偽名を名乗りながら 張本勲という生き方

偽名を名乗りながら 張本勲という生き方

平成20年9月8日月曜日晴れ ○
在日朝鮮人以外は通名などという偽名で我が国にて生活している外国人はほとんどいません。
それは、あの関口宏のテレビ番組に出演し偉そうに「喝」とか叫んでいる張本勳という偽名で日本で経済活動をしている在日朝鮮人も同じです。
以下引用
「国籍は紙一枚で変えることが可能だが、民族の血は変えることができない。私は韓国人だ。私は韓国人ということを忘れた事がない。」

略)
しかし、「張勳」と言う名前の韓国人で生活することは多くの困難があった。在日韓国人に対する差別が極端だった60、70年代。ただ帰化しない朝鮮人という理由であらゆる蔑視と冷遇を受けたが、決して帰化という楽な道を選択せず、韓国人であることに誇りを持っていた。

引退後も解説者として活躍しながら日本野球界で、生きている神話と呼ばれている張勳。日本の地で在日韓国人として生きて行っても韓国人であることをただの一度も忘れなかった。
略)
ニュース・エン(韓国語)在日韓国人野球選手張勳メ私は永遠な韓国人モ
<a href=”http://www.newsen.com/news_view.php?uid=200808261425311001″>http://www.newsen.com/news_view.php?uid=200808261425311001</a>

その他にもインターネットで検索すると
略)
張勳の人生は、苦難と忍耐の連続だった。中学校の頃には『朝鮮人』と後ろ指をさされ、高校では在日韓国人だっ為にしばらく試合に出る事が出来なかった。

競技場に出ても、壁に書かれた『張勳を殺せ』と言う落書きを見なければならなかった。

鬱憤と怒りをバットに込めた。彼は、「私が打つホームランとヒットは、誇らしい我ら朝鮮同胞達を差別する、卑劣な日本人に対しての冷ややかな復讐だ」と語った。

張勳(67歳)が自叙伝の『日本に勝った韓国人』を発行した。日本のプロ野球を熱くした、彼の神話と野球、人生をドラマチックに描き出している。

略)
死闘だった。張勳の両親は故郷が韓国だったが、第二次世界大戦中に日本に行き、張勳を生んだ。貧乏と妬み中で、野球は唯一の希望だった。怒りと鬱憤を蹴散らす事の出来る解放口だった。小学校5年生の頃に初めて野球に出会い、それ以降野球の魅力に惹かれた
『日本に勝った韓国人』は、野球少年の夢と現実、新人王と首位打者になるまでの苦難、名門ジャイアンツ入団、3,000本安打の記録など、幼少時代に火傷をして右手に障害を持っている人間が、どの様に苦痛と絶望を乗り越えて進んで行ったのかを感動的に見せる。

NAVER/メイル新聞(韓国語)
<a href=”http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=088&article_id=0000076762
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こんな在日朝鮮人は張本勳という偽名で、日本で下記のような講演をして生活しています。

張本さんは「日本・韓国・在日を架ける野球人生」を演題に講演。「子どものころに事故に遭いい、(朝鮮人であるために)病院で包帯をぶつけられたが、母が懸命に看病してくれた」と切り出し、

「プロ野球に入っても右手指にハンディがあったからこそ、人一倍努力した」と、
数々の日本記録を打ち立てた裏での厳しい練習を振り返った。

さらに「人間が月に行く時代に区別や差別があってはならない。永住権はもらえたが、参政権は祖国にも日本にもない」と語気を強め、参政権問題を訴えた。

日本海新聞
<a href=”http://www.nnn.co.jp/news/071104/20071104005.html”>http://www.nnn.co.jp/news/071104/20071104005.html</a>

ちなみに、根っからの犯罪者でありながら、民族座別を訴えていちやく朝鮮人の英雄となった金嬉老は、金嬉老と本名の権禧という二つの名前以外にも近藤安広、金岡安広、清水安広
と多くの通名という偽名を使っています。
「民族の誇り」などは張本勳をいう偽名で生活しながら、何を言っても説得力ゼロです。本当に民族の誇りがあるのであれば、どうして、他の外国の方々のように本当の名前で生活しないのでしょう。
偽名で生活しながら「民族の誇り」などと言うのは、チャンチャラ可笑しいです。戯言以外の何ものでもありません。