藤原彰

藤原彰
8月17日月曜日くもりのち一時雨
藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 – 2003年2月26日)は、日本の歴史学者。日本近代史専攻。一橋大学名誉教授。1980年日本学術会議会員。元歴史学研究会委員長。
東京都出身。府立六中4修などを経て、1941年(昭和16年)、陸軍士官学校(55期)を卒業し、見習士官として華北に派遣される。その後1944年には、第27師団支那駐屯歩兵第3連隊の中隊長として大陸打通作戦に参戦するなど中国大陸を転戦した。第二次世界大戦末期の1945年3月に内地への転勤を命じられ、内地帰還後本土決戦師団のひとつである第216師団の歩兵第524連隊第三大隊長に任ぜられ敗戦を迎えた。
Wikipediaより
DSCN3881 古本市で三百五十円で購入したこの藤原彰大センセイの著書「体系・日本歴史六日本帝国主義」日本評論社刊は、巷でよくいわれているように本当に「朝鮮戦争は韓国から攻撃した」などとアホな事を本当に書いてあるのかを知りたいためだけに購入いたしました。
今日、早速読みました。でっ、結果は・・・ホンマにそのとおりのアホなことを書いてありました。
アホというよりあまりにもお茶目な文章を引用させていただきます。

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以下引用
六月二五日、三十八度線全線にわたって韓国軍が攻撃を開始し、戦線が開かれた。二六日北朝鮮軍は反撃に転じ、韓国軍はたちまち潰走しはじめた。アメリカは直ちに韓国援助を声明し、早くも二七日には在日空軍を朝鮮に出動させ、一方第7艦隊を台湾海峡に出動させて中国の台湾解放を妨げた。二八日、ソ連代表欠席の中の国連安全保障理事会は、アメリカの要求通り、北朝鮮を侵略者として武力制裁を決議した。この決定に先立って、マッカーサーは在日米軍の全面的出動を命令していた。
朝鮮戦況は、米・韓の予想とは反対に、民衆の支持を得た北朝鮮軍が圧倒的に優勢であった。
急拠赴援した米軍も、韓国軍同様潰走し、日本を空白にして在日米軍を根こそぎ投入したが、八月末には釜山橋頭堡を辛うじて維持する状態まで追いつめられた。しかし、米国からの増援軍の到着によって、戦線の背後仁川に上陸、圧倒的な海軍、空軍の支援の下に北進して、北朝鮮を焦土としながら中国国境に迫った。十一月中国人民義勇軍が参加して戦局は再び逆転し、米軍は敗北して後退し、一九五一(昭和二六)年に入ると、おおむね三八度線で、戦線が膠着状態となった。>
以上引用終わり
「体系・日本歴史六日本帝国主義」藤原彰著 日本評論社刊 p二百二十九〜二百三十より
このアホ本は北朝鮮が南朝鮮兵に変装させた特殊部隊三十一名をソウル青瓦台にある大統領官邸に送り、大統領を暗殺しようとしてすんでのところで発覚した「青瓦台事件」のあった一九六八年に初版本が出ている本です。

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<六月二五日、三十八度線全線にわたって韓国軍が攻撃を開始し、戦線が開かれた。>
という有名な箇所だけでなく、
<二六日北朝鮮軍は反撃に転じ、韓国軍はたちまち潰走しはじめた。>
<一方第7艦隊を台湾海峡に出動させて中国の台湾解放を妨げた。>
<民衆の支持を得た北朝鮮軍が圧倒的に優勢であった。>
<北朝鮮を焦土としながら中国国境に迫った。十一月中国人民義勇軍が参加して戦局は再び逆転し、米軍は敗北して後退し>
と随所に社会主義の赤い軍隊は正義の軍隊という藤原氏の思い入れたっぷりの箇所がでてきます。
ちなみに、今は誰も信じていない南朝鮮から攻撃を仕掛けたという根拠として、
以下引用
< 米・韓国側は、北朝鮮側が先に攻撃をしたと主張しているが、攻撃が韓国側によって準備され徴発されたことは、当初アメリカの新聞、通信によっても報道された。米人ジャーナリストによる、ストーン「秘史朝鮮戦争」コンデ「朝鮮戦争の歴史」二巻などには、いずれもアメリカ側の材料によって、米韓側の陰謀であることを立証した。後者は三部作「アメリカは何をしたか」の一部で、朝鮮戦争の最も詳細な研究であるが、アメリカで出版できず、昭和四十二(一九六七)年、日本で発行された。>
引用終わり
同書p二百三十

あと、このお茶目な学者さんは支那に不法に破棄してきたといわれる旧日本軍の遺棄したといわれている化学兵器についても、昭和五十九年十月三十一日に朝日新聞第一面にあの有名なハガキ二枚分の大きな写真を掲載し「『これが毒ガス作戦』と元将校」「当時の日本軍部内写真を公表」との見出しの記事について。

元将校A氏の証言「『これまでだれにも見せられなかったが、最近、当時の日本軍の行為を正当化するような動きがあり、憤りを感じたため、公表することを思い立った』とAさんは語っている」「南昌攻略作戦の一コマで、一四年三月二一日午後、・・・・写真の光景にははっきりと見覚えがあり、手帳に日時も記入していた」「毒ガス攻撃をするというので全員が防毒マスクをつけて待機、ガス係が点火して写真のような光景になったという」
朝日新聞の解説部分では「百五十余ページの写真帳に掲載された他の写真にはすべて説明があるが、この写真に限って一行の説明もない」とある。
専門家としてここでもあの藤原彰一橋大学教授が登場。以下、藤原ダイセンセイの記事部分を全文引用
<実際に中国戦線に従軍し、最近は日中戦争での化学戦の実証的研究を進めている藤原彰・一橋大教授(日本近・現代政治史専攻)は『写真でみると、発煙筒ではなく、毒ガスに間違いないと思うが、放射筒が写っていないので、写真だけからはガスの種類を特定することはできない。私自身、日中戦争での毒ガス実射写真を見たのは初めてだし、公開されるのもこれが初めてだろう』と話している>

流石は陸士出身のダイセンセイだけあります。

ところが、同じ年の十一月十一日付け産経新聞朝刊にこれに対して反証記事が掲載されました。四名の証言者を実名で掲載し、なおかつ反証記事を書いた産経新聞石川水穂記者が神田の古本屋さんで入手したAさんと同じ写真集には、「南昌攻略作戦」の項目はなく、別の項目に「煙幕放射」との説明がついていたという。
つまり、朝日新聞の解説部分「百五十余ページの写真帳に掲載された他の写真にはすべて説明があるが、この写真に限って一行の説明もない」というのは捏造ということになる。ましてや、あれほどまでしっかりと証言していた人間をAという匿名で出した朝日新聞に対して、産経新聞はすべて実名で四人もの証人を登場させている。
その中のおひとりは「かん湘作戦」(漢字変換出来ません)に歩兵中尉で参加した鵜飼敏定氏(昭和五九年当時七〇才)は、「一四年九月二三日午前、新しょう河を渡る時のもの、対岸の敵に部隊編成を悟られないように、発煙筒をたいた。毒ガスではない」
同じく同じ作戦に参加した西村英雄氏は「敵がおらず味方しかいない川の手前で何で毒ガスを使う必要があるのか」
朝日新聞は南朝鮮から北朝鮮に攻め込んで朝鮮戦争が始まったと著書に書いている近代史の大家である藤原彰ダイセンセイは「毒ガス」と「煙幕」との区別もつかない「日中戦争での化学戦」のアホ大家という新しい称号まで与えたことになります。
この産経新聞の反証記事が掲載されてすぐに、朝日新聞の幹部が産経新聞社に怒鳴りこんできたというような記事を週刊誌かなにかで読んだ覚えがあります。
そして、この捏造記事について朝日新聞は昭和五九年一一月一四日付朝刊の第三面の下隅に「日本軍の『化学戦』の写真」「カンショウ作戦とわかる」との二段見出しのベタ記事を掲載。
でも、当然ですが、朝日新聞による訂正とかお詫びとかいう文言はどこにもありません。 朝日新聞らしいといえばそれまででしょうが・・・・

まあ、こんなアホな事を平気で書いている人間を師と仰いでいる反日学者の吉田裕、林博史氏等の程度がよ~くわかりました。

あほらし

今日は本の整理で一日が終わる。
酒は飲まず。
サルでもエビでもない。