日本人の心をもって

1月2日火曜日晴れ◯
産経新聞の記事です。
<産経新聞2018.1.1 22:03
ローマ法王フランシスコは、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉を付けて広めるよう指示した。ローマ法王庁(バチカン)が1日までに発表した。法王はこれまでも核兵器廃絶を呼び掛けており、改めて平和を訴えた。
バチカンは写真について、亡くなった弟を背負った少年が火葬場で順番を待っているところだと説明。「かみしめて血のにじんだ唇により悲しみが表現されている」と指摘した。
写真は1945年に長崎で原爆が投下された後、米軍の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんが撮影した。カードの裏には法王の署名が入っている。(共同)>
http://www.sankei.com/world/news/180101/wor1801010041-n1.html

この「焼き場に立つ少年」に関連することを過去の日記3日分に書きましたので再掲いたします。

日本人の心をもって
平成21年8月13日木曜日〜15日土曜日
「日本人の心をもって」と題されたインタビューが「ハワイ日系米兵」に掲載されています。
これは元ハワイ州知事であったジョージ・アリヨシ氏のインタビューです。
アリヨシ氏は四四二連隊ではありませんが、米国陸軍に入隊し、戦後、我が国に進駐軍の一員として派遣されています。

IMG_8308以下引用
<進駐軍と一緒に日本に行った。戦後一年後のことで、それもあまり長い間ではなかったので、日本をよく見たとは言えないだろう。
私が一番感心し、印象的だったのは、東京の郵船ビルにいたときに、最初にあった靴磨きの七才の男の子と話したときの事だ。彼はとても困っていて、お腹が空いていた。ハワイでも、靴磨きの子は貧しい家の子だったから、郵船ビルで食事をしたとき、パンにバターとジャムを付けてナプキンに包みポケットに入れて、彼にあげた。
すると、彼はそれを箱に入れてしまった。「どうして?お腹が空いていないの」「空いてるよ。でも、これはマリコに持って帰るから。マリコと一緒に食べるんだ」という。
「マリコって、誰?」「三つの妹です」
私はとても感心した。普通だったら、七つの子供なら、たとえお腹が空いていなくとも、欲しいものはすぐに食べてしまうだろう。それを、彼はものすごくお腹が空いていたのに、妹の事を考えたのだ。
それから私は、いつもPXに行ってハンバーガーを買いポケットに入れて、彼にあげた。そういうところから私は、日本人の気持ちがよくわかるようになった。>
引用終わり
「ハワイ日系米兵」p三一七

このジョージ・アリヨシ氏の話題について、二年程前の産經新聞に掲載された「忘れてしまったもの」と題されたコラムに中静敬一郎氏が書いていた事を思い出しました。
以下引用
<忘れてしまったもの
81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏=写真=から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。
親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。
彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。
「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。
アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」
凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
略)
(中静敬一郎)>
2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」
引用終わり

今の我が国の現状をジョージ・アリヨシ氏も憂いておられます。
そのアリヨシ氏の手紙に書かれていた
「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」
というものをもう一度思い出すときではないでしょうか。
そうすれば、国に求めるばかりで、国に奉仕しようとしない、あの社民党のバカどもがいっしょになって騒いでいた派遣村のれん中の「仕事、住むところ、給料を国が補償しろ」などということがいかにみっともない事か理解出来ます。

今回の選挙も「生活が第一」などと戯けた事をいっている政党が躍進しようとしています。
生活ななどというものは日本という国があって初めて語れるものです。
日本という国の背骨が溶けてしまってはどうにもなりません。

そのひとつが我が国を造ってきた先人に対しての姿勢だと思います。
明日、麻生首相(当時)は靖國神社参拝をすべきです。
それだけでも、今吹いている風が違うものになると思います。

また、アリヨシ氏は下記のようにも述べています。
以下引用
<日系人の会議があって、日本に行ったときの事だ。今の天皇がまだ皇太子だったときで、われわれはご進講をした。二、三人が一緒にいて、そこにブラジルから来た日系人もいた。
私は彼に聞いた。「あなたは何人」「私はブラジル人です」「でも日系人でしょ」「いやブラジル人です」
彼は決して日系人と言わなかった。
略)
ご進講では、皇太子に通訳をするためスピーチの内容をあらかじめ提出していたが、私は、そのブラジル人の顔を見て考えた。私は彼の事を心配した。自分の順番になったとき、通訳の人が出てきたが、その通訳を断って私は、「考え直した事がありますから、話を変えます。日本語は巧くありませんが、自分で話します」と言って話をした。
「私が戦後一年くらいで日本に来たときは、大きなダメージを受けた破壊された国そのものだったが、今、それからあまり時間が経っていないのに(そのときは昭和三十二、三十三年頃)、こんな立派な国になっている。それはどういうことだろう。
日本はモンタナ州にすっぽり入ってしまうくらい小さく狭い国で、資源もなく、すべてを輸入しなければならない国なのに、こんなに強く立派になった。
私は、その答えは一つしかないと思う。
日本人は国を愛して、子供のため、将来のため、国のため、と一生懸命に身を粉にして働いたからだ。
私も同じ日本人の血を受け継いでいるのだから、たとえ世界のどこに行っても、日本人はいかなる問題があってもやっていけるんだという気持ちを持って、各国に帰って欲しい」
私は例のブラジル人の顔を見て話した。そうしたら、彼は涙を流しながら聞いてくれた。そのあと、彼は私の手を握ってくれた。
ブラジルの日系人が、自分の事を「ブラジル人」というのは、もちろんかまわない。しかし、日系人だということを隠してはいけないのだ。隠すという事は、他のブラジル人よりも自分を下に見る事になる。
すると、そこで自分の夢が失われてしまうのだ。私は知事の時に、お祝いの会に招かれ多くのフィリピン人の人の前で話をしたことがある。ハワイではいろんな国から人が来ているが、それぞれ自分の国の文化を忘れないで続けていくことがとても大事なことだ、と私は話した。フィリピンのショーの時も、私は半分はショーを見ていて、半分はフィリピンの人たちの顔を見ていた。面白いのは、みんなの顔にプライドというのが出てくることだ。自分の国の踊りや音楽を前にして、プライドがあらわれてくる。そのプライドがとても大事なのだと言いたい。
どんなときでも、自分が、誰か他人のようになりたい、という気持ちがあってはいけない。日本人が白人と同じになりたいと思ってはダメだ。同様に、フィリピン人が他の人のようになりたいと思ってもダメだ。
というのは、他の人になりたいと思うことは、自分が他の人よりもよくないと思っているからだろう。そう思うことは、自分を抑えてしまうことだ。自分のことをダメだと思ってしまうことだ。
夢というものは、たとえそれが実現しなくても、その方向に向かっていけば自分を向上させることができる、そういうものだ。
それがとても大事なことだ。
ハワイの日系人が、自分の事を「アメリカ人」というのは当然だが、アメリカ人というのはある一つの人種や文化だけではなくて、いろいろな人が集まってできているものなのだ。そして、自分は他人よりもよいということではなくて、他の人と同じ、他の人に負けない、と思う事が大事なことなのである。>
「ハワイ日系米兵」P三二一~三二三

<人種割当で雇う人数を決めたり、入学定員を決めたりすることがあったが、私はそれにとても反対した。誰でも、できるだけ自分の力を使って、自分で勉強する事が大事なのだ。それが平等にできるところまでは政府がしなければいけないが、そこから先はフェアにやって、日系人だろうと白人だろうと黒人だろうと、一番優秀な人が採用され、入学を許されるべきだ。
アメリカでは今まで、白人はたくさんいるからもう白人は雇わないとか、日系人の先生が多いから今度はフィリピンの人を雇うということをやってきた。でも、私はそれをしたくなかった。もしも日系人はハワイに二十二、三%しかいないのに、学校の先生は五十%が日系人だからといって、日系人だからといって、日系人の先生を採用しなくなれば、今から十年もの間、日系人は一人も教師になれないことになる。私は、こうした制度にはとても反対だ。誰でも、自分がなりたいことになれるようにするのが政府の責任だ。
フェアな競争をするべきである。私が、もしも自分より成績のいい人に負けたのなら残念だとは思わないが、私よりも成績が悪いのに、人種が違うから負けたのなら、とても怒るだろうし、決して許さないだろう。
日本がここまで立派な国になったのは、日本人の努力の賜物である。他の国の人よりも、一生懸命に頑張るつもりできたからこそ、よくなったのだと思う。>
P三二五

我が国もアリヨシ氏がおっしゃっているような悪しきアメリカのような制度が存在します。「同和利権」と言われるものがそうです。
京都府などで明らかになった採用枠です。
そして今、「アイヌ利権」と言われるものができようとしています。

下記は日記に引用させていただいた産經新聞に掲載された中静敬一郎氏の文章の後半部分です。

以下引用
終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。
「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。
オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。
こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
(中静敬一郎)
2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」
引用終わり
(写真はネット上にあったものであり、新聞に掲載されていたものより鮮明になっています)

我々日本人が忘れてはならないもの、失ってはならないものがこの写真にあるように思います。

何度も書きますが、国に求める前に、国に国民としてすべき事がある。

西村真悟代議士はご自分のメルマガ「西村真悟の時事通信平成二十一年八月十四日号」において下記のように書いておられます。

以下引用
驚くべき国政選挙である。政治的未熟児の「真夏の夜の夢」に国民が付き合わされている。このマニフェスト選挙とは、税金による買収競争である。従って、国家と国民は戦後体制からの脱却を希求しているのに、戦後体制に安住する政治が与野党協力してそれを阻んでいる。
ケネディーのアメリカ大統領就任式における演説を思い出す。 「アメリカ国民よ、国が君に何をしてくれるのかを問うな。君が国のために何ができるかを問え」
戦後体制とこの度のマニフェスト選挙とは、国民を「国に何をしてくれるのかを問う」だけの存在として位置づけるものである。戦後体制は、日本国民が「国のために何ができるか」を問い始めることを許さない。それが始まれば、戦後体制が崩れ、与野党の政治的未熟児の安楽な生活がもたないからである。
引用終わり

この日本という国を守るためにどうすればよいか。

我が国の為にできることを自分なりに

引用文献「ハワイ日系米兵」編著者荒了寛 平凡社 平成七年刊

今日は部屋から一歩も出ず。
よって酒は飲まず。
猿でもエビでもない。