに対して、張部長は
「歴史認識について立派な話をうかがった。みんな官房長官のようならいいのだが、そうではない。あなたは正確に歴史を評価している」と話した。
 平成10年8月20日(官房長官当時)来日中の張全景・支那共産党中央組織部長と国会内で会談 産経新聞8/21

*記者会見で「台湾は中国の一部である」
記者会見後、首相官邸報道室を通じて
 「台湾が中国の一部であるとの中国の立場を十分理解し、尊重するというのが、日本の立場」と訂正した
 平成11年9月21日(官房長官当時) 産経新聞9/22

*「(二階運輸相が率いた5000人の訪中観光団の北京での式典で)江沢民閣下から日中友好を重視するという趣旨のお言葉を賜り、日本国民一同、感激いたしております。」
「閣下から賜ったトキがまた子を産みましたが、名前をつけるにあたり、閣下の御意見がありましたら承りたいと存じます」
それに対して江沢民は
「日本の児童に任せた方がよい」と断った
 平成12年5月(幹事長当時)与党三党幹事長とともに訪中し、当時の江沢民国家主席に対していった言葉 産経新聞6/7 奇異なほどのへりくだりとして当時の中国総局長古森義久氏記

「正論」2003年11月号 政界を牛耳った野中広務猛語録 柿谷勲夫 P346~より

たまりません。なんでしょうこの支那に対しての卑屈さは。

野中広務氏の歴史観
平成20年7月31日木曜日晴れ × 
 石原慎太郎東京都知事が六月一二日に代官山のイタリアレストランで、野中広務氏が支那の駐日大使と仲介し、この日の宴席を主催したという記事が週刊文春七月二四日号に掲載されていました。
 野中氏は石原氏の「中国は好きだが、共産主義は嫌いだ」という言葉に「それなら自分で中国に行って確かめてくればいい。今の中国は、共産主義ではなくて修正資本主義だ!」と言い改革・開放から三〇年が経とうとする現代中国の実情をピタリと言い当てた言葉に、支那大使も苦笑するしかなかったとありましたが、この言葉が、今の支那を現しているとは到底思えません。
 支那は依然として共産党による独裁国家であり、国内の格差を無くする努力よりも、中華思想による覇権主義で軍事力を増強しています。その軍隊は国軍ではなく、共産党の軍隊です。
 野中氏をはじめ多くの日本人は、支那に対して持っている歴史観というものは、最初に戦争責任ありきではないでしょうか。
 
 下記は雑誌「世界」平成二〇年一月号に掲載された「政治家と歴史認識」と題した野中広務氏の発言ですが、野中氏の歴史観というものを知るには、非常にわかりやすいのではと思います。

 <安部さんは、歴史教科書問題をはじめとする歴史認識問題について、過去を美化する傾向を持ったグループと共に行動していましたので、私は心配していたのです。
 略)
 私の不安は残念ながら的中し、安部内閣は、まともな審議もないまま教育基本法を通し、強行採決を繰り返して多くの法案を通し、とうとう教科書検定や「慰安婦」問題まで発生しました。
 略)
 太平洋戦争の開戦時の内閣で商工大臣をつとめ、戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨に繋がれた岸信介が、釈放後に政界へ復帰し、やがて日本の総理になったことは、日本において戦争責任が果たされていない典型です。彼は「満州国」でも権勢をふるった人間です。>
(P238~239)

 <「小泉チルドレン」と言われる自民党の国会議員がたくさん出てきました。この中に最近、教科書問題や日中関係、歴史認識にかかわって、日本の過去を美化するグループも出てきています。はなはだしくは「南京大虐殺はなかった」という議論まで行う。これは非常に危ない事です。国政に携わる政治家としての責任が、あまりにも自覚されていない。
 明治から大正、昭和の時代にこの国が経験した事は何であったか。他国に侵略していき、他国の多くの非戦闘員や、自国民にまで多大な犠牲を強いた事実は、どうしたって否定することはできないのです。そして、他国民に与えたその傷はいまだに癒えないまま存在しています。>
(P240)

<日本軍はアジア全域に出かけていき、非常に多くの非戦闘員を傷つけ、死なせてきたのです。
 六二年が経過した今も、戦争の傷は癒えていません。未処理の問題も数多くあります。北朝鮮との国交回復・賠償の問題なども残っていますが、中国に日本軍が遺棄してきた化学兵器の問題や中国残留孤児の問題などもあります。こうした多くの未解決の傷跡を見るとき、まだまだ日本は無謀な戦争の責任を取れていないと思います。>
(p243~244)
<遺棄化学兵器問題は、その被害状況を知れば知るほど、本当に痛ましいことです。この前、被害を受けた方々が訊ねてこられました。日本軍が六〇年以上前に破棄してきた化学兵器によって、中学生になるかならないかの女の子が被害を受けているのです。その子は「自分の不注意でこうなったのだから誰かを恨もうとは思いません。だけど学校に行くと、私に近づいたら伝染するといって、みんなが私を差別するのです。それが耐えられません」と私に向かって泣いていました。いまだにこういう傷跡を残しているとは、本当に悲しいことです。私は言葉になりませんでした。
 内閣官房長官をつとめていた時に、外政審議室から「いま中国に約七〇万発の遺棄化学兵器があります」という報告を受けました。聞くと、日本の金で日本に持ち帰って処理する協定になっているといいます。協定を実施したのか確認したところ、一度もやっていないのです。私は「化学兵器が放棄されているのは鬱蒼とした森林や原野で、とても人間が入れるような場所ではない」という話を聞いていたので、日本に持ち帰って処理するのは非現実的で、協定は実行されない空証文のようなものだと思いました。

 <私は南京には、最初は一九七一年、次が一九八一年、次が一九九六年と三回行きました。
 最初に南京を訪れた時のことです。当時、京都府会議員をしていた私は、二〇〇人ほどの後援会員とともに上海・蘇州・南京への旅行を行いました。
略)
 ちょうど南京市に入り、南京城壁のところにさしかかったとき、そのうちの一人が突然うずくまって、体をガタガタと震わせはじめたのです。しまいには、土の上に倒れて体を震わせて動かないのです。私はびっくりして、看護婦に強心剤を打たせました。数十分が経過してから、ようやく落ち着きました。
 「どうしたんだ」と聞きました。すると彼は「私は戦争の時、京都の福知山二〇連隊の一員として南京攻略に参加し、まさにここにいたのです。いま南京に来て、当時を思い起こし、地の底に足を引きずり込まれるような状態蜷なり、体が震えてきたのです」と話し、当時の体験をはなしてくれました。
 その一つは、彼が南京に攻め込んだ時、倒れていた中国側兵士の命を助けた話でした。もう一つは痛ましい話でした。
「南京の城内に入った時、土嚢が積まれた家がありました。扉を開けて中を見ると、女性と子供がいるばかりだったので、私は上官に『ここは女、子どもばかりです』と言って扉を閉めようとしたのですが、上官が『何を言っているだ、その中に便衣兵がいるのだ、例外なしに殺せ、容赦するな』と言って命令を下し、私たちはみんな目をつぶって、火をつけてこの人たちを殺してしまった。戦争のなかで一番嫌な体験です。略)」
 略)
 そのようなことがありましたので、私は一九九八年に幹事長代理をつとめている時、略)
 廬溝橋の抗日戦争記念館にも参りました。そして、私は後援会員の話を現地で聞いていたので、南京虐殺記念館ができたと聞き、訪問することにしました。ただ、記念館の壁に「三〇万」という犠牲者数が掲げられているのを聞いておりましたので、大使館から電話をしてもらい、自分は自民党の幹事長代理として訪問するにあたり、三〇万という数字のもとでは献花できない、と言いました。南京で異常な出来事が起こされたことはわかっているけども、「三〇万」という被害者数は検証のしようがない。他に献花台を設けてほしいと頼んでから行きました。日本から随行してきた多くの新聞記者とともに記念館に入ったところ、日本軍将校による「百人斬り競争」を報じた当時の日本の新聞記事なども展示されており、自分の国の新聞がこんなことを書いていたのかと驚きました。
 私が訪れるまで、日本の政治家は誰一人として南京大虐殺記念館を訪れていませんでした。日本に帰国後、私が大虐殺記念館を訪問した事に対して街宣車が抗議に来たりもしましたが、評価してくださる方もいらっしゃいました。日中友好協会会長の平山郁夫先生が最初に電話してこられて「よく行ってくださった」と喜んでおられました。略)
その後、村山富市さんや土井たか子さんも記念館を訪れ、現在では多くの国会議員も行ってくれるようになりました。>
(p240~241)
 
  南京大虐殺記念館はどのようにして建てられたかということを知っていれば、このような発言はできないはずだし、遺棄化学兵器についても、その経過を国会議員として知っていれば、同様の発言は日本人とし恥ずかしくてできないでしょう。
 野中氏の考え方だと、今、世界各地で問題になっている地雷なども製造国が処理すべき問題のはずです。最大の保有国家、製造国家ひとつである支那には輸出した地雷についてその処理をしてほしいものです。
 しかし、野中氏の周りには「ガタガタと震えて動けなくなる」人が多いみたいです。なんとか現象でしょうか。
 
 人権擁護法案の成立を目指しても、野中氏は積極的に働いています。
 (二〇〇二年二月に国会に上程)
 二〇〇三年九月二一日の野中氏が国会議員としての最後の自民党総務会での発言。 
「人権擁護法案は参議院で真剣に議論すれば一日で議決できます。速やかに決議をお願いします」
「野中広務 差別と権力」魚住昭 講談社)p353

 野中広務氏は酒もたばこもすっかり止めたそうで、その理由を著書「私は闘う」(文藝春秋 平成八年刊)に書いています。
 それによると、酒は昭和三三年、京都園部町町長になったときに、町の一八〇〇万円の赤字(その時の町の一般会計は三七〇〇万円だったそう)があり、役場などが利用してきていた料理屋の借金が三五〇万円あったそうで、それを二五〇万円に値切り、一括返済したが、その時に町長が酒を飲めば、役場の関係する宴会が多くなるので、酒を飲まないと宣言したそうな。
 タバコは、最初に町会議員になったときから応援してくれた樋口浩さんという友人が、昭和五五年に脳内出血で倒れた時に願掛けして、一日八〇本吸っていたタバコを止めたそうで、それ以来吸っていないそうです。
 私は、タバコは若い時にいたずら程度で吸っていたぐらいで、止めるというほどのものではなかったですが、酒は無理でしょう。
 野中氏のこの強い精神力には敬服いたします。
 その強い精神力で、支那や朝鮮に相対してくれるとよかったのですが、違ったようです。

竹島・尖閣諸島発言にみる腐れ売国奴・野中広務の真骨頂
平成20年11月5日水曜日くもり ×××
 「諸君」一二月号に一〇月一〇日に、アホな集会が開かれたと毎日新聞九月二七日の新聞の記事を引用してコラムが書かれていた。そのアホ集会とは日本社会党浅沼稲次郎委員長が刺殺されて二〇一〇年で満五〇年を迎えるから四八年目のいま思い出すための集会だそうな。じゃあ、毎年でもできるじゃあねえか。
 「庶民派?政治家」だったそうな淺沼氏を「右翼の狂刃」が殺した。だから土井たか子女史(七九歳)、村山富市氏(八四歳)が呼びかけて、野中広務氏(八三歳)などが加わった追悼集会だったそうですので、私などは呼びかけ人とパネラーの七九歳、八四歳、八三歳という」年齢からして、余命を考えて早い目にかなと思ってしまいました。
 それについて、週刊新潮の一〇月三〇日号によると、そこで、野中氏は島根県議会が「竹島の日」を制定したことに関して、「島根県の小さな島がどうのこうのと言って、県議会が出て来た。(私は)議会が出て来てどうなるんだと言いましたよ。(県議会は)だいぶ怒っていたけど」と言い放ち、
 「韓国は怒るかもしれないけど、人が住んでいないのだから、あれは爆破したら良いんです」
続いて
「尖閣諸島の問題も日本は遅れて参加した。それが今、共同開発しようというところまで話が出来て来た。だから(日本は)一人前の国になって(領有権を)言い出したらダメですよ」

 腐れ売国奴の野中弘務氏のまさに真骨頂です。しかし、引退した身とはいえ、我が国の元国会議員が、島根県議会が決めた「竹島の日」についてケチをつけただけでなく、爆破しろとは何とも醜いものです。普通だったら、爆破ではなく、取り返すために「攻撃」か「爆撃しろ」というべきでしょう。
 尖閣諸島についても醜いものです。我が国の領土である尖閣諸島を、このように元国会議員、しかも、官房長官、自民党幹事長まで務めた男が言う。まあ、歴代自民党幹事長だったら、あの下等好位置いや加藤紘一氏、山崎拓氏、小沢一郎氏などのそうそうたる売国奴がいますけど。

 平成九年五月六日に尖閣諸島に国会議員として、西村眞悟氏が志しを同じくする仲間均石垣市議会議員、カメラマンの宮嶋茂樹氏、そして、ビデオカメラマンとして映像教育研究会代表の稲川和男氏の四名で上陸した時に、我が国の海上保安庁はサポートせずに、上陸を阻止しようとし、その行動について、売国奴である時の橋本総理は、地主の意思を無視したと非難し、同じく池田外相、梶山官房長官は支那の感情を害したと非難したそうです。
 ちなみに、支那政府は「西村代議士の行動は支那の主権に対する重大な侵害である。なぜなら、かれは支那領である尖閣諸島に無断で侵入した」と適切に問題の本質に触れていたと西村代議士の著書「誰か祖国を思わざる」(クレスト社平成九年)に書かれています。

 同じ著書に、平成九年二月二〇日の衆議院法務委員会において、前年一〇月七日、我が国の領土である尖閣諸島に無断上陸した香港、台湾人四人を逮捕しなかった事について西村代議士は質問しています。
それに対して、時の法務大臣であった松浦功氏は「国際関係に与える影響あるいは邦人の安全に与える影響等を総合的に判断して冷静に対処する方針である」として答弁を差し控えています。
 同じ質問を梶山官房長官(当時)にしたところ、
「いたずらに、事を構えるということも一つの方針かもしれないが、必ずしも事を構えるのがいいかどうか。一時的な上陸があったとしても、継続的なことはなし得ないという現実をよく見られたい」と戯けた言葉を吐き、それに対して西村代議士は
「この問題は、いたずらに事を荒立てないという問題ではない。我が国領土に不法侵入した者の逮捕を差し控えるということは、我が国の主権を尖閣周辺で放棄したことになる、という問題であるから聞いているのだ」と言っています。
 どちらが正論であるか。普通の国であったなら、無断で侵入すれば、逮捕どころか殺される可能性もあります。現に南朝鮮ジャンボ機は当時のソビエト領空侵犯で撃墜されました。
 普通の国では考えられない政府首脳部の異常さです。我が国政府はこのような異常な外交をやってきたのです。現政権には普通の外交をやって欲しいものですが、自民党にも売国奴がゴロゴロしていますし、創価学会公明党とつるんでいる限りは駄目でしょう。かといって、民主党は、あの岡崎トミ子など旧社会党から流れ着いた売国奴ネズミが多いので問題外・・・・民主党が政権をとると、腐れ売国奴・村山富市が首相をやった時と同じく、我が国は支那、朝鮮の格好のエサになるでしょう。
 さっさと政界再編をしてほしいものです。

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