戦艦ミズーリにみる米国の海の武士道

戦艦ミズーリにみる米国の海の武士道
平成26年12月24日水曜日晴れ○ 表ホームページの日記より転載
戦艦ミズーリ(USS Missouri BB-63)は昭和十九年六月十一日にアメリカ海軍最後の戦艦として就役した。
初代艦長は Willian M. Callaghan(ウィリアム・キャラハン)であった。
その戦艦ミズーリに昭和二十年四月十一日、沖縄沖にて神風特攻隊の零戦が突入した。
以下、 「戦艦ミズーリに突入した零戦」可知晃著 光人社 平成十五年刊
より引用および加筆したものです。
その日のミズーリの日記より
<四月十一日
一四二二、一機の零戦が、右舷後方一二〇度、七五〇〇ヤードを海面すれすれに飛来してきた。右舷の五インチ砲が、一斉に砲門を開いた。
零戦が、六五〇〇ヤードの距離で命中弾を受けたため、煙を吹き出し、高度が下がってきたが、煙はすぐ消えた。四〇〇〇ヤードまでくると、再び命中弾を受け、大きな黄色い煙を吹き出した。
急速に高度が下がり始め、一瞬、海面に突入するように見えたが、再び機体を上げ、本艦に向かって飛び続けた。この距離まで来ると、五インチ砲に加えて四十ミリ、二十ミリ機銃も一斉に砲火を浴びせた。
それでもこの零戦は懸命に飛行し続けた。

著者注)突入寸前の写真では、右翼端が大きく削がれている。艦上に投げ出された翼の写真でも、無数の弾痕を認める事が出来る。ここまで、このパイロットが操縦してきた事は奇跡に近い。

今や、機体は炎に包まれ、高度を十分にとれなくなっていたが、そのまま本艦の右舷後甲板に向かってきた。激突する寸前、その機首が、若干持ち上がった。

著者注)艦橋を狙ったか、あるいは、その先の空母「イントレピット」を狙って最後の力を振り絞り、「ミズーリ」を飛び越そうとしたのか。二度目に「ミズーリ」を訪れ、艦上の現場で見つけた説明板で、「接近した零戦は、上昇しきれず」という表現を見つけた。

彼の左翼が真っ先に、「ミズーリ」の右舷後方フレーム一六九の舷側近くの上甲板から三フィート下に激突した。左翼が船体に接触した瞬間、機体の進行方向が変わって、機首が船体にぶつかった。
その瞬間、零戦の右翼がちぎれて前方に飛散し、艦橋下部のフレーム一〇二近くの五インチ砲まで飛んできた。
主翼内燃料タンクに入っていたガソリンが、甲板上にこぼれて発火した為、大きな黒煙が立ち上がった。周囲の艦はこの煙を見て、大被害が発生したと判断した。
熱と炎が、一時的に下部の機関室に空気を供給する排気口を塞いでしまったため、艦内に煙が充満した。そこそこに小火災が発生したが、すぐに消し止められた。
激突の瞬間、零戦の右翼の十三ミリ機銃が機体から離脱し、艦上のボフォース四十ミリ四連装機銃を直撃し、そのうちの一本の銃身に食いついた。>
p四十七〜四十八

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そして、艦上に残った特攻機搭乗員の御遺体は、艦長の命令により翌日水葬にされた。
suisou26.12.21
著者の可知氏はこの昭和二十年四月十一日に特攻機として出撃した零戦が第三御楯隊、第五建武隊であること。七二一航空隊神雷武隊桜花隊第四分隊長であった林不二夫元海軍大尉(海兵七十一期)との出会いにより、この日出撃した零戦のうち、十三ミリ機銃を二梃以上装備していたのは第五建武隊十三機の零式五二型丙(鹿屋基地)だけだった事により部隊が突き止められた。

第五建武隊
矢口 重寿 中尉  予備学生十三期
嶋立 毅  中尉  予備学生十三期
横尾 佐資郎 中尉 予備学生十三期
八幡 高明 上飛曹 乙種予科練十六期
宮崎 久男 一飛曹 乙種予科練十七期
市毛 夫司 一飛曹 乙種予科練十七期
竹野 弁治 一飛曹 乙種予科練十七期
西本 政弘 一飛曹 甲種予科練十一期
石野 節男 二飛曹 特乙種予科練一期
久保田 久 二飛曹 特乙種予科練一期
曽我部 隆 二飛曹 丙種予科練十六期
石井 兼吉 二飛曹 丙種予科練十七期
斎藤 義男 二飛曹 特乙予科練一期

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第五建武隊の写真は「神雷武隊始末記」加藤浩著 学研 平成二十一年刊より
林不二夫元海軍大尉は他にも手元にある「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊)、「神雷武隊始末記」加藤浩著 学研 平成二十一年刊 にも貴重な証言が掲載されています。

この建武隊は、本来は特攻機「桜花」の搭乗員として、訓練を受けてきた「神雷部隊」であった。
桜花は、野中少佐の反対にもかかわらず、直掩戦闘機の少ないまま集団での出撃となった第一陣の野中隊は全滅により百六十名もの戦死者を一度に出した。その後、爆装零戦による併用も行われる事になり建武隊と名付けられた。

昭和二十年一月、特別攻撃隊員は、士官の場合、突入に成功すればこれまで通り二階級特進、下士官は一律少尉に、兵は一律兵曹長に特進させる事になった。この制度は第一回の敷島隊まで遡って適用されている。

戦艦「ミズーリ」艦長ウィリアム・キャラハンは下記のように言ったそうです。

「この日本のパイロットは、我々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても、今は違う。
激しい対空砲火や直衛戦闘機の執拗な攻撃をかい潜って、ここまで接近してきたこのパイロットの勇気と技量は同じ武人として賞賛に値する。
よって、このパイロットに敬意を表し、明朝水葬にしたい」

乗組員の大半から、激しい非難と不満の声が上がりました。
しかし、キャラハン艦長は断固としてその命令を変えませんでした。
その夜、遺体の当直を命じられた三人の通信兵は、白いシーツに赤い日の丸を描いて日章旗を造り、これで遺体を包んでくれました。
翌朝、手空き総員が甲板に集まり、五発の弔銃と、艦長以下下士官の挙手の礼とともに、このパイロットの遺体は静かに海中に滑り落されました。
P四十四〜四十五

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戦艦「ミズーリ」艦長Willian M. Callaghan(ウィリアム・キャラハン)は一八九七年八月八日サンフランシスコで生まれた。七歳年上の兄の後を追って、一九一五年、アナポリス(海軍兵学校)に入校した。一九四四年一月に就役した戦艦「ミズーリ」初代艦長に任命された。朝鮮戦争では、太平洋艦隊司令長官になり、一九五七年に海軍中将で退役するまで、極東地域最高司令官を務めた。
一九九一年七月八日、九十三歳でその生涯を閉じた。
沖縄戦の三年前に巡洋艦「サンフランシスコ」艦長であった実兄Daniel Judson Callaghan(ダニエル・キャラハン)少将を第三次ソロモン海戦で失っていた。
それゆえ、この事態におけるキャラハン艦長の私情、私怨を越えた、武人としての信条、人間の大きさに感服せざるをえない。

四月十二日に行われた水葬の日の午後、「ミズーリ」は再び特攻機による猛攻を受けた。

隣接していた空母「イントレピット」から撮った写真
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NHKはこの戦艦「ミズーリ」に突入した零戦を特集している。その中で、元戦艦武蔵乗組員佐藤健輔氏、元米国陸軍軍曹エドウィン・カワハラ氏の尽力により石野節男二飛曹の可能性が高いと紹介されていた事を記しています。P九十九〜百一

これを見た可知氏はNHKチーフ・プロデューサーの高井孝彰氏を通じ、ワシントンの国立公文書館にある米国機動部隊側の戦闘詳報などの資料を入手することができた。

カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 1/4

カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 2/4

カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 3/4

カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 4/4

戦艦「ミズーリー」はその後、ひとりの戦死者も出すことなく終戦を迎え、その艦上で我が国代表団が降伏文書の調印式を行った。

「神雷武隊始末記」には第五建武隊の出撃として下記のように書かれています。

<三日間降り続いた雨もようやく四月十一日に上がると、この日が最終日となる「菊水一号作戦」が再開された。
略)
まだ夜明け前の〇三〇〇に彩雲と彗星夜戦四機が黎明索敵に出発。〇六四五から〇七〇〇にかけてさらに彩雲六機、彗星三機が出発した。
〇九三〇、第二弾の索敵機より「喜界島南方七〇浬の沖縄海域で空母二隻、特空母一隻、戦艦三隻を含む大機動部隊」発見
略)
この日神雷武隊の出撃は、矢口重寿中尉(予備十三期)を隊長とする五〇番爆戦第五建武隊十六機で、一時間以上遅れた一二一五から一二二四にかけて鹿屋基地を出撃、第一目標の喜界島に南方の機動部隊に向かった。
この第五建武隊の行動に関しては、既に複数の研究者によって詳細な調査と検証がなされており、『戦艦ミズーリに突入した零戦』(光人社)が出版されている。しかし、この著者の可知晃氏は、編隊が奇数番と偶数番どうしで組まれる(一番機と三番機、二番機と四番機)という基本的な原則をなぜか見落としており、このため氏の推測された機体と搭乗員の照合に一部誤差が生じている
略)>
P二百六十一〜二百六十二

このように書いているが、駆逐艦キッドへの突入は各氏とも矢口重寿中尉としている。
YAGUTISYOUI26.21.2

駆逐艦キッドへ突入した矢口重寿中尉の御遺体は他の米軍乗組員とともに水葬にされたそうであるが、頭部は下記のような扱いを受けたことは以前に書きました。

<駆逐艦キッドの戦友会にて
以下引用
「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」
「どういう意味ですか?」
「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。
この老人は私の顔を見ながら言った。
「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。
この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。
戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。
その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)
日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。
実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。
ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。
この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。
大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。>
引用終わり
「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) p二百五十一~二百五十二

<キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。
バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた>
「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) P六七

「戦艦ミズーリに突入したこのキャラハン艦長を戦死されたと書いてあるアホな頁もありましたし、それをそのまま引用しているバカもありました。

http://91683924.at.webry.info/201211/article_3.html

まとめ安倍速報

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/39033298.html

参考文献
「戦艦ミズーリに突入した零戦」可知晃著 光人社 平成十五年刊
「神雷武隊始末記」加藤浩著 学研 平成二十一年刊
「特攻パイロットを探せ」 平義克己著 扶桑社 平成十七年刊