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飲んべえ日記平成十八年一月

戦争におけるソビエト軍(ロシア)の残虐性
1月31日火曜日くもりのち雨 ×

 「ベラ・ルーシー(白ロシア)」という名は、モンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき湖沼が多く、そこを避けたため、「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」のルーシーとなったそうな。支配地における強姦が将兵の職務であった十三世紀のモンゴル軍の正統な継承国であるロシアはそれが現在にいたるまで不変の文化として残っています。そのロシアが中心のソビエト軍は無制限の強姦をくり返しました。それについては多くの証言が残っています。

「ドイツ人の女性は老女から四歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはあまりいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも二五〇人に暴行された少女に出会った・・・・」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)

「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は九万五千ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その結果死亡した人がー万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽるようだ」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)

 そのソビエト軍の残虐さは我が国国民に対しても同じでした。火事場泥棒のように昭和二十年ハ月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、満州に侵攻を開始し支那、満州、朝鮮にいた我が国国民に襲いかかりました。

 「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。・・・・
 そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。・・・・・。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」(「されど、わが満州」p172〜3)

「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より西日本図書館コンサルタント協会)

葛根廟事件
ソビエト正規軍が民間の日本人避難民を攻撃し、全滅に等しい被害を与えた事件である。葛根廟はラマ教の僧院で、興安南省と竜江省の省境に近い辺境にあった。当時、葛根廟から二十五キロほど離れた興安の街とその周辺に、約四千人の日本人が住んでいた。ソ連参戦の翌日にあたる一九四五年八月十日、日本人たちは南方に向けて避難を開始した。ハ月十二日、避難の遅れた二千人が、葛根廟駅から列車で奉天に向かうため、葛根廟をめざし、隊列を組んで興安を出発した。ほとんど女性と子供であった。葛根廟が視野に入った、八月十四日午前十一時半、ソ連軍戦車隊と遭遇。突然、機銃掃射が始まり、あたりが血の海となった。生存者はわずか、約百五十人だった。女や子供ばかりの隊列を、日本軍と間違うはずはない。まぎれもない非戦闘員虐殺事件である。

麻山事件
ソ連侵攻直後の同年八月九日、満州東安省鶏寧県庁は、県内在住日本人開拓団に避難命令を発した。それを受けたハタホ開拓団約一千名は、荷馬車で牡丹江に向かった。一行は、日本の統制を離れた満州治安軍の反乱部隊とソ連戦車隊の双方の来襲を受け、「敵の手で辱められるよりは」と、婦女子四百余名が男子団員の銃によって命を絶たれた。

 そして、あの
白衣の天使たちの悲劇も起こりました。
どういうわけか、我が国の進歩的といわれる人々はドイツ、東欧、そして満州、朝鮮にてのソ連軍の人道及び国際法に反する蛮行に対して非難することは無い。

 河岸にいくと今日も活けヤリイカなどが高い。ありがたいことにマグロはいいのが入っていた。
 Aさん来店。六月からの転勤が決まったそう。Mさん二名様で来店。遅い時間に大台さん来店。土曜日の遅い時間の御予約。
今日は昨日の反動?で早い時間から飲む。記憶はあやふや・・・・・・

流石は朝日新聞
1月30日月曜日晴れ ○

 部屋のパソコンの調子がイマイチ。そのために、資源ゴミのこともあり、夕方店にいき、日記、掲示板などの更新を終えてからスポーツセンターにいく。今月はスポーツセンターに九回行ったことになり、目標の八回をクリア。一ヶ月八回で一年間で九六回の目標ですが、いままで三年間は六八回、七五回、七九回と八〇回の壁さへ超えたこともない。今年はせめて八〇回以上は通いたいものです。
 部屋への帰りに飯を食いに入った店に置いてあった今日の朝日新聞のスポーツ欄にはやはりあの民族のお約束で、前チャンピオンの池仁珍選手が判定に不満とありそれに合わせるかのように「首かしげる判定、残念」と題した記事はあまりにも朝日新聞らしさが出ていて思わず感心。
以下引用
 
日本ボクシング界の記念日に「水」を差すつもりはないが、この日の判定には首をかしげた。
略)
池を勝ちにしたミントムは5点差をつけた。越本を勝ちにしたスリチャロンとは4ラウンドも勝者が逆だった。
略)
リズムをつかんでいた池は明らかに越本を誘い込むように、ロープを背にして戦っていた。左右の連打をはじめ、有効打は確実に多かった。
略)
興業と勝負が裏表のリングではホームタウンデシジョンは当然といえば当然。
過去にも倒れないことで、王座を防衛した世界王者も存在した。
越本親子の執念には敬意を払うしかない。日本のジム所属で最高齢の世界王者。打ちたてた金字塔が大きいだけに率直に喜べなかった。
 竹園隆浩

以上引用終わり 朝日新聞平成18年1月31日

 いや〜すごい記事です。
<日本ボクシング界の記念日に「水」を差すつもりはないが、この日の判定には首をかしげた
<興業と勝負が裏表のリングではホームタウンデシジョンは当然といえば当然
<過去にも倒れないことで、王座を防衛した世界王者も存在した
<越本親子の執念には敬意を払うしかない>
<日本のジム所属で最高齢の世界王者。打ちたてた金字塔が大きいだけに率直に喜べなかった

 ここまで大新聞が悪意というか敵意とまで思えるものを表にむき出しにした、その気持ちに率直なすばらしい書き方ができるものでしょうか。

 流石は朝日新聞というべきでしょうか。

竹園隆浩さんあんたすごいよ。

 それだけでなく、審判が三人いることを完全に無視して、一人の審判だけが正しいとまで断定しています。越本選手が勝ったのは残りのひとりのクレメンツ審判(アメリカ)も越本選手に多くの得点を与えたため(一点差でしたが)2−1で越本選手が勝利したのです。ところが、この竹園隆浩という御仁は池選手を勝ちとしたミントムという審判と違っているポイントを付けたと文句を言っているのです。ミントムという審判の方が正しいと断定しているのです。
それじゃあ、

審判が三人いる意味無いでしょう。

いや〜ホントにすごい朝日新聞らしい記事でした。

 あと、私は当然、試合は見ていないのですけど、「リズムをつかんでいた池は明らかに越本を誘い込むように、ロープを背にして戦っていた」って、
ロープに追い込まれていたともとれるのですけど・・・・・

 竹園隆浩さんは到底日本人と思えないような記事をお書きになるようで、それもまあ、外国の方も結構いらっしゃるグローバルな朝日新聞らしいといえばそうなのでしょうが、今さらながらに感心いたしました。

 ところで、心情的にはその試合場で竹園隆浩さんはどっちを応援していたのでしょうか。冷静な目を持って中立、ニュートラルだったなどというつもりでしょうか。

なんか私のような下衆な人間には、竹園隆浩さん池選手を応援しにいっていたとしか思えない朝日新聞らしいりっぱな記事でした。

すんばらしい!!!!!

 ちなみに「気迫が勝った」とした産経新聞に掲載された原田政彦日本プロボクシング協会会長(私などは現役時代のリングネームであるファイティング原田の方が馴染みがあります)のコメント
「頭脳的だった。技術的にもよく、スタミナ配分も知っていた。ファイトだけでなく、うまかった」

同じく元世界王者の浜田剛史氏のコメント
「倒されたら終わる中で終盤、勝負に行ったのが勝因」と気迫をたたえた。
「日本のボクシング選手全員に勇気を与えた」

WBCバンタム級王者長谷川穂積選手のコメント
「長く防衛できる王者になれる。そういう安定感がある」

どういうわけかえらく違うもんだ。

今日は夜遅くなって笑わせていただきました。

アホラシ

理科大ラグビー部OBとドンチャン?
1月29日日曜日晴れ ×

 今日は昼から理科大ラグビー部OBのみなさんに声をかけていただき、酒二升を持って飲み会に参加。一応建て前はミャンマーから五年ぶりに帰国したジャンボさん御夫妻を囲んで、デカナベさんの九州の御実家より送られてきた猪二・五キロを肴に飲むということでしたが、まあ、飲めれば理由はなんでもいいということで、今井さんを始め、遠くは関西からこの日のために日帰り!でいらした柳さん、スペインのバレンシアから昨日帰国したばかりというタスクさんまでなんと十三人とその御家族まで大勢がひばりが丘のチヒロさん宅に集まりドンチャン。
ビール、ワイン、ウイスキーそして日本酒となんでもありで、デカナベさんが調理してくださった猪とチヒロさんの奥様であるミホちゃんの手料理、本間さんの奥様になる文月ちゃん(結婚宣言!がありました)が作って持ち込んでくれた煮物などで一時ごろから夜八時過ぎまで飲む。
今日も大ヨッパライ。
 部屋に帰る前に一度店に寄りゴミを出してから帰る。

 WBCフェザー級タイトルマッチで、チャンピオンの池仁珍(南朝鮮)をくだして、福岡県福津市の越本隆志選手が三五歳で日本人最年長の世界チャンピオンになったとのニュースがあった。
 世界戦を組むために越本隆志選手はファイトマネー無しで自分の名誉のためだけに戦うというのを新聞のニュースで知っていたので、この結果は気になっていました。勝ってよかったです。

朝鮮人の小中華思想による蔑視
1月28日土曜日晴れ ○

 我国にきた朝鮮通信使たちは我国の遊女、遊廓などの性風俗を「真の禽獣なり」と蔑んでいます。
 そんな通信使一行も朝鮮内では各地で地方管吏から妓生の接待を受けています。
それは妓生の相手が多くは特権階級であった両班であったのに対して、我国の場合は身分に関係なく、武士、庶民が遊廓に自由に出いるしていた事によるものと思われます。そして何よりも、当時の朝鮮では支那と朝鮮の両班以外は我国を含め格段に低い位置に置いていたためです。
 それは「日韓歴史克服への道」(下条正男著 展転社刊)に書かれている下記の事例でも明らかです。
 以下引用
 『粛宗実録』の粛宗十六年(一六九〇年)七月、倭館の日本人と密通した朝鮮人女性について府使朴紳というものが、律により処断するように中央政府に覆奏した結果、日本人は対馬に送還され、三ヶ月後に手引きした朝鮮人と密通した朝鮮人女性が極刑に処され、倭館の門外に梟首されるという事件が起きた。
その二年前の粛宗十四年三月には、府妓と胡(女真族)の商人たちが関係する事件がしばしば起き、その時には監督不行届きという理由で、府使の李晩輝が処罰されていた。
 ところが不思議なことに、同じ三月、明人の康世爵という男が朝鮮北部に流落し、慶源府の府妓との間に多くの子女を儲けていたが、地方官吏の嘆願で罪を許されています。
 この三つの事件は、朝鮮の女性が外国の男たちと性的な関係を持った点で共通していますが、相手が倭人と言われていた日本人、胡人(女真族)の場合は本人か関係者が処罰の対象とされ、小中華を自認していた朝鮮は明人(支那人)だけは例外とされていたのです。それが性的なものにまで影響していたことを表しています。

 現在、我国において在日朝鮮人の人々のうち済州島出身者が何故多いか。それは朝鮮国内の醜い差別によるものです。
我国と併合した結果、醜い差別より逃れるために我国に多くの済州島住人が移ってきました。

しかし、我国の遊廓には身分としての奴隷はいませんでした。
 
 李氏朝鮮時代はもちろん日本統治時代にも、平壌などでは朝鮮人が管理していた「妓生養成所」が置かれていた。
「慰安婦」は新聞などでも朝鮮人によって募集されたが、ほとんどが「妓生」から慰安婦となったのである。つまり、職業として「妓生」から「慰安婦」に移行し、売春を生業としていたのです。

 今日は河岸に行かずに午後よりスポーツセンターにいく。
 早い時間に今日は都電の車庫まで行って写真を写してきたというOさん来店。Nさん二名様で来店。御予約いただいていたアンコウ鍋。Kさん来店。Tさん二名様で来店。
少しだけ飲む。


千年属国国家朝鮮における慰安婦
1月27日木曜日晴れ △

 支那は自国の有史以来の年中行事いや伝統文化?とでもいいっていい大虐殺には蓋をして我国に対して「南京大虐殺三十万人」と騒ぎ立てます。
 では、朝鮮人はどうかというと、やはり「強制連行」「従軍慰安婦」といわれるものが、それにあたるでしょうか。
 たとえば、新羅が唐の属国として高句麗、百済を滅ぼした時には唐に多くの朝鮮半島の住民が連行されました。モンゴル軍にも連行されています。丙子胡乱では五十〜六十万人、韓国史書によれば人口の半数以上も満豪軍に北方に強制連行されたと書かれています。他国の人間を奴婢として連行するのが大陸の伝統です。
 朝鮮戦争の時に南北朝鮮がお互いに人さらいをやったことを見れば、それは近代でも同じということがよくわかります。
 評論家の黄文雄氏は支那、朝鮮の東アジア大陸のひとさらい文化が、「日本政府の強制連行」という嘘の土台となっているとその著書「捏造された近代史」(徳間書店)に書いています。
 それと同時に、戦前、朝鮮人が黄氏故郷である台湾の町々まで売春宿を経営していたのは良く知られていることであり、戦後の残留朝鮮人の人口統計では男性よりも若い女性が多かったことがそれを物語っているとし、近年までアジア最大の管理売春国家として有名であった南朝鮮朝鮮人の嘘が風化しないように編み出されたのが「従軍慰安婦」という嘘であるとも書いています。(同書p169)

 それは、長い奴隷国家としての歴史をもつ朝鮮半島の歴代王朝政府は宗主国朝廷へ貢女と宦官を献上してきた歴史が千年以上もわたり、場合によっては結婚禁止令まで布き、王宮で貢女を選んで、宗主国に献上していた朝鮮人が、その自国の歴史に目をつぶり、我国に対してよくいう「人類史上類例をみない暴挙」という非難は、ただの無知か、あるいは知らぬ顔の半兵衛かのどちらかであろうと書いています。
そして、現在の支那、モンゴルなどには絶対にそういったことは抗議しません。元宗主国様にそういうことを言っても無駄だということを、千年属国としてしみ込んだ奴隷体質よりわかっているからです。
 ところが、朝鮮はそういう自国の歴史には目をつぶって、歴史を捏造など平気でしています。
朝鮮の報道より
http://japanese.joins.com/html/2004/0405/20040405210406100.html
??遊楽女が集団居住する集娼村には、公娼街と私娼街がある。
略)
こうした文化が日本統治時代に韓半島に入り、米軍政が廃止する時(1947年)まで全国各地で公娼が維持された。

 まるで、我が国が公娼制度を持ち込んだもので、それまでは朝鮮には売春制度が無かったというような書き方ですが、アホをいうなといいたいものです!
 世界最古の職業のひとつといわれる売春については、たしかに我が国でも吉原などの公娼街がありましたが、昭和31年に売春禁止法が成立して33年に施行されたことにより、それ以降は公娼街は無くなりました。公娼街はなくなりましたが、現在でも東京の吉原、新宿、池袋といろいろな所に、ソープランドという名前で、女性が売春を商売としている所がいくつもあります。日本をはじめ世界各国に売春があるのが現実です。  
 朝鮮人は過去に我が国が朝鮮の生娘をさらって、「従軍慰安婦」にしたといいます。じゃあ、朝鮮には売春婦はいなかったのか。とんでもない話で、いわゆる妓生(キーセン)とよばれる売春婦は新羅時代からあり、高麗時代の初期には「官婢」つまり国に所属していた奴隷の「売春婦」として制度化されていました。そして、全国から生娘をあつめて「貢女」として支配していた元に捧げられ、用済みになると返されたが、これを「帰順女」呼んで蔑んだ。

そして、奴婢については
『ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話』(林鍾国、平凡社1987)
「人間家畜の奴婢制度」という章の一節より。
奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具
にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、
ひどい場合は打ち殺されることもあった。
外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている 年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れをさしこ まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された 不幸な運命の主人公であった。

近代までこのような状態であったのです。

昨日というか、今日の酒が残っており、河岸にいって、皆から「アル中」「ヨッパライ」と温かいお言葉の数々を頂戴する。やっと、夕方になってさめてきた感じがする・・・・・
Y岡さん、Hさん来店。二名様来店。Tさん、Tさん(ややこしい)三名様で来店。アンコウ鍋。Kさん来店。Yさん来店。
また、遅い時間に飲む。でも少しだけ・・・・・

高砂義勇兵慰霊碑
1月26日木曜日晴れ ×××××

 今日の産経新聞に「読者の善意日台の絆に」と題された記事が掲載されました。それによると、高砂義勇兵慰霊碑の窮状を報じた産経新聞の記事により一昨年十一月までに寄せられた三二〇〇万円以上の義援金により再建作業が進められてきたが、来月八日に落成記念式がおこなわれることになったそうです。代替地は台北県正負が無償提供してくれたそうです。
 同じ無償提供でも、尹奉吉という朝鮮人テロリストの石碑に土地を無償提供している金沢市とはえらい違いです。

ソウル市は伊藤公の碑に土地を無償提供してくれるのでしょうか。
 
 Sさん六名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。みなさん酒がめちゃ強い。Fさん二名様で来店。Fさんとは十五年前のタイへの旅行の時に飛行機で席が隣になり知り合いに。Fさんは当時は筑波大学の学生で今は新聞記者。Nさん二名様で来店。Hさん来店。早めに終わったので、久しぶりに「イデアル」さんにお邪魔する。すっかりM社長にごちそうになってしまった。大ヨッパライ・・・・サル、猿、さる・・・・

講師と教授
1月25日水曜日晴れ 寒い △

 雑誌に写真が掲載されていて知りましたが、文化勲章受賞者のあの高名な植物学者である牧野富太郎は七七歳で東京帝国大学を辞めるまで講師だったそうな。小学校を中退し、貧困に苦しみながら研究を続けて植物学者としてりっぱな業績を残した人に対して、当時の東京帝国大学は講師としてしか遇しなかったわけですが、同じ大学が、今は上野千鶴子、姜尚中の両氏を教授として迎えています。何が変わったのでしょう。
どちらが教授らしいかというか、上野千鶴子
教授、姜尚中教授・・・・・
税金で反日活動に余念のないこんな人たちを食わせている・・・・・

 今日は河岸が休みということもあり、仕込みが少なかったので、午後より新宿スポーツセンターにいく。M建設が早稲田寮を閉鎖、早稲田大学に売却したことで、ナカちゃんから二人ともお世話になった伊藤さんが九州に帰る事が決まったという話を伺い、その前に時間を合わせて送別会をしましょうということになった。私のようなものの周りにも時の経過とともにいろいろな事がある。
 世間一般ではお給料日。でっ、当店はめちゃヒマ。
東京より山口に赴任中のFさん来店。三回目の御来店です。山口ではボーイスカウトの指導員として地域活動をされているそうです。バンブーさん来店。
今日もそれなりに飲む。記憶はあり。

いきなり
1月24日火曜日晴れ △

 いきなり下記のようなメールをいただきました。
こんにちは。聖教新聞などからの引用部をスキャナしたデータをくださいませんか?
http://blog.goo.ne.jp/xxxx○xxx/(伏せ字にしたありますので、つながりません)
のサイトを運営しています。
また、出来たら個人的希望として、絶対に参考資料になる原本は捨てないで欲しいと思います。
邪魔でしょうけど…。
以上。お願いでした。

なんざんしょ、これという感じなので、↓私の返信
<メールありがとうございます。
貴殿の申し出はお断りさせていただきます。
理由は、貴殿のように自分の名も名乗らずに、
他人に図々しく頼みごとを当然のようにしてくるような輩は大嫌いだからです。
もう少し最低限の礼儀というものを意識されたほうがいいでしょう。
管理人 >

 今日、河岸で仕入れをして店に来てみると、店の前にはまだ雪が残っていました。
MさんAさんと来店。ナベちゃん、王さんとニコニコ来店。王さんは最近ホットヨガに通い出したそうな。ホットヨガとかパワーヨガとかいう言葉を初めて聞いたのは昨年、香港に行った時。初めてのお客様四名様来店。Sさん来店。遅い時間というか定時にホロン部員Yさん来店。
今日は飲み始めが遅かったせいもあり、記憶あり。

びすとろ かがり火
1月23日月曜日晴れ ×

 午後より戸田スポーツセンターに行く。ここはベンチのフリーウエイトなどは無いが、マシンが新宿と違った物があり、昨日できなかった箇所のメニューを消化。夕方より小川さんのお店「びすとろ かがり火」のレセプションパーティに御招待していただいていたので柳町のお店に伺う。
 関東大震災直後の一九二五年に第一金庫本店として建てられたりっぱな木造建築を大改装してのお店で、カウンター、個室、そして大広間もあり、使い勝手のよさそうなきれいなお店です。パーティには一〇〇人以上の皆様がいらしていました。旨いワインとイベリコブタのハムなどいろいろ美味しいお料理をいっぱいいただき九時過ぎに大ヨッパライでの帰宅。やっぱサル・・・・

売国奴集団
1月22日日曜日晴れ ○
 あの売国奴の集まりである社民党が党名変更十周年のセレモニーを二十日に開き、十本のロウソクを立てた「愛と平和」と書かれたバースデーケーキを用意し、それを福島と村山、土井の歴代3党首がロウソクの火を吹き消したというアホなニュースがありました。
 その潰れそうな社会党からさっさと逃げ出したネズミどものひとりである岡崎トミ子らが日本の戦争責任を検証することを目指し、政策勉強会「日本の歴史リスクを乗り越える研究会」を発足させるそうです。
 呼びかけ人は、衆院は近藤昭一、達増拓也ら、参院は簗瀬進、岡崎トミ子らの計8人だそうです。その設立趣意書は「(小泉首相の靖国神社参拝が)日本をアジアで孤立化させ、経済的な国益まで失わせようとしている。第2次大戦から派生する様々な問題を『わが国の歴史リスク』ととらえたうえで、総括的・総合的な対応策を確立するギリギリの時期に来ている」と記しているそうですが、何度も書くように靖國を政治問題にしたのは朝日新聞であり、それに乗った支那、朝鮮が騒いでいるだけで、アジアで孤立などしていません。連中にとりアジアとは支那、南北朝鮮の三国のことしかないのです。
岡崎トミ子は朝鮮戦時売春婦と一緒になって在韓日本大使館前で国旗である日の丸に対して拳を振り上げ抗議をしたドアホウです。
売国奴議員は早く辞めてほしい。

 今日は店を片付けた後、スポーツセンターにいく。昨日の雪が振っている時の方が来ていた人が多かったそうな。古本屋さんに寄って帰る。

1月21日土曜日雪 ×
 輸入再開したばかりの米国産の牛肉に脊柱が混入し早速輸入禁止とはなんともいいやはや。でも、この件で凄いと思うのは <ジョハンズ米農務長官は20日、対日輸出した米国産牛肉に牛海綿状脳症(BSE)の病原体がたまりやすい特定危険部位の脊柱(せきちゅう)が混入していた問題で記者会見し、農務省が派遣した検査官らが「除去する必要性を認識していなかった」と述べ、検査態勢に深刻な不備があったことを認めた。
 問題の牛肉を輸出した食肉業者も「輸出基準の解釈に誤解があった」と釈明。貿易再開に際して両国間で定めたルールを米側の官民がいずれも破っていたことが明らかになった>(共同)(01/21 19:47)

検査官らが「除去する必要性を認識していなかった」>
食肉業者も「輸出基準の解釈に誤解があった」>

もうメチャメチャですがな。

 東京にしてはめずらしく朝から雪。ヒマだろうなと思っていたら、昨日に続きKさん二名様で来店。今日のお連れさんもオヤジギャグ連発・・・・Yさん御夫妻来店。Sさん来店。Tさん来店。横浜からTさん二名様で来店。
 今日は酒井辰彦先輩の命日。

なんと
1月20日金曜日晴れ 寒い ×

 一名様来店。ケイザブロウさん来店。Iさん、Yさん、四名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。磯自慢40%、磯自慢大吟13BY、九平次別設、東一大吟選抜、美丈夫舞うすにごりなど四合瓶ゴロゴロ。みなさん強い。Kさん二名様で来店。法廷でもオヤジギャグをかますそうな・・・・
大阪よりSさん二名様で来店。お連れさんの名字は「乃木」さん。のぎ、ノギ、乃木・・・・・あの乃木希典将軍の直系だそうな。
今日も飲む。ドンチャン。記憶なし。でも床で寝ていなかったのが救い。

国歌
1月19日木曜日晴れ 今日も寒い

 今日発売の週刊新潮のB級重大ニュース(このコーナー結構すきです)に、故郷の淡路島の洲本温泉が十三年ぶりに泉質検査をやったらいままでの「単純温泉」から「単純弱ラドン泉」と認定されたのは阪神淡路大震災の置き土産か?とかいうニュースと一緒に、「知られざる国歌」と題して、アメリカの世論調査によると国民の六一%が国歌の歌詞を知らず、知っていると答えた者もそのうちの三九%が最初の三行だけしか歌えない実情だそうで、そのためにフロリダで音楽教育連盟主催で国歌斉唱コンテストを開催したそうな。でっ、そのコンテストで、歌詞をみないで全部歌えたのは出場者の四分の一だけだったそうな。
 日本の場合は知っていても「君が代」は歌いたく無いなどとホザク田原総一郎のような輩もいますけど・・・・・

 昼間、飯を食いに入ったお店でそこのママさんから「たまねぎやさん、株やってるの」「いや〜やりたくても、その金がないですよ」「そう、よかったね。お互い」「・・・・」 
 寒い中、Sさん来店。Kさん来店。Nさん三名様で来店。遅れてNさんの奥様のETUKOさん来店。ETUKOさんはいわしや時代からのお客様。
 今日も飲む。

大橋巨泉というアホその3
1月18日水曜日晴れ △

 「仮想敵国を作る小泉の大罪」これは週刊現代1月28日号に掲載されたあの大橋巨泉のコラムの小見出しです。
以下引用
 
昨年春、小泉内閣の「市町村国民保護モデル計画」の素案が明らかになった。外国からの弾道ミサイル攻撃があった場合は、「できるだけ近くのコンクリート造りの堅牢な施設や地下施設に避難する」だと。ゲリラや特殊部隊による攻撃では、「サリン等の空気より重い毒ガスには、風上の高台に避難」だそうだ。「着上陸侵攻」とあるのは、仮想敵の上陸作戦に備えているのだろう。当然自衛隊による迎撃もあるので、いよいよ「有事法制」のお出ましである。
 すでに日本国は、戦争を想定しているのに、国民は相変らず景気だの株だのと呑気なものだ。理由はハッキリしている。野党第一党の民主党がしっかりしていないことと、メディアがだらしがないからである。
略)
 日本の右傾化は、明らかに仮想敵国をつくっている。それは北朝鮮であり、中国であり、遂には韓国にまで拡がる危険がある。玉村さんに教わって、「2ちゃんねる」というサイトを開いて驚いた。ここに投稿する人のほとんどは上記3国を敵視、侮蔑している。鮮人、半島人、支那人はおろか、チョンとかチャンコロとか、信じられない差別語の羅列である。これまたボクの子供の頃と同じになっているのだ。戦後60年で、日本人はあの戦禍の苦しさ、惨めさを忘れ、夜郎自大となって近隣国と事を構えようとしている。メディアは沈黙し、小泉の支持率は高い。『大事な話』に、不思議な小泉人気を明解に分析した言葉が載っている。森永卓郎氏の「弱れば弱るほど、一般庶民は、一見強いものに憧れる」は、まさに至言だと思う。今年のアカデミー賞の侯補乍に、「ジョワイユ・ノエル」というフランス映画がある。この映画の惹句を全日本人に贈りたい。日く「敵が届なければ、戦争は起らない」。仮想敵国をつくってはいけない。

引用終わり 週刊現代平成18年1月28日号 大橋巨泉「内遊外歓」p71より

 政府が国民を守るためには有事の事を想定するのは当たり前の事です。こちらが何もしなければ、向こうは何もしないということをこの男は言っているようですが、それは間違っていることを歴史が証明しています。自国の平和を守るということはどういうことか。我が国の北方領土は当時のソ連にどのような形で奪われたか。南朝鮮に竹島はどのような形で奪われたか。この男は知らないとでもいうのでしょうか。
 この大橋巨泉というどうしょうもないアホは、支那が我が国に数多くのミサイルを向けていること、南北朝鮮の我が国に対しての外交、それらはすべて、我が国が悪いといっているのです。
 全体主義の支那は軍事力、警察力により国益を伸ばしていこうとする国であり、その支那が我が国にミサイルの標準を定めているのは昨日今日のことではありません。支那は我が国にスパイを一〇〇〇人単位で活動させています。(オーストラリアに亡命した在シドニー支那領事館の一等書記官の話)。原子力潜水艦による日本領海侵犯だけでなく、最近でも民間旅客機を装った電子偵察機を我が国になんども飛来させています(産経新聞1月8日)。北朝鮮は我が国の罪も無い同胞をさらったこと、南朝鮮の反日もすべて我が国の責任でしょうか。支那,南北朝鮮に仮想敵国はどこか聞いて欲しいものです。
 この大橋巨泉は下記の記事についても我が国が悪いとでもいうのでしょうか。
以下引用
日本、韓国に国防改革案の説明を要請
 日本防衛庁が韓国国防部に、2020年までの大規模な兵力削減及び先端兵器増強の計画が含まれた国防改革案を説明してほしいと要請したことが分かった。日本政府が韓国の中長期国防政策に対して関心を表明し、このような動きを示したのは異例のことだ。
 政府の消息筋は16日、「日本防衛庁が在韓防衛駐在官などを通じて、韓国が進める国防改革案の背景と内容などを説明してくれることを何回も非公式に要請してきた」と述べた。
 日本政府は、新型潜水艦及びイージス艦、最新鋭の戦闘機購入の計画などが盛り込まれている国防改革案が、基本的に北朝鮮を狙ったものではなく、日本にとって軍事的脅威になりうるという判断の下、このような要請をしたと伝えられる。
 略)
 2020年まで進められる国防改革は、現在およそ68万人の常備軍の兵力をおよそ50万人に大幅に削減する一方、各種の陸海空の先端兵器を補強することを柱としている。このため、向こう15年間、合わせて693兆ウォンが投入される上、このうち先端兵器の開発と購入など、戦力の増強だけで289兆ウォンが投じられる見込みだ。

引用終わり
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/10/17/20051017000000.html
朝鮮日報 2005年10月17日

 十五年で六九三兆ウォンてことは日本円で約七十兆円!!!これマジですかね。年間国家予算十兆円の南朝鮮がその四割を軍備に注ぎ込むということは朝鮮半島二つめの軍事国家の誕生!!!!!!福祉などは吹っ飛びますな。まあ、南朝鮮にとってよいお手本がすぐ隣にあるからいいか。
 どちらにしても支那のミサイルはいいミサイルと思っているようなこの大橋巨泉という男の頭の中は、あの福島瑞穂、土井たか子などと同じ程度という事がよくわかりました。
あほらし。

 今日は築地が休みなので、スポーツセンターにく。
 メチャヒマ。Mさん来店。可愛い七歳の姪ごさんがテレビドラマのレギュラーで毎週出ているそうな。もう完全にメロメロ叔父さん。ヨシヨシ来店。Yさん来店。偶然同じ名字。
 飲む。ドンチャン。

創価大学四十一人
1月17日火曜日晴れ ×

  「創価大学四十一人」これは週刊新潮1月19日号の記事にあったもので、「創価大学創友会 会員名簿2005」に記された害務省にいる連中の数字だそうです。その代表的なのは南アフリカ大使を務めていた時に、2002年に南アフリカを訪れた小泉首相に恥ずかしげもなく池田大作ダイセンセイの撮影したという写真展に案内した榎泰邦(エノキ ヤスクニと読むのだそうです。ヤスクニ・・・・やめてほしい)現インド全権大使だそうです。
 創価学会の連中は何をどう思ったかわからないのですが、日支関係は池田大作ダイセンセイのおかげと思っているそうで、創価学会信者を支那大使にしたいそうです。
 この連中は害務省内に創価学会員組織として「大鳳会」というのを作っていて、国民の血税を使って単なる民間人である池田大作ダイセンセイが海外外遊の際には、空港に大使館や領事館職員が出迎え、税関も通らずフリーパスをさせ、その国の大統領などに会えるようにしたりいろいろと手をつくすのだそうです。
 朝鮮を兄の国と慕う池田大作ダイセンセイのために金をバラ撒き、勲章や栄誉称号を買い集めているのは南朝鮮のテレビ番組でばらされた事は既に書きましたが、そんなアホみたいなことによくつき合うなとつくづく感心する。やっぱ腐れカルト宗教は怖い。
 腐れカルト宗教は怖いといえば、創価学会による人権侵害問題に精力的に取り組んでいて、平成7年9月2日に殺された(東村山署は即、自殺と断定)朝木明代東村山市議の事件を所轄する東京地検八王子支部で、実際に捜査に当たった信田昌男検事は、創価学園・創価大学出身のバリバリの創価学会信者。その信田検事の上司にあたる地検八王子支部の吉村弘支部長検事も、創価学会の副会長の妹を妻にしている創価学会エリートだそうで、偶然とはホントに怖いですね。偶然・・・・・
 まあ、創価学会は外務省だけではなく、検察庁、警察、そして今、マンションの強度偽造で大問題になっている省庁などありとあらゆるところに入り込んでいます。偶然、偶然にいろいろと重なることがあるかもしれません。
まあ、偶然でしょうけど・・・・・
まったく、偶然てコワイナ〜

キチガイに刃物  コワイナ〜

 Y岡さん二名様で来店。Tさん、Sさん来店。M先生来店。Kさん御夫妻来店。
今日もいつも通りに飲む。明日が河岸が休みと思うとよけい飲める。
ドンチャン。記憶はあり・・・かな????

大和
1月16日月曜日くもり ○ 17日一部訂正追記
 午後より新宿の映画館で「男たちの大和」を観る。三時五十分からとなっていて十分ほど前に入る。
親父連中もいっぱい来ていました。それもひとりの人が多かったです。
いい映画だったと思ったし、最近、年のせいか涙もろくなってきているので泣けました。ただ、正直なところ仕方ないのかもしれないが、以前読んだことのある原作との距離感というか映画に少し違和感も感じました。
 帰ってきてから、原作の辺見じゅんの「男たちの大和」を読みなおすと沖縄に向かう大和として下記のような場面が書かれています。(ちなみに、原作者である辺見じゅん氏は角川春樹氏の姉にあたるそうな)

「副長の訓示のあと、乗組員は皇居の方角に向かって遥拝した。「君が代斉唱」がすむと、副長の音頭で「皇国万歳」を三唱した。
 乗組員たちはすべて戦闘服に身をかためた。この日の朝は、だれもがあたらしい肌着を着けていた。
 副長の解散の号令がかかったが、しばらくはだれもその場を去ろうとせず夕闇せまる甲板に立ちつくしていた。四国の海岸の松の木が、夕陽のなかにシルエットをつくっていた。
 家郷の方角に姿勢を正して帽子を脱ぎ、頭を下げて動かぬ者がいる。両手を高く拳げ、ちぎれるほど振っている者もいた。見えない父母弟妹に、妻や子に、恋人に、最後のお別れをした。みんな泣いていた。
 側距儀の石田直義班長も、「君が代」を歌いはじめたとき、涙が出た。最後に家に帰った時のことがまぶたに浮かんだ。長男が誕生して一週間目だった。家を出て歩き出したが、もう一度家の回りをまわった。息子をもう一ぺん、この腕でしっかり抱きしめたかった。妻や子のことが思い出され、涙がにじんだ。
 ああ 堂々の輸送船
 さらば祖国よ 栄あれ
 だれかが小声で歌いだすと、その歌声に誘われ、甲板を去りかけた者も立ち止まって歌いはじめた。
 遥かに拝む 宮城の
 空にちかった この決意
 暗くなりかけた海の彼方へ、大合唱となって広がった。漆黒の海面には艦の航跡が白く尾をひいていた。」
「男たちの大和 上」p303〜034

 その場面は、映画館の中で買ったパンフレットの中にも元乗組員の小林健氏の言葉としても下記のように書かれています。
<全員東に向いて「宮城の遥拝」をし、「君が代」と「海ゆかば」を斉唱して、それぞれ自分の故郷への別れと挨拶をしました。この時、日本海海戦で東郷平八郎元帥が掲げた”Z旗”が翻りました。全艦を「軍艦行進曲」が流れ、これを聞きながら大和は進みました>

 残念ながら映画にはこの場面はありませんでした。
そして下記の掲示板に書かれていたという出撃命令も出てくることはありませんでした。
   要旨
 本日茲に海上特攻隊ヲ編成シ、壮烈無比ナル沖縄突入作戦ヲ命ジタルハ光輝アル皇国海軍ノ伝統ヲ後世ニ伝ヘントスルニ外ナラズ。 各員奮戦其ノ職ニ殱死セヨ

 この二つは映画には描かれているだろうと何となく思っていたのですが外れちまいました。映画には国歌である君が代が流れることはなかったです。特攻に反対であった渡哲也扮する伊藤整一司令長官に対して、林隆三扮する草鹿参謀長が「海軍ニハモウ艦ハナイノカ、海上部隊ハナイノカ」と先帝陛下の言葉をだして説得している場面はあります。それに対して、元乗組員の方の証言にも出てくる当時では当然であったであろう宮城の遥拝、国歌を斉唱などの場面が特攻の大和の艦上において描かれて無いのは不自然に思いました。原作にあった掲示板に「死ニ方用意」の言葉が書かれていたということと、産経新聞にも掲載されましたが、同じ大和の乗組員だった八杉康夫氏の体験談にでてくる
 <能村副長から「各人故郷のほうを向け」と命令がありました。「みな、遠慮せずに大いに泣け」というのです。みな肩を震わせて一生懸命泣きました。よく覚えております。>
というのを参考にしたと思われる場面としては、特年兵に掲示板に書かれた「死ニ方用意」の方法を長島一茂演じる大尉が示唆し、それにより特年兵が絶叫したり、泣き崩れたりする場面として描かれています。そして、出航してから特攻の是非で下士官が大勢で殴り合い、それを長島一茂演じる大尉が止めて、「負けなければ分からない事もある」というようなことを言う場面は辺見氏の原作には無かったのですが、いれています。これらは中で買ったパンフレットに監督の言葉として「戦争は悪」「日中十五年戦争を見つめ直す作業」「太平洋戦争とはなんだったのか?」などという文章がでてきていますが、これらと関係あるのでしょうか。

 パンフレットによりますと、原作の主人公だった内田貢氏は平成十四年三月七日にお亡くなりなっておられ、その遺骨を養女の牧子さんが映画のように沈没地点で散骨され其の時に「内田兵曹、ただ今、帰りました。長生きさせて頂き、ありがとうございました」と亡き父親に代わり敬礼されたそうです。大和イチの柔道の猛者である内田氏は、当時は士官は別として、海軍では髪を伸ばしている兵隊はいなかったそうですが、大和に乗艦中もオールバックのへヤースタイルを通し、香水を好んでつけていたシャレ者だったそうです。そんな内田氏を山本五十六司令長官は可愛がり、大和を降りる時に世話になったと内田氏に短刀と茶掛を渡されたそうです。



やはり売国奴の二階俊博
1月15日日曜日くもり ○

 昨年12月19日の産経新聞は主張と題して下記のような文章を掲載したことがあった。
以下引用
 不安材料は、この問題を外務省とともに担当する経済産業省の大臣が、先の内閣改造で中川昭一氏から二階俊博氏に代わったことだ。中川氏は中国に一貫した姿勢を示してきたが、二階氏はどちらかというと中国との友好を優先してきた政治家である。
 日本の海洋権益の確保は国益そのものである。ガス田問題では、安易に譲歩しない対中外交を堅持すべきだ。
引用終わり
 そしてこの不安材料が現実となった事を我国国民は知らされる事となった。
以下引用
 
二階俊博経済産業相は十四日、東シナ海のガス田開発について、「国内には試掘をやったらいいと、元気のよい発言をする人もいるが、私はその道は取らない。中国側と粘り強く交渉しなければならない」と述べ、試掘に慎重な考えを示した。
 和歌山県日高町で開かれた、住民との意見交換会「一日経済産業省」で発言した。
 二階氏は「(中国側と)いきなり衝突しようとしても、ことは解決しない。双方がお互いのためになるように考えながら進めるのが話し合いの基本」などとし、今後も中国側と協議を進めていく考えを明らかにした。
 経産省は昨年七月、日中中間線付近で進める日本側海域での試掘権を帝国石油に付与したが、共同開発などについて日中の政府間協議が続けられており、試掘には着手していない。

平成十八年一月十五日産経新聞

 この二階という政治家は以前に週刊新潮の記事を引用した事がありましたが、あの反日教育推進者で天皇陛下に対して非礼な挨拶をした支那の政治家江沢民の揮毫した石碑を我国各地に建てようとした大ばか者です。(参照「
「二階俊博」はどこの国の政治家か」)
それを指摘されるとこの二階という政治家は
「田辺市以外の5カ所からは確かに申し出があったけど、まだ決まったわけじゃありません。そもそも江沢民主席の重要講話というのは、そう簡単に出るものじやないんです。それで使節団の関係者が感動して形にしようと考えているだけ。
江沢民主席のことをあれこれ言う人もいるけど、この講話は、江主席が日本の歴史認認を方向転換したという意味でも重要なんですよ。
 だから、いまさら石碑についてあれこれ言うのは中国に対する礼儀を欠くことになるよ」
といったひとです。
こんなのが我国の国務大臣をやっているのです。早く政治家を辞めてほしいものです。

 今日は店を片付けた後、スポーツセンターにいく。今日は時間もありゆっくりとメニューを消化。
帰りは高田馬場で月に一回開かれている古本市に寄る。「戦犯虐待の記録」「モンテンルパに祈る」「絞首刑」「南海の死刑囚独房」「スマトラ獄中記」」など戦犯叢書全七巻(国書刊行会)のうち六巻までいずれもいい状態の本が入手できたのは幸い。あとは曾根一夫の著書など購入。

綿引弘という厚顔無恥
1月14日土曜日雨 ×

 手許に古本市で買ってきた「世界の歴史がわかる本」(三笠書房1993年刊)という文庫本があります。著者は綿引弘、一九三六年生まれ、東京教育大を卒業後、桐朋中、高等学校教論 NHKのテレビ講座で歴史を受け持ったこともある御仁。
その著書「世界の歴史がわかる本」(三笠書房1993年刊)に書かれている事
以下引用
過酷をきわめた日本による朝鮮支配
 日本が朝鮮に対して行った植民地支配は、世界の植民地支配のなかでも、もっとも過酷な部類にはいるものであった。ここでその全貌をいい尽くすことはできないので、ほんの一端に触れておきたい。
 日本はソウルに朝鮮総督府をおき、総督には陸海軍の大将を当ててきびしい武断政治を行った。言論出版の自由はなく、朝鮮文字の新聞の発行も認められなかった。
 日本は近代的土地所有制度を確立する必要がるとして、一九一〇年から一九一八年にかけて「土地調査事業」を強行した。当時の朝鮮には近代的な意味での土地所有の考え方はなく、村の所有地も多く、土地の支配者がいても、個々の土地がだれの所有かははっきりしない場合が多かった。日本は大々的な土地調査を行うなかで、共有地の没収だけでなく、「期限までに申告しなかった」などさまざまな名目で朝鮮人の土地を取りあげた。
 このため朝鮮の農民はこの土地調査を「土地取りあげ調査」と呼んだ。土地を失った農民のなかには、生計を求めて中国東北地方(満州)や日本に移住していく者も多かった。
 一九一九年三月一日、ソウルで「朝鮮独立宣言」が発表されたのを機に全朝鮮で「朝鮮独立万歳」を叫んだ三・一運動(万歳事件)といわれる民族運動が起こった。全朝鮮の二二八郡中二一一郡で万歳デモが展開され、参加者はのべ二〇〇〇万人に達したという。
 日本はこれに対し徹底した弾圧を行った。
日本の発表では死者七五〇九人、負傷者一万五九六一人となっているが、朝鮮人研究者は「砲火で殺された朝鮮人はおそらく一〇万人以上になるだろう」(金達寿『朝鮮』岩波新書)と推定している。
 
ところで、日本人はいつごろから三食とも米を食べられるようになったのであろうか。それは大正時代に入ってからのことである。一九一八年の「米騒動」にみられる日本の米不足を補うためにに、政府は朝鮮米の輸入を強力に推進した。朝鮮での米の増加するにつれて、朝鮮人の米の消費量が落ち、その代わり粟の輸入が増大した。日本人はこうして朝鮮を犠牲にすることによって歴史始まって以来初めて、三度三度白い米の飯を食べられるようになったのである
以上引用終わり P154〜5

 まるで朝鮮の教科書なみのひどいウソばかりの文章です。土地の収奪、米の収奪のウソについては過去に何度も書きましたが、我国政府は朝鮮より、ひと粒の米、ひと坪の土地も収奪などしておりません。
「日本が朝鮮に対して行った植民地支配は、世界の植民地支配のなかでも、もっとも過酷な部類にはいるものであった。」というウソについては、この綿引氏が世界史を専門としているなら、アジアだけでもオランダのインドネシア統治、イギリスのインドおよびビルマ統治、フランスのベトナム統治、スペイン、アメリカのフィリピン統治がいかに醜いものであったか。世界を見まわしたら、アフリカの国々、南米、先住民が絶滅してしまったタスマニア、そしてオーストラリアの先住民に対しての虐殺などいかに醜い統治であったかを知らないというのであれば、世界史を教える資格もない。知っていて事実をねじ曲げてこういうことを平気で書くのであれば、これまた教育者の資格などないでしょう。どちらにしても反日主義者にはよくいる最低の部類の厚顔無恥な人間です。
この綿引氏のいちばんひどいところはその数字の捏造でしょう。
いわゆる三・一独立運動に関しても、大ウソをついてここまで酷い数字をあげている者はそうそういません。

綿引氏の著書の数字

?

参加者

死者

負傷者

日本発表  のべ二〇〇〇万人 七五〇九人 一五九六一人
朝鮮人研究者 ? 一〇万人以上 ?

 ではこの綿引氏の数字が何処から出てきたか。
下記を御覧下さい。

? 参加者   死者  負傷者
朝鮮独立運動の血史 二百三万人 七五〇九人 一五九六一人
朝鮮総督府 一〇六万人 五五三人  一四〇九人

 普通の場合だと、朝鮮人のウソとしての例、あるいは死者、負傷者の多い方の例として多く取り上げられる朝鮮人朴殷植が書いた「朝鮮独立運動の血史」に書かれている数値を日本の発表の数値としていることです。(ましてや参加者のべ二〇〇〇万人・・・・めちゃめちゃです)この数値は現在は朝鮮の教科書にも引用されていますが、当時、朴殷植は上海にいて独立運動をやっていました。ですから独立精神を奮い立たせることを主題とし、また、上海の地では正確な数字を統計的に算出したとするには無理があります。それに対して朝鮮総督府は面(村)ごと、そして月ごとに事実関係を明らかにして集計したものであり、両者を対照した時には普通は総督府の方が確度が高いと思うのがふつうでしょう。
二つの資料を並記するばあいは日本側資料としては普通は朝鮮総督府の発表の数値を使用するでしょう。
それを綿引氏は日本発表としている数値は、朝鮮総督府発表のものではなく、朝鮮人朴殷植が書いた数値を日本発表としているのです。これだけでも、この腐れ男の本性がよくわかる事例です。(まさか綿引氏は
日本にある朝鮮総連の発表だからとかいって日本の発表としてこの数字を使っているとか!!!!)こんな男が我国においてまがりなりにも教育に携わり歴史を教えて飯を食っていたのです。そんな男を NHKは講師としてテレビに出演させていたのです。
知らなかったとでも言い張るつもりでしょうか。まあ、どちらにしても腐り切った男です。
この三・一運動における七五〇九人という数字は大手出版社である講談社(目録20世紀 1919 平成10年9月29日号)なども平気で使っています。それだけ朝鮮人のウソが浸透しているということでしょう。
この講談社の本についての酷さ、三・一運動については改めて記述します。

 今日はメチャ雨がひどいので来店は無しかなと思っていたら一杯さん来店。遅い時間にIさん来店。ホロン部員Yさん来店。今日は飲むのを止めようかなと思っていたのですが、Iさんに男の子が無事誕生ということで????お祝でWドンチャン。結局いつもと同じ・・・・・・

西野瑠美子の嘘3
1月13日金曜日くもりのち雨 ×

 西野瑠美子の嘘の続きです。
以下引用
 
そんな中で、「朝鮮教育令」(一九一一年公布。朝鮮人を「忠良なる国民」にすることを目的とした)という法律が作られました。自分の国である朝鮮の歴史や地理を教えてもらうことができなくなったのです。また「国語」は、自分の国のことばである朝鮮語ではなく、日本語になったのです。学校でも子どもたちに日本語を使うことが強制されました。
引用終わりp67〜8

 まあ、よくもこれだけ酷い嘘を平気でつけるもんです。
 そもそも、我国に併合される前に朝鮮にはほとんど小学校すらありませんでした。
南朝鮮の国定教科書の訳本である「入門韓国の歴史」明石書店 P305にも下記のような嘘が書いてあります。
「一九〇五年以後、普成、養正などはじめ数多くの学校が建てられ、一九一〇年頃には全国の学校数が五〇〇〇余となった」
これは朝鮮の得意とする大嘘です。
 我国の近代小学校第一号は京都に明治維新一年後の一八六九年にでき、それより遅れること二六年後、当時の「大韓帝国」政府が一八九五年に国立(朝鮮では官立というそうです)の四校(壮洞、卓洞、桂洞、紬洞)を開校。入学者数はそれぞれ二三名、七六名、四〇名、四八名の合計一八七名です。
 そして、日本から学部(日本の文部省にあたる)顧問として一九〇〇年に渡韓していた弊原垣(のちの東京帝国大学教授、台北帝国大学総長)が一九〇五年二月に学部の「学政参与官」となったとき、日本の「朝鮮教育代行」という、朝鮮のための日本の国家事業が始まりました。そして、弊原案の「普通学校令」が一九〇六年八月公布。一九〇五年一一月に我国の保護国となり、日本の総督府が翌年二月設置されたためにこの「普通学校令」は我国により推進されることになった。
 総督府は学校を可能な限り大規模に朝鮮全土に設置する方針を定め、日本が持参した一九〇六〜八年の三カ年で五四万円が普通学校の新築、改築の費用の中核的な予算として投入された。(当然、大韓帝国は不返済)この予算で、官立九校(すべて当時の首都の漢城)のほか、各道の主要都市での公立五〇校がまず整備された。
 教科書は、一九〇八年八月末までに、修身、国語(ハングル)、漢文、日語(日本語)などがつくられ出版された。朝鮮の教育を我が国が我が国の人材と財力によりおこなったのです。
 そもそも、それまで、自国である朝鮮の歴史など学んでいませんでした。その事大主義により支那の歴史を一生懸命学んでいました。日本において在日朝鮮人が店名にまで使っている朝鮮人あこがれの両班の科挙の試験の方法はどのように行われていたのでしょう。宗主国支那への崇拝思想がきわめて強いために、漢字を使い「四書五経」を学び、朝鮮史ではなく支那史を学ぶことが教養とされていました。ダレ神父の「朝鮮事情」の中に書かれている下記の文章がそれをよく表している。
「中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問はまったく民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体制は中国のものである。
 写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは当然の帰結である。
 これよりもっと大きな差違は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民の間に存続していることである」(p131)

 世宗がせっかく創ったハングルですが、暴君といわれる第十代の燕山君により正音庁(諺文庁)などに所蔵してあった諺文口訣がことごとく焼き払われてしまいました。それだけでなく、一五〇四年には、ハングルの教授と学習を禁止し、学問の府であった成均館が遊蕩の場とされてしまいました。次代の中宗は一五〇六年、即位するとすぐ諺文庁まで閉鎖してしまい、ハングルは完全に廃止されました。
ハングルは我が国が朝鮮を併合する事により普及したのです。

 西野留美子が歪めて書いている朝鮮教育令により実際は我国が朝鮮においてどのような教育をしたか。日韓併合の一九一〇年から一九三七年(昭和十二年)頃まで、国語である日本語と共に朝鮮語も学校で必修科目として教えていました。それによってハングルは朝鮮に普及したのです。総督府に朝鮮の固有の文化を尊重しようという姿勢があったためです。はじめての本格的な朝鮮語辞典は総督府が明治45年に編纂に着手し、大正九年に刊行、「朝鮮語奨励規定」を大正十年に設けて日本人官吏に朝鮮語の習得を奨励しています。帝国大学である京城大学に大正十三年に法文学部には朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の講座を開設したりまでしています。大東亜戦争中もこれらの講座には何も制限が加えられていません。

 大東亜戦争中に「国語(日本語)常用運動」が開始され朝鮮教育令の改正により内鮮一体の見地から朝鮮語(ハングル)を正課(必修科目)から外し、朝鮮語の授業を行うか行わないかの判断を各学校の校長に一任しました。
逆にいえば、それまで必修科目として朝鮮語が教えられて来ていたのです。

 百歩ゆずって、併合、あるいは植民地として統治された国がその宗主国の言葉を覚えるのは当たり前のことでしょう。もし、我国が清、ロシアに負けていれば、支那語、ロシア語を覚えさせられたでしょう。

 一名様来店。当ホームページの人気者?「Mr.酵母クン」こと灰○さんの正確な情報を提供してくださったお客様です。ただ、残念なことに御本人も会った時にはまだ、その情報を把握していなかった・・・・う〜んもったいない。AIちゃん二名様で来店。アンコウ鍋。MさんTさんなど三名様で来店。Sさん来店。Yさん来店。大台さん来店。
 今日も飲む。ドンチャン。でも記憶はあり・・・・・・と思う。

いや〜助かった
1月12日木曜日晴れ △

 今朝、八時三十分頃河岸の中卸しのあんちゃん(社長)から電話。「おはよう。活けアンコウ競り落としたよ。後の注文は」・・・その電話受けたあとまた寝てしまう。
でっ、もう一度電話あり。今度はフミちゃん。
「いまどこ」
ハッとして時計を見ると・・・・十一時三七分・・・・・三時間も寝てしまった・・・・
ごめん。寝てしまった・・・・「・・・・寝ちゃったんだって」←電話の向こうでいっているのが聞こえる。電話が変わって今度はノブちゃん「遅くなっていいのだったら持っていくよ」
お願いします。ついでに、慎吾ちゃんとこにも寄ってマグロもお願い。
「・・・・いいよ」
昨日というか今朝というか飲んでいて最後まで珍しく記憶があったのですが、今日は久々の大ボケをかましました。
まあ、一緒に飲んでたバンブーさんも大ボケかましてましたけど・・・・
 というわけで、今日は河岸に行かずに営業。
Mさん、Yさんと来店。アンコウ鍋。今日、あんちゃんとノブちゃんが持って来てくれた活けアンコウは三・四キロ。Oさん、Sさんのギリギリブラザース来店。そして、お助けマンのへべれけさんとグデングデンさん来店。ついでにマルガリータさん来店。へべれけさん、グデングデンさんはコンピューターのプロ。全然知識のない私がいじり回してダメになった掲示板その他をテキパキと修復、設置、その上掲示板にアホが侵入するのを難しくもしてくれる。
Sさん来店。Hさん来店。
今日は、昼、夜とも助けていただきました。感謝。
それなりに飲んだが、流石に今朝とまた同じ事はできないので、おとなしく寝る。
でも、きっとサル、サル、サルをやるだろうな・・・・・

西野留美子のウソ2
1月11日水曜日晴れ ××× S
 この反日日本女性の嘘については多くありますが、「従軍慰安婦のはなし」(明石書店1993年刊)の文章を見れば分かるように、子供向けに書かれていることが余計に許せません。
 その嘘のひとつは多くの朝鮮人と同じく土地調査に関してです。
以下引用
 
支配するというのは、じっさいどういうことだったのでしょうか。
 まず手はじめに、土地調査(一九一〇年から十八年にかけて行われた土地の所有にかんする調査。自分の土地であることを申告させ、申告がない場合は国有地とされた)が行われました。自分の土地であると申し出る手続きがふくざつだったこともあり、たくさんの田畑が農民からうばわれました。
 そのころ朝鮮の人びとのほとんどが農民でした。農民の八割近くが自分の田畑を失い、日本人の小作人ととなって小作料をおさめなければならなくなりました。生活は苦しくなる一方で、たくさんの人びとが仕事を求めて、寒さの厳しいシベリヤや中国東北地方に移り住むようになりました。また、仕事を求めて日本にわたった人びともいました。

引用終わり p66

 土地調査の嘘についてはすでに書いてありますので、重複はなるべく避けたいと思いますが、まず、最初に考えなければならないのは我国と併合する前の朝鮮の農民と農業についてです。
 そんなに裕福だったのでしょうか。
 李朝時代の朝鮮では、技術的に米作が極めて不安定、不確実なために、資本投下をしない地力のみに頼る略奪農法ともいえるものをやり、気象条件に頼り切っていました。「朝鮮農業発達史」の発達編(友邦協会)によれば、李朝時代に直接農作物の作況と関係のあった記録では、干ばつ四八二年間に八九回(うち五一回が被害の甚大な旱害)、水害三三九年間に二四回、霜害三五四年間に二十二回、雹害四七四年間に十八回となっています。(二ページ)
三月から六月までは食料が不足する春窮期であった。当時の人口の八割は農民でしたが、朝鮮総人口の約六割が山野で草根樹皮を採集して生命をつなぐという状態でした。
 そのうえ、両班と官吏に食い物にされて、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいました。
 そのような農民でしたが、我国の土地調査により、長年自分のものとして耕作してきた農地が両班のものとなり自作農が小作農に転落するケースもありましたが、それは朝鮮人の問題であり、日本は一坪の土地も得ていません。国有地となった朝鮮総督府が管理することとなった農地の小作人の耕作権は百パーセント保障されました。そのために農地を追われた朝鮮人はひとりもいません。
これはすでに土地問題に記していることです。

 西野留美子の嘘はまだまだ続きます。

 今日は少し時間があったので、スポーツセンターにいくつもりで高田馬場にいくと、古本市が開催されていたのでついつい寄ってしまい、少ない時間がよけいに少なくなる。少しだけメニューを消化して終了。
 Wさん来店。Oさん御夫妻来店。Aさん来店後、ちょっと銭湯に。一度いってみたかったそうで、タオル、石鹸持参です。バンブーさん来店。
ドンチャン。大ヨッパライでも記憶はあり。

新年早々
1月10日火曜日晴れ 今日も寒い ×

 松は取れたが、新年早々流石、さすがアジア特定三国という感じの話題。
 まず、あの誘拐犯が英雄とされる犯罪国家の北朝鮮が、「韓国の獄中で人権侵害受けた」と南朝鮮に“補償”要求というニュースには目がてん・・・・
以下引用
 
韓国から北朝鮮に送還された元スパイや武装工作員らが、韓国に対し「韓国の獄中で人権を侵害された」と称して数十億ドルもの“補償”を要求してきた。彼らは韓国の対北融和策により北に送り返されたいわゆる“非転向長期囚”で、最後まで北朝鮮への忠誠を捨てなかった共産主義者たち。送還者はこれまで約六十人にのぼるが、この中には日本国内で日本人拉致にかかわった大物工作員・辛光洙(シン・グァンス)容疑者も含まれている。
 元スパイたちの“補償要求”は先週、南北境界線の板門店を通じ、「告訴状」として韓国当局に伝達された。あて先は韓国の政府機関である「国家人権委員会」と「真実と和解のための過去史整理委員会」になっている。
 告訴状によると「わが非転向長期囚たちは(韓国で過去)極悪な思想転向制度によって長期間にわたり獄中で耐え難い拷問や迫害、虐待を強いられた。その肉体的被害は十億ドルにのぼり獄死者まで考慮すれば数十億ドルに達する」としている。

 引用終わり(産経新聞) - 1月9日2時36分更新
それに対して南朝鮮も
北朝鮮に460億円請求 韓国拉致被害者
 【ソウル10日共同】北朝鮮に拉致された後に脱出して韓国に戻った韓国人4人が9日、北朝鮮に計4億ドル(約460億円)の補償金を請求する訴えを、韓国大統領の直属機関である国家人権委員会などに提出した。聯合ニュースが伝えた。
 韓国から北朝鮮に送還された非転向長期囚が先に、韓国で拘置中に受けた非人道的待遇について「主犯の処罰と補償」を求める告訴状を、同委員会に板門店を通じて送ったことに対抗した措置。
 4人は「北によって拉致され、30年間監禁と暴行、強制労役を受けた」とし、金正日総書記が1人当たり1億ドルを支払うよう求めている。

(共同通信) - 1月10日1時27分更新
というニュース
 テロリストが英雄になり、護国のために戦った先人に対して
醜い扱いしかできない南朝鮮もにたようなものでしょうけど。その、南朝鮮の北朝鮮に対しての要求はともかくとしても、誘拐犯が英雄になる北朝鮮。そもそも、北朝鮮に人権てあるのであしょうか。そのそも恥じというものが無いから何をやっても恥ずかしくはないのでしょうな。なんか、我が国の中にもそんな恥を知らない嘘つきの外国人連中が多いですけど。

 恥を知らないといえば、朝鮮半島二カ国の宗主国様(みたいなもの)も同じみたいです。
以下引用
日本に報道規制を要求 中国「対中批判多すぎ」
 【北京9日共同】中国外務省の崔天凱アジア局長は9日、北京での日中政府間協議で「日本のマスコミは中国のマイナス面ばかり書いている。日本政府はもっとマスコミを指導すべきだ」と述べ、日本側に中国報道についての規制を強く求めた。
 メディアを政府の監督下に置き、報道の自由を厳しく規制している中国当局者の要求に対し、日本外務省の佐々江賢一郎アジア大洋州局長らは
「そんなことは無理」と説明したという。
 日本側によると、崔局長はまた、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題や日本国内での「中国脅威論」の高まりなども挙げ「(日中間にあるのは)日本が起こした問題ばかり。中国は常に守りに回っている」と批判した。

引用終わり(共同通信) - 1月9日20時49分更新

 もうメチャメチャです。そりゃあ、普通は「そんなことは無理」と言うわな。言論の自由が無い支那といっしょにしてほしくないものです。自国が官製反日デモをやらして国際世論にたたかれて、形勢が不利とみると即座に止めさせ、マスコミはもちろんインターネットまで規制させるという徹底ぶり。そんなアホな事は普通の国はできません。我が国はこんな国とは普通の付き合いはできないと知るべきです。

<靖国神社参拝問題や日本国内での「中国脅威論」の高まりなども挙げ「(日中間にあるのは)日本が起こした問題ばかり。中国は常に守りに回っている」>って、支那政府らしい醜い言い種です。
そういえば、
言論統制については似たようなものともいえる南朝鮮の英雄には国から大金を研究費ということでせしめた詐欺師も最近仲間入りしたようで、これも民族の伝統でしょうか。さすがというべきでしょう。ノーベル賞に一番近い・・・・・

 今日はメチャヒマで、はやばやと今年も来客ゼロ達成かと思っていたら、最近シングルになり御近所に引越していらしたというSさん来店。でっ遅い時間というか御本人にとっては定時というか、まあ、そんな時間にホロン部員Yさん来店。
 結局、ドンチャン。でも珍しく最後まで記憶あり。飲み終わってから飯まで店で作って食ってるし・・・・


西野留美子の著書と売春婦
1月9日月曜日晴れ ○

 西野留美子という反日活動家がいます。今はあの松井やより女史の跡をついで一生懸命に反日活動に余念がありません。昨年から
戦時売春婦記念館というべき恥ずかしい所の館長を務めています。
 この人の「従軍慰安婦のはなし」(明石書店1993年刊)という著書が100円で少し前の古本市で売られていましたのを買ってきてあったので読みました。まあ、この手のアホな本らしく突っ込み所満載でした。
 あの有名な朝鮮人売春婦の金学順についての記述はこうです。
以下引用
家は貧しくて、私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いにいくことになったんだ。
 そのうち、金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌やおどりなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通ったけれど、十七歳になった春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性といっしょに養父に連れられて中国にいったのさ。
 平城から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗りかえてね。中国北部の『鉄壁鎮』という小さな部落に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。
 それから私たちは日本軍の将校に連れられて、中国人の家に案内された。そして部屋に入るなり、いきなりカギをかけられてしまったんだ。
 となりの部屋にはすでに、私と同じ朝鮮人の女性が三人とじこめられていたよ。
そのとき私は『しまった』とおもったけれどもうおそく、逃げ出すことはできなかった。
p32〜33
以上引用終わり
 
 この金学順など朝鮮人戦時売春婦の証言については湊郁彦氏が著書「昭和史の謎を追う」(文春文庫)、杉本幹夫氏の著書「植民地朝鮮の研究」(展転社)など数々のみなさんがそのウソについて指摘しています。
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『証言集 強制連行で連れて行かれた朝鮮人慰安婦達』(一九九三年発行)には四十人の聞き取り調査がなされていたが、その内二一人が前後でつじつまが合わなかったり、混乱していたりで、証言として収録されなかった。残り十九人のうち十五人が貧しさによる人身売買のケースであった。そして残り四人のうち二人はそれぞれ富山と釜山の従軍慰安所で働いているとなっていたが、富山はもちろん当時我国であった朝鮮の都市である釜山にわざわざ軍が強制連行してまで、いわゆる従軍慰安所を作る必要などないわけです。我国には当時は合法的に営まれている多数の売春宿はあったわけです。
 のこりの二人、この金学順と文玉珠ですが、金学順は訴状(全文は平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録)では「一九二三年生まれ。金泰元の養女となり、貧しさのため十四歳で四十円で養父に妓生として売られ、妓生学校で踊りなどを仕込まれた後、養父に連れられ、北支のカッカ県鉄壁鎮に行き慰安婦になった。朝鮮人の男と上海に逃げて夫婦となり、終戦まで質屋をやり帰国」としているのに対し、証言集では「養父に連れられて北京に行き、市内の食堂で昼食を取っていた時、日本軍将校に襲われ、連行された」となっています。
文玉珠は訴状では「一九二四年貧家に生まれ、女中をしている時、宋という朝鮮人から『食堂で働かないか』と誘われ、四二年釜山から船でビルマに渡った。慰安婦として働いて、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送った。日本軍下士官を刺殺したが、軍法会議で正当防衛と認められ、無罪になった。四五年末帰郷」と書いているが、証言集では「友達の所へ遊びに行った帰り、日本の軍服を着て、長い刀を差した男に拉致され、約一年、中国東北の逃安城で慰安婦をさせられた。その後帰国し、一年ほど女中をしていた時、友人から『お金を沢山くれる食堂があるので一緒に行かない?』と誘われビルマに行った」と書いている。ところが九六年梨の木社から出版された『ビルマ戦線楯師団?慰安婦だった私』では「妓生出身だった」と書いているのである。
 要するに誰一人強制連行されたことを立証できた人はいなかったのである。

 更に文玉珠は戦前の日本円で二万六千円の多額の貯金を持っていたことが明らかになった。一九九二年五月十二日の毎日新聞に、文玉珠の預金通帳についての記事が載っている。その通帳によれば、一九四一二年から一九四五年の間十二回振り込みがあり、その預金残高は二万六一四五円に上っている。これは今の金額にすると数千万円に相当する。当時日本軍の陸軍大将の年俸は六千六百円だった。従って文玉珠は陸軍大将の約二倍稼いでいたことになる。
 また元海軍中佐重村実は彼女らの前借金が四千円から五千円であったと言っている。そして彼女らはこの前借金を三カ月から半年で返し、平均的な貯蓄額は五〜六千円から一万円持っていたと言っている。その中には三万円も持っている人も居て、皆驚いていた。アメリカの反撃が予想以上に早く、彼女らの中には爆撃で死んだ人も居た。また前借金の返済が終わったにもかかわらず、船がなくて帰ることが出来ず、前線で亡くなった人も居る。しかし終戦と共に彼女らの大半は日本に帰った。千田夏光の『従軍慰安婦正篇』には一九三七年(昭和12年)位の話として、内地にて前借金千円で集めたとしている。そして彼女らは遅くても数カ月で借金を帰し、自由の身になったが誰もこの商売を止めなかったと書いている。
以上参考引用
植民地朝鮮の研究 (P114〜116)
昭和史の謎を追う 下(p508〜509)

 ちなみに、2万6千円とは、当時では家が数件も買えた金額だそうで、これが、虐待されたと騒いでいる朝鮮人自称慰安婦の実態です。何度も書きますが、この朝鮮人たちは売春婦だっただけなのです。

今回の記述は一部いままでのものに追記させていただきました。

 今日はスポーツセンターに行くのもかったるいので、飯を食いに出た以外は部屋でゴロゴロして一日が終わる。きっと、今度スポーツセンターにいったら体中が痛そう・・・・・

流石は朝日新聞
1月8日日曜日晴れ ○

 今年も新年早々あの朝日新聞は大ヒットというか大ホームランを連発してくれています。
まず、元旦の社説では 「 武士道をどう生かす 2006謹賀新年」として、
以下引用
 日中も日韓も首脳間の信頼がこれほど壊れてしまうとは……。
 大きな火種は小泉首相の靖国神社への参拝だ。悪いのはそっちだ、いや、そっちの方がおかしい。子供のようなけんかは歴史の歯車を逆転させ、せっかく緒についた「東アジア共同体」の機運にも水を差してしまった。

 昨春、北京や上海で暴力騒ぎになった反日デモのように、中国や韓国には荒々しいナショナリズムが横たわる。中国の強権的な支配や軍事力膨張の不気味さなども厄介で、こちらがきちんともの申すべき点は少なくない。
 他者への哀れみは
  だが、それだけに身をただすべきこの日本は、どうだろう。
 「牙を剥(む)く中華帝国」
 「反日国際ネットワークを粉砕せよ」 まるで戦争前夜のような見出しが一部の大手雑誌に毎号のように躍る。呼応するかのように有力政治家も寄稿する。
 空前の韓流ブームは救いだが、一方で『嫌韓』の言葉を冠した漫画が何十万部も売れている。インターネットにはさらに激しい言葉があふれる。冷静さを欠いた言論は、まるで国内のいらだちを外に吐き出しているかのようだ。

 
「外国の干渉を許すな」と、首相の参拝を支持する人々の声もとかく勇ましい。郵政問題を武将の流儀で押し切ったように、ここでも強気で押してこそ国家のリーダーだ、といわんばかりに。
略)
 ならば「武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯(ひきょう)なこと」(藤原氏)だった日中戦争に、いまだけじめがつかないのでは話にならない。あの時代、アジアでいち早く近代化に成功した「勝ち組」が「負け組」に襲いかかったのがこの戦争だった。
 靖国神社はその軍部指導者までたたえて祀(まつ)っている。そこに、中国などの神経を逆なでして首相が参拝し続けるのは、武士道の振る舞いではあるまい。参拝をはやしたてる人々もまたしかりだ。
 品格を競いたい

以上引用終わり 平成18年1月1日朝日新聞社説

 朝日新聞はこのように元旦の社説で、首相の靖國参拝を批判しています。支那、朝鮮のナショナリズムを一応は批判しながらも外交問題は我国が悪いといっているのです。
そして、一月五日の社説で首相念頭会見について「私たちこそ理解できぬ」として同じく靖国参拝を批判しています。
以下引用
 
これほど理解力が足りない人が、内閣総理大臣を続けていたのだろうか。そう思いたくもなるような光景だった。
 年頭の記者会見で、小泉首相は自らの靖国神社参拝に対する内外の批判について、5回も「理解できない」を繰り返した。

 「一国の首相が、一政治家として一国民として戦没者に感謝と敬意を捧(ささ)げる。精神の自由、心の問題について、政治が関与することを嫌う言論人、知識人が批判することは理解できない。まして外国政府が介入して、外交問題にしようとする姿勢も理解できない」

 理解できない言論人、知識人とは、新聞の社説も念頭に置いてのことだろう。全国の新聞のほとんどが参拝をやめるよう求めている。「理解できない」と口をとがらせるよりも、少しは「言論人」らの意見にも耳を傾けてはどうか。
 首相は、日本を代表する立場にある。一政治家でも一国民でもない。私的な心情や感懐より公的な配慮が優先することは言うまでもない。

 私たちは、一般の国民が戦争で亡くなった兵士を弔うために靖国に参る気持ちは理解できると繰り返し指摘してきた。
 一方で、戦争の指導者であるA級戦犯をまつる靖国神社に首相が参ることに対しては、国民にも違和感を抱く人は少なくない。まして侵略を受けた中国や、植民地だった韓国に快く思わない人が多いのは当然だとも考える。

 言論人や知識人の多くが首相の参拝に反対するのは、こうした理由からだ。

 
会見の次のくだりも理解しがたい。
 「靖国の問題は外交問題にしない方がいい。私は交渉の扉を閉じたことは一度もない。一つの問題があるから中韓が会談の道を閉ざすのはあってはならない」
 首相は忘れたのだろうか。靖国参拝が「外交問題」になったのは、首相自身が01年の自民党総裁選の公約に「毎年8月15日の参拝」を掲げ、「心の問題」を政治の問題にしたからだ。日本遺族会の支持を得る狙いだったはずだ。
 中韓の反発などで、結果として終戦記念日の参拝はしていないものの、今度は毎年1回の参拝が信念だと譲らない。自ら火種を持ち込んでおきながら相手を批判し、「外交問題にしない方がいい」と説くのはいかにも身勝手である。

 深刻なのは、9月に首相が任期を終えた後も、こうした事態が続く可能性があることだ。
 たとえば、ポスト小泉と目される一人、安倍晋三氏は、官房長官に就く前に月刊誌にたびたび登場し、「だれがリーダーとなったとしても、国のために尊い命を犠牲にした人たちのために手を合わせることは、指導者としての責務だと思う」と首相の参拝を強く支持してきた。
 次の首相を選ぶ自民党総裁選が控えている。荒れ果ててしまったアジア外交をどう立て直すのか。その具体策こそが問われるべきであるのは、だれにでも理解できることだ。

引用終わり 平成18年1月5日 朝日新聞社説

 いかがでしょう。朝日新聞らしい傲慢さ溢れるすばらしい社説です。自社の意見が「全国のほとんどの新聞」だそうで、そして、マッチポンプで外交問題にするのは朝日新聞のお得意な手法のくせに、(慰安婦、靖國参拝)それを棚にあげて、「外交問題にしたのは首相の自身だ」といいはる神経。そして、支那、朝鮮のいいなりになって首相の靖国参拝をやめれば解決するというような書き方。支那、朝鮮の言いなりになって解決しないのは昨年、民主党党首の前原代表に対しての支那政府の対応が証明しています。
前原民主党代表は靖國参拝反対ながら、支那の現在の軍事力は我国にとって脅威だといったら、支那主脳との対談をむこうから断られました。つまり、支那の言いなりにならない政治家とは会わないと言っているのです。
靖國神社参拝をやめれば支那、朝鮮との外交問題が大きく進むということはあり得ないのです。こんなことは支那のもつ中華思想というものの本質をわかれば、こういうアホな社説は恥ずかしくて書けないでしょう。大体、A級戦犯などという言葉を新聞が使っていること事態、問題なのです。
しかし、この程度の人間が社説を書いているとは朝日新聞ってやっぱり腐りきっていますな。

 今日も午後まで寝てしまう。掲示板をいるいろといじくっていたら、URAホームページの掲示板が書き込みができなくなってしまいました。あわてて、当店のパソコンについてのお助けマンであるへべれけさんに電話。結局、なるべく早く来てくださるということで、一安心。

川頭さんより御連絡をいただき、モンダビは倒産というより創業者一族が株式を手放してしまったという状況だそうです。訂正させていただきます。
 

大東亜戦争当時のアメリカ人(白人)の対日本人感
1月7日土曜日晴れ 寒い

 「特攻パイロットを探せ」(平義克己著扶桑社刊)には下記のような文章があります。
著者が米国国立公文書保管所で、大東亜戦争時の米軍書類より、資料を探していた時の事を書いています。
以下引用
 
当時、アメリカ軍は、日本とだけではなく、またナチスドイツとも交戦していた。ドイツ降伏いっ一ヶ月前の事である。ドイツ海軍とは北大西洋で、特にドイツ潜水艦と熾烈な戦いを行った。書類の中にドイツ海軍の話も時折でてきた。ドイツ軍の呼称は、そのままGermansであるが、日本軍の総称はほとんどJapsであった。稀ではあるが、JapaneseとかJapanとか記述してあるものもあった。これは、その当時のアメリカの一般的な感情、意向、傾向を表していた。アメリカ政府、軍部は一貫したポリシーとして当時、日本、日本人を人間以下の動物として蔑視し、それを事実として国民に植え付けていった。反対に自分たちの多くがドイツから移民してきた仲間であることも手伝って、ドイツに対してのそのような政策はなかった。この違いが、報告書などの書き方にも現れている。単に敵に対する増悪だったと言えば、そうとも考えられないことはないが、戦争が終わって六十年近くにもなっいまだに、Japsという呼び方が正式なものだと信じている老人もいる。p192〜3
引用終わり

駆逐艦キッドの戦友会にて
 以下引用
「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」
「どういう意味ですか?」
「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。
この老人は私の顔を見ながら言った。
「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。
 この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。
 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。
その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)
日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。
実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。
ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。
 この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。
大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。この一件はまだ未解決であり、将来的に答えがでるかどうかもわかっていない。私はできれば、この頭蓋骨を探しだしたいと思っている。

引用終わり p251〜2

 のちに、駆逐艦キッドへ体当たりした矢口重寿中尉(のちに少佐に特進)の追悼式をキッド戦友会の催しの一部としてできないかという話が、アメリカ人弁護士から持ち上がったときに、キッド戦友会だけでなく、キッド博物館理事会からも拒絶されたことについて、著者は
 以下引用
 
私見ではあるが、アメリカ人は普通自分たちが完全勝利した相手には寛大である。しかし、キッドへの体当たり攻撃に関していえば、最終的には戦争に勝利したが、この戦闘には負けたのである。だからいつまでも恨みを持ち続けるのではないだろうか。私の三十年以上のアメリカでの生活で得た印象によると、アメリカ人は勝てばGracious Winner(偉大な勝者)にはなれるが、負けた場合はSore Loser(不快な敗者)になりがちである。今回もその例のひとつではないだろうか。私の口の中にいやな後味を残した結果となった。
引用終わり p285

 私はこの著者の言葉に大東亜戦争当時のアメリカ人というか白人の日本人に対しての感情がよく表れていると思います。そして、それが戦中、戦後の捕虜の扱い、戦後の戦犯裁判という復讐の結果に潜んでいるものと思います。当時は合法として軍隊内においても歴然とした黒人に対しての差別はありました。海軍の写真に黒人が写っている事が少ないのはそうした理由に寄るものです。
ただ、同じキッドの乗組員にもビル・バーンハウス氏のように
「私は、このパイロットは英雄だと思う。自分の国のために、そして家族のために生命を投げ出したヒーローが、名前もわからず忘れられていくことは悲しいことだと思う」p74
という人もいます。

 Tさん来店。オガピー、Mさんと来店。Kさん二名様で来店。MIKIKOさん来店。Oさん来店。
 今日も早い時間から飲む。また、気がついたらカウンターで寝ていました。サル

敦盛
1月6日金曜日晴れ 今日も寒い ×××

 名越二荒之助氏の著書『日韓共鳴二千年史』にアメリカの『People&Civilization』(国民と文明)と題する中等教育用教科書の中で、第四章「封建時代の日本芸術と価値観」として我国の謡曲「鉢の木」、平家物語「敦盛」など三つの事例を紹介していることが書かれています。
 他国の教科書でさえ書かれているこれらのことが、今の我国の教科書からは消えてしまっています。
 これだけではなく、現在の我国の教科書からは菅原道真、和気清麻呂、楠木正成、吉田松陰、東郷平八郎などが消えてしまっています。建国神
話、忠義、愛国、救国、孝行などがないばかりか、神話、童話、童謡まで教えようとしません。そして、他国のわけのわからない人が偉人として紹介されています。我国の先人を教えることの方が大切でしょう。自分の国の歴史も知らずに、自分の国の神話、伝承も知らずに、自分の国の歌も知らずに自分の国に誇りは持てません。
 九兆円以上という防衛費の倍以上という予算で、あのコロコロダルマの猪口邦子女史などが進めるジェンダーフリーを旗印の男女雇用均等法などは、精神よりの国家解体、それが目的なのです。
普通の国になって欲しいものです。

 今日は珍しく二組の御予約。今日の活けアンコウは3・6キロの日本海のもの。さばいてみると、胃袋にはあまり食べ物もなく(前回の5・6キロのアンコウは四匹も鰈が未消化で出て来ました)肝も大きく、別に買って来た上肝を使うまでもなく、この活けアンコウの肝ですべてが足りる。Iさん四名様で来店。アンコウ鍋のコース。刺身(マグロ、鮑、ウニ、サバなど)、アンコウの空揚げ、アンキモソテー、アンコウ鍋、雑炊、トマト。磯自慢大吟醸がお好きな方が多かったようです。マルガリータさん、Sさん二名様で同じくアンコウ鍋。六名様で3・6キロのアンコウをほぼ召し上がっていただいた事になります。Sさん来店。ホロン部員Yさんが来そうとか噂をしていたら、ホロン部員Yさん来店。Hさん来店。
 今日はマルガリータさんが、モンラッシェ2000(DRC)とタランチュラ1999を御注文。モンラッシェ2000はちろんですが、一本しか入手できなかったボリュームたっぷりのカリフォルニアワインであるタランチュラは私も初めてというかもう見る事もないのではという感じ。カリフォルニアワインといえば、川頭さんの著書
「イタリアワイン最強ガイド」にあの有名なオーパスワンのモンダビ社が高級ワイン路線から撤退ということが書かれていたのですが、川頭さんのホームページによると創業者が身売りをしてしまったようです。いろいろありますな。
 その後もSさん、ホロン部員Yさんなどとドンチャン。気がついたらカウンターの椅子で寝てました。床でなくてよかった・・・・・

朝鮮統一教会の人さらいと洗脳による日本侵略
1月5日木曜日晴れ ×

 昨年九月九日の産経新聞の社会面に、同社のソウル駐在員である黒田勝弘氏の非常に興味深いそして、我々日本人に朝鮮人の思考、行動、それに伴う脅威というものについて考えさてくれる記名記事がありました。それを切り取ってあったのを忘れており、スクラップブックを整理しておりまして出てまいりました。非常に重大な記事と判断いたしますので、全文を引用し紹介させていただきます。
以下引用
 
「在韓日本人、10年で倍増 半数統一教会関係者か」
 韓国在住の日本人が急増している。この十年ほどの間で倍増しており、しかも在韓日本人の半数以上は集団結婚などで韓国にやってきた統一教会(世界基督教統一神霊協会)の関係者とその家族といわれる。韓国居住日本人の中心を占めるようになった統一教会関係者の存在が今後、韓国社会や日韓関係にどのような影響を与えるのか関心が集まっている。
 
 在韓日本人の数が大きく増えだしたのは一九九〇年代に入ってから。在韓
日本大使館の統計(在留届け基準)によると、それまで六千人ほどだったのが一九九五年には初めて一万人台になり、今年は二万一千人と倍増した。関係筋によるとその背景は、統一教会の集団結婚で韓国にきた日本女性とその子供の急増だという。とくに近年、出産で子供が増え、日本大使館では新たな旅券発行に追われるほどだという。
 
 在留邦人の職業など詳しい内訳は不明だが、日本大使館筋によると、長期滞在の在留邦人二万一千人のうち半分以上にあたる約一万一千人ほどが統一教会関係者でないかと推定している。
 統一教会関係者は
韓国人と結婚してもほとんど日本国籍を維持し、子供も日本国籍にしているという。このため新たに生まれた子供にも日本旅券が必要なため、日本大使館は定期的に地方に職員を派遣し臨時の旅券発給業務をしているほどだ。
 女性を中心とした統一教会関係の日本人の多くは韓国の地方に在住し、日本語通訳など社会活動もしている。ただ、日韓関係で問題が起きると記者会見をし「毒島(日本名竹島)は韓国のモノ!」と叫んだり、教科書問題では「韓国国民に謝罪する」と声明を発表するなど反日活動が目を引く。日本国籍を維持している理由は明らかではないが、布教や財政上の理由などから有利と判断してりうためとみられている。

以上引用終わり 昭和十七年九月九日産経新聞朝刊社会面よりソウル黒田勝弘氏の記名記事

 いかがでしょうか。
 統一教会は日本女性を宗教で洗脳し罪悪感をもたせて南朝鮮に連れて行き、嫁の来ての無い農村部の男性と結婚させられます。南朝鮮の国籍を取得しても、連中にとっては何のメリットも無い事から、日本国籍をそのままにさせておいていることをこの記事は知らせてくれます。
 日本女性と南朝鮮人男性とのカップルが多く、その逆は少ないことでもこのカルト宗教の異常さが出ています。
これは、今後、日本に朝鮮人夫と移り住み、日本国内で活動しやすくする事を視野にいれているためでしょう。
 この項の写真は「日本人女性のジョル 」と題された二〇〇五年三月一日付けの朝鮮日報に掲載された写真です。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/01/20050301000052.html
その写真のキャプションには
「韓国に滞在する日本人女性60人が1日、京畿(キョンギ)道・議政府(イジョンブ)のペヨン小学校を訪れ、日帝当時苦痛を受けたお年寄りたちに「ジョル」(韓国伝統の礼の仕方)をしている。」
とあります。
 普通で考えて日本人としては異常としか思えないこのような行為も、産経新聞の記事にもありますように、日本人でありながら、「日韓関係で問題が起きると記者会見をし「毒島(日本名竹島)は韓国のモノ!」と叫んだり、教科書問題では「韓国国民に謝罪する」と声明を発表するなど反日活動が目を引く」と南朝鮮で反日行動をくり返す洗脳された統一教会信者の日本女性であればすべて納得がいく写真です。
 そして、そんな洗脳されたキチガイのような反日の母親に育てられた日本国籍を持つ子供が、国籍こそ日本人であれ、日本人としての正常な歴史観、感覚を持っているとは到底思えません。そのような子供がどんどん増やされているのです。
 我々は、朝鮮人のカルト宗教による静かな日本侵略ともいえることが現在進行形という形で行われていることを意識すべきです。

統一教会といい、創価学会といいカルトは怖い!

 今朝、河岸にいくために地下鉄に乗ると、朝っぱらから見たく無い醜いものが目に入る。私の目の前に厚顔無恥なバカ女がひとり。築地で私が降りるまで一生懸命お化粧をしておりました。どうすればここまで、普通の日本女性が本来持っているはずの恥じも慎みも無くしたどうしょうもないバカ女に育つのでしょう。やっぱ親がこのバカ女に輪をかけたもっと大バカなのでしょうか。
 今日は初競り。やっぱ、品が薄く高め。
当店も今日が仕事始め。でっ、予約も無いしとゆったり構えていたら、六時ごろにナベちゃんから「六時半に二人ね」という電話。ナベちゃん、王さん来店。大台さん来店。Sさん来店。Nさん来店。しみずさん来店。そのうち当店の時計も九時ごろになったしということで、飲みはじめる。とりあえずのビールが旨い。あとはいつものとおりに一通り飲む。その後、Sさん2名様で来店。
今日は珍しく、最後まで記憶あり。李さんと「青葉」で飯。


さすがは池田大作ダイセンセイ
1月4日水曜日晴れ ○

 キチガイ新聞こと聖教新聞2005年12月17日号の一面トップは「名誉博士」「勲章」でもなくて「バイヤー小学校PTA SGI会長夫妻を終身名誉会員に」というものでした。
さすがは天下のソウカガッカイの池田大作ダイセンセイだけあって、PTA名誉会員?でも第一面を飾るとはすごいものです。
ところで、PTAの終身名誉会員ってなんざんしょ?
この小学校には歴代会長の名前を冠した「牧口庭園」、「戸田平和桜の森」があるそうですので、お得意の寄付攻勢で、わけの分からないものをもらったのでしょうか。もし、PTAの終身名誉会員ではなくPTA終身名誉会長をもらったのだったら、池田大作ダイセンセイはまさに狂喜乱舞してそのまま狂い死んだかもしれませんね。なむ〜。つまるところ、もらえるものだったら何でもいいのでしょう。参考→
銭で買った名誉

まるでダボハゼなみ!!!!

あっ、一緒にするとダボハゼに悪かったですね。ダボハゼさんごめんなさい。

 前も書きましたが、私の部屋はテレビもインターネット接続環境でもないので、ニュースが何も分からない状態です。テレビは随分前に壊れてから買っていませんので、何年も見ていません。(五〜六年かな)紅白に出ている歌手や曲名など読めなかったり、知らなかったりするのが半分はあるのじゃあないでしょうか。週刊誌で見る芸能人も分からないのが多いです。まあ、現在の日本のテレビ番組は見たくもありませんから別に困りませんけど、壊れて困るのがパソコンです。今日、いきなり画面がブルーになってフリーズしちまいました。半日かけてそれまで打ち込んでいたのがパーです。ガックシ。仕方ないのですが、やっぱ、へこみます。夕方より馬場のスポーツセンターにいくと、地元の高校の運動部の連中が多く来ている。施設を利用するのはいいのだが、運動部のくせして連中はだらだらとして統率も取れて無いので、マシン、ベンチなど効率良く使いたい他の常連の人たちにもブーイングを受けていました。
 仕方ないので、それなりにメニューを消化。その後、店に寄りゴミを出して帰る。

イタリアワイン最強ガイド
1月3日月曜日晴れ ○

 昨日というか夜中にSさんに送ってきていただき、九時頃起きて、鏡をみたら、顔に酒がモロ残りでした。

 今日も飯を食う以外は外に出ずに、本などを読みながら部屋でゴロゴロして一日が終わる。夕方より読みかけのままになっていた当店のお客さまでもある川頭さんの著書「イタリアワイン最強ガイド」を読みはじめる。 イタリア人のジョバンナさんと結婚、それまで酒の業界とは無縁の仕事をしていたが、96年より徒手空拳でイタリアワイン商としてのビジネスを始めて現在は一年のうち八ヶ月をイタリアで過ごす川頭さんが長い時間をかけて書いた本だけあって、ワインの紹介だけに終わりやすい他のワイン本と違い、生産者、醸造責任者、そして葡萄畑の管理者にまでのインタビュー、一般酒販店、デパートより入手した価格別の完全ブラインドによるイタリアワイン対フランスワイン対決、ワインの歴史、ワイングラス、現在のワイン業界、マスコミなどの問題点まで読み物として面白い本に仕上がっています。
イタリアワインは一九九〇年代になって大きく変わってきたのだそうで、それ以降の味の向上がすごいらしいです。
 読んでいて思うのは、「ワインは農作物である」という川頭さんのワインに対しての姿勢、イタリアワインに対しての自信に裏付けされた現在の仕事に対しての誇りがよく現れていること。そして、ワイン対決の時に出された「パレオ・ロッソ01 レ・マッキオレ」のコメントは、この本の巻頭に書かれている「故 エウジェニオ・カンポルミに捧ぐ」という想いが読んでいる者に伝わってくる本だと思います。

正月早々ドンチャン
1月2日月曜日雨のちくもり ××××××
・・・・・・・・・・
 この正月は淡路に帰る予定を変えて、江上さんの御自宅での新年会に参加。
メキシコのグアダラハラで大変お世話になって以来、今もお世話になっている長島さん御夫妻、中島さんも参加して江上さんの奥様である志保さんのお料理をいただきながら夕方より飲み始める。スペインワイン、イタリアワイン、酒は磯自慢40%などでドンチャン。御子息の桂くんも強い。途中より甥ごさんの建さん御夫妻が合流。結果、酒が足りなくなり、夜中にまたまた中島さんがすぐに弟子に電話「今、どこ?じゃあ今すぐ江上先生の御自宅まで来い」
ちなみに、先日電話して当店まで迎えにこさせた人とは別に人・・・・・・・・・・
でっ、その弟子Sさんは江上邸で私より店のカギを受け取り、そのまま酒たまねぎやまで酒を取りに行くはめになったのでした。ごくろうさまです。
当然、Sさんは飲まずにず〜と江上邸で我々のバカ騒ぎ(そうだったのは私だけかも知れないが)に最後までつき合うはめになり、結局、私もSさんに部屋まで送っていただきました。御迷惑をおかけいたしました。

 相変わらず正月早々サル


1月1日日曜日 くもり ○
 
今年は新しい日記だけでなく、URAホームページの過去のそれぞれの項目を追記、訂正などしながら少しでも充実させていきたく思っています。
 その第一弾として、今日、部屋にて新聞の切り抜きなどを整理していて、昨年一月十八日に一度日記に書いたことのある産経新聞の引用記事ですが、私にとり昨年で一番記憶に残った記事です。それについて、もう一度どうしても追記しておきたいところもありますので、改めて追記そして引用させていただきます。昨年の一月十八日の日記をどのように追記、訂正したか比べていただけるとありがたいです。

 平成十七年一月十六日日曜日の産経新聞に「大空に散った笑顔」と題して、旧陸軍整備隊長だった関忠博氏の文章と関氏が写し、戦後、靴底に隠し台湾の収容所から持ち帰った特攻隊員の写真が掲載されていました。
 写真は、昭和二十年四月二十二日に二式複座戦闘機「屠龍」にて出撃する直前に写した、日の丸の鉢巻きをし満面の笑みを浮かべる飛行兵十四名の写真です。
 この写真に写っている「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」(指揮官 竹垣全少尉)は志願者を募って台湾で編成された十八〜十九歳の少年航空兵出身者十人と学徒出陣してきた二十三、二十四歳くらいの四人だったそうです。
 関氏は旧に本陸軍航空整備学校を卒業後、教官として第三練成飛行隊に所属、昭和十九年五月に台湾に渡ります。
 整備隊長としての指導のかたわら、隊員たちと日々語り合った関氏によると「彼らには不思議なほど悲壮感はなく、全員が実に冷静に死について考えていた」と振り返ります。
 出撃までは軍規の拘束を受けない自由が与えられていたそうですが、隊員たちはあまり外出せず、家族や故郷のある日本を守るには、「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と語っていたそうです。
 
 出撃は昭和二十年四月二十二日。最後の姿を残してあげたいと、出撃前の午前八時ごろ、台湾北部の桃園飛行場の滑走路近くで隊員たちがそろった場面を撮影しました。これが彼ら十四名の最後の写真となりました。そして、死を前にしても、全員が笑みをたたえていたのが印象的だったと関氏は語っています。
 
 そして、午前十時頃、二式複座戦闘機「屠龍」十四機に隊員らが乗り込み離陸。離陸後間もなく海に落ちた一機のみをのぞき、飛行隊は石垣島に立ち寄って五百キロ爆弾を積み、沖縄本島周辺で米軍の巡洋艦と貨物船とみられる船を一隻ずつ撃沈しました。しかし、米軍から猛烈な機銃掃射に遭い、途中で撃墜された機も多かった。

 私の手許にある「写真集特別攻撃隊」(昭和五十五年国書刊行会)の陸海軍特攻隊戦没者名簿によると下記の九名の方々のお名前が確認されました。
四月二十二日 出撃方面 粟国島南西方 
 竹垣 全  少尉 (幹七)
 溜  洋  少尉 (幹八)
 岩上 要  伍長 (小十三)
 永久 要  伍長 (小十三)
 山本 茂  伍長 (小十四)
4月28日 出撃方面 久米島西方
 中村 潤  少尉 (幹八)
 小森 興彦 少尉 (特操二)
 木原 正喜 伍長 (小十三)
 山沢 四郎 伍長 (小十三)

(屠龍は特攻用襲撃機に改造され「二式双龍」といわれました。同誌にも搭乗機としてその名前が使われています)

 ここで、日本陸軍と海軍との航空機特攻の違いについて書きたく思います。
陸軍の場合は、上陸地付近にある攻略船団を目標としていたため、目標発見は容易であるため、この復座戦闘機である屠龍でも操縦者一名としました。「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」十四機の場合は十四名の特攻隊員です。
 それに対して、海軍は敵機動部隊とくに空母を目標とし、広い洋上にある目標を発見するのが大前提としていましたので、艦爆、艦攻などの多座機には座席数に応ずる人員が乗り組みました。

 特攻隊とは自らが操った飛行機などを、敵艦船などに激突することにより、大きな戦果をあげようとするものであり、そのためには、如何に確実に敵艦などに体当たりをすることができるかを目的としたまさに生還などありえない必死の戦法です。
 自らの志願によるものであるが、作戦の実行は命令によるものであり、組織的なこのような悲痛極まりない戦法は歴史上例をみない。
 特攻隊は、その性格は国を思い、自らの身を国に捧げるために志願した者たちであり、その中から選ばれたリーダーを有する殉国同士の集団といえるもので、表面的には一般軍隊徒同じように、隊名、隊長が定められているものの、特攻隊の隊長には人事、教育、賞罰などにかんする統率権がない。司令部が特攻隊を直接掌握していたために、現地部隊との関係は極めて薄く、人事記録が乏しいといわれている。
 
 終戦後、関氏は台湾での収容所生活を経て昭和二十一年三月に復員しますが、その時に基隆(台湾北部)を出発する際には写真や光学機器、時計を持ち帰ることが禁止されましたが、「この写真は何としても残したいと思い、靴底に隠して、検査をすり抜けた」(しかし、これって当時高価だったものを取り上げるという支那国民党の乞食精神の現れですな)
 こうして隊員たちの笑顔だけ、本土に持ち帰ることができました。と記事にあり、ここまでパソコンのキーをたたいていて涙がでてきました。
 そして、関氏は戦後の日々を「彼らに生かしてもらっている」という感謝と申し訳ない気持ちで過ごしてきた。
「戦争の勝ち負けは関係なく、特攻隊員が純粋に国を思い、犠牲になったからこそ今の日本がある。時間がたっても笑顔は色あせていない。この写真を家族に届けたい」
と語っています。

この関氏の「生かされている」という言葉と、特攻隊員の方たちの何か覚ったような神々しいとまでいっていい言葉と態度は他の文献などでもよく出てきます。
  
 このような作戦を必要以上に美化することも、他にも書きましたように、元毎日新聞記者の
古川利明のように特攻隊の純粋な国を思う気持ちを醜く歪めて伝えることは先人を屈辱することであり、決して許されることではありません。ただ、まさに必死である特攻という戦術についてはいろいろ言われていますが、この時代に我が国、故郷、親兄弟、同胞を守る為に散華された先人がいた事は事実です。国を守ろう、家族を守ろうと自ら進んで準じた先人の事を忘れてはいけないと思います。

 そして今、その先人が自らの命を捨ててまで守ろうとした国に日本はなっているのでしょうか。自らを捧げてくれた先人が誇りに思ってくれる国になっているのでしょうか。


 新年早々というか零時三十分ごろにマルガリータさんから電話あり。
「あけましておめでとうございます」
 おめでとうございます。
「何飲んでンの」
 飲んで無いです。
「うっそ〜だね」
 飲んでません。
「そんなはずないじゃん」
 飲んでません。
・・・・・・・・・・
今年もあんまり変わらない一年になりそう。

 明日はメキシコでプータロウをやっていた時にお世話になったみなさんと会うので、その前に初もうでに行くことにして、今日は飯を食いに行く以外はどこにも行かずにゴロゴロと本を読んだりして一日を過ごす。

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