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ソ連による醜いシベリヤ抑留

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成19年10月19日金曜日晴れのち一時雨
 ソ連は一九四五年二月四日から一一日にかけてのヤルタ会談により、八月八日、日ソ中立条約を一方的に破り、対日宣戦布告。翌八月九日は満州、樺太南部、千島列島に侵略を開始した。その結果、膨大な数の日本人民間人がソ連兵の略奪・暴行の餌食となった。軍民も約六〇万人が拉致・連行された後に、強制的な重労働により約六万人が死亡した。「早期に捕虜を本国に送還する」というポツダム宣言に明らかに違反する行為である。
 これらは、朝鮮人がよく言うウソの強制連行ではない。すべて事実である。
 八月二三日にスターリンが発した命令は
「強制労働に耐えうる健康な捕虜五〇万人を選別する。捕虜を一〇〇〇人ずつの建設大隊に編成する。捕虜の被服や寝具は戦利品から調達すること」
という盗人のソ連らしいものであった。捕虜のほとんどは軍人であったが、技術や通訳の能力を持っている軍属・満州国政府や満鉄の日本人職員、そして従軍慰安婦などの女性五〇〇〇人も連行された。それぞれが、重労働に狩駆り立てられ、女性は慰安婦というものを最初から考えていず、現地の女性を強姦するというソ連軍の習性により恥辱の対象とされた。
 これについては、多くのホームページがあります。当ホームページにも
ソ連軍の残虐性などがございます。よろしければ御覧下さい。

 ソ連軍が捕虜とした外国軍民は、ドイツや日本をはじめ四一二万人にのぼる。これだけの大量の捕虜を捕獲連行した理由は、戦後復興のためのタダの労働力にするためだった。したがって、このソ連により捕虜という名目で奴隷にされた日本軍民の収容所はシベリアに限らず各地に設置された。モンゴル、中央アジア、ウクライナ、モスクワ近郊を含むロシアそしてヨーロッパ各地である。
 ハーグ陸戦法規やジュネーブ捕虜条約の精神を踏みにじり、捕虜たちは食糧や医療も不十分で極寒の中、危険で厳しいさまざまな作業に酷使された。石炭・石油の採掘、木材の伐採、河川・港湾の整備、鉄道の建設、各種工場での労働、農場での労働などで、ノルマが課せられ、目標を達成できない場合は労働時間の延長、減食などの懲罰に付された。
 平成一二年(二〇〇〇年)一二月一九日に公開された害務省(通名として外務省ともいう)外交文書で、シベリア帰還者の証言が明らかになった。それによると、収容所はバラックや旧囚人収容所。一人当りの居住面積は平均わずか一・三平方メートルで、やっと横になれる程度。衣服や暖房が不十分なため、凍死者があいついだ。食事も重労働に値するものではなく、一日、一九〇〇〜二〇〇〇カロリー、収容当初は一食三〇〇グラムのパンとお茶だけで氷点下四〇〜六〇度のなか労働を強制された例もある。
 抑留者がさらされた恐怖は、重労働だけではない。約三〇〇〇人が弁護人もつかないデタラメな略式裁判で「スパイ罪」、「反革命罪」、「資本主義幇助罪」などに問われ、五年から二五年の強制労働に処せられたのである。
 これら犠牲者の取り調べの模様について、外交文書はこう記している。
 「足を縛ってつるされた」
 「等身大の箱に八時間閉じ込められた」
 「銃で脅され調書に署名させられた」
 手元にある、「シベリア捕虜収容所」(若槻泰雄著 サイマル出版)によると、
 取り調べと裁判の実態として、同書に収められている「ソ連長期抑留者同盟」の調査による結果による拷問の実情として、下記の数字が揚げられている。
 絶食    一二四
 減食    三一七
 水攻め   三八
 寒冷攻め  六一
 睡眠を与えず九九
 脅迫    一五七
 暴力    一五八
 その他  一〇一七
 備考 1)一人で二つ以上の拷問を併用された場合は、主たる方が記載されている。
    2)拷問なしと答えた者が一八二名
 「シベリア捕虜収容所」(若槻泰雄著 サイマル出版)上 P三〇三
 
 一方、共産主義の洗脳教育に同調し、日本帰国後はソ連の先兵として日本共産化に挺身するであろうと目された者のみは、食事・衣服・労働量などで優遇されたのである。
 死亡者は約六万人とされているが、実際には実数不明である。公開されている日本人墓地とされるところにすら、墓碑名もないただの土山しかない、いや、土山すらない原野で氏名や身元不詳の無縁墓地が多く残されている。

 このような無法国家であるソ連が極東軍事裁判において、裁く側にいたと事だけでもあの裁判の異常さがよくわかります。
 日本人に対してこのような残虐非道な行いをしたソ連、そしてその指導者であった残虐なスターリンが昭和二八年三月六日に死亡した時に、あの朝日新聞は翌日三月七日の夕刊で「子供好きのおじさん」とその死を称えて報道しました。流石です。流石は朝日新聞です。

 以上引用および参考図書
 「シベリア捕虜収容所 上・下」若槻泰雄 サイマル出版 
 「日本の反論」米田健三 並木書房 平成一八年刊 

 バンブーさん来店。初めてのお客様MAYUNAさん、ANNAさん来店。Nさん二名様で来店。KくんNさんと来店。Sくん来店。初めてのお客様一名様来店。
 Nさんのお連れさんによると、「南京大虐殺はあった。日本刀で首の皮一枚残して切った」「一年以上かけて虐殺した」「証拠写真もある」だそうです。
 イヤ〜中々ここまで言ってくれません。戦争ですから、それなりの事はあったでしょうが、検証もせずに支那のいう事をそのまま書いたという本多勝一氏なみでした。あの朝日新聞の攻略後の「平和」な南京の写真は捏造?正規兵と更衣兵、ゲリラというものの違いも知らず、死体処理の検証もせずに堂々とアホを平気で宣う。

シベリア抑留2 北朝鮮への移送による悲劇


平成19年10月23日火曜日晴れ △
 ソビエトによる違法強制収容がおこなわれた日本人軍民のうちシベリアにおいて、重労働に耐えられないとみられた病弱者は、劣悪な環境の満州などの収容所に送り返され、多くの方が命を落としました。
 このうち北朝鮮に送り返された日本軍人などについては平成一七年になって、ロシア軍事古文書館(モスクワ)からモスクワの日本大使館 に資料が提供されたというニュースが随分前にありました。
以下引用
シベリア抑留、北朝鮮に2万7千人移送…露が資料提供
 【モスクワ=五十嵐弘一】モスクワの日本大使館は31日、ロシア軍事古文書館(モスクワ)から同大使館 にこのほど、第二次大戦後にシベリアで抑留された日本軍将兵らのうち、当時のソ連から北朝鮮に移送された人に関する資料が提供された、と発表した。
 シベリア抑留者が北朝鮮に移送されたことが公式に確認されたのは初めて。
 資料の正確な内容は現時点では不明だが、同軍事古文書館の説明によると、ロシア語で書かれた約2万7000人の名簿が含まれていた。
 北朝鮮に移送されたのは「労働力とみなされなくなった人々」とみられ、病人、けが人、栄養失調者などが対象となったとみられる。移送は、船や鉄道などで、終戦翌年の1946年(昭和21年)春ごろから始まった可能性があるという。
 厚生労働省によると、シベリア抑留者は約57万5000人で、うち47万3000人が日本に帰還、抑留中に死亡した人が5万5000人、旧満州・北朝鮮に移送された人が4万7000人とみられている。旧満州・北朝鮮への移送者のうち相当数が行方不明となっている。
産経新聞平成一七年四月一日
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050401i211.htm
引用終わり

同じく
以下引用
北朝鮮に送られたシベリア抑留者たち
今年、ロシア国立軍事アーカイブから、日本政府に、シベリアから北朝鮮に移送された抑留者27,755人の名簿が渡された。ロシアが抑留者の名簿を公開するのは、1991年ゴルバチョフ訪日の際に渡された38,00 0人の名簿以来14年ぶりのことだ。この名簿によって、シベリア抑留者の一部が北朝鮮に移送させられていた事実が初めて明らかになった。さらに軍事アーカイブからはスターリンの北朝鮮への移送命令書が発見された。それによれば、スターリンは1946年4月「病弱になった抑留者を選別し、5月25日から8月20日
の間に北朝鮮へ移送するように」と命じていた。当時、ソ連は、極東開発、特に第2シベリア鉄道の建設に労働力が必要となり、屈強な抑留者をバイカル湖付近に集めていた。その際、収容所ごとに病弱者のみを選別し、北朝鮮へ移送しようとしたのだ。

北朝鮮に送られた抑留者には過酷な運命が待ち受けていた。今まで一度もその体験を話すことはなかった
北朝鮮からの帰還者たちも名簿公開を機に、初めて厳しい体験を語り始めた。中川清さんによれば、ピョンヤン郊外のサムハプニ収容所では、強制労働に従事する中で、6,000人のうち1,000人が死亡、コレラで一度に300人が亡くなったこともあったという。また、橋詰正雄さんがいたチョンジン収容所では、日本人は屋外に寝かされ毎日10人以上が死んでいったという。「私たちは満州で捨てられ、ソビエトに捨てられ、二度にわたって捨てられた。あまりに過酷な生活で家族にも語ったことはなかった。北朝鮮には、今も亡くなった仲間たちの遺骨が多く眠っているが、墓参のすべもないことが心痛い」と橋本さんは語る。
厚労省によれば、シベリア抑留者57万5千人にうち帰国した人は47万3千人、現地での死亡5万5千人で、残る4万7千人が消息不明だった。今回明らかになった北朝鮮へ移送された2万7千人はその消息不明者たちと推測されている。さらに、北朝鮮からの日本への帰還者は47年末までに大体終了したとされているが、その時1263人の抑留者が現地に残ったとされている。その消息はいまだ不明である。
番組では、今回初めてロシアのアーカイブから公開される北朝鮮移送関連文書や、抑留者たちが語る北朝鮮での抑留の詳細から戦後60年間、謎とされていた抑留者の北朝鮮移送の真相に迫る。
引用終わり
NHK教育 ETV特集 平成一七年一〇月二二日
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2005/1022.html

 この違法行為である醜い強制連行についての謝罪、補償などは厚顔無恥な当時のソ連はもちろん北朝鮮は何も言っていません。日本に対して五月蝿く言っている嘘つき朝鮮人とその先兵となっている反日日本人はこのような事はどう思っているのでしょう。
 現在日本にいる朝鮮人は、ほとんどが戦前、戦後に日本に職を求めてきた者およびその子孫です。不法入国してまで我が国に殺到したのです。それは平和な現在も続いています。朝鮮人の密入国数、不法滞在数の多さがそれの何よりの証明です。強制連行という言葉は朝鮮人には当てはまりません。
 「強制連行された」という言葉は先人が悲惨な目にあった我々日本人こそソ連、朝鮮に対して言うべき言葉なのです。


我が国における捕虜の待遇

平成23年1月7日金曜日晴れ 寒い ××××××

品目 捕虜 g 兵士 g 重労働 g 軽労働 g 一般 g
主食 705 705 570 390 330
10
30 30 10 10 10
野菜 400 400 200 200 200
味噌 50 50 50 50 50
15 10
砂糖
牛骨 100
熱量(kcal) 3000 3000 2200 1800 1400

捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号)

捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。署名は陸軍大臣東條英機。

表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。

「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八〜百十九

 多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。

 米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、多くの文献にあるように、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。

 私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。

 我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷はまだまだ深いと思います。

 

 バンブーさん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Nさん、真理子さんと来店。

 Kくん来店。

 ギリギリブラザース三名様で来店。

 今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。

 Kさん、Sさんと来店。

 博子さん、幹子さん四名様で来店。

 アンコウ鍋。

 酔狂師さん来店。

 今日は早い時間から大忙し。

 どうしたんでしょう・・・・

 料理、洗い物その他に追われ、飲めなかった。

 でっ、遅い時間からドンチャン。

 結果、記憶なし。

 やっぱ、サル、猿、SARU、申・・・・・・