日本統治下の朝鮮における教育

日本統治下の朝鮮における教育
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


朝鮮統治時代の教育
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


平成18年1月13日金曜日くもりのち雨 ×
 西野瑠美子の嘘の続きです。
以下引用
 そんな中で、「朝鮮教育令」(一九一一年公布。朝鮮人を「忠良なる国民」にすることを目的とした)という法律が作られました。自分の国である朝鮮の歴史や地理を教えてもらうことができなくなったのです。また「国語」は、自分の国のことばである朝鮮語ではなく、日本語になったのです。学校でも子どもたちに日本語を使うことが強制されました。
引用終わり「従軍慰安婦のはなし」(明石書店1993年刊)p67~8

 まあ、よくもこれだけ酷い嘘を平気でつけるもんです。
 そもそも、我国に併合される前に朝鮮にはほとんど小学校すらありませんでした。
南朝鮮の国定教科書の訳本である「入門韓国の歴史」明石書店 P305にも下記のような嘘が書いてあります。
「一九〇五年以後、普成、養正などはじめ数多くの学校が建てられ、一九一〇年頃には全国の学校数が五〇〇〇余となった」
これは朝鮮の得意とする大嘘です。
 我国の近代小学校第一号は京都に明治維新一年後の一八六九年にでき、それより遅れること二六年後、当時の「大韓帝国」政府が一八九五年に国立(朝鮮では官立というそうです)の四校(壮洞、卓洞、桂洞、紬洞)を開校。入学者数はそれぞれ二三名、七六名、四〇名、四八名の合計一八七名です。
 そして、日本から学部(日本の文部省にあたる)顧問として一九〇〇年に渡韓していた弊原垣(のちの東京帝国大学教授、台北帝国大学総長)が一九〇五年二月に学部の「学政参与官」となったとき、日本の「朝鮮教育代行」という、朝鮮のための日本の国家事業が始まりました。そして、弊原案の「普通学校令」が一九〇六年八月公布。一九〇五年一一月に我国の保護国となり、日本の総督府が翌年二月設置されたためにこの「普通学校令」は我国により推進されることになった。
 総督府は学校を可能な限り大規模に朝鮮全土に設置する方針を定め、日本が持参した一九〇六~八年の三カ年で五四万円が普通学校の新築、改築の費用の中核的な予算として投入された。(当然、大韓帝国は不返済)この予算で、官立九校(すべて当時の首都の漢城)のほか、各道の主要都市での公立五〇校がまず整備された。
 教科書は、一九〇八年八月末までに、修身、国語(ハングル)、漢文、日語(日本語)などがつくられ出版された。朝鮮の教育を我が国が我が国の人材と財力によりおこなったのです。
 そもそも、それまで、自国である朝鮮の歴史など学んでいませんでした。その事大主義により支那の歴史を一生懸命学んでいました。日本において在日朝鮮人が店名にまで使っている朝鮮人あこがれの両班の科挙の試験の方法はどのように行われていたのでしょう。宗主国支那への崇拝思想がきわめて強いために、漢字を使い「四書五経」を学び、朝鮮史ではなく支那史を学ぶことが教養とされていました。ダレ神父の「朝鮮事情」の中に書かれている下記の文章がそれをよく表している。
「中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問はまったく民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体制は中国のものである。
 写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは当然の帰結である。
 これよりもっと大きな差違は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民の間に存続していることである」(p131)

 世宗がせっかく創ったハングルですが、暴君といわれる第十代の燕山君により正音庁(諺文庁)などに所蔵してあった諺文口訣がことごとく焼き払われてしまいました。それだけでなく、一五〇四年には、ハングルの教授と学習を禁止し、学問の府であった成均館が遊蕩の場とされてしまいました。次代の中宗は一五〇六年、即位するとすぐ諺文庁まで閉鎖してしまい、ハングルは完全に廃止されました。
ハングルは我が国が朝鮮を併合する事により普及したのです。

 西野留美子が歪めて書いている朝鮮教育令により実際は我国が朝鮮においてどのような教育をしたか。日韓併合の一九一〇年から一九三七年(昭和十二年)頃まで、国語である日本語と共に朝鮮語も学校で必修科目として教えていました。それによってハングルは朝鮮に普及したのです。総督府に朝鮮の固有の文化を尊重しようという姿勢があったためです。はじめての本格的な朝鮮語辞典は総督府が明治四五年に編纂に着手し、大正九年に刊行、「朝鮮語奨励規定」を大正十年に設けて日本人官吏に朝鮮語の習得を奨励しています。帝国大学である京城大学に大正十三年に法文学部には朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の講座を開設したりまでしています。大東亜戦争中もこれらの講座には何も制限が加えられていません。

 大東亜戦争中に「国語(日本語)常用運動」が開始され朝鮮教育令の改正により内鮮一体の見地から朝鮮語(ハングル)を正課(必修科目)から外し、朝鮮語の授業を行うか行わないかの判断を各学校の校長に一任しました。
逆にいえば、それまで必修科目として朝鮮語が教えられて来ていたのです。

 百歩ゆずって、併合、あるいは植民地として統治された国がその宗主国の言葉を覚えるのは当たり前のことでしょう。もし、我国が清、ロシアに負けていれば、支那語、ロシア語を覚えさせられたでしょう。

平成21年7月3日金曜日くもりのち雨
朝鮮における日本語普及率
「一九四二年には全人口の二〇%に当たる五〇〇万人強の朝鮮人が日本語を解したのである」
中川八洋『歴史を偽造する韓国』のP五八(中川氏は森田芳夫『韓国における国語・国史教育』からの引用)
我が国が朝鮮人に対して「言葉を奪って」、日本語の強制をした結果がこの程度です。
一九一〇年(明治四三年)併合後の日本は学校教育で朝鮮語を必修課目とした。この教科書の作成を通じ、綴字法の統一、標準語の制定、普及が進んだのである。
勿論韓国教科書で主張する朝鮮語研究会、朝鮮語学会が大きく貢献した事は言うまでもない。
朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。併合時書道を含め、十%程度だった就学率は一九三七年には三六%に達している。これと共にハングルは普及したのである。ハングルの普及に最も貢献したのは、朝鮮人自身としても、日本の貢献も合わせて評価すべきである。
(中略)
なお毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していた。
『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫 展転社、二〇〇二年、p.七九)
日本では、「日帝三十六年」の「七奪」の一つとして、朝鮮人の言葉を奪ったという批判がずっとまかり通っている。じつは南総督時代以後、非常時にさいしての「国語(日本語」)の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はなく、この見方は真っ赤な嘘である。
日本帝国主義による対朝鮮教育侵略の特徴は、韓国民衆を徹底的に日本化、つまり「愚民化政策」に重点をおいて展開したとか、「日帝三十六年」の教育政策によって、戦後の韓国人は、どうしようもない状態に陥ったなどという見方も歴史歪曲である。
朝鮮人から言語を奪った張本人であると批判されている南次郎総督でさえ、朝鮮人から朝鮮語廃止の建策に反対したのが、歴史的事実である。
たとえば、「日本人以上の日本人」といわれた玄永燮や、「三・一独立運動」で三十三人の民族代表の一人であった朴煕道は「朝鮮語使用の全廃」を主張していたとき、南総督は、むしろ極力反対してこう語っている。
「朝鮮語を廃止するのはよくない。可及的に国語を普及するのはいいのだが、この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることがしばしばあるくらいであるから、それはできない相談である」(林鐘国著『親日派』御茶の水書房)
黄文雄『歪められた朝鮮総督府』(光文社 一九九八年刊)P一六五~一六六より

初めて民衆に八ングルを普及させたのは、日本だった
ハングルは李朝が滅びるまで、オンムンと呼ばれて、女や子供のための文字として蔑まれていた。エリートである両班たちは慕華思想に凝り固まっていたので、漢文しか使わなかった。
首都の漢城と呼ばれたソウルには、中国の属国あることを示す迎恩門と、慕華館があった。李朝の歴代の国王は中国から勅使が来ると、迎恩門まで出迎えて、臣下としての礼をとらなければならなかった。慕華館は使節の宿舎であった。
ハングルは一四四三年に、李朝四代目の世宗王のときに考案された独自の文字であったにもかかわらず、その後、李朝を通じて、国字としての正統な地位が与えられることがなかった。
これは日本がカナを公文書にも用いたのと、対照的であった。もしハングルが日本のカナと同じように使用されたとしたら、民族として自立的な意識を強めて、中国という妖怪を崇める慕華思想の呪縛から脱することができただろうが、そうならなかったのは残念なことである。日本の独特なカナは、日本の文化的独立を強める役割を果たした。
ハングルは、音を表す要素を組み合わせてつくられる音節文字だが、韓国語も漢字と、日本語のカナに相当するハングルを混ぜて書かなければ、自由に表現することができない。朴正煕政権のもとで民族主義を発露するために、一時期、漢字の使用をいっさい排したことがあったが、これはカナだけを使って日本語を表記するのと同じで、不便きわまりなかった。
ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年千九百十一(明治四十四)年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。
もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本教師は、月二円の加俸があった。当時の一円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。
もっとも、昭和十年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。
崔基鎬『韓国堕落の2000年史』(詳伝社 二〇〇一年刊)P一一六~一一八
総督府は明治44年(1911年)7月に、「諺文綴字法研究会」を作り、現代ソウル語を標準語として「普通学校用諺文綴法」を決定し、教科書として採用した。そのとき、諺文は国字・国文としての言語体系としては未熟であり、そもそも婦女子用のものだから、教材として使えるものはきわめて少なく、当時の教育関係者には、苦労談が多かった。
黄文雄『歪められた朝鮮総督府』p百六十八

(一九〇六~一九一〇年)

学年
国語(朝鮮語) 24
漢文 16
日語(日本語) 24

併合時代の小学校国語(日本語)教育

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表は中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店 p五五、p五六より(中川氏は森田芳夫『韓国における国語・国史教育』原書房より作成)

台湾でもそうですが、我が国は欧米諸国とは違う統治の仕方をしています。
欧米諸国は自分たちのやって来た事を基準に考え、それを基に「そうにちがいない」「きっとそうだ」ということで話します。
まあ、支那、朝鮮もそうですけど・・・・・・・
だいたい、英国が国立大学をインドに作ったか!
オランダがインドネシアに国立大学を作ったか!
フランスがベトナムに国立大学を作ったか!
朝鮮人に言わしたら、ソウル大学は大東亜戦争終了後の昭和二十一年に「突然」京城にできたものらしいですけど!
(一応、多くの大学を統合して作ったから、京城帝大との関連はないとか米軍により京城帝大は閉鎖されていたとか言っとるらしいです。 大学にとっての財産である蔵書はどうなっとるのでしょう?)
カスやな!
あほらし
ヒマ。金曜日なのに下手するとオチャピー・・・・と思っていたら、二名様来店。Sさん、Iさん来店。
今日は流石に記憶あり。
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