原爆投下にみる白人の本質  米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死

エノラ・ゲイ(原爆投下にみるアメリカ人の感覚)
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
原爆投下にみる白人の本質
米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死


原爆投下にみる白人の本質
平成22年11月8日月曜日晴れ ○
今週号の週刊新潮(平成二十二年十一月十一日号)のカラーグラビアは「原爆投下もあったB-29 復活ショー」と題されたものです。

以下引用
<広島、長崎をはじめ、日本の各都市を焼き払ったB-29。半世紀も前に退役した銀色の機体が亡霊のように蘇った。
米テキサス州の小都市ミッドランドの空港で、十月九日、十日の両日にわたって開催された「航空ショー」。
主催は同地に拠点を構えるCAF(記念空軍)という民間団体だ。CAFは、第二次世界大戦で使われた軍用機を飛行可能な状態で後世に残す為、一九五一年に創立された。
百四十機以上を保有する同団体の中で、ひときわ存在感を放ってきたのが、「FIFI」(フィフィ)という愛称が付けられたB-29である。
老朽化のため、五年前の飛行を最後に引退したが、全米からの募金、ボランティアによる作業で再生され、テキサスの空に舞い戻った。
略)
突如、けたたましいサイレンが鳴り響き、日本海軍機(レプリカ)が侵入してきた。
ショーの目玉が始まったのだ。
「穏やかで平和なホノルルの朝に日本軍が突然、不意打ちを仕掛けてきた!
トラ・トラ・トラ、タイガー・タイガー・タイガー!」
「リメンバー・パールハーバー」
と進行役が絶叫。
引き続き、東京初空襲、ドゥーリットル隊のB-25による爆撃、派手な火柱が上がる。
次々と当時の米海軍機が登場し、各海戦で米軍が勝利していく様子を再現。
これだけでも日本人の神経を逆撫でするには充分だったが、最後におよそ正視に耐えない場面が待っていた。
B-29が上空に姿を現す。
進行役が語り出したのは、原爆投下についてだった。
爆弾倉の扉を大きく開けた機体が頭上を横切る。息を呑む観衆。と同時に、地上で巨大な火柱が上がり、それがおどおどろしいキノコ雲の形に姿を変えていく。
観客からは大きな拍手。
最後に台詞が流れる。
「一九四五年、日本に原爆が落とされた。それは第二次大戦を終結に導き、日米両国の何万人もの命を救った」
ここには、原爆によって、無抵抗な一般市民が二〇万人以上も殺された、という視点が全く欠落している。
それ以前にも米軍は無差別爆撃を繰り広げ、その主役はまさにB-29だった。そういった事実を知らせようともせず、また知ろうともしないアメリカ人たち。
六歳と十二歳の子供をつれた母親は、二年前にショーに来た時、B-29のために二十ドルを寄付した。
「今回、飛ぶ姿を見せる事ができて、子供達が歴史を理解するにはすばらしい教材だと思ったわ」
昨年、オバマ大統領は、
「核兵器なき世界の実現」
を表明したが、それは、
「おそらく私が生きている間にはできないだろう」
という留保つきで、今月来日の際にも、広島、長崎訪問の予定はない。
背後には原爆投下を正義だと捉え、その歴史観を受け継ぐ米国民がいる。
我が国政府は、日米同盟の深化を伝々する以前に、こういったショーを止めさせるべきではないか。>
引用終わり
週刊新潮(平成二十二年十一月十一日号)巻頭カラーグラビア記事より

  

過去に<エノラ・ゲイ(原爆投下にみるアメリカ人の感覚)>として、平成十九年十一月十二日の日記に書いた事がありますが、米国は広島、長崎の原爆投下が第二、第三番目の「実験」として行われたという事実です。

以下はその日の日記に書いた事と一部重複いたしますが、ご了承ください。

アメリカではエノラ・ゲイ航空日誌が四一〇〇万円もの大金で落札されていますが、どうして、このようなものに四〇〇〇万円以上もの値段がつくのか。そのわけは、日本に落とした原爆をアメリカ人がどのように考えているか。それにより答は導かれます。
(時事通信社平成十九年十月三十日記事 ※1)

広島に原爆を落としたボーイングBー29・エノラ・ゲイ号は、現在、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。スミソニアン博物館の設立趣旨は「我国(アメリカ)の航空及び宇宙飛行の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深く意味のある航空及び宇宙飛行機器を展示し、その歴史を研究するための歴史的資料を提供する」となっている。(この博物館の設立を提唱したアリゾナ州選出上院議員バリー・ゴールドウォーターの議会公聴会での言葉)
この趣旨に沿って、ライト兄弟の「ライト・フライヤー号」、リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、アポロ十一号などが展示されている。
つまり、エノラ・ゲイは歴史的に意味のある記念すべき飛行機であるとしているのです。
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山政之著p百五十一~百五十三

同書によると、一九九九年の暮れに、同じアメリカのUSA・TODAY紙がバックアップするメディア博物館「Newseum(ニュージアム)」が「二〇世紀に起こった百大ニュース」という全米のジャーナリスト、シンクタンク研究者、大学の政治、近代史関係教授などの専門家を対象に行なわれたアンケート結果で、第一に「広島、長崎への原爆投下」となっています。それにより日本が降伏したからだそうですが、これがアメリカ人の考え方です。
ちなみに第二位は「アームストロング人類初めて月面に立つ」、第三位「日本、パールハーバーを奇襲」です。
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」p 百四十八~百五十

高山氏がネバダ州にあるエネルギー省の核実験サイトを訪れた時、アメリカ政府核実験リストを見る機会があり、それには一九九四年現在までのアメリカが行なった七二四回に及ぶ核実験が、日付け順に記載されていたそうで、下記のようになっていたそうです。
第一回、実験地 ニューメキシコ州アラモゴルド、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 塔の上に固定。
第二回、実験地 ヒロシマ、核爆弾の種類 ウラン型、実験タイプ 空中投下、規模一・五トン、状況 戦時下。
第三回、実験地 ナガサキ、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 空中投下。
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」p百五十三~百五十六

アメリカにとっての広島、長崎への原爆投下は「人体実験」であり、無差別殺戮だったということをアメリカ政府が自ら認めているわけです。

原爆投下についての森重昭氏の著書「原爆で死んだ米兵秘史」には下記のように書かれています。
以下抜粋

「マンハッタン計画」において、責任者グローブスを中心とした目標選定委員会は昭和二十年(一九四五年)五月十一日になって、京都、広島、横浜、小倉の四都市を選び出し、翌十二日、この四都市に対して通常の空襲を禁止する命令が出され、二十八日、前回決定した四都市から横浜と小倉を外し、替わって新潟を加えた。
目標都市は京都、広島、新潟に絞られた。
五月下旬、スティムソン陸軍長官は、原爆投下に関するトルーマン大統領の諮問機関として民間人からなる暫定委員会を作り、これにオッペンハイマーを含む科学者を加入させた。六月一日になって暫定委員会は次の三項目を大統領に答申した。

一、爆弾はできる限り速やかに日本に対して使用すべき事。
二、それは軍・民「二重の」目標に対して使用すべき事。
三、攻撃は特別な警告無しに行うべき事。

七月二十二日、京都の替わりに長崎を加えるようにと指示が出た。

命令書に下記のように指示されている。

<合衆国戦略軍司令官 カール・スパーツ将軍へ
一九四五年七月二十五日

一、第五〇九混成群団は一九四五年八月三日ごろから以降、目標広島、新潟、長崎のうちの一つに、最初の特殊爆弾を投下するものとする。陸軍省から派遣した軍と民間の科学者要員を輸送し、同爆弾の爆発効果の観測と記録を行わせるために、原爆投下機に別の機を随伴させることとする。この観測機は、爆弾の爆発地点から数マイルの距離にとどまることとする。
二、略)
三、略)>

この七月二十五日という日付はボツダム宣言発表の前日である。

そして、原爆の投下訓練として、七月二十日から八月十四日にかけて、我が国に対し原爆の模擬爆弾であるパンプキンと呼ばれる五トンもの巨大爆弾が目標都市周辺に四十九発も投下されることとなる。
これにより、茨城県日立大津、東京駅八重洲口側、神戸市須磨区、新潟県柏崎市、山口県宇部市、京都府舞鶴などで千八百名以上の死者がでることとなった。

<広島が無傷であることがそれを理想的な目標とした。この事は原子爆弾が与える被害を正確に評価するために必要であった。この都市の大きさも、一つの重要な選定要因であった。事前のデーターによれば、原子爆弾が及ぼす被害は半径七千五百フィート(約二・五キロ)と信じられた。市の中心に照準点を置く事により、予期される被害の円は南部のドック地域を除く広島の殆ど全域を覆った>
「米軍資料 原爆投下の経緯」奥住喜重・工藤洋三訳 東方出版
以上
「原爆で死んだ米兵秘史」p五十四~六十二より抜粋

手元の他の本には下記のような記述もあります。

<標的選定委員会は最初の選択として、京都、広島、横浜の各都市および小倉市内の軍需工場一ケ所を核攻撃することを勧告した。アーノルド将軍は北九州北部に位置する小倉をとくに支持した。というのは、小倉と本州はトンネルで結ばれているので、トンネルが水没するのかどうか、どの程度激しく漏水するのか、および原爆のなんらかの効果が北側の入口に伝わるかどうかといったトンネルに対する原爆効果を、アーノルドは見たかったのである>
「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」P二〇二

、<兵器技術に対する陸軍航空軍の血迷った関心は、炸裂効果を見極める関門トンネルに原爆の爆風を送り込みたいという期待によく表されているように、人道的犠牲は実験の持つ軍事的価値にまさるかどうか、あるいはそもそもそれと比較評価できるものかどうかといった核兵器が提起する道義的問題に無関心を示唆していた。
略)
戦中戦後の陸軍航空軍の指導者たちの行為や声明を検討してみると、彼らは本当のところ、自分たちの行為の道義的次元を認識しており、日本国民に対しておこなったことについてさまざまな正当化を図っていたことがわかるのである。>
「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」P二一一~二一二

こういう事実は、アメリカ人がよくいう「大東亜戦争を終わらせるために原爆を投下した」という言葉がいかに虚しい言葉であり、ウソであるかをよく現しています。

エノラ・ゲイの爆撃手だった故トーマス・フィリピー氏の家には看板があり、そこには、
<一九四五年八月六日、日本の広島に原爆を落としたエノラ・ゲイの爆撃手トーマス・フィリピー大佐の家>と書いてあったそうである。
「原爆で死んだ米兵秘史」P百六十三

参考引用文献
「週刊新潮」(新潮社 平成二十二年十一月十一日号)
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之 廣済堂 平成十三年刊)
「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」(ロナルド・シェイファー著 深田民生訳 草思社 一九九六年刊)
「原爆で死んだ米兵秘史」(森重昭 光人社 平成二十年刊)

※1 <エノラ・ゲイ航空日誌、4100万円で落札=原爆投下の時間記述?米 (時事通信)
【ニューヨーク29日時事】1945年8月に広島へ原爆を投下した米B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の航空日誌がこのほど、テキサス州ダラスの競売商ヘリテージ・オークション・ギャラリーズで競売に掛けられ、35万8500ドル(約4100万円)で落札された。同社が29日、明らかにした。
この航空日誌は、エノラ・ゲイの搭乗員だったセオドア・バン・カーク氏が記述。一番左に通過地点が地名や経緯度で、次いで通過時間が同機の出撃したテニアン島の現地時間で記されている。

「Bomb Away」(爆弾投下)の欄には、原爆投下の時間を示す「0915 15」(日本時間午前8時15分15秒)と鉛筆で書かれている。右の余白には10時52分(同9時52分)に「Cloud Gone」との記述もあり、帰還中の同機からは1時間半以上にわたって原爆のきのこ雲が見えていたことが分かる。
[時事通信社]
[ハ2007年10月30日9時22分 ] >

今日は朝起きて、ゆっくりと風呂に入った後、銀行に行っただけで、何処にも行かずに一日中部屋でゴロゴロ。
写真は途中にあった気違いの巣。
ぞぞ~

朝鮮人にだまされて、単なるアホじゃねえか!


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死
平成22年11月15日月曜日曇りのち小雨 ○
下記は広島に落とされた原爆により被爆死された米軍捕虜に対しての追悼式での大統領演説です。

<追悼式(米国内)での大統領演説草稿
一九八五年六月二十七日
一九四五年八月六日、原爆の日、日本の広島で
捕虜として命を落とした米空軍、米海軍の飛行士たちの名誉と冥福を祈って

チャールズ・ヴァウムガートナー、
ダーデン・ルーパー、
ジェームズ・ライアン、
ヒュー・ヘンリー・アトキンソン、
ジョン・ロング、
バッフォード・エリソン、
ラルフ・ニール、
レイモンド・ポーター、
ノーマン・ローランド・ブリセット

彼等の勇気、苦しみ、軍務に対する忠誠は
すべての米国人の心に深く印象づける地位を獲得した。
彼等の英雄的行動は後から来るものの道しるべに永久になるのである。

大統領 ロナルド・レーガン>
(ミシガン州立大学 ポール・S・サトー博士訳)
「原爆で死んだ米兵秘話」(森重昭 光人社 平成二十年刊)p九 より引用

この追悼式が行われたのは、終戦後四十年を経た昭和六十年(一九八五年)六月二十七日です。
追悼式がなぜ戦後四十年も経ってからなのか。
米国は被爆死した米国軍人の事を把握していなかったのか。
戦後四十年も過ぎて初めて判明したのか。
米軍は戦後すぐに我が国において被爆死した米軍捕虜の事を把握していました。
それを公表しなかっただけです。

この森氏の著書「原爆で死んだ米兵秘話」にそれが詳しく書かれています。
森氏は丹念な調査により、追悼式で読み上げられた九名ではなく十二名であった事を突き止めている。
そして、米国が被爆死の米兵遺族にその事を戦後長期間隠匿していた事も書いている。

以下は森氏の著書よりの抜粋です。

<まず、原爆が投下されて二十六年が経った昭和四十六年(一九七一年)にアメリカ国立記録保存所にある記録文書に被爆米兵の記録が公表された。
それは、アメリカ国防省が管理していたが、その後、国立記録保存所に写され、やっとコンフィデンシャル(秘密)扱いから外されたものである。

それによると、原爆が投下された当時、広島には二十名の米軍捕虜が抑留されており、その殆どは米陸軍航空隊員だった。
陸軍省は「そのうち十七人が直後に殺され、二人は八月十九日に負傷のため死んだと認定した」とのべ、さらに「十九日に死んだ二人のうち射撃手ラルフ・J・ニール軍曹、もう一人は別の機に搭乗していた、ノーマン・ローランド・ブリセット三等兵曹であるとしている。
また、文書はニール軍曹の乗っていたB-24ロンサムレディー号の他の乗組員八人の氏名、消息も明らかにしている。


トーマス・C・カートライト中尉(操縦士) 助かって後に米艦リース号で貴国
ダーデン・ルーパー少尉   (副操縦士) 死亡
ロイ・M・ベーデンセン少尉 (航法士)  死亡
ジェームズ・ライアン少尉  (爆撃手)  死亡
ヒュー・H・アトキンソン軍曹 (通信士) 死亡
ウイリアム・E・エイプル軍曹(射撃手) 九月一日生きて救出
バッフォード・J・エリソン軍曹(エンジニア)
ジョン・アラン・ロング・ジュニア伍長(射撃手)恐らく死亡

ロンサムレディ号の搭乗員九人のうち生存者は二人、ニールを除く六人が「死亡」または「恐らく死亡」となっている。
つまり、六人はB-24が撃墜された際に死んだのか、捕虜になった後に被爆死したのか明らかにされていない。
また、国立記録保存所は、この六人について「これらの乗組員の氏名が判明したあと、身内に通知する手はずは整った。しかし、陸軍当局は結局通知しなかったようだ。恐らくそれは不可能だったろう」と述べている。
これは、米軍捕虜をアメリカが投下した原爆で殺したことを公表するのはとてもできなかったという意味にも受け取れる。
(中国新聞・昭和四十六年九月六日付け)
ところが、実際には、遺族に宛てて米軍からの通知はなされていたのである。
アトキンソン家にも、ライアン家にも通知はされていたのだ。
それらには「日本上空で行方不明」という内容まで記され、その後、家族の問い合わせのつど、電報や手紙でのやりとりがなされていたりもしている。
ただ、この段階でも、アメリカ政府の見解は「広島で被爆した米兵はいない」というものだったのだ。

アメリカで、本格的に広島で被爆した米兵捕虜のことが脚光をあびるのは、記録文書の公表から六年を経た昭和五十二年(一九七七年)六月六日に我が国外務省の外交資料館にある手持ちの外交資料の一部を公開し、後に「ウブキズ・リスト」と呼ばれるその中に被爆死した「二十人」の米軍捕虜の名前が載っていたことを、当時広島大学原爆放射線医学研究所の宇吹暁助手(現広島大学院教授)が発見してからである。
これは、中国軍管区司令部の参謀吉川正治少佐がGHQに提出した「第五中国地区軍管区目録」と題された被爆者名簿とされるものであった。

この名簿に掲載されていた米国軍人捕虜は下記の通り二十名

ジュリアス・モルナー軍曹 二十
チャールズ・ヴァムガートナー軍曹 三十
沖縄基地四九四爆撃部隊所属。 四十五年七月二十八日、搭乗していたB-24機体番号七一六が撃墜され、広島県佐伯郡で捕虜になった。
遺骨は同年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。
(木下注 陸軍 B-24 タロア号搭乗員)

ヒュー・ヘンリー・アトキンソン軍曹 二十六
ラルフ・J・ニール少尉(実際は軍曹なのだが、資料では少尉) 二十三
バッフォード・エリソン 階級不詳
ジョン・アラン・ロング
ダーデン・ウイリアム・ルーパー少尉 二二
ジェームズ・M・ライアン 階級不詳 二十

沖縄基地四九四爆撃部隊所属。 四十五年七月二十八日、搭乗していたB-24機体番号三五八〇(推定)が撃墜され、山口県玖珂郡で捕虜になった。
遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。
ラルフは怪我をして後に死亡した。
(木下注 B-24爆撃機 ロンサムレディー号)

ノーマン・ローランド・ブリセット 海軍三等兵曹 通信兵兼射撃手 十九
氏名不詳            二十三
空母タイコンデロガ八十七爆撃部隊に所属。 四十五年七月二十八日、搭乗していたSB2Cが撃墜され、山口県の沖合で救助された。
遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。
ノーマンは怪我をして後に死亡した。
(木下注 海軍 SB2Cヘルダイバー小型爆撃機)

ジョセフ・ダビンスキー 海軍少尉 二十七
空母ランドルフに所属。 四十五年七月二十九日、山口吉敷郡東岐波村の沖合を漂流中、捕獲された。
遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。

ウイリアム・フレデリックス 少尉
デール・ブランベック 少尉
T・ロロッカー 軍曹
ジョン・C・コールハウア 伍長
ロバート・B・ウィリアムズ 伍長
レオン・E・ザーネツキー 伍長
四十五年五月初旬、熊本県阿蘇郡小国村付近にパラシュートで降下し逮捕されたB-29の搭乗員の一部である。
遺骨は四十五年十二月七日、米国の軍隊に引き渡された。

ネルソン 陸軍大尉
ヘイワード 陸軍少尉または伍長
四十五年七月二十七日、福岡県八女郡横山村でB-29の搭乗員の一部として逮捕された。
遺骨は四十五年十二月七日、米国の軍隊に引き渡された。

この資料発見のニュースはUPI通信によってアメリカに伝えられ、「イブニング・トリビューン」紙に、掲載される。
その記事を、B-24ロンサムレディー号の通信士であったヒュー・H・アトキンソン軍曹の父親、セオドア・アトキンソン氏が見つけ、国や軍に対し、何度も息子の被爆死について問い合わせるが、米軍はまったく認めようとしなかった。
ついに、米軍が原爆によって被爆死した米兵について、歴史学者バートン・バーンスタイン博士の質問に対し「陸軍八人と海軍二人の捕虜が広島の原爆の犠牲になった」と公式発表を行ったのは昭和五十八年(一九八三年)になってからである。
此の時点でも、具体的な名前等は一切明らかにされなかった。>
P三十~三十五より大意抜粋。
「ウブキズ・リスト」の元になった吉川少佐の名簿については内容はP百六十八~百七十一、その他は同書P百七十七より

つまり、昭和四十六年にアメリカ国立記録保存所において公表された記録文書に掲載された被爆米兵の記録の原爆が投下された当時、広島には二十名の米軍捕虜とは、昭和五十二年に宇吹暁助手(現広島大学院教授)が発見した中国軍管区司令部の参謀吉川正治少佐がGHQに提出した「第五中国地区軍管区目録」と題された被爆者名簿とされるものであったことがわかる。

終戦時にGHQは被爆死した米国軍人捕虜の存在を把握し、その遺骨まで持ち帰っていたのであるが、この時点で被爆死米兵の氏名が明らかになる事はなかった。

同じく同書より
<被爆死した米兵の具体的な氏名が公になるのは、翌年昭和59年(一九八四年)、雑誌「ニューヨークタイムズ・マガジン」(十二月二日号)誌上において、ジャーナリストのロバート・マノフ氏の「ヒロシマの米人犠牲者」と題し、原爆投下時、広島の捕虜収容所には少なくとも撃墜された三機の米軍機の搭乗員十人が収容されていたと断定した記事においてである。

記事に掲載された米軍捕虜は
B-24爆撃機 ロンサムレディー号
ダーデン・ルーパー少尉
ジェームズ・ライアン
ヒュー・アトキンソン軍曹
ジョン・アラン・ロング
バッフォード・エリソン
ラルフ・J・ニール

陸軍 B-24 タロア号
ジュリアス・モルナー軍曹
チャールズ・ヴァムガートナー軍曹

海軍 SB2Cヘルダイバー小型爆撃機 乗員二名 全員被爆死
操縦士   レイモンド・ポーター
射撃手   ノーマン・ローランド・ブリセット

以上十名

「ウブキズ・リスト」二十名より十名減ったが、「ウブキズ・リスト」には九州帝国大学医学部における「捕虜生体解剖事件」における犠牲者が五名、および福岡県八女郡横山村と熊本県阿蘇郡小国村付近で逮捕され処刑されたものなど「氏名不詳者」四名が含まれているためである。

「ウブキズ・リスト」より九名を除いた十一名について、ロバート氏の「ヒロシマの犠牲者」リストより照合すると、九名の名前が重複し、「ウブキズ・リスト」には「レイモンド・ポーター中尉」、「ヒロシマの犠牲者」にはジョセフ・ダビンスキー少尉の名前が無い。>
P百七十二~百七十八 大意抜粋

続く

昨日やったいつもと違う腹筋のメニューが利いたようで、今朝起きると、いつものように両肩、腕、背中、胸などの筋肉だけでなく、腹筋も痛い。
同じメニューを消化していると、慣れて利かなくなるというのは判っていたのだが、ついつい流していたようで。

食事に出かけた以外は部屋でゴロゴロして一日が終わる。
酒は飲まず。


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死
11月16日水曜日雨 肌寒い △
「原爆で死んだ米兵秘話」にて著者の森氏は、雑誌「ニューヨークタイムズ・マガジン」(十二月二日号)のジャーナリストのロバート・マノフ氏の「ヒロシマの米人犠牲者」に掲載された被爆死米兵十人のリスト以外に、米軍が墜落死と処理しているB―24機長であったジョセフ・ダビンスキー少尉が捕虜になり、取り調べを受けたことを突き止めている。

被爆死したジョセフ・ダビンスキー少尉は搭乗機のB-24タロア号が墜落した時に、パイロットであるので、最後に飛び降りている。
しかし、高度が低かったのかパラシュートが巧く開かず、地上に激突する寸前にパラシュートが松の木に引っかかって、宙づりになった。
多数の目撃者には彼は死んでいるように映った。
GHQの資料では、ダビンスキー少尉は墜落現場で死んだものとされている。
(P九十一)

ところが、目撃者の久保田晃氏の証言として、
「米兵が引きずり降ろされるのが見えた。やがて、地面に下ろされた米兵が両手を上げている姿も見えた」
(P百八十)

そして、森氏は取り調べをした軍人までも探し出している。
捕虜を収容していた中国憲兵隊司令部は爆心からわずか四百メートルの距離にあったため、ほとんどの方が亡くなって、資料も消失している。
しかし、勤務しながら被爆死を免れた憲兵が数人いた。
東京に出張していた助かった方が三名。市内で被爆したが、司令部よりも爆心地から遠かったので助かった方が二人である。
東京出張組は藤田明孝氏、松本進氏(外事防諜課主任将校 大尉)、氏名不詳。
市内被爆組は大塚誠氏、森田隆氏。
中国憲兵隊司令部が捕虜より広島とそれより西の都市が爆撃禁止都市になったことを聞き出して、それを報告しに八月五日に東京司令部に出向したため助かったが、中国憲兵隊司令部が事の重大性に気付きすぐに本部に電話報告をすれば、原爆の犠牲者が幾許かは少なくなったのではと書いています。
(P百三十一~百三十五)

昭和二十年八月五日朝、中国憲兵隊司令部の依頼で、ジョセフ・ダビンスキー少尉を取り調べたのは、神戸商大(現神戸大学)から学徒動員され、第二総軍司令部参謀部へ見習士官として赴任した東田和四氏である。

二人の米兵に会ったが、その日は少尉だけを取り調べた。
雑談になった時に、米兵が「自分は学徒兵であり、学生時代は経済を勉強していた」と言ったので、やはり大学で経済を勉強していた東田氏は親しみを感じ、恋人のことなどを尋ねたら、胸のポケットから写真を出して白いワンピースを着た女性の写真を見せてくれた。
困った事はないかと聞くと、夜、蚊に刺されて困るというので、司令部の憲兵に蚊取り線香を与えるように指示して別れている。
(P百四十三~百四十四)

森氏は事実を確かめるため、一人ひとりの捕虜になった後の取り調べ場所、収容場所、あるいは埋葬場所など証言者、資料を調べ、そして、米国に残るご遺族までも探し出している。
そして、現在は弁護士をしているダビンスキー少尉の異父弟であるブランコ・ストーバー氏と連絡を取り、恋人の存在を確認し、東田氏の証言が確かだった事を書いている。

では、
<昭和二十年七月二十九日午後山口吉敷郡東岐波村丸尾沖にて漂流中出漁中の宇部市漁民救助の上東岐波駐在所に届け出たるを同所に於いて山口県憲兵隊附陸軍憲兵少尉青山行雄が受けて連行していった。
連行された米兵の名は海軍少尉ジョセフ・ダビンスキー 航空母艦ランドルフに搭乗。>
昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日中国復員監部作成の「米機搭乗員護送者等に関する調査報告の件」(中国復総第三十三号)
(中国軍管区司令部は昭和二十年十二月一日より名称変更)
P百八十二

同様に
< ジョセフ・ダビンスキー 海軍少尉 二十七
空母ランドルフに所属。 四十五年七月二十九日、山口吉敷郡東岐波村の沖合を漂流中、捕獲された。
遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。>
中国軍管区司令部の参謀吉川正治少佐がGHQに提出した「第五中国地区軍管区目録」
P百七十

とされたダビンスキー海軍少尉とはだれか。
森氏はこれは明らかな間違いであるが、広島に連行された後、間違われたと推理している。
すでに、GHQも疑問に思い、憲兵隊の青山行雄少尉、田中大作軍曹ら関係者を問いつめ、出撃記録などより空母ランドルフ第十六戦闘隊に所属しF6Fグラマンヘルキャットに搭乗していたジョン・ジョセフ・ハンシェル少尉と判明している。
P百八十三~百八十四

これにより、森重昭氏は、広島で被爆死した連合軍捕虜として確認できたのは下記の十二名としている。

陸軍 B-24爆撃機 ロンサムレディー号 乗員九人中 一名戦死(墜落死) 六人被爆死 二名生還

副操縦士  ダーデン・ルーパー
爆撃手   ジェームズ・ライアン
通信士   ヒュー・アトキンソン
射撃手   ジョン・アラン・ロング
エンジニア バッフォード・エリソン
射撃手   ラルフ・J・ニール

陸軍 B-24 タロア号 乗員十一名中 八名戦死 三名被爆死

操縦士   ジョセフ・ダビンスキー
射撃手   ジュリアス・モルナー
射撃手   チャールズ・ヴァムガートナー

海軍 SB2Cヘルダイバー小型爆撃機 乗員二名 全員被爆死
操縦士   レイモンド・ポーター
射撃手   ノーマン・ローランド・ブリセット

海軍 グラマンF6F戦闘機 乗員一名 被爆死
操縦士   ジョン・ジョセフ・ハンシェル

以上十二名

しかし、レーガン大統領によって戦後四十年が過ぎた昭和六十年に行われた追悼式で読み上げられたのは九名です。

陸軍 B-24 タロア号 乗員
操縦士   ジョセフ・ダビンスキー
射撃手   ジュリアス・モルナー

海軍 グラマンF6F戦闘機 乗員
操縦士   ジョン・ジョセフ・ハンシェル

以上三名の名前が読み上げられていない。
このようなところに米国の被爆死した者に対する姿勢がよく現れているというと穿った見方なのだろうか。

続く

今日は寒い一日。
Tさん来店。
Iさん二名様で来店。
Oさん来店。
ホロン部員Yさん来店。
ドンチャン。
記憶ありと思う・・・・
サルよりはちょっとはマシかも・・・・・


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死
11月22日月曜日曇りのち雨 ○
米軍捕虜の被爆死を米軍は終戦後すぐに確認していながら公表せず、米軍捕虜の被爆死が無かったとしてきました。
米軍が捕虜の被爆死を把握していたのは、下記のような事例からも確認出来ます。

以下引用
<GHQが連合軍の遺骸に関して出した指令が外交資料館に残されている。一九四五年(昭和二十年)十一月十九日付、英文のものと仮訳のものだ。
これによると、戦時中には多数の連合国人の死亡者が日本で荼毘にふされ、埋葬されている。そうした情報は、警察官や一般民間人が把握しているだろう。そこで、「日本帝国政府」は全国の死亡した連合国軍人の遺骸の所在について、完全な情報として司令部に知らせねばならないというのだ。
「死亡者の氏名 階級」「死亡の日付 場所 原因」「遺骸の場所」「遺骸の所在地を知る人物の住所氏名」などである。
こうした布告により、国内で死亡し、埋葬されていた連合国側の人間の情報がかき集められはじめたのだ。>
P二百八~二百九

その例として、平成十九年(二〇〇七年)七月に、我が国の国立国会図書館に保存されていたB-24爆撃機ロンサムレディー号乗員射撃手ラルフ・J・ニール軍曹、SB2Cヘルダイバー小型爆撃機射撃手ノーマン・ローランド・ブリセット三等兵曹の二名の死亡診断書が、京都の歴史研究家である福林徹氏により発見された。
発病日時は広島に原爆が落とされた昭和二十年八月六日。
病名
ラルフ・J・ニール軍曹           頭部及び顔面爆傷
ノーマン・ローランド・ブリセット三等兵曹  腹部爆傷及び両足蹠火傷
死亡場所
船舶練習部付属病院
同英文診断書が付されていた。
P二百九~二百十より抜粋

この二名は「ウブキズ・リスト」に「怪我をして後に死亡した」とされた者たちであり、「ヒロシマの米人犠牲者」にも掲載されていた二名です。
その二名に八月八日に八幡で撃墜され、七日間漂流して終戦日となる八月十五日に我が国の漁船に救助されたB-29ニップクリッパー号の乗り組員だった十名が、八月十七日に宇品の憲兵分隊にて、この二名に会っています。
その時の二人の原爆による状況は生々しく昭和四十八年(一九七五年)十一月三日付けのボストングローブ紙に掲載されています。
これは、ブリンストン大学マーチン・J・シャーウィン教授の著書「破滅への道程 原爆と第二次世界大戦」(加藤幹雄訳 TBSブリタニカ)の脚注として書かれていた部分が取り上げられたものです。
以下は森氏による要約です。

<二人は、ひどい吐き気と痛みに襲われていた。口の端から緑色の粘液のようなものが流れ出ていた。その粘液は耳からも流れ出た。夜になると、ますます状態は悪くなった。
時々意識は戻るようだった。苦しさを訴えかける。そこで、乗組員たちは日本軍がくれて救急袋に入っていたモルヒネを打ってやった。
(木下注 これについては、当時の我が国の状況から考えて、連行された米兵が持っていた救急袋という説があると森氏は書いています)
ニールとブリセットは、B-29の仲間に、もしアメリカに戻れたら、両親を訪ねて自分たちの事を伝えてほしいといった。
彼等は必ず訪ねると約束した。
日本人の医師に、乗組員の一人は「なんとかしてやれないのか」と言った。
その医師は
「何とかしろだって?お前たちのせいなんだぞ。どうしたらいいのか、知るもんか」
と答えた。
他に米兵がいないかどうかも尋ねた。医師は、よくは知らないが、広島市内の捕虜収容所には何人かいたようだ。もう死んでいるかもしれないと答えた。
ニールとブリセットは、原爆の閃光のあとの爆風で建物が壊れ、人々はみんな建物の外へと駆け出し、街の方へと逃げ出したと語った。ある者はひどい火傷を、ある者は水溜まりに身を投げ出していた。
ちなみに、ニールとブリセットはは「汚水だめ」で見つかったとされているが、汚水だめというのは憲兵隊司令部にはないので、もしかすると広島城の堀なのかもしれない。
夜中の二時頃、モルヒネの切れた二人は、あまりの苦しさに「撃ち殺して欲しい」と仲間のB-29の乗組員に嘆願した。もちろん、B―29全員のピストルは取り上げられており、撃つことはできない。
夜明けの二時にニール、昼の二時にブリセットと、二人とも亡くなってしまった。数人の日本人が来て、死体を運び去った。何処へ持っていったのか、彼等にはわからなかった。
二人が遺言として語った「両親に伝えて欲しい」については、B-29の副操縦士カールトン・M・ホールデン少尉によって、ブリセットの母親には伝えられた。ニールの方も同じように伝えられたはずだが、確認は取れていない>
P二百四~二百五

昭和二十年八月十九日に死亡したニールとブリセットのその遺骸は、宇品憲兵分隊隊長高橋太郎大尉の命令で荼毘に付されたのち埋葬された。
写真にはその二人の墓が写っている。

後に、遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。

このように、アメリカ側は終戦後、米兵捕虜の被爆死についても、詳しく把握していたのに明らかにしてきませんでした。
森氏も此の事について下記のように書いています。

<しかし、連合軍は捕虜の被爆死について調査を行ったにも関わらず、一切の資料を公表せず、戦後長い期間、事実は闇の中に眠ったままになっていた。
米国人の遺族も、英国人の遺族も、オランダ人の遺族も、原爆で死亡したという情報を全く知らされずにいたのである。私が遺族を見つけ出して、連絡したことで、初めて知った人さえいたのだ。>
P二百三十九~二百四十

追悼式が終戦後四十年を経た昭和六十年(一九八五年)六月二十七日に行われたのは、米軍は戦後すぐに我が国において被爆死した米軍捕虜の事を把握していながら、それを公表せずに、国が米軍捕虜の被爆死が無かったとしてきたからです。

広島での被爆死者数二〇万千九百九十人、長崎での被爆死者数九万三千九百六十六人。
合計二九万五千九百五十六人とされている。
一家全滅した家等も多く、正確な被爆死者数は不明である。
しかし、アメリカが無差別爆撃により七〇万人、原爆により三十万人
もの無差別殺戮をやった事実には変わりはない。

今日、柳田稔法相が事実上の更迭となった。
柳田氏は法相だけでなく、拉致担当相でもあった。家族会が反対している朝鮮学校の無償化などについても事実上拉致家族の側には立とうとしなかった。
前任者の中井洽氏も横田めぐみさんについて「めぐみさんは高校生の時、仕事帰りに拉致されたが…」と平気で言うような男であった。
今後、柳田氏の後任はあのアホの仙石が兼任するらしい。
日本人として最優先課題の一つであろう拉致問題を、官房長官、法相とともに兼任だそうで、この民主党というものの姿勢がよくわかる。

朝起きると思ったほど腹筋が痛くない。
両肩、背中などは筋肉痛。

今日は食事に出かけた後は、足の踏み場もなくなっていた部屋の片付け。
酒は飲まず。


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死 終章
11月25日木曜日くもりのち雨 △
B-24の機長として最後まで残り、乗員が全員脱出してから脱出した機長トーマス・C・カートライト中尉と副機長ダーデン・ルーパー少尉の搭乗機ロンサムレディ号は、最初に脱出したロイ・M・ベーデンセン少尉(航法士)以外の八名が助かっているのです。

米軍ではベーデンセン少尉は機体と共に墜落したと発表していたが、機長であったトーマス・C・カートライト中尉は、全員脱出したのを確認してから最後に副機長と共に脱出しているので、最初に脱出したロイ・M・ベーデンセン少尉の消息を気にかけながらも確認出来ずに苦悩していた。
そして、此の事が全世界で四千万部も発売されたゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウイッツの書いた『エノラ・ゲイ』にも取り上げられ、世間に事実として認知されて行った。

米軍の発表に納得出来ないカートライト元中尉にそれを調べて知らせたのも森氏である。

<ロイ・M・ベーデンセン少尉最初に脱出しながらも、残念ながらそのパラシュートが開かなく墜落死であった。
これは、GHQ法務局文書八十五号として、当時の高森警察署又野止太署長が、連合軍最高司令部法務部調査課フィリップ・チェーレス氏宛に詳しく説明している
そして、その文書には、昭和二十二年の秋、山口県の山中で遺体発見後、昭和二十二年(一九四七年)十月一日に福岡米軍歩兵連隊第二十四部隊・ロバート・L・スワンソン少尉外二名を現場に案内した事。遺品を引き取った事。 十月三日に岩国英連邦航空隊・スラン軍医外二名を現場に案内。その時、現場に残置してある「骸骨」の外総ての物品を引き取った事。
参考事項として、警察署において検視よりスワンソン少尉の現場倒着まで、配慮し現場保存に務めた事。
死体の検案書では死因として、墜落によって複雑骨折死である事等が記されている。>
P七十七~八十六より抜粋

同様に、森氏は米軍捕虜がどのように扱われたかも調べている。
原爆死した二人の米兵捕虜にあった昭和二十年八月八日に撃墜され、八月十五日に我が国の漁船に救助されたB-29ニップクリッパー号の乗り組員だった十名は、中国憲兵隊司令部の福井信一少尉により、捕虜を処分しろという中国第二総軍大家角三中佐に対し、命がけで反対した。
捕虜たちはこの恩を一生忘れずにいて、福井少尉が臨終の際には米国より病床に花束を贈り、彼等の感謝の意を伝えている。

森氏はこのように丹念な調査を行い、事実を求めている。
我が国の為にならないことであったら、嘘つき朝鮮人戦時売春婦の言うことをなんでもそのまま聞く仙谷由人氏の盟友である高木健一氏、福島瑞穂氏、岡崎トミ子氏、西野留美子氏、支那の言う事は何でもそのまま聞く河野洋平氏、本多勝一氏などの人間のクズである左巻き連中とはエライ違いである。

以上
「原爆で死んだ米兵秘話」(森重昭 光人社 平成二十年刊)より

今日の日刊ゲンダイ。
「小沢待望論 広がる」

支持率八・六%で小沢待望論は広がる?

「相応しいのはだ~れもおらん」つうのが三十三%でトップ。
それと、六・六%のアホカンとの差もたった二%で「小沢待望論」もないだろうが。

インチキラクターさん二名様で来店。
KEIKOさん、MARIKOさん四名様で来店。
二名様来店。
今日飲んだのはちょびっとだけなので、記憶あり。


平成19年11月12日月曜日晴れ ○
エノラ・ゲイの航空日誌が四一〇〇万円で落札というニュースがありました。
以下引用
エノラ・ゲイ航空日誌、4100万円で落札=原爆投下の時間記述?米
(時事通信)
【ニューヨーク29日時事】1945年8月に広島へ原爆を投下した米B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の航空日誌がこのほど、テキサス州ダラスの競売商ヘリテージ・オークション・ギャラリーズで競売に掛けられ、35万8500ドル(約4100万円)で落札された。同社が29日、明らかにした。
この航空日誌は、エノラ・ゲイの搭乗員だったセオドア・バン・カーク氏が記述。一番左に通過地点が地名や経緯度で、次いで通過時間が同機の出撃したテニアン島の現地時間で記されている。

「Bomb Away」(爆弾投下)の欄には、原爆投下の時間を示す「0915 15」(日本時間午前8時15分15秒)と鉛筆で書かれている。右の余白には10時52分(同9時52分)に「Cloud Gone」との記述もあり、帰還中の同機からは1時間半以上にわたって原爆のきのこ雲が見えていたことが分かる。
[時事通信社]
[ハ2007年10月30日9時22分?]

どうして、このようなものに四〇〇〇万円以上もの値段がつくのか。そのわけは、日本に落とした原爆をアメリカ人がどのように考えているか。それにより答は導かれます。
広島に原爆を落としたボーイングBー29・エノラ・ゲイ号は、現在、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。スミソニアン博物館の設立趣旨は「我国(アメリカ)の航空及び宇宙飛行の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深く意味のある航空及び宇宙飛行機器を展示し、その歴史を研究するための歴史的資料を提供する」となっている。(この博物館の設立を提唱したアリゾナ州選出上院議員バリー・ゴールドウォーターの議会公聴会での言葉)
この趣旨に沿って、ライト兄弟の「ライト・フライヤー号」、リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、アポロ十一号などが展示されている。
つまり、エノラ・ゲイは歴史的に意味のある記念すべき飛行機であるとしているのです。
それについて、高山政之氏の著書「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」によると、一九九九年の暮れに、同じアメリカのUSA・TODAY紙がバックアップするメディア博物館「Newseum(ニュージアム)」が「二〇世紀に起こった百大ニュース」という全米のジャーナリスト、シンクタンク研究者、大学の政治、近代史関係教授などの専門家を対象に行なわれたアンケート結果で、第一に「広島、長崎への原爆投下」となっています。それにより日本が降伏したからだそうですが、これがアメリカ人の考え方です。
ちなみに第二位は「アームストロング人類初めて月面に立つ」、第三位「日本、パールハーバーを奇襲」です。

高山氏がネバダ州にあるエネルギー省の核実験サイトを訪れた時、アメリカ政府核実験リストを見る機会があり、それには一九九四年現在までのアメリカが行なった七二四回に及ぶ核実験が、日付け順に記載されていたそうで、下記のようになっていたそうです。
第一回、実験地 ニューメキシコ州アラモゴルド、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 塔の上に固定。
第二回、実験地 ヒロシマ、核爆弾の種類 ウラン型、実験タイプ 空中投下、規模一・五トン、状況 戦時下。
第三回、実験地 ナガサキ、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 空中投下。

アメリカにとっての広島、長崎への原爆投下は「人体実験」であり、無差別殺戮だったということをアメリカ政府が自ら認めているわけです。
手元の他の本には下記のような記述もあります。
<標的選定委員会は最初の選択として、京都、広島、横浜の各都市および小倉市内の軍需工場一ケ所を核攻撃することを勧告した。アーノルド将軍は北九州北部に位置する小倉をとくに支持した。というのは、小倉と本州はトンネルで結ばれているので、トンネルが水没するのかどうか、どの程度激しく漏水するのか、および原爆のなんらかの効果が北側の入口に伝わるかどうかといったトンネルに対する原爆効果を、アーノルドは見たかったのである>
「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」(ロナルド・シェイファー著 深田民生訳 草思社 一九九六年刊)P二〇二

、<兵器技術に対する陸軍航空軍の血迷った関心は、炸裂効果を見極める関門トンネルに原爆の爆風を送り込みたいという期待によく表されているように、人道的犠牲は実験の持つ軍事的価値にまさるかどうか、あるいはそもそもそれと比較評価できるものかどうかといった核兵器が提起する道義的問題に無関心を示唆していた。
略)
戦中戦後の陸軍航空軍の指導者たちの行為や声明を検討してみると、彼らは本当のところ、自分たちの行為の道義的次元を認識しており、日本国民に対しておこなったことについてさまざまな正当化を図っていたことがわかるのである。>
同P二一一~二一二

こういう事実は、アメリカ人がよくいう「大東亜戦争を終わらせるために原爆を投下した」という言葉がいかに虚しい言葉であり、ウソであるかをよく現しています。

裏表紙