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支那のスパイ活動

中日友好協会の実態と張香山、肖向前

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


支那における知日派とは

平成21年10月26日月曜日雨 ○

 先日、下記のような記事が産經新聞に掲載されていた。

以下引用

蜜月築いた元外交官2人死去 中国、消える知日派 援助減り欧米派台頭

10月20日7時56分配信産經新聞

 【北京=矢板明夫】今月に入り、中国では知日派の2人の元外交官が相次いで死去した。80年代の「日中蜜月時代」を築いたこの2人の死は、欧米派が台頭し知日派が後退している中国政府の現状を象徴しているようだ。

 元外交官は、1972年の日中国交正常化に尽力した元共産党対外連絡部副部長の張香山氏(95)と、中日友好協会副会長の肖向前氏(91)。張氏は、鳩山由紀夫首相が就任後、初めて中国を訪問し胡錦濤国家主席と会談した10日に死去。その5日後に肖氏も他界した。

 2人は30年代に日本に留学し、東京高等師範学校(現筑波大学)で学んだ。帰国後、共産党に入党し、張氏は党、肖氏は外務省でそれぞれ対日工作を担当した。日本との国交正常化は新中国の外交の最も重要な課題の一つだった。このため、2人は周恩来首相と廖承志氏(後の党政治局員)から直接指導を受け、日中間の民間交流や貿易などを担当した。

 66年に始まった文化大革命で、肖氏は「日本のスパイ」との容疑をかけられ、強制労働に送られるなど迫害を受けた。中央に復帰したのは71年のことだ。

 翌年の田中角栄首相の訪中を実現させるため、2人は日中間を頻繁に往来し、連絡役と中国側の交渉窓口として動いた。その後約20年間、日中交流の第一線で大きな影響力を発揮し、84年に「日中友好時代」の象徴といわれる3000人の日本青年の中国訪問という大事業も手がけた。

 知日派の後輩育成にも力を注いだ。のちに外相、国務委員となった唐家●氏や、前駐日中国大使で現在は台湾弁公室主任(閣僚)の王毅氏、外務次官の武大偉氏らだ。彼らは張、肖両氏の“弟子”にあたる。

 「2人が最も活躍した70、80年代の日本と中国は特別な関係にあった」とある日中関係者は指摘する。日本は中国に歴史問題で謝罪し、資金、技術供与を繰り返す時代だった。教科書問題や台湾問題など一時、対立もあった。「対日交渉の際、肖氏は表で交渉し、張氏は裏で根回しをする。実に見事連係プレーだった」と別の関係者は振り返る。

 中国の改革・開放の成功は日本の助けによるところが大きい。日本の援助を多く引き出したことで、中国外務省における知日派の影響力は大きくなり、外相、次官を多く輩出した。しかし、2000年以後、日本の対中援助が減少するにつれ、中国外交は米国中心にシフトしはじめた。

 03年に知日派の唐家●外相が国務委員に転じたあと、外相は駐米大使経験者のポストとなった。現在の崔天凱駐日大使も楊燕怡アジア局長も欧米派だ。来年までに引退するといわれている武大偉次官を除いては、主要幹部の中に知日派はいない。

 こうした状況は今後、日中の外交関係に少なからず影響をおよぼすことになるとみられる。

引用終わり

そして、他社にも下記のような同様の記事がある。

知日派の死に広がる悲しみ=「日本組」幹部、最後の一人−中国

10月16日16時7分 時事通信

 【北京時事】中国共産党対外連絡部副部長を務めた張香山氏が10日死去したのに続いて、中日友好協会副会長の肖向前氏も15日に他界した。日中国交正常化に貢献した知日派の元外交官の相次ぐ死に、関係者の間では「中日関係を戦略的互恵関係に発展させる大事な時期に大切な先輩を失った」と悲しみが広がった。

 国交正常化前から周恩来首相(当時)は国務院外事弁公室の日本担当とは別に、廖承志氏(後の党政治局員)をトップに、各部署から日本研究の専門家ら20〜30人を集めて「日本組」を組織。張氏と肖氏は孫平化氏(元中日友好協会長)、王暁雲氏(元駐日公使)らと並ぶ幹部だった。廖氏と高碕達之助氏の名前を取った「LT貿易」から民間事務所の相互設置、上海舞劇団や卓球選手団を率いて訪日するなど、日本組の幹部たちが国交正常化への地ならしを進めた。 

最終更新:10月16日16時7分

肖向前氏死去=中日友好協会副会長

10月16日12時32分 時事通信

 【北京時事】中国の知日派外交官として、1972年の国交正常化時に日本に駐在、連絡役を務めた中日友好協会副会長の肖向前(しょう・こうぜん)氏が15日、肺炎のため北京市の病院で死去した。91歳だった。告別式の日取りは未定。

 奉天省(現遼寧省)生まれ。38年から日本に留学、東京高等師範学校(現筑波大学)などで学んだ。52年から対日外交を担当し、国交正常化直前に東京で田中角栄首相や大平正芳外相(いずれも当時)らと協議した。 

最終更新:10月16日12時40分

<訃報>張香山さん95歳=元中国国際交流協会副会長

10月13日10時32分 毎日新聞

 張香山さん95歳(ちょう・こうざん=元中国国際交流協会副会長)中国共産党対外連絡部によると、10日、心不全のため北京市内の病院で死去。葬儀は16日午前9時(日本時間同10時)、同市の八宝山革命公墓。

 中国の知日派外交官として日中国交正常化(72年)など日中友好に貢献し、92年に日本政府から勲一等瑞宝章が贈られた。【中国総局】

日中友好の功労者が死去、「日中関係に重要な人を失った」

10月19日14時16分配信サーチナ

 中国国際放送局によると、心不全のため北京で死去した張香山氏(元中日友好協会副会長、95歳)の葬儀がこのほど、北京の八宝山革命公墓で行われた。

 張氏は1914年、浙江省寧波生まれ。天津中日学院や東京高等師範学校(現筑波大学)で学び、新中国建国後は対日本関係の仕事を担当し、日中国交正常化交渉に外交部顧問として参加したほか、両国政府の『共同声明』の起草にも参画した。また、中国共産党対外連絡部副部長や中国国際交流協会副会長、中日友好協会副会長のほか、日中友好21世紀委員会の中国側座長などを歴任し、1992年には日本政府から勲一等瑞宝章を贈られた。

略)

 なお、共同通信、朝日新聞など日本の主要メディアはいずれも張氏の死を伝え、中でも、時事通信は河野洋平前衆院議長の話として、「日中関係で非常に重要な一人を失った」と報じた。

略)

(編集担当:村山健二)

引用終わり

 私には、この記事において言おうとしている意味が理解出来ない。

 我が国と支那中共はいびつな関係であったのは、産經新聞も書く通りである。そのいびつな関係を工作し、導いたのは支那に於けるいわゆる「知日派」と言われる連中である。

 そして、今、我が国からの援助が減った事により、米国にその矛先が向いているのは結構な事ではないか。

 それとも、我が国に核を向けられたまま、援助を継続しろとでも言うのであろうか。

 ましてや、支那にとって、あらゆる工作により、我が国の中にいわゆる「親中派」「媚中派」という人間を作り出し、組み易くするという我が国に対する基本的な姿勢に変わりはないであろう。

 

 

 そもそも、産經新聞を初めとし、他のマスコミも書いていないが、河野洋平氏がその死を悼んでいる張香山という人物はどういう人物であるか。肖向前という人物はどういう人物であるか。そして、その属していた組織中日友好協会とはどういう組織であるか。

 中日友好協会が誕生したのは、昭和三十八年(一九六三年)十月である。対日関係改善を目的として周恩来首相の指導の下に民間往来の発展と必要性から創設された」と同協会のホームページに記されている。

 その「民間団体」である中日友好協会は、佐川急便が支那全土に中古トラックを寄付するために、「財団法人・佐川国際経済協力会」(渡辺広康佐川元社長が理事に就任)を昭和六十一年に設立した。財団の基本財産一〇億円は全額、東京佐川が負担した。

 財団法人設立の申請がわずか二十一日間しかかかっていない。「特定公益増進法人」に認定され、寄付をする企業や個人は税法上優遇措置を受ける事が出来るなど、異例かつ迅速な対応で認可され優遇されている。

 以後、佐川急便は年間四百台にものぼる中古トラックを寄付し続けているが、この支那側受け入れ窓口は「中日友好協会」であるが、この時の経緯を週刊ポストが「トラック援助は中国側が竹下登元首相らに強く働きかけ、竹下氏などからの要請を受けて、渡辺元社長が実現した」と平成四年二月二十一日号に書いている。

 この中古トラックは、横流しされ、日本円換算で一五〇万円程度で支那国内に流通している。

 

 同じ頃、我が国の某総合商社に対しても、中日友好協会から中古自動車のカンパの依頼がされている。

 依頼主は人民解放軍のドンである王震であり、同時に「中日友好協会」の名誉会長と解放軍の総政治部に所属する「中国国際友好連絡会」の名誉会長を兼任する人物であった。

(「中国利権の真相」P百十一〜百十二)

 「民間団体」の「中日友好協会」とは、我が国と中共支那とが国交正常化当時から、対日外交を牛耳って来た「民間団体」であり、支那政府の正式な「外交機関」である。

 我が国側の受け入れ機関として「日中友好協会」がある。この日中友好協会の現会長は加藤紘一氏であり、村山富市氏が名誉顧問、元名誉顧問は野中広務氏であることを思えば、この会の性格がおのずと見えてくる。

 現実に、会長に就任する前から加藤紘一氏の支那側の最大コネクションであったのは、この中日友好協会の長老指導者たちであった。

 そのひとりが顧問である張香山である。

 

中日友好協会の実態と張香山

平成21年10月27日火曜日晴れ ×

 「民間団体」の中日友好協会の実態は、支那共産党の対外組織「中央連絡部(中連)」のダミーであることは、先の佐川急便の中古トラックの例をみても明らかである。

 冷戦当時、日本共産党、社会党左派と密接なつながりを持ち、対日工作を行っていたが、現在もその本質は変わっていない。

 当然、中日友好協会の幹部には、中央連絡部の幹部が少なからず配置されている。張香山もその一人である。

(「中国の黒いワナ」P50〜)

 日本のためにならない事に一生懸命の加藤紘一氏は、著書「テロルの真犯人」(講談社 平成十八年刊)の中で、

<中国外交部の顧問を長く務め、日中関係についての根本理論を作ったとされる張香山氏が、三十年前から「責任があるのは限られたA級戦犯だけでいい。BC級戦犯でさえ私達は被害者だと思っている」と言っています。それ以来、中国当局の姿勢は変わっていません。>

 同書P四十一

 (加藤氏は平成十八年七月発売の月刊「文藝春秋」の上坂冬子氏との対談よりの引用として「テロルの真犯人」に掲載しているが、私は「テロルの真犯人」より引用)

 と、張香山の名前を具体的に挙げている。

 

 張香山は、昭和二十五年一月七日、支那共産党の機関誌「人民日報」における「日本人民開放の道」と題した社説において、平和革命論を提唱した日本共産党最高指導者・野坂参三に対して、武力革命をうながす、支那共産党からの「指示」文書の執筆者が、毛沢東から指示されたこの張香山であることを書いている。(「中国の黒いワナ」青木直人 別冊宝島 平成十九年刊P五十一〜二)

 そして、昭和二十五年六月に朝鮮戦争が勃発後に、日本共産党は徳田球一書記長のもと、昭和二十六年一月「第四回全国協議会」において、

「在日少数民族との連携を強化する方針」を打ち出し、武力革命の準備と武装強化が決定される。

 

続いて、昭和二十六年十月「第五回全国協議会」において、

「日本の開放と民主的改革を平和的手段によって達成しうると考えるのは間違いである」として、武力革命をめざす「五十一年綱領」を打ち出す。

 共産党は戦後、我が国全土で戦勝民気取りで暴虐のかぎりを尽くしていた朝鮮人、そしてその団体である在日朝鮮人連盟(朝連)と結びつく。

 同じく、暴虐の限りを尽くしていた朝鮮人の中で、その後できた反共である在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)ができ、翌年、新朝鮮建設同盟が結成されると、朝連との間で血で血を洗う抗争が繰り広げられる。

 朝鮮人同士の内ゲバは、昭和二十七だけでも死傷者七十五人を数えた。

 朝鮮戦争が勃発すると、在日朝鮮人の中で北朝鮮を支持する日本共産党員を中心に、「祖国防衛中央委員会」(祖防委)が結成され、その戦闘部隊として「祖国防衛隊」(祖防隊)が結成された。

 この「祖国防衛中央委員会」の中央委員を日本共産党中央委員会民族対策本部(民対)が兼任したことで、わかるように、朝鮮人の「祖国防衛中央委員会」の実権は、実質的には日本共産党が握っていた。

 祖国防衛委員会が結成されると同時に、「在日朝鮮民主党統一戦線」(民戦)が作られている。

 日本共産党の祖防隊が非合法組織として地下活動を行っている間、民戦は表立って活動していた。

 

 支那共産党の指示により、武装革命を目指した日本共産党は数々の暴動、事件を起こす。

 昭和二十七年五月一日、朝鮮戦争の後方撹乱工作として、皇居前広場に於いて「血のメーデー事件」(日本人百八十七名、朝鮮人百四十名逮捕。死者二名)

 昭和二十七年六月二十五日、日本共産党の指令により、竹槍、棍棒、火炎瓶などで武装した日本共産党中核自衛隊、在日の祖国防衛隊が中心となった日本人、朝鮮人千数百名が、朝鮮向け軍事輸送拠点のひとつである国鉄吹田駅操車場に乱入。

 その在日朝鮮人の共産党員は、北朝鮮本国よりの離脱命令により朝鮮総連・朝鮮労働党秘密党員(学習組)となり、朝鮮総連は北朝鮮の出先機関としてありとあらゆる非合法活動を忠実に遂行して行く。

(「嫌韓流の真実 在日特権」別冊宝島 平成十八年刊 P八十七〜九十)

 日本共産党の徳田球一ら最高指導者は、地下に潜行、日本海から「人民艦隊」と呼ばれた密航船にて支那に渡り、毛沢東らの庇護の基、支那で一生を終えている。

 

 張香山は、この徳田ら日本共産党幹部の亡命、その後の支那での生活にも直接関与している。

 それは、中央連絡部の幹部の一人としてである。

 張香山はこのように、支那共産党の我が国における地下活動を含む謀略的革命工作の責任者であった。

(「中国の黒いワナ」P五十二)

 張香山とはこのような立場にあった支那人なのです。

 中日友好教会と肖向前、創価学会

11月6日土曜日晴れ ×

 10月16日16時7分の時事通信のニュースにある

< 国交正常化前から周恩来首相(当時)は国務院外事弁公室の日本担当とは別に、廖承志氏(後の党政治局員)をトップに、各部署から日本研究の専門家ら20〜30人を集めて「日本組」を組織。張氏と肖氏は孫平化氏(元中日友好協会長)、王暁雲氏(元駐日公使)らと並ぶ幹部だった。>

とはどういうことか。

 もうひとりの肖向前も中日友好協会副会長であったのであるから、当然、支那共産党の対日謀略工作を担っていたひとりである。

 肖向前については、下記のような記述がある。

 周恩来は、共産主義と宗教という違いはあっても、最高指導者が絶対的な力を持っていることや、上下関係が厳しい組織など共通点も多いほか、一〇〇〇万近い会員数を抱える創価学会は極めて利用価値が高い団体として、

「創価学会という団体を重視しなければならない。会員の数からいえば、十人の日本人のうち一人が学会員であり、これは非常な力である。中日友好を進めるには、無視するわけにはいかない。なんとか創価学会との間にパイプを作らなければならない。友人をつくらなければならない」

 創価学会を最大限利用して、日中国交正常化を進めるため、「対日工作四人組」を組織した。

 日中国交正常化とは、裏を返せば、日本と台湾を断行させることに他ならない。いわば、周恩来の対日国交正常化の真の狙いは、台湾を国際的に孤立させる事にあったのは、その後、中華民国政府が国連から脱退し、中華人民共和国政府が取って代わるなど歴史の証明するところだ。

 この国家的なプロジェクト遂行のため、中日友好協会初代会長の寥承志の下に置かれた四人組には選りすぐりの対日工作経験者が選ばれた。孫平化(寥承志の後、中日友好協会二代目会長に就任)のほか肖向前、趙安博、王暁雲だ。

 肖向前は国交正常化まで日本に置かれた日中覚書貿易東京事務所主席代表として日中国交正常化の中国側の連絡役を務めたほか、中国外務省アジア局長や中日友好協会副会長などを歴任。

 この四人に寥承志を加えた五人に共通するのは、日本の大学に留学したり、旧満州国で生活し、中国共産党や軍の下で、対日特務工作などを行った過去がある点だ。

 周恩来も党中央社会部長という特務機関の最高責任者として、情報工作にどっぷり浸かった時期がある。つまり、この四人組は周恩来が組織した「対日特務機関」という性格が色濃いのである。

 四人組の工作は巧みだった。親中的な作家の有吉佐和子や村松健三らを通じて執拗に行われた。

「蠢く!中国対日特務工作」P七十三〜七十五

 

 「蠢く!中国対日特務工作」には創価学会と支那との繋がりについて、「留学生」「創価大学」「大使館」という三題話として、下記のような記述があります。

 <中国側の日本に於ける拠点が駐日中国大使館であり、その尖兵が、池田が創設した創価大学に留学した経験のある中国人外交官だ。当時、大使館には王毅・大使の側近中の側近として知られた程水華・公使のほか、李冬萍と?安軍の両参事官らが勤務していた。三人とも中国が創価大学に派遣した「留学一期生」のエリートだ。

 彼等は池田が中国要人と会見する際、必ずといっていい程同席し、池田との関係の緊密さを誇示していた。それだけに、創価学会や公明党の幹部を通して、彼等の対日関係の分析や中国側の要請などは池田の耳に届く仕組みになっていた。

 また、場合によっては、彼等が学会側に働きかけて、池田と王毅との会見をセッティングし、中国側の意見が直接、池田に伝えられるようにも工作した。

 その結果、中国との関係を重視する池田は、先の神崎との会見のように、公明党などを通じて、中国側の意見や要請が首相に伝えられるように、あの手この手の策を弄したのである。>

 「蠢く!中国対日特務工作」 P八十一〜二

 この支那大使館の参事官については、以前、大使館絡みの工作員として当店のホームページに掲載した事があります。

http://www.tamanegiya.com/ikedabutatosina18.8.11.html

 支那にしてみれば、創価学会の池田大作氏に名誉博士を乱発する事により、その程度で名誉欲の塊である池田氏が喜び、創価学会が意のままになるのであれば、ウハウハでしょう。

 別に、産經新聞が心配?しなくとも、形こそ変わるかわかりませんが、支那の我が国に対する工作は活溌化することはあっても沈静化することはないでしょう。

 

参考引用文献

「中国の黒いワナ」青木直人 別冊宝島 平成十九年刊

「嫌韓流の真実 在日特権」別冊宝島 平成十八年刊

「中国利権の真相」別冊宝島 平成十六年刊

「テロルの真犯人」加藤紘一 講談社 平成十八年刊

「蠢く!中国対日特務工作」 小学館 平成十九年刊

 


支那のスパイ活動


 

平成19年11月19日月曜日晴れ ○
 先日、中国国際友好連絡会(友連会=会長、黄華元外相)の王慶前・常務理事が、日本人に軍事情報を漏洩した罪で、猶予二年付きの死刑判決を受けたというニュースがありました。
 この死刑判決の理由は、昨年夏ごろ、軍事資料をある日本人に渡し、その一部が公表されたことが摘発の端緒になったという。
 支那では昨年、前駐韓大使が機密漏洩容疑で更迭され、今年九月には新華社通信の前外事局長が同じく隔離審査になるなどしています。

 友連会とは支那軍系列の対外民間交流団体として八四年に設立されたもので、日本船舶振興会(現日本財団)の故笹川良一会長が、トウ小平、王震両氏と意気投合し、一〇〇億円の笹川平和基金を提供して政治的後ろ盾と資金力が備わった対日交流の中心団体です。
 しかし近年、対日交流をビジネス化し利権をあさる傾向に疑問を持った日本財団(笹川陽平会長)は今年三月、友連会との関係を解消したそうです。

 こんな事件は支那がわが国への仕掛けたという事実が判明しているだけでも数多くありますが、わが国にはスパイ防止法がないために他国では考えられないほどの微罪でしかなりません。ですから、わが国はスパイ天国といわれています。

 わが国には支那の公館として、東京に大使館、総領事館が札幌、名古屋、大阪、福岡、長崎にあります。
 その中でダントツに大きい東京支那大使館ですが、駐日大使は外交部副部長クラスといわれています。推定二〇〇人いるといわれる支那駐日大使館員は全員が「日本専門家」ともいえる存在で、併設されている領事部の窓口業務の数人以外は運転手から調理人まですべて支那人のみです。領事部と本館とはつながってはいるものの、全く別の建物になっているので、原則として支那人以外は本館には自由に出入りできない。
 大使館員の中には当然支那の対外情報機関である「国家安全部」の人間も派遣されてきています。

 しかし、その大使館内の国家安全部人間が直接スパイ活動をおこなうよりも基本的なやり方は、長期間にわたり工作対象と良好な関係を結び、無意識の協力者をつくったり、留学生、企業に就職させたりして企業の機密を盗むなどの事が多いようです。そして、個別に収集した情報を統括する人間が各国大使館や領事館にいることは、自らが在オーストラリア・シドニー支那総領事館の一等書記官中に、平成一七年五月に妻子とともにオーストラリアに政治亡命を求めた陳用林氏が発言しています。(SAPIO 平成一八年三月二二日号P一〇)
 陳用林氏は同じページで「オーストラリアに支那人スパイが一〇〇〇人以上いる、米国にはさらに多くのスパイがいる」と、米国の公聴会で述べていますが、SAPIの記事ではわが国には「オーストラリアより多くいるはずだ。これは法輪功のような反政府分子を弾圧する目的というより、日本の技術を盗むためだと言っていい。アメリカから盗んでいるのは、核やミサイルの技術だが、日本の場合は(軍事転用が可能かどうかにかかわらず)最先端技術に関する情報だ。
 日本企業に就職している中国人技術者は、入社当初はスパイでなくとも、途中でリクルートされて、エージェントになるケースが多い。研究者をスパイとして使う理由は、彼らが中国に必要な技術が何か見極める能力を持っているからだ。さらに日本には(国家安全部が作った)多くのダミー会社があることは間違いない」と述べています。
 これについては、わが国は他国より支那工作員にとっては活動しやすい国でしょう。スパイ防止法が無いだけでなく、支那への忠誠を誓うような国を売るのを生き甲斐としている河野洋平、山崎拓、加藤紘一などの政治家、旧社会党(現民社党)などの政党、創価学会まで事欠きません。

 企業に潜り込ませて情報を盗ませるというやり方は大手自動車部品メーカー、デンソーの製品設計図のデータが入ったパソコンが持ち出され、コピーされた可能性があり、そのパソコンのハードディスクが御丁寧にも壊されていたという事件がありました。この四一歳の支那人の社員は処分保留で釈放されていますが、過去に中国軍需産業管理機関傘下企業在籍していたことが判明しています。
 日本人を協力者に仕立て情報収集をするという支那の典型的手口として事件になったのが、旧防衛庁元技官の情報持ち出し事件。この元技官がコピーを持ち出した潜水艦の高張力鋼は、薄くて軽量だが、圧縮にも引っ張りにも強い世界最高レベルの鋼材で、支那としてはのどから手が出るほど欲しい技術だそうな。
 その元技官にからみ、元貿易会社社長も絡んでいた事がわかっています。どちらも支那では間違いなく死刑判決でしょう。
 スパイ防止法のないわが国の歪な現状です。
 
参考 「SAPIO 」平成一八年三月二二日号 小学館
   「軍事研究 ワールド・インテリジェンスVOL3 北朝鮮&中国の対日工作」ジャパン・ミリタリー・レビュー
   「別冊宝島 中国の黒いワナ」宝島社

 


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