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日本統治下における朝鮮半島での日本人の人口と職業分布

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


日本統治下における朝鮮半島での日本人の人口と職業分布

平成22年1月21日木曜日くもり △

 今年が朝鮮併合百年とかでいろいろと騒がしい。

 我が国併合時代に日本人は朝鮮半島にどれ程の人口がいたのか。

 呉善花氏の「生活者の日本統治時代」(三交社 平成十二年刊)には下記のような数値が書かれている。

 明治四十三年(一九一〇年)に朝鮮を併合し約十年が過ぎた大正九年に一七万一五四三人

 昭和六年(一九三一年)五二万四六六〇人

 昭和十七年(一九四二年)七五万二八二三人

 これは朝鮮半島における朝鮮人人口との割合でみてみると、大正では一%未満であり、昭和六年では朝鮮人二〇九八万六四〇〇人に対して二・五%しか占めないことになる。

 

 しかも、日本人は主として都市部に居住し、昭和十七年では八十二%が都市部に居住、そのうち三十%が京城や釜山に住んでいた。

 (朝鮮人は八十%が農村に居住していた。)

 職業としては

 大正十二年に朝鮮居住日本人の三十五%が公務員及び自由業者である。

 昭和十三年には三十八%となっている。

 産業人口は、「商業および輸送」一位、「工業」が二位である。

 朝鮮人は

 昭和十三年における農業従事者が七十五・七%、商業および輸送七・五%、公務員および自由業二・九%である。

 朝鮮における日本人は本土に比べても高い教育が受けたものが多く、職業上の社会的地位は高く、高収入だった。

 これは、恵隆乃介氏の著書「誰も書かなかった沖縄」等にも書かれているが、我が国政府は戦前、朝鮮、台湾などの海外領土に赴任すると内地勤務の際の本給に手当が七割加算され、十五年でつく恩給も十年に短縮されたため、帝国大学出身者などの優秀な人材の多くが台湾、朝鮮などの海外領土に赴任している。

 沖縄は国内のため、沖縄出身者でさえ本土の高等師範、帝国大学を出ると地元に帰らず、植民地へと向っている。(p七十二〜三)

 杉本幹夫氏の著書「植民地朝鮮の研究」には初代朝鮮総監寺内正毅が資本家の来鮮は歓迎したが、無資本の一旗組の来鮮は、朝鮮にとって百害あって一利無しとし、彼等を如何に放逐するか苦心したと書かれている。

(P二百四十七 杉本氏は青柳綱太郎「総督政治史論(上)」龍渓書舎復刻一九九六より引用)

 それに対して、朝鮮人の教育水準は低かった。

 中学校または同等以上の学校の就学者は、昭和十四年で日本人が人口千人あたり三十二・七名だったのに対して、朝鮮人では一・一三名だった。ただごく少数の朝鮮人(多くが地主で旧ヤンバン階級の子弟)は、近代的教育制度のもとで小学校水準以上に教育され、なかには日本内地で学んだ者もいた。

 このような状況から理解出来る事は、日本人と接した事の無い朝鮮人も多くいたことを呉善花氏は指摘している。

 

 引用および参考文献

「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)

「誰も書かなかった沖縄」(恵隆之介 PHP 平成十二年刊)

「植民地朝鮮の研究」  (杉本幹夫 展転社 平成十四年刊)

 Iさん御夫妻来店。ホロン部員Yさん来店。

 ヒマ。ということで早い時間からドンチャン。

 記憶はあり。サルにはなりませんでした。



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