心神喪失と報復論

心神喪失と報復論
日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


平成20年3月25日火曜日晴れ ×××××
私も随分前に書いたことがありますが、前の店の近所に住んでいた伊○弘○という気狂いに執拗な嫌がらせ、暴力を振るわれたことがあり、それに反撃した事で、警察ざたになりました。その時、その○藤○道という気狂いは自分が気狂いという診断を受け、それにより大概の事は起訴されずに起訴猶予になる事を知っている気狂いでした。つまりこの伊○弘○という気狂いは、確信犯でした。
この伊○弘○は気狂いという診断をされている気狂いでしたが、健常者でありながら、犯行時は心神喪失というものが最近よくニュースになります。たとえば、強盗をした外国人に「覚せい剤で心神喪失」で無罪という判決が岐阜県でありました。
以下引用
岐阜県海津市南濃町で06年6月、同町の無職女性(当時64歳)の乗用車を奪い、女性と同乗者にけがをさせたとして、強盗傷害と覚せい剤取締法違反罪などに問われた名古屋市千種区上野、塗装工、ジャムシッド・モハマディ被告(34)の判決公判が17日、岐阜地裁であった。田辺三保子裁判長は覚せい剤取締法と出入国管理法(不法残留)違反について懲役2年、執行猶予4年(求刑・懲役10年)を言い渡したが、強盗傷害などについては「覚せい剤による中毒で心神喪失状態にあった」と無罪を言い渡した。
判決によると、ジャムシッド被告は06年6月6日、海津市内の道路に停車した乗用車内で覚せい剤を使用するなどした。
3月17日22時34分配信?毎日新聞
引用終わり

加害者は犯行時に覚醒剤中毒だったから、普通じゃあなかった。だから強盗をやっても無罪という驚くべき判決ですが、この心神喪失とは、<精神病などによって自分の行為の結果について判断する能力を全く欠いている状態。心神耗弱より重い症状。>(大辞泉より)だそうですが、あの、渋谷区の三橋裕輔さんの切断遺体事件で殺人と死体損壊等の罪に問われた妻の歌織という女性の犯行時の責任能力について「心神喪失の状態だった」という鑑定結果を精神鑑定を行った検察側と弁護側の両鑑定人は報告しています。(後日、検札側鑑定人は微妙に発言を変えています)
これは、裁判所がそう認定すれば刑法三九条一項(心神喪失)の規定により刑事責任を問われず無罪となるためだそうです。人を殺しても無罪なのです。人殺し時において正常でないと認定されると、気狂いでなくとも死刑にはならないのです。

現在の裁判において、犯罪者の弁護をする弁護士さんのほとんどが、犯罪の事実関係による有罪・無罪を争わず、この三九条などにより情状酌量を裁判官に懇願する形式となっている。
事件を起こした人間はその時点において、普通の状態でなかった、気狂いだったから、あるいは一時的に気狂いになっていたからこの事件を起こしたのだ。だから罪はないということを訴えるのです。
この事は、宮崎勤、あのオウム真理教の麻原彰晃、光市の母子殺害の福田孝之などの裁判における弁護士の姿勢をみるとわかると思います。
おそらく、荒川沖駅で今月の二三日、八人を殺傷させた金川真大の裁判でも弁護士の姿勢は同じでしょう。

わたしは、アホウかと言いたい。健常者というか普通の精神状態では、そのような事件は起こしません。ある意味、気狂いだからそういった事件を起こすのです。

では、気狂いだから人殺しも無罪ということでいいのか。気狂いは何をしてもいいのかということになります。その犯人の気狂いを自分の手で殺したくとも、それは当然、許されていません。被害を受け残された御遺族の方は、日本国に報復権を国民から取り上げた状態で、このような結果で納得できるでしょうか。
仇打ちの正統性、報復権についてはいろんな意見があります。駒村圭吾氏(慶應大学法学部教授)は、<光市母子殺害事件の被害者遺族が現代の行列システムに投げつけた「報復の論理」>として「SAPIO」(平成一九年一二月一二日号)に、平成十一年の光市母子殺害事件の御遺族の木村洋氏の「もし死刑にできないなら、今すぐ犯人を社会に戻してほしい。自分の手で殺します・・・」という言葉と木村氏が犯罪被害者の権利実現を目指す社会運動に身を投じていることを例に、おそらく木村氏は犯人を自分自身の手により葬る事により、木村氏自身も「報復者」として死刑になることによって、加害者が担う事ができない十字架を担おうとしているのでないか。だとしたら、これ以上に残酷な悲劇はないとし、「国家は私たちから報復権を剥奪した」として次のような事を書かれています。
<報復権の主張は、仮に死刑判決が下されたとしても、被害遺族には満たされないものが残ることを示唆しているとして、単に報復感情の慰撫だけにとどまらず、永遠に埋める事の出来ない喪失感や、訴訟過程やその後の生活で被るさまざまな現実的損失に対して、国家や社会が真剣に向き合って欲しいという訴えがこめられている。実際の被害遺族と、一般市民の間には、仮に遺族の怒りと絶望に共感していたとしても埋めがたい差があることは否めない>と書いています。
そして、<報復権を否定し、応報刑論を退けるには、納得できる目的刑のあり方を提示する責任があるだろうとして、報復権の主張には、現在の行刑システムは、ほんとうに犯罪者を安全な人間にして世に送りだしているのかという疑念が含まれている。>
<これにまともに答えるには、人格の改造の是非という、人権論が生命剥奪と同様、あるいはそれ以上に、問題視する領域に立ち入らざるを得ない。このような危険水域に踏み込んで、現行制度を検証し、矯正の技法を開発していく姿勢を見せて初めて、被害遺族の絶望と同等の境域に立てるのではないか>(P七二~七三)。

国家が報復権を奪っているのですから、加害者が気狂い、あるいは健常者でありながら、犯行時は心神喪失という状態にあろうとも、国は被害者に変わって報復しなければなりません。それができないのであれば、被害者の御遺族に報復権を与えなければならない事になります。加害者がたとえ気狂いや心神喪失という状態で、犬、猫なみの判断しかできない人間であっても、その加害者が他人を殺したという事実には変わりないのです。犬でも猫でも悪さをすればそれなりに処罰されます。ましてや、人は犬や猫ではありません。犯罪を犯せば、それなりに処罰されるのは当たり前です。
たとえ、加害者が気狂い、あるいは健常者でありながら、犯行時は心神喪失という状態にあろうとも例外を設けるべきではないと思います。いや、気狂いだからこそ、健常者と同じ罪を負わせなければならないと思います。
人権派というアホウどもの言葉を借りれば、「気狂いだから何をしても無罪」というのは気狂いに対しての差別です。
刑法三九条一項(心神喪失)などというアホな刑法は改正すべきです。

3月26日水曜日晴れ ○
今日、また気狂いが無差別殺人をした事が報じられている。「刑務所に入りたかったから誰でもよかったから殺した」と言っているそうであるが、こういった輩は、未成年だから死刑にはならないと思ってやっているのも多い。
人権派弁護士として著名な菊田幸一氏はテレビ番組で、池田小学校事件の宅間守について、橋元徹弁護士(現大阪府知事)と討論した時に、宅間を死刑にすべきではないと主張し、その理由として「犯罪者にとって、凶悪事件であっても、それは人生の一コマに過ぎない」と、犯罪者には今後の人生の送らせる事を優先すべきだと語り、橋下弁護士は「それなら被害者は何なのだ。子供が殺されたことは人生の一コマと遺族の前で言ってみろ」と声を荒げたそうであるが、橋下弁護士は「弁護士業界の身内だけを相手に机上の刑法議論を続ける弁護士の浮き世離れぶりを示す好例である」と(SAPIO平成一九年一二月一二日号P七七に)書いています。
今回も、このような男に殺された仮屋国明氏はさぞかし御無念であったでしょう。御冥福をお祈りいたします。
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