朝鮮人は息をするようにウソを言う 高秉雲と朴尚徳

朝鮮人は息をするようにウソを言う
高秉雲と朴尚徳
2月26日金曜日晴れ△
IMG_0726 元朝鮮大学教授、大阪経済法科大学客員教授の高秉雲氏の著書「略奪された祖国」(雄山閣出版 平成七年刊)によると、
第三章 日本の朝鮮森林収奪として
<日本が、朝鮮の森林資源略奪を始めたのは以前からの事であるが、明治維新後、激しさを増すようになり、これが大々的に強行されるようになったのは、一八九四年の東学農民戦争、清日戦争の頃からである。
この頃から鬱蒼たる朝鮮の森林は、一部に禿山が現れ始めた。
日帝は、この清日、露日戦争、それから義兵闘争、第二次世界大戦の全期間を通じて、朝鮮の豊富で良質な木材資源を焼き払い、大量に略奪した。それから、朝鮮を完全に植民地とした日帝は、朝鮮の森林資源のすべてを侵略戦争に総動員し、日本の軍需経済に従属させる方法で、乱伐した。
こうして、朝鮮半の鬱蒼たる森林資源は、荒廃化していったのである。しかし、日帝はこの責任を朝鮮人民に転嫁しようと血眼になって策動した。>
(P一〇三)

このように書くが、朝鮮を併合前に旅したイザベラ・バードは下記のように書いています。
IMG_0727<ソウル近郊の木が伐られて裸にされた丘、海岸、条約港、そして主要幹線道路などは印象的ではあるが、この国に大変好ましくない感じを与えている。南部朝鮮の多くの地域に在る材木貯蔵所は閑散としている。しかし、北部と東部地方の山々には、特に豆満江、鴨緑江、大同江、漢江の水源地を囲み地方には、まったくのところかなりの原始林がある>
P三六~三七

<釜山の外国人慰留地は、頂上に仏閣がある険しい絶壁の上に聳え立っており、一五九二年(肥後丸が寄港した対馬島は、私が日本を最後に見た所である。対馬島の紅葉した楓と花咲く西洋李、神殿が建っている高台、森の中の神杜へと通じている荘厳な石段、青々とした松林と金の羽のような竹の葉が、釜山の木が伐られて裸にされた褐色の丘が生み出す印象の、夏には心地良かろうが陽の差さない二月の日中には厳めしいその不気味さを強調していた。
略)
壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争)初年度)の日本人占領中に植林された見事な杉木立で隠されている。>
P四十六〜四十七

「朝鮮奥地紀行 一」(イザベラ・バード著 朴尚徳訳 平凡社東洋文庫平成六年刊)

手元にあるその後に出された同じ高秉雲氏の編書「朝鮮史の諸相」(雄山閣出版 平成十一年刊)には高秉雲氏の経歴が詳しく掲載されています。
それによると、
昭和二年(一九二七年)に済州島に産まれ、
昭和七年(一九三二年)に父母とともに大阪に渡る。
昭和九年(一九三四年)大阪市立中本第四小学校入学
昭和十四年(一九三九年)済州島に帰り、済州公立北国民学校六年転入
昭和十五年(一九四〇年)卒業
済州公立農業学校入学昭和二十年三月卒業
昭和二十二(一九四七年)大阪に渡る。
昭和二十三年(一九四八年)大阪商科大学(現大阪市立大学)入学
昭和二十六年三月(一九五一年)卒業
昭和二十六年四月    東京商科大学大学院入学
昭和三十四年三月(一九五七年)    同大学院修了
昭和三十五年(一九六〇年)大阪朝鮮高級学校就任
昭和三十八年(一九六三年)朝鮮大学校教員就任

この編書にも高秉雲氏は「日本の朝鮮火田民政策」として下記のように書いています。
<一、朝鮮総督府の火田民政策 日帝は「林野調査事業」により、広大な朝鮮の林野を収奪するとともに、無尽蔵な朝鮮森林を乱伐した。この森林の大乱伐は、綿密なる計画の下に推進された。>
P四
<火田民たちは食糧が無くなると地主や高利貸しより借金をする。または草木木皮をもって空腹をまかなうのである。しかし、このことが続くと顔が腫れたり、腹が膨張したりする。 これは植民地下の朝鮮農村で春窮期によく見られた現象である>
P三〇

このように強制連行されて来たわけではないのに、帰ろうとしないで反日活動にいそしんでいる在日朝鮮人の恥さらし朝鮮人によって書かれた「朝鮮半島の山から木を切り出し丸坊主にしてしまったのは日本人だ」というのもウソとわかります。
しかし、こんなアホが教授をやれている朝鮮大学と客員教授として迎えている大阪経済法科大学の程度がわかる事例です。

また、先に引用したイザベラ・バードの著書「朝鮮奥地紀行 一」を訳した朴尚徳氏について、この「朝鮮奥地紀行 一」の後書きによりますと、朴尚得氏は一九二七年朝鮮生まれで、一九三五年に我が国に父親を尋ねて母親と来たそうで、東京大学文学部を卒業しています。そして中学校に入学した時に、学校に提出するために戸籍を取り寄せたところ、新井尚得に父親も関知しないのに変えられていて、「創氏改名を強制されたのである。一九四五年の日本帝国主義支配からの朝鮮解放、民族解放によって本来の朴尚得に戻せた。」と書いています。そして「つまり私は社会の下層で成長した人間なのである」とも書いています。
創氏改名については朝鮮人らしいウソを平気でついています。
あと、社会の下層で成長した人間でも国立大学に入れる日本はすばらしいと思うのですが。
文章中の注約のところでも、朝鮮という国名について、二つの候補を挙げ明朝廷の裁決を乞うたという事実を隠して書いている。(p三一~三二)両班については「一九四五年の民族解放とともにはじめて一掃された」P八四、などとウソを書いています。
まあ、何と言っても後書きにはお約束の「豊臣秀吉の侵略をうけ、四百年の永い年月が経ってもすっかり拭い切れない程の大災難を祖国朝鮮に、朝鮮民族、朝鮮人民にもたらしたのであった。更に朝鮮と日本、朝鮮人と日本人の間に計り知れない程の不和、難問、増悪、忌避などの不幸な事態をきたし、本来一衣帯水で親善、連帯を強められる筈の間柄を極度に悪化させたのである」
P三六九
と書いています。
四百年前の朝鮮征伐(この言葉も使うなと書いております)による影響がまだある朝鮮って何でしょう。じゃあ、いったい四百年間朝鮮人は何をしてきたのでしょう。四百年間も残る拭い切れない大災難ってどんなのでしょう。我が国がアメリカより受けた被害よりすごいのでしょうか。そんな凄い被害を朝鮮征伐軍は朝鮮に与えてることができて、どうして撤退したのでしょう。あほらしい話です。つまるところ、朝鮮人にとってはいつまでも我が国が加害者で自分達は被害者でなければ、いろいろと困るということでしょう。
まあ、「(朝鮮侵略と)史実を正確に言って欲しいものである」P三六八と書きながらこんなアホな事をつぎつぎと平気で書くこの朴尚得氏という在日朝鮮人。何とも分かりやすいお人としか言い様がありません。

このアホは下記のようなことも書いています。
<人格の尊厳はこの人間の本質を成している民族の自覚と誇りに基づいているものである。と私は考えている。逆に言うならば、人は自らの民族を自覚し、誇れるようになり、同時に他民族の人々を自己同様に尊重できるようになった時、初めてしっかりした人格を持った人間に成れるのであると私は考えている>
P三百六十二〜三百六十三
とご立派なことをほざきながら平気で嘘を言い、我が国に集って生きている人間のクズだから、自分が訳したイザベラバードの著書について下記のように解釈できるのでしょう。

<ビショップ夫人はその広範に亘って旅したどこの国よりも結局のところ朝鮮を深く愛し、朝鮮人を評価し、愛着を示している。>
P三百六十五

そのイザベラ・バードが愛してやまない朝鮮についての記述
ソウルの海港済物浦(仁川の旧地名)において日本人、支那人などが幅をきかせているとして
<読者は、済物浦のどこに朝鮮人が居るのか、と疑問に思うであろう。事実私はほとんど朝鮮人のことを忘れていた。というのは、ここでは朝鮮人はとるに足らない存在だからである。増えて大きくなっている朝鮮人の町は、ソウル街道の日本人居留地の外側に在る。イギリス教会が建っている丘の麓を巡って密集し、匍い登っている。どこの岩棚にも置かれている泥のあばら家には、不潔な路地を通って行ける。無口できたない子どもたちが群がっている。その父親の無為を真似て大道で傍観している。朝鮮人は丘の頂上の政府の衙門にも居る。朝鮮人の処罰方法である衙門の使い走りによる残忍な鞭打ち、犯人を死なせる打ちのめしによる苦悶の呻き声の中に朝鮮人は居る。その呻き声は、隣接しているイギリス教会のいく室もの部屋を貫通している。朝鮮人はまた、殆ど全ての衙門を不正の巣窟にしている。賄賂と汚職のなかにも見られる。二重になった屋根のある通用門と出入口の上の太鼓状の館が、よそものに首都と済物浦の活力は外国人のものであるけれども、政府は土着人のものである事を思い出させている。>
P六二~六三

そして、愛してやまない朝鮮人については
<海岸沿いの岩の上に席を占めているのは、ペリカンかペンギンに似ている白いものである。
ところで人間の歩き方をするその白いものが、古い釜山と新しい釜山の間をあちらこちらと終わりのない行進を繰り返していた。岩の上に席を占めているものと同種のものではないか、と憶測された。>
P五十一

ソウルについては
<私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また 紹興の悪臭に出会うまではもっとも悪習のひどい都市と考えていた。
大都市、 首都にしては、そのみすぼらしさは名状できないほどひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられた人々が「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしかない。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い緑によっていっそう狭められている。そのどぶは半裸の子供たちやどろどろしたへどろのなかを転げ回るか、日なたで目をぱちくりさせている汚物で汚れた大きな、毛の抜けたかすみ目の犬が大好きでよく行く所である。そこにはまた「小間物」やアニリン染料でけばけばしく色付けされたキャンディーの行商人も居る。その行商人はどぶに厚板を二、三枚渡して店を常設している。その品物は多分一ドルかそこらの値うちしかない。
略)
これらのどぶと隣接している家屋は一般に、深い庇と藁葺き屋根のあばら屋である。 その家は、泥壁の他には通りに何も見せていないが、時折屋根のすぐ下に見られる小さなかみの窓で人の住むところであると示している。
いつも変わらずに、どぶの上の二フィートから三フィートの高さの所に黒くなった煙の穴、煙と熱せられた空気の抜け口がある。 これは家屋の床を暖める役目を果たしている。
略)
反り返った瓦屋根のある上等な家屋も、この下品な外観以上のものを通りに見せてはいない。>
P七一~七四

<ソウルの「風物」の一つは小川、廃水渠または水路であり、塀で囲まれた、覆いのない広い導水管である。それに沿って、黒ずんだ色の爛れたような流れが、かって砂利だらけの川床であったところを覆っている肥やしや廃物の山の間の、悪臭がする長い広がりをのろのろと進んでいる。そこで、男たちだけの群集に疲れた人は、最下層の女たちの光景で活気づけられるかもしれない。ある女の人は、おたまで手桶に水として通用する混合物を汲んでいる。他の女性は、流れとして通用する悪臭を放つ水溜まりで衣類を洗っている。>
P八十二

<最下層の女性に就いて述べてきた。日中着物を洗い、水を汲む。多くの女性は家事の奴隷になっている。みんな最下層階級の者たちである。朝鮮の女性は非常に厳しく隔離されている。恐らく他のどこの国の女性よりももっと完全に隔離されていることであろう。>
P八十五~八十六

犬について
<この何マイルにも亘る泥壁、深い庇、緑色のぬるぬるした溝と黒くなった煙の穴の間では、男の住人と重荷運搬人を除いて動くものは滅多に見られない。ここは毛の抜けた犬どもの天国である。全ての家に犬がいる。屋根の垣根には、その犬がちょうど腹這える大きさの四角い穴がある。犬は見知らぬ人に向かって猛然と吠え立てるが、傘を振り上げると逃げる。犬はソウル随一の掃除屋である。ひどく無能な掃除屋である。犬は人間の友でも伴侶でもない。犬は朝鮮語やその他全ての話される言語に無知である。犬の夜鳴きは危険な泥棒を知らせる。犬はほとんど野生である。若い犬は春、殺されて喰べられる。>
P八十五

<朝鮮人にとってソウルは、そこでのみ人生を生きるに価する場所なのである。
それにも拘らず、ソウルには美術の対象になるものは何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の希有な一件を除けば見せものも無い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃虚も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルには寺院無しの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている!
孔子廟とそして中国同様朝鮮で孔子の銘板に対して公的に表明される敬意を除いて、ソウルには公の神殿は一つも無い。違反したら死の処罰を受けるという条件があるので、僧侶はソウルの門内に立ち入らない。その結果ソウルは、中国または日本のもっとも惨めな都市にさえ見られる、宗教上の建物が与えている崇高な感銘を欠いている。>
p一〇六~一〇七

そして、同時期にソウル(当時は漢城)にあった日本人居留地についてイザベラ・バードは下記のように記しています。
<南山の斜面に、日本公使館の簡素で控え目な白い木造建築があった。その下に在る約五千人の日本人居留地には茶屋、劇場と、そして日本人の安寧に欠かせないいろんな設備が整っていた。そこにはその全てで朝鮮人のものとは鋭い対象をなしている商店や、家屋のある通りが見られた。清潔、上品そして倹約がこの上なく行き渡っている。被りものをしていない女たちや帯びで締めた化粧着を着て、下駄を履いている男たちが、日本に居るのと同じ様に自由に動き回っている。そこにはまた極めて小さな兵隊たちや憲兵、さらにきちんとしている、佩刀した将校たちが見られる。彼らは適当な間隔で見張りを交替している。そのような警戒が必要なのである。>
P八十

私程度の頭では、どう考えてもイザベラ・ビショップが朝鮮、そして朝鮮人を嫌がり、愛想を尽かしていたとしても愛していたとは思えないのですが。

だいたい、
<このような見地から私は原書を一字一句忽せにしないで、忠実に辿って訳出することにしたのである。>
p三六六
と訳書に書く朴氏ですが、この朴尚得氏訳が出された一年ちょっとのち(一九九五年)に同じく「朝鮮紀行」(イザベラ・ビショップ 時岡敬子訳 図書出版社)として出版されています。
IMG_0728その「朝鮮紀行」の後書きには呉智英氏の解説として下記のように書かれています。
<つい最近、本書刊行に先立つことおよそ一年前、平凡社東洋文庫に朴尚得氏の手になる翻訳が『朝鮮奥地紀行』(全二巻、一九九三年十二月、一九九四年一月)として収録された。本書はこれとは全く別箇に訳出作業を進めていたものであるが、その途中朴氏の翻訳刊行を知ることになった。通常こういう場合、販売上の不利益を考えて後発者の方が出版を断念する。しかし、本書は訳出作業を中止せず、あえて刊行に踏み切った。
その理由は、朴尚得氏訳『朝鮮奥地紀行』には誤訳や不適切訳が多すぎることである。本書の訳者時岡敬子氏が朱線を入れてきた数百箇所について、原書、朴氏訳、時岡氏訳、それぞれを検討してみると、朴氏約平凡社東洋文庫版の不備の著しいことが英語の全く不得手な私にも明瞭であった。
「筆者前書き」から実例を幾つか挙げておこう。

朴尚得28 朴尚得 29

以上で十分だろう。わずか三ページの「筆者前書き」にざっと見ただけでも四箇所もの誤訳・不適切訳があるのだ。全巻では数百箇所に及ぶことが容易に推察できるはずだ。どんな翻訳にも誤訳はつきものである。また、誤訳を恐れたり、神経質になりすぎると、名著良著の翻訳が遅れる。それを承知の上でも、朴尚得氏の訳には感心できない。平凡社東洋文庫という権威を信じて朴氏訳を読んだ読者を大きく裏切ることになるからだ>
p四百八十九〜四百九十三

アホらし

ドンチャン。
記憶あり。
猿よりマシ。