オランダのインドネシア統治と我が国の軍政の比較

オランダのインドネシア統治と我が国の軍政の比較
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


オランダのインドネシア統治の特徴
オランダの統治の特徴は分割統治とし、互いの反目する小王国同士の内紛に乗じて、分裂離間を策し、民族統一の気運醸成を徹底的に妨げた。そして、民族共同体意識を欠き、結果として有力なインドネシア内の王国は十八世紀半ばには瓦解し、オランダの支配下にはいった。しかし、その瓦解のスピードは間接統治によるために、緩慢であった。東チモールは、ポルトガルの植民地で住民がキリスト教徒となったため、イスラム教のインドネシアとの対立が生まれた。

オランダは十九世紀(一八三〇年前後)より東インド会社の財政悪化に伴い、「強制栽培制度」が導入された。ヨーロッパ市場で儲かるコーヒー、茶、砂糖、藍などを強制的に栽培させた。それは、耕地面積の5分の1はコーヒー・茶などオランダ本国向けの生産物を強制的に栽培させた。このために、多くの村が崩壊し、食料白給体制は解体、餓死者が続出し平均寿命は35歳にまで低下した。この時インドネシアより得た利益は、オランダの国家予算の三分の一を占めた。
たとえば、ジャワ・マドゥラ地方の人口の半分にあたる400万人が強制栽培に従事させられる。稲作の減少による米価の高騰を招き、1850年にはに凶作が重なり飢饉がおこり、ドゥマックの村は人□が33万6000人から12万人に。ゴロポガン付では人口8万9500人が9000人に減少。平均寿命も三十五歳まで低下した。

オランダは天然資源開発のため、インド人、支那人を大量に苦人としてインドネシアに移住させ、後に、この移民民族を経韓・流通機構に利用するという間接統治のかたちをとり、彼らがインドネシア人の上にたち、インドネシア人を支配する階層が形成され、後の対立の原因を作った。つまり、オランダ・(華僑・インド)・インドネシアの三極構造からなる複合民族民族国家を形成し、インドネシア人の不満は、強制栽培の取り引き運送に携わる支那人・インド人に向けられ、オランダ人には向けられない巧妙な手口であった。
さらに、オランダはそれだけでなく、ハーフカーストともいえる大がかりにインドネシア人との混血児を作り、それを特別待遇して下級官史につけて、間接統治させた。行政官は混血児と華僑などにまかせ、インドネシア人の政治・参加、行政参加はほとんど禁止した。

オランダ政府は重税を課した上、華僑が高利貸となり二〇〇%の金利にインドネシア人は苦るしみぬいた。

オランダのインドネシアにおける教育方針
オランダは愚民政策をとり、三〇〇年間にわたり教育は基本的に禁止。二十世紀になって、世界の批判を受けて初等教育(三年問)だけは実施したが、学校に通えたのは僅か数%。(下記の資料では大東亜戦争直前の昭和十四年の時点でオランダはインドネシアの人々に対して、千人中二、三人しか、初等教育を施さず、中等・高等教育に至ってはほぼ皆無であったことが判る)
さらに上級学校へ進学する者に対しては、オランダ語を強制した。大学卒業のインドネシア人は年に10人程度。
そして、この教育の特徴としては、支配者であるオランダの文明は非情に高い、価値のあるものであり、非支配者であるインドネシアの文明は下等な、雑な、価値のないものであるという宣傅的な教育であった。この教育の目的は、教養、知性のみを高め、無自覚に機械のように支配者であるオランダ人の手足となるように教育をすすめた。そのためにオランダ人は住まいも立地条件が好く、高燥で風景のよい地域に、堂々たる別荘街を設け、現地人の住居を寄せつけず、オランダ人をインドネシア人の及びもつかない高等な人種と思わせるように仕向けた。
オランダの徹底した文盲政策を証明するものとして、大東亜戦争直前(昭和十四年)のデーターを戦後になって分析したものが、発表時に占領軍の検閲にあって削除されている。削除理由は「連合国批判」である。
以下引用
蘭印に至りては七千三百萬の人口の九割七分が土人(注 原住民)で、シナ人が二分にオランダ人が一分に充たないが、ここは教育に人種別の制が厳しかつた為に、その普及率にも開きが目立つ。(原文では初等教育は千人比、中等教育は万人比となっていたが、どちらも千人比に統一。また土人という表現は原文のママ)

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初等教育(千人比) 中等教育 高等教育
オランダ人 一六〇・〇 二七・三
支那人 十六・一 三・八一
土人(原文のまま) 二・七

スマトラで終戦となつて武装解除まで、身辺の隊部を纏めて来た司令官が、戦争中に親しくなつて互いに遠慮なく話の出来るやうになつた土人に、占領中日本軍がおこなつたことの善悪ともザックバランに聴きたいといつたのに、四ケ年の強制教育が何より有難かつたと、直ぐ答へたとのことを、この普及率の開きから想出して、蘭印政府の教育政策の弱点を今更に明らかにするのである。
(八田三喜「人口問題と各國の教育」、『丁西倫理』第五三二号、昭和二十二年八月)
引用終わり
「抹殺された大東亜戦争」P85~86
(一部旧漢字は変換できず)

オランダ愚民政策について日本が大東亜戦争時に統治していたインドネシアに昭和17年7月より昭和19年12月に至る二年半、民政部文教課長の職にあった鈴木政平氏が、内地の学兄宛の報告として書き綴ったものを、後年、そのままの形で本にした「日本占領下 バリ島からの報告」には下記のように書かれている。
アンポンより
(三)町中どこを探しても本屋というものが一軒もない(支那人の歯医者の細君が内職でやっているらしい三、四百冊ばかり並べた店はありますが、これはもちろん本屋といわれない)
学校に視察にいって
「時間割りを見ても歴史というものが見当たらなかった」
「そこですよ、そこにオランダの植民地教育の最大の秘密がひそんでいる」
「つまり処らしむべし、知らしむべからずですか」
p53

子供を導いてどこへつれていくのか、その方向というものがここの教育には全然たっていなかったのです。為政者のオランダにはもちろんはっきりとしていたにちがいない。人間としての自主性、民族としての自覚をもたぬものをつくりあげる、これがオランダが腹中ふかくかくしていた教育の意図であったにちがいありません。前述の説明を通しても、学兄にはそれが御理解になられたことと思われますが、こちらの教科書にはそれが実にはっきりと出ているのです。
略)
人間としての高貴な情操や意志を涵養するようなものはもとより、民族の神話、伝説、童話、英雄譚など一つだってありはしません。それどころか童謡童詩さえほとんど載せていないのですから、ひどい限りといわねばなりません。つまり、ここでは「教育とは読み書き算盤なり」を少しもでていなかったのです。
p65~66
この本には、鈴木氏がいかに小さなことまで気を配りながら教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれていると同時に、インドネシアにおいて三百五十年間文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさと巧妙さなどを確かなその目でみた経験と具体的な数字で書き表しています。

<教育とは、知識を授けたり技術をみがいたりするだけのものじゃあない。読み書き算盤などは教育のほんの一部分でしかない。教育は人間をつくるものである(ここでは国民をつくるものだとはいえません)。人間生活が精神の統制かにあることは、つまり知識、行為、身体が精神の統制下に全一体として成り立っていることは、諸君にもわかるだろう。
君たちのやってきたのは、この人間のほんの一部分の教育でしかなかった。極端にいえば人間的な不具者をつくる教育にすぎなかったものだ。日本はこれから諸君に人間の教育、本当の教育がどんなものであるかをお教えする。>

これは先にあげた引用文の後に書かれているインドネシア人の教員の人たちへの鈴木氏の言葉です。
鈴木氏がどのような姿勢でインドネシアの人々に接しようとしていたかがよくわかる言葉です。
今でも我が国の教育に携わっている多くの皆様に聞いていただきたい言葉でもあります。

三百五十年間にわたってオランダがインドネシアにおいてとってきた愚民政策と全く同じことが現在の我が国においておこなわれているということです。

そして、インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた三百二十の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめようとする企ては絶対に許さなかった。
この鈴木氏の著書には、バリ、ジャワその他、個々の種族が纏まらないようにしたバリ島でのオランダの政策について視学官の「教育状況報告書」として下記のような記述があります。
「(皇紀)二五九五年(西暦一九三五年)に(二十世紀になってやっと作られた)各学校に『バリ化』が実施された。その目的は、すべての教科がバリの風習を土台とせねばならぬというところにあった。すなわち唱歌も図画も手工も校舎の様式も、すべてがバリの様式でなければならぬというのであって、すべての他の様式は斥けられた。
唱歌教授に、ドレミファソラシドの音階を用うることが禁止され、その代わりバリの音階ディン、ドウン、ドン、ダン、デンが用いられなければならなかった。唯一の例外として、オランダの国歌が許されたのみである。図画も手工もまたバリ様式の絵画彫刻に限られ、別種の絵画、標本、書册類はすべて焼却されねばならなかった。図案文字、風景絵画、透視図法が禁止された。だから椅子や家を描いても、正面からのみしか描けなかった。そしてこのことが、非常に大袈裟に要求された。」
「インドネシア語(マライ語)が次第に減少されて、その代わりバリ語が増加した。オランダ人はバリ人が上手にインドネシア語を話すのをみると冷や冷やして心配した。彼らはバリ人がジャワ人やその他のインドネシアの他種族と交際することを極度に恐れた。インドネシアにおける諸種族が一つになることを心配したからである。そこで彼らは分割政策を採った。すなわちバリ人はバリ語のみを用い、ジャワ人はジャワ語といったように、すべての種族に対して臨んだ。かくしてインドネシアの諸種族は、他と相たずさえて一つの目的に進むことを知らず、また一つになることが出来なかった」
「人間にとって最も重要なるべき高貴なる精神の教育すなわち、
(イ)教師や父母長上に対する尊敬、
(ロ)貧しきものをいたわり助けること、
(ハ)傲慢でないこと、
(ニ)下層のものを軽蔑しないこと、
(ホ)社会生活において人間は常に礼儀正しくなければならぬことなどの精神教育はなされなかった」
p116~117

職員会、研修会、講習会の一切の会合、祝祭日、入学式、卒業式、朝会、遠足、運動会、学芸会の一切の行事と、一切の礼法を封じてしまっている教育。

オランダが統治していた時に普通公学校における授業料(月額)

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盾=ギルダ 仙=セン

上級学校
第一子の場合125から5仙
七年制蘭土学校
第一子の場合18盾から2盾
米一升=八仙
オランダの統治時代の普通公学校の一年間の学用品使用量
黒板拭一個、糊(五百グラムのもの)三分の一、消しゴム七筒、石筆五百本、白墨(百本入り)一箱、鉛筆五十五本、有罫ノート五十五冊、画用紙(大)二十五枚以上、教師と児童(一校平均百五十人)の年間使用量
それに対して、児童から月五銭、一年五十五銭を学用品代として納入させていた。

鈴木氏は悪税、珍税、愚税として
卒業証書にまで税金をかけるオランダのやり方を批判しています。
その内容は
上級学校の卒業証書=二十五仙(五十銭)
教員養成所の卒業証書=五十仙(一円)
それ以上は一盾五十仙(三円)を徴集
官吏や教員の昇給辞令も同様で百円未満は五十仙、以上は一盾五十仙を徴集
(正確には郵便局から一定の用紙を購入し、それに証明をタイプしてもらう。それがないと、卒業などの抗力が発生しない仕組みになっていた)
これはオランダの定めた下記の法令によるもの
「公立又ハ国ノ補助セル連絡学校又ハ之ト同様ノ待遇ヲ受クル私立連絡学校並ノ総督ノ指定セル学校ノ卒業ニ関スル証明書ハ二十五仙の定額税ヲ課ス」
(印紙関係法規第四十五条ノ九a)
「本税ヲソノ課セラレタル金額マデ納付セザルトキハ五十盾の罰金ニ処ス」
このオランダ時代の税金に驚いた鈴木氏は「千数百人の子弟をよろこばせ、それにつながる親と社会の心をゆさぶるとしたら五十盾の罰金は安い。もし文教課長が卒業証書をつくってやったら、私はいったいどうなるだろうか。日本政府はこのいたずら者の官吏をどう取り扱うだろうか。これは面白い」と書いています。

オランダのインドネシア統治と我が国の軍政の比較5
6月21日水曜日くもり ○
我が国は、併合したあの朝鮮半島においてさえも教育普及にちからを入れました。それはわずか三年ほどしか統治しなかったインドネシアにおいてもそうです。
以下は18日の続きです。
それに対して、
日本は6年問の初等教育を実施し、授業料を全て廃止、学校を新設、学年を延長、就学奨励、平等に初等教育を受けれるようにしました。校庭も作り体育を重視。
あわせてインドネシア人の教帥養成のため帥範字校も設置した。
農業、漁業、造船、工業、医学など専門、訓練学校を設置し、僅か3年で当時600人しかいなかった知識人(国家エリート〕を最終的にlO万人育成した。
日本の軍政により飛躍的にインドネシアの教育状況はよくなりました。下記資料はバリに限定したものですが、その状況がよくわかる貴重な一次資料といえると思います。

インドネシア小スンダ民政部官下新旧学校状況における比較(「日本占領下 バリ島からの報告」より引用)

公学校における比較
学校数

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備考 戦前=昭和16年9月現在。他はいずれも4月1日現在
* 戦前に比して増加数の比較的少ないのは学校の合併ありたるによる
教員数

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学童数

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中等学校における比較
学校数

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教員数

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学童数

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バリ県学童学年別表(昭和19年4月1日現在)

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p207
これは、日本が統治してからいかに児童数、そして女子児童の就学率が改善されたかを示す明確なそして貴重なデーターである。

下記はバリにおいての中等学校進学状況についての資料です。
中等学校進学状況表(バリ県)

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工業実務学校

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昭和18年
42
15

昭和19年
68
15

合計
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ちなみに、インドネシア独立後、教育の大切さを知っているハッタ副大統領は、日本よりの戦時賠償金四億ドルを用いて、十万人の留学生を日本に送り込むことを考えていたが、スカルノ大統領は、賠償金で派手な独立記念塔や色慾に散財し、日本へは四百人しか送らなかった。ソ連には三千人もの留学生を送っている。

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