西見省三と頌徳碑

12月25日日曜日晴れ◯
IMG_3447「木槿の国の学校」(上野瓏子著 上野幹久編 梓書院 平成28年刊)を読む。
著者の上野瓏子氏は大正九年に全羅南道羅州郡洞江面月良里にて西見省三、ユキ夫妻の次女として誕生し、その後、朝鮮半島で小学校教員となる。
父親の西見省三氏は明治四十二年、朝鮮半島にわたり、「西見農園」主任として綿花、果樹の栽培などを行い、夜塾を開き、農業、日本語、数学を教えたりした地域への貢献により、昭和三年三十八歳の時に洞江面に不忘碑(頌徳碑)が地元農民(小作人)の手により健立されています。
西見省三 のコピー関係ない本家の伯父の名が刻まれているのは本家に対して西見氏の気兼ねからだったそうです。
当時刊行された「全羅南道羅録」の人名録には次のように記されているそうです。
(一部現代語に訂正)
<西見省三(洞江面月良里)
明治二十四年、福岡県浮羽郡福富村に生まれる。
明治四十一年一月、朝鮮に渡る。明治三十九年に創業の西見農園の主任として農業経営に従事する。
当時朝鮮における営農者は、そのほとんどが都会地に居住し、賃金的なるを痛嘆し、実地に指導し、衆民に範を示すにしかずと遂に堅き決意を持って青春時代に都会生活を避け、一意農事の改良、地方農村の風紀の改善、衛生等に専念する。
明治四十三年、早くも優良小作人の表彰を行い、大正元年舎音制度(制度の内容不明)の悪弊多きを認め、これを廃し、組合組織に変更したるがごとき、当時としては非常の努力を要し、農事改良行事を実行し、道の勧農方針に基づき、さらに一段の改善を加えた結果、事績大いに上がる。
小作人並びに近在にある農民においては、二十有余年克己よく指導してきた氏の温情を慈父のごとく思慕し、ついに小作人並びに地方農民の発起をもって、氏の固辞するを聞かず、昭和三年十二月、その功労を永久に記念すべく、不忘碑を健立し、頌徳に報いたのである。
氏は、また地方公共事業については、献身的努力をいたし、現に羅州地主会評議員、潘南金融組合評議員、月良青年会長の公職を歴任、大正十年十月十日、日本農会総裁・梨本宮殿下より、農事篤行者として表彰される>
P三三〜三四

そして、終戦後も西見省三氏は恩顧に報いたいと地元有志より家屋や土地などは都合するから永住して欲しいと懇願されます。
結局、西見省三氏は我が国に帰国されることになるが、頌徳碑は壊されるのを恐れた地元の方々の手により地中に埋められたそうです。
P一八六

西見氏は地元の人々より「セゲンゴン(西見様)セゲンゴン(西見様)」と呼ばれて慕われていたそうです。

そして、二度と朝鮮の地を踏むことなく、昭和二十六年に六十歳でお亡くなりになっております。

上野氏のこの著書にはエピローグとして孫さん(仮名)という朝鮮人家族との付き合いも出てきます。
鹿児島の農学校(現鹿児島大学農学部)で学んだ三男は度々上野氏の弟さんの家を訪ね、西見氏の眠る浮羽の耳納連山の中腹にある墓に参り、墓地の周囲に植樹をされたそうです。
その時同行した息子たちに「今韓国では、反日教育が行われているが、本当の日本はそうではない。すばらしい国だよ。しっかり、自分の目で見ておきなさい」とかたっっておられたそうです。
しかし、この孫さん一家は「親日的」であることを理由で、いろいろと迫害を受け、戦後の生活はかなり困窮されいたようで、士官学校で学んだ二男は朝鮮戦争に従軍し行方不明になり、西見省三氏に資金援助をした長男は後に韓国政府に拘束され、拷問を受け、長い刑務所生活の中で精神を患い亡くなる。
数年後、韓国に住む孫さんの三男のご自宅を訪ねた上野氏の弟さんは、その困窮ぶりを見て、気の毒に思い、持っていたお金を全て渡してきたそうです。
昭和六十年、上野氏の二男の方が高校の修学旅行でソウルを訪れた際に、孫さん三男のご家族がホテルまで訪ねていらして、西見省三氏の孫に会えたことを大変喜ばれたそうです。

「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」がある南朝鮮では真実を言うことは大変なことだとよくわかる話です。

そして、反日教育により自分の首を自分たちでしめているのです。

アホらし

IMG_3443台湾のユーさんよりクリスマスプレゼントを頂く。
「GODZILLA」
スコッチウイスキーです。

今日は酒は飲まず。
猿でもエビでもない。