ミャンマー(ビルマ)鈴木敬司大佐と南機関 そしてアウン・サン・スーチーという英国の犬 追記再掲載

平成17年2月3日木曜日晴れ 追記平成28年1月22日金曜日晴れ△

あの犯罪国家の北朝鮮のように政治レベル低い国に支援するなという国連の報告書が随分昔に発表されています。
http://japanese.joins.com/html/2005/0117/20050117170900500.html
以下引用
北朝鮮のように政治がメチャクチャな貧困国家には、国際社会が援助を行なってはならない、という内容を盛り込んだ国連の報告書が17日に発表された。
??この報告書は、北朝鮮・ミャンマー・ジンバブエなど政治レベルの低い人権後進国には、大規模な支援が行なわれてはならない、と指摘している。アナン国連事務総長が、ジェフリー・サックス教授(コロンビア大学)に要請し作成されたもの。
引用終わり

犯罪国家の北朝鮮はわかりますが、ミャンマーと腐れ北朝鮮と一緒にするのはちょっとおかしいと思います。
ミャンマーは現在は軍事政権ですが、北朝鮮のような犯罪国家ではありません。情報も公開されていますので、国民は自由に外の情報を得る事ができます。少し前の南朝鮮も軍事政権でした。その軍事政権の南朝鮮には我が国も援助していました。

かってはビルマという国名で、1989年に国名をミャンマーに変えました。ASEANにも1997年に加盟しています。
ビルマは、それまでの18世紀より続くビルマ族による王朝を19世紀末に英国との三回による戦争によって植民地にされましたが、この時に、自称「紳士の国」といっている英国は、ビルマ人々の尊敬の中心であったアランパヤー朝の最後の国王であるティボー国王を王妃とともに1885年11月に捕らえて連れ去り、インドのマドラスからタラナーギリーに流刑にしてしまいました。ティボー国王は1916年に58歳で没しましたが、英国はそれだけでは飽き足らず、なんと、その王子と王家につながる人々もすべて処刑にしてしまいました。
この事により、ビルマ国民は国家としての大切な心のよりどころである王族をすべて失う事になりました。
また、アランパヤー朝の都がおかれていたマンダレ-にあったシュナンドーという国王の金箔に覆われていた寺院の金箔を第三次イギリス・ビルマ戦争時にイギリス兵がすべて剥ぎ取ってしまいました。

そして、1866年にビルマを当時のイギリス支配下のインド領の一部と宣言し、インド人と華僑をビルマに入植させ経済を支配させ、モン族、カチン族という少数山岳民族にビルマ人を支配させるという、それは、植民地の民族がまとまらない方が都合がよいという白人にとって都合のよい分断統治政策に他なりません。仏教徒であるビルマ人の町であった美しいマンダレ-は仏教寺院であるバコダがつぎつぎと壊されて、その変わりにモスクやキリスト教会が建つという風景のまちになってしまいました。

「アジアに生きる大東亜戦争」p二六十七〜二六十八

このことについて高山正之氏はご自身の著書に下記のように記しています
<英国の歴史書は、阿片戦争を「貿易戦争」と書いて体裁を整えたように、このビルマ王国乗っ取りも「第三次英国緬戦争」と麗々しく称する。実際、マンダレーに入城した英印軍は、正規の「戦争」の勝利者として、ティボー国王と出産直前の王妃を、「庶民の使う牛車に押し込めるという屈辱を与えて王城から追放し、黄金生の玉座など王家の財産を没収し・・・」とネ・ウインの夫人で歴史家、ニ・ニ・ミントは「王家の悲劇」に書いている。
ビルマ国王夫妻と四人の王女をインド・ボンベイ近くのラトナギリに流がされるが、ティボー直筆の英国政府宛書簡(一九一一年五月付)「せめて一家が食べていけるよう、年金を上げてもらえないだろうか」をみると生活費にも事欠く悲惨な生活を強いられていたようだ。
困窮と辱めに加え、英国側は王朝復活の望みを断つように王位継承権第一位にあった第一王女、パヤ(ファヤ?)王女を身分の低い英印軍軍属のインド人ゴバル(木下注・英印軍属)と結婚させる。しかも、この男には別に正妻がいることがわかり、パヤは肉親とも離れ、インドの最下層の社会に入っていく。
ビルマ 28インドヒンドスタン・タイムズ紙がこの悲劇の王女のその後を探るルポ(一九九五年九月一六日付け)でパヤの娘、つまりティボー国王の孫娘ツツの近況を伝えている。「彼女は母の話すビルマ語も忘れさっていた。教育も資産もないまま、貧しいインド人の妻となり、今は六人の子供を抱え、街角で造花を売って生計を立てていた。その顔立ちに王族らしい気品を備え、それが哀れだった」
「英国が王族を島流しにしたのは、それが民族の求心力を奪う最も効果的な方法ということをインドの例で知ったからだ」とウー・オッタマは次郎左衛門(名古屋の豪商、松坂屋の伊藤次郎左衛門)に話している。>
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)P一八四〜一八六

よく、朝鮮人は「日本は国王を奪った」などというウソを平気で言っていますが、我が国は大韓帝国皇帝の高宗に対して「徳寿宮李太王」と称され、日本の皇族の待遇を持ってむかえました。その他の重臣、功労者は華族として叙爵されました。朝鮮も我が国に併合される事無く、イギリスの属国となっていたら朝鮮の皇帝とその一族はビルマ王室と同じ皆殺しになっていたでしょう。

Keiji_Suzukiそんなビルマに対して、日本帝国海軍は大東亜戦争開戦直前の昭和16年2月1日に大本営直属の「南機関」を発足させました。「南機関」とはビルマの独立援助とビルマ・ルート遮断を目的とした組織です。
雷帝ボ・モージョこと鈴木啓司大佐を機関長とする「南機関」が最初にやった事は、ビルマ独立に燃えるタキン党の若い優秀な青年30人を選んで、日本に脱出させることでした。

この30人を川島威伸大尉を教育隊長にして、南機関全員が海南島で昭和16年4月から猛訓練を施しました。この30人の中にアウンサンスーチ女史の父親である後のアウンサン将軍、後のビルマ首相オン・サン、独立宣言を発したバー・モウの副官ボー・ヤン・ナイン、後の議長ネ・ウィンなどがいました。この30人を中心に大川周明博士の大川塾の学生十数名も参加したビルマ独立義勇軍BIAがバンコクで編成され16年12月31日に出陣式を行い、独立義勇軍が進撃するにつれて、ビルマ全土に独立の気運が燃え上がり、ラングーンはその後17年3月8日、マンダレ-は5月1日に陥落します。

ビルマスキャン 31そのころのビルマの人々が、我が日本軍にどのような思いを持っていたかは、その実例をバー・モウがその著書「ビルマの夜明け」で書いています。
「その間、英雄的行為も生まれた。その一つは戦時中のアジア人の間で、伝説のように語り伝えられたものである。サルウィン川での戦いの真最中、数人の日本人将校が、ビルマ人にボートで対岸に渡してくれるように頼んだ。船の通路は数カ所の英国側陣地からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死にに行くようなものだった。しかし4人のビルマ人船頭が進み出た。2人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの2人の煽動はまっすぐ平然と立って櫓を漕いだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、2人のこぎ手は銃弾の中に倒れた。残りの2人の船頭は一言もしゃべらず、騒がず、すぐに持ち場に着いて漕ぎ出した。ちょうど船が対岸に着いた時、この2人も弾にあたって死んだ。これは例のない英雄的行為であった。日本の新聞ラジオは、ひろくこの実話を伝え、日本本国と東南アジア諸国で感動を呼び起こしたのであった」

そして、1866年にビルマを当時のイギリス支配下のインド領の一部と宣言し、インド人と華僑をビルマに入植させ経済を支配させ、モン族、カチン族という少数山岳民族にビルマ人を支配させるという、それは、植民地の民族がまとまらない方が都合がよいという白人にとって都合のよい分断統治政策に他なりません。仏教徒であるビルマ人の町であった美しいマンダレ-は仏教寺院であるバコダがつぎつぎと壊されて、その変わりにモスクやキリスト教会が建つという風景のまちになってしまいました。

鈴木敬司大佐 のコピー
ところが、大本営は雷帝と慕われていた鈴木啓司大佐と川島威伸大尉を任務からはずし、南機関を解散させてしまいます。
ビルマ独立義勇軍は鈴木啓司大佐に別れを惜しみ、軍刀一ふりと感謝状を贈りました。
その感謝状の最後には次のように書かれています。
「ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人をわれわれは末永くなつかしむ。将軍のビルマへの貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡んでも、われわれの感謝の気持ちは亡びることはない。将軍が日本に帰られたら、ぜひとも日本の天皇陛下や東條首相、そして老弱男女に報告してほしい。われわれビルマ人の誠意、忠誠心、勇気、日本軍への協力、日本ビルマ間の友好への努力を-----」(「アジアに生きる大東亜戦争」p二八二)
(この時の感謝状の実物は、後に鈴木大佐未亡人がビルマ政府よりぜひにと懇願され現在はビルマにあるそうで、未亡人の手許にはビルマ政府より贈られた複製品があるそうです)

そして、遅ればせながら日本政府は、その1年2ヶ月後昭和18年8月1日年にモゴークの牢獄に捕らえられていたイギリス帰りのバー・モウ博士を救い出し、バー・モーにより独立宣言が発せらました。
その時の民衆の興奮ぶりをバー・モウの著書「ビルマの夜明け」には次のように伝えています。
「それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群集がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で万歳を叫んで、日本に対する深い感謝を現す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた」

(「アジアに生きる大東亜戦争」p二八三)

残念ながら、このビルマの人々の喜びは日本軍のインパールの敗北が決定的になり、日本軍とともに戦ってきた30人のビルマ独立の志士もビルマを生き残らせるために分裂することになります。
バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、バー・モウは日本に亡命し、ミン・オンは日本を裏切るのは忍びないと自決しています。
その時に今もバー・モウ家にのこるバー・モウあてのオン・サンが書いた手紙の全文が「ビルマの夜明け」に掲載されていますが、その内容は「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」「日本軍のビルマ撤退が賢明な方法」「日本を責めない」と書かれています。
つまり苦渋の選択だったわけです。
このくだりついては戦史家のルイス・アレン(イギリス)もその著書「日本軍が銃をおいた日」にも感激して詳述しているそうです。

ビルマの人々にとっての独立とはどうだったかという答えのひとつは「ロンドンタイムス」が1968年5月23日号に「ビルマの夜明け」がイギリスで発刊された時の書評にあるように思います。
書評は「ビルマを長いイギリスの植民地支配から解放したものは誰か。それはイギリスでは1948年、アトリ-首相の労働党内閣だというのが常識になっている。しかし、バー・モウ博士は、この本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が大二次大戦で果たした役割を、公平に評価している」と書かれ、著書の中より下記の文章が引用されています。
「真実のビルマ独立宣言は、1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリ-の率いる労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国政府であった」序文
「歴史的にこれ見るならば、日本ほどアジアを白人社会から離脱させることに貢献した国はない。
しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの時柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。これはまた日本が、その武力万能主義者と民族の夢想とのために謬られたためである」
「もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである」(「アジアに生きる大東亜戦争」p二八七〜二八八)

こうして、ビルマ人自身の勇気と努力によってビルマは独立しましたが、ビルマの人々はこの時の恩義を忘れずに、戦後、鈴木啓司大佐が英軍によりビルマに連行され軍事裁判にかけられそうになった時にオン・サン等は「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何ごとか」と猛反対し、その後、ネ・ウィン議長は昭和41年12月20日から翌年1月20日まで、元南機関鈴木大佐をビルマに招待し、その年に鈴木大佐がお亡くなりになったあとは47年に節子未亡人を招待。そして56年には、南機関関係者である鈴木大佐夫人、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、高橋八郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄の7名の方々にビルマ最高の栄誉である「オン・サンの旗」アウンサン勲章を授与し、ビルマ独立義勇軍の生みの親として、最高の敬意を表しています。

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そして、今でも3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって日本の“軍艦マーチ”から演奏し始め“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の歌を次々と演奏していきます。

鈴木敬司大佐 29 のコピー 2

恩を仇で返す支那、南北朝鮮の極東バカ三国とはえらい違いです。

民主化の象徴であるアウンサン・スーチ-女史とはそんなりっぱな方なのでしょうか。
スーチ-女史の父親であるアウンサン将軍はビルマ独立後に暗殺され、娘のスーチ-女史は英国に引き取られます。
その後、ビルマはビルマ人の国という国名のビルマから5族協和を意味するミャンマーに変えて、英国人の手先だった山岳民族とも和解して再建を目指しますが、その時に、アウンサン・スーチ女史がビルマに戻って来ます。彼女は英国に引き取られ30年も暮らし、考え方も英国風となり英国人の男と結婚していました。
その彼女は、かっての英国の手先としておいしい思いをしていた華僑、山岳民族であるモン族やカチン族の支持を集めています。
英国の利益の代表であるスーチ-女史とは、我が国で報道されているような美しい面ばかりでは無いように思います。「

「Aung San Suu Kyi」」とネットでググるとヒラリークリントンと抱き合っている下記のような気持ち悪い写真が出てくる。

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スーチ女史のえらい豪勢な邸宅を一緒に歩く姿も出てくる。

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http://www.dailymail.co.uk/news/article-2069016/Aung-San-Suu-Kyi-welcomes-U-S-help-Burma-meets-Hillary-Clinton-again.html

西村眞悟先生はご自分のメルマガでこんなミャンマーについて下記のように書いています。

<ミャンマーよ、民衆のこと、キン・ニュン第一書記のこと
平成19年10月21日(日)

今朝の産経新聞に、シンガポール支局長の藤本欣也氏が「日本はミャンマーに怒れ」という論説を書いている。
その中の、ミャンマー中部のメイクテーラにおける戦没日本兵の慰霊の情景と「かつて特別な関係にあった日本も、軍政との間に太いパイプをもたないのが実情だ」という記述に促され、ミャンマーについて思ってきたことを書いておきたい。

先ず、長井健司さんが、九月二七日に射殺された。まことに気の毒で無念であった。
後になってみれば、何でも言えるのだが、映像で見る限り、カメラを構えた長井さんのあの位置は、日本のデモに際して、日本の機動隊がデモを規制しているという前提での位置だ。
しかし、現実には、引き金に指をかけて銃を水平に構えてた軍隊がデモを制圧しており、長井さんはその兵隊の直前でなおもカメラを構えていた。
実戦行動中の軍隊において、兵士が銃を水平にかまえていれば、まさに「撃つ」ためだということをあらためて肝に銘じておくべきである。
デモ隊が制圧部隊から潮が引くように逃げるなかで、カメラを構えた長井さんが逃げずに取り残されて迫る兵隊の前面に出てしまったようだが、痛恨の場面である。心より、ご冥福を祈る。

なお、テレビで紛争地などの情景が報道され、兵隊や銃を持った人々の姿が放映されるときがある。その時私は、彼らが銃のトリガー(引き金)に指を入れているか入れていないかをみるようにしている。規律のある軍隊は、人差し指を真っ直ぐに伸ばして銃を持っており、平素トリガーに指を入れていない。入れるのは命令により現実に撃つときだけである。これが銃を扱う原則である。反対に、トリガーに指を入れて騒いでいるような集団が放映されることがあるが、これらの集団には規律がないとみてよい。時々、暴発によって死傷者が出ているはずだ。

さて、「日本も今や軍政との間に太いパイプをもたない」という。これははっきり言うが、日本外交の怠慢である。日本外交が戦略眼をもたず、漫然とアメリカさんやスーチー女史になびいていたから、パイプがなくなったのである。つまり、東京の戦略なき怠慢が、ミャンマーを中国側に追いやり、現地でのパイプをなくしたといってよい。
ミャンマーは心温まる親日国で、軍事政権も一貫して日本に熱いまなざしを向け、援助を期待していた。しかし日本は、「民主化」を要求して援助を打ち切って放置した。そして、援助再開の動きも、その都度アメリカ国務省のご意向に従って封印された。
その間、日本は、正真正銘の軍事政権である北朝鮮や天安門事件以降の中国に対しては、巨額の援助を続けていたのである。

なお、一口に「軍事政権」というが、北朝鮮や中国とミャンマーを一緒にできない。前者は民衆の生活よりも独裁者と共産党が核やミサイルを保有し巨大な軍隊を維持するための軍事政権である。これに対して、ミャンマーは、貧しさの中からの国造りのための軍事政権である。丁度日本の明治維新から自由民権運動と国会開設までの政権の雰囲気と思えばいいのではないか。
また、治安は日本より良い。貧しいけれども、市場で働く子供が札束を持って歩いていても盗られない。仏教の穏やかな教えと喜捨の精神が生きている。親の子殺しも子の親殺しもない。

日本は、援助を打ち切っていた。それで、ミャンマーの首都ヤンゴンのミンガラドン空港は、長年工事が中断したままであった。管制塔の建物だけが建っているが窓もなく廃墟のようであった。これは、日本の援助で始まった工事を日本が中断したからである。私は平成六年に初めてミャンマーを訪問し平成十七年まで度々訪れたが、その間ずっと管制塔は廃墟のままであった。
我が国で言えば、首都の羽田空港の管制塔が廃墟のまま十年以上放置されているのと同じである。
ある時、空港脇の資材置き場に行ったが、日本の資材が山と積んであリ、重機や工事車両が整然と並んでいた。管理人もいないのに荒らされた形跡はなく重機も痛んでいなかった。ミャンマー政府は十年以上の間、日本による工事再開をひたすら待っていたのである。なお、ミンガラドン空港は、帝国陸軍の加藤隼戦闘隊の基地であった。

とはいえ、日本政府はミャンマーへの援助を全面的に止めたのではなく、人道援助は遠慮がちに続けていた。しかし、スーチー女史は、日本の人道援助も軍事政権を喜ばすだけだと激しく非難していた。
(だいたい、こういう非難が出来ること自体、ミャンマーの「軍事政権」が、中国や北朝鮮と違い自由があるという証拠である)
そこで十年ほど前に、私は、日本のポリオ生ワクチン援助が如何に行われているかミャンマーの田舎に見に行った。
そこでは、若いお母さんが幼児を抱えて続々と集まってきていた。そして皆笑顔で我が子にワクチンを飲ませていた。その横では、お祭りのように人々が笛や太鼓で踊っていた。本当に、我が国は隣人に喜ばれるよい援助をしているものだと実感した。
しかし、この援助をスーチー女史は非難していたのだ。そして、日本政府は遠慮がちに援助していたのである。
なお、スーチー女史は、ヤンゴン以外のミャンマーを知らない。つまり、彼女はビルマ人の顔をしている英国人である。顔はビルマ、心は英国。実は、イギリスの植民地政策というものは、被支配地の上流階級をこのように作り上げるものなのだ。

私は、ミャンマー軍事政権のキン・ニュン第一書記とは、訪問するたびに会った。会うたびに心が通い合った。
平成六年に初めてキン・ニュン第一書記にあったとき、私は、「ミャンマーの各地を訪れてきた。各地に日本軍将兵の慰霊碑があった。その慰霊碑の世話をしてくれているのは貴国の国民であった。この貴国の大地で、十九万人の日本軍将兵が亡くなった。十九万人の日本人が貴国の土になった。この日本兵を慰霊してくれている貴国に感謝する」と言った。
それから、話が弾んで時間がどんどん過ぎていった。帰国のフライト時間が迫ってきた。同行の寺井さんが、飛行機に乗る時間ですといった。すると、第一書記が、大丈夫、真悟が乗るまで飛行機は飛ばさない、と言った。
私が帰国後、キン・ニュンは、「真悟は軍人だろう」と側近に尋ねたと聞いた。

ある時、キン・ニュンに、「我が国での情報によると、ミャンマーはインド洋のアンダマン海に中国のレーダー基地建設を許可したというが、本当か」と訊いた。
それに対して彼は、「そんなことはない。我々は中国と国境を接している。従って近所付き合いはする。しかし、中国の弟になるようなことは絶対にない」と答えた。
またある時、キン・ニュンとアウンサン・スーチー女史の話になった。その時彼は、次のように言った。
「彼女は、アウンサン将軍の娘だ。だから我々は、妹のように思って接している。しかし、彼女は夫も子供もイギリス人でイギリスに家を持っている。しかし、我々四千五百万ミャンマー国民は、この大地で生まれこの大地で死ぬんだ」

平成十四年十一月、キン・ニュン第一書記と別れるとき、出口に向かった私をいつになく彼が呼び止めた。振り向くと、彼は下を向いて右足でパンと床を踏み、私をみて言った。
「真悟、また来てくれ、今度は私が国境地帯を案内する」
これが彼をみた最後になった。その後、彼は政変で失脚し、今は監禁状態にあると聞いている。

そして、今や中国がミャンマーを飲み込み始めている。また、キン・ニュン第一書記が、警護も付けずに礼拝のために裸足であるいた首都のシュエダゴンパゴダには、軍隊が入りサンダル履きで歩き回っている。
現政権は、武装した軍隊を僧侶制圧のためにパゴダに入れた。これはミャンマーでは考えられないことだ。仏教を敵視したことになるからだ。民衆のもっとも素朴な心情を踏みにじった政権に未来はない。

キン・ニュン第一書記は、日本で教育を受けたビルマ独立の英雄アウンサン将軍の部下という意識をもち、日本に熱い期待を持ちながら国家統合という大きな職責の重圧を支えていた。私は、明治維新の大久保利通の雰囲気とはこのようなものだったのではないかと思ったものだ。
日本外交は、国家戦略としてキン・ニュン第一書記の期待に応えるべきであった。それを、自分勝手で独善的なアメリカ国務省のオルブライト長官等のスーチー好きの意向に盲従し、機を失してしまったのである。まことに、戦略なき外交である。豪勢な大使公邸を造り、キャリア外交官を大使として送り込んでいるだけであった。

さて、ミャンマーの民衆であるが、敬虔な仏教徒で極めて親日的だ。今朝の産経の論説にあるとおりの人々が、今も日本軍戦没者を慰霊してくれている。それ故、ヤンゴン郊外の日本人墓地にはミャンマーの人々に向け、生き残った兵隊達によって次のように書かれてた石がある。
「あなた達は、我々が勝っているときも負けているときも、等しく親切に接してくれた・・・ありがとう・・・」

ところで、キン・ニュン第一書記失脚後の平成十七年に、ミャンマーを訪ねた。多くの仲間と、小学生に筆記用具を渡し、ぼろぼろになったある小学校の校舎を建て替えるためだった。
その時、キン・ニュン時代の閣僚であったエーベル将軍に会った。彼は、現政権の閣僚とも会った方がいいと言ってくれたが、会わなかった。日本に期待していたキン・ニュンを放置しておきながら、彼が失脚したからといって、いそいそと新政権に会う気はしなかった。
なお、我々が訪ねた小学校であるが、今は田園の中の新しい清楚な木造校舎の中で、子供達が笑顔で学んでいる。

追記、22日朝。
このミャンマーに関して、国際社会では現在アメリカと中国が鞘当てをしているようだが、我が国としては、「アセアンに任せろ」という立場に立つべきである。ミャンマーはアセアンの一員であり、アセアンは、今やまとまりのある地域として成熟しつつあるからだ。
そもそもこの地域における「内紛」には、
中国の南下(かつては共産ゲリラ、今や経済的攻勢と不道徳の輸出)と華僑の経済支配、そして、アメリカの自由主義の押しつけ、
が絡んできたのである。
よって、我が国は、アメリカでもなく中国でもなく、アセアン側に立って「アセアンに任せろ」という立場を明確にするべきである。>

<西村眞悟の時事通信

ミャンマーについて
平成20年7月18日(金)

この度、急きょミャンマーに行きサイクロン被害の状況と復興の様子を見てきたので、やはりミャンマーのことをお伝えします。福田内閣の竹島記述の問題やその他のことで怒っていると、ミャンマーのことを述べる機会を失しますから。

1、ミャンマー概要
面積 68万平方キロ(日本の1・8倍)
人口 5737万人
人種 ビルマ族(7割)、他200近くの少数民族
宗教 小乗仏教
GDP 一人当たり230ドル
中部は灼熱の大地、北西部は三千メートルを越す山岳地帯

2、私とミャンマーとの関わり
民社党(平成6年12月9日解党)の公式ミャンマー訪問団として、始めてミャンマーを訪れたのが平成6年5月。
公式訪問団とは言っても、団員は、私と党本部の寺井融そして秘書の向山好一の三人だけで、費用はほぼ自腹。
この時期は、アウン・サン・スーチー女史が、ちやほやされていてミャンマーの政権は「軍事政権」であるから悪であるという思い込みが民社党内でも濃厚で、ミャンマー訪問には消極的な雰囲気だった。これが、ささやかな訪問団になった原因だ。
しかし、民社党は青年を東南アジア各地に自由に行かせて経験を積ますという研修を繰り返しており、その中で育った寺井融はビルきち(ビルマきちがいの略)になっており、彼の工夫で単なる旅行ではなく「民社党訪問団」となった。民社党は同年末に解党してしまうので、結局、これが、民社党のただ一回のミャンマー訪問団となってしまった。

始めてミャンマーに入国して歩き回って感じたことは、日本の報道は事実を伝えていないと言うこと。日本のマスコミは、同じ「軍事政権」でも北朝鮮は「地上の楽園」と伝えてきて非常に甘く、ミャンマーの「軍事政権」は悪の権化のように伝えていた。
事実は全く逆で、ミャンマーの人々は信心深く穏和で親切、首都ヤンゴンはニューヨークやパリ、ロンドン、東京、大阪よりも安全で、浮浪者は皆無。
「豊かさの中の貧困」と「貧しさの中の豊かさ」、ミャンマーは日本人が忘れたこの豊かさをたたえていた。
そして、その「軍事政権」の親分のキン・ニュン第一書記は、禁欲的な威厳があり、明治の大久保利通とはこのような雰囲気の男だったのではないかと思うほど立派な陸軍中将であった。
対して、アウン・サン・スーチーの言っていることは、英国流・米国流の民主主義を直ちに実現させない政権はすべて悪だと言うに等しくミャンマーの現実を無視していた。事実、彼女は英国で育ち、英国人の夫と子供の家族とともに長年英国に住んでいてミャンマーを知らなかった。
私は、キン・ニュン第一書記に、スーチー女史の言っていることは空論である。自信を持ってミャンマーはミャンマーの民主化を着実に進めて欲しいと言った。
すると彼は、まずはじめに、ミャンマーの英国からの独立は、日本軍のおかげであると日本への感謝の意を表明して、
「我々四千五百万のミャンマー国民(その当時の人口)は、この大地で生まれこの大地で死ぬ。英国で育ち、英国に家を持つ人には分からない」と答えた。

私は、ミャンマーが大好きになり、また、この親日的な国との友好を深めるのが日本の国益にかなうとの思いから、以後毎年一回から二回の割でミャンマーを訪れることになった。
ある時は、スーチー女史が、日本のポリオ生ワクチンの援助を「軍事政権を利するだけだ」と非難したので、では、果たしてそうかと、首都を遠く離れたミャンマーの田舎のポリオ生ワクチン接種現場を見に行った。
そこでは、多くの若いお母さんが村の学校に子供を抱えて集まっていた。楽隊が演奏して踊りも始まった。まるでお祭りのようであった。そして、お母さん達は幸せそうにニコニコ笑っていた。私には、この多くの子供達が日本の援助により小児麻痺の恐怖から解放されることが、何故「軍事政権を利するだけだ」と非難するのか、スーチーの言うことが馬鹿らしかった。そして、日本のマスコミは、何故スーチーの言うことだけを報道して、このようなすばらしい援助の場所を取材しないのかと思った。
その後、平成17年の春には、多くの仲間とともにミャンマーを訪れ、日本で集まった浄財でヤンゴン郊外の村に小学校を寄付することができた。

キン・ニュン第一書記と最後にあったのは、平成14年の秋であった。一旦握手して別れた後、ドアから出ようとする私をキン・ニュンが「シンゴ!」と呼び止めた。振り向くと、下を向いていたキン・ニュンが私を見つめ、
「今度来てくれたときには、私と一緒に我が国の国境地帯を廻ろう、楽しみにしている」と言った。その後、彼は失脚し会えなくなったので、この時の彼の様子が強く思い出される。
そして、キン・ニュン失脚後、私はミャンマーに行っても新しい政権幹部と会わなかった。キン・ニュンの今の軟禁状態にある境遇を思い、義理と人情があれば、いそいそと新しい政権幹部と会うことはないと思っていた。

3、サイクロンの襲来
5月2日から3日にかけてミャンマー南西部を襲ったサイクロンは、史上初めての大災害をもたらした。サイクロンは、今までミャンマー西部の高い山脈に遮られ、西隣のバングラデシュを襲ってもミャンマー中心部にくることはなかった。しかし、この度は秒速60メートルという超大型サイクロンが史上初めて直撃してきた。しかも、その速度は時速15キロほどと極めて低速で、ヤンゴンをはじめミャンマー中心部は長時間の暴風雨に見舞われたのである。現在死者は8万人を超え、行方不明者を加えると人的被害10数万人におよんでいる。
この報を受け、直ちに日本ミャンマー友好議員連盟(平成6年結成)の総会が招集され、外務省から我が国の救援実施状況を聴いた。
その後、中国四川省を地震が襲ったが、ミャンマーのサイクロンによる人的被害は四川省の地震を遙かに上回っている。しかし、日本のマスコミは、もっぱら四川省の地震を主眼として救援の呼びかけをした。
友好議員連盟のメンバーは、貧しいミャンマーが如何に日本に期待しているかよく分かっている。親日国ミャンマーにこそ援助の手をさしのべるべきである。
そこで、通常国会が終了したのをうけて、急きょ議連としてミャンマーの被害と復興状況を実際に見に行こうと言うことになり7月8日から12日までミャンマーを訪れテイン・セイン首相以下5名の閣僚と会見し、ミャンマーの物流の中心である被害の激しいヤンゴン港を視察した。
訪問団のメンバーは、議連会長の渡辺秀央参議院議員、議連幹事長の私そして松下新平参議院議員。

4、被害状況と支援要請
被災地は、南西部のイラワジ川とアンダマン海に接するミャンマー中枢部で、130万エーカーの農地が失われた。そして、1500から2000の学校が倒壊した。国の物流の80パーセントを担うヤンゴン港の機能が低下して物資の欠乏と物価上昇をもたらし、国民生活に影響が出始めている。
従って、主に農業復興への支援、学校建設への支援そしてヤンゴン港機能回復への支援が首相からも各大臣からも求められた。
また、サイクロン予測と災害予防の為には最新のレーダーがいるとの要望と、海水の逆流はマングローブの森によって防げるので森を育成する為の支援を要請された。現在ミャンマーにある気象レーダーは、1980年に日本の支援で設けられたが、老朽化していて的確なサイクロン予測ができなかったらしい。
①農業
ミャンマーは農業国である。しかし、被災地は農耕用の水牛をほとんど流されて失ってしまった。そのために、水牛に変わってトラクターと耕耘機を強く求めている。あの灼熱の堅い大地を人力だけで耕すのは無理だ。
また、土地改良の技術を日本から学びたいと望んでいる。
②ヤンゴン港
ミャンマーの物流の80パーセントをヤンゴン港が担っていた。しかし、未だ75隻の沈没船が放置され港に大型船が入れない。しかし、ミャンマーにはサルベージ船がない。日本に港内の測量とサルベージを求めている。
③学校建設
村が消滅してしまったところがある。そこでは、学校も村もともに流されてしまった。従って、住民が避難できるしっかりとした建物としての学校を建設することは、村の防災上急務である。今、被災地の子供達は、テントで勉強している。潰れた学校は1500から2000という数に上る。
我が国は経済的な観点からではなく、友好と友情の印に、ミャンマーの将来を担う子供達が学び、住民が避難する場所としての学校建設に本格的な援助の手をさしのべるべきである。ミャンマーは日本人と同じ心情をもつ人々の国(おそらく唯一の国)だから、我々の友情を理解してくれる。
以上が、首相をはじめ各大臣から訪問団によせられた日本に対する支援要請の概略である。特に、農業への支援は、世界的な食糧危機をひかえたこの時期のもっとも重要な支援であろう。ミャンマーでは米の二毛作はおろか四毛作も可能だ。食料自給率40パーセント未満の日本にとって、ミャンマーの農業への支援要請を真摯に実行すべきである。文字通り、情けは人の為ならず、である。

5、「民主化要求」とは何か・・・欧米のダブルスタンダード
建国以来、ミャンマーは国内の少数民族の反政府ゲリラとの内戦が絶えず放置すれば分裂する危機が続いていた。
その原因は、イギリスの少数民族により多数派のビルマ族を支配させるという伝統的な分割統治にある。イギリスからの独立とともに、少数者は支配の特権を失うわけで、その不満が内戦に発展するのは必至である。
従って、この国家分裂の危機を克服してミャンマーを統治する政権として「軍事政権」が誕生するのは当然の帰結である。国民教育を奪われた英国による植民地支配の後で、知識のある人材を抱えた訓練された組織は軍隊しかなかったからである。
そして、軍事政権のキン・ニュン第一書記の時代に、内戦はほぼ克服される。そして、キン・ニュンは、平成15年に民主化実現に向けたロードマップを発表する。

しかし、この間、西側諸国は、ミャンマーが「軍事政権」であるが故に、援助を停止していたのだ。特にアメリカは「制裁」を実施していた。我が国も、この西側の動きに追随して独自の行動をとらず援助を停止した(但し、我が国は人道援助は実施していた)。
この状況で特にミャンマーを苦しめ、また、腹に据えかねる思いにさせたのは、アメリカとイギリスの民主化要求と制裁だと思う。何故なら、独立後の内戦を必然的にする残酷で非民主的な植民地支配をしていたイギリスが民主化を要求する等は許されないではないか。また、アメリカの制裁はミャンマーの縫製業を中心とする国内産業に打撃を与え、失業の増加と外貨不足をもたらした。さらに、この英米に気に入られてミャンマー国民を苦しめる措置を歓迎し、日本からの人道援助も非難していたのが、イギリスで育ちイギリスに家族と家を持つスーチー女史であった。そして、ミャンマーは世界最貧国に低迷し続ける。
ところで、英米は、苦しみながらも民主化のプロセスを歩もうとするミャンマーには制裁を課し、民主化など全く考えようともしない中共や北朝鮮には民主化要求などしていない。
これを彼らのダブルスタンダードという。要するに、英米にとって、民主化要求は外交手段で相手を支配する方便に過ぎない。従って、英国や米国のミャンマーへの制裁をミャンマーは「第二植民地主義」(キン・ニュン第一書記)と受け止めた。
当然である。
そしてこの中で、馬鹿を見た見本が日本であった。我が国は、英米の民主化要求を額面通りに受け取って追随し援助停止を続けたものだから、アジアのもっとも親日的な国ミャンマーを中共の懐に追いやってしまったのだ。中共は今や、ミャンマーを経てインド洋に進出して、そこに海軍力を展開するところまできている。

本当にミャンマーが民主化するのを望むのならば、最貧国にして内戦で苦しむミャンマーに惜しみなく援助を与えて励ますべきであった。英米にも我が国にもその力はあった。
私には、西側の制裁と援助中止は、ミャンマーの国民を苦しめ民主化の歩みを停止させたとしか思えない。
しかし、ミャンマーの「軍事政権」は、サイクロンの被害直後に予定通り新憲法採択のための国民投票を実施して国民から新憲法案の承認を受け、2010年には複数政党制による総選挙を実施して民政に移管すると発表している。つまり、現政権は、キン・ニュンなきキン・ニュンの民主化ロードマップを忠実に実行してきている。
このような歩みを続けるミャンマーへの制裁は続けて、北朝鮮への制裁は解除するアメリカとは、如何にいい加減な国であるか明確に分かるであろう。

そこで、我が日本であるが、サイクロン被害復興援助を開始するとともに、直ちに本格的な援助を再開すべきである。もはや中共への援助は、するのがおかしいのであるから直ちに停止して、その分ミャンマーへの援助に振り向けるべきである。
欧米は、ミャンマーの2010年の選挙を見守るという姿勢をとるであろうが、決してそれに追随してはならない。我が国は、民主化に向けたプロセスを歩むミャンマーを支援すべきである。ミャンマーに対して、欧米のように民主化を方便に使ってはならない。
そもそも、英米などは自由と民主主義とえらそうなことを言う資格はない。この度の訪問でもミャンマーの閣僚に語った。
「自由と民主主義の国アメリカの建国の父であるジョージ・ワシントンの家に行かれよ。庭に奴隷の墓がある。七〇体の奴隷がここに埋葬されていると説明書きがあるだけで名前も墓標もない。
あいつらの自由と民主主義とは自由を剥奪された人間、つまり奴隷を持つことができる自由と民主主義なのだ。
ミャンマーは自信を持ってミャンマーの民主化を進めて欲しい」。>

このアホ女について

そんな英国の犬であるアホ女が牙をむきました。

<2015/11/11 【ヤンゴン共同】ミャンマーの次期政権を主導する見通しとなった野党、国民民主連盟(NLD)の党首アウン・サン・スー・チー氏(70)は10日、外国メディアとのインタビューで、次期大統領は何の権限もないと明言。自身の大統領就任を禁じた憲法規定に合わせるために任命されるにすぎないとして「私が全てを決定する」と強調した。
国家元首の大統領ではなく、自身への権力集中にこだわる姿勢は、「権威主義」や「違憲」との批判を招く恐れもある。
選挙管理委員会は11日、下院選に立候補していたスー・チー氏の当選を発表した。>

こんなアホ女を我が国のクソマスゴミは持ち上げていたのである。

アホらし

引用文献

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「世界に開かれた昭和の戦争記念館第四巻大東亜戦争その後」名越二荒之助著 展転社平成十二年刊

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「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター 展転社 昭和六十三年刊

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情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)

 

バンブーさん来店。
五名様来店。

ドンチャン。

記憶あり。
猿よりマシ。