戦艦大和と淡路島

戦艦大和と淡路島
8月1日土曜日晴れ◯

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辺見じゅん氏の小説「男たちの大和」の中に山本五十六長官より直に短刀と茶掛をいただいたという大和の柔道部で機銃を受け持っていた内田貢氏は、レイテ沖海戦で片目を失い、この短刀を大和のロッカーに置いたまま呉海軍病院に入院していたのだが、この短刀を取りに沖縄海上特攻に向かう大和に潜り込んだら、そのまま出港、そして降りる間もなく戦闘状態になった。というなんとも凄いエピソードの持ち主ですが、戦後、九死に一生を得た内田氏がその海上特攻で散華された大和の相撲部員でもあった津名郡津名町(現淡路市)の北栄二氏の実家を訪ねるために淡路島にいった時のエピソードがなどが出てきます。
北氏が同棲して籍を入れてなかった鷹取とし子さんとの入籍の証人になるために昭和二十八年春に訪れています。
左目は眼帯をした内田氏は当時実家のあった四日市で地元のヤクザの開く賭博場の用心棒をやっていたので「四日市のみっちゃん」と呼ばれその世界では有名人だったそうです。

その内田氏が昭和三十九年に興行師の世界から足を洗った時に、左目の奥にある義眼を動かすための「義眼帯」が四つに割れてて、激痛と発熱の元になっている為手術を受けたが、何度も手術を受け麻酔が効かない為麻酔なしで名古屋の杉田眼科で手術をした際、呻き声一つ出さない内田氏を杉田眼科に来ていたドイツ人ドクターがみて「ジャパニーズ、ヤマト、ヤマト」と感嘆の声をあげたそうです。
内田氏は100ケ所以上の傷を負い、何度も手術をくり返したそうですが、取り除く事ができずに内田氏の体の中に残ったままの弾などの破片も多くあり、空港の警報装置に引っ掛かる。台湾に旅行でいった時には裸にまでされて調べられたそうで、その時に内田氏の全身の傷跡やひきつれを見た三人の係員は言葉も無かった。そして、「戦争ですか」と流暢な日本語で訪ねられ「そうですがな、大和に乗っとりました」と内田氏が答えると、三人の係員は、瞬間に敬礼したそうです。
子供のいない内田氏は11人もの戦災孤児を引き取り育て、そのうち三人を御自分の籍にいれているそうです。でも、嫁にまでだしても音沙汰ないと奥様がぐちると「ええわな、幸せならええわな」と何もいわない。

この本の巻末には大和とともに運命を共にした三千余名の乗組員の名簿が掲載されています。
以前日記に書いたことがありますが、私の父は大竹団の後、予科練甲飛十六期として最後の予科練といわれた宝塚海軍航空隊に入隊しています。
その父の残した「旧海軍 三原郡海友会」会員名簿です。

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内田貢氏が尋ねた戦友である北栄二氏の実家は津名郡(現淡路市)ですが、当時、淡路島は洲本市、津名郡、三原郡に分かれていました。
その三原郡海友会名簿でしらべますと、私の故郷である淡路島のなかの、そのまた狭い三原郡の三原町で居内久夫兵曹長(二十四才)長谷年夫一等機関兵曹、金勝清志二等兵曹、武田勝二等兵曹(二五才)の四氏のお名前が、緑町では納要中尉、小坂猛二等兵曹、長谷年夫一等機関兵曹の三氏、西淡町では高岡勇上等水兵、中野俊雄二等機関兵曹、土井義行一等主計兵曹の三氏、南淡町では岩井好一水兵長、藤平武上等水兵、中山義雄上等水兵、溝上義雄一等機関兵曹の四氏が「男たちの大和」の巻末にある名簿でも確認できます。淡路島の三分の一である三原郡(現南あわじ市)は現在四万八千名弱の人口でも十四名の方が大和に乗船され散華されています。私の父親もそうでしたが、淡路島の人間が多く行った呉の大竹海兵団の関係かもしれませんが、淡路島全体だと倍以上ではないでしょうか。

二名様来店。
のみ。
めちゃヒマ。
さっさと帰る。
今日は私は酒は飲まず。
猿でも海老でもない。