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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成23年2月分

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


Twitterを始めました。でも、いまいちよくわかりません。(@saketamanegiya)

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

私はMixiでの日記はほとんど書いてはいませんが、私自身のハンドルネームは一合です。一合とっくりのつもりですが、それでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・・


白色テロ

2月28日月曜日氷雨×

 昭和二十二年の今日、二月二十八日は台湾において日本人であった人々が、支那人の蒋介石により三万人以上も虐殺されるといういわゆる白色テロの日です。

 

 西村眞悟氏はメルマガ「西村眞悟の時事通信」平成二十二年十二月十五日号において「台湾 Formosa」と題して下記のように書いています。

以下引用

略)

 ニューヨークの貿易センタービル爆撃以来、タリバンをはじめとするテロリストの危険性が喧伝され、世界は「テロとの戦い」に入った。その戦いは、ビルの爆破などのテロから安全を守るための戦いである。

 しかし、我が国における最大の脅威は、ビルの爆破テロではなく、それ以上の破壊、つまり日本を解体し、屈服させ飲み込もうとする中国共産党の「中華帝国主義」である。

 この世界のテロリストの次元を遙かに超えた邪悪な帝国が我が国と台湾の最大の脅威なのだ。

 

 そこで、その邪悪な中国共産党から東を眺めてみよう。

 アジアを制覇してアメリカをしのぐ中華帝国に膨張するためには、日本をして中国共産党に屈服せしめねばならない。

 日本の屈服無き中共のアジア制覇はあり得ない。

 では、その日本屈服のための密かなそして大きな一手は何か、

それはまず、

 日本と台湾の関係を切断して敵対させることである!

 よって、以上の中国共産党の戦略のなかに、我が国の尖閣諸島への中共の侵略行為を位置づけねばならない。

 もちろん、尖閣を領有して、そこにミサイル基地を設置すれば、台湾と沖縄は掌中に入る、と中共は思っている。

 しかし、同時に、尖閣への領土要求を繰り返す課程で、日本と台湾の分断を中共は狙っていることを忘れてはならない。

 従って、この度のように、中共が露骨に福建省から漁船(軍艦)を尖閣周辺に繰り出してくることは希であった。

 振り返れば、過去に領有を主張して尖閣周辺に押し寄せてくる中国の船は、福建ではなく香港や台湾から出港してきていた。

 そして、中共が来年六月に計画している数百隻の尖閣周辺への出撃も、海外の華僑と便衣兵を使った台湾からの出撃であると伝えられている。

 明らかに、中共は、台湾から日本が尖閣を奪ったと台湾人に思いこませ、中共と台湾の共通の敵が日本であるという図式を造り、その上で台湾を飲み込もうとしているのだ。

 中共の工作員と便衣兵は、東京にも台湾にも何処にでもいる。

 東京の我が国政治の中枢は、既に菅と民主党という中共の手下に乗っ取られている。

 従って、今も、この中共の日台分断という我が国にとって最も危険な謀略が進行している。

 先日の週刊新潮が報じる、民主党議員がこの時期に、喜々として、中国大使の招待ゴルフを楽しむ様は、まさに中共の亡国の対日工作が如何に巧妙かを示している。

 ちんぴらは、このようにゴルフで転ぶが大物は隠れて報道されないところで転んでいる。

 その転んでいる中には、マスコミも入る。

 報道されないはずだ。

 従って、菅亡国内閣と菅総理に期待するのではなく(これらは既に中共の手下だから)、日本国民こそ、この中共の嘘と謀略に気づいて台湾を注視しなければならないのだ。

 その意味で、西村塾の企画によるこの度の台湾訪問は、まさに時宜を得た訪問であり、

「日本国民の祖国と友邦台湾に対する愛」に基づく行動であったと自負できる。

 次に、台湾とは何かということについて述べたい。

 まず第一に、台湾は日本の植民地ではない。

 台湾は日本の国土であった。

 従って、一九四五年の台湾の人口六四〇万人は、皆日本人である。そのうち、二十一万人が帝国軍人・軍属として大東亜戦争に従軍し、三万三千余人が戦没している。人口比から見た戦没者の割合は相当なものである。

 事実、この度の訪問で会った、李登輝閣下ら三名の内、二人が帝国軍人であり一人が軍属である。そして、李登輝閣下の実兄はフィリピンで戦死して靖国神社に祀られている。

 では、日本は、一九四五年の敗戦によって台湾に関して何を放棄したのか。それは、サンフランシスコ講和条約第二条B項にあるとおり。

「Japan renounces all right,title and claim to Formosa and Pescadores.」

 確かに、我が国は台湾に関して、管轄権・処分権(right)、占用権(title)そして領土宣言権(claim)を放棄している。

 しかし、台湾に対する主権を放棄したとは一言も書いていないのだ!

 

 では、一九四五年当時起こりえた事態を想起して考えよう。

仮に我が国が、北海道に関するRight,Title,Claimを放棄する事態に陥ったとき、だからといって、北海道に住む人々がその為に日本人でなくなりソビエト人になるのだろうか。そうではない、日本人のままだ。

 同様に、日本が負けても、サンフランシスコ講和条約が締結されても、台湾の日本人が日本人でなくなるわけではなく、日本人のままなのだ。

 従って、一九四七年二月二十八日の2・28事件以来、

いわゆる白色テロで蒋介石が殺しまくった三万人を超える台湾のエリート達は、皆日本人だった。この2・28事件で、どれほど多くのすばらしい人材が、殺されたか。

 蒋介石は台湾で日本人を殺していたのだ!

 李登輝総統も言われた。

 「私も今ここにおれたかどうか分からない」と。

 以上の事実を踏まえて、私は、十一月の台湾南の竹田で、十一月二十日には大阪の反中国の集会で、十二月十日には台北で、次のように述べた。

「尖閣諸島とその周辺海域は、日本人が開拓した日本の領土であり日本の漁場である。その中に、台湾も入る」

 そして、台北では、「蛍の光」の戦後奪われた歌詞、第三と第四を歌った。それは次の通り。

第三番「筑紫の極み 陸の奥 海山遠く隔つとも その真心は隔てなく 一つに尽くせ 國のため」

第四番「千島の奥も 台湾も 八洲のうちの 護りなり 至らん國に 勲しく 努めよ我が背 恙なく」

 私が歌い終わると、蔡焜燦さんが、「知らんのか、日露戦争の後で歌詞が変わったんだ」と言って、第四番を歌い直された。

「台湾の果ても 樺太も 八洲のうちの 護りなり・・・」と。

 李登輝閣下の言われたことを次に書いておく。

 

 中国は、ただ皇帝のためにのみ存在してきた。五千年間変わらない。これからも変わらない。共産党も国民党も同じだ。

 中国とは、自分の利益と財産を殖やすために國を治め、余力があれば他国を支配する。

 

 尖閣は日本のものだ。

 中国のものだという証拠、何処にあるか。

 

 中国を封じ込めねばならない。その第一の要諦は、中国の嘘に騙されないことだ。

 

 私は、来年九十歳だ。しかし、九十歳になっても、歩けるところまで歩いてデモをする。

 馬(国民党の総統)を捨てて台湾を護るためだ。

 引用終わり

 台湾には二つの人種がいる。

 日本人であった人々と支那人である。

 先週、今週と台湾よりのお客様が来店予定です。

 

 今日は夕方、店に寄り資源ゴミを出した後に江戸川橋の「一笑」さんに伺う。

 Kさんがいらしていた。後に入っていらした若いカップルの方から声をかけていただいた。先週土曜日の午前二時頃に初めて来店いただいたようだが、すでにサル状態だったので、まったく記憶にない。

 其の後、新橋の「うさぎ」さん、「カッシーズバー」さんに伺う。

 ドンチャン。

 サル、猿、SARU、申、・・・・・・・

 


ヴィンテージコニャック・アルマニャック

2月27日日曜日晴れ ○

 最近、蒸留酒を飲む機会が減っているというより、醸造酒の方が楽な感じがする。

 日頃ワインの事で大変お世話になっている中田屋さんからアルマニャック、そしてコニャックのご案内を随分前に続けていただいたことがあった。

 その時はアルマニャックは一九九〇年から一番古いヴィンテージが一八九三年。

 コニャックはこれも一九九〇年から一番古いのは一八一四年とこれまたすごいヴィンテージ、

 どちらも単一ブランドながら、バットヴィンテージの私の生まれ年はすっぽりと抜けていた。

 トホホッ・・・・・

 中田屋さんのホームページです。

http://www.winenakadaya.com/

 

 お誕生日ワインなどお探しの時は、オーナーの小久保さんに相談してみてください。きっと、いい答が見つかると思います。

 ちなみに、うちで一番古いアルマニャックは一九〇一年です。というより、アルマニャックはこれ一本きりだったような。

 

 今日は昨日の後片付け。

 おしぼりもすっかり無くなったし、冷蔵庫の中もそれなりに材料がさばけている。

 夕方より、スポーツセンターに行くつもりで出かけたが、なんとなく気乗りせずにそのまま芳林堂さんに寄って雑誌などを三冊購入後、地下のトンカツ屋さんで食事を済ませて帰宅。

 風呂に入った後は、ゴロゴロと眠くなるまでマンガの本を読んでいた。

 部屋の灯もつけっぱなし。

 酒は飲まず。 


平成23年2月27日追記

 2月15日の新幹線のホームの高さについての日記に関して、福岡県のSさんからご指摘をいただきました。

<子どもが落ちた高さ新聞報道の2.6メートルと新幹線車両の高さ関係がおかしいとの指摘ですが、
おそらく(現地で実測はしていませんが)作業通路の床面とレールの上面と新聞報道の図によると、1,350ミリの段差があると思われます。(図そのものが間違っている)
つまり、作業通路はレールより下にあることになり、通路の床面からコンクリートの基礎によりかさ上げされている形だと思います。
この構造は都内の在来線でも同じような構造ではと思います。>

とのことです。Sさん、ありがとうございました。


酒たまねぎや飲んべえの会 義侠

2月26日土曜日晴れ ×

 今日は午後三時から当店の飲んべえの会。

 今回は山忠本家「義侠」(愛知県)。

 蔵元の山田社長もいらしてくださり、ドンチャン。

 一番遠くからのお客様は台湾からの葉さん。

出品酒

NO.1 義侠 妙 純米大吟醸 30%    平成6年発売

NO.2 義侠 妙 純米大吟醸 30%    平成12年発売

NO.3 義侠 妙 純米大吟醸 30%    平成22年発売 2本

NO.4 義侠 慶 純米大吟醸 40%     平成4年発売 

NO.5 義侠 慶 純米大吟醸 40%     平成22年発売

NO.6 義侠   純米大吟醸 30%    平成4年発売

NO.7 義侠   純米大吟醸 30%    平成6年発売

NO.8 義侠   純米大吟醸 30%    平成7年発売

NO.9 義侠   純米大吟醸 30%    平成8年発売

NO.10 義侠   純米大吟醸 30%    平成22年発売

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酒は、それぞれがいい熟成だったと思います。

 とくに、六番の三十%は生だったので、不安だったのですが、妙以外では一番人気でした。

 一番人気は「妙 平成六年発売」、その次が「妙 平成十二年発売」でした。

 それぞれ、在庫はあと三本と二本のみ。

 

 

 

 

 葉さんをはじめ、多くのお客様、ご参加いただきありがとうございました。

「午後三時より六時まで(あとは成り行き)」と案内に書いたが、本当にそのとおりになってしまいました。

 ドンチャンは普通営業としてお店にいらしてくださった方も混じって、延々と続きました。

 最後は私はカウンターの中で寝てました。

 今日もサル以下。


 

飲んべえの会 初亀

2月25日金曜日晴れ ○

 先日、初亀さんに伺った時に「初亀・飲んべえの会」の日程が橋本社長とお話しさせていただき、決定いたしました。

平成23年6月26日日曜日午後3時より

会費15,000円

定員15名様

出品予定酒

NO.1

平成23年発売

初亀 鑑評会出品酒 (限定33本) 2本

NO.2

平成23年発売

初亀 亀 純米大吟醸 3年古酒 (19BY)

NO.3

平成22年発売

初亀 亀 純米大吟醸 4年古酒 (18BY)

NO.4

平成16年発売

初亀 亀 純米大吟醸10年古酒 (12BY)

NO.5

平成9年  発売

初亀 亀 純米大吟醸16年古酒 (5BY)

NO.6

平成23年発売

初亀 中汲み大吟醸       (22BY)

NO.7

平成23年発売

初亀 滝上          (22BY

NO.8

平成23年発売

初亀 瓢月 クラッシック  (21BY)

NO.9

平成23年発売

純米吟醸 山田錦(21BY) 2本

NO.10

平成6年発売

大吟醸斗瓶取り 17年古酒(5BY)

 

 五月は未定ですが、平日に何かさせていただきます。

 

 今日は、春一番が吹き気温が二十三度まで上がったそうです。

 学生時代は、今の時期はいつも合宿で、春一番が吹いた時は沈艇続出でした。

 今頃の能登の海は十二月の海より冷たく、辛かった事を思い出します。

 今日は、メチャ忙しい。

 Kさん、Sさん来店。

 目黒の清水さん来店。

 バンブーさん来店。

 Oさん来店。

 Sさん来店。

 Iさん三名様で来店。

 Kさん、お父上と来店。

 Kさん二名様で来店。

 Aさん二名様で来店。

 Sくん来店。

 Tさん来店。

 Oさん二名様で来店。

 今日はメチャ忙しかったので、酒は営業終了間際まで飲めず。

 後片付けも終わり、さあ、飲みに行くぞと思ったら、電話が通じず。


 

初亀「縁 プレミアム」

2月24日木曜日一時小雨 ○

 今回、初亀醸造さんにお邪魔させていただき、ある意味一番の収穫だったのが、

初亀「縁 プレミアム」生。

 

 等外の山田錦を使用しているため、山田錦使用と表示出来ないが、六十%精米で一升瓶の仕入れ価格で税込み二千百円です。

 バランスもよく、この価格帯の酒としては、コストパフォーマンス抜群でお勧めです。

 寝かせるとかではなく、今、飲んで旨い酒だと思います。

 当店では一杯二百五十円です。

 下の写真は先日、部屋を整理していて、出て来た五本指靴下。

 

どういうわけか、左足が十足、右が二足。この五倍の差はなんなんでしょう。

 今日はメチャヒマ。

 Kさん来店。

 のみ。

 サッサと寝る。

 酒は飲まず。

 当然、サルでもない。


 田中屋さんへ

2月23日水曜日晴れ △

 午後から、目白の「田中屋」さんに久しぶりに伺う。

 

 ここは酒好きにはたまらない店であり、どれだけいても飽きる事はない。まさに、大人のワンダーランド。

 マディラワインでは一七八〇年ものまである。(四四万)

 残念ながら、探していたワインはなかったが、別のワイン、リキュールを購入。

 

 

 今日は江上三兄弟来店。

 お父上である江上茂氏は陸軍中野学校の武道の教官をされていて、戦後、船越義珍先生の後を継いで二代目松濤館館長。

 

 江上さんとは三十年以上前、メキシコに江上さんが武道の普及に行かれている時にグアダラハラの一泊八百五十円の安ホテルで知り合ってからのおつき合い。

 台湾からKさん、Rさん来店。

 Rさんのお母さんは「夕焼け小焼け」をよく歌っていたそうで、お父上は、Rさんに「兵隊さんよありがとう」を歌って聞かせていたそうで、林さんも息子さんに歌って聞かせてそうな。

 東一純米大吟醸選抜酒でドンチャン。

 

 営業終了後、近所の「Arrivee」さん、「エムズバー」さんとハシゴ。

 其の後、まだやっているだろうと中野の「石松」さんへ。

 帰りは電車が動いていたと思うが、「石松」のマスターとは二人で西船橋まで行って、また中野まで帰ってきた前科があるので、電車に乗らずにタクシーで。

 記憶はそれなりにあったと思う。

 ちょっと、自信ないですけど・・・・・

 でも、一応サルよりマシ・・・・だと思う。


2月22日火曜日晴れ △

 河岸で、明日の予約のアンコウ鍋用の二・五キロの活け鮟鱇を仕入れる。

 明日が河岸が休市なので、今日一発となるので、昨日競り落としておいてくれたらしいが、鮟鱇が水槽でも一日ぐらいは大丈夫と初めて知る。

 競り落としてくれた一吉の社長も知らなかったらしいが、濾過用の水槽に入れておくと一日ぐらいは平気らしい。

 香港よりのお客様、金曜日のご予約はキャンセルという連絡あり。

 へべれけさん、Hさんと来店。

 ナベちゃん来店。

 ワンちゃんのお父上が癌で御亡くなりになったそう。

 Sくん四名様で来店。

 アクシデント・・・・・・

 明日は用があるのでランチを休みというWさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


海保が協力。まじ?2

2月21日月曜日晴れ ○

 いかに外務省、海上保安庁が嫌がらせをしたか、西村氏の著書には「官憲の執拗な嫌がらせ」として下記のような事が書かれている。

 

 ちなみに、石原氏の友人の船は、オーナーは日本人であるが、船籍はイギリス、船員はフィリピン人であった。

< 五日午前八時、船が石垣港に入った。五五〇トンの船である。私はホテルの窓から双眼鏡で船の入港手続きの様子を眺めていた。船には石原慎太郎さんが乗っている。しかし、どうもおかしい。何かトラブルがある様子である。心配していると、午前十一時頃、私の部屋に石原さんがやってきた。かなり立腹している。トラブルというより、我々の尖閣上陸を阻止する為の官憲の妨害だった。確かに、船は入港した。しかし、入管(出入国管理事務所)がフィリピン人船員にビザを出さない。そのため、入管手続きを経ずにこのまま出航すれば、船員が不法入国として逮捕されてしまう事になる。

 さらに、海運事務所の官吏が船に乗り込んできて、フィリピン人船長に明治三十二年制定の船舶法の条文(第三条)を持ち出して、外国船は許可なく「不開港場」つまり、尖閣には行ってはいけない。もし行けば逮捕する、と圧力をかけたわけである。

 私は、早速入管に行った。しかし、入管事務所は鍵が掛かっていて誰もいない。そこで、私は隣の海運事務所に入った。「東京の法務省に電話してくれ。船が入っているのに入管職員がいないとは、どういうことか」と、つい大声になってしまった。そして、しばらく、海運事務所長と船舶法の解釈に関して押し問答をしなければいけなかった。

「尖閣へは許可がなければ行けない」と所長は言う。「では、許可を出してくれ」と私が言う。すると彼は「許可申請は東京へ郵送して東京で決済をもらう」と答える。

 これでは、迫ってきた出航時間に間に合うはずがない。彼が遠回しに言った事は、尖閣の近く迄なら行ってもいいが、そこで停泊してはいけない、ということであった。

 ここまで確認しているところに、入管の所長と職員がやって来た。私が「なぜ船が入港してきているのに仕事をしないのか」と問うと、「いや、これから船に行きます」と言い、書類の準備をしている。私がさらに「四時間近く放置したのはなぜか」と追及すると、「いや、これから行くんです」と言いながら、彼等は船に向った。これでビザの一件は片付いた。>

P二十一〜二十二

 <残された問題は、外国船であるために尖閣で停船できないということである。停船できないということは、上陸できないということにほかならない。何があっても上陸する覚悟の私は、仲間市議と会い、漁船で尖閣に行く覚悟を決めた。だが、漁船は四・五トン、四人しか乗れない。多くの同志が同乗出来ないことになった。私と同じ思い出石垣までやってきた彼等の事を思うと痛みが走った。

 午後三時、石原さんと会って、事態を説明した。外国人船員を犠牲にして上陸はできないと。そして、「アタック隊として四人が尖閣に上陸する。石原さんの船には、サポート隊として尖閣まで来ていただきたい」と頼んだ。

 この頃には、マスコミの取材が濃密になってきていた。もしアタック隊の事がマスコミに伝わると、官憲に漏れ、再び妨害にあう危険がある。私は同志にも黙っていた。漁船で行くと決めてから、私は海上保安部に向った。そして「私は石垣では漁師である。そのつもりで対応してほしい」と伝えた。これは漁船の船長に迷惑をかけないためであった。漁船に漁師以外の人間を乗せていると、また彼等が船舶安全法などの関連法規の細かい条文で妨害してくる。だから、私はこの時漁師になったのである。

 午後七時、皆で集まり食事をした。官憲の動きを見て事態を察知していた同志は、そのことは何も話題にせず、楽しく語り合った。そして八時三十分、上陸するアタック隊のメンバーを発表した。同志は黙って、私の指示に従ってくれた。

 アタック隊のメンバーは私と仲間市議、それと不詳宮嶋の愛称で有名なフリーカメラマン・宮嶋茂樹氏とビデオカメラマン・稲川和男氏の四人だが、私達は仲間市議の自宅で乗船の時を待った。そして、監視がなくなった午後十一時に行動開始、乗船して座る間もなく船は動きはじめた。十一時二十三分だった。>

P二十二〜二十三

 

 

 

 西村眞悟氏の尖閣諸島上陸を「阻止」しようとする我が国の海上保安庁が「活躍」する写真がこの西村氏の著書には掲載されている。

 

 西村氏は尖閣諸島沖十メートルのところにアンカーリングして、ゴムボートで翌日、八時三十分に上陸したが、そのたった十メートルを十分間もかかって上陸している。それほど、潮の流れが速いのである。

 西村氏は慰霊碑に靖國神社からいただいたお神酒を捧げている。

 

 この西村氏の行動に対し、支那人女スパイと懇ろになったと噂されている橋本龍太郎首相は「地主の意志を無視した」と非難し、池田外相、梶山静六官房長官は、支那の感情を害したと非難している。

 

 支那はそれに対して、

「西村の行動は中国の主権に対する重大な侵害である。なぜなら、彼は中国領である尖閣に無断で侵入した」

というある意味適切なコメントを出している。

 西村眞悟氏は

<日本領土に行く日本人を非難し、そこを中国領として上陸する中国人、日本領海を中国の海と公言して航行する中国海洋調査船を、ただ眺めている日本国政府とは、一体何であるのか。本当に我が国の政府であるのか。>

 と、書いておられるが、その通りであり、それは自民党政権時代から現アキカン政権まで延々と続いて来ている我が国の病根である。

 警察であれ、海上保安庁であれ、自衛隊であれ、組織として政府には逆らえないのである。

 福田政権の時には長野において、警察は日本人を護らずに、暴虐の限りを尽くしている支那人を護った。

 アキカン政権に於いては、北沢俊美防衛相直轄の防諜部隊「自衛隊情報保全隊」が、陸上自衛隊OBの佐藤正久自民党参院議員や田母神俊雄元航空幕僚長の講演に潜入し、現職自衛官の参加状況を監視している。

 そして、尖閣諸島の行政管轄権を持つ沖縄県石垣市が求めていた同諸島への上陸を認めないだけでなく、尖閣近海で操業する日本漁船に対して、海上保安庁の執拗な立ち入り検査など嫌がらせを繰り返し、自国の領海での漁をさせないようにしている。

 各組織の現場の人間がどのような思想信条を持つかは知らないが、国家の組織である限り、その時の政府の指示には逆らえないのは当然である。

 それは、自民党政権下においても同じである。

 自民党政権であった時代から古くは来栖氏、最近では田母神氏への時の政府の対応を見ればよくわかる。

 そして、売国奴はどの時代にも居る。

 今日は朝起きて、風呂に入った後、午後より店に寄りいろいろと雑用を済ませる。

 後は、部屋で何もせずにゴロゴロとして一日が終わる。

 酒は飲まず。


 

磯自慢さんへ

2月20日日曜日晴れのちくもりのち雨 △

 今日は当店のお客様方と磯自慢さんへ伺う。

 朝は、ホテルから「蔵の道」とかをテクテクと歩いて蔵元さんへ。

 寺岡社長が蔵を案内してくださる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静岡駅で昼食。

  

  

 

 帰りの新幹線では寺岡社長の勧めで回数券でグリーンで帰る。

 当然、プチドンチャン。

 

 

 東京駅に着いてから、グランスタの長谷川酒店でプチドンチャンをやり解散。

  

 


初亀さんへ

初亀さんへ

2月19日土曜日晴れ △

 今日は当店のお客様方と初亀醸造さんへ伺う。

 行きの新幹線の中からプチドンチャン。

  

 蔵元では橋本社長自ら案内してくださり、お世話になる。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜は焼津駅近くの「蓬莱荘」にてドンチャン。

 

 

 

 其の後、ホテルの部屋にてドンチャン。

 


 

オーストラリアワインの会

2月18日金曜日雨のち晴れ

四月のワイン会出品予定ワイン

いずれも、南オーストラリア・バロッサヴァレー

赤ワイン

トゥー・ハンズ・アレス・シラーズ 2004

エルダートン シラーズ "コマンド" バロッサヴァレー 2004

グリーノック・クリーク
 アリスズ・シラーズ2006
 アプリコット・ブロック・シラーズ2005

 セブン・エーカー・シラーズ2005

 ローエンフェルト・ロード・シラーズ2004

他に白ワインなど。

 午後よりスポーツセンターに行く。

 今日は一時間半しか時間がなかったので、三セットずつで終わるメニュー多し。

 ベンチプレスで初めて一緒になった人は百キロ十回セットを十セットはやっていた。

 まあ、身体もでかかったが。

 ただ、下半身は異常な程に貧弱。

 ええのかな・・・・・

 バンブーさん来店。

 ふぉるぼーれさん来店。

 Aさん来店。

 恭子さん三名様で来店。

 Wさん御夫妻来店。

 今日はほとんど飲まず。

 営業終了後、店の片付け。


 

朝鮮総聯系大学といわれる「大阪経済法科大学」の異様さ2

2月17日木曜日晴れのち雨 △

 そして、このような大学に元NHK記者である吉田康彦氏なども教授として在籍(現在、同大学アジア太平洋研究センター客員教授)しているだけでなく、そのアジア太平洋研究センター所長は猪口邦子議員の師である武者小路公秀氏であり、同時に武者小路氏は金武義氏の記事に出てきたチュチェ思想国際研究所の理事でもある。

 反日活動で有名な売国奴・内海愛子女史も同じく大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授です。

 それだけでなく、これまた反日国会議員どもが多く教授として抱え込まれている。

<北スパイ疑惑の大阪経法大 客員に国会議員八人 >これは 「週間文春」九十九年11月11日号に掲載された記事で、大阪経済法科大学で八人の国会議員が客員教授として報酬を受けていたことを暴露している。

   文部省からも客員の大幅超過など管理・運営に「問題あり」と指摘されている同大に、客員教授と名を連ねる八人の国会議員は、

岩國哲人 (民主党)

仙谷由人(民主党)

中野寛成 (民主党)

樽床伸二 (民主党)

山本孝史 (民主党)

齋藤勁 (民主党)

谷畑孝 (自民党)

中村鋭一 (自由党)

(いずれも平成十一年当時の所属政党)

いずれも報酬は一律月額七万円を受け取っている。

「橋本前首相の中国人女性スパイ疑惑」を追求するメンバーの一人の仙谷議員は、父母相手に記念講演をしただけで学生に一度も講義をしたことがない。

 齋藤議員も一度も講義をしていない。

 そして、その八人+一人が熊谷貞俊(民主党)という人間のクズである。

熊谷氏のホームページには

<1979(S.54)年カリフォルニア大学バークレー校客員研究員>

と客員研究員の事は書かれているが、どういうわけか北朝鮮放火大学もとい大阪経済法科大学客員教授の事は書かれていない。

そして、北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会の委員でもありながら、昨年平成二十二年十一月四日に行われた衆院拉致問題特別委員会で、横田めぐみさんの父、滋さんら拉致被害者家族らが参考人として招かれ、意見を述べた時に、「無償化は子供たちを支援するもので、嫌がらせをすれば国の姿勢が問われかねない」と反論しただけでなく、質疑終了後も家族会メンバーに近寄ってきて、「こんな嫌がらせをするから、あなたたちはダメなんだ」などと、しつこく言いがかりを付けてきたという。

 そりゃあ、そうだわ。国会議員のくせして、犯罪組織朝鮮総聯系大学の客員教授やってる人間のクズだもの。

 電話がチリンとも鳴らず、今日はオチャッピーかなと思っていたら、Kさん兄弟来店。

 でっ、遅くなって

 金ちゃん、マロさん来店。

 Mさん、侑さん来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 Oさん三名様で来店。

 と、大忙し。

 ドンチャン。

 記憶あり。


 

朝鮮総聯系大学といわれる「大阪経済法科大学」の異様さ

2月16日水曜日晴れ △

 大阪経済法科大学、昭和四十一年にパチンコとソープランド(当時はトルコ風呂)で儲けた金尚淑(キム・サンスク金沢尚淑)氏により設立された。

平成二十二年十二月現在に同大学のHPにて、朝鮮人教授、準教授、講師が確認出来るのは

法学部 教授13名中2名 15、4%

魏 栢良 大阪市立大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得

蔡 秀卿 名古屋大学大学院法学研究科 博士

 準教授3名、講師2名中なし

経済学部 11名中4名 36、4%

金 哲雄 大阪府立大学大学院経済学研究科、経済学博士

朱 東平 大阪市立大学大学院経済学研究科・経済学博士

崔 潤鎔 大阪市立大学大学院経営学研究科 経営学博士(大阪市立大学)

梁 官洙 大阪市立大学経済学博士課程 経済学修士

準教授 5名中1名20%

朴 宗彬 京都大学大学院経済学研究科博士課程修了 経済学修士(京都大学

講師4名中無し

教養科目 22名中10名 45、5%

呉 清達 大阪大学大学院工学研究科 工学博士(大阪大学)

高 博  大阪府立大学大学院農学研究科 農学博士(大阪府立大学)

宋 南先 ロンドン大学大学院 Ph.D.(ロンドン大学)

康 祥隆 大阪大学大学院工学研究科 工学博士(大阪大学)

呉 志賢 大阪府立大学大学院 工学研究科、博士(工学)

呉 満  文学碩士(国立ソウル大学校文理科大学大学院言語学科)文学博士(国立慶尚大学大学院国語国文科)

勝 英雄 大阪体育大学 体育学士

金 成秀 フランス・ニース大学 文学博士(ニース大学) 「朝鮮大学校OB(宝島30より)」

宋 在穆 英国ロンドン大学東洋アフリカ学部 言語学博士(ロンドン大)

洪 邦夫 大阪大学大学院理学研究科高分子学専攻 理学博士(大阪大学)

準教授 11名中2名 18、2%

高 東敬 関西大学大学院 工学研究科電気工学専攻修士課程工学修士(関西大学)

呉 紅敏 大阪府立大学大学院経済学研究科・経済学博士(大阪府立大学)

講師3名中1名 33%

朴 恵一 熊本大学大学院社会文化科学研究科教授システム学専攻 修士(学術)

その他外国人教授、準教授、講師

教授

バルダス・グスタボ 大阪市立大学大学院経済学研究科 経済学博士(大阪市立大学)

伍 躍 京都大学大学院文学研究科、文学博士(京都大学)

華 立 中国人民大学研究生院中国史(清史)学科

歴史学博士(中国人民大学) 

準教授

姜 若冰 京都大学大学院文学研究科、文学博士(京都大学)

講師

クリストファー・カー Monash University--Rusden State College

教育学修士(B.Ed)

このように、外国人教授、準教授、講師がたった五名であるが、教授に関しては、四十六名中十六名の約三十五%が朝鮮人である。

特に教養科目は四五・五%もの教授が朝鮮人、あるいは朝鮮系です。

我が国における在日朝鮮人の割合からみて、我が国の大学として異常な数値というだけでなく、朝鮮総聯に属している人物が多いそうです。

そして、我が国の文科省よりの私学助成金を一度も受け取っていない。

これはどういう事か。助成金を受け取れば、それだけ大学に対しての審査も厳しくなる。

 此の大学を取材した後に怪死したジャーナリスト金武義(きむ・むい)氏の「疑惑の北朝鮮『付属』大学大阪経法大は朝鮮総聯のスパイ拠点か!?」と題した「宝島30 一九九五年八月号」には下記のような記事が掲載されている。

以下引用

学園浸透スパイ事件

一九七〇年代、韓国では在日朝鮮人を交えた「北朝鮮のスパイ事件」の摘発が相次ぎ、日本ではそれに対する救援運動が盛んだった。

もっとも有名なものがいわゆる「徐兄弟事件」だろう。今も終わらない民衆不在の南北対立が、もっとも激化した時代だった。

救援団体が発行した資料を見ると、他にも「基幹産業スパイ団事件」「大物スパイ団事件」「統一戦線形成スパイ団事件」「学園浸透スパイ団事件」等と、おどろおどろしいネーミングを施された事件が多数列挙されている。

七〇年代当時の朝鮮総聯社会では、「スパイ事件」はまったく架空の話ではなかった。当時、朝鮮総聯組織ないしはその周辺で、対南工作(=スパイ)活動に勧誘された経験がある者は、決して少なくはない。

現・経法大副学長(教養部教授)の呉清達(オ・チョンダル)氏は、このうちの「学園浸透スパイ団事件」(または、発表された日付をとって一一・二二事件ともいう)の首謀者として韓国当局に名指しで指弾されている。呉氏は大阪大学工学部に学び船舶工学を修めた人で、後に工学博士となった。

学園浸透スパイ団事件は、七五年に摘発された。主に関西出身の在日留学生十八名が逮捕され、七七年三月までに三名の死刑を含めて全員の有罪が確定する(後に減刑)。規模の大きさから言えば、数あるスパイ事件でも有数のものである。

『東亜日報』など韓国の日刊紙の報道によれば、逮捕された在日の青年たちは六八年からたびたび極秘に入北し、朝鮮労働党の党員となり、対南工作教育を受けていたという。

彼らはその後、留学生として韓国に渡り、学生生活を送るふうを装いながら、金日成主義による反体制地下組織を広げていった。もちろん目的は「赤化統一」−−韓国政府を打倒し、北朝鮮主導の革命を起こすことだった。

判決文には、彼ら工作員のオルグ・教育に携わった黒幕として、朝鮮総聯活動家ら十三名の名前が挙げられている。これら「指導員」の筆頭であるとされたのが、他ならぬ呉清達氏なのである。呉氏は、阪大在学中は朝鮮総聯の傘下団体である留学同(=在日本朝鮮留学生同盟)、卒業してからは同じく科協(=在日本朝鮮科学技術協会)に属した、総聯の第一線の活動家だった。

六八年、北朝鮮から導入した工作員たちが、大統領官邸を襲撃したいわゆる「青瓦台事件」を契機に、韓国政府は全国民に対し在民登録法の改正を実施した。もちろん、工作員の浸透を防ぐための政策だった。これにより、それまで韓国国内へ直接スパイを派遣していた北朝鮮は、朝鮮総聯を利用して日本経由でスパイを送り込む方法を採るようになっていった。

当時、朝鮮総聯活動家の間では「鳩を飛ばす」という隠語で、対南工作活動を表現していた。その実態は、韓国渡航を不自然に思われない民団系あるいは日本に帰化した同胞たちをスパイに仕立て、送り込むことだった。

韓国の反共法は、言論の自由を根底から否定したもので、これに基づいて摘発されれば死刑の可能性があることも周知の事実だった。つまり朝鮮総聯活動家たちは、将来のある若者を「祖国統一」の美名のもとに平然と死地に追いやっていた、いわば確信犯だった。そして経法大副学長の呉氏もまた、自らの手で「鳩を飛ばして」いたと疑われている(もちろん彼は、マスコミの取材などに対し、まったくの事実無根であると主張している)。

現在も韓国領事館サイド(すなわち領事館を通じて情報収集を行なう国家安全企画部サイド)が経法大の動きにナーバスなのは、副学長の要職にある皆が(韓国当局の認識では)かっての国家破壊策動者だったからである。

略)

「信じられないでしょうが、初代事務局幹部には、佐々木組(後に一和会に属した広域暴力団)の人間が就任したくらいです」

学生や教員がこのような事態を容認するはずもなく、スタート早々経法大は紛争に揺れる。事態の収拾にウンザリした金沢氏は、大学を手放そうとさえ考えるようになる。「せっかく在日同胞が作った大学なのに、あまりにもったいない−−それが大学に関係していた同胞の氣持ちでした」

朝鮮総聯は、中央から最高幹部を大阪に派遣して、金沢氏に翻意を迫った。朝鮮総聯の動きに対抗し、韓国民団も有力商工人たちで金沢氏を開む懇談会をつくり、脱得に当った。やがてそれは、学生を蚊帳の外に置いたまま南北の主導権争いとなってゆく。とりあえず事態が収まったのは、在日社会では、"名言”とされている、尹氏の次の宣言である。

「この大学は、同胞の手によって築かれた、いずれは統一した祖国に捧げるべき民族財産です。ここは一番、皆さんで力を合わせて守ってゆきましょう」

なるほど在日にとっては名言かも知れないが、そこに日本の若者たちが学ぶ高等教育機関であるという意識は微塵もない。初老氏は語る。

「金沢さんの子息の家庭教師をしていたのが縁で大学に入ってきたのが呉清達氏でした。金沢さんは八五年十月に亡くなり、以後、経法大の経営は子息たちが引き継ぐ。若い彼らに代わって実権を握ったのは呉氏です。それから経法大は在日同胞の財産ではなく、露骨に北朝鮮勢力に占拠されることとなりました」

北朝鮮勢力と決めつけるのはともかく、金沢氏の死後、呉清達氏の影響力が強くなっただろうことは、例えば学校法人登記簿からも見てとれる。

呉清達氏白身は、八一年二月に理事に就任しているが、創立者の死去前後からかつての教え子てある二人の子息−−金俊行(キム・ジュネン 金沢俊行)氏、金俊孝(キム・ジュンヒョ 金沢俊孝)氏が理事に就任する(ちなみに、兄弟は他にもいる)。そして、それ以降、それまでの理事名簿には名前のなかった人物たちが相次いで登場してくるのである。

半年後の八六年四月七日には、科協に所属し、呉氏の腹心と目される教養部教授の南正院(ナム・ジョンウォン)氏が理事に就任する。そして、九三年三月にはやはり科協出身で教養部教授の高博(コウ・バク 石山博)氏が理事となる。こうして実に、八人の理事中過半数の五人を呉清達氏の影響が強い在日同胞が占めるようになった。

略)

現・千葉大学名誉教授の福尾武彦氏は、教養部教授として経法大に五年間在職したことがある。福尾氏は、「私はもう経法大と何の関係もないし、取材に答えたことで失うものは何もないですから」と、今回の取材でただ一人実名で答えてくれた。

「学内では、呉清達氏をはじめ幹部の皆さんが北朝鮮系列であることは周知の事実でした。そして、その理事会の専横が強い非民主的な学校でしたね。私はいくつかの事例で、これはおかしいなと痛感しました」

略)

バラ捲かれた怪文書

九三年、主に西日本の少なくない高校に三通の差出人不明のワープロ怪文書が送りつけられた。いずれも「大阪経済法科大学特集!」と銘打って、ふざけた調子で徹底的に大学をこき下ろしている。

「(経法大は)国際交流の一環としてルーズベルト大学(中略)北京大学の各語学セミナールと姉妹校提携を結んだ。同大学の朝総連グループは、これを基盤にソウル大学との姉妹校提締を積極的に図っている。同グループは、表向きにはソウル大学との提携によって大学株を上げることとしているが、真のねらいは対韓工作の拠点作りではないかと関係機関では見ている」

ここに出てくる「韓国民主回復統一促進国民会議」(略称・韓民統)とは、七〇年代に韓国民団から分裂した在日政治団体のことである。反共・軍政反対・民主化要求・在日政治犯釈放を一貫して運動方針として掲げ、一定の成果を挙げてきた。

現在は在日本韓国民主統一連合(略称・韓統連)と改称し、反共主義は保ったまま「民族和合」を謳い朝鮮総聯との共同歩調をとることが目立ってきている。

故・金沢理事長の子息たちは、韓民統青年組織の最高幹部だった。韓国の公安が経法大に対して警戒を緩めない根拠の一つは、呉清達氏らバリバリの朝鮮総聯活動家とともに、彼の影響下にある韓統連勢力の存在があるだろうことは疑いがない。

略)

平壌での大晩餐会

経法大には四つの付属研究所があり、その中でもっとも活発に活動しているのが「アジア研究所」である。大学としての専門にない社会学分野の研究所が充実しているのもおかしな話なのだが、ここは「朝鮮統一のための国際シンポジウム」をはじめ、いくつかの国際的規模のシンポジウム・学会を開催している。

「アジア研究所の研究員は、もう八割が学外の在日たちです。われわれ正規の教員の立つ瀬がありません」(現職教員)

アジア研究所で興味深いのは日本人著名学者のネットワークである。日本評論社から出版された「南北朝鮮統一論」(アジア研究所編)には、代表編者として、経法大経済学部教授の姜昌周氏(朝鮮総聯の傘下団体である在日本朝鮮社会科学者協会〈略称は社協〉に所属)とともに、立命館大学教授の関寛治氏の名がクレジットされている。

関氏はアジア研究所の研究員でもあるが、あまり一般には知られていない別の肩書きを持っている。金日成思想を学び、それを日本革命にも生かそうとする日本人たちのセクト−−いわゆる「チュチェ派」の重鎮なのだ。九四年二月に結成された「全国キムジョンイル著作研究会全国連絡協議会」顧問、そして「チュチェ思想国際研究所」の顧問でもある。このセクトの特徴は、金日成・金正日に「絶対の忠誠を誓う」文書をたびたび採択していることだ。

アジア研究所は、韓国からも多数の学者を日本に招いているが、韓国公安筋に聞くと、「韓国の学者と言っても、どうせそういう傾向で有名な人ばかりじゃないですか」

と言い放った。

「要するに、アジア研究所が経法大のミソなんですよ。北朝鮮勢力の主導で、韓国内左翼に影響力を行使している。経法大の政治的疑惑は、アジア研究所の動向を見て初めて理解できるんです」(現職教員)

一方で、呉清達氏はますます北朝鮮との連携を深めている。

「呉清達氏はしょっちゅう平壌に行っている、大VIPです」(初老氏)

九一年の夏、祖国訪問で北朝鮮を訪問した複数の在日同胞たちは、呉清達氏一行が主催した大宴全を目撃している。平壌一の高級ホテル・高麗ホテルで行なわれたその晩餐会には、百名以上が出席していた。かの国の庶民にとっては夢のまた夢でしかない山海の珍味がテーブルにところ狭しと並べられ、酒も各種取り揃えられた華やかなものだった。名目は、経法大と提携している朝鮮社会科学院との交流である。呉氏はしばらく高麗ホテルに滞在し、連日ゴルフに精を出していた。在日同胞たちは、平壌における彼の権勢に驚嘆した。そして、その権力の源泉が、経法大からもたらされる莫大な利益にあるのではないかと囁きあった。

引用終わり

 このようにホームページでも確認出来る現・経法大副学長であり教養部教授の呉清達氏は、北朝鮮の現役工作員といわれ、「学園浸透スパイ団事件」の首謀者として韓国当局に名指しで指弾された「指導員」の筆頭であるとされたのが呉清達氏なのである。

 呉氏が阪大在学中に属していた朝鮮総聯の傘下団体である留学同(=在日本朝鮮留学生同盟)、そして、卒業してからは同じく科協(=在日本朝鮮科学技術協会)に属すという総聯の第一線の活動家である。

 留学同、科協とも既に何度も書いて来ているが、犯罪組織朝鮮総聯の傘下であり、犯罪国家北朝鮮の手先である。

続く

 写真は先日写した赤城神社内にあるお稲荷さん。

 

 

 手水には「心洗」と刻まれているが、この手水で清める事はできない。

 清めるための肝心の水が溜められていないからである。

 

 出来上がったばかりであるが、空のままでここに水が溜められた事はない。

 形ばかりで、神に仕えるという魂のない現在の神職の姿がよく現れている。

 今日は早い時間からお客様がいらしてくださる。

 Nさん@京都さん二名様で来店。

 Nさんはめぐろのしみずさんの高校の後輩になるそうな。

 Kさん来店。

 さぶちゃん来店。

 初めてのお客様、チャリンコで来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 髭が無くなってたぞ。

 Mさん二名様で来店。

 今日は軽く飲む。

 当然、記憶あり。

 猿よりマシ。


 

こんなのが記事になる????

2月15日火曜日晴れ ××××

以下引用

<九州新幹線>3歳児、試乗会でホームから転落 けがはなし

 12日にあった九州新幹線の試乗会で、熊本県宇城市の3歳男児が車両とホームのすき間から線路に転落した。男児にけがはなかった。

 JR九州熊本支社によると、男児は祖母と一緒に試乗会に参加。熊本駅ホームで車両から降りる際に、約16センチ離れたホームと車両のすき間から、約2.6メートル下の線路に落ちた。男児の乗っていた車両は福岡寄り最後尾だったため、ホーム端の階段まで作業用通路を自力で歩いてホームに戻った。

 熊本駅の新幹線ホームには、通常時の転落防止用の柵はついている。ただしホームにカーブがあるため、乗降時に車両によってはホームとのすき間が広くなっていることから、同社では注意するよう呼びかけている。【結城かほる】 毎日新聞2月13日(日)22時5分配信>

<熊本、新幹線とホーム隙間に転落 3歳男児けがなし

 JR熊本駅で12日午後、九州新幹線の試乗列車から降りようとした男児(3)が、車両とホームの隙間から約2・6メートル下の線路脇に転落していたことが13日、分かった。男児にけがはなかった。

 JR九州によると、男児は祖母と2人で博多発の試乗列車に乗車。12日午後5時40分ごろ、熊本駅で8号車前寄りの乗車口から降りようとした際、ホームとの約16センチの隙間から落ちた。

 気付いた駅員らが非常ボタンを押すなどの処置をした。その間、男児は自力で作業用通路を歩き、ホーム端の業務用階段からホーム上に戻ったという。

 熊本駅の新幹線ホームには、転落事故を防ぐホームドアが設置されている。ただ、停車車両とホームには約9〜17センチの隙間ができるといい、JR九州は車内や駅の放送で注意を呼び掛け、再発防止策も検討する。

 九州新幹線鹿児島ルートは3月12日に全線開通する。

           2011/02/13 16:21   【共同通信】>

 <新幹線試乗の3歳児、ホーム隙間に転落 熊本駅

12日午後5時40分ごろ、熊本市のJR熊本駅の九州新幹線ホームで、博多から到着した試乗列車から降りようとした3歳の男児が車両とホームの隙間から約2・6メートル下に転落した。JR九州によると、男児にけがはないという。

 同社によると、最後尾の8号車に、祖母(宇城市)と2人で乗っていた男児が、ホームに降りようとして、約16センチの隙間から軌道敷に転落。気付いた係員が緊急停止用の非常ボタンを押した。男児は、ホームと線路の間を自力で約30メートル歩き、点検作業用の階段からホームに上がった。

 係員は、男児に外傷がないと判断。祖母に念のため病院へ行くよう伝え、その後、電話で容体に異常がないことを確認したという。

 同ホームでは、線路の蛇行具合などによって、車両との間に約9〜17センチの隙間ができるという。現場に居合わせた50代の男性は「大人でも危ないと感じた」と話した。ホームと線路を仕切って、転落や列車との接触を防ぐ「ホームドア」は設置されていた。

 同社は3月12日の全線開業を前に、この日は熊本−博多間など8往復の試乗列車を運行。同社広報室は「ホームと車両の隙間の危険性については、車内放送等での注意喚起を今後も継続するが、新たな対応策は今のところ、考えていない」と話している。

              熊本日日新聞 2011年02月13日

引用終わり

 アホな親がてめえのガキの面倒もみずに、そのガキが線路に落っこちて怪我がなかった事が「さあ、大変だ」と記事になる今の時代を平和と考えるのか、いい時代ととらえるのかどうか知りませんが、

「ホームと列車の段差・隙間に関する研究」(交通バリアフリー協議会)では、

http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00250/contents/0001.htm

段差が20センチ、隙間が30センチ以下であれば健常者の場合支障がないことになっています。

 障害のある方はこの限りではありませんが、健常者にとっては一応大丈夫な事になっている。

 それよりも、私はどの記事も「2,6メートル」下に転落と書いてあるのが気になりました。 

 三歳児の平均身長はネットで調べると、九十三〜九十八センチとある。とにかく百センチそこそこ。百七十センチの大人からしても二・六メートル下に落ちたら大変だろうと思うが、子供の身長と比べると一・七倍だから大人が四・四十二メートルとなる。ということは大人が二階から落っこった事と同じことになる。

 そして、ネットで見るとホームの高さはレールより新幹線だと一二五〇ミリだそうです。それより一メートル以上深いところに落ちた事になります。

 新幹線の車高をネットで調べると

東海道・山陽新幹線

N700系 700系 500系 300系 100系 0系
3,650mm 3,650mm 3,690mm 3,650mm 4,000mm 3,975mm

東北・秋田・山形・上越・長野新幹線

E4 E3 E2 E1 400 200系
4,485mm 4,080mm 3,700mm 4,485mm 3,970mm 4,000mm

九州新幹線  

高さ3,650mm

 と、だいたい三千五百mm〜三六五〇mm程度。最大でも四〇〇〇mm程度となる。記事の九州新幹線も三六五〇mm程度。

 ホーム下が二六〇〇mmもあるという九州新幹線の線路とホームはどういう構造になっているのでしょう。

 

 これについて、この記事を配信した毎日新聞と熊本日日新聞には、二月十四日午後に問い合わせましたが、返事はまだ頂いておりません。

 共同通信社は「※記事内容に関するお問い合わせはお受け致しかねます」だそうです。

http://www.kyodo.co.jp/inquiry/index.html

 

 共同通信にとっては配信しちまえば、その配信記事内容はどうでもいいらしい。

 まあ、売国記事を配信しまくっている共同通信らしいといえばそれまでですけど。

  と、書いていたら、今日の産経に同じ記事が図解入りで掲載されていた。

 でも、この図だと、どう見ても新幹線の高さが五メートルは超える事になる。

 JRが二・六メートルと言っているのだから間違いないのだということだろうか。

 だれか、これらの記事を書いた記者は一人でもメジャーを持って行ってその現場のホームの構造を図った人はいるのであろうか。

 まあ、私はその現場にも行っていないし、鉄でもないド素人のアホな推測の日記ですので間違いだらけかもしれませんが、ちと疑問に思ったのです。

  

 八王子からWさん、Nさん来店。

 埼玉からHさん来店。

 初めてのお客様Mさん三名様で来店。

 Mさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 つうことで、営業終了後、ご近所のバーへ。名前はまだ知らない。

 其の後、エムズバーへ。

 結局、記憶無し。

 サル、猿、SARU、申、いやそれ以下・・・・・・・

平成23年2月27日追記

 この日記に関して、福岡県のSさんからご指摘をいただきました。

<子どもが落ちた高さ新聞報道の2.6メートルと新幹線車両の高さ関係がおかしいとの指摘ですが、
おそらく(現地で実測はしていませんが)作業通路の床面とレールの上面と新聞報道の図によると、1,350ミリの段差があると思われます。(図そのものが間違っている)
つまり、作業通路はレールより下にあることになり、通路の床面からコンクリートの基礎によりかさ上げされている形だと思います。
この構造は都内の在来線でも同じような構造ではと思います。>

とのことです。Sさん、ありがとうございました。


海保が協力?マジ?


海保が協力?マジ?

海保が協力?マジ?

2月14日月曜日くもりのち雨のち夜からけっこうな雪 ○

 二月十四日の元海上保安庁保安官である一色正春氏の講演が外国人特派員協会であったそうで、産経新聞にその記事が掲載されていた。

 その中に石原都知事が一色氏に質問しているところがありました。

以下引用

<「魚釣島上陸に海保は協力?」石原都知事の質問に「協力する」と一色氏

2011.2.14 14:11産経新聞

 尖閣ビデオ流出事件について講演した一色正春・元海上保安官(44)の質疑応答で、石原慎太郎東京都知事が「魚釣島に国会議員が上陸するという提案があれば海上保安庁は協力するか」と質問し、一色元保安官は「船に乗っている者はぜひ協力すると思う」と述べた。

 質疑に立った石原知事は「あなたの愛国的行動に国民を代表して、心から敬意と感謝を表する。退職されて残念な結果、極めて遺憾」とあいさつ。

 そして「もし起訴されたら発表するビデオがあると言っていたが、どういう内容なのか」「尖閣諸島の魚釣島に国会議員が上陸するという提案があれば海上保安庁は協力するか」と2つの質問をした。

 一色元保安官は1つ目の質問に「退職というのは組織のルールを破ったけじめ、後悔はしていない」と述べた上で、「起訴ではなく、逮捕されればビデオが出るという話だった。内容は大阪の読売テレビで放送されている。私が出頭する前に受けたインタビューで、逮捕されれば私の真の声が届かなくなるとインタビューを受けた」と話した。

 また、2つ目の質問に絡み、尖閣諸島周辺について「領土とか領海ではなく、(あの海域では)数年前に数万トンの船が座礁している。そのとき、灯台をつくるチャンスだった」と説明。

 そして、魚釣島上陸計画については、「海上保安庁にもいろんな考えがある。本部、保安部、船に乗る者は必ずしも一致していない。船に乗っている者はぜひ協力すると思う」と述べ、「もし海上保安庁が協力しないというのであれば、防衛省というのもある。なにより都知事であれば都の船がたくさんあると思う。いずれにせよ行く方法はたくさんある、あとは行こうという気持ちだけ」と語った。>

 一色氏はこう述べているが、石原慎太郎氏がどうして「魚釣島に国会議員が上陸するという提案があれば海上保安庁は協力するか」と質問したのかを考えた事があるのだろうか。

 海保の個々の職員の意志は不明だが、海保は組織としては今迄尖閣に上陸するのを全力で妨げている。 それは、今も変わらないが、政府の意向なのだから当然である。

 石原氏はそれを御自身で体験されご存知だから、このような質問をしたのだろうと思います。

 

 西村眞悟氏は国会議員の身分でありながら、たった四・五トンの漁船に乗り、尖閣諸島の魚釣島に上陸している。

<平成九年五月六日、午前八時三十分、我々は、尖閣諸島の魚釣島に上陸した。石垣港を前日深夜の二十三時二十三分に出港してから、約九時間後のことであった。まさに「天気、晴朗なれど、波高し」であった>

 このように書く、国会議員の身分で我が国の領土である尖閣諸島に上陸した西村眞悟氏が海保、外務省がどのように妨害したか何度か引用させていただいた西村氏の著書「誰か祖国を思わざる」にその事が詳しく書かれている。

 当時、同じく国会議員だった石原慎太郎氏も西村氏の行動に協力したが、法務省、海上保安庁は数々の妨害をしたのである。

 西村眞悟氏がどのような覚悟を持って尖閣諸島に上陸したか。

 以下、西村眞悟氏の著書よりの引用です。

< 行動するということは、評価でも言葉による説明でもない。行動とは、彫刻を造るようなものである。彫刻家は、創造と破壊を同時に行う。削ることは破壊だが、同時に、削る事で像を生み出すのは創造である。誰も、その創造の前に何が生まれてくるかを、それがすでにあるかのように説明することなどできない。

 日本の領土・尖閣諸島に上陸する。この国境の島に両端を着けて立つ。これは行動である。では、そこで何が破壊され、何が生まれるのか。まず、戦後日本の国家観なき惰性が破壊される。そして、国家という物理的存在とその精神性が現れる。少なくとも、そのような創造の意欲を持って、この島に上がる我々の肉体は、それを実感する。それが、いかなる像として世人に見られるのか。私には、それをすでにあるかのように説明することはできない。それは、世人が決める事である。>

同書p一〇より

 そして、「我が国領土である尖閣諸島に、国会議員として上陸し、視察する」と公約し、平成八年十月二十日の第四十回衆議院議員選挙にて当選した西村眞悟氏が、自国の領土を視察する事は国会議員の責務であり、公務であると考え、上陸するにあたって海上保安庁に対して国会議員として便宜供与を依頼した。

 それに対して、驚いた事に公務であると考えている国会議員に対して海上保安庁は巡視船への同乗を断ったのである。

 この時の総理大臣は支那女のハニートラップに引っかかった橋本龍太郎が総理大臣という第一次橋本内閣の時であり、法務省のトップである法務大臣は松浦功自民党議員、海上保安庁のトップである海上保安庁長官は土坂泰敏運輸政策局長である。

 秋から冬にかけて尖閣諸島周辺海域は波が高いので、三千五百トンクラスの船舶でないと耐えられないが、西村氏にそのような大型船をチャーターする資金もなく、悩んでいた時に、西村氏の知人の紹介で石原氏と会い、サポートを約束された。

 翌平成九年四月十三日に事前調査で石垣島へ行き、仲間均石垣市議会議員とはじめて会い、十四日まで滞在する。

 その時、西村氏が会った当時の石垣市長は市庁舎に国旗も掲揚しないという真っ赤な大浜長照市長であった。

 ちなみに、今の中山義隆石垣市長はそんなアホ大浜先代市長と違い、国旗も掲揚して、アホ管政府に対して、尖閣諸島への上陸を求めています。

 当然、どうしようもない真っ赤なアホカンカラ政府はそれを拒否しています。

 四月二十六日早朝、西村氏はミャンマーから関西国際空港に帰って来た時に、石垣港での乗船が五月四日夕刻になる予定の連絡を受けている。

 四月二十八日朝、仲間均石垣市議会議員らの尖閣諸島上陸の報を受けるが、この行動に対し、当時の古川貞二郎内閣官房副長官が「遺憾の意」を表明している。

 

 ちなみに、今のスッカラカンの前のアホポッポ(一部では鳩山由紀夫とも言う)は当時、日本人が尖閣諸島上陸に上陸した事について、わざわざ北京で

「あれは一部の右翼がやったこと」

とほざいています。

 こんなアホハトは早く死んで欲しいものです。

 人の死を祝ったら創価学会の気違いどもと同じ側に落ちますから、おおっぴらには祝いませんが。

続く

 今日は部屋を片付けたりして一日中部屋に居たので、部屋にある食えるものは総てなくなった。生ゴミを捨てる時に外に出てみると結構な雪が積もっているので驚きました。

 今日は酒は飲まず。


 

2月13日日曜日晴れ ○

 野茂英雄氏が「株式会社」プロ野球名球会総会にて爆弾発言という記事がネットにありました。

 元は週刊ポスト二月十八日号の記事らしいですが、

<「名球会は結局、何をするための組織なのか。もっと社会貢献に力を入れるべきではないのか」といった趣旨で口を開いたのだ。>

という内容です。

 随分前に書いた事がありますが、名球会は少し前迄金田正一氏の個人オフィスに事務局がありました。

 其の後クーデター?により現体制になりましたが、今の「名球会」のホームページを見てみると、

 http://www.meikyukai.co.jp/

 講演などについては、

会員によって講演料・講師料が異なりますので、事務局にお問合せ下さい。>

<名球会では野球教室、親善試合、講演会等の様々なイベントの企画や会員の派遣を行っております。企業、公共団体、地方自治体等の方々、お気軽にご相談ください。>

として、下記のように書かれている。

名球会事務局:03-6228-6180

E−MAIL:info@meikyukai.co.jp

たった、これだけである。

現在事務局の所在地はホームページ上にどこにも記されていない。

そして、オンラインショッピングに関して、

特定商取引法に基づく表示として下記のように表示されている。

運営団体 日本プロ野球名球会

販売責任者松本潤一

連絡先  info@meikyukai.co.jp

その他、支払い方法、送料、備考だけである。

特定商取引法に基づく表示とはとネットで調べてみると、

<インターネットを利用して、一般消費者が行う電子商取引は、 「特定商取引に関する法律(昭和51年法律第57号)」第2条第2項の「通信販売」に該当します。 「特定商取引法」ではトラブル防止のため、販売業者に対し販売条件等の表示義務を定めています。(法第11条、省令第8条)>

そして、具体的な記載内容として

<・店舗名 ・販売業者 ・運営統括責任者 ・所在地 ・電話番号 ・FAX ・メールアドレス ・商品代金以外の必要料金 ・申込の有効期限 ・不良品 ・販売数量 ・引渡し期限 ・お支払方法 ・お支払期限

等。>

となっています。

オリジナルTシャツはベースボールマガジン社が扱っている。

(ベースボールマガジン社も、かもしれませんが)

http://bbm-shop.sportsclick.jp/bbmshop02/9.3/33203/-/mother_catalog_num.33200/

が、Tシャツ以外にもこのプロ野球名球会が扱っている品物はサインボールからトスマシン、ライトフライマシンまで幅広く扱っている事になっています。

http://www.meikyukai.co.jp/shopping/index.html

 所在地さへも明らかにできない、しないプロ野球名球会とはなんなのでしょう。

 

<「名球会メンバーの野球教室」 ギャラはひとり50万円>

と週刊ポストに書かれた野球教室については下記のようにホームページで紹介されています、

 

<ドリームベースボール

この事業は、日本プロ野球名球会及び全国野球振興会の会員の元プロ野球選手による開催地チームとの親善試合(ドリーム・ゲーム)、野球教室等を全国各地で行い、もって青少年の健全な育成と長寿社会に対応した明るいまちづくりに責するとともに、これらの事業を通じて宝くじの普及広報を行うものです。

この事業は宝くじの売上金から助成を受けて実施するものです>

だそうです。

設立の目的としてホームページ上には、

<「社会の恵まれない人達への還元と日本プロ野球界の底辺拡大に寄与する」ことを目的に1978年(昭和53年)7月24日に発足。

プロ野球は日本の社会の中で、青少年に対する大きな影響力を持っています。名球会会員が野球を通じて得た経験を社会活動などを通じて青少年の健全な育成に貢献をしていきたいと思っております。

  名球会はプロ野球で功なり名をとげた者の親睦団体にとどまらず、オリジナル商品の販売やチャリティイベントを開催するなど積極的な社会還元をめざしています。 サイン会、野球教室、講演会、対抗試合と国内外で幅広く活動するのがこの名球会のセールスポイント。このような前向きの姿勢が、日本のプロ野球界をさらに大きく飛躍させる力になることと信じております。 今日もまた、輝かしい栄光を目標に多くの選手たちが名球会を目指して頑張ってくれることを心より願います。>

 となっている。

 <「社会の恵まれない人達への還元と日本プロ野球界の底辺拡大に寄与する」ことを目的として、積極的な社会還元をめざしています。>

 これでいいのでしょうか????」

 「名球会は結局、何をするための組織なのか。もっと社会貢献に力を入れるべきではないのか」といった趣旨のことを発言したとされる元大リーグの野茂英雄氏は、我が国の社会人野球チームが現役時代の二〇〇三年に次々に廃部となっていく現状に対し、野球を志す若者に少しでも受け皿を作りたいという理由で、かって所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市でNOMO ベースボールクラブを設立し、オーナーに就任しています。

 元オリオンズの名投手・村田兆治氏は引退後のライフワークとして、全国の離島を回って少年野球教室を開催している。

 元ドラゴンズの名選手であった谷沢健一氏などは無料野球塾を計画しているようであるから個人としては、それなりに社会貢献を考えている人も多いのでしょうが、「日本名球会」という名前のわりには組織としての活動はあまりにもお粗末過ぎるということではないでしょうか。

 午後より高田馬場にある新宿スポーツセンターへ行く。

 今日は時間もあり、久しぶりに三時間びっちりとやることができました。ただ、少し下半身と有酸素運動のメニューの時間が少なかったので、やはり二日間続けて二回に分けてやる方が上手くメニューを消化できるようです。

 店に寄った後、帰宅。

 風呂に入った後は、部屋でゴロゴロと明るくなるまで本や雑誌を読んで過ごす。翌日起きる時間を考えなくてもよい至福の時。

 酒は飲まず。


 

氷雨

2月12日土曜日雨のちくもりのち氷雨 △

 下記は埼玉在住のOさんがメールで知らせてくださった「夕日」の替え歌だそうだが、調べると八番まであるそうである。

http://www.youtube.com/watch?v=7VeN9mcE0II

 1.かんかん 直人で 日本が沈む

  かんかん 直人で 国滅ぶ

  真っ赤っ赤 民主党

  党員・議員も真っ赤っ赤

  売国民主で 国滅ぶ

2.イライラ カンカン 日本が沈む

  イラ菅 直人が 国を売る

  真っ赤っ赤 支那・朝鮮

  日本も一緒に赤くなれ

  カンカン直人が 国を売る

3.だらだらかんかん 民主が沈む

  ダラ菅 直人が 嘘をつく

  金権腐敗に消費税  

  ゾおンビ小沢もこんにちは

  ルーピー(鳩)も顔だしゃ 国滅ぶ

 

 私の知っていたのは、「小沢のいっちゃん金持ちだ〜」とやってたのですが、

http://www.youtube.com/watch?v=Dq0WwhkJpIU&feature=related

  この歌以外にもいろいろあるようです。ドンドンやってほしいものです。

 今日、河岸に行くと寒い中たくさんの人が並んでいる。

 何が悲しゅうてこのくそ寒い中並ばないかんのでしょう。

 私程度の頭では理解出来ません。

 

 

 そして、河岸の場内に貼られていた「東京へ、返せ」という犯罪国家北朝鮮に拉致された皆様を奪還することをアピールするポスター。

 

 氷雨降る寒い土曜日なのに多くのお客様がいらしてくださる。

 KEIKOさん、三名様で初めての来店。

 横浜からNさん来店。

 初めてのお客様Nさん御家族五名様で来店。

 Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり・・・と思う。

 サルよりマシ。


2月11日金曜日雪 寒い ×

 今日は紀元節(建国記念日)。

 

 雪の中、多くのお客様来店。

 Oさん、Aさん来店。

 アンコウ鍋でドンチャン。写真は「活け鮟鱇の肝のソテー」

 

  

 

 初めてのお客様Iさん二名様で来店。

 理科大ラグビー部OBのデカナベさん、本間さん四名様で来店。

 Wさん夫妻来店。

 遅い時間からドンチャン。

 記憶はあったと思ったが、気が付いたら、鍵も閉めずに灯もつけっぱなしでカウンターの中で寝てました。

 サル・・・・・・


大山倍達正伝に見る創氏改名の真実

2月10日木曜日晴れ △

 売国新聞である変態新聞(毎日新聞ともいう)は、朝鮮人の肩を持ち、嘘を平気で書いている。

 昨年の記事だが下記のように書いていた。

 <日本語や神社参拝強要 ごう慢さを後悔−−杉山とみさん(89)

 日本の植民地時代の韓国・大邱(テグ)。1921年夏、帽子店を営む両親のもとに生まれた。現地の女子師範学校を卒業し、太平洋戦争が始まった41年、今の小学校にあたる達城国民学校で初めて教壇に立った。

 現地ではこのころ、朝鮮語教育が禁じられ、日本名に改名させられていた。杉山さんも子どもたちに軍歌を教え、神社に参拝させた。日本語が分からない子どもと朝鮮語が分からない教師。出席もとれず、悪戦苦闘した。>

平成22年8月12日毎日新聞 平和の糧に:背負ってきた65年/2 韓国の国民学校で教員、杉山とみさん 

 ハングル文字を普及させたのは、日本統治時代の政策であり、ましてや、朝鮮語の禁止と言うが、朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、非常時にさいしての「国語(日本語)」の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はない。

 京城帝国大学法文学部に、朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の二講座があった。大東亜戦争中にいわゆる皇民化教育がなされたときでも、この二講座には何らの制限も加えられなかった。

 

 それだけでなく、日本名を名乗っていたと言うが、それは法的にはほとんどが通名であった事実を隠している。

 日記に何度も書いているが、洪思翊中将、金貞烈大尉など日本軍の将校として朝鮮名のまま活躍した朝鮮人も多く存在する。

 

「創氏」が個人事に行われたものではなく、「家族」を代表する家長の名前で行われた事実である。

 つまり「設定創氏」であれ「法定創氏」であれ、家長が朝鮮名を「氏」とすれば、その家族は自動的に同じ朝鮮名のまま戸籍に登録された。

 また、「設定創氏」によって家長が日本式の「氏」を名乗れば、家族も皆同じ日本式の「氏」となった。結果的に「法定創氏」によって、それまで使っていた朝鮮式の「氏」を名乗り続ける朝鮮人も少なくなかった。

 一方、「改名令」は強制でなく、あくまでも「任意」だった。「改名」を行う場合、まず裁判所の許可を得る必要があった。

 その後に、役所に手数料を払い届け出をした。「改名」が強制でなかった事は事実だが、「改名」の際に日本式の名前が推薦された事も事実である。

 資料によれば、朝鮮在住の朝鮮人のうち、「改名」を行ったのは最終的に九・八%に過ぎず、在日朝鮮人で「設定創氏」の手続きをした人達も十四・二%でしかなかった。

 つまり八十五・八%の人達の名前は「創氏改名」の手続きを経たものではなく、いわゆる通名でしかなかった。

 ちなみに、創氏改名によって夫婦は同じ苗字を名乗る事が義務付けられた。>

「大山倍達正伝」P百十一

 <大山氏が山梨航空技術学校に提出した書類に記された「崔永宣」ではなく、その時代に名乗った「大山虎雄」は創氏改名でなくあくまで通名である。大山氏の実家は戦中・戦後を通じて「崔」を氏姓にしていたからである。

 大山氏が個人で「創氏」の手続きをするのは不可能だったのだ。>

p百十一〜百十二

 

 

 言葉を奪ったと言いながら、人口の二十%しか日本語がわからなかった。

 勝手に我が国に来ておきながら、「強制連行された」と嘘をいい、

 名前を奪われたと言いながら、今でも偽名を平気で名乗る朝鮮人。

 いくら偽証が国技だと言っても、いい加減にして欲しいものです。

 

 

 今日は遅い時間から忙しくなりました。

 Oさん来店。

 バンブーさん来店。

 小胡子さん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Kさん来店。

 わ。さん来店。

 Sくん来店。

 Kさん二名様で来店。

 めぐ蔵さん来店。

 フィリッポさん、イタリアワイン醸造家のルカさん三名様で来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 

 

 営業終了後めぐ蔵さんと蔵元さんに伺う予習ということで、ドンチャン。

 いろいろと空きました。

 

 電車が動いていた・・・・・・・

 記憶はあり。

 サルよりマシ。


 

覚醒剤

2月9日水曜日ちょっと雪のち雨のち曇り △

 二年前に有罪判決を受け、執行猶予ちゅうだった小向美奈子とかいう芸能人が覚醒剤でまた騒がれている。

 田代まさし等の例でもわかるように、覚醒剤は多くの人間が何度も同じ事を繰り返す再犯率の高い麻薬です。

 

 以前に一度書いた事があるが、私は覚醒剤で死んだNさんという男を知っている。

 私が東京に出て来て、置き引きにあって無一文になった後、渋谷で水商売に入ったばかりの時にお世話になったその男性は、身長はそれほどではないが相撲部屋からもスカウトされたほどのいい体格をしていて、喧嘩もめっぽう強かった。

 住吉会のヤクザと喧嘩し、相手をボコボコにして東京地検で罰金一五万をくらったのを引き取りに行ったこともあった。それまで何度も傷害事件をおこしていながらも、ヤクザもん相手だから相手をボコボコにしておきながらも「被害者」の調書ですんだ結果、実刑でなく罰金ですんだのだが、向こうのヤクザもんとの手打ちにまで付合わされた。

 ただ、その当時から覚醒剤をやっていたNさんは其の後結婚し、覚醒剤もやめたといい、千葉市にそば屋を開いたが、私が約二年間の放浪から帰って来た時には、再び覚醒剤をやっていたようで、そば屋も手放していた。

 私は当時はそれなりの金を稼いでいたので、Nさんにも何度か金を渡したが、そんなのそんな人間には何にもなりゃしない。

 そして、最後に渋谷で会った時にはどす黒い顔色をし、りっぱだった体格もふた周りは小さくなったように感じた。

 「親父に働かせてくれるように言ってくれ」と言っていたが「それは出来ません」と断り、持っていた財布からカードだけ抜いて、「これで、奥さんのところに帰ってください」と財布ごと渡した。

 その時「俺に死ねと言うのか」と言っていたが、私はそんなNさんに何も思わなかった。

 其の後、嫌がらせの電話が自宅や仕事場に何度もあった。

 時がたち知人から「Nさんが死んだ。葬式が埼玉の○○である」と電話があったが、私はもう別れは済ませましたからと言って行かなかった。

 Nさんが奥さんの実家である茨城でなく、どうして埼玉で死んだのか、死に方も聞きもしなかった。

 どうせろくな死に方ではないのはわかっていたから。

 覚醒剤を完全にやめて立ち直る確立はネットでは約五割という数字があった。

 私は実際はもっと低く、そして再犯率は高いのではないかと思っています。

 私の知り合いで完全にやめる事が出来たのを確認できているのはひとりだけです。その人は六十過ぎた今でも渋谷でりっぱに商売をやっています。

 いなかに帰った二人は付き合いもなくなり不明ですが、覚醒剤に再び手を出さずに生きている事を願うばかりです。

 あとは、Nさんのようにボロ雑巾のようになって死ぬか、殺されてます。

 

 覚醒剤やめますか。

 人間やめますか。

 随分前の標語ですが、本当です。

 なぜ、覚醒剤をイラン人、支那人、朝鮮人、腐れヤクザが扱うか。

 我が国の刑法が生温いからです。

 支那で覚醒剤の運び屋をやった日本人が死刑になったように、てめえらの国で同じ事をやれば、死刑になるが、我が国では死刑にならないばかりか、三食ついて虫歯までも治してくれる刑務所生活で済む事を知っているのです。

 相互主義とかぬかすのであれば、覚醒剤を飯の種にしているこういった人間のクズはさっさと殺した方がいいのです。

 雑誌を買いに入った河岸の側のコンビニでの一枚。

 何と申しましょうか。

 

 Hさん来店。

 Nさん来店。

 Hさん来店。

 営業終了後、久しぶりに「ワインバー・アンブラ」さんへ。

 其の後は「エムズバー」さんへ。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

嘘つき朝鮮人どもへの反論資料

戦後、北海道における残留朝鮮人の送還について2

2月8日火曜日曇りのち雨風 ○

 昨日よりの続き

 以上よりわかる事は、

<「朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数一〇〇万に近く、その約半数は不法入国であります。

 これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。

 その理由は、次の通りであります。

 現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。

 米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。

このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。

 朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。

 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。

 

さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。

 彼らの多くは共産主義社およびそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七千名以上が獄中にいるという状態であります。

 戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次のとおりです。

(詳細省略、一九四八年五月末までで、九万一二三五名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている)

 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の意見は次のとおりです。

 上述のような見解を、原則的に閣下が御承認下さるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的処置を提出するものです。

敬具 

                        吉田茂

連合国最高司令官 

 ダグラス・マッカーサー元帥>

「在日外国人」(田中宏 岩波新書 平成三年刊)p七十一より

 

 という吉田茂よりマッカーサーに宛てた書簡だけでなく、我が国は必死に残留朝鮮人を帰国させたかったのに「自分の意志」により多くの朝鮮人が残り、そして、「帰れなかった」と現在も被害者面をして騒いでいる厚顔無恥な姿です。

 例えば、犯罪者が校長を務める事ができる朝鮮高校の教科書である「現代朝鮮歴史 高級1」では「解放後の在日同胞の志向と立場」にて「解放後の米日当局の在日朝鮮人政策」としてどのように書かれているか。

以下引用

<異国の地であらゆる民族的蔑視と虐待を受けながら生きてきた在日同胞が祖国解放を迎えたときの感激は並み外れて大きかった。彼等は「金日成将軍万歳!」、「祖国解放万歳!」を声高らかに叫び、抱き合って喜びの涙を流した。

 解放された民族の堂々たる地位を占めていた在日同胞たちは一日も早く家族親類の待つ懐かしい祖国に帰って、新しい祖国の建設に貢献しようとした。しかし在日同胞の期待と願いは米日当局の不当な策動によって思い通りに実現出来なかった。

 日本当局は敗戦国になったにもかかわらず、アジア人民に及ぼした犯罪的行為を隠すのに汲々として、在日朝鮮人を解放された民族として処遇しなかった。

 一九四五年八月十五日にはたくさんの朝鮮人、中国人強制連行関係資料を燃やしてしまった。

 また敗戦後の苦しい経済的混乱の中で在日朝鮮人に食糧や未払い賃金を与えないために、そして強制連行や「徴兵」問題が日本の犯罪行為になる場合もあり得るということで、強制送還式の帰国処置を講じた。>

P五七

「帰国の為の在日同胞の闘争」として

<在日同胞は米日当局の不当な策動に屈せず祖国へ帰るための活動を頑強に繰り広げた。たくさんの同胞が住宅や所帯道具を整理して、下関、博多、仙崎をはじめとした西日本の港町へと集まって来た。

 彼等は公共建物や埠頭倉庫、あるいは路上で生活しながら帰国の日を指折り数えて待った。

 こうした中で日本当局の無策によって食糧が尽き病気にかかって命を落とすか、危険を冒して小舟で帰国しようとして、風浪の中で犠牲になる同胞が少なくなかった。

 このような状況で在日同胞は1945年9月朝鮮人帰国救護会を作って帰国活動を自分たちの力で可決する為に尽力した。

 一方で、帰国を保障し食糧や未払い賃金を支払うことを日本政府に強く要求した。しかし、米国と日本当局は在日同胞の帰国活動を「不法行為」、「治安びん乱」と称して妨害し続けた。

略)

 在日同胞は米日当局の妨害策動に不屈の闘争と努力によって帰国の道に拍車をかけた。そうして1946年3月迄に実に140万人の同胞が故郷へ戻っていった。>

P五九〜六十

「現代朝鮮史 高級1」(朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会編 星への歩み出版 平成二十二年刊)

 矛盾という言葉を知らない朝鮮人。

 厚顔無恥で嘘が国技のひとつである朝鮮人はこんな嘘を教えても恥ずかしくはないのでしょうね。

 

 ゴミはゴミ箱へ。

 朝鮮人は朝鮮半島へ

 

 という当時の政策の正しかった事が今、証明されています。

 支那人、朝鮮人は今からでも遅くないから帰って欲しいものです。

 

 Yさん来店。

 Sさん来店。

 Fさん二名様で来店。

 お連れ様は、Fさんがグラスの酒を楽しんでいるのに、さっさと立ってコートを着て「ごちそうさん」と宣うお人。

 「お連れさんがまだ、お酒を楽しんでらっしゃいますから」と注意して座ってもすぐ同じ事をやり、また同じ注意をさせ、それを聞こうともしない大バカヤロウ。

 いくら酔っぱらっているにしても、お連れさんに対して最低限の心配りもできらんし、食い方もてめえのかじったものをお二人でつまんでいる元の器に平気で戻す。

 こんなアホは二度と来て欲しくないものである。

 Fさんもせっかく飲むのだったら御一人で飲むか、このアホ以外の別の方と飲んだ方が楽しいだろうに。

 今日は飲まず。


 

嘘つき朝鮮人どもへの反論資料

戦後、北海道における残留朝鮮人の送還について

2月7日月曜日晴れ風が強い ○

 随分前に「日本占領と軍政活動 占領軍は北海道で何をしたか」(西川博史 現代史料出版 平成十九年刊)という本を古本屋さんで購入いたしました。

 これには北海道における朝鮮人、支那人、台湾人の送還についても書かれています。

 

以下、その文献よりの引用です。

 連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)

 公安セクションの朝鮮人・中国人の送還事業として

<SCAP指令「日本よりの外国人の送還に関する覚書」(四十五・十二・十二)以降、外国人の送還は、指定された港より指定船によって指定された検疫を受けるなどの規則に則り実施された。

 朝鮮第二十九軍団軍政司令部連絡将校L.Rowe大尉一行の使節団が本軍司令部に到着した。この使節団の任務は、送還事業を援助するために朝鮮から来た朝鮮人代表団を監視することにあった。>

同書p九十七

 そして、同書に掲載されている帰国者数は下記の通り。

<道庁「長官事務引継書」(昭和二十年十月)によれば、敗戦直後、北海道より直ちに朝鮮人労務者及び家族七万八四八六人(他に先住民として約二万五千人が居住)に優先帰国の処置がとられ、一万四一三二人が十月二十九日までに北海道から陸・海路で釜山に向った。

 また、中国人労務者一万一〇二六人(他に先住民として二百十人が居住)のうち一五三四人が十月二十日室蘭港から辰日丸にて塘沽へ向けて出発した。

 (注 中国人については、其の後、室蘭港から青島・上海への送還が計画されたが、朝鮮人については、配船の目処がつき次第計画された。また、十月六日以降、毎日九百名の列車による送還があったが、九州における輸送逼迫のため十月二十一日よりこれを停止した。)

 軍政報告によれば、北海道からの中国人の本国送還は四十五年中にはほぼ完成し(四十六年一月には十五名の中国人を送還)、朝鮮人については四十六年二月に事実上完成した。

(一月に一万四二五二名の朝鮮人が帰国し、二月末には帰国の意思を示す一部のグループ及び個人が残っているだけであった)。

 道内に居住する朝鮮人の数については、道庁の数値と軍政報告の数値に相違があるが、SCAP指示の下に第八軍司令部が朝鮮人送還計画の為に収集した資料によれば、次のようであった。(十二月三十一日現在)

 

 (A) 北海道に居住する総朝鮮人    一一万二四〇六人

   敗戦後送還意志を表明した朝鮮人   十万八四〇六人

   四十五年十二月末までに送還した総数 八万一九一一人

   (内訳) 直接釜山へ送還      三万五八六二人

        列車で九州へ       四万六〇四九人

   送還されるべき残留朝鮮人      二万六四九五人

 (B)北海道に居住する総中国人     一万二四八八人

    敗戦後送還意志を表明した中国人  一万二四二三人

   (内訳) 直接中国へ送還        一五三四人

        列車で九州へ       一万八八九人

   送還されるべき残留中国人         六十五人

(C)北海道に居住する総台湾人          一〇三人

   敗戦後送還意志を表明した台湾人        九六人

   送還されるべき残留台湾人           九六人

 (なお、其の後の送還人数については、軍政報告の数値には整合性が認められないので、以下では残留者のみを示すことにした。)

 朝鮮人の鉄道・船舶による移動は、第八軍の命令によって四十五年十二月三十一日に一時停止されたが、四十六年一月四日に第九軍は軍政司令部にその再開を指示した。一月九日に再開第一船が函館港に入り、また、鉄道での輸送を保護するための準備がG―3とRTO(鉄道輸送事務所)において行われた。道庁も朝鮮人労務者の優先的送還に引続き、四十六年一月中旬に先住朝鮮人の送還に輸送の重点を移し、更に軽犯罪行為ないしその罪で訴えられている朝鮮人を解放・送還するためのリストを第九軍団に提出した。

(注 三月、第八軍の解放指令により刑務所に入所していた三人を除いて全員送還された。)

 この注は木下によるP一二六よりの引用

 しかし、帰国意志を表明しても「気まぐれや意志の変化」など自己の便宜を図る風潮が生じ、それが送還事業の促進に支障をもたらすまでになった。

(注 軍政報告によれば、「多くの朝鮮人は気候が暖かくなるまで、あるいはまた朝鮮の条件が噂で聞くよりもよくなるまで帰国を見合わせようとしていた」

 送還後、北海道に戻った朝鮮人もおり、彼等は日本の条件が朝鮮より良いと言い、こうした事が噂の根拠の一つになっていた。 

 日本側は彼等を帰国させようと送還日程を公開し、新聞報道するなど努力した。それは日本政府や連合国が彼等を日本に留まらせようとしていると誤解されるのを避けようとしたからであった。

 これに対して朝鮮人は、日本側は送還事業をいつでも完了できると脅しているとか、逆に輸送計画は当分の間継続されるとかの噂を流し、いつでも好きな時に帰国すればよいという風潮を作り上げていた。なを、SCAP総司令部は四十六年三月十六日に朝鮮人帰国者の再入国を禁止した。)

この注は、木下による同書P一二六よりの引用

 こうした事に対して、一月二十二日、軍政司令部は送還事業を二月十五日迄に完了するよう道庁関係部署に指示した。

(木下注 この指示は軍政報告にはなく、長官事務引継書より昭和二十一年二月 内政部民政課)同書P一二七より

 二月中旬、SCAP指令「朝鮮人、中国人、琉球人及び台湾人の登録に関する覚書」(四十六年二月十七日)が発令され、三月十八日までに朝鮮人、中国人、琉球人及び台湾人は帰国か残留かの意志を登録しなければならなかった。道警はこの登録を二月二十日から開始した。

(木下注 長官事務引継書より昭和二十一年二月 内政部民政課より。軍政報告には、登録は三月十二日に開始され、十八日までに終えると道庁から報告があったとしている)同書P一二七よりの引用

 当初、北海道に残留した朝鮮人七四〇五人のうちわずか九三二人が帰国意志を示したに過ぎなかったが、三月の送還事業を経て、登録締切日までに残留する朝鮮人七一一八人、中国人二〇七人、台湾人六二人のうち、朝鮮人二二三一人、中国人四一人、台湾人全員が帰国意志を表明した。

 琉球人は大まかな統計で一七八人が北海道に居るとされたが、最終的には帰国の意思を示した。

 三月二十二日、引揚救護院は函館援護局に正式に朝鮮人の引揚(送還)を指令し、朝鮮人帰国希望者を送り出す手続関係の準備に取掛かった。しかしながら、函館への集結生成機は振るわず、人員はわずか一一一名(一一八名中事故不参加七名)に過ぎなかった。

 このため、函館援護局は軍司令部及び函館軍政分遺隊と協議し、予定していた引揚船新興丸を釜山から急遽佐世保に回航させ、四月十一日に集結者全員を青森港へフェリーで送り、翌十二日青森から列車で陸路仙崎へ輸送した。

 この間に送還期限延長に関するSCAP指令「中国人、台湾人、朝鮮人の引揚に関する覚書」(四十六年四月九日、四月十三日)が発出され、中国人は四十六年五月十三日、台湾人は五月十一日、朝鮮人は八月末(後に九月末に変更)に延期された。

 函館援護局には四月十五日に再度一航海限りの朝鮮人送還指令が届き、函館援護局は新聞・ラジオ等の協力を得て送還促進の処置を採ったが、集結した人員は二〇五名(二一八名中事故不参加十三名)に過ぎず、ともかく新興丸に乗船させて送還事業を完了した。

(木下注 在日朝鮮人連盟小樽支部もこの帰国輸送を同胞に呼びかけている。 北海道新聞四十六年四月二十九日)同書P一二七より

(木下注 函館からの朝鮮人送出は合計三一六名で、当初指令による一日二五〇〇名に比して実績はあまりにも小さいが、「我が函館援護局が取扱った非日本人に対する集団移送の最初にして同時に最後を兼ねる意味深き業務であった。この業務は四十六年十二月限り廃止となり、爾来他の送出局への少数宛の移送が、現地軍の指令に基づき屡次にわたって取扱われた」海外引揚関係資料集成一『函館引揚援護局史』三一頁。

軍政報告では三一九名。『引揚検疫史』第一巻七頁では二四四名)同書P一二七より

 これ以降、軍政における送還業務は公安セクションから社会福祉セクションに移され、朝鮮人は四月に三一六人、六月に十二人が送還された。

(木下注 軍政報告の数値では、最終的に朝鮮人六七九〇名が北海道に残留した事になるが、道庁警察部の数値によれば残留朝鮮人は六八四四名であり、「一部朝鮮人中には闇取引等悪性インフレを助長する背反者あるも朝鮮本国の実情に鑑み日本在住を希望する者多く必然的に協力的態度に出つつ」長官事務引継書昭和二十二年二月)同書P一二七より引用

 

 帰国を希望した中国人四一名のうち六名が五月に函館から本州の各指定引揚援護局に移動し、台湾人は三八名が帰国希望を登録し、そのうち二名が呉の引揚援護局に移動した。

 他方、残留した外国人は、関係引揚援護局への移動という日本政府の指示を拒否した者として送還特権を剥奪され、道庁に於いて作成される非日本国籍者名簿に登録された。

 また、道内のドイツ人四八名、オーストラリアないしチェコ人三名、全員は帰国を希望しないという報告を四月に道庁から受けた。

 (北海道に残留した中国人は移入労務者三五名(病気ならびに残留希望者合計)のほか、在住希望の先住中国人二〇〇名ほどがいた)同書P一二七

 以上、明記のない限り「日本占領と軍政活動 占領軍は北海道で何をしたか」(西川博史 現代史料出版 平成十九年刊)P九六〜一〇〇より引用

以下続く

 

 昨日、一昨日と久しぶりにそれなりのメニューを消化したので、朝起きたら、あちこちが筋肉痛。特に両手の肘から前腕の筋肉がバリバリに張っていた。

 昨日、ワインを飲んでいて、左手でワイングラスを落としそうになった。

 今日はどこにも出かけずに、一日中部屋でゴロゴロして、漫画や雑誌、本、買って来たDVD「東洋宮武が覗いた時代」、「442」を観て過ごす。気がついたらそのまま寝ていました。

 酒は飲まず。


2月6日日曜日くもり一時晴れ△

 午前中は久しぶりに渋谷へ。

 東急ハンズに寄った後、十一時より四四二部隊のドキュメンタリーを観に渋谷アップリンクXへ。

 おそらく定員三十人ほどというめちゃ、小さな映画館で、今日も二十人ほどの観客。

 映画自体は有名な四四二部隊、第百大隊に関するドキュメンタリーで、何度も涙が出て来た。

 周りを見ると、同様に涙をぬぐっている方が何人もいらっしゃった。

 

 渋谷は東京に初めて出て来た三十年以上前に時に住んでいた街だが、まあ、当たり前だが、もうすっかり変わっていました。

 お世話になったそば屋さんも無くなっていて、わからないところばかり。

 宇田川町交番と味の素バンバンの中華屋さんは変わっていなかったが、中の店員さんのオネーチャンは支那人でした。

 

 高田馬場に戻り、スポーツセンターへ。

 昨日消化出来なかった背中、肩、腕、下半身のメニューを消化。

 帰りに古本市に寄り四冊購入。

 銭湯に行った後、夕方より、先日Mさんから「金ちゃん、マロさんと飲んでください」といただいたシャトーラフィット83をメインに金ちゃん、マロさん、めぐ蔵さんとでワイン会。

 

  

  

 結局、白一本、赤二本、日本酒(磯自慢四合瓶)、めぐ蔵さんが持って来てくださった赤の微発泡が一本などが空。

  

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。

 でも、部屋では布団ではなく床で寝てました。


2月5日土曜日晴れ△

 午後からスポーツセンターに行く。

 時間がなかったので、胸部、体幹のみ。

 久しぶりなのでバーベルがめちゃ重く感じる。

 今日は土曜日なのに忙しい。

 Hさん二名様で来店。

 Tさん、りつ子さん三名様で来店。

 アンコウ鍋でドンチャン。

 酒はアダージョから三十五%、妙、初亀出品酒まで。

 Oさん二名様で来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

2月4日金曜日晴れ △

 開店前にAさん来店。

 Sくん来店。

 バンブーさん来店。

 Kさん、Eさん来店。

 塩月さん二名様で来店。

 三名様来店。

 Tさん四名様で来店。

 営業終了後、新橋のカッシーズバーへ。

 写真は「めぐ蔵風豆腐ハンバーグ」

 

 

 其の後、Kさん、エリーさん、カッシーさん、めぐ蔵さんとドンチャン。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

何を今更2

2月3日木曜日晴れ×××××

 今日発売の週刊新潮に人民日報築地支社であるチョイル新聞(通名朝日新聞)編集委員・星浩氏が池田大作ダイセンセイについて、

「脳梗塞を患い、車椅子に頼っている状態だ」と内閣情報調査室の懇親会で語ったとありました。

 池田大作ダイセンセイが表舞台から消えて久しい。

 (まあ、このまま消えて欲しいものだが)

 キチガイ新聞にふつうだとご尊顔をでっかく掲載するのに、昨年十一月と今年の一月二十七日にちっちゃく写真が掲載されていたらしい。

 池田大作ダイセンセイはキチガイのあいだでは「仏罰」といわれる脳腫瘍ともいわれているそうです。

(週刊新潮平成二十三年二月十日号P二十六)

(新潮45平成二十三年二月号p二十四)

 池田大作ダイセンセイは、キチガイ宗教の幹部の身内に不幸があると「信心が足りないからだ」と罵倒していたそうであるが、その池田大作ダイセンセイの後継者として「帝王学」を授けられてきた次男である城久氏は昭和五十九年十月三日に僅か二十九歳という若さで胃穿孔で急死してしまったが、此の時もだれも池田大作ダイセンセイに「仏罰だ」と言えなかったそうです。

 仏罰だ!

 一名様来店。

 Nさん、Tさん来店。

 岐阜からMさん来店。

 営業終了後、近所のバーへ。

 其の後、エムズバーさん、イデアルさんとハシゴ。

 記憶無し。

 サル以下。


 

何を今更

2月2日水曜日くもり△

 大相撲で力士の押収された携帯で八百長メールが見つかり、大騒ぎになっています。

以下引用

<元・春日錦ら4人関与か…八百長相撲疑いメール

 大相撲の野球賭博事件で、警視庁が昨年7月に相撲部屋の一斉捜索で押収した力士の携帯電話から、昨年の春場所(3月)と夏場所(5月)で八百長相撲が行われていたことをうかがわせるメールが見つかっていたことが、捜査関係者への取材でわかった。

 メールには金銭をやり取りしているような記述もあった。送受信には、少なくとも十両力士ら4人が関与しており、うち1人は今年1月に引退した元幕内力士の春日錦(現・竹縄親方)(35)と判明した。

 メールの内容は、警察庁を通じて日本相撲協会を所管する文部科学省に伝えられ、同省は2日、同協会に調査を指示した。

 警視庁は昨年7月7日、阿武松部屋などを賭博開張図利容疑で一斉捜索し、賭博に関与したとされる力士らの携帯電話50台以上を押収。削除されていたメールを復元し、先月26日、元力士ら4人を同容疑などで逮捕した。同庁で調べたところ、複数の力士の携帯電話から昨年の春場所と夏場所で、事前に取組内容を打ち合わせたり、金銭をやり取りしたりしたことを示すようなメールが見つかった。

 ある力士は、夏場所2日目の昨年5月10日夕、翌日の対戦相手の別の十両力士から、「立ち合いは強く当たって流れでお願いします」との内容のメールが届いていた。十両力士が翌日の取組で勝たせてほしいと依頼する趣旨とみられ、実際、同11日、十両力士が上手投げで勝利していた。2人の間では、「20万はどうします?」といったメールも見つかり、勝ち星を売買していた可能性もある。

 竹縄親方は2日朝、読売新聞の取材に対し、「ないない。協会に聞いてほしい」と述べ、関与を否定した。

 同庁では、八百長相撲そのものを罰する法律はなく、賭博の対象にもしていなかったとみられるため、立件は見送る方針。

(2011年2月2日14時32分  読売新聞)>

 八百長報道のマスコミ相手の訴訟は勝ちましたが、今回はあかんでしょう。

 普通の国民は八百長はあるやろうと思っていながら、それを含めて大相撲を楽しんで来たのです。

 八百長を疑われ、そのままだったら双葉山の六十九連勝の記録を破る勢いだった千代の富士の五十三連勝を阻んだのは同じ横綱でガチンコと思われている大乃国でした。

 その千代の富士に引退を決めさせたのも、これまたガチンコだろうといわれている貴花田、貴闘力でした。

 証拠が残っていないから、ず〜と続いて来たのです。

 証拠が残るような事やったらあかんでしょう。

 伝統は大事ですW

 

 写真は三月二十七日に開く飲んべえの会に出すために、昨日やった東一の在庫確認。

 

 出品予定酒は下記の九本です。

NO.1 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 16年古酒 平成7年 (6BY)  1升瓶

NO.2 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 10年古酒 平成13年 (12BY) 1升瓶

NO.3 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 8年古酒  平成15年 (14BY) 1升瓶 (選抜酒中の選抜酒)

NO.4 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 6年古酒  平成17年 (15BY) 1升瓶

NO.5 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 5年古酒  平成18年 (17BY) 1升瓶

NO.6 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒 3年古酒  平成20年 (19BY) 1升瓶

NO.7 東一 純米大吟醸 斗瓶取り 選抜酒       平成22年 (21BY) 1升瓶

NO.8 東一       大吟醸 斗瓶取り 選抜酒       平成22年 (21BY) 1升瓶

 

NO.9 東一       大吟醸 斗瓶取り           平成22年 (21BY) 1升瓶

 今回は東一の最高酒である斗瓶取りの選抜酒の平成七年発売よりの八本+一本という垂直の会となります。

選抜酒とは、東一の斗瓶の中より勝木製造部長がきき酒し、選び抜いた斗瓶の中の斗瓶です。

 東一の選抜酒として出した最初は平成六年ごろの四合瓶だったと思いますが、残念ながらその年のボトルは当店の在庫として無くなってしまいましたが、その翌年の平成七年からの垂直となります。

 NO.3はその年に当店のために勝木部長が選んでくださった「選抜酒中の選抜酒」です。

 

 十六年にわたる東一の選抜の垂直というのも機会が少ないと思いますので、お時間がございます方は、ぜひ御参加いただけましたらと思います。

 

 電話もなく、オチャッピーかと思っていたら、

 Mさん二名様で来店。

 寺田倉庫に山ほどワインを預けてあり、最近、部屋にフォルスターの百二十本入りのワインセラーを購入したというMさん、ピザと一緒に、シャトーラフィット83を「金ちゃん、マロさんと一緒に飲んでください」と持って来てくださる。

 ここしばらく、一級シャトーなんぞ買っていない。いや、買えないからギョ〜エという感じである。

 いや〜確かに十八年ほど前にワインを飲み始めたころは、一級シャトーの88、89、90年なんかも九千八百円で買えた。あまりよくない年の84、87なんかは四千八百円。ロマネコンティ90年でも六万八千円。

 今じゃあ考えられません。

 ちなみに、このラフィット83も楽天ではとんでもない価格でした。

 

 

 ホロン部員Yさん来店。

 Mさんのお土産のピザを食べながらプチドンチャンということで、

 記憶は当然あり。

 サルよりマシ。

 ホロン部員Yさん来店。

 Mさんのお土産のピザを食べながらプチドンチャンということで、

 記憶は当然あり。

 サルよりマシ。


小林よしのり

2月1日火曜日晴れ ×××

 最近読んだ雑誌のひとつに小林よしのり氏の女系天皇論とそれに対する批判がある。

 私は単純に、小林氏がどうして現在皇位継承順位第三位である悠仁親王がおられるのに、愛子内親王を天皇にしたがるのか理解出来ない。

 天皇継承者問題についての議論と、悠仁親王を差置いて愛子内親王を天皇にというのは違うのではないか。

 ましてや、愛子親王に対しての小林氏の書き方に違和感を覚えざるを得ない。

 小林氏は「愛子内親王の不登校を根拠に、『直系』継承の不安を唱える向きもあるが、大した問題ではない」として、現在発売されているSAPIOに下記のように書いている。

 

「愛子さまの国語力は

 抜群で、文字は堂々と

 して達筆!

 芸術的センスも

 岡本太郎かピカソか 

 という見事さ!

 自由研究は出典を

 明示しながらのレポートで

 小学三年とは思えない!

 短距離走ではその俊足と

 負けん気を見せてくれたし、

 

 相撲やヨーロッパの城の

 知識と記憶力も

 目を見張るものがある。

 さらに東宮御所では

 楽譜を正確に読み取る

 「ソルフェージュ」やピアノ、

 バイオリンなどもならっている。

 

 要するにこの子は学校なんか

 行かなくともいいくらいに

 優秀で教養があるのだ!

 今の不登校など少し早めの

 思春期に過ぎない。

 むしろ愛子さまの将来の輝きを予感させる

 潜伏期とわしは見ている。

 愛子さまが将来

 皇太子殿下になれば

 日本の閉塞感は

 一気に払われるだろう。

 アマテラスの再来を

 予感させた時点で

 日本は活力を取り戻す!」

SAPIO平成二十三年二月九日・十六日号P七十二〜七十三

 

 

 どう解釈すれば、ここまで断定して書けるのであろう。

 私は一緒にするのは何とも恐れ多い事だが、北朝鮮の金親子をマンセーするアホ連中を思い出してしまった。

 今日の寒さは昨日から比べるとマシだそうです。確かに昨日出かける時に雪駄に裸足で出かけたら足が冷たかった・・・・・

 初めてのお客様二名様来店。女性の方が淡路島の一宮町出身と伺い懐かしくしばし淡路の話で盛り上がる。

 酔狂師さん来店。

 金ちゃん、マロさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 週の初めからサル以下・・・・・


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