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大和

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成17年11月7日月曜日晴れ ○
 昨日、寝る前に読んでいた本で、我国国民が大東亜戦争の時に受けた連合国側による戦争犯罪の事が気になり手許にある他の本をいろいろ見ていたら、結局、朝まで読んでしまう。こういう時は週休二日はいいとつくづく思う。でも、ゆっくりと寝るぞと思っているのにどういう訳か九時過ぎに目がさめてしまう。
 起きてから先週古本屋さんで買ってきた「男たちの大和」(辺見じゅん著)を読む。結局今日は飯を食いにとその帰りにコンビニで買い物をしただけで、一日が終わる。
 その「男たちの大和」の中に山本五十六長官より直に短刀と茶掛をいただいたという大和の柔道部で機銃を受け持っていた内田貢氏はレイテ沖海戦で片目を失い、この短刀を大和のロッカーに置いたまま呉海軍病院に入院していたのだが、この短刀を取りに沖縄海上特攻に向かう大和に潜り込んだら、そのまま出港、そして降りる間もなく戦闘状態になった。というなんとも凄いエピソードの持ち主ですが、戦後、九死に一生を得た内田氏がその海上特攻で散華された北栄二氏の実家を訪ねるために淡路島にいった時のエピソードがなどが出てきます。
 内田氏は100ケ所以上の傷を負い、何度も手術をくり返したそうですが、取り除く事ができずに内田氏の体の中に残ったままの弾などの破片も多くあり、空港の警報装置に引っ掛かるそうです。台湾に旅行でいった時には裸にまでされて調べられたそうで、その時に内田氏の全身の傷跡やひきつれを見た三人の係員は言葉も無かったそうです。そして、「戦争ですか」と流暢な日本語で訪ねられ「そうですがな、大和に乗っとりました」と内田氏が答えると、三人の係員は、瞬間に敬礼したそうです。
子供のいない内田氏は11人もの戦災孤児を引き取り育て、そのうち三人を御自分の籍にいれているそうです。でも、嫁にまでだしても音沙汰ないと奥様がぐちると「ええわな、幸せならええわな」と何もいわないそうです。

 この本の巻末には大和とともに運命を共にした3000余名の乗組員の名簿が掲載されていますが、私の手許にある父の三原郡海友会名簿でしらべますと、私の故郷である淡路島のなかの、そのまた狭い三原郡の三原町内でも居内久夫兵曹長(24才)長谷年夫一等機関兵曹、金勝清志二等兵曹、武田勝二等兵曹(25才)の四氏のお名前が「男たちの大和」の巻末にある名簿でも確認できます。3000余名の散華された割合としては異常な高さと思います。私の父親もそうでしたが、淡路島の人間が多く行った呉の大竹海兵団の関係でしょうか。


 このような先人のおかげで、今の日本があります。しかし、3000人以上をの尊い命をむざむざ犠牲にした大和の海上特攻とはなんだったのでだという想いは誰もが持つものだと思います。

裏表紙