八紘一宇と東京裁判

2月14日日曜日雨のち晴れ◯
八田中智學が造語したとされる八紘一宇であるが、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における八紘一宇の語の使用が禁止された。
平成二十七年三月十六日の参院予算委員会において、多国籍企業に対する課税問題を取り上げた三原じゅん子参院議員が「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘した際に、「八紘一宇」という語に言及したことが侵略を正当化するんものだと腐れマスゴミや左巻きが騒いだ。
大東亜戦争に敗戦した我が国に対して、占領軍は昭和二十年十二月十五日に「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保護、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」俗に「神道指令」と言われるものであって、国家と神道との分離を要求し、「大東亜戦争」「八紘一宇」の標語を公用語より排除するよう命じたものである。

神道指令
(ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル

文部科学省ホームページより
連合国軍最高司令部指令
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317996.htm

以来「大東亜戦争」は「太平洋戦争」と呼称され、「八紘一宇」の精神はアジア侵略のスローガンとされてきた。
例を示すと、田原総一朗著「日本の戦争」(小学館 平成十二年十一月二十日刊)の「第七章八紘一宇」には「天皇の下に万国統合」とされている。また、高名な保守派の論客松原正氏は「月刊評論」(平成十二年九月十八日号)の「保守とは何か 小林よしのり氏を叱る二」で<「大東亜共栄圏」も「八紘一宇」も子供騙しの物語に過ぎず、道徳とは何の關はりも無い>という評価である。
「猶太難民と八紘一宇」p二十

左巻きの好きな今の我が国憲法を作らせた占領軍は極東国際軍事裁判において、検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが、東条英機の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「ウェッブ裁判長もこれこそ日本を侵略戦争に駆り立てた世界征服思想であると信じきっていたようである。被告中、平沼騏一郎氏や荒木貞夫氏らはこれを憂え、この誤解を解きたいとの希望の切なるものがあった。いうまでもなく、八紘一宇は世界中の人類を一家のごとく考えるという平和な思想である。八紘とは四つの角、四つの隅で、世界中というということ。一字は一家で、世界中の人々を一家中の者のごとく相和するという意味であって、これが神武天皇肇国の理想である。明治御一新の時、・・・・・岩倉具視や維新の中心人物は健武中興ではいけない。・・・・明治維新は日本肇國の精神すなわち神武天皇の教えられた精神でいかなければならぬといい、これが慶応三年(一八六七年)十二月の大号令となり、明治四年の廃藩置県となった。そこで、私らは我国の古典、明治当初の文献などに翻訳をつけて提出し、平沼氏の推薦により井上孚麿氏を証人として、このことを十分説明してもらった。この照明は成功し、八紘一宇や皇道は日本道徳上の目標であると認めざるをえなくなった。」
「猶太難民と八紘一宇」p十九〜二十一
と書き、日本弁護団副団長として清瀬一郎氏は、その「冒頭陳述」で次のように「八紘一宇」の精神を説明している。

<三国同盟締結の際、渙発せられた詔書はさらに「八紘一宇」の文字を分解(パラフレイズ)しまして「大義を八紘に宣揚し、坤輿を一宇たらしむるは実に皇祖皇宗の大訓にして、朕を夙夜拳拳措かざる所なり」と仰せられております。
ここに「大義」というのは普遍的の心理という意味であります。宣揚すというのは世界に明らかにし表現するということであります。「坤輿を一宇たらしむ」というのは、全世界人類が一家族中の兄弟姉妹と同一の心持ちを持って、交際するという意味でございます。
前に述べました通り、我が国の文化は欧米諸国のそれとは源流を異にしますから、その表現方法は必然的に違っており、また奇異にさへ感ぜられるものでありましょう。
一九四一年、ハル長官と野村大使との交渉の基礎になった日米了解案には「八紘一宇」は世界同胞主義ユニバーサル・ブラザフッドという翻訳がされております。三国同盟条約の前文も、この正しき意味に於いて解釈すべきであります。
この条約締結の際、独伊に於いて如何なる考えを持っておったにしても、我が国の当事者において独伊と共同して世界を征服するなどという考えはなかったのであります。>
P二十一〜二十二

判決文
<「皇道と八紘一宇の原理」
日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によるといわれる詔勅が、その時に発布されたといっている、この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。
第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。
行為の第二の原則は「皇道」の原理であって、文字どうりにいえば「皇道一体」を意味した古い成句の略語であった。八紘一宇を具現する途は、天皇の仁慈に満ちた統治によるものでった。従って 「天皇の道」・・・皇道または「王道」・・・は徳の概念、行為の準則であった。
八紘一宇は道徳上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標に達するための道であった。
これらの二つの理念は、明治維新の後に、ふたたび皇室と結びつけられた。一八七一年(明治四年)に発布された勅語の中で、明治天皇はこれらの理念を宣言した。その当時に、これらの理念は、国家組織の結集点を表現したものであり、また日本国民の愛国心への呼びかけともなった。>
P二十二〜二十三

東京裁判について清瀬一郎氏は無念な胸の内を著書に下記のように書いているそうである。

<この長い裁判の中で弁護側の証明に成功したのはただ八紘一宇が侵略思想でないということと、タイ王国は我が国の同盟国であって、タイ国の俘虜に対する虐待はあるはずがないという二つぐらいである>
P二十四

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「猶太難民と八紘一宇」上杉千年 展転社 平成十四年刊

このように八紘一宇について、醜い東京裁判でさへ「侵略思想」ではなく我が日本民族の建国以来の道徳思想であることを認めたのである。
よって、三原議員の「八紘一宇」の言葉に噛み付いているアホパヨクどもはもう少し歴史を勉強してもらいたいものである。

八紘一宇
支那事変 北支派遣 大島部隊 皇紀二千六百一年

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記念メダルですが、
今日、当店のお客様であり、人生の先輩でもある石山氏が、
わざわざ持ってきてくださいました。
石山氏はインドネシアにお住いですが、
我が国のご自宅の土の中に埋もれていたそうです。
感謝。

IMG_0623日曜日の今日は店の蔦と花壇のバラの剪定。
思ったより少なく、今回はゴミ袋一つですみました。

 

店を片付け、帰宅。
酒は飲まず。
猿でもエビでもない。