このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

飲んべえ日記平成20年10月分

10月31日金曜日晴れ ××××××
 バンブーさん来店。二名様来店。広子さん二名様で来店。小胡子さん来店。二名様来店。二名様来店。K@京城さん来店。Tさん来店。Tさん来店。マロさん来店。
 ドンチャン。記憶無し・・・・サル
 サルはサルでも、今日は前回の「サル」ではなく、どういうわけか、美丈夫の「ネズミ」さんがカウンターのまん中に移動していた。全然覚えていない・・・・

特攻隊の笑顔
10月30日木曜日晴れ
 ××××××
 このドラマの副題に
 「少女達だけが見た特攻隊封印された23日間」となっているこの二三日間とは、永崎笙子さんの日記が昭和二〇年三月二七日から四月一八日まで書かれたものがすべてであるからです。
フジテレビ報道番組部プロデューサーの成田一樹氏はホームページで、
「笙子さんには当時の日記を読ませて頂いたのですが、そこには、今まで伝えられてこなかった特攻隊員の姿が克明に書かれていて胸を打たれました。」と書かれているが、その日記の全文は、手許にある「知覧特別攻撃隊」にも女史勤労奉仕隊員の記録と題され掲載されていますが、永崎さんの日記に克明に描かれていると成田氏がいう「今まで伝えられてこなかった特攻隊員の姿」とは一体なんなのでしょう。
 永崎さんの日記のどこにも泣叫ぶ本島少尉の姿も、悩む穴沢少尉の姿も描かれていません。あるのは、出撃の四月一二日に「一生懸命お別れのさくら花を降ると、にっこり笑った鉢巻き姿の穴沢さんが何回と敬礼なされる。」と描かれた穴沢少尉は、あの有名な、桜の枝で見送る知覧高等女学校生徒に対して、笑顔で敬礼しながら爆装一式戦「隼」にて出撃する姿です。本島少尉は「四月八日 本島さん、椿とつつじの花をくださる。今頃つつじの花がと皆で珍しがって松の木にさす。これが枯れたら本島さんが出撃なさって体当たりなさったときよと話し合ってさす。」そして、出撃の四月一六日には「 自分達の受持ちの方々を探していると本島さんひょっこり『おはよう』と声をかけられる。『六九振武隊集合!』と本島さん。皆集まられて最後の話にふけることしばし。本島さんは隊長さんに戴いた菊水の鉢巻きをしていらっしゃる。散りかけた八重桜を差し上げると大変喜ばれた。二つのマスコットのうち一つを愛機に、一つを飛行時計へぶらさげられたとのこと。」と日記に書かれています。
 本島少尉は出撃前に、「四月一四日 知覧女学校ニ金二〇〇円寄フス 校長感激シ特攻神社ヲ作ル由ニテ 我々ノ方ガ カヘツテ感激セリ」と自身のノートに遺しています。それだけでなく、永崎さん宅へ寄り、学費にと金三八円を置いていっています。私は、これらから思い浮かぶのは必死の特攻に臨むにあたってもなを感謝を忘れず、そして、他人を思いやる心を持つ優しき武人の姿です。

 元にしたという日記に書かれている事を無視するばかりでなく、書かれていない事を捏造までするこのフジテレビの意図はなんなのでしょう。 何度も書かせていただきましたが、特攻という作戦そのものについてはいろいろあるでしょうが、その作戦に武人として殉じた先人たちを屈辱する事は許されません。
 小林氏の書かれている<特攻隊員にもそれぞれ将来の夢があり、生きたいという気持ちはあった。当然である。だが人間には私人生と公人生があり、ぎりぎりの状況で私心を捨て、公心を選んで死んでいったものが特攻隊員である。>という言葉は重く、そのような先人の命により今の我々が生かされているということを忘れてはならないと思います。
 私は、このテレビ番組の制作スタッフは、自分もこうだから、きっと特攻隊員もそうに違いないと思い込んだのかもしれませんが、それは、先人の崇高な行い、思い、境地を認めぬという他人を見下したいかにも腐れマスコミのらしい考え方です。そんな連中が作ったドラマがこのドラマだったのです。
 参考および引用
 SAPIO平成二〇年一〇月二二日号 小林まこと「ゴーマニズム宣言」P五九〜六一
 「いざさらば我はみくにの山桜」(靖国神社 平成六年)P八〇〜八二
 「知覧特別攻撃隊」(村水薫 ジャプラン 一九八九)P七六〜八八



 このフジテレビのドラマはその他に、知覧の特攻の母と言われて有名な鳥濱トメさんについても非常に無礼な描き方をしているそうです。

 ケイザブロウさん、白石さん来店。二名様来店。二名様来店。大台さん二名様で来店。美丈夫の蔵元さんである濱川社長来店。Iさん来店。「なでしこ隊」のCDを持ってきてくださる。ありがたい。恭子さん来店。
ドンチャン。サル・・・・・


本島圭一大尉
10月29日水曜日晴れ △

 私の手元にある「いざさらば我はみくにの山桜」(靖国神社 平成六年)と「知覧特別攻撃隊」(村水薫 ジャプラン 一九八九)には本島圭一少尉(二階級特進後大尉)と、永崎笙子さんの日記が掲載されている。本島少尉については下記のように書かれています。
 長野県出身
 陸軍特別操縦見習士官一期
 大正一二年三月一二日生まれ
 昭和二〇年四月一六日没
 昭和二〇年四月一二日、特別攻撃隊「第六九振武隊」隊員として「九七式戦闘機」に搭乗、知覧基地を出撃のため地上滑走中、爆弾落下により離陸できず一六日再出撃、沖縄周辺洋上にて戦死。
 本島少尉が遺したノートには、御両親や兄姉宛てのご遺書が書かれているが、その最後に記した略歴の中で、
 一四日 知覧女学校ニ金二〇〇円寄フス 校長感激シ特攻神社ヲ作ル由ニテ 我々ノ方ガ カヘツテ感激セリ

 (注 本島少尉は同校長宅を訪ねる前、同校三年生で、女子勤労奉仕隊員として特攻隊の世話をされた永崎笙子さん<旧姓・前田)宅へ寄り、笙子さんの学費にと金三八円を置いていった)

 一六日 午前六時 知覧飛行場ヲ出発 沖縄着九時頃 敵艦ト見參ノ予定
     
 大日本帝国万歳
 元気テ行カウヨ沖縄島ヘ敵艦メカケテ体当リ
 花ノ都靖国神社ノコスエニ咲ヒテ会ウヨ
 至誠 本島
 (注 この四文字は血書)
 と、一二日出撃できなかった無念さと、一六日晴れて出撃できる喜びを記している。

 永崎笙子さんの「特攻日記」は、このテレビ番組を製作した「ジン・ネット」のホームページに二三日間の記録とあるように、昭和二〇年三月二七日から四月一八日まで書かれた二三日分の日記が総べてです。「知覧特別攻撃隊」にはその二三日分の日記が、現代語訳ですが、全文掲載されています。その本島少尉出撃前後の様子がフジテレビのホームページでは、三月一九日、四月一一日、四月一二日の三日分の日記の一部が紹介されている。たとえば、四月一一日は下記の部分のみ引用掲載されている。
<四月一一日
壮行会にて
「空から轟沈」のうたを唄ふ。ありったけの声でうたうつもりだつたが何故下か声がつまつて涙が溢れ出て来た。森さんと「出ませう」といふて弊社の外で思ふ存分泣いた。
私達の涙は決して決して未練の涙ではなかったのです。明日はあの世へと敵艦もろともなくなられる身ながら今夜はにつこり笑つて酔ひ戯れていらつしやる姿を拝見したとき、ああこれでこそ日本は強いのだとあんまりにも嬉しく有難い涙だったのです。
岡安さん、酔うて自動車にぶら下がつてお礼を言われる。何と立派な方々はかりでせう。森さんと抱き合つて泣いた。>

ところが、この同じ一一日の日記だけでも、その前に
<午前中、洗濯、縫物、掃除をすませて食事の後片付けを終え、午後から同部隊の特攻機が五機つく筈なので迎えに行く。戦闘指揮所で隊長、本島、岡安、酒井さんと共に待つうち二機着陸する。隊長さんはことのほかお喜び、二人の部下の方々も大変喜んでおられた。今から出撃までお世話になるからと挨拶をなさる。
「明日出撃だ。おまえたちもくる草々征くか」とおっしゃると「一緒に征きます」と元気な声でおっしゃる。
 その晩、二〇振武隊、六九振武隊、三〇振武隊のお別れの会が食堂であった。特別九時まで時間をもらって給仕をする。
前に隊長さん住所を書いてやるから家に出撃したことを知らせてくれとお願いされていたことを思いつき、酔っていらっしゃったけど住所をお聞きする。酒臭い息を吹きかけながら優しく書いてくださる。>
とこれだけの文章が書かれている。
そして、この箇所にはフジテレビのドラマでは一切描かれなかった本島少尉が慕っていた池田亨少尉の事が書かれている。

 同じく、番組ホームページには一二日の日記として、
<本島機が遅れて目の前を出発線へと行く。と隊長機が飛び立つ。続いて岡安、柳生、持木機、九七戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにっこり笑った操縦者がちらっと見える。二〇振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。一生懸命お別れのさくら花を降ると、にっこり笑った鉢巻き姿の穴沢さんが何回と敬礼なされる。
 パチリ・・・・後ろを振り向くと映画の小父さんが私達をうつしている。特攻機が全部出ていってしまうとぼんやりたたずみ南の空を何時までも見ている自分だった。何時か目に涙が溢れ出ていた。>の部分が掲載されているが、その池田少尉との出撃する一二日の永崎笙子さんの日記には、
<四月一二日
 今日は晴れの出撃、征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。途中「空から轟沈」の唄の絶え間はない。先生方と隊長機の擬装をとってあげる。腹に爆弾をかかえた隊長機のプロペラの回転はよかった。本島さんの飛行機もブンブンうなりをたてていた。どこまで優しい隊長さんでしょう。始動車(発進の時にプロペラの回転が自動でできない機のためのもの)にのせて戦闘指揮所まで送られる。うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのって振り向いていらっしゃる。桜花に埋まった飛行機が通り過ぎる。私達も差し上げなくてはと思って兵舎へ走る。途中、自転車に乗った河崎さんと会う。
 桜花をしっかり握り一生懸命駆けつけた時は出発線へ行ってしまい、すでに滑走しようとしている所だ。遠いため走って行けぬのが残念だった。
本島機が遅れて目の前を出発線へと行く。と隊長機が飛び立つ。続いて岡安、柳生、持木機、九七戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにっこり笑った操縦者がちらっと見える。二〇振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。一生懸命お別れのさくら花を降ると、にっこり笑った鉢巻き姿の穴沢さんが何回と敬礼なされる。
 パチリ・・・・後ろを振り向くと映画の小父さんが私達をうつしている。特攻機が全部出ていってしまうとぼんやりたたずみ南の空を何時までも見ている自分だった。何時か目に涙が溢れ出ていた。

 何も話す気はせずみんなで帰ろうとすると、本島、渡井さん、
本島さんは男泣きに泣きながら・・・・・「どうしたの」とお聞きすると「今日ね、爆弾が落ちて行かれなかった。隊長さんのところへ行くと(本島、後からこいよ。俺はあの世で一足先に行ってまっておるぞ)と言われただ。思わず残念で隊長機の飛び去っていった後、一人で思う存分泣いた」とのこと。渡井さんも「本当にすみませんでした」と涙ぐんでいらっしゃる。私達も今までこらえていた涙が一度にこみあげてみんなで泣いた。その夜、隊長さんのお通夜だと言って酒も飲まれず、今日いらっしゃった堀井さんが冗談をおっしゃっても只ぼんやりときいていらっしゃるだけだった。「本島、本島」と部下愛の深かった隊長さんを思い出すと泣けるから黙っていてくれとおっしゃる。
 立派な隊長さんと一緒に体当たり出来得ず又第二次総攻撃に参加できなかった事が残念だったことでしょう。>と黄色の部分のみ掲載され、同じく池田隊長と出撃できなかった事を残念がる本島少尉の様子が書かれた部分が掲載されていない。

 

 本島少尉が遺したノートにも、御両親や兄姉宛てのご遺書が書かれているが、その最後に記した略歴の中で、
 <一二日 第二次沖縄総攻撃ノ命下ル 小官地上滑走中 爆弾落下ノタメ離陸出来ス、 隊長殿ト共ニ出発デキス実ニ残念至極
 誓ひてし心は同じ心にておくれ身こそ悲しかりけり>
と、小林氏が書かれている池田隊長と出撃できなかったことを残念がる記述がある。

 これも、小林氏が指摘されているように、ドラマでは、この池田隊長の事も本島少尉がこの隊長と一緒に死ねなかったことを残念がっていたことも描かれていない。もちろん、フジテレビのホームページにも紹介されていないが、永崎笙子さんは日記に本島少尉の人柄について下記のように書いている。
<四月一四日
 今朝、食事の後片付けをしてから、書置、辞世を書いて戴く。帰りの自動車の中で敵撃滅のうたを唄う。夜空を仰いで亡くなられた方々を偲ぶ。誘導路を走ることしばし・・・・途中整備の方々が飛行機に取り組んで整備に余念なく、機は青い火をふいて回転していた。本島さんはその方へいちいち敬礼される。整備の方へ有難うの感謝の敬礼をされる操縦者。又、一生懸命故障なく明日の出撃にそなえて徹夜までする整備の方々。私達はそれを目前に見て、これだからこそ日本の兵隊さんはえらいんだと思うことだった。>

 そして、ドラマで出撃の前日の四月一五日に永崎さんが本島少尉と会い、目撃したシーンとして、
<本島少尉は四月一六日に再出撃して戦死する。ドラマではでは前夜、本島少尉が笙子一人に夜の校舎で会っている。
 しかも本島少尉が黒板を叩いて泣き叫ぶシーンが描かれているのだ!>
<それを見て笙子は思う。「三週間前、私たちは軍神と讃えられた特攻隊員の御奉仕にただ興奮していました。けれども基地には神様はいませんでした。」
・・・・これがドラマのクライマックスである>
(SAPIOの小林氏の漫画の文章より引用)
とされた永崎さん四月一五日の日記は、下記のようになっている。
<四月一五日
 明日の出撃にそなえて大変忙しい。遺品のつつみかた、後片付け、お掃除等。本島さんよりお願いされてマスコット人形を二つ差し上げる。明日は隊長の後を追ってあの世に行けると大変喜んでいらっしゃった。本島少尉様は小さい時お母様を失われた方だそうで、私にも母がないことを知って大変同情してくださった。「母なき後は母がわりとなってよき姉として強く生きるんだよ」と教えてくださった。慰問団くる。>
と、これだけが記されている。ドラマにあるような本島少尉の姿はない。あるのは、特攻という必死の前にも思いやりがあり、そして毅然たる態度の武人の姿である。そのりっぱな姿は、出撃当日の四月一六日の日記にも伺える
<四月一六日
 今日はいよいよ出撃だ。朝四時、森さん迎えにくる。飛行場まで特攻隊の方と自動車に乗って行く。胸に殉職された方の遺骨を抱いて悲しい顔ひとつなさらず「男なら」「同期のさくら」のうたをうたっていらっしゃる。今朝に限ってどのうたも悲壮にきこえてならない。白鉢巻きに白きマフラー、りりしい姿のお兄様方が戦闘指揮所前に並んでいらっしゃる。みな同じ服装で暗くてよくわからない。自分達の受持ちの方々を探していると本島さんひょっこり「おはよう」と声をかけられる。「六九振武隊集合!」と本島さん。皆集まられて最後の話にふけることしばし。本島さんは隊長さんに戴いた菊水の鉢巻きをしていらっしゃる。散りかけた八重桜を差し上げると大変喜ばれた。二つのマスコットのうち一つを愛機に、一つを飛行時計へぶらさげられたとのこと。自動車で出発線のところまでいかれる。渡辺さん見えなくなるまでハンカチを振られる。滑走をはじめた飛行機がつぎつぎと離陸する。東の空が少し白みかけたころだった。薄暗い中にもはっきりと「もとしま」と書いた飛行機が飛び立つ。「アッ本島さんだ」と思うとすぐ「わたい」そして堀井機が飛ぶ。三機編隊を組んで飛んで行く。堀井機がものすごく低空をとぶ。思わず冷や汗が出る。最後までお送りして兵舎へ帰る。しかし何時までも何時までもぼんやりと考えこむ。日の出と共に最後の基地を飛び去って征かれた神鷲の御成功を祈りながら。今朝の感激を語り合っていると山下少尉一人帰っていらっしゃる。「すみませんでした」と紙片を渡される。五名(渡辺、堀井、渡井、中山、山下)の名が記されてある。これだけ五名ゆかれなかったんだ。そうすると征かれた方は本島さんと・・・・河村さん・・・・どんなことがあっても今日は征くと言っていらっしゃった御二人。午前九時半、本島、河村さん無事体当たりなさった頃、南へ向かって黙とうを捧ぐ。今でも元気な声で「空から轟沈」を唄う本島さんの声が聞こえるようだ。>

 この日記を基にしたというドラマにしては、私はあまりにも本島少尉の実像と懸け離れたものであると思わざるを得ません。<「公心」を示す資料は無視し、「私心」で出撃前夜に泣叫ぶ姿を創作(ねつ造)までして、「基地に神はいなかった」と言う。サヨク・イデオロギーで、事実をねじ曲げ、特攻隊員を愚弄しているのだ!>という小林氏の御指摘が正しいと私は思います。
続く

 午後よりスポーツセンターに行くが、かったるく、集中できないので、軽いメニューを消化して終わる。
 一名様来店。小胡子さんMさんと来店。Kくん秘書のTさんと来店。Mさん二名様で来店。Sさん来店。マロさん来店。
 今日は軽く飲む。

フジテレビ「戦場のなでしこ隊」について
10月28日火曜日晴れ ×

 右の写真は、特攻隊の出撃場面を写したものとして、有名な一枚です。桜の小枝を手に見送りをしているのは、知覧高等女学校のみなさん。そして、一式戦隼に搭乗し、敬礼し笑顔で答えているのは
穴澤利夫少尉(二階級特進後大尉)です。
 SAPIO一〇月二二日号において、小林よしのり氏が、この写真がもとになり製作されたという九月二〇日に放送されたフジテレビのテレビ番組「戦場のなでしこ隊」について、その製作姿勢を批判していました。
 そのフジテレビの番組ホームページには、下記のような事が書かれている。
http://www.fujitv.co.jp/nadeshiko/index2.html

<当時の新聞は、こう書いた。
「特攻隊員たちは、みんな笑顔で出撃していった」と─。
しかし、少女たちが目撃したのは、出撃にとまどい苦しむ特攻隊員たちの、壮絶なる葛藤の日々だった。「なでしこ隊」の生存者であり、鳥濱トメさんとも親交の深かった
永崎笙子さんの証言と、当時の貴重な日記を元にドラマ化。
ドキュメンタリーを織り交ぜながら、少女たちだけが見た封印され続けた特攻隊の真実に迫る。
_ フジテレビ報道番組部・成田一樹プロデューサーから
「2年前、特攻機を女子生徒が見送る一枚の写真をスタッフが見つけたことが取材のスタートでした。そこで、笙子さんとお会いし、『なでしこ隊』の存在を知ったのです。笙子さんには当時の日記を読ませて頂いたのですが
、そこには、今まで伝えられてこなかった特攻隊員の姿が克明に書かれていて胸を打たれました。
笙子役を演じる成海さんには、悲しく切ないなでしこ隊の胸の内を本当に自然に演じてもらっています。本番組では、誰にも言ってはいけないと命じられた
少女たちが見た特攻隊員の真の姿を、ドラマとドキュメントを織り交ぜ伝えてゆきます。 単なる戦争の「記録」に留まらない、少女たちの「記憶」に基づいた番組です。」
_ 永崎笙子(旧姓・前田)さんから
強烈な体験と当時の日記がなかったら、これほどはっきりとは記憶できていないと思います。この番組を通じて、多くの方々に63年前の真実を知って頂ければ幸いです。それが、私たち残された者の心からの願いだからです。
成海璃子さんは現代に生きる15才ですから、戦争体験を想像するのは難しいと思いますが、精一杯演じて頂ければ、ありがたいです。


あらすじとして、

<略)
基地に足を踏み入れた笙子たちは特攻隊員らの殺気立った様子に、ただならぬものを感じる。だが、次から次へと基地に送り込まれ、慌しく出撃の時を迎える特攻隊員たちを前に、皆別れを悲しんでいる間などなかった。
新しい部隊の到着とともに現れた上官(勝村政信)は、基地の存在が極秘事項であることを告げる。もし口外すれば、スパイ容疑で逮捕するというのだ。さらに「基地内で、涙を見せるな」と命じられる。笙子は、何か大きな力に巻き込まれていくような、漠然とした不安を感じ、基地での日々を日記に残しておこうと思い立つ。

同じ頃、富屋食堂の店主・鳥濱トメ(薬師丸ひろ子)もまた、特攻の悲劇に呑み込まれようとしていた。軍の指定食堂だった富屋食堂には、多くの特攻隊員たちが訪れるようになったのだ。極秘の任務のため、自分が特攻隊員であることを、家族にさえ告白することが出来なかった特攻隊員たち。トメは、そんな隊員たちの誰にも見せられない悲しみを、母親代わりとなり、受け止めるようになっていた。
穴澤利夫少尉(山根和馬)もそんな隊員の一人だった。英国製の洒落たマフラーをしていた穴澤は、5度の出撃に失敗、上官から厳しく叱責されていた。実は、穴澤には婚約したばかりの恋人があり、彼女に伝えることもないままに、知覧に来たのだった。穴澤が肌身離さず身につけていた女物のマフラーはその婚約者のものだったのだ。
当時、「笑って出撃する」と伝えられていた特攻隊員・・・だが、彼らはそれぞれに家族や恋人といった大切な人たちとの別れの悲しみを押し殺していたのだった。
基地での日々を重ねるにつれ、笙子もまた、次第に特攻隊員たちの隠された姿を知るようになっていた。笙子が、本島桂一少尉(成宮寛貴)と出会ったのは、そんな時だった。
出撃の覚悟の固い本島は、残された人々の命を守るためには、自らの命を差し出すしかない、そう考えていた。だが、そんな本島も実は、誰にも打ち明けられない苦悩を抱えていたのだ。
しかし、それぞれがどんな事情を抱えていようとも、特攻隊員たちの出撃は、刻一刻と迫って来ていた─。 >

 
なでしこ隊と特攻隊として、
<当時、なでしこ隊のリーダーだった永崎笙子さんは、知覧基地での23日間の体験を日記に綴っていました。
その名は…「特攻日記」。
「特攻隊員の皆さんのことを、決して忘れてはならない」
そう誓い、書き残した少女の「記憶」―。
15歳の少女だけが見た特攻隊の真実が、63年の時を経て、初めて明かされます。朝お洗濯物をして午后ちよつと兵舎の掃除をしたついでにお話しを承る。大櫃中尉・・・
「空から轟沈」のうたを唄ふ。ありつたけの声でうたふつもりだつたが何故か声がつまつて・・・
本島機が後れて目の前を出発線へと行くと隊長機が飛び立つ。つづいて岡安、柳生・・・
_永崎笙子さんコメント
「強烈な体験と当時の日記がなかったら、これほどはっきりとは記憶できていないと思います。この番組を通じて、多くの方々に63年前の真実を知って頂ければ幸いです。それが、私たち残された者の心からの願いだからです。」>

 つまり、「ドキュメンタリーを織り交ぜながら、少女たちだけが見た封印され続けた特攻隊の真実に迫る。」、「本番組では、誰にも言ってはいけないと命じられた少女たちが見た特攻隊員の真の姿を、ドラマとドキュメントを織り交ぜ伝えてゆきます。 単なる戦争の「記録」に留まらない、少女たちの「記憶」に基づいた番組です。」「この番組を通じて、多くの方々に63年前の真実を知って頂ければ幸いです。」「15歳の少女だけが見た特攻隊の真実が、63年の時を経て、初めて明かされます。」
と、「実録ドラマ」ということを強調しているが、小林氏は「悪質なデマで作られた詐欺ドラマなのだ!」とSAPIOに書いています。

 私は、この放送を見ていないので、テレビの放送内容はあくまでSAPIOの小林氏の漫画掲載されていた文言よりの引用とさせていただきます。
<本島少尉は四月一六日に再出撃して戦死する。ドラマではでは前夜、本島少尉が笙子一人に夜の校舎で会っている。
 しかも本島少尉が黒板を叩いて泣き叫ぶシーンが描かれているのだ!>
<それを見て笙子は思う。「三週間前、私たちは軍神と讃えられた特攻隊員の御奉仕にただ興奮していました。けれども基地には神様はいませんでした。」
・・・・これがドラマのクライマックスである>

 小林氏はこのドラマが参考にしたという「特攻の町・知覧」(佐藤早苗著)を読んで、本島少尉と笙子氏のドラマで描かれた人格が違うと。
 <笙子氏は特攻隊を「神鷲」と呼んでいるし、本島少尉はそんな弱い男ではない!>と書き、<本島少尉は自分のお金を知覧女学校に寄付して、隊長の後を追って喜んで飛び立っていった!>
<男の中の男という感じで、女の前で未練がましく泣くような男ではない!>
として、
 <出撃当日、本島少尉はこう記している。
 「大日本帝国万歳
 元気テ行カウヨ沖縄島ヘ敵艦メカケテ体当リ
 花ノ都靖国神社ノコスエニ咲ヒテ会ウヨ
 至誠 本島」
 最後の四文字は血書である。しかし、この遺書も、ドラマでは完全に無視している。特攻隊員にもそれぞれ将来の夢があり、生きたいという気持ちはあった。当然である。だが人間には私人生と公人生があり、ぎりぎりの状況で私心を捨て、公心を選んで死んでいったものが特攻隊員である。その崇高な精神を「神」として顕彰し、靖国神社は祀っているのだ。>
<フジテレビのこのドラマは、「公心」を示す資料は無視し、「私心」で出撃前夜に泣叫ぶ姿を創作(ねつ造)までして、「基地に神はいなかった」と言う。サヨク・イデオロギーで、事実をねじ曲げ、特攻隊員を愚弄しているのだ!>
と書いています。
 私もそのとおりだと思い、手許にある本から引用し、本島圭一大尉(二階級特進後)、穴澤利夫大尉(同じく二階級特進後)について少しこの日記に書きたく思います。

続く。

 四名様来店。Sくん来店。小胡子さん来店。Oさん御夫妻来店。
 ドンチャン。どっかに頭をぶつけたみたいですが、全然覚えていない。当然、今日も記憶無し。サル、申、猿・・・・・・・・


10月27日月曜日 晴れのち一時雨 △
 午後より銀行に行った後に古本屋さんに寄るが、今日は購入したい本もなくそのまま帰る。夕方に店に寄り、瓶などの資源ゴミを出す。(いつもだったら、水曜日に夕方に近くの別の回収場所に出す)
 午後七時より、ワインで随分前からお世話になっている埼玉の酒屋さんの「
中田屋」御主人の小久保さんご夫妻と梅ちゃんという四人で、阿佐ヶ谷の御寿司さんにおじゃまする。ここのお寿司屋さんの御主人にはSさん、マルガリーターさんを通じて何度もお会いしているが、お店に伺うのは今日がはじめて。持ち込みをさせていただいたお酒は四合瓶四本。
 いろいろ酒がすすむ肴をだしてくださり、お寿司屋さんなのに寿司に到達する前に、お腹というか気分がいっぱい。梅ちゃんも私も石鰈の胆汁のおつまみには驚き。
 電話ではワインの事で相談によくのっていただいている小久保さんですが、お会いするのは、随分前に埼玉の「
花菱」の蔵元・清水酒造さんに連れていっていただいた時以来で久しぶり。
 清水社長に助けられ、飼われていた三羽の白いカラスも一羽だけになってしまったそうな。

 「中田屋」さんには当店のお客様(元?)が二人も迷惑をかけている。グランジ八二を六本も注文しておきながら、そのままバックれているヒト。同じくグランジ六五年を注文しておきながらバックれているヒトがいて、過去に非常に御迷惑をかけている。
 まあ、当店でも「あっ、このワイン、飲むから取っといて」と言いながら、ず〜と銭も払わずに何年もおっぽいといて、平気な人がいます。
 結局、そういうワインは、何年もとっておいた後に、別のお客さまに飲んでいただくことになる。
 
 高円寺のお店二件におじゃまする。帰りは新宿駅から今日は最終電車でした。


10月26日日曜日くもり ○
 午後よりスポーツセンターに行く。今日はメニューを最後の有酸素運動までほぼ三時間ビッシリと消化。
 高田馬場の芳林堂サンに寄り、雑誌など三冊購入後帰宅。
 飲まず。

10月25日土曜日晴れ ×
 心配していたが、五・四キロのアンコウを競り落としたという連絡が、中卸しの一吉社長より朝、電話があり、一安心。今の時期としてはキモも大きく、胃袋の中にも少しだけ小魚が入っていた程度で、上々。
 一名様来店。香港から姫、千鶴子さん、美佳さん来店。マルガリータさん、Sさん、愛さんと合流して、アンコウ鍋でドンチャン。Kさん、Sさんなど四名様もアンコウ鍋でドンチャン。遅い時間にMさん二名様来店。
ドンチャン。記憶あり。

知らなかった
10月24日金曜日雨 ×

 河岸の新大橋通りの交差点で信号待ちをしていると、「築地インフォメーションセンター」と言う看板が。その下に「築地ガイドツアー」というのもありました。長い事築地に通ってきてますが、こんなのが、あるのは知りませんでした。まあ、確かに、私は商売を始めてから築地に通いだしましたが、最初の頃とえらいちがいです。
 店を始めた頃は、友達が遊びに来たときなど、アパートに泊まって一緒に築地に仕入れにいった後、場内の寿司屋さんで食ったりできましたが、今は大勢の観光客?が列んでいて、とても食う気にはなれません。
 テーマパーク状態です。まあ、そのおかげで、売り上げが伸びているお店も多いですから、いいのでしょう。
 なかには勝手に魚触ったりするアホもいて、大卸し、中卸しの人たちからはめちゃ評判が悪いですけど・・・・・
 ホームページもあるみたいです。ただ、ホームページで<その中でも「築地魚河岸ガイドツアー」は、普段はプロしか入れない築地市場の魅力を、多くの方々に「見て・触れて・知って」もらうためにご用意しました。>と書いてありますが、今や建て前だけというのは多くの人が知っているからこそ、競り場や場内でいろいろなトラブルがあるわけで・・・
 
 一名様来店。Hさん六名様で来店。Oさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。マロさん来店。Nさん来店。
今日もドンチャン。珍しく、記憶あり。



バナナダイエット
10月23日木曜日くもりのち雨 ○

 今日、河岸からの帰りに茅場町駅の売店で。
 三紙がそれぞれ「星野WBC監督固辞の真相」(ゲンダイ)「WBC監督就任を辞退した真相はコレだ!」(東スポ)「星野WBC監督ドタキャン真相」(フジ)と少しずつ違うが、いずれも星野氏のWBC監督関連。星野氏は今回の北京オリンピックでの惨敗の後の態度で男を下げた形になっています。



 今日、夕方に近所のスパーマーケットに買い物に行くと、前に来た時にはあった「お客様へ テレビ放映の影響により、バナナの入荷が困難になっております。」という表示が無くなっていた。
 私は、どうしてバナナの入荷が困難になっているのか週刊誌の記事を読むまで知りませんでした。
 以前に納豆も同じような騒ぎになった事を思い出しました。納豆は今も同じように売れているのでしょうか。何でも続けないと効果がないでしょうし、だいたい、ダイエットなどは、そんなに食べ物や薬まで買ってそのために努力をしてやるものなのでしょうか。私には理解出来ません。
 今までより少し多く歩く、運動をする、寝る前に食べないとか、少しだけ食事の量を減らすとかを継続すれば、充分体重は落ちるものと思います。
 本当にダイエットが必要な人はどのくらいいるのでしょう。女性の場合、鶏ガラみたいなのはどうみても健康的ではないと思うのですが。

 今日は六時半の開店すぐに、Mさん三名様、Oさん二名様、Yさん四名様とほぼ満席で、料理を出し終わるまでメチャ忙しい。
 その後はヒマ〜でしたが、遅い時間になって忙しいよりも、仕舞い方が楽。


在日朝鮮人鄭正模のウソ(戦後篇)
10月22日水曜日晴れ ×

 「北海道炭砿汽船に強制連行された朝鮮人坑夫たち」とキャプションに書かれた写真が「朝鮮海峡」に掲載されている。P二一四
普通、強制連行していたものを整列して写真に写す意味はなんでしょうか?
そして、戦争が終わったのにもかかわらず、「強制連行」されてきた「はず」の鄭正模氏は帰国もせずに、一九四七年秋より朝鮮人連盟千葉県本部の教育係の仕事につく。P二六九
その後、一九四八年 三〇歳の時に二〇歳の朝鮮人と結婚するが、三日目に家をでて帰ってこなかった。P二七二
「生木を裂くように」「強制連行」されたために、朝鮮に妻子を残しておきながら、帰国もせずに朝鮮人女性と結婚しているのです。
一九四八年春、日本橋の解放新聞社(後の朝鮮新報)に就職が決まる。P二七三
一年後、朝鮮人連盟千葉県本部に呼び戻される。
一九五〇年 朝鮮戦争が始まり、GHQにより朝鮮人連盟が解散させられる。
 この時に、手紙で確認もせずに、千葉市の女占い師にどういうわけか家族の安否を聞き、戦乱に巻き込まれ全員死んだと言う言葉を信じる。
その後、一九四六年に母親といっしょに日本に渡って来た、慶尚道出身の朝鮮人女性と知り合い、その正子(どいうわけか日本名)という朝鮮人女性と暮らし始めるが、ある日、妊娠六ヶ月後ぐらいに突然いなくなる。
それ以降女性不振になる。P二八〇〜二八一
またも、妻子残しておきながら、朝鮮人女性と一緒になり、子供まで身ごもらせる。
外国人登録を済ませ、一九五二年〜一九五九年まで職業安定所に登録をした失対事業人夫として働く。
共産党に入党。
「木村」という日本名で部屋を借りる。P二八四
せっせと朝鮮の父親に手紙を書いたが、返事は無いP二八七
一九五九〜一九六二年 鉄屑回収業者として事業を成功させる。P二八八〜二八九
 不動産屋を始める。
一九六二年暮れに突然、南朝鮮の長男より手紙が届く。二〇〇通以上出した手紙の唯一の返事。この時の長男の住所はこの在日朝鮮人鄭正模の故郷の生家の住所である。どういう訳か、二〇〇通以上出したはずの手紙が住所も変わっていないのに返事が無く、自称一九四〇年に強制連行されてから、二二年後にいきなり返事が来る。
一九六三年七月に北朝鮮籍から南朝鮮籍に切り替える。P二九三
終戦後、二〇年近くも経った一九六四年南朝鮮にやっと短期間帰国。


<帰国する時に千数百万円用意していたので、三千浦邑の守仙の家の近くに広大な農地を購入した。そこで農園でもやろうと>P三〇二
 部落の中央に売り出されていた門構えの大きい家と、すぐ近くの田圃を五反買って、三千浦邑の土地は守仙にやってしまった。山林も二町歩買ってすべて長男の名義にし、二男には家を新築してやると約束している。P三〇二
一九六五年に南朝鮮へ二回目の帰国。

 このように、一三歳の時に、伯父を頼って、中学に入学するために来日し、その後も早稲田中学に編入し、大学までめざし、そして戦後も帰国せずに、結婚までしているという在日朝鮮人の鄭正模氏の行動は、とても強制連行されて来たものとは思えないものです。この在日朝鮮人の吐いた言葉「私が日本に来たのは自分の意志ではないんです。
 日本政府が強引に強制連行しておいて、解放になっても帰るだけの手だてもしなかった結果じゃあないか。私が日本の法律で罰せられる理由はどこにもないはずだ。むしろ日本政府と政治家の責任をはっきりさせ、その責任を問うつもりです。」(P一三)
まさに、在日朝鮮人の吉田清治版です。。
その嘘つき朝鮮人の言葉を検証もせずにそのまま書く林えいだいというノンフィクション作家。アホとしか思えません。

 スポーツセンターに行く。時間がないので、スロートレーニングでそれぞれ3セットだけメニューを消化。

 初めてのお客様二名様来店。小胡子さん二名様で来店。理科大ラグビー部OBの岩下さん来店。岩下さんが最初に早稲田でやっていた「酒いわしや」に来てくださったころは、まだ一回生のころ。それから二〇年以上が過ぎた。阿波踊りの練習の帰りというMさん来店。ドンチャン。
今日は記憶あり。


在日朝鮮人鄭正模のウソ
10月21日火曜日晴れ ××××

 林えいだい氏の著書「朝鮮海峡」よりわかる事は、この在日朝鮮人鄭正模氏は、一九一八年二月二三日南朝鮮で生まれた後、一三歳の時、一九三一年三月、広島県西条の伯父を頼り来日し、私立松本学園へ入学。一九三六年秋に独立運動を目指し大阪を去るまでの五年半日本に滞在。
その後、朝鮮に二年半だけ住む。一九三九年春の田植えが済んだ後、トランクひとつで行き先も告げずに家を出て再来日し、呉に行ってトラックの運転手助手として働き、日中戦争により、運搬の仕事が忙しく儲けたのち、一九四〇年初秋、戦争が始まっても朝鮮にいれば安全だと思ったので、郷里に帰るまでの一年半日本に滞在。
 それから二ヶ月後に市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人警官から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚市の鯰田炭坑へ日本に「強制連行」されたとなっています。
 このように、鄭正模氏は二二歳の時、一九四〇年に自称「強制連行」されるまでに、
一三歳のときから都合七年以上我が国に滞在して中学進学、そして、働いています。(儲けたとまでいっています。)その間、朝鮮滞在はわずか三年弱だけのです。

 その一九四〇年冬?の「強制連行」後も、「脱走」し練馬の飛行場建設現場で働き、そこの山本という親方のすすめで、神田の朝鮮学生会館に相談に行き、なんと、路上で拉致同然に強制連行されたはずの人間が、その翌年には
早稲田中学夜間部第四年生に編入手続きをとる。(一九四一年?)そして、毎日三時に飯場から椎名町の下宿に帰って、それから池袋まで歩き、都電で早稲田に通学していた。下宿は三人部屋で、中国人の商人が同室だった。p一二七〜一二八
そして、
私は中学を卒業して大学に行く目標があった。
 略)
 
私自身強制連行されて来て、奴隷の屈辱を受けていますからね。脱走を助けて日本に打撃を与えること、これこそ抵抗運動ではないかとね。>p一三八
生木を裂くように家族を引き離された怒りが、逆にその任務への新たな決意となった>p一四二
と語っています。
 強制連行された人間の目標は故国への帰国ではないでしょうか。強制連行された人間の目標が大学卒業・・・・ギャグでっか!
 強制連行されて奴隷の屈辱を受けてきた人間が、やっと脱走し、帰国もせずに大学を目指してがんばって働ける国ってどこですか。日本てなんとすばらしい国でしょう。

 あほらし。流石は斜め上がお得意な方々だけのことはあります。

 この在日朝鮮人のギャグ話はまだまだ続きます。「生木を裂くように家族を引き離された」というこの方の、戦後の生き方に御注目ください。思わず、「お前マジかい」とツッコミをいれたくなります。ところで、先日、本屋さんで立ち読みしていたら、あのアホな本(まあ、当店のホームページのネタ本)をいっぱい出している明石書店の出版物で「日本は朝鮮半島で何をしたの」(だったかな。正確にはちょっと?)という薄っぺらな本に、この鄭正模氏の証言?が写真付きで掲載されていました。我が国のためにならないことだったらなんでもやるアホ出版社は、このような在日朝鮮人ギャグ親父の証言でも喜んで掲載するというよい例でした。

 今日、河岸から活けアンコウが入っているという電話あり。昨日が初入荷だったそうだが、当店は休み。今回のは二・四キロとちょっと小さめ。
 Sさん来店。小胡子さん来店。Kさん来店。Oさんご夫妻来店。Kくん来店。東一の純大と瓶の濁りを開ける。いいバランス。
明日は河岸の休市ということでドンチャン。
(休市でなくてもドンチャンでしたでしょうけど)
記憶があるつもりだったが、営業が終わった後に、何か片付けようとしたみたいで、いろいろ動かしている。変な所に椅子があるし・・・・
そんなことをやった記憶がまったくない。入り口のカギもしめてなかった。
(今回は包丁は研いでなかったみたいですけど・・・・)
 やっぱ、サルでした。いつもカウンターに置いてある美丈夫の申年ボトルも、どういうわけか窓際のテーブルにいたし・・・・



10月20日月曜日晴れ ○
 午前中に銀行に行き、売り上げを入金。帰りに古本屋さんで、「王兆明の真実 上・下」(上坂冬子 講談社一九九九年刊)、「満州、新中国で日本人として生きる」(戸城素子 築地書館二〇〇六年刊)などを購入。

10月19日日曜日晴れ ○
 午後よりスポーツセンターに行く。時間があったので、久しぶりに予定メニューを消化。きっと、明日は体中が痛い。

10月18日土曜日くもり △
 一名様来店。大台さん二名様で来店。Iさん二名様で来店。金チャン、マロさん来店。
 今日は久しぶりに、店で朝までドンチャン。記憶はあり。

ウリのかす漬け
10月17日金曜日晴れ ××

 今日、夕方に大きな荷物が届けられる。義侠蔵元である山忠本家酒造の山田社長の奥様の手作りのかす漬けでした。瓜のかす漬けが大きな容器に入っていました。早速、社長にお礼の電話と、来年一月か二月に開く予定の、義侠「慶」の垂直の会への出席のお願いをさせていただく。

 初めてのお客様来店。URAホームページを見てくださって来店してくださったそう。感謝。小胡子さん来店。今週は四連荘。江上さん四名様で来店。Oさん六名様で来店。Iさん御夫妻チビちゃんを連れての来店。Oさん二名様で来店。今日はメチャ忙しい。でも途中から洗い物をやめて飲む。ドンチャン。記憶はあり。
 営業途中に、横浜の長島さん宅からミキちゃんのベルギー土産とシュウマイが宅急便で届く。今日は頂き物だらけ。


ヤモリ
10月16日木曜日晴れ ×

 週刊誌の「文春」と「新潮」はよく買う週刊誌ですが、その「文春」に連載されている竹内久美子さんの「ドコバラ!」というコラムは、「阿川佐和子のこの人に会いたい」とともに楽しみにしています。今週号の「ドコバラ!」はヤモリについてでした。ヤモリは当店の前にある花壇にもよく出てきます。
ナナちゃんがいるころは、ナナちゃんにとっつかまって、ナナちゃんが見せに来た子供のヤモリを逃がしてあげた事もあります。
 ニホンヤモリの寿命についての質問に竹内氏が答えていたのですが、自然界においては不明だそうで、飼育条件による違いも指摘されていた。その飼育条件とは、冬眠させるかどうか。ほ乳類とは虫類を一緒にするわけいはいかないがと断わりながら、ほ乳類の場合は冬眠する種は長生きの傾向があるそうです。シマリスを冬眠させるグループとさせないグループに分けた場合、冬眠させたグループの八年目の生存率が七〇%に対してさせないグループの生存率は四〇%だそうな。
 ニホンヤモリも冬眠するそうですので、飼育下においても冬眠させることで、寿命がのびる可能性があると書かれています。今、どんどん環境が変わってきていますから、そのうち自然界においても冬眠しないヤモリも出てくるかも。
随分前に、酔っ払って歩いている時に、夜中にかかわらず足元をハトがエサを探してウロウロしていたことがありますから。都会は夜中でも明るいから鳥目でも活動に支障ないのでしょう。

 今回のこのコラムでこれも初めて知った事ですが、ニホンヤモリは人間あっての存在だそうで、人家やその周辺にしかすんでいないそうです。旧市街地にはすんでいるが、新しい住宅地には最初はいなくて、かなり年数がたってからすむようになるそうです。
スズメも人里の方に多いと聞いた事がありますが、ヤモリも似たようなものなもの。いや、ヤモリはその名のとおり「家守」なのでしょうか。
写真は当店の花壇に今年来ていたヤモリ。ちなみに、ニホンヤモリは昆虫、クモ、特にゴキブリ、ガが大好物だそう。うちの店はホウ酸だんごを置くようになってから、ゴキブリに悩まされる事はなくなりました。ネズミは侵入してきたら、ネズミホイホイで徹底的に駆除するようにしていますので、新しい進入口をあけられるまでは、大丈夫です。

 夕方、酒を冷やすための冷蔵庫の搬入が可能かどうか、お店の方が運送業者の方と見に来てくださる。大丈夫ということで、条件にあった冷蔵庫をお願いする。 
 Kさん来店。小胡子さん来店。二名様来店。大台さん二名様で来店。
 ドンチャン。
 営業終了後、手許にあった料理関係の本をまとめて、金ちゃんに送る作業をする。随分前に、金ちゃんが連れてきた教え子が調理関係に進みたいというので、少しでもお役にたてれば。

すべては祖国支那のために 朝日新聞の使命
10月15日水曜日晴れ ×

 下記は「神舟7号 中国を国際連携の輪に」と題された人民日報築地支社である朝日新聞の九月二九日の社説です。
以下引用
 白い宇宙服の飛行士が、青い地球を背に、誇らしげに赤い中国国旗をかざす姿が世界中にテレビ中継された。
中国の有人宇宙船「神舟7号」による初の宇宙遊泳である。冷戦のさなか、人類初の宇宙遊泳を競っていた旧ソ連と米国は、1965年に相次いで成功させた。それから40年余り遅れたが、中国にとっては歴史的な快挙に違いないだろう。

中国は03年、1人乗りの神舟5号で初めて有人飛行し、米ロの独占だった有人宇宙飛行の世界に名乗りを上げた。05年には2人乗りの神舟6号で、さまざまな実験をした。3回目の今回、宇宙船の外で作業をするという本格的な宇宙活動に挑んだ。
その着実な歩みは、宇宙大国としての中国の存在が揺るぎないものになりつつあることを示している。

再来年には、宇宙船同士のドッキングが計画されている。そうした技術を積み重ねて、独自の宇宙ステーションの建設をめざしている。
しかし、宇宙開発はすでに、国際連携の時代に入っている。大切なのは、この連携の輪に中国を迎え入れていくことではないか。
米国を中心に日本やロシア、欧州などが参加した国際宇宙ステーションの建設は、その国際連携の象徴だ。そこには、日本の実験棟「きぼう」もできた。

この計画は冷戦時代、米国が旧ソ連に対抗するために西側諸国に参加を求め、冷戦終結後にはロシアが招かれた。中国は加わっていない。
今、心配されているのは、米国とロシアとの間で繰り広げられてきた宇宙の軍拡競争に中国までが加わり、さらに激しくなることだ。
とりわけ中国では、軍事部門が宇宙開発を担当している。高度な宇宙技術を持って存在感を増していくと、それが新たな宇宙軍拡競争の引き金にならないか、世界が懸念している。

現に、
中国が昨年、ミサイルで人工衛星の破壊実験を行うと、米国も今年、同様の実験を行っている。
こうした不信を和らげるためにも、中国は宇宙開発で国際連携の輪に加わるべきなのだ。

それによって、他国の無用な警戒心を解くことになる。まずは、できるところからでも、協力を始めればよいだろう。
日本としても、中国に協力を積極的に呼びかけたい。日本が得意な宇宙観測などの分野で協力の道を探ることは可能ではないか。
日本では宇宙基本法が成立し、この秋から、政府の宇宙開発戦略本部が今後の計画づくりを始めたところだ。
基本法は、宇宙開発で国際協力を進めることもうたっている。安全保障の点からも、
日中の宇宙協力の意味は大きいはずだ。
引用終わり

 そして、その翌日の支那宇宙局長の発言として「中国、宇宙プロジェクトの国際協力を呼びかける」という記事が一〇月二日の「「中国国際放送局(CRI)」提供記事にありました。
以下引用
  
中国国家宇宙航空局の孫来燕局長は9月30日、イギリスで開かれた第59回国際宇宙会議グラスゴー大会で、「宇宙航空プロジェクトは投資が大きく期間も長いため、各国で共に開発、利用していきたい。中国は公平、互恵に基づいて国際協力をしたい」と述べた。
  孫局長はまた、「中国はアジア太平洋宇宙協力組織を設立する予定で、2008年末に北京で正式に発足することになっている。現在すでに9カ国が参加しており、より多くの国の参加を希望する。この組織は衛星利用の促進と人材育成を主旨とする」と述べた。
  孫局長はさらに、航空宇宙分野における中国と各国および国際組織との協力を紹介し、今後の中国の衛星の応用計画や宇宙探査計画および月探査計画などを紹介した。

2008/10/02(木) 08:40
引用終わり

 朝日新聞は、支那様が望んでいるのだから、我が国の開発した宇宙観測技術を提供すべきだと書いています。朝日新聞の宗主国である支那もまったく同じ事を言っているのです。流石です。朝日新聞は宗主国様のお心を察しているのです。
 支那が欲しがっていた省エネ技術、環境関連技術を「人類」のために支那に提供すべきと、盛んに記事に書き、売国奴政治家もあらたな利権と飛びつきました。
 今回も「中国が昨年、ミサイルで人工衛星の破壊実験を行うと、米国も今年、同様の実験を行っている」とねつ造までして同じ事をやろうとしています。

 ところで、下記はその支那の宇宙遊泳の写真ですが、NASAの写真と比べてなんとなく変に感じるのは私だけでしょうか。
 朝日新聞さんが書く「青い地球」ですが、私にはとても青い地球には見えません。

NASA

支那の船外活動

 午後より、冷蔵庫の事でお店に寄ると店長さんが応対してくださり、前回のアホな社員について謝罪してくださる。そして、すぐに冷蔵庫について対応してくれることになり、店に帰ると担当の方から電話あり。明日に店に来てくれる事になった。
 その後、スポーツセンターに行く。

 Kくん三名様で来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。Kさん来店。
遅くまでドンチャン。記憶はあり。


花盛り、資格商法?
10月14日火曜日くもりのち雨 △

 以前にも書いた事がありますが、いわゆる資格といわれるものの中で、料飲専門家団体連合会というところがやっているのが、「きき酒師」、「焼酎アドバイザー」、「ビアアドバイザー」、「スピリッツアドバイザー」、「中国酒類鑑定士資格」、「コーヒー&ティーアドバイザー」、「ソムリエ/ワインコーディネーター」、「チーズコーディネーター」、「パーティコーディネーター」「儀典オーガナイザー」、「シガーアドバイザー」という資格をこんなにいっぱい認定しています。
 各講座ともそれぞれ、一般で受講料二万五千円、受験料一万五千円、そして、合格後の諸費用として認定登録料二万五千円、入会金が一万八千円、年間費
一万五千円の合計九万八千円もかかります。そして、通信教育(十一万五千〜十五万五千円)もあります。

 そのうえ、受講料四万九千円で「酒匠」という「きき酒師」「焼酎アドバイザー」の上位資格もあるそうですが、それは<日本酒、焼酎の「専門きき酒師」とも言える存在>だそうです。
ということは「きき酒師」「焼酎アドバイザー」に問われる利き酒能力ってなんなのでしょう。
 「日本酒学講師」というのもあり、酒類に関するカルチャーセミナーなどの講師をやったりすることができるそうです。(受講費用四万九千円、受験料一万八千円、
認定料金三万五千円

 認定料まで払って、こんなもん取ってどうなるんでしょう。

 それ以外にも、フードディスカバリー株式会社というところがやっている「 日本ベジタブル&フルーツマイスター協会」はいわゆる野菜ソムリエ(正式名称:ベジタブル&フルーツマイスター)の資格認定機関だそうです。

それぞれ、
ジュニアマイスターコース
受講料十三万三千三百円

マイスターコース
受講料十五万五千四百円

シニアマイスターコース
<野菜・果物を通じて社会で活躍するためのコースです。>
受講料
三十五万七千円

 すみません。<野菜・果物を通じて社会で活躍するためのコースです。>って、私には理解不能です。なんで、三十五万も払って、こんなもんとらなければならんのでしょう。

それ以外にも

ベジフルビューティーベーシックコース
合計十万八千円

ベジフルビューティーアドバンスコース
合計十三万六千五百円

 このフードディスカバリー株式会社は、まだまだやってます。

調味料ジュニアマイスターコース

調味料マイスターコース
受講料六万八千円

受講料十二万六千円
日本固有の調味料である砂糖、塩、酢、醤油、味噌の魅力や効果を楽しくわかりやすく語れる人材の育成講座
ホームパーティースタイリストコース 受講料八万八千円 パーティーという「集いの場」を通じて、人と関わる喜びや感動を表現。"おもてなしの心"を育み、それを次世代に継承できる人材の育成講座
ジュニア食育マイスターコース 合計十四万八千円 次世代に日本のよき伝統である食材や文化、しつけ、サイエンスを教育する食育の実践者養成講座
ジュニア・カレーマイスターコース 合計九万八千円 食卓で馴染み深い食べものであるカレーの魅力を広く伝えることのできる人材育成講座
ジュニア・ブレッドマイスターコース 合計十二万六千円 パンを楽しんでいく社会を創造していくことを目指す「パン食文化の伝道師」育成講座
ジュニア和食マイスターコース 合計八万八千円 日常的に和食を楽しむ社会の創造を目指す「和食の伝道師」育成講座

 しかし、すごいです。ジュニア・カレーマイスターコースとは、「マイカレーを作れるようになる」ことをゴールとしているそうです。その上のカレーマイスターコースとは「カレーの魅力を伝えることができる」ことをゴールとしているそうです。野菜ソムリエなんて、市場で働いている人たちはみんなシニアソムリエではないでしょうか。

 野菜があるなら魚だってと思って、検索したらやっぱりありました「日本おさかなマイスター協会」
http://www.osakana-center.com/meister/advisercourse.html
おさかなマイスター・アドバイザーコース
全十一講座二十二時間、受講料十二万六千円(試験料・消費税込み)
 <
魚介類を賢く購入、おいしく食べ、その知識を周囲の人に普及していくためのコースです。

 いくら、資格好きの日本人といえども、個人で酒を飲む、野菜を食う、コーヒーを楽しむ、調味料を使う、ホームぺ−ティを開く、パンを焼く、魚を買うのになんで資格が。資格商法といわれるものが極まった感があるように思うのは私だけでしょうか。

 あほらし

小胡子さん来店。お持ち頂いた器で、器を違えての酒の味わいの違いを楽しめました。初めて無お客様名様来店。ヒマなので、早い時間から、小胡子さんとドンチャン。記憶はあり。


テロ国家指定
10月13日月曜日晴れ ○

 今日の産経新聞一面に、北朝鮮の瀬戸際外交に屈したアメリカが北朝鮮をテロ支援国家指定からはずすのであれば、我が国が北朝鮮をテロ支援国家に指定すればよいという記事が掲載されていた。なるほど、我が国は北朝鮮から同胞拉致という国家犯罪を受け、解決にメドがたっていない。
 なんでも、やるべきでしょう。もし指定が解除されれば、世界銀行、アジア開発銀行などによる融資や経済援助が可能になるため、経済危機にあえぐ北朝鮮としては、のどから手が出るほど欲しいはずですから。
 まあ、北朝鮮と国交正常化に一生懸命な山崎、加藤氏などの売国議員が反対するでしょうが。

 国交正常化したからといって、自由に北朝鮮と行き来できるわけでも、歩き回れるわけでもない。国交正常化がそのまま拉致問題の解決に繋がるわけでもない。現在のまま、国交正常化をすれば、ただ、北朝鮮を利するだけで、永久に拉致問題は解決しなくなる。
 
 日本テレビでやっていた支那をヨイショする番組はなんなのでしょう。
 西太后の場合は、どうして清を滅ぼしたかということに触れずに、「懐の深い女性」だったとか、「気の毒な女性」だったとかばかり。それも、残した書が女性らしくない書で、こんな書を書く女性は「きっと」懐の深い女性に違いない・・・・って、なんざんしょ。
 毛沢東夫人の江青についても同じ。「毛沢東への愛を貫いた」・・・・
 自国民を歴史上一番虐殺した毛沢東という人物を英雄としている支那だが、同じように「英雄」と呼ぶ日本テレビ。

 今日は食事以外は出かけずに、部屋でゴロゴロして一日が終わる。


横浜へ
10月12日日曜日晴れ △

 店を片付けた後、マグロやウニなどの刺身とお酒を持って、横浜の長島さんのお宅におじゃまする。江上さんの高校時代の同級生の長島さんには私がメキシコを放浪している時に、大変お世話になっただけでなく、私が店を開いた後も、国民金融公庫の保証人にもなってくださったりお世話になりっぱなし。
 長島家ではベルギーから帰国したばかりのミキちゃんとそのお二人のお子さんも同居し、にぎやか。
 楽しい時間は早く過ぎるもので、最終の電車でやっと帰宅。

鄭正模という在日朝鮮人のウソ2
10月11日土曜日雨のちくもり ○
 一九一八年二月二三日南朝鮮で生まれ、その
子供のころ兄が大阪に行ったそうですが、一九一八年生まれの鄭正模氏が子供のころはまだ、我が国は朝鮮に対して渡航制限をしているころではないでしょうか。そのお兄さんはどういう経過で日本に渡ったのでしょう。

 固城の普通学校に六ヶ月通学したのち、五年生の秋より増築した下二面の普通学校に通った。そして、一九三〇年一月、当時高級品であったであろう自転車で通学している日本人小学生の自転車を「おい、お前、自転車を降りろ。そうしないとぶっ殺すぞ」とすごんで、取り上げて、日本人からの分捕品だといって乗り回す。
光州事件のあった
小学生の時から独立運動に参加しているという自負があった。P四四
 二月
他の小学生と一緒に巡査につかまり六人で手錠をかけられて数珠繋ぎにされたままトラックで固城警察署の留置所に入れられた。P四五

 当時、高価であった自転車を三台も窃盗し、それに乗っているところを警察官に止められ、二回も警察官に捕まって留置所まで入れられていながら、盗難品とも咎められずに、無事出されて、小学校では英雄として全校生徒の前で「先輩たちのお陰で釈放されました。こんなことではへこたれません。これからもがんばります」と挨拶する。P六四
 このように、
鄭正模氏は独立運動で小学校時代に二回も留置所に入れられています。すばらしい、朝鮮人魂です。W
 そして、大邸師範学校を受験するが五年生のときに授業ボイコットしたので、勉強不足と受験生が殺到したことで、不合格。
 
京城の中学を受験し合格したが、どういうわけか、「どうせ日本人学校に行くなら広島高等師範学校へいけ」と父親の反対にあうのだそうです。

一九三一年三月、広島県西条の伯父を頼り、私立松本学園へ入学。
その伯父さんは三・一運動で朝鮮を「脱出」して、日本に渡り、その後、百姓をしながら飯場を経営。生活は豊か。
 一二月初めに、父親の危篤ということで、帰国すると結婚式だった。
生活が豊かなところほど早婚。典型的な朝鮮の結婚である。P六〇
鄭正模一四歳、妻一七歳。
一九三三年五月一日、二年生のときに広島市でおこなわれたメーデーに参加。
その後、京都大学でおこなわれた「反戦大会」に出席した時に逮捕され、
移送された境の
「少年刑務所」で土・日をのぞき毎日特高の取り調べを受けた。だが、検事が「もう面倒くさいから、帰れ」と釈放される
 
刑務所内で拷問を受ける。
 P六一〜六二
 いくら戦前とはいえ、我が国において、取り調べがいきなり、警察署ではなく、「少年刑務所」。お笑いですか。そして、もう面倒くさいといって釈放・・・あほらし。
 それが元で、私立松本学園を退学。
 中学校を卒業しないで帰ることは、父親と新妻に恥ずかしいので、夜間中学に行く事に決め、浪速中学夜間部に行く。
マルクスやレーニンの思想的な本を読むようになり、
学校へ通うのを億劫になり、
一九三六年秋、
独立運動を目指し大阪を去る。P六三
どういうわけか南朝鮮の徳明里の実家に帰り、この時に初めて新妻を抱く。
妊娠中の妻を残し、革命軍に入りたく、ソウルの親族を訪ねて、三ヶ月間土木工事人夫をして旅費を稼ぐ。
一九三七年四月、ソウルから吉林を目指す。
石油精製工場の雑役夫として夏過ぎまで働く。
その後、土方現場で働く。
一九三八年 革命軍?に入隊を断られ、
(このとき、履歴書をハングルで書くように言われる)一年数ヶ月ぶりに実家に帰る。
一九三九年春の田植えが済んだ後、
トランクひとつで行き先も告げずに家を出る。
広島の伯父を訪ね、呉に行ってトラックの運転手助手となり、その後、運転を覚え、免許をとり、呉海軍工廠の運搬の下請けをした。
 
呉軍港では日中戦争により、運搬の仕事が忙しく儲けた。
一九四〇年初秋、戦争が始まっても朝鮮にいれば安全だと思ったので、郷里に帰る。
 それから二ヶ月後、慶尚南道固城郡下二面徳明里から三千浦邑の
市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人警官から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚市の鯰田炭坑へ日本強制連行される

 この時には三人の子供がいた。
そこで、一緒に拉致された同郷の鄭載模、ぐうぜんここで会った二歳年下の遠縁にあたり、小さい頃から兄弟のようにして育った鄭順模と三人いっしょに脱走する。この
鄭順模は不思議とお姉さんが大阪に住んでいた。
 
広島の伯父は<「徴用で日本に来て脱走したとなると大変だ。家に手紙なんか出したらすぐに見つかるからな。脱走したら憲兵が銃殺する時がある。大阪に二人置いてお前はすぐ東京へ行け」>p一二四

 自称「強制連行」されたきたという鄭正模氏のギャグ人生はまだまだ続きます。朝鮮半島では一九四〇年当時まだおこなわれていないはずの「徴用で」来日。しかも市場に行く途中に自称「強制連行」された・・・・・・・W

「石松」のマスターが忘れ物の携帯電話を届けてくださる。初めてのお客様二名様来店。金チャン、マロさん来店。


林えいだいの著書にみる在日朝鮮人鄭正模の大ウソ(強制連行)
10月10日金曜日晴れのち雨 ×

_「韓国:強制連行被害者への慰労金申請の受付開始 」というニュースがありました。
以下引用
 
韓国政府は1日、日本植民地時代に海外に強制連行された韓国人被害者に対する慰労金や未払い賃金支給の申請受付を開始し、1300件余の申請があった。
昨年12月に制定された「国外強制動員犠牲者等支援法」に基づく措置で、2010年6月まで申請を受け付ける。在日韓国・朝鮮人は対象外。
「強制動員被害真相究明委員会」によると、初日の申請は、死傷者や行方不明者の家族らに対する慰労金(最高2000万ウォン=約200万円)が412件未払い賃金(1円当たり2000ウォンで換算)が168件生存者に対する医療支援金(年間80万ウォン=約8万円)が730件。
 支援法は盧武鉉(ノムヒョン)前大統領が05年、日韓条約関連の外交文書を全面公開し、70年代に韓国政府が行った補償を補てんする人道措置として推進された。
ただ、申請には「(韓国政府に補償を求める)訴訟など追加請求をしない」という文書に署名が必要なため、被害者団体の一部は反発し、憲法訴訟を準備する動きも出ている。
【ソウル堀山明子】

毎日新聞社 2008年09月01日
引用終わり

 朝鮮人がいう強制連行とはどういうものでしょうか。林えいだい氏の著書で、在日朝鮮人の鄭正模氏はどのようにして日本に連れてこられたか。下記のように証言しています。
「私は一九四〇年、慶尚南道固城郡下二面徳明里から三千浦邑の市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人警官から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚市のナマツタ炭坑へ強制連行されました。一ヶ月足らずのうちにそこを脱走して、東京で朝鮮独立運動の地下組織に入り、常磐、仙台、北海道と、朝鮮から強制連行されて来た同胞を救い出す仕事をした。一九四四年には盛岡警察署で拷問を受け、同士二人が警官から虐殺され、私は釈放されて、働きながら宇都宮までくると、今度は東京憲兵隊に捕まりました。
 そこで厳しい訊問と拷問を受け、残ったもう一人の同士も虐殺され、一九四五年の解放まで二度の生地獄を体験しました。
 韓国で妻子の消息がわかり、一九六四年に帰国しましたが、
二二年間にわたって家族が強制連行されたことを知らず、探し続けていたということです。それまで私は何度も故郷に手紙を出しましたが、それには返事がもらえず、朝鮮動乱で行方不明になったとばかり思っていました。当時、私の家は部落では中流農家であったけど、私が突然いなくなったため農業が不可能になり小作に出したため、解放後も戻してもらえなかった。私が帰国すると家族は生活難にあえいでいました。
 長いこと家をあけたため家族からは生活に困ったとなじられ、親戚からは冷たい目で見られました。これは果たして私の責任でしょうか。
 そのことを私が生きているうちに、どうしても日本政府と国家に問いたいのです・・・・」
>在日朝鮮人鄭正模の証言
(「朝鮮海峡」林えいだい著 明石書店 一九八八年刊)P三〜四より 

 まるで、職業詐欺師の吉田清治と同じ証言です。この鄭正模という嘘つき在日朝鮮人は、一九四〇年、昭和一五年に路上で拉致されて強制連行されてきたのに、余裕をぶっこいて、早稲田中学夜間部第四年生に編入手続きをとって、大学をめざし、最初の帰国したのが終戦してから一九年も経った一九六四年。その間、正子という日本名の朝鮮人女性と暮らし、妊娠させ、どういうわけがその女性がいきなりいなくなったので、女性不信におちいる。(P二八〇〜二八一)。二百通以上も手紙を出した(
P二八七)が、家族から返事がこずに、自称「強制連行」されてから二二年めの一九六二年暮れに突然、南朝鮮の長男より手紙が届く。探し続けていたというその差出人である長男の住所は、この鄭正模氏の朝鮮の実家の住所。それが、二〇年以上その住所に二〇〇通以上出した手紙の唯一の返事。(P二九三)そして、朝鮮に家と広大な農地を買った(P三〇二)後も、一九八八年時点で我が国に住み生活しながら、文句を言い続けている。

 「強制連行」され後、たった数カ月後に、当時、日本人の初等教育から中等教育への進学率がたった二五%しかない時代に、早稲田中学夜間部第四年生に編入手続きをとって、毎日、椎名町の下宿から早稲田に通学し、大学をめざし勉強し、我が国で五年も過ごし、戦後、一年も経たないうちに、朝鮮人女と暮らし、三人の子供を残してきた朝鮮の家族には、二百通以上も手紙を出したが、どういうわけか、唯一の返事は「強制連行」されてから二二年め。その手紙の差出人は二〇〇通以上出した「はず」の手紙がつかない「はず」の、これまた行方不明の「はず」の家族の実家の住所。そして、どういうわけか、朝鮮に家と広大な農地を買った後も、憎い強制連行された「はず」の我が国に住み生活している。

 我が国は、強制連行してきた朝鮮人を大学入学を目指して勉強するような環境に置いていたのです。なんと、すばらしい。

 こんな嘘つき朝鮮人の言う事をそのまま書いて、ノンフィクション作家などと名乗っている林えいだい。
 嘘つき在日朝鮮人についてはまだまだ続きます。しかし、流石は偽証が我が国の六〇〇倍以上の民族だけのことはあります。

スポーツセンターに行く。時間がなかったので、軽めのメニューを消化。

 バンブーさん来店。Tさん来店。初めてのお客様二名様来店。Uさん二名様で来店。Kさん来店。マロさん来店。小胡子さん来店。大台さん来店。
 営業終了後、小胡子さんと高円寺のイタリアンレストランに酒を持ち込みドンチャン。その後、中野の私は初めてというお店、続いて「石松」さんでドンチャン。記憶はあり。珍しい。

林えいだいの著書にみるウソ(ハングル、歴史教育)
10月9日木曜日晴れ ○

日本の朝鮮における教育について林えいだい氏は著書「朝鮮海峡」(明石書店 一九八八年刊)で在日朝鮮人鄭正模氏の証言として下記のように書いています。
日韓併合以来、総督府は朝鮮人が教育を受け、民族意識に目覚めることを極端に恐れた。
 植民地政策としての学校教育制度に反発して、朝鮮人の間で独自の教育がひっそりと行われた。それを書堂と呼び、徳明里では有志の出資で講師を雇い入れた。略)漢字やハングル文字を教えた。講師たちは朝鮮の歴史と民族教育を重点に置いた。
>p二〇〜二一
徳明里の書堂で朝鮮の歴史を学び民族教育を受けていたので、校長の話を腹の底で笑いながら聞いた>p三三

 そのうえ、光州事件に関連して、朝鮮では小学生の授業ボイコットがあったそうで、その小学生がなんと、
子供たちは校長の修身を拒否して、朝鮮人教師に対して朝鮮語で授業をしてくれと迫った。次から朝鮮の歴史とハングル文字を教えるように迫るので、女教師などは校長との板挟みに泣き出してしまった。
 略)
 学校はすべて子供たちの自治にゆだねられ、三・一独立運動以来の解放区が出現した。
>p四二

 では現実はどうであったか。学校が小学生の自治にゆだねられたというのはどうなの?というこの程度のアホさについては、この林氏の著書で多くあるでたらめな箇所の一つにすぎませんが、朝鮮においては、開国前の正式文書は漢文で書かれていました。ハングルは名君とされる李朝朝鮮の世宗(一四一八〜五〇)がつくったものですが、「韓国史」(近世前期篇、儒壇学会篇)によれば、世宗ハングル文字は諺文(おんもん)と軽視され、書堂でも教えないところもありました。そのようなハングル文字を教えろと小学生が迫るはずも無い。
 朝鮮で発行された新聞で初めてハングル文字と漢字との混淆で書かれたのは一八八六年(明治一九年)に出された「漢城週報」です。ハングルが一八八二年(明治一五年)アメリカに対して開港したことによりキリスト教が急速に流入したが、その時の布教にハングルを使った事によりハングルの普及に貢献した。
 ハングル文字が急速に普及するのは、日清戦争により我が国が勝利する事により、朝鮮が清の宗主権より脱してからです。それまで、公用語としてのハングルは認知されていませんでした。
 朝鮮語は一九一〇年(明治四三年)の併合語も一九三七年(昭和一二年)まで学校教育において必修科目であり、併合時の一〇%程度の初等教育の就学率は一九三七年には三六%に達している。
 黄文雄氏の著書「歪められた朝鮮総督府」(光文社)には次のような事が書かれています。
<ハングル使用を蔑視したのは、むしろ両班であった。そこで、金沢庄一郎、小倉昇平両博士を中心とする日本人学者たちは、近現代朝鮮語を科学的に体系化し、言語として完成させたのだった。
小倉昇平博士の「朝鮮語学史」によれば、清国の文化支配から離脱し、独自性を強調するため、国字、国文の使用を鼓吹し、諺文を奨励しはじめたのは、一八九七年からであるという。このときから公文書は漢文をやめ、漢字、諺文まじりの新訂国文を公布し、使用を奨励するようになった。
 略)
 当時「書堂」が「学校」として認められなかったのは、一九一八年の調査によれば、その八九%が、漢文のみを教える伝統的書堂だからである。「千字文」「史略」などの初歩入門書を教えたようだ。
略)
 寺内総督は着任後の明治四四年(一九一一年)八月に、朝鮮教育令を公布し、「朝鮮語及び漢文」、「諺文より始めて、漢文まじり文及び平易な漢文」を教育する事を決めた。漢文をも教えるのは、朝鮮の文化は漢文の文化であったからだ。日常の手紙も漢文で書き、朝鮮の知識人は、朝鮮文字(ハングル)では手紙すら書けなかった。だから双方を教えざるをえなかったと、当時の学務課長、弓削幸太郎が『朝鮮施政史』(改訂版六六ページ)に書いている。日本人子弟にも同じ朝鮮語科目を設けていた。
 総督府は明治四四年七月(一九一一年)に、「諺文綴字法研究会」を作り、現代ソウル語を標準語として「普通学校用諺文綴法」を決定し、教科書として採用した。そのとき、諺文は国字、国文としての言語体系としては未熟であり、そもそも婦女子用のものだから、教材として使えるものはきわめて少なく、当時の教育関係者には、苦労談が多かった。
 斉藤総督の時代には小学校、中学校、高等学校の日本人にも朝鮮語を教えていた。ソウル語を標準語とする朝鮮語が、朝鮮社会に教育を通じて広まったのは、李朝時代ではなく、朝鮮総督府の教育によってである。
 朝鮮総督府時代の教育は、朝鮮人がいかにも救国教育運動に熱心であったかのようにいわれるが、そのようなものではない。>
「歪められた朝鮮総督府」(光文社)p一六七〜一七〇

 同じく、黄氏の同著書には当時の朝鮮について外国人による文献にも下記のように書かれている。
「朝鮮事情 朝鮮教会史序論」(シャルル・ダレ、金容権訳、平凡社 東洋文庫)よりの引用として。(表示引用ページは黄氏の著書に掲示されていた「朝鮮事情」のページです)
「しかし、中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において、二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても、朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。
 これによりもっと大きなもう一つの差異は、・・・・朝鮮では、国王と人民との間に、自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が存続している点である」
 朝鮮史については「朝鮮の学者たち自身も、これらの文献に何等の信用もおいておらず、また決して研究対象にすることなく、中国の歴史書だけを読む事にしている。
 時々朝鮮語で書かれた簡略な歴史に出くわすこともあるが、それは婦女子の気晴らし用の真偽取り混ぜた奇譚集に過ぎない。学者達といえば、それを聞いて見ることさえ恥辱だと思っている」P三〇一
 「朝鮮文字の本がほとんどないこと、学者たちが自国の言語を尊重しないこと、そして何よりもこの国へ接近するあらゆる外国人を極刑をもって禁じている野蛮な法律の存在などが、朝鮮語をヨーロッパの東洋学者から遠ざける原因になっている」P二四四
 つまり、小中華を自認する朝鮮においては歴史とは支那の歴史なのです。
 
 朝鮮総督府における朝鮮史の研究・教育について
 歴史教育が始まったのは、初等教育が四年制から六年制に延長された一九二一年(大正一〇年)からです。その時、朝鮮史は日本史の一環として配慮された。一九三二年(昭和七年)に発行された国史教科書には朝鮮史に関する事項として「昔の朝鮮」「三国の盛衰」「新羅の統一」「高麗の王建」「高麗と蒙古」「朝鮮の大祖」「李退渓と李栗谷」「英祖と正祖」と言った項目がある。
 京城帝国大学においては朝鮮史の研究は、最後まで続けられた。
 朝鮮総督府は併合後わずか五年後の一九一五年(大正四年)景福宮に総督府博物館を設けた後も慶州、開城、平壌、扶余、公州に博物館や分館を設け、貴重な遺物の収集につとめた。朝鮮半島の古墳の調査・保存もおこなった。
 一九二二年(大正一一年)には朝鮮史編纂委員会を設け、一九四一年(昭和一六年)まで毎年五万円から一〇万円を投資し、アジア各地から資料を集め、新羅統一以前から李朝後期まで、全三五巻、二万四千頁の朝鮮史を刊行している。
「植民地朝鮮の研究」(杉本幹夫 展転社刊)p七六〜八一
「歪められた朝鮮総督府」(黄文雄 光文社)p一六二〜一七〇

 この林氏の著書にでてくる在日朝鮮人鄭正模氏は、朝鮮人版吉田清二と言っていい人物です。そのような大嘘つき在日朝鮮人の証言を、検証らしい検証もせずに、何の疑いも無く掲載する恥ずかしい日本人が林えいだいという人物です。だいたい、著書に同じく嘘つき在日朝鮮人というか、これも吉田清二と同じく職業詐欺師といってもいいほど有名な朴慶植氏を何度も登場させている時点でもうアウトでしょう。
 在日朝鮮人の恥さらしである鄭正模氏のこの著書におけるその他のウソ証言については、後日詳しく書きます。

写真は今日、河岸で仕入れた壱岐の赤ウニ。今までは、プラスチック容器に入っていたものがほとんどで、瓶詰めの塩水ウニは初めて。Sくん御夫妻来店。

ノーベル賞三人
10月8日水曜日くもりのち雨 ×

 日本人ノーベル賞受賞というニュースがありました。

 
「ノーベル物理学賞、素粒子研究の日本人三氏に」朝日新聞
  日本人が一つの賞で同時受賞するのは初めて。

 「ノーベル賞:物理学賞に日本人三氏」 毎日新聞

 「ノーベル物理学賞に日本人三人」産経新聞
 日本人のノーベル賞は6年ぶりで、共同受賞は初めて。


 「日本人3氏にノーベル物理学賞 素粒子物理で重要な業績」共同通信
 日本人のノーベル賞受賞は、02年の小柴昌俊東京大特別栄誉教授(物理学賞)と田中耕一島津製作所フェロー(化学賞)以来で計15人。物理学賞受賞者はこれで7人となる。日本人が共同受賞するのは初めて。


 ところが、河野太郎氏のメルマガで、ノーベル賞委員会の公式ホームページには二人の日本人とアメリカ人になっているということを知りました。
http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2008/

 三名のうち、南部陽一郎シカゴ大名誉教授は、日本生まれの方だが、アメリカ国籍を取得されているためです。つまり日系アメリカ人として受賞されたことになります。日本人三人という報道は心情的にはわかりますけど・・・・・

 Wさん来店。Nさん四名様で来店。
 ドンチャン。営業終了後、高円寺のイタリアンにお酒を持ち込み、マルガリータさん、Sさんとドンチャン。記憶は珍しくあり。


追記外国人の文献に見る朝鮮(及び日本)
10月7日火曜日雨 ×

 下記は私の手許にある「『植民地朝鮮』の研究」(杉本幹夫著 展転社 平成十五年)からの引用です。杉本氏はそれぞれ下記の著書より引用しております。

?シャルル・ダレ著 金容権訳「朝鮮事情」平凡社東洋文庫一九七九年
 シャルル・ダレ著の「朝鮮教会史」の序論部分。ダレ自身は朝鮮に入国したことはなく、主としてダブリュイ主教(一八六六年ソウルで処刑された)が収集した資料を基礎に、他の宣教師の手紙等をまとめ、整理したもの。

?F・A・マッケンジー著 渡辺学訳「朝鮮の悲劇」平凡社東洋文庫一九七三年
 カナダ人のマッケンジーはロンドン・デリーミラーの貴社として一九〇四年と一九〇六年の二回朝鮮を訪れている。原本は併合の二年前一九〇八年に出版されたもの。ジャーナリストの目でみた併合に至る朝鮮の歴史であり、朝鮮に同情的な論調で、我が国を批判している。

?「韓国記」龍渓書舎復刻一九九六
 ロシア大蔵省が調査した資料を日本の農商務省が抄訳した物で、一九〇五年日露戦争に勝利した年に東京書院から発行された物の復刻版。

 ?イザベラ・バード著「朝鮮紀行」時岡敬子訳 講談社学術文庫 一九九八年より。
 これは私の手元にある同名の著書とは違いますので、私も杉本氏の著書よりの引用となります。ページ表示は杉本氏の著書に書かれているそれぞれの著書のページ表示です。

<第一印象、住居等 >
イザベラ・バード
「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、 紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。
礼節上2階建ての家は建てられず…」

「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、
通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。
又溝から二、三フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、
これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」

「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」
? 五八−六〇頁

シャルル・ダレ 
<貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。
では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。
するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。>
<二階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです。>
?p二八九

<官吏と徴税>
シャルル・ダレ
<官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと務め、その為に体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至まで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金を稼ぐ。国王の御使(監察官)すら極度の破廉恥さでその特権を利用している>
<朝鮮の宮廷は非常に貧しく、国庫はさらにもっと貧弱です。 宦官やその仲間である国王の妾、宮中の侍女たちは、もし大臣の地位や、 又時には他の幾つかの高官職を売って得る金がなくなれば、きっと打撃を蒙るでしょう。
従って権力の座にあるものは、贈り物を次々と与えては機嫌をとり、
これらすべての貪欲な吸血鬼をいつも満腹にしておかなくてはなりません。
特に今までに増して国王の寵愛を獲得しようとする時には、巨額の金が必要になります。
 所が金炳国(きむぴょんごく・国王の義兄弟)は、幾つかの官職をかなり高く売り、 朝鮮人参の専売権を引き受けたのだが、それでも尚必要とされるすべての人々に富を行き渡らせて、地位を買収するだけの金を得ることができなかったのです。
昨年の真冬に、金炳国のおかげで多くの地位と富を得た1人の男が金炳国を訪ねてきて、
「最高権力を握りたいとは思わないですか」と尋ねたのです。
「答えるまでもないでしょう。しかしそれを得るためにはとにかく金がいるのというのに、 私にはそれがありません」と国王の義兄弟は答えました。
「それでは私に王国の南部地方の租税を徴収する職を下さい。そうすれば必要なお金を手に入れて差し上げましょう」「よろしい」と大臣は答え、 すぐさまその男の指示に従って対策を講じたのです。
 南部地方の租税は主に米で、それは海路を通じてソウルに運搬されていました。 くだんの男はこれらの米をみんな集めて船に積み込み、中国まで運搬し、朝鮮で売る四倍の価格で売りさばいたのです。 帰国した彼は租税に必要な米を再び買いととのえました。
 こうした値段の差額によって、国王の義兄弟は、宮中にあふれている一群の宦官と侍女の支持を一手に獲得することができたのです。そして彼は自分の競争相手を罷免し、すべての権力を独占しました。
いかなる穀物を輸出しても、それは極刑にかけられる犯罪になります。ましてや王室の維持費のために徴収された米を売るものは許し難い国事犯なのです。この密輸出が原因となって、とうとうこの年は幾つかの道にとっては深刻な飢えの年となったのです。しかし彼にとって何の関係があるでしょう。
彼が権勢を得、豊になった以上、誰が彼の行状を問い正そうとするでしょうか>
?P七一、七四

<取り調べ、監獄>
シャルル・ダレ  
「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。
殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。
証人の中には被害者の父親もいた。
一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、
縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、
「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。
守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」

「大きな邑には、捕卒から報酬を受けている盗賊の頭目が数人いつもおり、 人々が彼らの行為に耐えられなくなった時か、 守令がいつになく強い脅しをかけた時に、法廷に突き出されてくる。
彼らを逮捕する時にも、比較的軽い犯罪については合意が出来ていて、
それから捕卒が告発し、被告が是認する。重大な問題に関しては、
すべて堅く沈黙が守られ、真犯人が自分の犯罪に対してそれ相応の懲罰を受けるようなことは稀である。
のみならず政府は必要なときに備えて大胆で図太い補助者を自らの手元に確保しておくため、世間に名の知れた数多くの泥棒を自由にさせておく。」

「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6−2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」 
 ?シャルル・ダレ 一一二〜一一四、一一八〜一一九、一二二〜一二四。

マッケンジー  
「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。
周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」
「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。
更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」 国王のロシア大使館逃避後。
「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。
この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。
大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。
2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。
その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。
群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。
1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、
群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
?F・A・マッケンジー著 P二七〜二八、三三、七九、一一九〜一二〇。

 現在、朝鮮人が我が国の統治時代の刑務所を改造し、拷問が我が国の所業だといっている事が、ウソだとよくわかる記述です。 我が国は挑戦を統治した時代に法の整備および刑務所などの近代化を行いました。これについては、後日、追記させていただきます。

 Sさん大勢様で来店。小胡子さん、BOOちゃんと来店。Kさん来店。大台さん二名様で来店。
ドンチャン。営業終了後、明日が河岸が休市ということもあり、久々に歌舞伎町の御寿司屋さんに行くと、店の内装が新しくなっていてビックリ。それだけ御無沙汰していたことになる。
ドンチャンなれど、今日は最後まで記憶あり。珍しい。だから、大雨。


小林まこと
10月6日月曜日くもり ○

 小林まことは少年マガジンに連載されていた「1・2の三四郎」のころから好きでしたが、その小林氏の「柔道部物語」がコンビニにあったので思わず購入してしまったのが、三ヶ月ほど前。先月の末ごろにその最終回が出ていたので、これまた購入。
 作者の小林まことはめちゃ柔道の動きの描き方が好きです。線のきれいな漫画家さんとかは多いと思うが、あの技の流れの効果的な描き方ができる漫画家さんはあまり多くないのではと思います。あまり、まだ今のデジカメに慣れてないので、写りの方はイマイチですが。

 今日は部屋に一日中いたが、久しぶりに行った昨日のスポーツセンターの影響で、背中、両肩など上半身があちこち痛い。
 昼頃に醴泉の山田社長に電話して、11月9日の飲んべえの会に出品する酒について相談させていただく。
 今回は垂直ではなく、水平の会となりますが、普段、当店に置いていない醴泉もたっぷりと楽しんでいただけます。
よろしければ、是非ご参加ください。

10月5日日曜日くもりのち雨 ○
 午後より高田馬場にある芳林堂さんに寄る。前から欲しかった「延安リポート」(山本武利編訳 高杉忠明訳 岩波書店)などを購入。ここしばらくで購入した本で一番高価。カード持っててよかった。
 この本は以前に書いた事がありますが、「八路軍の対日心理戦争を学ぼうと延安を訪れたアメリカ軍視察団。野坂參三と日本兵捕虜が取材に全面協力した。これはアメリカ側の報告書である」と本の帯にありますように、支那軍の日本軍捕虜に対する洗脳工作の実態について書かれたものです。
支那の日本軍捕虜に対しての洗脳の実態
中帰連 小島隆男と延安レポート
 これにより<中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至った人たち>と本多勝一氏などが絶賛する中帰連と呼ばれる連中の発言というものが、いかに嘘にまみれた醜いものであるかよく理解できます。
 
 その後、スポーツセンターに行く。先月は四回しか通えなかった。今日は時間があるので、一通りのメニューを消化。
 店に寄り、生ゴミを出してから帰宅。

10月4日土曜日晴れ △
 次期衆院選で郵政造反組ら十四人で「平沼グループ」という見出しで、毎日新聞と時事通信のニュースがあった。
 平沼赳夫元経済産業相が、今日、岡山県津山市で講演し、次期衆院選について、前回選で郵政民営化に反対し落選した元職五人や元国会議員秘書、県議ら計一四人でメ平沼グループモを結成、全員が選挙に立候補することを明らかにしたというものです。 
 会合後、記者団に「(政界の)第三極を目指し、健全な保守という形で頑張る。何人当選するか分からないが、(選挙後に)新しい政党をつくるか、新たな保守連合を考えたい」と語ったとあります。
 政党要件を満たし第三極という感じでしょうから、何としても五人当選してほしいものです。
 
 Cさん二名様で来店。大台さん二名様で来店。Fさん二名様で来店。Yさん来店。Bさん来店。
少しだけ飲む。当然、記憶あり。

10月3日金曜日晴れ ×
 バンブーさん来店。Nさん二名様で来店。Nさん二名様で来店。Oさん来店。KくんMさんと来店。Oさん三名様で来店。Mさん二名様で来店。
ドンチャン。記憶あり。

売国奴・村山富市の毒
10月2日木曜日晴れ ○

 麻生太郎首相も今日の午後、社民党の重野安正幹事長への答弁として、村山富市首相談話にを引き継いでいくと述べ、踏襲する考えを表明したというニュースがありました。
 なぜ、社民党がこのような事を代表者質問で必ず問うか。それは、以前に<
五〇年決議における売国奴・村山富市の成果>として書いた事がございますが、村山氏が著書にてインタビューアーの辻元清美女史との対談ということで下記のように述べていることより理解出来ます。
以下引用
 
村山 それは議論した。まあ、抵抗もあったけどね。あったけどな、やっぱり、これくらいのことできんようじゃ、僕は総理になった意味がないからなあ。
 辻元 何のための連立政権か。
 村山 それは連立政権の存在が問われる問題じゃ。
 辻元 
自民党はだれが骨を折られたんですか、内部で。
 村山 
それは河野さんなんかが。総裁じゃけん、自民党の。
 辻元 まとめていかなくちゃいけない。
 村山 うん。
 辻元 大体あれは満足のいくものですか。
 村山 まあまあ、あのときの情勢からすればぎりぎりじゃあないか。「侵略的行為」と「侵略行為」。もっと「侵略戦争」とするかというような議論があったわな。でもやっぱり「侵略戦争」ということになると抵抗が強すぎるからな。だから、侵略によってということにしたんじゃけどな。そういうところの問題がいくらかあったからな。一〇〇%ということにはならんけどね。まあ、しかし、それなりの筋はきちっとしているんじゃないか。中国なんかでもだいぶ評価してくれてたしね。だから、今、橋本さんが中国に行って何かあっても、「あの談話を踏襲する」といえばそれですむわけじゃけんね。
 辻元 私たちも政府・自民党に迫っていくときに、「あの談話を踏襲しているんですよね」と質問を必ず予算委員会でもするんですよ。そうしたら、向こうは「はい、そうです」と。
 村山 否定せんわな。

 
辻元 言わざるを得ないので。
 村山 そうじゃ、そうじゃ。
 辻元 
一回やっておくと効果は大きい。
 村山 
それはそうじゃ。一貫してそれを否定できんことになるから
 辻元 そうですね。
 村山 あの談話は、僕はそれなりに意味があったと思うね。

 引用終わり
 「そうじゃのう」村山富市 インタビュー辻元清美 第三書館刊 発行者 北川明(p一〇七〜一〇八)



 この村山談話というものは河野洋平氏など売国奴どもが一致団結して確信犯として我が国に打ち込んだ楔である事がよくわかる文章です。この村山氏が残した楔はどのようにしてできたか。それはだまし討ちによってできた事は西村眞悟氏のメールマガジンなどによって明らかになっています。
五〇年決議と村山富市(西村眞悟議員のメルマガ「西村慎吾の時事通信 No・一九二 平成一七年 四月二九日号」より

今でも不可解であるが、新進党議員に対して、党国会対策幹部から、「本日は本会議が開会されないので各自選挙区へお戻りください」という伝達があった(この幹部は、現在の自公連立の一員である)。よって、私どもは、新幹線や飛行機で帰省し始めた。
 すると、謝罪決議阻止派が東京からいなくなったのを見届けてから、土井たか子衆議院議長は、午後七時前に本会議開会のベルを押した。
 その結果、本会議は大量の欠席者があったものの,強引に開会され、出席者の全会一致で謝罪決議は衆議院で採決されたのである。
 本会議開会のベルが押されたとの連絡を受けたとき、私は新幹線で浜松付近を走行していた。そして、名古屋で列車を降りて乗り換えてまた東京に引き返した。
 しかし、とっぷりと暮れた国会は、ライトアップされているだけで、もぬけの殻であった。
「ちくしょう、だましやがったなー」と地団駄を踏んで国会を見上げた。


下記はこの時の内閣の布陣です。
第八一代村山内閣 平成六年六月三〇日成立
    内閣総理大臣 村山富市
    外務大臣    河野洋平
    通商産業大臣 橋本龍太郎
    運輸大臣    亀井静香
    自治大臣 国家公安委員会委員長 野中広務
    内閣官房長官 五十嵐広三 社会党
    総務庁長官  山口鶴男 社会党
    経済企画庁長官 高村正彦
    科学技術庁長官 田中真紀子
    衆議院議長    土井たか子

 今、改めて見ても凄い布陣です。

 西村眞悟氏の「総理の立場を私し、その立場を利用したイデオロギーによって歪められた個人的妄想の表明に過ぎないのだ。」という言葉はまさに正論であり、そのようなものを後生大事に引き継いでいくということがいかに異常であり、我が国にとって不幸であることか。
 村山談話などというものを一刻も早く破棄し、このような異常な状態から脱する事が、我が国を正常な国にする第一歩と思います。

 今日はまだ、椅子の上がった状態の五時過ぎに、店の前に車を横付けして「今からいいですか」と入ってきた人らがいましたけど。当然お断り。それ以外は、メチャヒマというか今年二回目のオチャピーでした。去年は三回あったから、あと一回はあるんだろうか・・・・・・
 さっさと帰る。

麻生首相、「大東亜戦争」と表現 戦争観問われ
10月1日水曜日くもり後晴れ △

 人民日報築地支社である朝日新聞は、麻生首相が使った「大東亜戦争」という単語を問題視し、記事にしています。
以下引用
麻生首相は30日、首相官邸で記者団から過去の戦争観を問われ、「日清、日露(戦争)と、いわゆる大東亜戦争、第2次世界大戦とは少し種類が違うと思う」と語った。首相は「明治憲法以来約120年。時代を振り返って、日本の歴史として誇れる歴史もあれば、誇れない歴史もある」との考えを示した。

 「大東亜戦争」は当時の政府が決めた正式呼称だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が公文書での使用を禁止。教科書では「太平洋戦争」「第2次世界大戦」の呼び名が一般的になっている。

 河村官房長官は30日の記者会見で「首相は吉田茂元総理の薫陶を子どものころから受けており、教育勅語をそらんじることができる我々同じ世代の唯一の国会議員だ。第2次世界大戦を当時の大人たちが大東亜戦争と表現していた。そういうことかなと思う」と語った。
asahi com 2008年10月1日2時21分

引用終わり

「大東亜戦争」と言うな。「太平洋戦争」という連合軍というより米軍の押し付けによる呼称を使えと朝日新聞は言っているのです。流石は朝日新聞。さっさと潰れてほしいものです。
 大東亜戦争という呼び方については、私は昨年の日記において書いていますが、(
大東亜戦争という呼称)江藤淳氏の著書「閉ざされた言語空間」にありますように、大東亜戦争に敗戦した我が国は七年間もの間連合軍の支配下におかれ、その占領政策により、徹底的な言論統制、情報管理がおこなわれました。それにより、日本人の思想改造をおこないました。その情報統制があることを一般国民に知られてはならないとし、三〇項目にものぼる厳重な言論統制しましたが、どこが修正されたか削除されたかなどは一般の人々には判らないようにしました。
 戦後の七年間という長期に渡る連合軍の占領政策が我が国国民に与えた影響は大きく、朝日新聞をはじめ、多くの腐れマスコミが現在でもその方針を引き継いでいます。

 一日も早く普通の国になってほしいものです。

 Sさん来店。Hさん来店。Kさん来店。小胡子さん来店。マロさん来店。二名様来店。とても変わった酒に対してのご意見をお持ちでした。Kさん二名様で来店。今度、神楽坂で酒蔵を始めるそう。新規の醸造免許を取るのは大変そうだが、場所や杜氏はMさんが務めるなど具体的に話が進んでいて、楽しみです。恭子さん来店。ドンチャン。珍しく記憶あり。

過去の日記

平成20年

平成19年

平成18年

平成17年

平成16年

平成15年

平成14年

平成13年

平成12年


表紙にもどる