バターン死の行進の嘘

バターン死の行進の嘘
日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


80数キロ四泊五日の旅
平成23年1月3日日曜日晴れ ○
私の故郷の淡路島は地図上で一番長いところは直線距離で約五十五キロあります。実際の道路は曲がりくねっていますから、まあ、それなりの距離になると思います。随分前に、この日記にも書きましたが、当時は健在だった父親と口論し、そのまま実家に泊まらずに夜から翌日まで歩けるところまでと思って歩き始め、結局、高速バスターミナルまで歩きました。おそらく、三〇キロ程度は歩いたと思います。
二十代の頃はその日にタクシーに乗るお金もなく、しかたないのでそのまま夜中に千葉から津田沼まで歩いたこともあります。鉄道の距離では一二・五キロですが、千葉から東京方面に向かって、夜中三時頃からに歩いて、明るくなって駅が見えたら津田沼の駅だったのですが、鉄道沿いに歩いたわけではないので、どのくらいの距離を歩いたかわかりませんが、それでもたった数時間です。
あの嘘くさい日テレのチャリティ番組で、芸能人が走るのも一〇〇キロだそうです。少し前には六六歳のタレント、どこが面白いのかわからない萩本欽一氏が走りました。

軍人が四~五日で八十数キロ、一日十五~二十キロを歩かされたことを「死の行進」と言っている連中がいます。誇り高いはず?の米国軍人です。彼らは我が軍にろくな抵抗もせずに、司令官であるマッカーサーは逃亡し、七万人(フィリピン人四万一千人を含む)がさっさと降伏します。そして、捕虜の権利だけを主張し、黄色人種である日本人に負け、その日本人に車でなく徒歩で、一緒に移動させられたことを恨み、戦争が終わったあと、本間雅晴中将をはじめ多くの日本軍人を報復裁判にて死刑にします。

この「バターン 死の行進」について、戦後、GHQは敗戦で食い物もない
我が国において、四〇〇万個のラジオを国民に支給することを日本政府に命じます。(昭和二一年十一月十三日)
それは、我が国における洗脳教育の徹底のためでした。そのラジオにおいて流されたのは、有名な「眞相はこうだ」をはじめとした洗脳番組でした。

それらは下記のように放送されました。
「眞相はこうだ(「眞相はかうだ」)」(全10回)日曜日二〇時~二〇時三〇分
一九四五年一二月九日~一九四六年二月一〇日
「眞相はこうだ 質問箱」金曜日二〇時~二〇時一五分
一九四六年一月一八日第一回
「眞相はこうだ」の第六回と第七回の間から開始。
「眞相箱」日曜日二〇時~二〇時三〇分
一九四六年二月一七日第一回開始
一九四六年六月二八日から金曜二〇日~20時三〇分へ移設
一九四六年一一月二九日金曜日最終回
「眞相箱」水曜日二〇時~二〇時三〇分
一九四六年一二月一一日(水)第一回開始
一九四八年一月四日最終回
「インフォメーション・アワー」
一九四八年一月以降、毎晩二〇時~二〇時三〇分

「『眞相箱』の呪縛を解く」櫻井よしこ著 小学館文庫刊 P五三より
(桜井氏は「続・昭和文化 一九四五~一九八九」南博著より引用)

そのNHKラジオ番組「眞相はこうだ(「眞相はかうだ」)」とは、下記のような内容だったそうです。

昭和二一年一月二〇日「バタアン死の行進」
ベートーヴェンの交響曲第五番の第一楽章で始まる。
声「バタアン半島で本間将軍の軍門に下った米・比軍の捕虜たちは、バタアンからサンフェルナンドに至る八五マイルの死の行進をしいられた。捕虜たちは裸にされ、鞭打たれた」
(人体を鞭で打つ音、日本人の残忍な歓声)
声「食物、水も与えられず、疲れて倒れるものは射殺された」(人の倒れる音、銃声、歓声)
声「日本軍のトラックにひき殺された」(トラックの轟音、歓声)
声「銃剣で刺され、土の中で焼き殺された」(土を掘る音、歓声)
アナウンサー「太郎君!今述べたのは、死の行進で日本人が行った残虐行為の、ほんの、ごく一部なんだよ」
太郎「とても信じられない。そんなことした日本兵は、もちろん軍紀で厳しく罰せられたんでしょうねえ」
アナウンサー「ところが、そうではない。こうした残虐行為こそが日本の軍紀で、これはしょっちゅう繰り返された事実なのだよ」

「筑紫哲也を斬る」水間政憲著 日新報道刊P三六~三七

この時は敗戦後一年もたっていませんでしたので、当然、日本軍人だった皆様もご存命でしたので、多くの日本人より非難の投書が殺到したことが同書に書かれています。
その結果、GHQは「眞相はこうだ」だけを、「全学年並びに教師の時間」と特定し、録音再放送が木曜日午前一一時から、学校放送されました。明らかに嘘とわかる放送に対して、良識ある大人が批判し投書をいくら出しても、保護者から隔離された学校という空間で児童を洗脳教育するようにしたのです。

三年前に笹幸恵 氏が風邪気味ながらその同じコースを歩いたそうですが、女性の足で、なおかつ風邪気味であるにもかかわらず、なんなく歩けたそうです。
文藝春秋にその手記を掲載したところ、誇り高い?米国軍人たちは猛烈な抗議をしてきたそうです。この誇り高い?はずの米国軍人は、水筒一つで八十数キロを四~五日で歩いたことを「バターン 死の行進」と騒いでいるのです。
同じ行程を日本軍人は二十キロもある完全軍装にて一緒に歩きました。病人だったというかもしれませんが、マラリヤには日本軍人も多くがかかっていました。
なんとも恥ずかしいアメリカ軍人たちです。

櫻井よしこ氏は著書「『眞相箱』の呪縛を解く」の中で下記のように書いています。
<私達が私達を取り戻すためには、日本と日本人が全否定されたあの時代を知る事から始めなければならない。一体、戦争とはなんだったのか、あの時代の価値観は何だったのか、それを統括すると称された一方的で司法の名に値しない東京裁判と日本占領の実態はなんだったのか。
私達は今こそ知るべきである。それをせずに、本当の意味で日本人としての自分を取り戻す事は不可能である。>
「『眞相箱』の呪縛を解く」(櫻井よしこ 小学館文庫 平成十四年刊)p六十三

続く

G23御夫妻とともにNさん、エリー家に泊めていただき(というか勝手に寝させていただき)今朝、帰宅。
其の後はどこにも行かずに、一日中部屋にいました。
「バターン『死の行進』を歩く」「戦争プロパガンダの嘘を暴く」「眞相箱の呪縛を解く」読了。
酒は飲まず。
でも、四日は江上家でメキシコでプータローをやっていた時にお世話になり、其の後もお世話になりっぱなしの長島夫妻と共に新年会でドンチャン。


鷹沢のり子の著書の矛盾
1月6日木曜日晴れ 寒い △
「バターン『死の行進』を歩く」(筑摩書房 平成七年刊)という著書がある鷹沢のり子氏。一応肩書きとしてはルポライターになっているようですが、どこにも自分で考察したところが感じられない醜い著書でした。

休憩について
<一九四二年四月の「死の行進」ではどれほどの休憩が与えられたのだろうか。元兵士たちの話では、休憩が十分の時もあったし、一時間から二時間の時もあったという。
では、休憩は定期的にあったのだろうか。この質問についてはかなり違いがあった。ある者は休憩はなく歩き続けたと言い、ある人は「約4時間に一回だった」と答えた。手元の資料によれば、比較的まとまった休憩は、日本軍監視兵が交代する時に与えられている。十キロから十五キロごとだ。監視する兵たちは車で移動して替わっているので、新しい監視兵たちが遅れると捕虜たちの休憩時間は長くなった。十分間から二時間までの差はそんな理由による。
マリベスから歩いて数日後、捕虜たちはバランガに着く。かかった日数はそれぞれに違うが、おおむね二日から三日である。>
p四十九

マリベスからバランガは約三十キロ。その距離を二~三日かけて歩く。
一日十~十五キロである。
つまり、休憩などなくとも歩ける距離なのである。それを休憩は「十キロから十五キロごとだ。」と書いている。
現実に、鷹沢氏自身も一日に二十三キロほど歩いているし、バスと徒歩だが、一日でバランガまで到達している。

ましてや、監視する日本兵は車で移動して交代している事になっているが、日本兵は重さ二十キロの完全装備で隊伍を整えての行軍であった。
<捕虜は数人の日本兵に引率され、着の身着のままの軽装で、飯盒と炊事用具だけをぶら下げ、えんえんと続いていました。疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始める等、規律もなかったのですが、呑気と言えば呑気なものでした。
我々は、背嚢を背に、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直言って、捕虜の自由な行動がうらやましかったぐらいでしたね>
「戦争と人間の記録 バターン戦」(御田重宝 徳間書店 昭和五十三年刊)p二百六十二
第六十五旅団第百四十一連隊長今井武夫大佐談

そして、「パンティンガン川の悲劇」と題されたところでも、証言として
<日本兵たちは日本刀を持って列の後ろに立ち、右から順番に兵の首をはねていった。はねきれなかった兵もいる。何度も日本刀で刺されて、苦しそうにうめき声をあげた兵もいる。
フェリックス大尉は、右につながれてた兵の首が二つ落ちたのを見た。
次はフェリックス大尉の番だ。彼の場合は首をはねられずに、いきなり刺された。何人もの首をはねていたので、日本兵は疲れていたのかも知れない。右脇腹を続けて二回刺された。日本刀が身体を突き抜けた。刀が抜き取られると、フィリックス大尉は前屈みになった。今度は肩胛骨の下を二回刺された。
略)
大尉は死んだと思われたようだ。
略)
フィリックス大尉はしばらく放心していた。何も考える事ができなかった。一息つくと、小便がしたくなった。持っていた空の水筒に小便を入れた。水分が欲しかったので小便でも飲もうと思ったのだ。
略)
二人は、時には這いながら、また、手と尻を使って動いた。傷を押さえながら少しずつ動いた。
略)
噛むようにしっかりと水を飲んだ。地で汚れた体も洗った。
略)
水を飲むと食べ物が欲しくなった。
略)
三人が出てきた。全員が負傷していた。一人は頭を割られて、中が見えていた。別の一人は右肩を深く斬られていた。もう一人は胸を三カ所刺されていた。彼等は大尉と同じ第九十一師団の兵士たちだ。
略)
バルガス少佐がやってきた。刺されたのは一カ所だけだ。彼が右肩の背を刺された後、右隣の士官の体が頭に被さり・・・
略)
一行五人は遅々とした歩みを始めた。途中で一人が血を吐き出した。刺された三カ所のうち一カ所が肺に達していたようだ。少し休んでは歩いた。相変わらず動きは遅かったが、大尉は立って足が動かせるようになっていた。一歩足を動かしては呼吸し、数十歩進むと、座って休んだ。しかし座るのに五分ほどかかるし、立ち上がるのにも同じくらいかかった。
四日目の事だ。仮説小屋が見えた。入って行くと、書類等から米比軍第四十一師団のキャンプだとわかった。
略)
一行は小屋で休む事になった。モミ米を一粒ずつむいて食べ、バニラの缶も見つけた。とろりとしたバニラを飲むと、体中が温かくなった。
次の日も小屋にいた。
略)
四人は川の中を歩いた。かなり深いところもあり、時には足を取られてすべった。全身が濡れて寒い。時々上着を脱いで水気を絞ってから歩いた。
次の日の朝、土手で目を覚ますと、三十メートル先は日本兵のキャンプではないか。日本兵たちはラジオ体操の最中だった。
略)
更に森の中を進んだ。何と運のいいことだろうか。畑仕事をしているフィリッピン人家族たちの中に知り合いがいるではないか。
略)
炊いたばかりの白いご飯と焼いた干物も持って来てくれた。火の通ったものを食べるのは久しぶりだった。
次の日もヴウティスタさんにもらった食事をしていると、一緒に座っていた三人が突然立ち上がって、走るようにいなくなった。
日本兵が来たのだ。
フィリックス大尉は座ったまま食べ続けた。もし立ち上がって逃げたりすると、兵士だと気付かれる。
略)
海岸では日本兵が泳いでいた。>
p六十三~七十三

マジでっか!
普通、日本刀で脇腹を貫通するほど二回刺され、肩胛骨の下を二回も刺されたら死んでます。背中の血止めを自分でどうやったらできるのか。脇腹の血止めの記述とともに何処にもありません。それなのに、この証言者は血止めもせずに、最初は這いながら、また、手と尻を使って動いたほどの重傷で傷を押さえながら少しずつ動いたのが、翌日には川の中を歩き、全身ずぶ濡れになっても助かっています。
それだけでなく、五日目には飯を食い、二週間目にはマニラの実家まで帰っています。
おいおい、日本刀に四回も刺された傷はどうなった。
他の日本兵に斬られたり刺されたりしたという負傷兵も驚異的な回復力です。
仲間の一人等は肺まで損傷して血を吐きながら、逃げてきているのに自分で食事をし、日本兵を見て、走るようにいなくなるのです。
こいつらはゾンビか!
そして、まだ戦闘中(この時、バターン半島において戦闘は継続していた。なにしろ、コレヒドール要塞は健在であり、砲撃戦の真っ最中であった)なのにラジオ体操をやって、海水浴までやってんのかよ。どれだけ余裕があるんだ、当時の我が国の軍隊は。

この鷹沢のり子という女性は、そのような証言を聞いて何も思わないのか。矛盾というものを感じないのか。
いくら気違いばかりの左巻きでも余りにもアホ過ぎる。まるで本多勝一なみである。

「教科書が教えない歴史」(自由主義史観研究会 藤岡信勝)
のホームページでこの鷹沢のり子女子の著書が参考文献としてあげられている。
逆の意味での参考だったらいいが、そうでなければ、アホとしか言いようのない連中である。

http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_7.html

アホらし

続く
明日、ご予約いただいているアンコウ鍋用に活けアンコウ購入。
今日は二・五キロのもの。

Sさん御夫妻来店。
酔狂師さん来店。
Sさん、Iさん来店。
台湾からユーさん来店。

今回は水沢温泉と草津温泉に行っていたそうで、お土産をいただく。ユーさんに、昨年に西村眞悟氏からいただいたTシャツを見せると大受け。

遅い時間から飲むが今日は記憶あり。
サルよりマシ。


我が国における捕虜の待遇
1月7日金曜日晴れ 寒い ××××××

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捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号)
捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。署名は陸軍大臣東條英機。
表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。
「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八~百十九

多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。
米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。
私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。
我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷は、まだまだ深いと思います。

バンブーさん来店。
Sさん二名様で来店。
Nさん、真理子さんと来店。
Kくん来店。
ギリギリブラザース三名様で来店。
今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。
Kさん、Sさんと来店。
博子さん、幹子さん四名様で来店。
アンコウ鍋。
酔狂師さん来店。
今日は早い時間から大忙し。
来ていただいたみなさんにご迷惑をおかけする事になってしまった。
料理、洗い物その他に追われ、飲めなかったが、遅い時間からドンチャン。
結果、記憶なし。
やっぱ、サル、猿、SARU、申・・・・・・


 

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