「ソウルに刻まれた日本」

「ソウルに刻まれた日本」
平成21年11月3日火曜日晴れ ○
 「ソウルに刻まれた日本」(鄭雲鉉著 武井一訳 桐書房)という平成十一年に出されたこの本を読んだときに、まず最初に驚いたのは、創始改名について、やっと、十年前に鄭氏が翻訳した本が南朝鮮で「初めて」出版された事を知ったことでした。それも、我が国で出版された本の翻訳という形で。
 この鄭氏が「創始改名」という我が国の本を翻訳するまで、朝鮮人が騒いでいる創始改名について、朝鮮では単一の主題として扱ったものは、「日帝下の創始改名」(「月刊中央」七十六年六月号 金東鎬)のみで、他には学術論文、研究論文を問わず、ただの一編もなかったことが書かれている。(同書p二十四)
 それまで、朝鮮では創始改名についての書物が出されていなかったばかりでなく、研究さへされてなかったのである。
 朝鮮人連中が気違いのように騒いでいる事項にしても、所詮此の程度なのである。
 感情論でものをいい、考えようともしない、知ろうともしない。
 我が国の教科書問題についても、読みもしないくせに、「読まなくともわかる」と宣うアホウどもと同じである。
 この本の著者である鄭雲鉉氏も、そのような、どうしようもないアホウ朝鮮人の一人である。

 この本は、我が国の朝鮮半島統治もおける建築物から言葉まで、現在も朝鮮に残る日本統治の影響とされるものについて背景などいろいろ書いていますが、それについての解釈が、人間どうすればここまで歪んでみることができるのだろうと思われる書き方ばかりです。

 一九五九年生まれの戦後世代である鄭氏は、いわゆる「親日派」追求に余念のない方で著書には「親日派罪状記」などもあります。
 鄭氏はたとえば、鉄道にしても「韓国人とともにあったソウル駅」として
<植民地時代は物資収奪と大陸侵略の前哨基地として、戦後の激動期には民族受難の場として、そして産業化が始まる頃には庶民の哀感が交差した生の現場として、つねにわれわれと一緒であった>P六七〜六八
と書き、我が国の鉄道建設について
<きっぱり言って断じて違う。彼らはもっぱら自分達の野望を(効果的にも能率的にも)実現するために無理をしながら、この地に橋を架け、鉄道を造った>

 そこまで我が国の朝鮮半島においての施政が気に入らないのであれば、鉄道も橋も道路も旧帝大であるソウル大学もなにもかもすべてぶっ壊し、ハングルを捨て、漢字中心に戻し、四割が奴隷の世界最貧国であった李朝時代よりやり直せばいいのに、そうはしないのです。

 

 「大学まで十二年間歴史を学び、個人的にすでに何年も近・現代史の勉強をしている私にしても、この文書は大変な衝撃であった」
 これは、中野茂樹氏が南朝鮮に残っている我が国の統治時代の建物の写真展をソウルでやった時にパンフレットに書かれていた、
「歴史は本の中にだけあるのではない」という言葉に対しての此の本の著者鄭雲鉉氏の言葉である。
 十二年歴史をたって、小中高で十二年ですがな。それだけでなく、朝鮮神宮の存在さへ知らなかったと書いている。近代史、現代史を「勉強している」のに・・・・・
続く

「ソウルに刻まれた日本」
「関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説」と中塚明
11月4日水曜日晴れ 
 この「ソウルに刻まれた日本」には、関東大震災の時のいわゆる「朝鮮人虐殺」について下記のように書かれている。
<「朝鮮人が井戸の中に毒薬を入れた」、「朝鮮人が集結して火をつけて回った」などといって、罪のない数万名の朝鮮人を虐殺した。ところで、このような「朝鮮人暴動説」を流布させた張本人は、他でもない、当時内務大臣であった水野錬太郎であった。
 水野錬太郎は政務総監として、斉藤総督と一緒に京城に赴任し、南大門駅で姜義士の爆弾の洗礼を受けた。斉藤と共に無事であったが、彼はそのとき受けた衝撃と恨みがとても深く、朝鮮人に対する恨みを晴らす機会を狙っていた。
 そんな中、彼は内務大臣となり、関東大震災が起ると、その機会を利用して「朝鮮人暴動説」というとんでもないものをでっち上げたのである。
 これをそのまま信じた日本人は手当り次第に朝鮮人を殺傷した。虐殺は九月三日深夜から七日まで続いたのだが、当時これを目撃したある朝鮮人の証言によれば、殺傷はだいたい次のように行われた。
「初めから住所、氏名も聞かないまま、事の正否も聞かず、順々に引きずられて殺されていった。初めは銃で殺したが、銃声が付近一帯の民家に聞こえるのを恐れ、後には銃剣で刺し殺した。真っ暗な庭の中に、裸にして立てては、銃剣を両手で掴んで、兵丁fが、横ではもう一つのやや低めの声の号令によって何度も刺して・・・・・。このようにして、一つ一つの黒い影は、言葉なく倒れていった。」
 このようにして、虐殺された朝鮮人の数は一万名を超えるともいわれるが、いまだに正確な事はわかっていない。日本人ひとりの恨みが、数多い善良な朝鮮人の命を奪ったわけである。>
(同書p八十五〜八十六)

 
 
 手元に「台湾少年工と第二の故郷」(野口毅 展転社 平成十一年刊)という本がある。
 大東亜戦争末期に、志願により試験を受け台湾で選抜された八千四百名もの優秀な十五歳前後の少年たちが、高座海軍工廠において極地戦闘機「雷電」の製造に関わっていたが米軍の攻撃により五十二名の方々が犠牲になられた。
 この方々は靖國神社に英霊として祀られているが、靖國神社に確認をお願いした時に、二五〇万柱もの英霊の名簿の中より四十名が祀られていることが報告された野口氏は散華された台湾少年工が英霊として、靖國神社に祀られている事に涙を流されている。
 そして、散華されたすべての台湾少年工を靖國神社に英霊として合祀していただくために、氏名を確認する過程において、野口氏は著書に我が国の役人の優秀さと戦時中というにもかかわらずその記録の保存の確かさについて書いている。
 
 鄭雲鉉氏は、水野錬太郎内務大臣が「朝鮮人暴動説をでっちあげた」と書いているが、そうであれば、当然、何かその証拠なり、記録が残っているということになるが、この鄭という朝鮮人はそれを確認したのであろうか。
 何も確認せずにこのような事を書くのであれば、アホウとしか言いようがない。

 まあ、これと同じような記述が「これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史」(中塚明 高文研 平成十四年 )などにも見られます。
<日本の支配者は、日本人の労働者と朝鮮人の労働者が、どんな形にせよ、手を取り合い腕を組むことを非常に恐れました。
 あらゆる機会をとらえて、日本人には朝鮮人を軽蔑し、差別する思想を植え付け、日本人と朝鮮人を敵対させようと計ったのです。
 一九二二年(大正十三年)九月、関東大震災が起りました。地震と火災で数百万人が路頭に放り出され、死者・負傷者が続出しました。
 そのとき朝鮮人が暴動を起こしたとか、井戸に毒を投げ入れて日本人を殺そうとしているなどのうわさがひろまりました。根拠のないデマ・流言でした。日本政府は軍隊を出して警戒を厳しくすると同時に、「朝鮮人暴動」のうわさが事実無根であることを知りながら、それをはっきりと打ち消しませんでした。そればかりか、かえってそのデマを助長し、軍隊・警察が一体となって、多数の朝鮮人を逮捕し殺害したのです。それにあおられた一般の日本人も、各地で自警団をつくり、見境もなく朝鮮人を虐殺したのです>
P百三十六
(私は「日本から観た朝鮮の歴史」(熊谷正秀 展転社 平成十六年刊)P二百十四より引用

 この中塚明氏も同じく、日本人と朝鮮人が対立する事による施政の利点というものはなんであるかという事が書かれていないし、具体的なその証拠も何も提示されていない。
 このような中塚明氏の文書に対し、熊谷正秀氏は、
<「関東大震災」(姜徳相 中央公論社 昭和五十年刊)、「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」(姜徳相・琴 みすず書房 昭和三十八年刊)、「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)には「震災の混乱の中で自然発生的にデマがながれたのではなく、日本政府関係者があえてデマを流し、朝鮮人を殺害した」と記述されている。
 これらの書物は、関東大震災時の朝鮮人虐殺について様々な論文・テキストで引用されている。しかし、野牧雅子氏は、「関東大震災朝鮮人虐殺説への重大な疑問」(「現代コリア第四百十九号」平成十四年P六十七〜六十八)で、「関東大震災」及び「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」は、筆者が引用文を部分的に削除して自分の解釈に合わせて本来の意味を歪曲しているといくつかの例をあげて批判している。
 また、デマを故意に流したかについて、姜徳相氏が「権力が戒厳施行の名文として朝鮮人蜂起を利用し、流布し、国民の不満を凶悪な排外心にすりかえるため」としているのに対し、野牧氏は、そのような証拠が全くない上、震災時に発動された戒厳令は「軍事戒厳」ではなく、「行政戒厳」であることを指摘し、戒厳令発動決定の条件にデマは不要であったと反論している。
 さらに、当時、一般の日本人や官側が朝鮮人をかばった話だけでなく、警察によって朝鮮人保護活動が組織的に行われていた事、関東戒厳司令部がまとめた調査票からも兵隊や巡査が朝鮮人を殺害した例はあるものの、それらは秩序を守るために行った単発の行為であること、刑務所に収監されていた囚人(朝鮮人を含む)が震災直後に解放されるや否や略奪をはたらいたこと、など具体的な例をいくつかあげている。>
(「日本から観た朝鮮の歴史」P二百十五〜二百十七)

 随分前にその内容のアホさを指摘しました「知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近代史」(青木裕司 玄冬舎 平成十六年刊)には「関東大震災と朝鮮人虐殺」のところにしっかりと、「公権力があおったパニック、その悲惨な結末」として「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」(姜徳相他編 みすず書房P百四十五)よりの引用と明示しています。
 青木氏も、その背景として中塚氏と同じく水平社などと結びつく可能性などをあげています。
 中塚氏、青木氏両名とも関東大震災時の大混乱の中、朝鮮人の集団が日本兵、日本人を多数殺害した事実には一切ふれない。

 ちなみに、この中塚明という人は、平成一三年七月七日に開かれた<「国民連合」主催の「7.7集会」−一日も早く日朝国交正常化を!>という集会において、「南北共同声明一周年と日朝関係の正しい歴史認識を」という題で講義し、その講義後、の北朝鮮による「拉致」被害者家族連絡会の増元照明氏の「拉致問題に関し如何お考えでしょう?」の質問に対し、「拉致そのものの証拠、根拠は?」と宣い、「シン.ガンス事案」と「李恩恵事案」をあげて説明した増元氏に対し、中塚氏は「もしそれが軍事政権下の裁判であったなら信頼性にかけますね」とほざいています。

続く

 仕込みを終えてから、月曜日にパテで補修してあった皿のペーパーがけ。

 Nさん四名様で来店。Nさん二名様で来店。Oさん来店。
 一通り飲むが、今日はしっかと記憶あり。珍しい・・・・・

「ソウルに刻まれた日本」関連
「朝鮮人強制連行の記録」にみる「関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説」
11月5日木曜日晴れ △ 
 昨日の日記に書いた熊谷正秀氏の著書「日本から観た朝鮮の歴史」(展転社 平成十六年刊)の中に出てくる三冊の朝鮮人が書いた著書のうち、あの悪名高い「朝鮮人強制連行の記録」だけが手元にありますが、それに関東大震災についてどのように書かれているか。

以下、
 弟、義兄、そしてその従兄弟など同僚十五人で、日本に「観光旅行」で来ていたという慎昌範氏(千葉県在住)の証言として、

九月一日、上野の「昭和旅館」にて昼食をとっている時に地震に遭う。
 二日、兵隊の配っていた握り飯で飢えを凌ぐ。
 三日の夜、「津波が来る」という怒鳴り声で、京成電車の鉄橋の上に非難する。
 四日、朝二時頃に「朝鮮人をつまみだせ」「朝鮮人を殺せ」という自警団の声が聞こえ、武装した自警団に近くにいた林善一という「荒川の堤防工事」で働いていた朝鮮人が日本刀によって斬り殺される。
 鉄橋から飛び降りて逃げる。
 五日、朝、自警団が三人乗った伝馬船をひっくり返すが、もう一隻に乗った自警団に捕まる。
 日本刀にあっちこっち切られたり、竹槍で突かれ、気を失い、死体と思われて、足首を鳶口で引っ掛けられて、寺島警察署まで引きずられたのち死体置き場に放置される。
 弟は頭に八の字型の傷を受け、義兄は無傷で寺島警察署に収容される。
 巡査は、治療はおろか、水も飲ませるのを邪魔をした。
 弟の四、五日間にわたる水を飲ませてくれた事により、一週間後には目が見え始める。
 警察署は一切治療をしなかった。
 九月末になって、自分で歩ける者は千葉の習志野収容所に移されたが、重傷者だった慎昌範氏は警察に残される。
 寺島警察署には十月末までいる。
 その後、日赤病院に入れられるが、患者同士の話を禁じられた。
 手当は、初めの二ヶ月は赤チンを日に一度ぬってくれるだけであった。
 左肩は骨が砕けているので、病院側は、腕の付け根から切り落とせば治りが早いとしつこく何度も言ったが、
私はもし切り落とすような事をしたら国にも帰れないし、自殺すると言い張りやっと免れた。
 「麻酔薬もなく」「手術が大変」で自殺したいような気持ちであった。
 顔や頭の傷は早く治った。
 竹槍で刺された右脇腹の傷口は、息をすればそこから空気がもれるような状態で、治療が長引いた。
 左手の小指は荒川堤防で日本刀でスッパリと、切り落とされたせいか、傷口はきれいになっていたが、日が経つにつれて痛みが増して来たが、医者や看護婦に訴えても相手にしてくれず、偉い医者が見回りに来た時に、痛くて、我慢できないから、何とかしてくれるように頼むと、その場で包帯を切る鋏で、乱暴に痛む所をブスッと切り裂いてしまった。裂いた傷口から大きなウジ虫が何匹か出て来ました。
 日赤病院といっても、このように被人道的扱いをされていたので、同じ病室で十六名中生き残ったのは九名だけでした。
 日赤病院から一年六ヶ月ぶりに退院し、朝鮮に「帰ってみる」と、故郷の居昌郡だけでも震災時に十二名も虐殺された事が判り、そのうち私の親類だけでも三名も殺されました。
 私の身体を一生涯不具にさせ、多くの同胞の生命を奪った日本帝国主義に対する憎しみは、一生忘れる事はないでしょう。
以上
「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)P二百二十九〜二百三十四

 時系列にこの慎昌範氏(千葉県在住)という朝鮮人の証言をハッショリながら書きましたが、このアホ朝鮮人は矛盾というものを知らないのだろうか。
 明治四十三年(千九百十年)の併合からたった十二年しか経っていない「大正」十二年に、十五人もの兄弟、義兄などで「観光旅行」に来て泊まっていたという裕福な朝鮮人である慎昌範氏は泊まっていたという「昭和旅館」で地震に遭遇したそうだが、「大正」十二年当時、「昭和」に旅館は存在していたのだろうか。
 明治時代に「大正○○」、大正時代に「昭和○○」、昭和時代に「平成○○」などと名付けられたものが存在するのであろうか。

 あと、九月五日に自警団に襲われ、日本刀と竹槍により、顔、頭、日本刀で切られたのに、その切り傷ではなく、骨が砕けて切断する手術を提示される程の左肩、息をすれば空気が漏れるほどの右脇腹など無数の傷をおい、気を失い死体と間違われる程の重傷であったのに、警察署においては何の手当もされずに十月末に日赤病院に移るまでの約二ヶ月間も放置され、その後の日赤病院においても赤チンを一日一度だけぬるだけで、治ってしまったというのも凄い。
 初期治療が大切というのは私のようなド素人でも知っています。
 それが、警察に二ヶ月治療もされずにいて、日赤病院に一年半も入院していたのですから、自警団に襲われてから、一年八ヶ月ぶりに外に出るような傷が、憎き日帝により赤チンをぬるだけで治ってしまったのですから、不死身ですね。
 まさに、ゴキブリ、ネズミ以上の生命力でしょうか。
 流石に、たった三十五年の日帝の醜い統治でも人口が倍以上に増える民族だけの事はあります。

 ところで、なんで、「観光旅行」に来て、「朝鮮に帰れなくなるから」と病院で言って手術を拒み、一旦は故郷の朝鮮半島に帰りながら、また殺されかけた日本の「千葉市在住」なんでっか? 
 強制連行でもされたんでっか?
 いくら鬼の日帝でも身体の不自由なものをわざわざ朝鮮から連れてこんでもよさそうなものですが。

 あほらし。

 慎昌範というアホ朝鮮人のウソ証言は、現在でもあの犯罪組織朝鮮総連系の「統一評論」統一評論 平成二十年九号[第五百十五号]にて、荒川土手で虐殺された多くの同胞」として掲載されています。
 こういうアホ朝鮮人の言う事をそのまま信じる輩もいる。
 このアホ証言がウソでないと言うなら、私が指摘した矛盾点をそれぞれ説明して欲しいものです。

 このようにウソを吐き続ける腐れ朝鮮人どもは、普通の朝鮮人の人々にとり、害以外のなにものでもない。

 Sさん御友人夫妻と来店。小胡子さん来店。
 営業終了後、小胡子さんと高円寺のイタリアンへ。
 

「ソウルに刻まれた日本」
歴史の連続性
11月15日日曜日晴れ ○ 
「ソウルに刻まれた日本」には、テロリスト金九の銅像に朴正煕元大統領の揮毫がされているのについて、
<しかし、問題は、彼が文字を掲げてよい場所があり、掲げてはならない場所があるということである。ここの場所は掲げてはならない場所だ。なぜなら朴正煕は、日本の陸軍士官学校を出たうえに、「親日歴」があるからだ。朴正煕は金九と一緒に立てない立場にあるのだ。
 金九の銅像が不憫に見えるのは、たんに朴正煕の文字のせいだけではない。銅像それ自体もかって親日派だった彫刻家、金景承が造ったものである。
 あわせて金九の銅像には三人の親日前暦者の名前が彫られている。このような人によって造られたとすると、銅像がなぜ造られたのかわからなってしまう。>
(同書p九十一〜九十二)
  テロリスト金九の銅像の三人の後一人は、蒋介石元台湾総統です。

 何度も書きますが、親日派糾弾と騒いでいる連中は、今の南朝鮮が我が国の統治下において高等教育を受けた人々抜きにして、戦後の復興などがあり得たと思っているのであろうか。
 朝鮮の貧しい家庭に生まれた朴正煕元大統領は、我が国の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、南朝鮮の中興の祖となっている。
 他にも我が国統治時代に多くの優秀な朝鮮人が教育を受けている。

 歴史は継続しているものである。
 我が国の統治下において教育を受けた優秀な多くの朝鮮人がいたのは事実であり、その多くの先人のおかげで、いまの朝鮮があるのです。
 

 今日は午後からスポーツセンターに行く。
 帰りに芳林堂さんに寄るが、何も買わず。

 産經新聞記者である福島香織さん(もうすぐ元がつくが)のブログhttp://fukushimak.iza.ne.jp/blog/
にて紹介されていた「殺劫 チベットの文化大革命
」(ツェリン・オーセル著 ツェリン・ドルジェ 写真 集広舎)が届く。
 チベットにて、支那が戦後どのような醜い事をやったかが、数多くの写真とその写真に写り、現在も生存している人物を六年にわたり取材した貴重な一冊であり、共産主義国家の支那においては非常に危険を伴うものである。
 帰宅し、何度も読み返す。
 今日は飲まず。
 
「ソウルに刻まれた日本」
日本統治下の朝鮮半島における教育
11月16日月曜日晴れのちくもり ○
 「ソウルに刻まれた日本」の著者であるこの鄭雲鉉というアホ朝鮮人は、その教育についても「差別だ」と騒いでいます。
 <解放後この学校は(木下注 一九一六年に設立された京城工高)、京城帝国大学理工学部、京城鉱山専門学校とともにソウル大学工学部になったが、開校から解放の時まで三十年間、我が国に長く功績のあった科学技術者を排出した母体であった。解放後の我が国の科学技術界を率いた多くの学者は、みな、この学校の出身である。
 略)
 結局、日本の当初の目標は、彼等の宣伝とは異なり、朝鮮人には高い科学技術教育を受けさせるより、自分たちの手足として使う事の出来る、低レベルの技術者だけを養成することだったのだ。こんな心づもりは一九二六年に京城帝大を創設した際に、法文学部と医学部だけおき、工学部をおかなかったことにもよく現れている。>
(同書p百三十六〜一三七)

 この朝鮮人は矛盾というものを知らんのだろうか。
 戦後、朝鮮を率いて多くの学者は我が国の朝鮮統治時代の教育を受けて来たといいながら、「朝鮮人には高い科学技術教育を受けさせるより、自分たちの手足として使う事の出来る、低レベルの技術者だけを養成することだった」とはどういうことなのだろうか。

 本当に差別するのであれば、高等教育など行わない。
 愚民主義をとったオランダのインドネシア統治をみればよく判る。
 我が国の統治と他国の統治を比べてみればよい。
 ソビエトは一九三九年から一九四〇年にかけて、占領したバルト三国の一つエストニアの支配を始めるに際し、学歴の高い方から全人口の五十%を殺害もしくはシベリアの強制収容所に送った。
 
 京城帝国大学については下記のような事も書いている。

<当時、日本の帝国大学は、どこも文学部、法学部、理学部、工学部をもっていたから、日本当局はここでも差別をしたのだ。
略)
 当初、法文学部に政治学科があったが、当局は学部開設二年目の二十七年にこれを廃科とした。朝鮮人の政治に対する関心の高まりを憂慮したからである。結局法文学部には、法学科、文学科、史学科、哲学科など四つの学科だけが残った。
 朝鮮人に対する差別待遇は、入学でもあった。
 一九二四年初めての新入生募集したとき、出願者は六百五十八名で、合格者百七十名のうち朝鮮人合格者は四十五名であった。
 文科の場合、志願者百五十二名中、六十一名、朝鮮人は百四十一名中、二十九名だけが合格した。また、理科の場合、日本人は二百五十四名が出願し、六十四名合格、朝鮮人は百名のうち名が合格した。合格率は日本人が三十・七%、朝鮮人は十八・六%であった。そのとき、朝鮮の民間紙は、この試験が朝鮮人に不利に出題されたと非難した。実際、日本の歴史、漢文の訓読などが出題されて、朝鮮人出願者に不利だったという。うわべは差別をしないようにしながらも、実際にはすべての面で朝鮮人に差別待遇をしていたのが、日本の教育政策であった。
 略)
 >
(同書P百三十九〜百四十)

 どうすれば、このようなひねくれた考え方が出来る腐れ人間が出来上がるのであろうかと不思議に思うが、あの嘘つき戦時朝鮮人売春婦どもの戦後の行動を見ていると、まあ、それなりに理解出来ますが、これらの捻くれた考え方は朝鮮人を含めた先人に対する屈辱である。

 
  京城帝大に関しては、既に知られているように、大阪、名古屋帝国大学より早く、東京、京都、九州、北海道に続く六番目の我が国の帝国大学として大正十三年(一九二四年)に開校した。その後は昭和三年(一九二八年)の台北帝国大学、大阪帝国大学(昭和六年)、そして名古屋帝国大学(昭和十四年)の九校のみである。
 旧制四高である現金沢大学も帝国大学にはなれなかったのである。
 当時の超エリートコースであったのである。
 
 そして、この腐れ朝鮮人が書く
 <当時、日本の帝国大学は、どこも文学部、法学部、理学部、工学部をもっていたから、日本当局はここでも差別をしたのだ>
とも言うのも嘘である。
 帝国大学の学部は下記のようになっていた。

 東京帝国大学  理学部・工学部(一・二)医学部・農学部・法学部・文学部・経済学部
 京都帝国大学  理学部・工学部・医学部・農学部・法学部・文学部・経済学部

 東北帝国大学  理学部・工学部・医学部・法文学部

 九州帝国大学  理学部・工学部・医学部・法文学部
 北海道帝国大学 理学部・工学部・医学部・農学部
 京城帝国大学  理工学部・医学部・法文学部
 台北帝国大学  理学部・工学部・医学部・農学部・文政学部
 大阪帝国大学  理学部・工学部・医学部
 名古屋帝国大学 理学部・工学部・医学部

 このように、すべての帝国大学にあったのは医学部であり、北海道帝国大学には、理学部・工学部・医学部・農学部。大阪帝国大学および名古屋帝国大学には、理学部・工学部・医学部のみで、京城帝大にはある法文学部あるいは台北帝大にはある文政学部がないのである。
 差別差別と叫ぶこの朝鮮人の感覚からすると、ひょっとして、他大学にあって、京城帝国大学にないものは差別ということになるのか。
 では、京城帝国大学には日本人も一緒に学んでいるのだが、そんな差別された大学に学ぶ日本人も差別されている事になるのか。

 そして、予科があったのは北海道帝国大学と台北帝国大学のみである。
 これも差別か??????

 我が国は欧米諸国が植民地に取っていた愚民政策を取らずに、
朝鮮人に対して、高等教育を行った。それは、欧米のように植民地と考えていなかったからである。

 あほらし

 今日は飯を食いに外に出たのみ。
 しかし、いいかげんに部屋の本を片付けないと・・・・

 酒は飲まず。

「ソウルに刻まれた日本」
京城帝大および高等文官試験
11月17日火曜日雨 ×××××
 「ソウルに刻まれた日本」で、著者の鄭雲鉉氏は京城帝大において、政治学科を無くしたのは、
「朝鮮人の政治に対する関心の高まりを憂慮したからである」
と書くが、
 京城帝国大学法文学部には憲法・行政法などとともに経済学、政治学・政治史が講座として設置されていた。
 それだけでなく、現在の朝鮮人に言わせると、民族抹殺政策のはずの我が国の統治において、朝鮮半島唯一の帝国大学では、終戦まで朝鮮史学、朝鮮語学・朝鮮文学などの各講座があったことをどうして書かないのであろうか。

 たしかに、入学試験に関しては、京城帝国大学を卒業後、朝鮮総督府の警察官僚であった坪井幸生氏も、著書「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」で
 <文科は、朝鮮古来の文人尊重の国民的風潮からも進学希望者が多く、その合格者の比率が問題視されることがあった。入学試験科目の国語では『源氏物語』『平家物語』『徒然草』などの日本の古典からの出題も多く、「暗記もの」といわれた科目には日本史や日本地理が選ばれた年は、朝鮮人受験者にはそうとうなハンディキャップとなったのではなかろうか。>
と書いている。(P四十五)
 私には併合したのであるから、日本の歴史などの出題がそれほど差別になるとは思えないのだが。
 
 京城帝国大学が開校される事により、多くの優秀な朝鮮人が合格し、朝鮮人の高等文官への道が大きく開かれたのも事実である。
 当時難関中の難関である高等文官試験に合格するということは、官庁に就職すれば、将来は上位の地位が保証され、エリートとして処遇されるということである。
 つまり、当時は朝鮮人であっても、我が国の高級官僚として処遇されることになるのである。

 坪井幸生氏の著書によると、坪井氏の同期四十六名中内地人(日本人)は二十五名、朝鮮人は二十一名であったという。
 そのうち、高等文官試験に二年、三年の間に合格したのは八名。内訳は内地人二名(行政科)、朝鮮人六名(行政科三名、司法科三名)であった。司法科合格の徐截元氏が弁護士を志したほかは、全員官途に就いて朝鮮総督府の役人となっている。
 坪井氏自身は病のため卒業後、一年経てから朝鮮総督府に勤務する時の同期生は、十三名。うち二名が朝鮮人。そして、京城帝国大学出身者は一年後輩の星出寿雄氏のみ。一人、二人を除いた他はすべて東京帝国大学出身者であった。
 
 坪井氏は高等文官試験合格者として朝鮮総督府に入り、首都京城の治安を任務とする京畿道警務部に警部として配置される。
 巡査から始めると二十年以上かかる職位である。
 これはどういう事を現すか。
 高等文官試験という難関を突破した高級官僚の下には、多くの役人が部下としてつく。それがたとえ朝鮮人であっても変わる事が無いのである。

 差別差別と騒ぐバカ朝鮮人たちの頭では、このように優秀な朝鮮人の下に、多くの日本人、朝鮮人、台湾人が部下としてつくということがどういうことか理解出来ないのであろうか。

 今日は朝から雨。
 Sさん来店。ヒマだし、Sさんと早い時間からドンチャンをやっていると、Yさん来店。Yさんは二度目の来店。
 営業終了後、Yさんと「ラ・シャンパーニュ」に伺う。
 シャンパンでドンチャン。
 今日も、帰りにコンビニに寄ったみたいだが、記憶はまったくない。
 申、猿、さる、サル、SARU・・・・・・・・
 

朝鮮のすぐれた先人たち
11月19日木曜日雨のちくもり △
 京城中学は当時、朝鮮だけでなく我が国でベスト五に入る名門校であった。その名門校にも朝鮮人は一学年二百名、四クラスのうち各クラス二〜三人ずつはいた。彼等は秀才中の秀才で、ほとんどが戦後、指導者的立場に就いている。
 これは、京城中学を卒業した「誇り高き京城中学の朝鮮人級友たち」と題した呉善花氏の著書にインタビュー文が掲載されている安倍元俊氏が述べている言葉であるが、続いて下記のように述べている。

 <同じクラスに二人の朝鮮人がいまして、私はどちらとも仲が良かったです。同期生の一人に金貞烈がいました。かれは戦後、朴政権の時に韓国の総理を務めた人物です。金貞烈は京城中学校を出た後、陸軍士官学校に入りました。
 略)
 三年先輩に李朝時代の政権に活躍した閔氏の子孫である閔復基がいました。彼は京城中学を出た後に予科に入り、京城帝国大学を卒業し、戦後の韓国で大法院長を務めました。大法院には京城中学の卒業生がたくさんいて、大法院の卒業生たちの間で「京城中学同窓会」を開いていましたね。
 金貞烈は韓国の首相だった時には毎年来日していました。その度に我々は歓迎会を開きましてね、同期生がみんな集まりました。全日空ホテルの貴賓室を使いまして、「金夫妻を囲む会」という名で集まったのです。
 もうその時はみんな嬉しくてね。中学生に戻った気持ちではしゃいだりして、一日中昔話に花が咲きました。
 略)
 最後の集まりはたしか平成元年十月十三日でした。
 同期生の武藤が、二十年程前に奥さんを連れて韓国に行った時、金は首相であるにもかかわらず、わざわざ時間を割いて自分の車で自ら直接案内をしてくれたんです。
 武藤は嬉しかったと言ってましたね。>
 「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)
P三十六〜三十七

 金貞烈氏については私も朝鮮の「護国の英雄の末路」と題したものを書きましたが、陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉であり、韓国空軍生みの親といわれる方です。
 その時に書いたように「親日派」追求に余念のない鄭雲鉉氏などに売国奴のごとく扱われています。

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 京都帝国大学経済学部を卒業後、朝鮮総督府に入り、江原道地方課長、朝鮮総督府事務官(農商局)を務め「慰安婦強制連行はなかった」等の著書のある大師堂経慰氏は、「劉鴻洵江原道知事への敬愛」として下記のように答えている。
<個人的な体験で言いますと、私の総督府勤務では江原道の地方課長が一番長かったのですが、そのとき仕えた知事の劉鴻洵さんに教えていただいたことが一番印象に残っています。
 創氏されて中原鴻洵を名乗っておられましたが、実に立派な方で私は心から尊敬していました。中国の史記に登場する徳の高い名君のような印象を与える方でした。
 当時、知事さんが最も気を遣っておられたのは米の供出と労務者の徴用でした。農民の苦労と稲の出来を心配されている劉知事さんの姿は痛々しくさえ見えました。江原道は灌漑水利の施設が不十分なため、殆どの田が天水に依存していました。五月、六月に雨がないと、植え付けができません。日照りが続き、心配がつのっておられたある日の夕方、待望の雨が降り出しました。知事さんは無意識にだったと思いますが、外に飛び出され「ああ、いい雨だ」と天を仰ぎながら、いつまでも雨に打たれておられたお姿を、今もはっきり覚えています。
 農民の憂いをご自分の憂いとしておられたのがよくわかりました。もちろん、知事が雨に濡れたからといって、それが豊作に影響することなどないことはよくわかっていますが、為政者として一番大切なものを教えられたような気がしました。民衆と苦楽をともにするという、昔の聖者の面影を残す朝鮮伝統の人格者でした。
 他方、細かいことにもよく気のつかれる方で、知事さんの車に同乗していた時の事です。刈り取った稲束をチゲ(荷物を背負う道具)に山のように積んで道路を歩いている人に目をとめられた知事さんは、「あんなことをさせてはいかんなあ、この労働力の不足している時に。荷車を使えば十倍ははこべるじゃないか」といわれ、荷車の供与、共同利用を指示されました。
 また、予算の知事査定のとき、「君達は薬がなくて困ると言っているが、その前に漢方薬も考えたらどうだ。薬草の栽培に補助金を出しなさい。たいした額ではないだろう」といわれたことなど、あらためて思い出します。>
(「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)
P百十七〜百十八

 ちなみに、朝鮮半島にあった一三道のうち、朝鮮人の知事は四割〜五割であった。江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人で、一三道の日本統治時代の全知事総数一二五名のうち日本人知事は七六名、朝鮮人知事は四九名と三九%が朝鮮人が占めていた。
 ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき参与官は一三道すべてが朝鮮人であった。
 多くの日本人は部下として朝鮮人に仕えていたのである。
 そのような状態で、慰安婦強制連行などが行なわれるはずがない。いや、できるはずがない。
 
 京城帝国大学だけでなく東京帝国大学など日本の大学に学んだ多くの誇り高くそして優秀な朝鮮人がいたのである。
 その優秀な朝鮮人の方々がいなければ、間違いなく現在の南朝鮮は無い。歴史は続いているのであって、このバカな朝鮮人には、同じ朝鮮人の優秀な先人の事が理解出来ないのであろうが、優秀であれば、我が国はそれなりに遇した。

 今の価値観で歴史を観るのが間違いである。

 今日は寒い。十一月半ば過ぎだから当たり前なのであろうが。
 ボジョレーヌーボーの解禁日ですから、ドンチャンやっているレストラン、バーも多いと思います。
 今年はペットボトルのボジョテレーヌーボーが出たそうで、今日、飲まれているボジョレーヌーボーは航空便でしょうから、輸送費が随分違ってくるのではと思いますが、去年も書きましたが、日本人にとってクリスマスのケーキみたいなものでしょうから、どうせだったら、普通のボトルで飲みたい人が多いのではないでしょうか。
 クリスマスケーキほどではありませんが、ボジョレーヌーボーも売れ残ったら悲惨です。
 ここ数年は毎年のようにボジョレーヌーボーの輸入量が落ちているそうです。
 お祭り騒ぎのボジョレーヌーボーではなく、普通にワインを楽しむ人が増えているという事でしょうか。
 まあ、どうでもいいことですけど。

 初めてのお客様Hさん二名様で来店。同じく初めてのお客様Mさん二名様で来店。しみずさん来店。
 Oさん来店。二名様来店。
 飲む。でも今日は記憶あり。
 

 東京帝国大学を卒業し、戦後はソウル大学大学院学長を務めた李萬甲氏
 新義州では日本人と同じ小中学校に通い、父親は強い民族主義者で、いつも朝鮮服を着ていたし、子供の李萬甲氏も朝鮮服にてたびたび学校に通っていた。記念写真も朝鮮服で写っている。
 
京城帝国大学の卒業生
月日曜日
      法文学部     医学部

     日本人 朝鮮人  日本人 朝鮮人
1929年 43 25   
1930年 44 25   43  12
1931年 39 31   57  14
1932年 45 20   44  21
1933年 38 27   43  18
1934年 36 30   42  29
1935年 32 25   50  15
1936年 41 38   54  12
1937年 48 28   54  22
1938年 38 29   58  12
1939年 13 12   50  16
1940年 30 25   22  4
1941年 41 20   50  20
1942年 43 21   44  18
1943年 41 31   36  24
計    572 387 647 237
 

 当時、慰安婦は日本人が一番多かった。その日本人の慰安婦の人たちは、朝鮮人慰安婦のような恥さらしな訴えをする人が一人もいない。
 戦時朝鮮人売春婦の味方をし、我が国のためにならない事であれば一生懸命になる朝日新聞などの腐れマスコミなどは此の事については報道しない。

「ソウルに刻まれた日本」(鄭雲鉉著 武井一訳 桐書房 平成十一年刊)
「台湾少年工と第二の故郷」(野口毅 展転社 平成十一年刊)
「植民地朝鮮の研究」(杉本幹夫 展転社 平成十四年刊)
「日本から観た朝鮮の歴史」(熊谷正秀 展転社 平成十六年刊)
「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)
「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」(坪井幸生 草思社 平成十六年刊)
「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)
「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 平成十四年刊)