米軍日系二世部隊 第百大隊(第100大隊・100th Infantry Battalion)  第四四二連隊(第442連隊・442nd Regimental Combat Team

米軍日系二世部隊 第百大隊(第100大隊・100th Infantry Battalion)
第四四二連隊(第442連隊・442nd Regimental Combat Team)
(平成25年11月30日追記)

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。


日系部隊の生い立ち、性格について
9月1日火曜日 ×
昭和十七年(一九四二年)六月五日、ホノルル港を発った軍用輸送船マウイ号には、急遽、ハワイ国土防衛軍から切り離されハワイ緊急大隊と名付けられた日系部隊一四〇〇名が行き先も告げられないまま乗船していた。
マウイ号を見送ったの、急を聞いて駆けつけたヒロに住む数名の日系兵の妻たちだけであった。
同じ頃、アキキニ港を発ったカウアイ島からの日系兵を見送ったのはたった一人、シュウキチ・サトウ軍曹の身重の妻だけであった。
サトウ軍曹は数ヶ月後に生まれた息子を抱く事無く、一年半後、イタリアで戦死した。

この日系部隊のハワイ出発については、地元の新聞・ラジオで報道される事はなかった。

マウイ号は一週間後の六月十二日にサンフランシスコ湾のゴールデン・ゲイトをくぐったのち、オークランド港に入った。

普通、大隊というものは連隊の下にあるものであり、連隊は第一大隊、第二大隊、第三大隊の三つの大隊からなるが、第百大隊にはその親となるべき連隊が無く、第一、第二、第三でもないオークランド上陸時点で付けられた正式名称「第百大隊」という他には無い名称自体がこの日系部隊の立場をよく現している。
そして、三つのルートに分けられて着いたウィスコンシン州キャンプ・マッコイにおいて、初めての演習で第百大隊の兵が持たされたのは、木製のライフルであったという事実が、その当時、日系二世部隊の置かれていた状況を何よりも端的に現している。

第百大隊の「ワン・ゼロ・ゼロ」を隊員たちは「ワン・プカ・プカ」と呼んでいた。
プカとはハワイ語で穴のことである。
第百大隊隊歌「ワン・プカ・プカの歌」(意訳)
われらワン・プカ・プカ戦闘隊
ハワイの島からやってきた
君らの為に戦うぞ
星条旗のもとで闘おう
行くぞ最前線へ
そしてホノルルへ帰るのだ。 ルルルルル
アンクル・サムの子 闘うぞ
命がけだよ 一生懸命だ
敵よ、われらの銃の前に来て逃げろ
第百大隊よ、道も開け、導け
イムアイー 戦え 戦え 戦え
イムアイー 戦え 戦え 戦え
パール・ハーバーからイタリア フランス
イムアイー 戦え 戦え 戦え
勝利の前進だ
頑張れ 我ら戦闘隊
(「ハワイ日系米兵」p九十八~九十九)より

第百大隊の兵の大半が高校卒である。大学へ入ったものがその十二%、大学をすでに終えていたものがさらに五%であった。
また入隊時に受けなければならない知能テストで、大隊の知能指数は一〇三という数字が出ていた。
一一〇以上だと士官学校行きである。普通なら将校になるべき兵が、第百大隊の兵卒の中には多数いたのである。(注一)

そのため、平均年齢は二十四歳と、逆に普通の歩兵より上であるし、平均身長は百六十センチにもかかわらず、肉体的能力にはすばらしい能力を発揮した。
その他、この第百大隊が優秀であったかをこのドウス・昌代氏の著書に書かれています。
歩兵が分解携行する機関銃を組み立て、備え付けて射撃可能にできるかという米国陸軍マニュアルは十六秒であり、フォート・ベニングの士官候補生学校の生徒は平均十一秒かかっている。
これに対して、キャンプ・マッコイにおいて行われたテストにおいて、第百大隊兵士の平均組み立て時間は、五秒という驚異的数字をだしている。(注二)

橋本明氏の著書「棄民たちの戦場」には、この機関銃は二人で操るM1919A4と書いている。(P百三十五)
米国で、一九一九年に開発された機関銃だからこの名前があるこの機関銃の場合、A4は戦車などに取り付け使用されるタイプであるから、A1かそれを軽量化したA2ではないだろうか。
その場合、重機関銃とされた水冷式のM1917と違い、水冷式でないM1919A1もしくはA2については純粋な意味では重機関銃とは違い、軽中機関銃とされていたから「重機関銃」としたドウス昌代氏の記述も少し違うように思います。

第百大隊は純粋な日系二世ばかりではない。
ジェームズ・カホロクラ軍曹という父はハワイ人、母が日本人の兵士やカホロクラの弟エディのように母違いのため、日本の血は入っていないものもいた。
その他にもカホロクラ兄弟の外に、カレイアロハ、ケアロハの姓を持つ者、日本姓でもハワイ人との混血が二十名程第百大隊にはいた。
中国人、フィリッピン人、ポルトガル人などとの混血もいた。(注三)

注一、「ブリエアの解放者たち」P四十
注二、「ブリエアの解放者たち」P六十四
注三、「ブリエアの解放者たち」P五十~五十一


日系二世部隊Go for Brokeと万歳突撃
7月25日土曜日晴れ ×
Go for Broke
この意味はサイコロ賭博等で大勝負に出る「一か八か当たってくだけろ」という意味になるそうで、これは、第二次世界大戦中に米国日系人志願者で組織された第四四二連隊戦闘団(442nd  Regimental Combat Team’)のモットーだそうです。
第四四二連隊戦闘団は指揮官などの一部白人以外は日系米国人による志願兵がほとんどを占めて構成されていました。
(ただ一人の朝鮮系米国人士官としてキム・ヨンウク氏がいました。キム氏は日系人兵士からも信頼されていたそうです。)
当初、米国本土から三千人、ハワイでは千五百人の割当になっていたが、ハワイでは一万人が志願し、二千六百人が採用されました。
日系人が収容所に入れられていた米国本土では千二百五十六人が志願し八百人が採用されただけだった。

四四二連隊に先立ち設立された第一〇〇大隊は千三百人が選ばれて、日系人の名誉回復のために戦っています。
昭和十八年(一九四三年)九月二日、第三十四師団の第一三三歩兵連隊に配属され、九月十九日にイタリア半島ナポリ南東に上陸。
九月二十九日に第一〇〇大隊のシゲオ・タナカ軍曹は待ち伏せていたドイツ軍の敵機関銃の位置を知るため、わざと見えるように前進し撃たれる。死ぬ前に敵機関銃の位置を示した。この決死の行動により小隊は敵陣地を潰す事ができた。
タナカ軍曹は死後、米軍第二位の勲章である殊勲十字章(DSC)を受けました。

十一月三日、第一〇〇大隊は三度目のヴォルトゥルノ渡河を行った。翌日、キム少尉が銃弾に倒れたと見えたとき、ロバート・オザキ曹長は小隊に「着けっ!剣」を命じ、全員が「万歳」を叫びながら突撃し、仰天したドイツ軍を蹴散らし、これはイタリア戦線において米軍最初の銃剣突撃となった。
十一月十一日に別の部隊と交代するまでに十九個の銀星章を得たが、士官三名、下士官七十五名が戦死し、士官十八名、下士官二百三十九名が負傷した。

その後イタリア戦線で最も悲惨で悲劇的だと言われるカシーノの戦いへと突入。
ドイツ軍は聖ベネディクト修道院の建つ高さ約五百メートルのモンテ・カシーノ頂上から前面の谷全体を見下ろし、戦車砲、野砲、多連装ロケット、そして機関銃の十字砲火で、山下の隠れる場所の無い連合軍兵士に狙いを定めていた。
防御線グスタフ・ラインの主抵抗線はラビド川であった。
この川は深さ約四メートル、川幅八~二十メートル。切り立った両岸は高さ一~二メートルだった。
第三十六師団の攻撃失敗後、その北翼で三十四師団が攻撃を開始する。
昭和一九年」(一九四四年)一月二十四日夜、第三十四師団百三十三歩兵連隊に配属されていた第一〇〇大隊のA中隊とC中隊がドイツ軍の砲火と機関銃弾の中を前進し、夜明け頃に川の土手まで取り付いた。
B中隊は昼間にドイツ軍の銃砲火の前に倒され、百八十七名中たどり着いたのはわずかに十四名だけであった。
多くの兵を失った第一〇〇大隊は、そのため、後退を命じられ予備となった。

二月八日、第一〇〇大隊はモンテ・カシーノ中腹で攻撃をかけ、修道院に近い重要な高地を確保したが、第三十四師団の両翼部隊が第一〇〇大隊の前進速度についていけずに、四日間守ったが後退を命じられ、再び予備部隊となった。
二月十八日、三度目の攻撃をかけたとき、既に第一〇〇大隊の兵力は大幅に減っていた。大隊は修道院に上る途中の拠点を取り返したが、さらに二百名を失った。四十名いた小隊は戦闘が終わったときは五名となっていた。
頂上に届かなかったとはいえ、交代した英連邦軍兵士や新聞記者達は第一〇〇大隊を絶賛した。

三月、二百名の補充兵を受けた第一〇〇大隊はイタリア半島アンツィオ海岸に上陸。
ここで、第一〇〇大隊の唯一の朝鮮系米国人士官であるキム・ヨンウク中尉とアーヴァン・アカホシ上等兵は敵軍に関する情報を得るため、白昼、敵陣に忍び込み、捕虜を得てくる事に成功し、必要な情報が得られた。
この事により、第五軍司令官クラーク中将は二人に直接、殊勲十字章を授与した。キム中尉はその場で大尉に昇進した。

キム・ヨンウク(英語読みでヤング・オゥク・キム)大尉は日系兵士からも信頼され、朝鮮戦争でも米陸軍歩兵大隊長として戦い、後に大佐で退役しています。

第一〇〇大隊は連合軍の尖兵として進撃していながら、ローマ手前十キロの道路脇で停止を命じられ、後から来た部隊が横を通過し、ローマ入城を向っていくのを見守るしか無かった。
その次の夜、トラックでローマ北西に向い、米本土から到着したばかりの第四四二連隊の指揮下に入り、実質的には第一大隊となったが、それまでの目覚ましい戦闘実績により第一〇〇大隊という部隊名がそのまま使われる事になったそうです。

フランスにおける日系米軍部隊
ブリュイエール(Bruyeres)・ビィフォンテーヌ(Biffontaine)
8月3日月曜日くもり ○
昭和十九年(一九四四年)九月一日、連合軍はイタリアのアルノ川を超えた。
ローマからアルノ川までの六十キロを前進する間に、第百大隊および第四四二連隊は千二百七十二名もの犠牲者を出した。
(戦死二百三十九名、戦傷九百七十二名、非戦闘負傷四十四名、行方不明十七名)
これは、この連隊の部隊全兵力の四分の一以上に当たる。

同じ九月、ドイツ軍はドイツ本土決戦用に温存されていた戦車隊を連合軍の前線に突っ込ませる大反抗作戦「バルジの戦い」を開始する。

四四二連隊は十月十三日、のちに数々の無能ぶりを発揮し伝説を作ったジョン・アーネスト・ダルキスト中将が師団長である第三十六師団に配属され、ただちにフランスの地方都市ブリュイエールをドイツより解放する為の戦いに向う。
数十年に一度という大寒波が欧州を襲ったため、四四二部隊はドイツ軍だけでなく、寒さと飢えにも襲われる事となった。
十九日までに、ブリュイエールを含む四つの高地全ての確保に成功する。

しかし、C陣地を取った第百大隊が二十日、ダルキスト中将の命令により予備部隊となり、離れた隙に、翌朝に別の師団がC高地に近づいたときは、ドイツ軍に押さえられており、再度取り戻さねばならなかった。
無能な者が上になると部下を殺すというわかり易い例です。
疲労困憊で、補給物資も少なくなった第百大隊に対してビィフォンテーヌを取るように命令が下る。
これは第百大隊がドイツ軍前線から十一キロも後方に入り込む事を意味し、当時の無線も砲兵の支援も届かない無謀な戦いであった。
しかも、当時のビィフォンテーヌは作戦上取る価値が少なかった。

第百大隊がビィフォンテーヌの町に入った時、ドイツ軍は町を包囲し四方から攻撃してきた。激しい市街戦となった。
二十三日に第三大隊がビィフォンテーヌを見下ろす高地を押さえ、増援と補給が第百大隊に届けられた。
ゴードン・シングルズ中佐指揮の第百大隊は、二十一人の戦死者と二十二人の負傷者を出しながら、町を確保し続けた。

この十月十四日から二十三日にわたる戦いで解放されたブリュイエール(Bruyeres)・ビィフォンテーヌ(Biffontaine)にて、日系部隊がどのように地元住民に接していたかを「棄民たちの戦場」の著者橋本明氏は、著書の中で歴史家のピエール・ムラン氏が橋本氏に話した言葉として下記のように書いています。

「僕の出身のブリュイエールを救ったのは、日系米兵士でした。彼らはものの見事に武士道を体現している。
だから私は彼らをアメリカのサムライとたちと呼ばずにはいられないのです。
そして、彼らの行為はその後もフランスで語り継がれている。あなたが見たブリュイエールは日本の心に満ちています」

(その「日本の心」とはという橋本氏の問いに)
「兵士一人ひとりの行いと、規律ある軍隊の姿勢そのものです。
欧州では領土拡張といえば強い領主が弱い領主の土地を武力で切り取り、財宝を略奪し、女性を犯し、家屋に火を放ち、農産物を抑えることだった。
そうして自分を太らせてきた。
そういう脂ぎった歴史の上に成り立っています。」
ドイツ軍人は最もいい家屋を没収し、奇麗な女を抱いた。彼らのよって町からは食糧も強奪された。
ゲシュタボやSSを前面に出して、ドイツ軍は恐怖政治を四年間にわたり続けたのであった。
ピエールは日系兵士が日常的に行動で示した内容が、かって君臨したドイツ人らと比較してどのように優れていたか、次のように例証した。

「女性を人間として扱い、いたずらなど絶対にしなかった。お年寄りとみれば駆け寄って助け、微笑みを浮かべて話をする。子供達に親切で、飴やチョコレートを与え、自分たちの空腹をよそに市民に食べ物を配ってくれた。
自分たちがどのように苦労しても鼻にかけず、いつも静かで礼儀正しい。
がやがや、騒々しく話す輩はいなかった。控えめでありながら凄い勇気と決断力を持っていた。
いろいろと教えてくれたのがあのニッポンジンたちでした。
つまりひと言でくくれば真の武士道精神を体現していたのです。
その日系兵士たちがボージュの深い森の中でどれ程の生命を落としたか」
(同書P八十~八十一)
橋本氏は取材でブリュイエールを訪れた時に、図書館勤務のニコラ・マリリエ氏から四四二連隊について
「もちろん、知っています。忘れることなんて一刻たりともありません」
図書館で初対面の住民ローラン・シャルル氏より
「四四二連隊はブリュイエールの誇り、あなた方と同じ日本人」と言われ、二人に仏米戦勝記念碑に案内されている。

ひときわ高い場所に建てられた鉄兜を置いたその記念碑には、慰霊の意味だけでなく、いかに日系米兵士が果敢に戦い当地のフランス市民を解放したか、尊敬と愛情を込めて記録されている。
その解放者たちは隊伍を組み、戦闘服を装着した姿で目抜き通りから町役場や教会が集まるドゴール街に行進した。
しかし、その解放者たちはあのナチスドイツの枢軸側、日本人の顔をした白人将校の肩の辺りまでしかない小柄な兵士たちであった。
町の人たちは自分たちよりはるかに背丈の低い軍人が、秩序を持って行進を続ける姿に、畏敬の視線を走らせた。
このリュー・ジョッフルにつながる一方の通りを、町の人々はその小さな解放者に敬意と感謝をこめて「第四四二歩兵連隊戦闘団通り」と名付けた。
多くの日系二世部隊の故郷である米国ハワイ州ホノルル市とブリュイエールは姉妹都市関係を結び、今でも毎年十月二十日の戦勝記念日には交流を持ち、多くの元四四二部隊兵士たちが招待されている。
一九九五年の終戦五十周年には三百五十名もの年老いた日系二世部隊の元兵士が招待を受け、この通りを勲章をつけ堂々と行進した。


日系二世部隊
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その1
8月4日火曜日くもり ×
第四四二連隊が休息と補給のためベルモンに後退した時、第三六歩兵師団第一四一歩兵連隊(元テキサス第一連隊、アラモ連隊の異名をとる)第一大隊がビフォンテーヌ東方に前進、十月二十四日にドイツ軍に対して攻撃を開始するが、逆襲により第一大隊は側面を守っていた第三連隊から切り離され、A中隊、B中隊およびC中隊の一部、D中隊の一個小隊など二百七十五名が大隊長と大隊の残りの部隊から離れて孤立してしまう。
第一四一歩兵連隊の第二大隊、第三大隊が救出に向うが、失敗する。

第一四一連隊は米国にとり、単なる歩兵部隊ではない。米国陸軍にあって、歴史的に大事に扱われてきた部隊である。
その連隊旗に染め抜かれた星は、単星である。
一八三六年、テキサスで創設されたアラモ連隊がこの原隊であり、デビー・クロケット大佐、ジム・ボウイ、ウイリアム・トラビス大佐を知らない米国人はいない。
そのため、十二月二十五日にドイツ軍に包囲され完全孤立のニュースが伝えられた時には、議員らが大統領に「名誉ある絶滅は受け入れられない。テキサス・ボーイズを助け出せ」と攻め立てた。

政治圧力により、大統領直接指揮という形で、第三十六師団ダールキスト師団長にこの「失われた大隊」救出命令が出された。
そして、ダールキスト師団長は、長期任務による戦闘により疲労困憊の日系二世部隊に出動命令を出す。

戦い疲れ切っていた第四四二連隊戦闘団に対し、「大統領の個人命令である」という但し書きが付箋として添えられた師団長命令が告げられたのは欧州時間で十月二十五日午後二時半であったという。
連隊長チャールズ・W・ベンス大佐は突然休養を打ち切られた指揮官クラスを招集し下記のように述べた。
「第百四十一連隊第一大隊がドイツ軍の手に落ちた。
我々はテキサス大隊救出命令を受けた。
命令はアメリカ大統領の個人的要望に基づいている。この戦いに勝ち抜け。そうすれば、君たちの戦争は君らの勝利で終わるのだ」
と日系二世の差別と偏見に対しての勝利で終わる事を告げる。

日系二世部隊である第四四二連隊戦闘団の第二大隊の休養地には直接、ダールキスト少将が現れ、口頭で出動命令を発した。
第二大隊は確かに四四二連隊の中では一番早く休養に入った部隊であるが、たった二日間であった。
第三大隊と第百大隊には待機命令が出た。

敵性国民という不当なレッテルと差別を受け苦しむ親、兄弟を救い出だすために、米国に忠誠を誓い、米国の為に戦い、名誉ある地位を得ようという日系二世部隊にとってドイツ軍の戦線を突破し、ただ前進あるのみだった。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その2
8月5日水曜日晴れ ×
十月二十六日午前零時、疲労の抜け切らない第四四二連隊戦闘団第二連隊は第百四十一テキサス連隊第三大隊と交替を命じられて、真っ暗な中を通常の二倍の装備を背嚢に詰め込み出陣する。

ビフォンテーヌ北東方向に僅か三百メートル入った地点で、正面と両側面からドイツ砲兵と軽銃器射撃部隊により前進を阻まれ、塹壕を掘り朝までしのぐ事になる。
この同じ朝、これまで情報兼戦闘団として働いていた白人編成のフェルバー特別部隊は、原隊復帰命令を受け解散する。
機動偵察まで日系部隊に全ての任務をあずけてしまったのである。

待機命令を受領し、たった三十六時間の「特別休養時間」を貰った第百大隊と第三大隊は十月二十七日午前四時に僚軍を追う。
第百大隊に七五三戦車大隊B中隊、四四二連隊砲兵中隊から一分隊、八十三化学臼砲大隊D中隊、三三二工兵隊一小隊。
第三大隊には第五二二野戦砲大隊(四四二連隊)。第百三十一野戦砲大隊が掩護体制を整え、七五二戦車大隊D中隊、三化学臼砲大隊C中隊が随伴している。

午前十時、第百大隊は武器弾薬、食糧点検後行動を起こした。
B中隊はシャンの森を屋根伝いに突破する為、ぬかるみ道の両側に進路をとった。
A中隊はその右翼につき、西斜面を目指し、その後をC中隊が追った。
第三大隊は東側斜面に取り付き、第百大隊の左手に出ようとし、第二大隊はさらに左翼を行く。

中央を行く第三大隊を先導しているのは、I中隊とK中隊であった。
二十七日午後三時頃、その両中隊の左側側面にドイツ装甲車群が戦車を押し立て、殺到してきた。
ドイツ戦車はK中隊から数百メートル地点より直接攻撃をしてきた。
この時、「ゴー・フォー・ブローク」と一声、高らかに四四二連隊のモットーを叫んだのはK中隊所属のマツイチ・ヨギ一等兵であった。
そして、ヨギ一等兵はバズーカ砲を掴み、戦車から三十メートル付近まで単身で走り込み、命中させ戦車を仕留めた。
ヨギ一等兵にカツオトシ・P・佐野一等兵が走り寄り、二発目のロケットを装着し、続いてヨギ一等兵はドイツ兵二人組のバズーカ砲チームに発射し、一人を葬り、さらにもう一人を自分のM1ライフル銃で葬った。
これによりドイツ軍は火力を失い後退した。
米陸軍は後に、ヨギ一等兵の一撃がナチスドイツ戦車に炸裂するこの場面を絵画にし、ペンタゴンに掲げている。

失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その3
8月6日木曜日晴れ ×
日系二世米軍の現場の白人指揮官は、日系米兵の先頭に立って戦った
米陸軍でも最強という自負心だけがそうさせたのではない。

上官を敬い大切にする直情、命令を完璧に消化する真摯な取り組み、戦友に示す限りない友愛、秩序感といった勇敢な日系二世に畏敬の念と愛情を抱き部下に持つ誇りがそうさせたのであった。

しかし、師団長クラスは違った。
師団長であるダールキスト少将が採用した作戦は、「失われた大隊」を救出するために大軍をようする作戦ではなかった。
イタリア戦線、ブリュイエール攻略戦でも、果敢に先頭に立ち戦った日系二世部隊を第三十六師団の錐の先端に見立てた作戦であった。
ボージュの森でも、日系部隊は先陣を担って敵陣に揉みこみ突破口を開けるその役目であった。
捨て駒とみなした作戦要領であった。

敵陣を維持しているドイツ軍は第九三三連隊、第百九十八連隊を含む第三百三十八歩兵師団であった。
十月二十八日朝、寒い雨模様の中、米軍は一斉攻撃を開始した。

米軍の第一波攻撃により独軍は後退し、米軍が「六一六高地」と名付けたテート・ド・ラ・ルビエールという開けた高地の東峰で第百大隊B、C中隊は塹壕を掘った。
後退するドイツ軍を狩り出しながら進む日系部隊に対して、引きつけた後、ドイツ軍は数百発の迫撃砲弾と野砲弾の雨を浴びせた。
この攻撃だけで、戦死五名、負傷者三十七名にのぼった。

第三大隊K中隊の先頭に立っていた小隊を率いていたのは、ゴードン山城最先任上級曹長であった。
ゴードン山城最先任上級曹長は敵の位置を割り出すため、身を屈めて一人で小隊から先回りし、待ち構えているドイツ軍最前線の砲火を一身に浴びる形で注意力を引きつけた。

このゴードン山城最先任上級曹長が時間を稼いでいる間に、K中隊本隊は敵遮蔽物に向け砲門を据え付けた。
そして、三人一組のドイツ兵を軽機関銃で葬りさったが、小隊の進撃開始をまた掩護しようとして、ドイツ軍狙撃兵に撃たれて戦死する。
まさに、日系二世部隊を錐にした戦法である。

日系部隊の死傷率の多さの原因は、その勇気、忠誠心だけでなく、この起用方法もひとつであることは間違いないことである。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その4
その丘は「バンザイ・ヒルズ」と名付けられた
8月7日金曜日晴れのち夕立 △
十月二十九日が終わろうとしている時に、第百大隊で点呼が取られた。
A中隊生き残りは七十七人、
B中隊同じく七十六人
C中隊は八十人であった。
戦闘兵力の半数が失われていた。

攻撃主力中央に位置した第三大隊のI、K中隊の被害も甚大であった。
十月三十日、「マーカー6」と名付けられたドイツ軍が立てこもる遮蔽物に対して、その傷だらけの日系部隊が突撃し多くの犠牲を払い制圧する。
この時点で、将校としてたった一人生存し、指揮を執っていたバイアーン大尉に率いられたI中隊とそれを追うK中隊、そして第百大隊は「バンザイ」という雄叫びをあげながら帯剣したM1カービン銃をかざして突撃する。

友の屍を踏み越えて丘にたどり着いた勇敢な日系二世部隊は、午後一時半ころまでに「マーカー6」を制圧した。
強固な敵陣地を落とす方法はこれ以外になかったのである。

後に、戦場記録者はこの丘を「バンザイ・ヒルズ」と名付け、米国国務省に報告した。
そして、テキサス大隊救出行で成功への足がかりを築いた勲功は「バンザイ作戦」の異名をとり、米陸軍はシルバー・スター章(銀星章)を贈って、バイアーン大尉の勇敢な行為を讃えた。

ジョセフ・バイアーン大尉は、作戦終了後、第百大隊が地雷の除去作業をすすめている時に、地雷原に触れ即死した。

午後三時、ミネアポリス出身のタケオ・ケンザキ軍曹に率いられたI中隊のパトロールは、ついに「失われた大隊」に到達した。
雑木林で見張りについていた、ニューヨーク市出身のエドワード・ガイ三等軍曹の前に、現れた日系二世兵士は言った。
「誰か、タバコ、欲しいか」
I中隊マット・サクモト二等兵だった。

他にも多くのエピソードを生んだ。

霧をついてよろめき出た指揮官の一人が、
「なんだ、ジャップ部隊なのか」
とつぶやいた。
喜び勇んで立礼姿勢をとった第百大隊B中隊トシモ袖谷少尉は態度を豹変させた。
「この野郎、ジャップとはなんだ、無礼な。ジャパニーズと言え」
と胸倉を掴みながら言われた相手は
「えっ、ああ、そうか、そうなんだ。ありがとう。きみたちこそ、真のアメリカ兵だ。ぼくが間違っていた。許してくれ」
と謝罪し、それに対して、袖谷少尉は威厳を正して、再び気をつけの姿勢をとり
「第四四二歩兵連隊戦闘団第百大隊B中隊長代理、トシモ袖谷少尉であります。ただいま到着いたしました。敵軍は包囲を解き、後退した模様です」
と言った。

幾重もの防御線を突破してトラバン・デ・ソールにたどり着いた救出軍は、もはや軍隊の体裁をなしていなかった。
正面突破の重責を担った第三大隊K中隊のうち生きて「失われたテキサス大隊」と接触出来たのは、チェスター田中技術三等軍曹、ルディ常磐、ツトム吉田三等軍曹、ビクター・イヅイら十七名だけであった。
I中隊は百九十七人の兵士のうち兵士タケオ千崎三等軍曹、シグ土井二等軍曹、マット・サクモト二等兵、ハリー中田、ジュンジ・シロヤマら八人だけしか生き残っていなかった。
両中隊合わせた生存兵はわずかに二十五人であった。
三百八十六分の二十五であった。
B中隊でも五体満足な兵士は十一人しか残っていない。
他の中隊でも、平均三十人から四十人しか生存者はいなかった。
米陸軍が「史上最も重大な十の戦闘の一つ」にあげている八十時間のこの戦いにおいて、日系兵士の戦死者、負傷者、行方不明者は千四百人に達した。

この後、著書に「棄民たちの戦場」おいて橋本明氏は下記のように書いているが、これは明らかに間違いであると思う。
<二百十一人のテキサス兵を救出するため、日系兵士八百人の戦死が必要だったからだ。>p一八三
また、この著書のプロローグにおいても
<結果を先に言えば、包囲されたテキサス大隊二百十一兵を救うため、日系兵八百人が氷雨に煙るボージュで死んだ計算になる>同書p一二
と書いている。

たしかに、日系部隊の累積死傷率は三百二十%であり、全米軍部隊中一位と凄まじい。
だから、個人勲章獲得総数も米国陸軍歴代一位の受勲を誇るのであるが、他の資料からわかる事は、四四二連隊および第百大隊の第二次世界大戦における戦死者は六百八十名と六十七名の行方不明者です。
つまり、この戦いにおける四四二連隊の損害は「戦死」八百名ではなく、「死傷者」である。

橋本明氏の明らかな誤解である。

「第一四一連隊ここにあり。第四四二連隊は我らとともにあり。われらは彼らを愛す」
第三十六師団司令部に届いた電報である。

後に米陸軍は、第二のカッシーノ戦と呼ばれたこの戦いを米陸軍史上最も重要だった「十大戦闘」の一つに数えて、ペンタゴンの壁に永久表彰画として掲げる。
失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その5
8月8日金曜日晴れ △
師団長であるダルキスト少将の無能ぶりを示す有名なエピソードがドウス昌代氏の著書「ブリエアの解放者たち」(文藝春秋 昭和五八年刊)に描かれています。

General Dahlquist

日系第百大隊における唯一の朝鮮系兵士であるキム大尉に、本部より有線電話が入り、キム大尉と話したい人物がいるという。
替わった電話の相手は師団長であるダルキスト少将であった。 その時、キム大尉がとった行動は、この師団長がどのように部下から思われているかを物語る者であった。
キム大尉は何も喋らず突然電話線を引きぬいてしまったのである。そして、傍らにいたシングルス大隊長に言った言葉は「電話線は砲撃で不通になりました」であった。

優秀な戦闘指揮官であるキム大尉はダルキスト師団長がどのような人物であるかを見抜いていた。
もちろん、シングルス大隊長も同様であったがために、キム大尉のこの行動に理解を示した。
ダルキスト少将は自分の無能さを知らないだけでなく功名心にはやった人物であった。
そのため、自ら最前線に出てきて、陣頭指揮をするのである。
その様子が「ブリエアの解放者たち」「棄民たちの戦場」に描かれている。
「ブリエアの解放者たち」にはダルキスト師団長が自ら第百大隊司令部第三大隊のキム大尉に電話掛けた時もダルキスト師団長は前線にいて、敵情視察と称し歩き回っている時に、森の中に布陣して待機していた第百大隊C中隊のマサナオ・オオタケ少尉指揮の小隊に遭遇し、直ちに前進突撃することを命じた。
オオタケ小隊はC中隊本部に連絡することも許されぬまま、この無能な師団長の命令に従いドイツ軍機関銃陣地に突撃して行った。
そして、戦死したのである。

「棄民たちの戦場」にも同じくこの無能な師団長による第四四二連隊第三大隊に対する命令の場面が描かれている。
ドイツ軍の猛射に釘付けになった第三大隊I中隊のシグ・土井二等軍曹は、突然目の前にダールキスト師団長が立ち、シグ土井二等軍曹をどやしつけて、
「前進を続けろ。兵士よ、前に進め。ここ六一六高地で君らにできることは何も無い」
と言った。
敵前視察に登ってきたダールキスト師団長の「兵士に剣をつけさせろ。突撃するように命令するのだ」という言葉に対して、第四四二連隊第三大隊長アルフレッド・パーソール中佐は、師団長の胸を突き、揺り動かし、唸るように叫んだ。
「お前が殺そうとしているのは、俺の兵士だ。
お前に俺の兵士は殺させない。
俺はお前に、俺の子供達を殺させはしない。
もし、私の兵士に攻撃命令が出るならば、
命令を出すのはこの俺だ。
兵士を指揮するのは、お前ではない。
この俺だ。
お前に見せてやる。
俺たちが立ち向かっている相手を」
パーソール中佐の凄まじい気迫と眼光を浴びて、ダールキスト少将はたじろいで息をのむ。
その後、パーソール中佐はダールキスト少将と副官ウエルシール・ルイス大尉と自分の当番兵であるルディ常磐を伴い、敵情視察をする。
林少尉が指揮するK中隊の一個小隊近くに潜むドイツ軍を指差して、中佐が
「あれが機関銃の巣だ。あそこに機関銃隊がいる。あそこに狙撃兵が隠れている」
と説明している時に、ドイツ軍狙撃兵により、副官であるルイス大尉が撃たれ即死する。
この事により、このイタリア戦線時代から、「戦争知らずの事務屋」と陰口をたたかれていたダールキスト少将は、その時の戦場というものを理解する。
第四四二連隊第三大隊長アルフレッド・パーソール中佐は先頭を切るK中隊とI中隊の陣頭指揮をとった。
米国で刊行されている兵士の証言、記録をまとめたBridge of Love より
(私は「棄民たちの戦場」p一五四~一五六より引用)
このような師団長の下で日系部隊は戦ったのです。

失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その6に一部追記
8月27日木曜日晴れ
日系二世部隊について一部追記させていただきます。
<ポタージュのエピソードは、ダールキスト師団長による第四四二戦闘団閲兵式で終わりを告げる。一九四四年十一月十九日だったと記録されている。
本来なら四千五百人を擁した連隊なのに、整列した員数は数百人に留まる。

「ミラー中佐、他の人員はどこにいるのだ」。
不機嫌な表情で質問した師団長に中佐はこう答えた。
「閣下は全員の前に立っておられます。ここにいる者が連隊の全兵力であります。」

白人将校の中から数人くず折れる者が出た。彼らは一様に号泣した。>
(「棄民たちの戦場」P百八十七)

<十一月十二日、その労を讃えるセレモニーのためにと、再び師団長に「集合」をかけられた日系兵は、午後三時、森の麓に整列した。ラッパが高々と森にこだまし、連隊の音楽隊がどこか力なくアメリカ国歌を奏でる。
日経連対の前に歩を進めた師団長ダールキスト少将は、傍らに立つミラー連隊長代理へ不満げな顔を向けた。
「全員集合させろと命令したはずだ」
ミラーはいつになくきっぱりと答えた。
「イエス・サー。目の前に並ぶ兵がその全員です」
その一ヶ月前にボージュの森に入った時、第四四二連隊の兵力は二千九百四十三名。その後の戦死者百六十一名、行方不明者四十三名、負傷者約二千名。
初めの戦力の三分の一以下となっていたのである。
因に、戦死者のうち十三名は衛生兵であった。>
(「ブリエアの解放者たち」P三百十二~三百十三)

< 二世たちは勝利を喜んだ。しかしそれもつかの間、I中隊百九十七人のうち、兵士四人と士官一人しか生き残っていないことがわかり、喜びは深い悲しみへと代わった。他の中隊でも、平均三十人から四十人ぐらいしか生存者はいなかった。八十時間の戦いの中で、戦死者、負傷者、行方不明者は千四百人に達した。彼らが救出した兵士のじつに五倍に相当する数である。
十一月十二日、百/四四二合同軍の功績を讃えるため、ダルキスト将軍は全軍行軍の命令を下した。通常、四千人の兵士が堂々と行進するはずだが、その日はわずか数百人の兵士しか行進していなかった。
将軍はそれを見て、

「全軍行進を命令したはずだが、残りの兵士たちはいったいどうしたのかね」
とミラー大佐に尋ねた。
ミラー大佐は目に涙を浮かべ、うなだれながら、
「将軍、これが部隊全員なのです。彼らが生き残りの者たちです。」
と答えた。>
(「ハワイ日系米兵」P百六十四)

このように手元にある四四二連隊関係の数冊のうち三冊に掲載されている有名なエピソードであるが、実施された日にちが十一月十二日と十九日などから細かいところまでそれぞれ違いがあります。副連隊長であったヴァージル・ラスマス・ミラー氏の階級も中佐と大佐になっているが、此の時は中佐だったのではないでしょうか。


Colonel Miller(Virgil R. Miller)

日系部隊に対し師団長であるダールキスト将軍より手紙が贈られた。

<第三十六師団は第四四二連隊が本師団を離れ、新たな任務に就く事を残念に思う。

貴下が勤務した一九九四年十月十四日から十一月十八日に至る期間はかつてどの部隊も直面したことのない厳しい地形における最困難な戦闘を記録した。

貴下将兵が示した勇気と揺るぎなさ、歓びをもって臨む姿勢は、かつて発揮された米陸軍の前例にけっしてひけをとるものではない。

師団の全ての将校及び兵士とともに深甚なる敬意を表し、戦闘団の各位に対しご多幸を祈る。

また、将来再び貴軍をわが師団に迎えられるようになることを切に希望する>

しかし、第百大隊長であったゴードン・シングルス中佐は大佐(Colonel Gordon Singles)となって軍に残っていたが、大将となったダールキスト将軍との握手を拒否している。
下記はドウス昌代氏の著書「ブリエアの解放者たち」に描かれているその場面である。

<それから数年を経ての話である。軍に残っていたシングルスは、ある軍事式典で今や念願の四つ星の大将となったかつての師団長ダールキストと同席した。シングルスを認めると、大将は自分のほうから手を差しのべ機嫌良く言った。
「過ぎたことは過ぎたことだ。水に流そうじゃないか」
ポージュの森での日系部隊の使い方に明らかな行き過ぎがあったのを、ダールキストはみずからよく承知していたのだった。
大佐の位のシングルスは、この言葉を聞かなかったごとく、差しのべられた手を握ろうともしなかった。
衆目の中、かたくなに敬礼の姿勢を崩さなかった。>
(「ブリエアの解放者たち」P三百二十)

同じく、この著書にはシングルス大佐の人なりが描かれています。
<シングルスは中軸となって大隊を動かす主要将校の人柄と能力をじっくりと観察した。
すでに三十八歳という年齢である。鷹揚な人柄で、こせつくことなく人に接した。
メリーランド州のレンガ造りの自宅でインタビューに応じてくれた時も悠揚迫らぬ態度であった。午前が午後になっても淡々と語り続けてくれた。
大きな安楽椅子がそう見えない程大柄でがっしりした体格である。
肺癌が良くないらしいと聞いたのだが、嘘のように思えた程、人を包む力のある微笑だった。
略)
実戦の経験豊かな前任者の助言に率直に耳を傾け、しかも自分の目で最後の判断を下した。適材適所に部下を配し、彼らを信頼して思う存分にやらせている。そして、最後の責任は司令官たる彼自身が負った。
略)
シングルスは第四四二連隊と同じキャンプ・シェラビーにいて、第百大隊への配属命令を受けている。「なんという幸運か」と口に出たほどの喜びようであった。第百大隊の評判はすでに本国にいた軍人間でも際立っていた。
勲功をさらに期待される部隊の指揮官となることは指揮官自身の手柄おも意味したはずだ。
日系兵の部隊であることの懸念はなかったという。>
(「ブリエアの解放者たち」P百八十四~百八十五)
ドウス昌代氏が会ったその一ヶ月後にシングルス氏は死去している。

そして、この作戦に関しての報告がまとめられた。その報告書の中で、当時の司令官であったダールキスト将軍が自身の出世の為に日系人を使い捨てにした事が明確に述べられている。ダールキスト将軍は日系部隊である四四二連隊が絶対に命令を拒まない事を知った上で、無謀な作戦に就かせたのだ。

ゴードン・シングルス大佐が握手を拒んだ理由は明白である。

失われた大隊と二度目のバンザイ突撃 その7
8月11日火曜日くもりのち晴れ  △
テキサス州知事ジョン・コノリーは、日系戦闘団全員に名誉州民の栄誉を贈った。
同じく、このころ米第九十二師団から、「リトル・アイアン・メン(ちびの鉄人)」というあだ名を奉られる。

四四二連隊
米議会勲章追記
10月19日火曜日晴れ △
以前に書いた四四二部隊についての追記になり、重複箇所がある事をご了承下さい。
第四四二連隊(第442連隊・442nd Regimental Combat Team)に対して、最高位の米議会勲章が授与というニュースが随分前にありました。

以下引用

<第2次大戦の日系2世部隊に最高位の米議会勲章
2010.10.07 Thu posted at: 13:50 JST
ワシントン(CNN)

オバマ米大統領は5日、第2次世界大戦で米国のために戦った日系2世部隊に議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。同勲章は、米国で民間人に与えられる最高位の勲章。
式典にはハワイ出身のダニエル・イノウエ上院議員など、存命の元部隊兵が出席した。
法案は、日系2世部隊の第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績をたたえる内容。442連隊は、フランスのボージュ山地で包囲されていた大隊を救出した功績などが知られる。
米国に移住した日本人の子孫である2世は、当時反日感情が高まる中で差別を受け、米国に残してきた親族は強制収容所に収容されていた。兵士の多くは収容所で行われた募集に志願したという。
イノウエ議員は1945年に少尉として小隊を率い、イタリアで敵の軍と戦ったが、この時の負傷で右腕を失った。これまでに名誉勲章、青銅星章、パープルハート章などを受章している。
ハワイ出身のダニエル・アカカ上院議員は「日系米国人が民族性のみを理由に不当に抑留される中、この勇敢な男たちはわが国を守るために志願した。その勇気は戦争の勝利のみならず、より寛大で公正な国家への道を開く役割を果たした」との談話を発表した。>
引用終わり

日系二世部隊である四四二連隊及び第百大隊は、米陸軍史上最も重要だった「十大戦闘」の一つに数えて、ペンタゴンの壁に永久表彰画として掲げる第三六歩兵師団第一四一歩兵連隊(元テキサス第一連隊、アラモ連隊の異名をとる)第一大隊救出など多くの犠牲を出しながら、多大な戦果を挙げ、米国陸軍史上最強の部隊と讃えられています。

有名なこの写真は「アロハ・セレモニー」のため、イオラニ宮殿前広場に集結したハワイ第四四二連隊の兵士たち二千六百人。ただ一人最前に立つのがバート・ミノル・ニシムラ
名誉勲章(Congressional Medal Of Honor:メダル・オブ・オナー)

一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章であり、名誉勲章受章者に対しては、相手の階級に関係なく自分から敬礼し答礼を受ける事が慣例となっています。
四四二連隊では唯一サダオ・ムネモリ上等兵に与えられたのみであった。
(サダオ・ムネモリ上等兵=第百大隊A中隊、終戦まで後僅かの昭和二十年四月五日、投げ込まれた手榴弾に覆い被さり自らを犠牲とし二人の米軍兵の命を救った。二十二才)

その後、二〇〇〇年六月二十一日、当時のビル・クリントン大統領は人種差別があったとの理由から第二次世界大戦の叙勲を見直しを断行し、

殊勲十字章受賞者十九名を格上げし名誉勲章枠に入れて表彰した。

四四二連隊の勇士と遺族はホワイトハウスに招待されて、クリントン大統領より直々に名誉勲章を贈った。

(他に中国系一人、フリピン系一人)

ジョー・S・サカタ軍曹(第百大隊B中隊)を足して二十一名の受章者となっている。 (米Wikipediaでは George T. Sakatoとなっている。)

 

 

Barney F.Hajiro Mikio Hasemoto Joe Hayashi

 

Shizuya Hayashi Daniel K.Inouye Yeiki Kobashigawa
Robert T.Kuroda Kaoru Moto Sadao Munemori
Kiyoshi.K.Muranaga Masato Nakae Shinyei Nakamine
William.K.Nakamura Joe M. Nishimoto Allan M. Ohata
James K. Okubo Yukio Okutsu Frank H. Ono
Kazuo Otani George T. Sakato Ted T. Tanouye

 

日系米軍部隊の戦功の見直しには五十五年もの歳月が必要だった訳です。

第二次世界大戦中の日系二世部隊に対しての不当な扱いというものがよくわかる事例です。

一回の作戦において師団からたった一人にのみ贈られる最高の勲章が一つの連隊で二十一名もの兵士に贈られたのである。

第二次世界大戦に限れば、四六四の名誉勲章のうち二十一名が第百大隊・四四二連隊であった。
その名誉章授与式で、クリントン大統領は

「日系二世部隊の父母達は出征する息子達に、
生きられるなら生きてくれ、
死ななければならないのなら死んでくれ、
だが、常に名誉を保って戦い、
家族と国家に決して恥をもたらすな、
と言った。
国家が正しく扱わなかった人々に
これ程まで仕えてもらった事はかってなかった」

と述べた。

  

このクリントン大統領が述べた日系二世出征時の日系一世の言葉は「ハワイ日系米兵」にいくつか具体的に書かれています。

そのひとつ、

アーネスト・ウノの手記より

<クリスタル・シティで家族が合流した後、私は父からの英文で書かれた長い手紙を受け取った。
それには、父の忠誠心は日本の天皇にあり、祖国へ帰る事が運命である、と父が心から信じている事が書かれてあった。
しかし、私が米国国民として陸軍に入隊したからには、軍人として恥ずかしくないようベストを尽くし、戦場では死を賭けて懸命に務めるようにと忠告された。

父にとっては、生き恥をさらして帰ってくるよりも、
死んで国に忠義を尽くすことこそが英雄であり、最大の誇りであったのだ。
父は国のために死なないならば、それは家族の恥であると書いてきた。
私は父の言うとおりにしようと思った。
そして、私自身に「さようなら」をつげたのであった>
「ハワイ日系米兵」P一三二

このアーネスト・ウノ氏(Emest UNO 宇野アーネスト)は、大正十四年(一九二五年)米国ユタ州、ソルトレーク・シティ生まれであり、アマチ収容所に強制収容されたが、昭和十八年(一九四三年)八月四日、四四二連隊に志願する。

その訓練中に、母、二人の弟、妹たちが、アマチキャンプを出て、父親のいるクリスタル・シティのキャンプに合流する。
このクリスタル・シティのキャンプは国外追放に値する敵性外国人の収容所であった。
アーネスト・ウノ氏の父親は、家族を連れて日本に帰る事を嘆願していたのである。
上記の手紙は、その父上からの収容所からの手紙である。

ウノ氏はヨーロッパ戦線に従軍し、帰還した時点で長期休暇が与えられたが、ウノ氏の帰る家は無く、制服に受章した銀星章を胸につけて、ウノ氏が向った先はクリスタル・シティのキャンプであった。

米国の為に戦ったウノ氏にとっての「帰郷 ホームカミング」とは、強制収容所に入れられたままの家族に対して、「ただいま」という無事を知らせる挨拶をすることであった。
戦争が終了後に除隊したが、 戦争が終わった後も、家族はまだ強制収容所に入れられたままで、昭和二十二年九月にやっと解放されている。

「家の恥になるな」と題されたサミュエル・ササイ氏の手記より

<両親に相談せず、私は二世部隊に志願し、晴れて米国陸軍四四二連隊の兵士となった。
一九四三年三月二十四日、私はサミュエル・ササイ二等兵となったのだ。
私が出征する前日、家族と別れの食事をした。
私は両親に「さよなら」と言い、母は硬い表情のまま「気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。
母がどんなに怒っているかわかっていた。私はたった一人の息子でありながら、それを承知で、行かなくともいい戦争に志願したことを怒っていたと思う。
でも、母は怒りを抑えて、私を送り出してくれた。
訓練中、基地に母からの手紙が届いた。
その手紙には、母の心情が日本語で書かれてあり、
最後に

「星の旗をよく守りなさい。
笹井の家の恥になる事をしたら、聞きません」

と結んであった。
それ以後、母は決して私に手紙を書いてこなかったが、姉がいつも手紙をくれた>
「ハワイ日系米兵」P二一二

サミュエル・ササイ氏(Samuel Y .Sasai 笹井サミュエル豊)
大正十三年(一九二四年)、 オアフ島ハレイワ生まれ、
ハワイ大学、ペンシルバニア大学卒業。昭和十八年(一九四三年)三月二十四日入隊。四四二連隊第三大隊本部所属。
上等兵、銀星章、紫心章受章。

サミュエル・ササイ氏は、四四二部隊の兵士が必死で戦ったわけのひとつに「家の名に恥じない働きをしなさい」という両親による教育、忠誠心を叩き込んだ日本の修身のような教え、米国憲法に記載されている国民の義務(武器を持って国を守る)などとともに、「信頼」という言葉をあげながら、下記のように書いています。

<もっとも注目したいのは「信頼」である。
それは我々二世が、アメリカ人でありアメリカの魂を持ったれっきとした市民だという事であり、それを証明するためなら死をも辞さないということだ。
冒頭で、二世はこの国では将来が無い、と述べたが、
少なくとも我々が証明出来るのは、肌の色を問題にするのではなく、
いかにその国を心から思っているかということが大事だということだ>
「ハワイ日系米兵」p二一五

そして下記のようにも書いています。

<二世兵士は米国の歴史の中で、批判された時期があった。
しかし、今、私は自由のために戦うには、勇気ある行動と意志が必要であると信じている。
恩や義理、忠誠といった考え方は、決して間違っていないと思う。
これからも、この考え方が引き継がれていく事だろう。
両親がいつも言い続けていたことは、「家の恥になるようなことはするな」ということだ。
この考え方は、家族だけでなく友人やコミュニティー、そして国に対しても言える事である。
よりよい世界や社会をつくるために努力するなら、決して恥などをもたらすことはないだろう。
なぜ、あの戦いで強かったのかと尋ねられたら、私は答えるだろう。

「二世がアメリカ国民であるからだ」と。

戦友や私は、国の為にすべてを捧げることを最良と信じていた。>
「ハワイ日系米兵」p二一八

下記は、全米日系市民協会事務局長であったマイク正岡氏が、昭和十七年(一九四二年)一月にサンタアナで開かれた南加大会に参加し、語りかけた言葉です。

「私はアメリカを信じ、アメリカもまた私を信じるものと確信する。
豊かな恩恵に浴するがゆえに私はどこでも米国の体面を保ち、憲法を守り、米国の良き市民となるべく誠心誠意その義務をまっとうすることを誓う」

彼は二世の信条をその一年前に発表している。

「自分は日系米国市民であることを誇りとする。
日本人としての背景を持つ身であるが、一層米国の市民であることに誇りを感じている」

この書き出しで切々と訴えた信条は、日系人の魂を代弁したものと目された。
「棄民たちの戦場」p二二~二三

しかし、日系人は強制的に収容所に送られたのである。
同じ枢軸国であったイタリア系、ドイツ系移民たちは何もお咎めなしであった。
このような覚悟のもと、日系人の名誉のため日系二世の人々は戦った。
そのため、米陸軍史上最強の部隊の一つに数えられるが、最大の死傷率を誇る。
殊勲十字章五十二、

殊勲章一、
シルバー・スター章五百八十八、
功労章二十二、

銀星樫葉章十二、
銅星樫葉章三十八、
銅星章五千二百十、

パープルハート(従軍負傷章)九千四百八十六、
仏殊勲十字章十二、
仏功労十字勲章二、

伊戦争功勲章二、
大統領部隊感状七、
軍団感状三十六、

師団表彰八十六、
衛生部隊感状二、
殊勲部隊感状五、
戦闘従軍章(部隊)七、

その他にも
上級歩兵戦闘徽章と歩兵戦闘徽章、衛生徽章があり、多くの日系二世兵士が受章している。歩兵徽章をもらった兵士には、毎月十ドルが給与に加算される仕組みとなっている。

大統領部隊感状は、個人に与えられる名誉勲章に匹敵する最高位の部隊表彰で、連隊旗、大隊旗に吹き流しとして着用される。

所属兵も、金色で囲んだ青色リボンを右胸ポケット上に飾るならわしがある。

戦死傷者、将校二百六十五人、兵卒九千九百六十八人にのぼる。

「個人勲章獲得総数・全米軍部隊中一位」

「累積死傷率三百二十%・全米軍部隊中一位」

「名誉負傷勲章獲得者・全米軍部隊中一位(一人あたり平均二個)」

という前代未聞の凄まじいものであった。

栄光の部隊名は、米国陸軍予備役として現在残る唯一の陸上戦闘部隊である第四四二歩兵連隊第一〇〇大隊として継承され、ハワイ州兵の第二十九歩兵旅団戦闘群に所属している。
もちろん、日系米国人兵士だけの部隊ではないがハワイという土地柄日系人が多いそうである。

サダオ・ムネモリ上等兵(Sadao Munemori)が立つ四四二部隊を讃える顕彰碑には日本語で「殉国碑」と刻まれている。
 

ダニエル・イノウエ上院議員の葬儀  オバマ大統領弔辞 HD

ジョージ・サカト氏葬儀 日系人部隊(第442連隊)名誉勲章受章者 – Medal of Honor Recipient George Sakato’s Funeral

今、我が国においても外国人永住者の処遇が問題となっている。国籍法改正により外国人との間にできた子供は認知により日本国籍を取得が可能となった。
支那は現在、日本に行く支那人に対し、そのような子供を支那本国にて養育するように指導している。
国籍が日本であっても中身が支那人の日本人が出来上がるのである。
堂々と自衛隊、警察、役人になることができるのである。
我が国が他国との戦争になった時に、その人たちはどのような行動に出るのであろうか。
「友愛」だけで済まない問題がそこにある。

今日はメチャヒマ。オチャピーかなと思っていたら、Yさん来店。
遅い時間にYさん四名様で来店。
支那のアホどもについて、皆さん怒り心頭。
ドンチャン。
記憶あり。



第百連隊 テキサス大隊との乱闘
8月26日水曜日晴れ ○
日系米軍部隊である第百大隊は、一九四二年末の週末土曜日に米国本土のキャンプにて第二師団のテキサス兵と大乱闘をやっています。

<彼らが来て初めての週末の土曜日、事は起った。聞きしに勝る大男揃いのテキサン(テキサス人の通称)は相手が小柄なだけに見くびってかかった。
「ジャップ」
「イエロー・ベリー(yellow belly)は臆病者の意だが、勿論この場合は黄色い日系にひっかけている。
敵兵と同じ顔のイエローが何故かアメリカの軍服を着るのが気に入らんというわけだ。いくらターナーやコメタニに言い聞かされていても、ハワイ・ボーン(ハワイ生まれ)はそういう言葉を受け流すことに慣れていない。
同じ軍服だからこそ黙っていられなかった。

相手は一万五千という師団の編成である。数では問題なくテキサス側が優った。
しかし、気が付いた時には彼らの挑戦を受けて立っていた。
休日用の私服に着替えているテキサンはカーボーイ・ベルトを抜くと、かねの大きなバックルを武器として振り回す。
「カモン、カモン」
と自信たっぷりに言い放った。
日系人は小さくとも動きが早かった。あっという間に大男にむしゃぶりついている。次の瞬間あちこちで尻をついていたのはテキサンの方であった。
戦前、ハワイの日系人間では柔剣道が実に盛んであった。そのための師範が日本から多く招かれている。
第百大隊には少年時代から鍛えられた柔道の有段者が多数いた。
当時マッコイでは彼らを中心に格闘訓練の一環として午後の一時間を柔道に当てた中隊もあった。
飛び出して中に入ったはずのMPはテキサス師団に属している。MPたちの混紡は日系兵に向けられてきた。
よりによって、その柔道を教えていた帰米の有段者、サトシ・フルカワ二等兵(後に戦死)を、テキサンは最初のターゲットとしてからんだといわれる。
フルカワはかつてヨウゾウ・ヤマモトの通っていた日本語学校の先生でもあった。
テキサスはメキシコとの国境の州である。師団にはかなりの数のメキシコ系がいた。日系兵は手はだしていない。メキシコ系がすぐナイフを抜くことは、すでによく知られていた事実だからだ。
彼らも同じ有色少数民族のよしみで、日系兵には向ってこなかった。
大男を柔道で投げ飛ばす小さい兵を、むしろニタニタ笑って見ているだけだった。
「一人、二人、三人の小さなインデアン
四人、五人、六人・・・・・
ああ、三十八人のインデアン」
と、後になって、その思い出になると日系兵は笑って歌ったものだという。
三十八人とはその夜のマッコイキャンプ内の病院に収容された重傷の兵の数である。
足や腕を折られたテキサンだ。
日系兵の方はただ一名。MPに頭を割られていた。入院しないまでも怪我した兵は双方たくさんいた。
マッコイ時代、ターナー隊長はスパルタ町に一軒家を借りて、ホノルルからやってきた夫人と暮らしていた。
略)

その地方始まって以来の乱闘があった次の日、「あの日曜日の朝」とターナー未亡人は微笑する。
未亡人の現在の住まいは、町を一望に収めるホノルル一の高級マンションで、お手伝いがいる生活である。
ヒロ生まれのターナーは、ハワイの特権階級に属する白人である。開戦前はホノルルの大きな木材会社の重役で、戦後は長年社長の座にあった。
略)

本部といっても粗末な木造バラックであった。その前に一台の高級車が止まった。降り立って本部に姿を消した一人は、間違いなく第二師団長であった。
窓から様子を窺っていた日系兵のあるものは、「向こうから挨拶に来た」とこの一件を説明する。こういう解釈の仕方こそ、すこぶる日本的である。
実は「責任をどうする」と師団長自ら怒鳴り込んできたのであった。階級からいけば、ターナーは「イエス・サー」と敬礼して、縮み上がらねばならないところである。
だが、彼は軍人を職業としない民間出身であった。戦争が終われば、元の材木会社の重役職に戻るだけである。そこが彼の強みであった。
軍での出世を気にせず、言うべき事が言えた。
「喧嘩は両成敗のはず、しかも師団の編成で大隊を相手とした。もっとも、大隊対大隊でしたら、そちらの勝ち目は全くなかったでしょうが」
ターナーは常に、日系兵に彼らの担う特別の目的を思い出させようとした。
一方で、外部に対しては、少しでも取り扱いに差別が見えると退かない強さを見せた。

略)
このターナーの意が通じたのか、師団長は事をそれ以上荒立てずに戻って行った。その後、二度と乱闘は起きていない。
屈辱を受けて死にものぐるいで飛びついたチビの日系兵に、テキサンはある種の敬意を抱いたようですらあった。後にヨーロッパで「懐かしいなあ、マッコイが」と声を掛けて来たその時の喧嘩仲間が何人もいたという。>
(「ブリエアの解放者たち」P五十五~五十九)
後にヨーロッパ戦線で大活躍した日系二世部隊の扱いに対して、第五師団より出された「第四四二連隊について」という一九四五年四月四日付けの文書にはジャップという言葉を一番嫌うという文章が最初にあったそうです。

毅然とした態度を取る事は、結果としてお互いの為になるという大切な事を教えてくれている。


ユダヤ人収容所解放と日系二世部隊
8月12日水曜日晴れ 暑い △
日系兵士で構成された第四四二連隊戦闘団(442nd  Regimental Combat Team’)は下記のようになっていた。
第百歩兵大隊(四四二連隊旗下になったときに第一歩兵大隊に相当) 100th Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
A中隊(ライフル歩兵中隊) Company A
B中隊(ライフル歩兵中隊) Company B
C中隊(ライフル歩兵中隊) Company C
D中隊(重火器歩兵中隊)  Company D
E中隊                      Company E (四四二連隊旗下になったときに解消)
F中隊                      Company F (四四二連隊旗下になったときに解消)

米陸軍第四四二連隊戦闘団The 442nd Regimental Combat Team
司令部中隊 Regimental Headquarters Co.
対戦車砲中隊 Anti-Tank Co.
砲兵中隊 Cannon Co.
医療衛生分遣隊 Medical Detachment
戦務(補給)中隊 Service Co.

第二歩兵大隊 2nd Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
E中隊(ライフル歩兵中隊) Company E
F中隊(ライフル歩兵中隊) Company F
G中隊(ライフル歩兵中隊) Company G
H中隊(重火器歩兵中隊)  Company H

第三歩兵大隊 3rd Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
I中隊(ライフル歩兵中隊) Company I
K中隊(ライフル歩兵中隊) Company K
L中隊(ライフル歩兵中隊) Company L
M中隊(重火器歩兵中隊)  Company M

第五二二野戦砲兵大隊 522nd Field Artillerry Battlion
大隊本部中隊 Headquarters Battery
砲兵A中隊 A Battery
砲兵B中隊 B Battery
砲兵C中隊 C Battery
砲兵戦務中隊 Service Battery
医療衛生分遣隊 Medical Detachment

第二三二戦闘工兵中隊 232nd Combat Engineer Co.

第二〇六陸軍軍楽隊 206th Army Ground Force Band

このような構成になっているのは、自己完結型の独立連隊であるからです。
そして、本来ならば、四四二連隊に編入された第百大隊は四四二連隊第一大隊と呼ばれるはずであるが、第百連隊のそれまでのすさまじい戦功により、第五軍司令官クラーク中将、第三十四師団長ライダー少将が第百大隊の栄誉を称えて、そのまま第百大隊を名乗ることを許したのである。

このうち第五二二野戦砲大隊についてのエピソードは興味深いものがあります。
昭和十九年(一九四四年)十一月九日、第四四二連隊戦闘団は前線を離れたが、十月十五日から十一月九日まで僅か四週間たらずの戦闘で、百四十名もの戦死者、千八百名もの負傷者を出して、戦力は半減していた。
十一月十九日、第三十六師団から離れ、十二月にフランス・リビエラとアルプスのパトロール任務に就いた。
昭和二十年(一九四五年)三月二十八日、冬の間に編成を回復した第四四二連隊戦闘団はフランスを離れイタリアに向ったが、第五二二野戦砲大隊は本隊から分かれて、第七軍がライン河を超えてドイツ本国に攻め込む戦いに参加し、終戦まで所属を転々としたが、正確で素早い射撃は高い評価を得た。

その第五二二野戦砲大隊がドイツ・ミュンヘン北郊のユダヤ人ダハウ(ダッハウ)捕虜収容所を解放しました。
<「こじ開けるように入った収容所には骨と皮のユダヤ人たちが亡霊のように固まっていた」
彼らは水筒を取り出した。蓋を開け水を飲ませたという。ポケットにあったチョコバーや飴などを与え、介抱した。
「その時でした。オランダ人系の中年女性が目を大きく開いた。私達を指して『ニッポンジン』とつぶやいたのです。私はそれを忘れる事はできません。杉原さんは一人で数千人のユダヤ人を救った。私達大隊もまた五千から六千人のユダヤ人たちを保護しました。同じ血をわけた私達で少なくとも一万人の生命を助けたことになります」>
平成八年(一九九六年)三月に渋谷シナゴーグ(ユダヤ教会)にて開かれた杉原千畝氏を讃える会にて、第四四二連隊戦闘団第五二二野戦砲大隊に属していた元兵士の証言。
(「棄民たちの戦場」p四十四~四十五)

五千人収容を限度としていたが、実際は三万千四百三十二人が解放されている。一九四五年四月二十九日、四四二連隊戦闘団に組み込まれていた第五二二野砲大隊は、日系軍団として単独でライン川下流域では依然として死守されていたジークフリート線を突破、ミュンヘン市のダッハウ収容所に近接、戦車でゲートを、他のゲートには速射砲を送り込んでこじ開けた。戦闘は全く交わしていない。ほとんど骸骨の極限状態に追い込まれていた収容者だけが取り残されていた。

第五二二野砲大隊は正確な距離測定、百五十五ミリ、八インチ砲など多種兵器の同時発射、一人ひとりの兵士の持つ数学能力で米軍一と謳われた部隊であったが、このダッハウ作戦に限定すれば、情報が極端に少なく、また凱旋時期が一九四六年になってからであった。
(「棄民たちの戦場」p八十二)

これは、日系米軍部隊が次々と記録する優秀な戦果を公表したくない米国の考え方の現れであり、現に日系二世部隊がダッハウ収容所を開放した事が報じられたのは一九九〇年代になってからであった。

日系人に対する土地所有を認めたウオルター・マッカラン法がトルーマン大統領の拒否権動議をわずか一票さで破り成立したのは、終戦から七年も経た昭和二十七年(一九五二年)六月二十七日であった。
これにより、日本人の米国移民も可能になった。


四四二部隊の英雄が受けた醜い洗礼
7月30日木曜日晴れ ×
「ハワイ日系米兵」には「帰還兵を待っていたもの」としてツカノ・ジョン・トシオ(John T. Tsukano 塚野ジョン敏夫)氏の手記があります。

ジョン・ツカノ氏はドイツ国境に近いフランスのヴォージュ山中の戦いにおいて、「塹壕足」に罹って、一歩も歩けなくなり、後方の病院に送られ、昭和二十年十二月に一足先にハワイに帰る事を許される。
途中、船を待つ為にロスアンゼルス郊外のキャンプ・ベーレに入った。
そのついでに、戦地に向う前に友人に預けておいた日誌や記録などを受け取るため、サンディエゴの友人宅を訪ねる。
キャンプ・ベーレからバスでロスアンゼルスに行き、またバスに乗り換えてサンディエゴに行った。ロスアンゼルスのグレイハウンドバスの駅において、いわれなき理由により逮捕され刑務所に入れられた体験談として掲載されているものがあります。
入隊以来イタリア、フランス戦線に従軍し、紫心章、軍団勲章、戦闘歩兵章などを受章した四四二部隊の英雄が、ハワイの除隊式に参加するために帰る途中に米国本土においてどのように扱われたかが書かれているものです。

<「おいそこの兵隊、パスを見せろ」彼らは私の外出許可証を長い時間をかけて調べながら、私を見たり、互いに小さな声でヒソヒソと話をしていた。二人は納得したように頷き、一人が「一緒に来い。お前を逮捕する」といきなり言った。
一瞬、何を言われたのかわからず、彼が冗談でも言っているのかと思った。「この外出許可証は、キャンプ・ベーレに到着するまでに有効期限が切れるはずだ」「はいそうです」と私は答えた。
「でも、この外出許可証は、それでも有効です。サンディエゴからのバスが遅れたので、キャンプ・ベーレ行きに乗り遅れたのです。
私に力を貸してください。ハワイでの名誉ある除隊式に参加するために帰る途中なんです。
ハワイ行きの船に乗り遅れてしまいます。
どうか、キャンプ・ベーレ行きの次のバスに乗らせてください。
両親にはクリスマス頃に帰ると伝えています。
父は病気ですし、クリスマスまでに帰らなければ、どんなにがっかりするでしょう。
どうかお願いいたします。」

略)
二人のMPは猫が鼠を追い詰めるように、私をじわじわといじめてきた。「われわれはお前のような奴を取り締まる命令を受けている。お前を連行する。一緒に来い」
その時の私の怒りは、言葉では言い表せないほどだ。
略)
(木下注 取り調べもされずに)
翌日、私は他の刑務所に移送された。その刑務所は鉄道の駅の近くにあった。鉄条網でグルリと囲まれ、見張台が設置されている大掛かりなものだった。解放されるなどというのは、もはや奇跡に近いことだと感じた。正直なところ、私が犯した罪(?)を考えさせるため、一晩だけ足止めされたとばかり思っていた。しかし、現実はそうではなかったのだ。

略)
検査が終わり(木下注 検査であって取り調べではない)囚人房に連れて行かれた。そして背後で、鉄の扉が閉まる鋭く思い音が聞こえた。
鉄格子の窓の下に座り、私を逮捕したあの二人のMPが私にした事を思い出していた。緩慢な態度、私をごまかしたあの微笑み、気持ちを弄んだ態度、そして、戦いを終えてヨーロッパ戦線から帰還したばかりの兵士を、見事に無視した行為。それらが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
略)
しかし、避けられない事態がある日起った。何事が起ろうとも覚悟はしていたが、しかし、ある事が起った。
略)
私はキャンプ内の食堂に連れて行かれ、そこで掃除をし、ごみ箱を磨き、皿や鍋を洗う仕事をさせられた。
囚人服を着たままキャンプで働かされたため、キャンプ中の兵士や民間人が私を好奇の目で見ていることがわかった。
あんな屈辱は無かった。
最初の刑務所から、セントラル駅近くの刑務所に運ばれるまで、その間、数日が過ぎていた。私は電話をする事も、手紙を書く事も許されなかった。
略)
どうしてこんなことが起るのだろうか。ここは自由の国アメリカであり、戦争も終わった一九四五年十二月だというのに。
略)
これがヨーロッパ戦線で戦った兵士に対する国家の扱いなのか、と思わず怒りが込み上げてきた。こんなことは、自由の国アメリカで二度と起ってはならない、と思った。
私が理解している事は、私が三年間ヨーロッパで誇りを持って従軍した陸軍が、ひと言の弁解も裁判も無く、私を刑務所に入れたという事だ。
肘まで水に浸けて皿を洗っている間、私は決心した。こんな状態をいつまでも続けていくことはできない。ここを脱出しようと思った。これ以上、囚人房に居続けることはできない。囚人房をメチャクチャにしてやろうと思った。
公聴会のチャンスをつくってくれる人の手助けが必要だった。
私は自分がターゲットにされたと思うようになった。ヨーロッパでの敵よりも、もっと手強い敵に攻撃されていると思った。
ヨーロッパでは、敵が攻撃してくれば、われわれはあらゆる武器を持って対抗することができた。しかし、ここでの私は、堪え難い環境の中で攻撃されている。しかも、私と同じアメリカの軍人たちからだ。
私の名前、誇り、尊厳のすべてが傷つけられ、その攻撃に対して刃向かう自由さへもない。私の手はだんだんしびれてきた。法律さえも彼らの味方なのだ。彼らは攻撃を免れている。
こんな汚い話があっていいのだろうか!
血の通ったアメリカ人など、もはやいないと思った。>
「ハワイ日系米兵」P二三八~二四三
だが、ジョン・ツカノ氏はこの計画を実行に移す前に、ある大尉がジョン・ツカノ氏の事を日系部隊ではないかと気がつき、話かけて事情を聞き、上官の少佐に伝えて、その翌日すぐにこの刑務所を出ることができた。
この大尉と少佐は軍人らしく日系二世部隊である四四二部隊も第百連隊にも敬意を表している。
しかし、ジョン・ツカノ氏が書いている

<私が三年間ヨーロッパで誇りを持って従軍した陸軍が、ひと言の弁解も裁判も無く、私を刑務所に入れたという事だ。>
<もっと手強い敵に攻撃されていると思った。
ヨーロッパでは、敵が攻撃してくれば、われわれはあらゆる武器を持って対抗することができた。しかし、ここでの私は、堪え難い環境の中で攻撃されている。しかも、私と同じアメリカの軍人たちからだ。
私の名前、誇り、尊厳のすべてが傷つけられ、その攻撃に対して刃向かう自由さへもない。私の手はだんだんしびれてきた。法律さえも彼らの味方なのだ。彼らは攻撃を免れている。>

ということに対する事実の裏付けは、ジョン・ツカノ氏が出所するために翌日行った所長室での所長の言動によく現れている。

<彼はまず「ジャップ」という言葉を私に浴びせた。
「そうか、お前が私をトラブルに巻き込んだジャップか。俺のやり方だったら、お前は永遠にここにいる事になっただろう。」
略)
刑務所長の十分間に及ぶ敵意に満ちた言葉からすると、どうも、スーツケースは彼の基に少なくとも数日間は保管されていたようだった。彼は私の日記を読み、スクラップブックに目を通していたはずだからだ。
なぜなら、日記やその他の私の所持品チェックしなければわからない事柄を、彼は知っていたからだ。
略)
「もし、私がお前ならば、カリフォルニアには二度と足を踏み入れないだろう。カリフォルニアにはジャップは必要ない!」
略)
その所長は、私を言葉で痛めつけることを楽しんでいるようだった。士官として敵性でない言葉を平気で使い、罵詈雑言を吐いた。
怒りが込み上げてきた。特にある一点だけは我慢ならないことがあり、もう少しで机の上に乗り出して殴りつけてやるところだった。
略)
ついに彼は
「これがお前の所持品だ。これを持ってさっさとここから出て行け!お前の顔など二度と見たくない!」
と怒鳴った。
私は何も答えず、彼の顔も見ず、スーツケースを持ってグレイハウンドの駅に向うため、その地獄から抜け出した>
「ハワイ日系米兵」P二四六~二四七

つまり、ジョン・ツカノ氏が米国のために命を懸けて戦ってきた兵士だという事をわかっていて、このような扱いをしていたのです。
日系人に対する当時の状況がよく判る例だと思います。
これについては、橋本明氏も著書「棄民たちの戦場」に下記のように書いています。

<加州を黄禍論の視点で見ると、白いカリフォルニアを標榜する白豪主義に近い感情が対日系人運動であったと分かる。
土地所有と借地禁止を柱にした土地法は制定当初から日本国籍を有した移民を農業から排除する事を目的としていた。
十カ所の収容所は戦時転住局が管理したが、マザンナー収容所初代所長ロイ・ナッシュはインデアン保護居住区で勤務した対少数民族管理の行政官だった。
日系人には初めて出会った男で、威張り屋の「イヤな人物」だったようだ。>
同書p三四

当時のアメリカにおける日系人がどのように扱われていたかよく判る事例です。

小胡子さん来店。Mさん二名様で来店。能登から後輩の横川が来た。マロさん来店。
ドンチャン。記憶はあったと思っているが・・・・・・
犬の訓練に使われた日系米兵
9月3日木曜日くもり △
「ハワイ日系米兵」と「ブリエアの解放者たち」にはキャンプ・マッコイにおいての訓練中に、アーネスト・タナカ中尉率いる第百大隊B中隊第三小隊の兵、二十六名(「ハワイ日系米兵」では二十七名)が十月三十一日より五ヶ月にわたる特殊訓練に参加した事が記されています。
(「ハワイ日系米兵」では戦後の新聞記事から一九四三年十一月から一九四四年二月までの四ヶ月弱と書いているが、第百大隊は一九四三年八月三十日にニューヨーク港を発っていますので、明らかな間違いと思います。)
メキシコ湾に面するミシシッピー州ケラスフィールド基地(クラスフィールド基地)より沖合二十キロにあるキャット島において行われたその訓練とは「日本人」の匂いを犬に覚えさせて、戦闘に役立たせるというものであった。

その訓練内容について、同行したラベル副隊長は責任者であるスイス人大尉に対して、
「私は戦争が終わればまたこれらの兵と一緒にハワイに戻って行く身だ。立場を考えて欲しい。訓練についてはあなたから説明するのが筋だ」(注一)
と言っているが、スイス人大尉は「その役だけはいやだ」と応じず、結局、ラベル副隊長が説明したのちにキャンプに帰っている。

訓練内容は
「第一段階、訓練対称のジャーマン・シェパードなどの犬を木につなぎ、ズック袋を固く結んで節を作ったもので叩き、日系兵に敵意を抱くように仕込む。近づくだけで、牙をむき出し、うなり声を挙げるのに時間はかからなかった。
第二段階、犬がズックに食いつくように仕向ける。ヘルメットをかぶり、顔と首に防具を付け、ホッケー用の手袋をはめた姿で、ズックを喉に手で当てがう。トレーナーの「KILL」の一言で、犬が日系兵の喉を目掛けて飛びかかる。
第三段階では、上半身に綿の入ったぶ厚い攻撃防止服(「ハワイ日系米兵」では防寒服と書いている)を着て、右手にズックを突出して、右手の攻撃を仕込む。やがて、全身用の防止服をつけて、二匹で同時に攻撃させる訓練に入った。
肌を噛み切られなかったとはいえ、食いつかれる度に、防止服を通して、まるでペンチでひねられるような痛みが走ったと言う。
「ハワイ日系米兵」には後に第百大隊クラブ会長も務めたレイモンド・ノサカが現在もその時の傷が腕に残っていたことが書かれている。
他に、馬肉の入った容器を持ち、ジャングルに隠れ、犬が探し当てると、トレーナーが空砲を撃つ。と、喉元にその馬肉を手であてがって死んだ振りをする。肉に食らいついた犬が、その後に顔をぺろぺろとなめ回した。

島に入った時に、銃は取り上げられなかったが、なんと弾薬は支給されていない。

考案者であるスイス人大尉が自ら説明を拒むようなこれらの訓練が、いかに戦時中であろうとも、他の人種に対して行われたらどうだったのだろう。

五十三年後の平成七年(一九九五年)にこの島を訪れたレイモンド・ノサカ氏とトクジ・オノ氏について、現地の新聞「コースト・クロニクル」と「サン・ヘラルド」は、「もう昔の思い出ですよ」「悪い思い出というのは、あまり思い出しませんね」というトクジ・オノ氏の言葉に対し、「果たしてそうだったのだろうか」と疑問を投げかける形で「日系人の忠誠心」「シップ島への帰還」という大きな見出しで、それぞれこの二人の「里帰り」を報じている。
注二)

注一、「ブリエアの解放者たち」P七十二
注二、「ハワイ日系米兵」p百四

今日もメチャ暇。初めての若い方が御一人様。
最近は二十代だと思っていると三十代だし、若い方の年齢が判らなくなっている。
この方も二十代半かと思っていたら、もうすぐ三十だそうな。
でっ、結局、このお客様御一人のみ。
ドンチャン。
記憶あり。


日系二部隊と人種差別との戦い
トルーマン・アメリカ合衆国大統領の言葉より
7月29日水曜日くもり ○
小雨が降りしきる米国ワシントンDC、コンスティチューション・アヴェニュー昭和二十一年(一九四六年)七月十五日、午後二時四十五分、沿道に六千人を超える市民の人垣に迎えられる中を米陸軍第四四二歩兵連隊が隊伍を組んで市中を行進した。

本来、四千人規模の兵力を擁する連隊のはずだが、数百人を数えるだけである。
閲兵式では道路脇のビルの窓から紙吹雪が舞うが、この凱旋軍にはそれはなかった。
終戦から約一年も経ってから帰還兵に対しての凱旋パレードが行われたという異常さが際立っていた。

整列を終えた第四四二歩兵連隊に対してトルーマン大統領は下記のように挨拶した。

「国家の自由の為に、諸君は我々と共に戦った。
諸君が成し遂げた偉業にアメリカ国民がどれほど感謝しているか、私は言葉では表現出来ない。
諸君は戦地で敵と戦ったばかりでなく米国内の偏見とも戦った。
そして、勝ったのである。
諸君は、今、それぞれの故郷に帰るところである。

偏見との戦いは今後とも続けて行かなければならない」
「棄民たちの戦場」P八~九

同じトルーマンの言葉が別の著書には下記のように記されています。

「君たちは、自由諸国のために我々と共に戦った。
私はその事について先ず、おめでとうと言おう。
そして、私は、合衆国が、君たちの成し遂げた事に対して、どれほど思っているかということを伝える栄誉を、口で言い表すことができないほど感謝している。
君たちは家に帰って行く。
君たちは敵ばかりでなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ。
その戦いを続けたまえ。
そうして、この偉大な共和国を、憲法がうたっているところの
『全市民のための福祉を約束する国』にするための戦いに勝ち続けるのだ」

「ハワイ日系米兵」P三四五

どちらが、原文近いかは私にはわかりませんが、このトルーマン大統領の言葉に日系二世部隊が何と戦ったかが言い表されていると思います。

この凱旋パレードのあった翌日にニューヨーク・ヘラルド・トリピューン紙朝刊の論説は、戦時中の日系人に対する扱いについて米国の誤りを指摘したものであった。

<第四四二連隊は日系兵で編成された戦闘部隊であり、彼らの両親は日本移民である。彼らはイタリー、フランスの各戦線で勇猛果敢に奮闘し、パープルハート(従軍負傷章)受賞部隊として表彰され、いままた大統領特功章を授与された。
省みれば一九四二年初頭、日系米人は戦時緊急措置として西部海岸から立ち退かされ、強制収容所に収容された。
これら十一万余人のうち三分の二以上はアメリカ市民であった。立ち退きはただ単に真珠湾奇襲という一事から、日系人に対する憎悪と恐怖心を煽られた結果強制されたものであるが、これは採択去るべき性質のものではなかった。
この悪感情は、戦時転住局が行った慰撫工作、覚醒運動、日系兵自らがあげた勲功によって、また社会の常識がまさって薄れて行った。
しかし、この過程を経なかったならば、四四二部隊のもつ意義も、人種差別なき民主主義の高揚を叫ぶいわれも存在しえなかったのである。
我々は四四二部隊に敬意を表する>

「棄民たちの戦場」P九~一〇

しかし、先にあるように四四二連隊の凱旋パレードは終戦から一年も経ってからである。
これについて、「棄民たちの戦場」に「ジョーⅡ」という暗号名で敵情収集活動に従事し数々の受勲に輝くマックス・アンリ・ムランを父にもち、自身も「USサムライ」という著書もある歴史家ピエール・ムラン氏の四四二連隊第五二二大隊に対する言葉として下記のようにある。

「米軍は、交戦国大日本帝国と同じ血族で構成された日系米陸軍部隊が続々と記録する優秀な戦果を公表したくなかったのですよ。
彼らは欧州に長い事取り残され、帰米したのは一九四六年正月一日から数日後だった。
人種差別ですよ。
あからさまな。
米軍の完全勝利に最も貢献した砲兵部隊なのに、彼らが参戦した当時とほとんど変わらない偏見が米国に漂っていた。
そういうことなんです。」

なぜ、終戦後一年以上も経っての凱旋パレードなのか、
それについては、このムラン氏の言葉がすべてを現しているように思う。
日系二部隊と人種差別との戦い
クリントン・アメリカ合衆国大統領の言葉より
7月27日月曜日くもりのち雨 ○
平成七年(一九九五年)、九月二日の午後、ワイキキのメインストリート、カラカウア通りにて米国四軍の家族を先頭に、米国各地から集まってきた退役軍人たち数千人のパレードが行われた。
その隊列の中で、元第百大隊、そして、四四二連隊の日系二世兵たち約三百人ほどが行進しているのがひときわ目をひいた。
行進はフォート・デラッシーの軍用敷地前を通り、ワイキキへと向うのであるが、その敷地内に設けられた特別観覧席には、クリントン大統領はじめ各軍の将軍、政府高官が並んで座っていた。
その前を、現役の歩兵や砲兵隊の行進に続いて、退役軍人らの長い隊列が続いた。
大統領は、側近と話を交わしながら観覧席の上からこの行進を見ていたが、第百大隊、四四二連隊の老兵たちが胸を張って行進してきた時に、普通は大統領は立たないという慣例を破り立ち上がって挙手の敬礼をし、そして手を振って、この老兵たちに感謝のエールを贈った。

その五年後の平成十二年(二〇〇〇年)六月二十一日、名誉章授与式で、
クリントン大統領は
「日系二世部隊の父母達は出征する息子達に、
生きられるなら生きてくれ、
死ななければならないのなら死んでくれ、
だが、常に名誉を保って戦い、
家族と国家に決して恥をもたらすな、
と言った。
国家が正しく扱わなかった人々に
これ程まで仕えてもらった事はかってなかった」
と述べ、
五十五年経過し、投げ込まれた手榴弾に覆い被さり自らを犠牲とし戦友を守ったという第百大隊A中隊のサダオ・ムネモリ上等兵に与えられただけの最高勲章である名誉章の受賞者をダニエル・イノウエ大尉など二十名が追加し、受章した。

このクリントン大統領が述べた日系二世出征時の日系一世の言葉は「ハワイ日系米兵」にいくつか具体的に書かれています。

そのひとつ、
アーネスト・ウノの手記より
<クリスタル・シティで家族が合流した後、私は父からの英文で書かれた長い手紙を受け取った。
それには、父の忠誠心は日本の天皇にあり、祖国へ帰る事が運命である、と父が心から信じている事が書かれてあった。
しかし、私が米国国民として陸軍に入隊したからには、軍人として恥ずかしくないようベストを尽くし、戦場では死を賭けて懸命に務めるようにと忠告された。
父にとっては、生き恥をさらして帰ってくるよりも、
死んで国に忠義を尽くすことこそが英雄であり、最大の誇りであったのだ。
父は国のために死なないならば、それは家族の恥であると書いてきた。
私は父の言うとおりにしようと思った。
そして、私自身に「さようなら」をつげたのであった>
「ハワイ日系米兵」P一三二

このアーネスト・ウノ氏(Emest UNO 宇野アーネスト)は、大正十四年(一九二五年)米国ユタ州、ソルトレーク・シティ生まれであり、アマチ収容所に強制収容されたが、昭和十八年(一九四三年)八月四日、四四二連隊に志願する。
その訓練中に、母、二人の弟、妹たちが、アマチキャンプを出て、父親のいるクリスタル・シティのキャンプに合流する。
このクリスタル・シティのキャンプは国外追放に値する敵性外国人の収容所であった。
アーネスト・ウノ氏の父親は、家族を連れて日本に帰る事を嘆願していたのである。
上記の手紙は、その父上からの収容所からの手紙である。

ウノ氏はヨーロッパ戦線に従軍し、帰還した時点で長期休暇が与えられたが、ウノ氏の帰る家は無く、制服に受章した銀星章を胸につけて、ウノ氏が向った先はクリスタル・シティのキャンプであった。
米国の為に戦ったウノ氏にとっての「帰郷 ホームカミング」とは、強制収容所に入れられたままの家族に対して、「ただいま」という無事を知らせる挨拶をすることであった。

戦争が終了後に除隊したが、 戦争が終わった後も、家族はまだ強制収容所に入れられたままで、昭和二十二年九月にやっと解放されている。

日系二部隊と人種差別との戦い

クリントン・アメリカ合衆国大統領の言葉より2

7月28日火曜日くもり一事小雨 ×××

「家の恥になるな」と題されたサミュエル・ササイ氏の手記より

<両親に相談せず、私は二世部隊に志願し、晴れて米国陸軍四四二連隊の兵士となった。
一九四三年三月二十四日、私はサミュエル・ササイ二等兵となったのだ。
私が出征する前日、家族と別れの食事をした。
私は両親に「さよなら」と言い、母は硬い表情のまま「気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。
母がどんなに怒っているかわかっていた。私はたった一人の息子でありながら、それを承知で、行かなくともいい戦争に志願したことを怒っていたと思う。
でも、母は怒りを抑えて、私を送り出してくれた。
訓練中、基地に母からの手紙が届いた。
その手紙には、母の心情が日本語で書かれてあり、
最後に
「星の旗をよく守りなさい。
笹井の家の恥になる事をしたら、聞きません」
と結んであった。
それ以後、母は決して私に手紙を書いてこなかったが、姉がいつも手紙をくれた>
「ハワイ日系米兵」P二一二

サミュエル・ササイ氏(Samuel Y .Sasai 笹井サミュエル豊)
大正十三年(一九二四年)、 オアフ島ハレイワ生まれ、
ハワイ大学、ペンシルバニア大学卒業。昭和十八年(一九四三年)三月二十四日入隊。四四二連隊第三大隊本部所属。
上等兵、銀星章、紫心章受章。

サミュエル・ササイ氏は、四四二部隊の兵士が必死で戦ったわけのひとつに「家の名に恥じない働きをしなさい」という両親による教育、忠誠心を叩き込んだ日本の修身のような教え、米国憲法に記載されている国民の義務(武器を持って国を守る)などとともに、「信頼」という言葉をあげながら、下記のように書いています。

<もっとも注目したいのは「信頼」である。
それは我々二世が、アメリカ人でありアメリカの魂を持ったれっきとした市民だという事であり、それを証明するためなら死をも辞さないということだ。
冒頭で、二世はこの国では将来が無い、と述べたが、
少なくとも我々が証明出来るのは、肌の色を問題にするのではなく、
いかにその国を心から思っているかということが大事だということだ>
「ハワイ日系米兵」p二一五

そして下記のようにも書いています。

<二世兵士は米国の歴史の中で、批判された時期があった。
しかし、今、私は自由のために戦うには、勇気ある行動と意志が必要であると信じている。
恩や義理、忠誠といった考え方は、決して間違っていないと思う。
これからも、この考え方が引き継がれていく事だろう。
両親がいつも言い続けていたことは、「家の恥になるようなことはするな」ということだ。
この考え方は、家族だけでなく友人やコミュニティー、そして国に対しても言える事である。
よりよい世界や社会をつくるために努力するなら、決して恥などをもたらすことはないだろう。
なぜ、あの戦いで強かったのかと尋ねられたら、私は答えるだろう。
「二世がアメリカ国民であるからだ」と。
戦友や私は、国の為にすべてを捧げることを最良と信じていた。>
「ハワイ日系米兵」p二一八
下記は、全米日系市民協会事務局長であったマイク正岡氏が、昭和十七年(一九四二年)一月にサンタアナで開かれた南加大会に参加し、語りかけた言葉です。

「私はアメリカを信じ、アメリカもまた私を信じるものと確信する。
豊かな恩恵に浴するがゆえに私はどこでも米国の体面を保ち、憲法を守り、米国の良き市民となるべく誠心誠意その義務をまっとうすることを誓う」

彼は二世の信条をその一年前に発表している。

「自分は日系米国市民であることを誇りとする。
日本人としての背景を持つ身であるが、一層米国の市民であることに誇りを感じている」

この書き出しで切々と訴えた信条は、日系人の魂を代弁したものと目された。
「棄民たちの戦場」p二二~二三

しかし、日系人は強制的に収容所に送られたのである。
同じ枢軸国であったイタリア系、ドイツ系移民たちは何もお咎めなしであった。

このような覚悟のもと、日系人の名誉のため日系二世の人々は戦った。
そのため、米陸軍史上最強の部隊の一つに数えられるが、最大の死傷率を誇る。


日本人の心をもって
8月13日木曜日晴れ 暑い △
「日本人の心をもって」と題されたインタビューが「ハワイ日系米兵」に掲載されています。
これは元ハワイ州知事であったジョージ・アリヨシ氏のインタビューです。
アリヨシ氏は四四二連隊ではありませんが、米国陸軍に入隊し、戦後、我が国に進駐軍の一員として派遣されています。

以下引用
<進駐軍と一緒に日本に行った。戦後一年後のことで、それもあまり長い間ではなかったので、日本をよく見たとは言えないだろう。
私が一番感心し、印象的だったのは、東京の郵船ビルにいたときに、最初にあった靴磨きの七才の男の子と話したときの事だ。彼はとても困っていて、お腹が空いていた。ハワイでも、靴磨きの子は貧しい家の子だったから、郵船ビルで食事をしたとき、パンにバターとジャムを付けてナプキンに包みポケットに入れて、彼にあげた。
すると、彼はそれを箱に入れてしまった。「どうして?お腹が空いていないの」「空いてるよ。でも、これはマリコに持って帰るから。マリコと一緒に食べるんだ」という。
「マリコって、誰?」「三つの妹です」
私はとても感心した。普通だったら、七つの子供なら、たとえお腹が空いていなくとも、欲しいものはすぐに食べてしまうだろう。それを、彼はものすごくお腹が空いていたのに、妹の事を考えたのだ。
それから私は、いつもPXに行ってハンバーガーを買いポケットに入れて、彼にあげた。そういうところから私は、日本人の気持ちがよくわかるようになった。>
引用終わり

このジョージ・アリヨシ氏の話題について、二年程前の産經新聞に掲載された「忘れてしまったもの」と題されたコラムに中静敬一郎氏が書いていた事を思い出しました。
以下引用
忘れてしまったもの
81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏=写真=から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。
親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。
彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。
「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」
凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
略)
(中静敬一郎)
2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」
引用終わり

今の我が国の現状をジョージ・アリヨシ氏も憂いておられます。
そのアリヨシ氏の手紙に書かれていた
「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」
というものをもう一度思い出すときではないでしょうか。
そうすれば、国に求めるばかりで、国に奉仕しようとしない、あの社民党のバカどもがいっしょになって騒いでいた派遣村のれん中の「仕事、住むところ、給料を国が補償しろ」などということがいかにみっともない事か理解出来ます。

今回の選挙も「生活が第一」などと戯けた事をいっている政党が躍進しようとしています。
生活ななどというものは日本という国があって初めて語れるものです。
日本という国の背骨が溶けてしまってはどうにもなりません。

そのひとつが我が国を造ってきた先人に対しての姿勢だと思います。
明日、麻生首相は靖國神社参拝をすべきです。
それだけでも、今吹いている風が違うものになると思います。
日本人の心をもって2
8月14日金曜日晴れ ×
また、アリヨシ氏は下記のようにも述べています。
以下引用
<日系人の会議があって、日本に行ったときの事だ。今の天皇がまだ皇太子だったときで、われわれはご進講をした。二、三人が一緒にいて、そこにブラジルから来た日系人もいた。
私は彼に聞いた。「あなたは何人」「私はブラジル人です」「でも日系人でしょ」「いやブラジル人です」
彼は決して日系人と言わなかった。
略)
ご進講では、皇太子に通訳をするためスピーチの内容をあらかじめ提出していたが、私は、そのブラジル人の顔を見て考えた。私は彼の事を心配した。自分の順番になったとき、通訳の人が出てきたが、その通訳を断って私は、「考え直した事がありますから、話を変えます。日本語は巧くありませんが、自分で話します」と言って話をした。
「私が戦後一年くらいで日本に来たときは、大きなダメージを受けた破壊された国そのものだったが、今、それからあまり時間が経っていないのに(そのときは昭和三十二、三十三年頃)、こんな立派な国になっている。それはどういうことだろう。
日本はモンタナ州にすっぽり入ってしまうくらい小さく狭い国で、資源もなく、すべてを輸入しなければならない国なのに、こんなに強く立派になった。
私は、その答えは一つしかないと思う。
日本人は国を愛して、子供のため、将来のため、国のため、と一生懸命に身を粉にして働いたからだ。
私も同じ日本人の血を受け継いでいるのだから、たとえ世界のどこに行っても、日本人はいかなる問題があってもやっていけるんだという気持ちを持って、各国に帰って欲しい」
私は例のブラジル人の顔を見て話した。そうしたら、彼は涙を流しながら聞いてくれた。そのあと、彼は私の手を握ってくれた。
ブラジルの日系人が、自分の事を「ブラジル人」というのは、もちろんかまわない。しかし、日系人だということを隠してはいけないのだ。隠すという事は、他のブラジル人よりも自分を下に見る事になる。
略)

どんなときでも、自分が、誰か他人のようになりたい、という気持ちがあってはいけない。日本人が白人と同じになりたいと思ってはダメだ。同様に、フィリピン人が他の人のようになりたいと思ってもダメだ。
というのは、他の人になりたいと思うことは、自分が他の人よりもよくないと思っているからだろう。そう思うことは、自分を抑えてしまうことだ。自分のことをダメだと思ってしまうことだ。
夢というものは、たとえそれが実現しなくても、その方向に向かっていけば自分を向上させることができる、そういうものだ。
それがとても大事なことだ。
ハワイの日系人が、自分の事を「アメリカ人」というのは当然だが、アメリカ人というのはある一つの人種や文化だけではなくて、いろいろな人が集まってできているものなのだ。そして、自分は他人よりもよいということではなくて、他の人と同じ、他の人に負けない、と思う事が大事なことなのである。>
P三二一~三二三

<人種割当で雇う人数を決めたり、入学定員を決めたりすることがあったが、私はそれにとても反対した。誰でも、できるだけ自分の力を使って、自分で勉強する事が大事なのだ。それが平等にできるところまでは政府がしなければいけないが、そこから先はフェアにやって、日系人だろうと白人だろうと黒人だろうと、一番優秀な人が採用され、入学を許されるべきだ。
アメリカでは今まで、白人はたくさんいるからもう白人は雇わないとか、日系人の先生が多いから今度はフィリピンの人を雇うということをやってきた。でも、私はそれをしたくなかった。もしも日系人はハワイに二十二、三%しかいないのに、学校の先生は五十%が日系人だからといって、日系人だからといって、日系人の先生を採用しなくなれば、今から十年もの間、日系人は一人も教師になれないことになる。私は、こうした制度にはとても反対だ。誰でも、自分がなりたいことになれるようにするのが政府の責任だ。
フェアな競争をするべきである。私が、もしも自分より成績のいい人に負けたのなら残念だとは思わないが、私よりも成績が悪いのに、人種が違うから負けたのなら、とても怒るだろうし、決して許さないだろう。
日本がここまで立派な国になったのは、日本人の努力の賜物である。他の国の人よりも、一生懸命に頑張るつもりできたからこそ、よくなったのだと思う。>
P三二五

我が国もアリヨシ氏がおっしゃっているような悪しきアメリカのような制度が存在します。「同和利権」と言われるものがそうです。
京都府などで明らかになった採用枠です。
そして今、「アイヌ利権」と言われるものができようとしています。

これについては改めて書きたく思います。
「日本人の心」3
8月20日木曜日晴れ ×
下記は先日日記に引用させていただいた産經新聞に掲載された中静敬一郎氏の文章の後半部分です。

以下引用
終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。
「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。
オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。
こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
(中静敬一郎)
2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」
引用終わり
(写真はネット上にあったものであり、新聞に掲載されていたものより鮮明になっています)

我々日本人が忘れてはならないもの、失ってはならないものがこの写真にあるように思います。

何度も書きますが、国に求める前に、国に国民としてすべき事がある。

西村真悟代議士はご自分のメルマガ「西村真悟の時事通信平成二十一年八月十四日号」において下記のように書いておられます。

以下引用
驚くべき国政選挙である。政治的未熟児の「真夏の夜の夢」に国民が付き合わされている。このマニフェスト選挙とは、税金による買収競争である。従って、国家と国民は戦後体制からの脱却を希求しているのに、戦後体制に安住する政治が与野党協力してそれを阻んでいる。
ケネディーのアメリカ大統領就任式における演説を思い出す。 「アメリカ国民よ、国が君に何をしてくれるのかを問うな。君が国のために何ができるかを問え」
戦後体制とこの度のマニフェスト選挙とは、国民を「国に何をしてくれるのかを問う」だけの存在として位置づけるものである。戦後体制は、日本国民が「国のために何ができるか」を問い始めることを許さない。それが始まれば、戦後体制が崩れ、与野党の政治的未熟児の安楽な生活がもたないからである。
引用終わり

この日本という国を守るためにどうすればよいか。

我が国の為にできることを自分なりに


ドウス昌代氏の著書にみる日系部隊
8月19日水曜日晴れ ××××
ドウス昌代氏の著書「ブリエアの解放者」は、同じタイトルで文藝春秋に昭和五七年五月号から十二月号まで連載されたものを加筆し発売されたのは昭和五八年(一九八三年)の事であり、終戦後四十年近くも経っているとはいえ、日系二世兵士はもちろん、「親父」と慕われた第百大隊大隊長故ファーレスト・ターナー大佐未亡人ヘレン・ターナー、第百大隊副大隊長ジェームス・ラベル、第百大隊長ゴードン・シングルス中佐、ヤング・オーク・キム大尉、第二大隊長ジェームス・ハンリー、情報部ケンダル・フィルダー大佐などの元四四二連隊および第百大隊関係者、米軍関係者が健在であり、ドウス昌代氏は直接その方々より話を伺っている。

巻末の多くの取材協力者をみると、その取材の過程において、ゴードン・シングルス中佐、ケンダル・フィルダー大佐など御亡くなりになった方もいらっしゃることがわかる。

その他にもキム大佐はオレゴン州で退役生活を送っていたが、平成十七年(二〇〇五年)に御亡くなりになっている。

その中には日系部隊を巡る貴重な多くのエピソードが書かれていますが、そのエピソードなどを「日系二世部隊」にいくつか書き加えさせていただきました。

ただこのすばらしい著書にもいくつかの疑問点などもあるのも事実です。
書かれているエピソード一つであるキム大尉が「電信線」を引きちぎったとあるが、この場合は「電話線」のほうが普通でしょう。
たしかに、「電信柱」とは言うが、ダールキストの「声」が聞こえてくる無線機に接続しているのですから「電話線」という単語が適当とおもいます。

著者の最大の間違いというか問題点はキム大尉の「祖国」朝鮮についての歴史観です。
<父は首都ソウル市に近い漢江の辺りで、小規模ながらも土地持ちの農家に生まれている。彼が育った朝鮮は日本の統治下にあった。徹底した日本の武断政治下に、自分たちの母国語さえ禁じられた故国を、従兄弟と二人して船底に隠れてアメリカへ逃亡している。後妻である継母と合わない複雑な家庭の事情もあった。十六才のときである。>
(同書p六十七)
何度も書いているように、我が国が朝鮮を併合したのち朝鮮語を禁じた事は一度も無い。
むしろ、ハングル文字は我が国の統治より朝鮮の人々に普及した。
ましてや、キム大尉は、少尉として第百大隊に配属時、昭和十八年(一九四三年)二月初めに二十四才である。朝鮮という国を我が国が併合したのは明治四十三年(一九一〇年)です。何年にキム大尉の両親が米国に渡ってきたかは不明ですが、米国で一九一九年にキム大尉が生まれたわけですので、少なくともそれ以前のはずです。
統治数年でそこの民族の言葉を禁止して、統治が成り立つものか普通で考えたらわかりそうなものです。
現実に、官庁では昭和十四年(一九三九年)まで朝鮮語学習を奨励する朝鮮語奨励賞が支出されている。
つまり、日本人に朝鮮語を学ばせ、朝鮮人には日本語を学ばせてお互いの意思の疎通を図っているのである。

朝鮮のように我が国に併合されたところ、あるいは植民地において、その国の言葉を学ばせるのはあたりまえであり、住民にとっても不利となる。それを強制と非難されるいわれは無い。
フィリピンにおいては、スペイン統治時代はスペイン語、アメリカ統治時代は英語を学ばなければ、フィリピンの人々にとり、ありとあらゆる面で不利となる。

この同書にある下記の記述はある意味、よく朝鮮人というものを現しています。

<現在、キムの八十を過ぎた母親は、ロスアンゼルス市にある日系老人ホームで余生を送っている。
しかし、長男が二世部隊に配属されたと知ったその頃は、軍の処置が納得できなかったという。彼女はそれまでに、日系人だけは決して家に上げようとしなかった。キムや三人の弟たちが近所の日系の友達と遊ぶのも厭がった。その二年前に亡くなった父親も、輪をかけた日本人嫌いであった。>
(同書p六十七)

日系二世部隊については、順次追記させていただきます。


在日朝鮮人という異常な存在
7月21日火曜日くもり一時雨 ×
昨日の休みは、米国陸軍史に燦然と輝く日系二世部隊のことについて書かれていた三冊の本を読んでいました。
その三冊の本に書かれていた日系二世元兵士のみなさん、そしてクリントン元大統領の言葉です。
<私どもは日本人の誇りを失っていません。
世界で尊敬される日本が良い行いを重ね、高く評価されれば、同じように日系米国人も尊敬を集めるようになるのです。
私達はしかし、米国人の魂をきちんと持っています。
アメリカが我が国なのです。
だから第二次大戦開始直後この社会から隔離されたとき、私達は場合によっては天皇陛下に弓する立場を固めたのです。
アメリカに移民し、米国籍を持つアメリカ人だからです。
祖先は同じでも、またいかに天皇を敬愛していても、
私達の国は米国であり、遵守すべきは米国憲法なのです>
「棄民たちの戦場」(橋本明 新潮社 平成二十一年刊)P二十九より
戦後、我が国において、GHQ勤務中、警察予備隊を後藤田正晴と組み立ち上げたハリー福原元大佐の言葉

<サイパンでアメリカ軍から離れて谷の中に入って行き、
日本軍と遭遇し、日本軍将校より
「君は日本人でありながら、なぜアメリカ側について戦うのか」と聞かれて、
平重盛の
「孝ならんと欲せば、忠ならず。忠ならんと欲せば孝ならず」という有名な言葉で返したところその日本軍将校は納得した。>
「ハワイ日系米兵」(荒了寛 平凡社 平成七年刊)P三七
コウイチ・クボ軍曹(早稲田大学卒)の経験より

そして、この本の同じページには下記のような記述もある。
<日系人はアメリカ市民であり、かつ日本人の血を受けている。
われわれの通った寺の先生も日本語学校の先生も、
「君たちはアメリカで生まれた二世だから、忠義というのはアメリカに捧げよ」と教えていた。
だから、個人として、日本につくべきかアメリカにつくべきかという葛藤は、我々の時代には無かったと思う。日本でも戦国時代、兄弟でも親子でも戦っている歴史があるから、日本の文化の中でも、自分が育てられたところに忠誠を誓うのは当然だという気持ちだった>
ヒデト・コウノ
大正十一年(一九二二年)ハワイ島ヒロ生まれ
昭和十八年(一九四三年)一月、四四二連隊入隊後、MIS所属。硫黄島従軍

<「日系二世部隊の父母たちは、
出征する息子達に、生きられるなら生きてくれ、死ななければならないのなら死んでくれ、
だが常に名誉を保って戦い、家族と国家に決して恥をもたらすな、と言った。
国家が正しく扱わなかった人々にこれ程まで仕えてもらったことはかってない」>
米国最高勲章である名誉章の受賞者が、五十五年を経て見直され、一名より二十名も追加され、二十一名の受賞者になった平成十二年(二〇〇〇年)六月二十一日に行われた名誉章授与式にてビル・クリントン大統領の言葉。
「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビユー 平成二十一年五月号 「日系二世部隊『第四四二連隊戦闘団』の足跡」 永井忠弘)
P一九一

我が国においても、大東亜戦争では多くの朝鮮人、台湾人の先人が日本国民として勇敢に戦い、そして、散華された。

我が国に長く生まれ住みながら、外国人として生き、
腐れヤクザの三割を占め、我が国国民の五・六倍もの割合で生活保護を得て、
それでいて、日本人と同等の権利を求める図々しい現在の朝鮮人の連中となんと大きな違いであろう。

民団はホームページには

「在日韓国国民として
大韓民国の憲法と
法律を遵守します」

と掲げている。

我が国に生まれ住みながら、その国の為に生きようとせず、
南北朝鮮に忠誠を誓う在日朝鮮人というものがどれほど異常な存在であるかよくわかる実例です。

 「花と兵隊」というドキュメンタリー映画が上映される。
http://www.hanatoheitai.jp/
監督は松林要樹氏。
私がお世話になっている築地の鮪仲卸「松長」の鵜野省吾氏の友人ということで、この映画の存在を知りました。
三年もの歳月をかけて撮られたこれらの映像、証言は貴重な我が国の歴史の一ページであると思います。
よろしければ、足をお運びください。

Hさん来店。二名様来店。Sくん来店。Sさん来店。横浜からAさん来店。
小胡子さん来店。Iさん来店。Kさん三名様で来店。
ドンチャン。記憶あり。


移民が国民から尊敬される条件(朝鮮人どもが我が国で軽蔑される理由)
平成25年11月25日月曜日晴れのち小雨 風つよし △
この秋に、台湾に行く機中でダニエル・イノウエ氏の「ワシントンへの道」を観ましたが、その中に麻生太郎元首相より贈られた「義務 名誉 祖国」と書かれた掛け軸をとても大切にしていたという場面があります。

その時に、「書かれている三つの言葉は、イノウエの父がよく言い聞かせていた言葉なんです。父と祖父からの言葉の重みを思い出していたんです」とイノウエ夫人が語っています。

イノウエ氏自身も「決してお国や家の名誉を傷つけるな」とお父上から言い聞かされたと語っています。
そのイノウエ氏が「敵性外国人」とされたことについて、
「米政府から国に仕える事が許されない敵性外国人とされました」
と述べています。

当然、イノウエ氏の言う「祖国」とは米国であり、その米国に対しての義務を果たすということです。
同様に先日の産經新聞に掲載された日系初の米太平洋艦隊司令官であるハリー・ハリス(Harry B. Harris Jr.)海軍大将の記事には日本人の母に教え込まれた「義理」 として下記のように書かれていました。

<その母に幼少の頃から教えこまれた価値観は「義理(duty)」。「6、7歳の子供が理解するにはとても重い概念だった」と話す。父が軍人だったこともあり、「国民は国家が必要とするときに奉仕する」ことを当然とする姿勢を身につけ、高校時代に海軍を目指すことを決意した。>
2013.11.18 21:産經新聞


日系二世であるブラジル空軍総司令官ジュンイチ・サイトウ大将も下記のように述べています。
「国のために働けることに喜びを感じている」
そして、同じ産經新聞の記事には
<就任あいさつで「日系ブラジル人であることを誇りに思う」と述べたときの思いを問うと、こう語った。
「日本人は裸一貫でこの国へ来た。働いても富につながらず、広大な農地で重労働に明け暮れても、子供の教育に強い関心と希望を持っていた。私も11歳で田舎から町の学校へ通った。一生懸命まじめに努力し働いたことで、日本人はブラジル社会で信頼を築いていった。そのことを私は誇りに思う」>
2011.4.1 20:07産經新聞
日本人を祖先にもつこれらの方々は、移民した国を「祖国」として、その国の為に尽くす。その国の為に働ける事を誇りにおもい、その「祖国」に殉じる覚悟を持って生きてきました。
だからこそ、信用もされ、信頼もされる。

朝鮮人のように、我が国において二世どころか三世、四世になっても、我が国に尽くそうともせず、我が国の為に働こうともせず、我が国の為に殉ずる事もなく、己らの権利だけを主張しているような輩は我が国国民から「寄生虫、ゴミ、クズ」と軽蔑される事はあっては、未来永劫、絶対に尊敬される事はない。

今日は部屋でカミさんと二人でワインを一本空ける。

サルでもエビでもない。


 


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