吉田満「戦艦大和ノ最期」とWGIP

5月26日木曜日曇り◯
IMG_1339下記は手元にあった「文藝春秋」平成十七年八月号に掲載されていた手記です。
その現場にいたもののみが事実を語れる非常に重い証言です。

<「戦艦大和ノ最期」六十年目の証言
元海軍士官が初めて明かす大和沈没の日の真実
松井一彦(弁護士・元海軍中尉)

四月七日、戦艦大和沈没から六十周年にあたるこの日、私は朝日新聞の「天声人語」を読み目を疑った。
紙面では、今日が戦艦大和が九州沖で米軍機の猛襲を受けて沈没した日であることを述べ、その戦闘に参加した吉田満少尉が戦後書いた『戦艦大和ノ最期』を紹介している。
<奇跡的に生き残った吉田氏が、終戦直後にてんまつを記した『戦艦大和ノ最期』は、時を越えて読み継がれてきた。大学を出たての青年の記述は今も鮮烈だ。>ここまではよい。
問題は二つ後の段落である。
漂流者で満杯の救助艇では、こんなこともあったという。「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、犇メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」
この部分だけ読んだ読者は、大和から投げ出されて救助艇の船ばたに殺到した漂流者の手首を救助艇の指揮者が斬る光景を、吉田氏が直接目撃して、<終生消エ難カラン>と述懐しているように読むだろう。しかし、これは二つの意味で問題がある。
第一に原文では、この前に「『初霜』救助艇ニ拾ワレタル砲術士、漏ラシテ言ウ」と、これが伝聞情報であることが明記されている。が、「天声人語」の引用ではこの部分がないため、あたかも吉田氏がこの光景を目撃したかのような印象を与える。
第二に、これが最も重要であるが、「こんなこともあったという」「手首切り」の事実は断じてなかったのである。
ここに出てくる駆逐艦初霜の救助艇の「艇指揮」とは、私である。当時、初霜で私以外の者がその任に当たった事実はない。実際には、大和ではなく同じ日に沈没した巡洋艦矢矧の救助を担当したのだが、艇指揮である私も、下士官も、後述するように整然と救助を待つ将兵たちを全力で救助したのである。この点については、吉田氏に手紙で申入れをして、返事をもらったことがある。
「天声人語」は戦争の悲惨さを示す具体的な事例として引用をし、
<戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭を思った。>と結んでいる。
朝日新聞に事実を伝えたが、「本に書かれていることを引用したに過ぎず誤報とは言えない」とのことであった。もっともな説明である。「天声人語」の引用に誤りはない。
しかし、このようなコラムによって、読者側に誤った事実が史実であるかのように印象づけられてしまっては、当事者である私は無念であり、また戦友たちにも申し訳が立たない。
ここで自分の経験を証言として残し、誤った事実が史実とされることを防ぎたいと思う。

生存者は整然と救助を待った
私は大正十三年生まれ。福岡県久留米市の福岡県中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)を卒業し、昭和十六年一二月江田島の海軍兵学校(七十三期) に入学した。十九年三月兵学校を卒業すると、二一駆逐隊付となり、十九年九月に少尉任官と同時に駆逐艦「初霜」に乗り組みとなった。
大和の最期のとき、初霜は大和からわずか千メートル程しか離れていない場所にいた。その模様を私は真近に目撃した。
四月七日十一時三六分、大和が「敵飛行機発見」の旗を上げ、戦闘が始まった。この日は雲が非常に低かった。上を見上げると、雲の切れ間に夥しい数の敵の飛行機が見えた。雲の中に飛行機が充満している感じであった。
第一波の攻撃で、大和は通信不能になり、これ以後初霜が通信代行艦になる。大和から送られる発光信号や手旗信号を無線で連合艦隊に転送する役を果たしていた。
大和は、たびたび被弾するものの当初は速力も落ちないし、傾きもしない。さすがに不沈戦艦だと思っていた。しかし時間の経過とともに、傾斜を深め、それを復元するために注水を繰り返したため、だんだん吃水が深くなった。そして左回頭を続けるようになった。
十四時過ぎ、敵雷撃機からの魚雷の発射があり、大和の左舷に水柱が上がった。そして左側に傾斜がさらに増し、艦の赤い腹が水面上に出てきて、その上に乗員がばらばらっと蟻のように乗るのが見えた。さらに七十、八十度まで傾いたと思った時、ちょうど艦の真ん中から巨大な火柱が上がった。乗員たちを含め、いろいろな物が一緒に吹き飛んだ。初霜では、皆が上甲板に立ち、親に死なれた幼児のような気持ちで、大和の最期を見つめていた。間を置かず、爆発による熱風が我々の顔を襲った。その熱さは、六十年たった今でも忘れられない。
初霜の艦長が、電報を口述したので私が筆記した。
「大和、更に爆撃を受け、一四二一(十四時二十一分)左に四五度傾斜して誘爆、瞬時にして沈没す」
という内容だった。
大和が沈没した後の海面は、重油と浮遊物が望見されるだけで、助かった人は一人もいない、という印象を受けた。敵の攻撃もかなり前から止んでいた。
大和沈没後、残ったのは初霜と冬月と雪風の三杯だけであった。この三杯であくまでも沖縄特攻を遂行しようと、我々は沈没現場を離れ、しばらく沖縄を目指して走った。しかし、十六時三十九分、連合艦隊から、「作戦中止、生存者を救助して佐世保へ帰投せよ」という命令が発せられた。そこで我々は沈没現場に戻った。
初霜は矢矧が沈んだ場所に向かった。私は初霜の艦長から第二水雷戦隊の司令官以下を救助せよという命令を受け、救助艇の艇指揮を務めた。海は一面重油で真っ黒で、生存者たちは重油まみれだった。双眼鏡で第二水雷戦隊の司令官、参謀を発見し、彼らをはじめ、順次生存者を救出していったのである。
生存者は、浮遊物につかまって救助を待っていた。目をやられて状況がわからなくなった兵士が、置いていかれては大変だと、声を振り絞って「助けてくれ」と時々叫んでいた。しかしそれ以外は、叫ぶ者も、救助艇に殺到する者もいなかった。彼らはただ静かに順番を待っていた。負傷した者を先にしろと、順番を譲り合うことさえあった。
多くの者は重油で全身真っ黒になっており、爆風で火傷を負った人も多かった。腕を掴んで引き上げようとすると、腕の皮がずるりと剥けたりした。そんな中、我々は、救助艇で艦と現場を何度も往復して、できる限りの生存者を助けた。
敵の飛行艇が射程外に着水し、自軍のパイロットを助けているのが見えたが、すでに戦いは終わり、海上はとても静かだった印象がある。私が見た光景は、砲術士が吉田氏に漏らしたような「今生ノ地獄絵」とは思えなかった。
大和の生存者の救助には、冬月と雪風があたった。直接見たわけではないが、砲術士の話のような事態が起きるはずがない。
救助は一八時一五分に打切られ、その後は航行不能になっていた霞と磯風に残っていた人員を初霜に移し、初霜は翌四月八日九時五〇分に佐世保に帰投した。
これが私の経験した事実である。
第一に、海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない。私は海上特攻作戦に際して、初霜の中に軍刀を持ち込んだ。いざ沖縄に上陸した際には必要になるからである。しかし艦内の士官室にある刀架けに架けたままだった。一刻も早く、一人でも多く救出しようというときに、わざわざ士官室に軍刀を取りに戻り、その重たい軍刀を持って狭い救助艇に乗る愚行を私はしていない。
第二に、救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない。救助艇は手こぎボートが数回り大きくなった程度のもので、重油で滑る船ばたに立って軍刀を振り回したら、バランスを崩して自分の足を切りかねないし、転落の恐れもある。
第三に、救助時には敵機の攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった。生存者たちは非常に秩序だって行動していた。
以上のような理由から、救助艇で軍刀を振るった「手首斬り」などあり得ないとしか言いようがない。

吉田満氏への手紙

私は敗戦から二十年以上が経過した昭和四十二年四月、初めて吉田氏に手紙を書いた。

「前略 未だお目にかかったこともないのに突然お手紙を差上げる失礼をお赦し下さい。実は貴殿の著書『戦艦大和』再版の新聞広告を見て前から気になっていたことを申し上げたいと思って筆をとった次第です。
私は大和の沖縄突入作戦の際、駆逐艦初霜の通信士として乗組み、戦闘後人員救助の際は初霜救助艇の艇指揮をした者です。
私は御著を昭和二十八年創元社発行『戦艦大和の最期』で読んだのですが海上特別攻撃隊という親展電報を受取って出撃した当時の感動をまざまざと呼び起され感銘深く拝読しました。記録としては、第一波来襲以後通信不能となった大和の通信代行艦として終始大和の側近に追随していた初霜から見ていた私の記憶と異る点もあり、多少気にならないでもなかったのですがそれらは全体として問題とする程のことではありませんでした。然し砲術士からの伝聞として記述されている「初霜の救助艇の艇指揮が漂流者の船べりにかけた手首を刀で斬った」旨の部分は事実ではないのはもとよりあまりにも残虐な記述として全く心外でした。当時初霜は水戦旗艦矢矧の救助に赴き大和生存者の救助は雪風が担当したと思いますので或は雪風の救助艇のつもりで書かれたのかもしれませんが雪風の救助艇においてもそのようなことがなかったことは断言できます。(中略)
戦争の体験談には往々誇張や歪曲はありがちなことで、他人の話を話として記述された貴殿に責任はないかも知れませんが貴著が記録的に記述されているだけに後の人に我々の戦った戦争を誤って伝える結果になることが残念です。御著が後世にも残る名著の一つだと思うだけに是非右記述部分は削除下さるようお願い致します。
戦争は悲惨なものであり残酷なものではありますが、私の体験した戦争には流石に中世紀的な、感覚的な残虐さはなく、むしろ人間の尊厳や、崇高さを感じさせる悲惨さがあったように思います。
艦を救う為に生存者がいることが判っていながらハッチを閉める等ということも理念としては考えられるとしても実際には僅少の例外的場合に限られ、戦闘下においても人命はそれ程安易には考えられていなかったと思います。まして本件の場合は既に戦闘も終り敵も去り波も静かな日本の領海同様な海面での出来事です。二者択一を迫られるような危機感は全くなく仮令救助艇が転覆しても他の救助艇によって全員救助できるような情況ですし何よりもあの小さなカマボコ内火艇の艇指揮に出るのに日本刀を携行するなどということは考えられません。(後略)」

吉田満氏からの返信

吉田氏からはわずか一週間後に返事をいただいた。文意が正確に伝わるように全文を引用させていただく。

「貴翰拝誦いたしました。わざわざご指摘いただき恐縮に存じます。ご趣旨はよく了解いたしました。
責任のがれの陳弁をするつもりはありませんが、二十二年前の出来事であり、記述であり、どこまでが『物理的』事実であったか、それは何びとにも明らかではないでしょう。又あのような大規模な異常事態の中で『記録』というものの意味も自らちがってくると思います。ただ私としては、自分がその時得た事実を意識して歪めたり誇張しようとしたりしなかったことは確言出来ます。あのような経験のあとで、作り事をしようという気持ちになれる筈はありません。
あの時の状況が比較的平静であったと書いておられますが、それは今の時点から振り返っての感懐であって、あの時あの状態での現実は、やはり異常なものだったと思います。残虐だとか非人道的だとか形容しておられますが、あの状景を私はそのように感じたことは一度もありません。又読者もそうは読まないと思います。中世の非人道的な戦争などとは比較にならぬ程悲惨であり虚無的であるのが巨大な現代な戦争なので、あの状景はその中の人間の一つの極致に過ぎません。個人の行為の残忍さなどというものを超えた空しさがそこにあるので、そういう読後感もいくつか貰っています。私はその意味で、(今の平和な日常からの連想を断ち切るならば)あのようなことがあり得るのが現代の戦争の特質であり、それが個人の良心や責任を超えた非情のもとであることを描いた点で拙作の一つの意味があったと考えています。
しかし当事者の一人として、それが事実でなかったという立場から抗議される気持も今の状況からみれば大変よく分りますので、次の出版の機会にあの部分を削除するかどうか、右に述べた私の立場と考え合わせながら充分判読し決断したいと思います。以上乱文乱筆要用のみにて失礼いたします」

吉田氏は「手首斬り」については、「どこまでが『物理的事実』であるかは何人にも明らかでないでしょう」という表現を使っておられる。明確な否定はしていないが、事実であると肯定しているわけでもない。吉田氏の考える「事実」には、「物理的事実」の他に恐らく「文学的事実」や「精神的事実」といったものもあるのであろう。そして、同じ日、同じ時間に同じ戦いを戦いながら、吉田氏と私とでは自分の経験をめぐる解釈が微妙に異なることに興味をもった。そこで、私はもう一度次のような手紙を書いた。

「早速御返事賜わり有難うございました。私の申し上げたいことは前便で尽きてはおりますが一、二補足したいと思います。
第一に私としては貴殿が歪曲されたとか誇張されたとして非難する気持ちは毛頭ないということです。貴殿の耳に入るまでに砲術士の外にも何人か介在し、段々尾ひれがついたのだと思うのです。従ってなるべく真実に近いものにして頂きたいと願う気持だけです。
次にあの記述の行為が残虐かどうかの問題について私と見解が異るようですが、それは当時の状態が平静であったか異常であったかという主観の違いに由来しているように思われます。
特攻隊の名を貰って出撃した我々の精神的緊迫感はたしかに異常なものでした。そして大和沈没後残った三艦(冬月、雪風、初霜)で沖縄に突入する覚悟をしていた時はそれが最高度に達していたと言えるでしょう。然しその直後冬月司令の照電に対し『作戦を中止し、生存者を救助して佐世保に帰投せよ』とのGF(連合艦隊)電を受けたあとは、それ迄の反動のせいか、完全に戦いは終り平静な気持であった印象が強いのです。米軍も射程外に飛行艇を着水させて搭乗員を救助しており、何かのんびりした気分だったと思います。
戦争が個人の良心や責任を超えた非情なものであることはよく判っているつもりです。捷号作戦でマニラへ緊急輸送の途中バシー海峡で陸軍の漂流者を発見し、二名までは救助しましたが散見されるその余は見捨てて先を急いだときなど正に非情を痛感しました。それ等を含めて戦闘下に何度か救助艇で出たこともありますが沖縄のときは最も平静で平穏だった記憶が強いのです。以上御判断の資に加えて頂ければ幸甚です。」

これに対する吉田氏の返事は特になかった。「手首斬り」の部分も削除されることなく現在に至っている。

六十年目のあの海にあった気高さ

仮にあのときが吉田氏の言う異常事態で、二者択一を迫られる極限状態だったとすれば「お前は手首を斬ることができたか」という設問は、その後、私の頭から離れなかった。
極限状態に於いては他人の生命を奪うことができるか、また如何なる場合にそれは是認されるかということは、平和に馴れきった時代にはあまり問題にされないことだが、考えてみれば人間のあり方の基本に係わる問題で、形を変えて日常選択を迫られていることのように思われる。
ただし、この議論がいまひとつしっくり来ないのは、他に解決策がないという極限状態を観念的に設定することは容易だが、現実問題としては「いまが極限状態である」という断定がなかなか困難であるためである。
六十年前の大和沈没後の海が、私にとって極限状態だったかと言うと、そうではなかった。海上で整然と救助を待つ戦友たちの態度の中に見たものは、観念的な極限状態という言葉を吹き飛ばす、人間の尊厳と気高さであった。私はどんなに解決策がないと思われようとも、絶望に陥らない人間の強さを信ずる。私は、戦時でも平時でも、他人の生命を犠牲にする前に自分の生命を賭しても飽くまで危機の打開に全力を傾注する道を選びたいと思う。
世間には誤った事実を史実の如くに扱い、戦争の悲惨さを強調する観念的態度は、いつまた架空の極限状態という観念をこしらえ、国民を過たせる日が来ないとも限らない。

吉田氏とは一度お会いして話してみたいと思っていたところ、昭和五十四年に満五十六歳で急逝された。
氏が死の直前に口述された「戦中派の死生観」を読むと、青春を戦争に翻弄され、戦後は働きづめに働き続けた戦中派に対する深い同情を寄せられ、「一度捨てた命だからこそ、本気で大切にすべきではないのか。死んだ仲間の分まで大いに長生きしようではないか」と述べておられる。
氏より一歳年下の私は、戦後は弁護士として奉職し、氏の言葉に従ったわけでもないが、現在八十歳になる。>

「文藝春秋」平成十七年八月号P二百八〜二百十四

戦艦大和32 のコピー 戦艦大和 33 のコピー
戦艦大和 37 のコピー 戦艦大和38 のコピー

そして、書いたことがあるが産経新聞にも松井氏の証言として下記の記事が掲載されていた。

<吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き
救助艇指揮官「事実無根」

戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。
『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。
この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。
これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(八十)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。
その理由として
(一)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない
(二)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない
(三)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった
と指摘した。
松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。
松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。
しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。
戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。
松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。

『戦艦大和ノ最期』 戦記文学の傑作として繰り返し紹介され、ほぼ漢字と片仮名だけの文語体にもかかわらず、現在出版されている講談社文芸文庫版は十年余で二十四刷を重ねる。英訳のほか市川崑氏がドラマ化、朗読劇にもなった。昭和二十一年に雑誌掲載予定だった原文は、連合国軍総司令部(GHQ)参謀二部の検閲で「軍国主義的」と発禁処分を受けたため、吉田満氏が改稿して二十七年に出版したところ「戦争肯定の文学」と批判された。現在流布しているのはこの改稿版を下敷きにしたもの。原文は米メリーランド大プランゲ文庫で故江藤淳氏が発掘し、五六年刊の自著『落葉の掃き寄せ』(文芸春秋)などに収めている。
平成十七年六月二十日産経新聞>

IMG_1657故江藤淳氏が留学中に米国の州立メリーランド大学マッケルディン図書館東亜図書部にあるゴードン・W・プランゲ文庫により、GHQによる我が国の歴史、思想解体が明らかになった一つは吉田満の『戦艦大和ノ最期』の最後の下記の部分である。

<眞摯の生、それのみが死に對する正道。虚心。眞摯。――徳之島西方二十哩の海底に、埋積する三千のむくろ。かれら終焉の胸中はたしていかん。>

『落葉の掃き寄せ』に全文掲載されている初稿では

<乘員三千餘名ヲ數ヘ、還レルモノ僅カニ二百數十名
至烈ノ鬪魂、至高ノ錬度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ(終)>

「落葉の掃き寄せ」p三百三十八 江藤淳著 文藝春秋 昭和五十六年十一月二十五日

そして、それだけではなく、この初霜の救助艇の場面も大きく書き換えられていることが「落葉の掃き寄せ」を読めばわかる。
世に出ている『戦艦大和ノ最期』では

<「初霜」救助艇ニ拾(ひろ)ハレタル砲術士、洩(も)ラシテ言フ
救助艇忽(たちま)チニ漂流者を満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ陥ル 更ニ拾集セバ転覆避ケ難(がた)ク、全員空(むな)シク海ノ藻屑(もくず)トナラン、シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴(あしげ)ニカケテ突キ落トス、 セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ハントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢(あ)ヘナクノケゾッテ堕(お)チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼(まぶた)ヨリ終生消エ難カラン、剣ヲ揮(ふる)フ身モ、顔面蒼白、脂汗滴(したた)リ、喘(あえ)ギツツ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄絵ナリ>

であるが、「落葉の掃き寄せ」には初稿全文が掲載されている。それを読むと初稿には初霜の救出場面は下記のようになっている。

<「初霜」救助艇指揮官「船ベリニ手ヲ掛ケテ離レン奴ガ居ルカラ引キ上ゲテヤツタガ、エライ苦勞シタ」
P三三四

たったこれだけである。
手首を切る場面などないのである。
それだけでも、吉田満の創作ということが理解できる。

江藤氏はGHQによる検閲が終わった後もそれを直さずにそのままにしていた吉田氏の姿勢を下記のようにも書いている。

<作者は、さらに敗北し続けていたのではないだろうか。
そして、作者とともに『戦艦大和ノ最期』のヴァリアントのみに接してきた我々もまた、敗北のみを「獲得」してきたのではなかったろうか。
さらに、作者の前にかつて存在した検閲の遺産は、ほとんど空気のように変形しながら今でも存在し続け、戦後日本の文学作品をも我々を拘束し続けているのではないだろうか。>
P二三一

「検閲の遺産は、ほとんど空気のように変形しながら今でも存在し続け」「我々を拘束し続けている」というのは、これは文学だけでなく今の我が国全体に言えることではないだろうか。
九条平和主義などというのはその典型であろう。

アホらし。

めちゃ暇。

飲まずにさっさと帰宅。
猿でもエビでもない。