トルコで讃えられる特攻隊(白襷隊)

平成26年11月26日水曜日雨△ 11月27日追記
 以下特攻隊慰霊顕彰会会誌「特攻 第六号」(昭和二年三月二五日)より
<トルコでは遺族や親族は
 戦没者の愛国的行為を誇りとしている
 第三十八回特攻平和観音年次法要(平成元年九月二十三日)における駐日トルコ大使館付武官ジェンギズ・アルポズ海軍大佐のスピーチ(要旨)
 特攻という偉大な行為の為、祖国に身命を捧げられた英霊を供養する、このような意義深い行事に参列できますことは、外国人の私にとりまして身に余る光栄であります。
 特攻隊員は、再び生還する可能性のない任務を敢然として遂行し、祖国に殉じられたのであります。このりっぱな功績に対し、私は同じ軍人として、心からなる尊敬を捧げる者であります。
 私は回教徒であります。回教では、祖国に身命を捧げて散華した、いわゆる戦没者は、そのまま天国、すなわち神の国に行くと信じられております。
したがって、その遺族や親族は、その戦没者の愛国的行為を常に誇りにしております。私は、本日ここにお集りの御遺族ご友人の皆さんも、この点についてはご同様であろうと信じて疑いません。
 私どもの国トルコでは、日本人は、誇り高く献身的であり、勤勉で愛国的な国民であるということがよく知られております。そして、我々トルコ人もまた、このような特性を持った民族なのであります。この日本人とトルコ人との共通性が、これまで永く両国が親密な国際関係を続けていたゆえんであります。
 トルコでは、今でも統合提督と乃木将軍が有名であります。殊に乃木将軍は、明治三十七~八年の日露戦争において、御令息二人を含む二万名を超す犠牲を冒して旅順を攻略されました。
その際の決死隊の敢闘精神は、先の大戦における特攻隊に引き継がれた者と信じ、トルコの人々は今でも、日本人に対する敬愛の念を失ってはおりません。
 かってオスマントルコ帝国の末期、我々の祖国は敵の手によって占領されましたが、現代でもアタチルク(国民の父)と崇められている、ケマルパシャという英雄に率いられた、無名の愛国者達の勇敢な戦いによって、全土から敵を追い払い、トルコ共和国を建設することができたのであります。この勝利の一因として、日露戦争における日本の決死隊の勇猛果敢な働きに、トルコ人が勇気付けられたことがあったものと私は信じております。
 したがって、私は祖国の為に身命を惜しまなかった人々に、最高最大の感謝と敬意を捧げなければならないと思う者であります。
 最後になりましたが、この行事にご招待いただき、ごあいさつの機会まで与えられました事に、深く感謝申し上げます。
 ここに、特攻によって祖国を救うために散華された英霊のご冥福を心からお祈り申し上げまして、私の拙いご挨拶を終る次第であります。
                      文責訳者・上坂康氏(海兵七十五期)>
 
 
 ジェンギズ・アルポズ海軍大佐のいう旅順における決死隊とは白襷隊のことである。
 白襷隊は、総勢三千百余名による第三回総攻撃における特別支隊であって、夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する。

 
 指揮歩兵第二旅団長中村覚少将 参謀 第七師団蟻川五郎作少佐
 第一師団特別連隊長大久保直道中佐(歩兵第十五連隊長)
  大隊長中原松之助少佐 山田記慣少佐
 第七師団砲兵第二十五聯隊 連隊長渡辺水哉大佐
  大隊長松本浩少佐 平賀正三郎少佐
 第九師団歩兵第三十五聯隊第三十五聯隊第二大隊 大隊長代理田中武雄大尉 工兵第九大隊一小隊 小隊長中山岩吉中尉
 第十一師団歩兵第十二聯隊 一大隊 大隊長児玉象一郎少佐
  
 
 写真は「日露戦争陸戦写真史」(人物往来社 平成九年刊)より
 
 ジェンギズ・アルポズ海軍大佐の言うとおり、この旅順における白襷隊の血は大東亜戦争にて連合軍を震え上がらせた特別攻撃隊へと受け継がれて行きます。
 以下、西村眞悟先生の平成二十年の「西村眞悟の時事通信」よりの引用です
<十一月二十六日の白襷隊三千名
平成20年11月26日(水)
 昨日十一月二十五日は、三島由紀夫と森田必勝自決の日である。昨日の東京の日差しは、三十八年前の十一月二十五日に京都の大文字山麓にある学生寮の玄関にさしていた日差しと同じであった。その時、私は寮に戻ろうとしていた。すると、玄関から寮生が飛び出してきて、私に「三島さんが、防衛庁に討ち入っている」と言った。彼を見つめながら、私はとっさに三島さんは死ぬ気だと思った。その時の彼の顔には、晩秋の陽がさし、木々の葉の影が浮かんでいた。その影の形を今も覚えている。
 
 そして、翌十一月二十六日の今日は、明治三十七年に三千名の白襷隊が旅順要塞に銃剣で突撃して消滅した日である。
 この白襷隊と呼ばれた特別部隊は、中村歩兵第二旅団長の意見具申により、夜間に刀と銃剣で旅順の敵陣に攻め込むために編成された。目印の為に全員白襷をかけていた。
 しかし、旅順要塞は鉄壁の堅城であった。
レーニンが、旅順はクリミア戦争の帰趨を制したセバストーポリ要塞を六つ集めたほどの堅固な要塞だと書いたとおりであった。
 果たして、この日の朝八時に始まった第一、第九及び第十一の各師団による旅順要塞への第三回総攻撃は、ことごとく失敗に終わった。そして、この報告を受けた乃木希典軍司令官は、遂に白襷隊に攻撃を命令する。国家存立のためには、如何なる犠牲を払おうとも、旅順を陥落せしめねば成らないと言う乃木軍司令官の決意が白襷隊への命令となった。
 集合した白襷隊の写真が残っている。死を数時間後に控えた彼らの姿を見るとき、私は言いようのない感動を受ける。こみ上げてくるような慟哭である。目頭が熱くなることもある。この写真は、私がもっとも衝撃を受ける写真である。
 そして、旅順要塞陥落に際して、白襷隊が如何なる役割を果たしたかを振り返るとき、日本人は、決して、この十一月二十六日を忘れてはならないと思うのである。
 確かに、司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」を書いた。これは同氏の功績であることは認める。そして、この本はよく読まれた。しかし、よく読まれたが故に、日露戦争の実相を日本国民の目から隠すこととなった。
 何故なら、司馬遼太郎氏は、「坂の上の雲」で、第三軍司令官の乃木希典を無能の司令官とし、白襷隊の突撃を司令官の無能による兵の無益な消耗と書いたからである。
 従って、この「坂の上の雲」によって、日本人は、武士道に生きたもっとも崇高な武人への敬仰の念と身を棄てて国家を救った英雄を奪われたと言ってもよい。
 この民族の叙事詩を取り戻すためにも、白襷隊が旅順要塞に突撃した十一月二十六日を忘れてはならないと思う。
 白襷隊三千名は、十一月二十六日午後六時に行動を開始し、同九時頃より旅順要塞北側の松樹山方面の要塞に猛然と突入した。近代要塞に、刀と銃剣で突入したのである。そして、一挙に二千名の死傷者を出して隊として消滅した。
 司馬氏はこれを以て無謀と言い、司令官の無能、無能による無益な殺生と言うのであろう。
 しかし、日本国家存立にとって旅順陥落が如何なる意義をもっているのか、また、旅順陥落のために白襷隊が果たした役割を思えば、我が国家と民族は、司馬氏とは正逆の評価を、乃木と白襷隊に与えるべきである。
 白襷隊は確かに全滅した。しかし、甚大な衝撃をロシア軍に与えたのである。ロシア側記録には次のように書かれている。
「余ら、旅順籠城の守兵は、一兵一卒の末に至るまで、各一砦一穴は全露西亜国なりとの観念を深くの脳裏に刻して、血につぐに骨をもってし、骨につぐに直ちに魂をもって死守したるなり。
 しかも日本軍の驍勇堅忍なるや分を得れば寸、寸を得れば尺と・・・営々倦まざること即ちこれをや日本軍の精気なりと言わん。実に、この精気に強き日本軍が精気の弱き露西亜軍を屈服せしめたるなり。
 余は敢えて屈服という。されど一九〇五年一月一日の旅順開城をさすにあらざるなり。
 その前年の暮れ、即ち十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余らをして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。
 この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことはもはや従来の露西亜文学にはその適当なる修飾語を発見するを得ず。・・・数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。総員こぞって密集隊・・・白襷を血染めにして抜刀の姿、余らは顔色を変えざるをえざるなりき。余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く、屈服。」(岡田幹彦著、「乃木希典」より)
 これが、白襷隊の突撃に直面したロシア軍の記録である。そして、レーニンは、旅順の陥落を帝政ロシアに対する回復不能の打撃と評価し、次のように述べた。「ヨーロッパの軍事専門家は、旅順要塞はセバストーポリ要塞を六つ合わせた強さを持つという。イギリスとフランスの連合軍はセバストーポリ要塞を落とすのに一年を費やしたが、彼の東洋のちっぽけな日本軍はセバストーポリを六つ合わせた旅順を数ヶ月で陥落せしめたのである」
 レーニンは、旅順要塞陥落を世界史的事件と捉えている。確かに帝政ロシアの敗北を決定づけた陥落である。世界は、この要塞を陥落せしめた軍司令官を無能とはいわないし、陥落に直結する甚大な衝撃を与えた白襷隊の攻撃を無益な殺生ともいわない。
 これを、無能また無益な殺生というのは、「坂の上の雲」をよく読んだ日本人だけだ。
 決死の白襷隊の攻撃も広瀬中佐の決死の旅順港閉塞作戦も、参加者を募って行われた。軍は、そこに長男は参加させない方針であった。しかし、多くの長男が家が断絶するのを覚悟で参加してきた。そして、祖国のために散っていった。
 (本稿の終わりに、話が今に飛び、はなはだ次元が落ちて申し訳ないが)この歴史を振り返って考えてみてほしい。
 村山富市談話の歴史観で、これら日本を救った英雄が生まれるだろうか。国家の危機に際して、国家を救う任務を担う若者が生まれるだろうか。答えは、否である。つまり、現在は、国家の危機において、国家の為に働く若者を生み出せないことになる。ということは、即ち、亡国。
 よって、正に、村山談話とは、亡国の談話ではないか。
改めて、田母神前航空幕僚長の「司令官の戦い」に敬意を表する。>
 
 
 
 本日、西村眞悟先生は次世代の党より大阪十七区ではなく十六区より立候補される事を明らかにされた。
 その会見で、国防(安全保障)と北朝鮮による拉致されている我が国国民の奪還を述べておられる。そのために障害となるのは公明党であり、これと戦っていくと。
http://www.yamatopress.com/c/34/182/9791/
 
<元航空幕僚長の田母神俊雄氏とともに、石原慎太郎初代代表の意志を引き継いで私が代表を務めておりました「太陽の党」は、この度「次世代の党」(平沼赳夫党首)と合体致しました。
 私は、本日付で、次世代の党衆議院大阪第16区(堺市堺区、東区、北区)支部長に就任し、新たな活動を展開します。
 「戦後体制から脱却して、誇りある日本を取り戻す」という志実現のために、太陽が昇ってこそ次世代があるとの強い決心の下、全身全霊を込めて真の保守勢力確立のために新天地にて戦います。
 時節柄、主旨ご理解の上、皆様の変わらぬご指導ご支援の程、何卒宜しくお願い致します。
平成26年11月26日
  西村 眞悟>
 ぜひ、我が国の為に勝ち抜いていただきたい。
五名様来店。
 一名様来店。
 二名様来店。
 今日は私は大して飲まず。
 サルでもエビでもない。