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人を食う 支那の食人の歴史

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成20年11月11日火曜日くもり ○
 我が国と違い、支那人は人間を食う。それは、生死がかかった飢餓のときだけではなく、平時にも行われ、すでに支那民族としての食文化といっていい歴史を持っている。毛沢東という史上最大の人殺しがやった愚行のひとつである「文化大革命」の時にも、多くの支那人が食べられた。支那の食人の歴史は長い。食人が公然たるひとつの食文化として存在し続け、食用人間の養殖までしていた。食人は支那の正史である「史記」に、堂々と記載されている。そんな程度の支那でも自国の歴史を誇っている。
 支那における食人の歴史について、多くの本に掲載されています。私の手元にも、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)、「中国食人史」(太田龍 雷韻出版 二〇〇三年)、「中国四〇〇〇年 弱肉強食の法則 驚異の繁殖力の秘密」(徳田隆 講談社二〇〇四年)、「日本人が知らない中国『魔性国家』の正体」(黄文雄 成甲書房 二〇〇八年)、「戦争の歴史 日本と中国」(黄文雄 WAC 二〇〇七年)等に支那人の食人についての記述があります。
食人についての記述は少ないですが、虐殺についての記述では「中国大虐殺史 なぜ中国人は人殺しが好きなのか」(石平 ビジネス社 2007年)があります。この石氏の著書と他の著書を合わせて読むと、虐殺された民衆がどのように処理されたかよく理解できます。
 我が国の腐れテレビ局もどうせ、支那特集を放送するなら、こういった支那人の本質を報道して欲しいものですが、報道する事はない。
 それらの本には、下記のような食人についての記述があります。
文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には。
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、
なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
 もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字をの形で霧、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、
これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

 黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
 やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
 彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
 彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
 
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
 厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
 略)
 人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
 ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
 略)
 さらに
人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
 以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

 一九六八年というと、我が国で初めてのオリンピックが東京で開催された昭和三九年より四年後です。メキシコオリンピックが開催された年です原始、未開の文明の人々ならともかく、二〇世紀なのです。その頃でも、支那では食人が行われていたのです。すでに、支那の食文化です。
 毛沢東という殺人鬼は同国人を殺して尊敬され、その国民は同国人を食いながら酒を飲み宴会していたのです。こんな連中が今、我が国に多くはいってきているのです。一〇〇〇万人移住政策等やったらどうなることでしょう。
 こんな国に対して、我が国はというと、自国の歴史を誇るどころか。偽り、先人を虐げている。「我が国は侵略国家です」と言わせるために、村山富市は「村山談話」とつくり、河野洋平は「河野談話」をつくった。これにより、贖罪意識を持った我が国を支那が食う事ができるからです。村山富市、河野洋平の罪は重い。

日本のためにならないことだったら何でもやる売国奴ども。

 

人肉加工場


 

平成20年11月27日木曜日雨 ×
 黄文雄氏の著書「戦争の歴史 日本と中国」(WAC)の巻末には、BC五九四年の楚の時代から一九五〇年の蒋介石の国府軍と毛沢東の共産党軍による戦いまでの「中国籠城食人史年表」なるものまで掲載されています。まさに、支那の食人の歴史です。
 支那の兵糧メニューとして、人肉加工場によるものまであったことが歴史書に書かれているそうです。
 八七五年から八八四年まで一〇年間にわたり、唐王朝の国家土台を揺るがした黄巣の乱は八〇〇万人もの犠牲を出したといわれている。黄巣軍が長安城を占領したときの様子を『資治通鑑』唐紀には
「(八八一年に)民衆は乱をさけ、ことごとく山奥に逃げ込み、戦柵を築いて自衛をはかった。農工商は荒廃し、長安城中の米は一斗三〇貫にも値上がりした。官軍は山寨にとじこもっている民衆を捕らえて、賊軍に売り渡した。一体は数百貫にも達した。その値段は肥痩に応じて決められた」
八八二年四月「このとき民間には貯えがほとんどなくなった。賊衆(黄巣)は人々を捕獲して食糧にした。生きているまま巨大な石臼に投げ込まれ、骨とともに砕かれて、一緒に食べられた。その食糧供給場を『舂磨寨』(しょうまさい)という」
翌年八八三年五月、『唐書』黄巣伝には「黄巣は兵を率いて陳州を攻めて百日経った。関東地方は農地が荒廃し、餓えた人々が壁や垣根にもたれているのがみえる。賊は人々を捕らえて食用に供した。一日ごとに数千人をも食べてしまった。賊は『舂磨寨』という巨大な石臼数百基を備えていた。人々を臼に入れて、骨と一緒に細かく砕いて食用に供した。」
 『唐書』昭宗本紀、『資治通鑑』唐紀にも「この年(八八三年9は大飢饉なので、飢民には貯えがほとんどなかった。賊衆は人々を捕らえて食糧に供した。その炊事場を『舂磨寨』という。白骨が山積みし、これ以上乱れたことはなかった)とある。
 「戦争の歴史 日本と中国」(黄文雄 WAC 二〇〇七年)P二四五〜二四六

 流石です。人肉加工場。スケールが違います。こんな食文化を持つ人たちを一〇〇〇万人受け入れようとしている売国奴政治家ども。

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