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ピースボートな頭 尾形憲 (ついでに辻元清美)

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

 

ピースボートな頭 尾形憲、辻元清美

その1

平成21年4月20日月曜日くもり ○

 陸士五十六期で元法政大学教授という尾形憲氏の「わが『平和への船旅』(ピースボート)」(第三書館 平成九年刊)を読む。

 第三書館は元連合赤軍闘士で、あの辻元清美女史の内縁の旦那さん「という噂のある人」北川明氏が代表者を務めている出版社です。

 (まあ、辣腕弁護士ともラブラブという写真も週刊誌に撮られてましたけど))

 この尾形氏はピースボートに並々ならぬ情熱を傾けておられるようで、世界中あっちこっちに乗船し行っているようです。

(それも主催者側のひとりとして)

 そのクルーズのひとつに北朝鮮に一人五キロの米を持って上陸した時の事が書かれています。

(全国の農協に協力を仰いでと書いているから、ただで提供してもらったんでしょうか?)

 <船旅のいいところの一つは、医療品、文房具、足踏みミシンなどの救援物資を積んで難民キャンプや病院などに送り届けることができるということである。

 阪神淡路大震災のときも、ピースボートはいち早く救援物資を無料で貸してもらった船で東京から神戸へ運び、現地でもさまざまのボランティア活動をして名を上げたことがある。

 今回のピョンヤンクルーズでは、北朝鮮が連続四年の災害のため未曾有の食糧難にあるということで、参加者一人当たり米五キロを持参して向こうへプレゼントしようということになった。ところが、それを一部の新聞が、「食糧持参のクルーズ」と歪曲して報道したため、北朝鮮側はつむじを曲げ、クルーズの実現が危ぶまれたが、事務局の奔走で、直前にやっと訪問可能になった。>

p百六十五

 阪神淡路大震災では辻元清美女史などが、地震の翌日には印刷機まで持ち込み、印刷物を配ったことが辻元清美氏の著書である「転職して国会議員になった」(第三書館 平成九年)にも下記の様に誇らしく書かれている。

<ピースボートは地震直後から神戸の長田区役所前にベースを置いて日刊の「ディリーニーズ」を発行して被災者にすぐ役立つ情報提供を行なった。一〇〇〇人規模のボランティアを送った。「ピースボート TO KOBE」の船を仕立てて八百五十台の中古自転車を長田で配った>

(P十九〜二十)

 ところが、「生活に密着した情報をとどける」と銘打つが、内容は、ピースボートの宣伝や、被災した喫茶店主の「国は十七日付で公庫の返済分をきっちり引き落としよった」や、韓国基督大学による韓国風スープ炊き出しの話し、政府批判、自衛隊批判などで、ひんしゅくをかったはずですが、尾形氏はその事を「名をあげた」と書かれているのであろうか?

本人たちは「名をあげた」と思っているのでしょうな。

ちなみに、その時の首相は後に辻元氏自身が属する旧社会党社民党)の最低の政治家のひとりである村山富市氏というのは笑えます。

 朝方まで本を読んで寝たが、やっぱり十時過ぎには目がさめる。

お茶を飲んだ後、簡単な朝食。

 朝食を今日は少し近所の公園にブラブラと散歩しただけで、他にはどこにも行かずに終わる。

 風呂は二回。


ピースボートな頭 尾形憲、辻元清美

その2

4月21日火曜日 くもり後雨 ×

  尾形氏の著書に

<あれから五十年、再び学徒出陣(92〜93)>と題してこうある。

 以下引用

<翌三十日はタケオへ。自衛隊の作業現場と宿舎である。

土砂、砂利の採掘場とそれを使って国道を補修しているところを見たが、採掘場では地元の人たちも隣り合わせたところで土砂を採っていた。道路は平らにするだけで舗装はしないというから、大雨でも降ればまた元の木阿弥になるのではないかと思った。

一日百メートル程度だというが、補修を要する道路は百五十キロあるという。選挙に間に合わせる様に急いでいるというが、気の遠くなるような話だ。

 部隊は本部、医療室、食堂などがプレハブで冷房がついている。宿舎は三十五張の高床式でつくられているが、他の三十一カ国はすべて既設の学校その他を利用しており、独自の建物をつくっているのは日本だけだという。軍人一万五千七百六十四人中日本は六百人、このほか文民警察隊三千三百九十二人中七十五人である。隊員六百人の水の使用量は一日百二十トン、近くのインドネシアの部隊は千七百人で一日二十トンだから、だいぶぜいたくだ。今まで内地から呼んだ職人に井戸を二つ掘ってもらい、三つめを掘っているところである。

 できるだけ日本にいるのと同じ生活を保障したいということで、食糧の材料などもシンガポールから買い出しているという。

 だが同じカンボジアにいる他国と横の比較をすると異常ではないかと思われた。なお、十月にここに来てから、二ヶ中隊はもっぱら基地づくりで、道路工事は一ヶ中隊でやっていたという。

 日中の気温は、三十六度から三十七度、今日が最高で四十一度という。夜は二十二〜二十三度だからまだいいらしい。炎熱のなか、それもものすごい土ほこりの中での作業はたいへんだが、何も自衛隊がわざわざ出て行ってやらねばならないものではなさそうだ。地元の人たちを雇ってやれば金も落ちるわけだし。土砂採りなど地元の人たちの仕事を奪ってしまっている。この人たちの仕事は一日の収入が千五百リエル=二、三十円、一年でせいぜい一万円である。自衛官は一日の特別手当だけで八人が二万円、他は一万六千円となっている。

 この自衛官はその六割が将校と下士官で、豊橋、宇治、普通寺の部隊からという。日本に帰ってから知ったのだが、おそらく宇治の部隊だろう。この自衛官の中に立命館大学の二部の学生が一人いたのである。今回は無事に帰ってきたが、今後どうなることか。五十年前の十月十一日、雨の神宮外苑で文部省主催の学徒兵たちの壮行会があり、東条首相の激励の言葉があった。陸軍は十二月一日入営。海軍は十日に入団、そして南方に、大陸に駆り出された彼らの多くは再び帰ってこなかった。それから五十年で再び学徒出陣である。朝鮮戦争で海上保安庁の死者が出た事があったが、戦後少なくとも国の名において外国の人を殺すということはなかった。これも今後どうなることか。>

以上引用終わり

(P九十二〜九十三)

 長々と引用しましたが、これが尾形氏の著書に書かれている自衛隊が派遣されていたカンボジアのタケオについての記述の全てです。

 タケオにおいていかにも自衛隊が贅沢していたか。無駄金を使い、無駄飯を食っていたか。

 つまりいかに「自衛隊は穀潰し」であるかとこの陸士出身者は言いたいようです。

 <この本をまとめている間にも、カンボジアでは日本人ボランティアや文民警察官を始めとする死傷者が出ている。 現地の厳しさを知る者の一人として、心から哀悼の意を表するとともに、任務に対するその勇気に敬意を表したい。 そう、それもまた、カンボジアの現実なのである。しかし、自衛隊以外の要員に関して事前に、そこまでの危険性を指摘した大マスコミがあっただろうか。そして、自衛隊が矢面に立つのを恐れるあまり、丸腰の文民たちを危険な場所に送り込んだのは誰か。> 

 これは手元にあるカメラマン不肖・宮嶋の宮嶋茂樹氏の著書「ああ、堂々の自衛隊」(双葉文庫 平成九年)の前文です。初刊はクレスト社から平成五年に出されたものです。

 この事について、尾形氏はどう思っているのでしょう。

 私が長々と尾形氏の著書の文を引用したのは、ピースボートは<事の始まりは、八十二年の「侵略」を「進出」と書かせようとしてアジア諸国からの日本政府への抗議という教科書問題があり、若者たちが中学や高校で自分たちの教えられてきたものはいったい何だったのだろうかと、自分の目で現実を見よう、というものだった>

と著書の前文に書くように現地において何を見ていたのか、何を見ていなかったのか、そして、何が書いてないかを具体的に示したかったからです。

 <土砂、砂利の採掘場とそれを使って国道を補修しているところを見たが、採掘場では地元の人たちも隣り合わせたところで土砂を採っていた。> 

 と、尾形氏が書くこの土砂採掘場は、宮嶋氏の著書では

<自衛隊の担当は、比較的基地に近い国道三号線と、車で一時間ほど離れた同二号線の補修である。

 その二号線の現場からさらに四十五分ほど離れたトティエ山という採石場で採った土砂を、現場まで運んでくる。

略)

 ここは今回の派遣の中でももっとも過酷な現場であった。

 タケオから約二時間。基地から通っていては作業ができないので、作業隊はここで野宿しつつ、採石をしていた。 

食事を作る設備等もないので、メシはすべて基地から運ぶ。埃だらけの広野の中のテントで、隊員たちは寝泊まりしていた。>

P百五十〜百五十四

 このような過酷な現場に行き、平和を愛するピースボートの皆様はどのように「自分の目」で見て、そして「何を感じたのか」

 宮嶋氏はその行動について下記の様に書いています。

<ゾロゾロと一行はバスから降りる。

 略)

 もっと近づいて驚いた。ネーチャンたちは化粧しているではないか。気温四〇度、あたりの山にはポルポト派がいるという前線で身嗜みを忘れないとは、さすがに大和撫子である。

 略)

さすがに自由を愛する方々である。一行はてんでばらばらに行動され、まったく統制が取れていない。太田三佐が声を嗄らして説明しようとするが、その周りには人が寄りつかぬ。人だかりしているのは、代表の辻元清美さんの周りである。無視されつつ頑張っていた太田三佐が、質疑応答を始めると、ようやく人びとが集まってきた。

略)

その表情そのままに、敵意あふれる声で質問が飛んだ。

「この山では一日にどれだけの土砂を採るのですか?」

太田三佐が丁寧に数字を答える。質問者はしてやったりと声を励ます。

「それだけ採って、環境への影響は?」

「はっ?」

さしもの三佐も目をぱちくりさせている。

「ですから、雨が降って、土砂が水田に流れ込むなどにより、環境に悪影響があるでしょう。それは調査しているのですか」

 それは異様な光景だった。

 背後の兵舎には、汗とドロにまみれ、基地にすら帰ることができぬトティエ駐屯の将兵が、ほこりまみれで死んだようになっている。

 自分たちの利益のためにやっているのではない。カンボジアの人びとのためにやっているのである。その前で、化粧の白い顔を曝した同じ日本人の一行が、「環境への影響は」と尋ねる光景。超現実主義の映画を観ているようで、私はかすかな吐き気すら感じた。

しかし、太田三佐は誠実に答える。

「正直言って、環境の調査は行なっていません。

略)

「そりゃあ、環境への影響はあるでしょう。しかし、私達の仕事は、選挙をスムーズに進めるため、橋や道路を修復することです。そのために採石場が必要なのです。私たちがしていることは、将来的にも、きっとカンボジアの人たちの役に立つと信じています」>

P百七十五〜百七十九 

 さてさて、偉大なピースボートの皆様はこの太田三佐のお答えにどう反応したのでしょう。

 どうせ、な〜んも思わんのだろうな。きっと。

 所詮、どうしようもない人間のカスの集まりが、ピースボートとか言っているアホ連中やから。

 Bさん来店。小胡子さん来店。Kくん四名様で来店。Mさん来店。

 今日はメチャ早い時間から飲む。ドンチャン。

 記憶なし。サル・・・・・


ピースボートな頭 尾形憲、辻元清美

その3

4月22日水曜日晴れ △

 

 

(辻元清美女史のバイブ画像は、もっとも辻元女史らしいと思いネットにあったものを制作者の方に無断で使用させていただきました、

 ご不満がございましたらご一報いただけましたら、お詫びの上、削除させていただきます。

 ただし、辻元清美及び関係者からの苦情はお断り)

 そして、自衛隊のタケオ基地においてのピースボートの皆さんの行動について宮嶋氏は、

<自由を愛する方々の行動は、あたかも多国籍軍に蹴散らされたイラク大統領警護隊のように無統制で、意表を衝かれる形となった。散開した一同を、箇々に迎撃する羽目となったのである。

 国連旗の前で記念写真を撮る方、荷物運搬車両に乗込んでしまう方、そこらの建物に勝手に入ってしまう方、まことに自衛隊は民主的軍隊である。

 イランあたりでこんなことをすれば、すでに数名の射殺者が出ていたであろう。自衛隊は、数名の広報が声を嗄らして幼稚園の先生の様に走り回るだけであった。

「「あ、そこの人、隊員のテントに勝手に入り込まないでください」

「お願いですから、ちゃんと団体行動してください」

 さすがの切れ者、山下一尉も疲労困憊した表情で咳く。

「わしらはツアー・コンダクターか・・・」

 自衛隊迎撃部隊は、劣勢を余儀なくされていた。

 ピース・ボート部隊は、さらに頭脳的な作戦に出た。兵站の道を絶つは、パルチザン型攻撃の基本である。彼らは、基地の厚生センターに集中攻撃をかけ始めたのである。

「おおっ、キリンビールが七十円だって」

 自衛隊がシンガポールから苦労して運んできた糧秣に目をつけたのである。慌てて、山下部隊が、これらの阻止に回る。

「そこの人、飲物は隊員のための物です。皆さんが飲むと、隊員の分がなくなってしまいます」

 引き続き、駐車場で、ピース・ボートのメンバーと隊員との対話集会が開かれた。

 なんだか、その内容はオフレコとのことで、辻元さんはピリピリしていたが、結局この時のピース・ボートの方々の質問は産經新聞が書いてしまったので、私も記念に書いておこう。

「従軍慰安婦を派遣するというウワサがあるが」

 どうして私のひそかな計画が露見してしまったのであろう。

「隊内でコンドームを配っているとか。(相手の隊員を指差して)あなたのポケットにもあるのでしょう」

 いつもコンドームを持ち歩く軍隊も珍しいと思う。ちなみに、湾岸戦争のときは米軍は銃に砂が入るのを防ぐためにコンドームを使った。自衛隊もそれを応用せよというスルドク軍事的な質問か。ありがたいことである。

「防衛大学では、帝国時代の軍人を尊敬している人がたくさんいるのでしょう」

 防大だけでない。私は日大だが、大日本帝国陸海軍の諸先輩をいたく尊敬している。 

 などなど。

 やがて、一同はまたバスに乗込み、プノンペンへと去って行かれた。

 戦いすんで日が暮れて、太田三佐は幽鬼のように憔悴し、一言私に咳くと、宿舎へ消えて行かれた。

「疲れた・・・」>

P百八十〜百八十三

 宮嶋氏はタケオに行く前に、PKO法案が社会党をはじめ腐れ政党の牛歩戦術にもめげずに、何とか通った後に、輸送艦「みうら」(僅か二千トン)に乗船し、カンボジア・コンポンソムまで十六日間の海上輸送を取材していた。

 その時に、我が国海上自衛隊は九月二十六日フィリピン西方海上において、大東亜戦争にて散華された英霊への慰霊祭を執り行っている。

 ピースボートの連中の「防衛大学では、帝国時代の軍人を尊敬している人がたくさんいるのでしょう」という発言が頭がお花畑のいかにアホ丸出し発言かよく分かるものである。

 ちなみに、この「みうら」に同じく乗船し取材予定だった大朝日と大毎日の新聞記者諸君は乗船取材を急遽キャンセルしたため、宮嶋氏の単独取材となった。

 大新聞社様のキャンセル理由は、「みうら」が戦車などを揚陸する時に上陸用舟艇のように浜に乗り上げることができるように、船底が平らで横揺れ防止のためのスタビライザーなどがついていないため、外洋では揺れが大きいというより外洋に出ることを想定されていない船であったためビビったというなんとも分かり易い理由。

コンポンソム湾の水深が浅いため、他の船では不可能)

 私の個人的な意見では、どうして、大朝日新聞は「朝日新聞で一番命の安い男」と言われている写真部のO氏を使わなかったのだろう。

 今は写真部デスクとか偉そうにふんぞり返っているが、当時はペーペーだったはずなのに。

 そのため、宮嶋氏は大朝日新聞、大毎日新聞の記者が使用予定だった士官室をあてがわれるという恩恵にあずかっています。

(宮嶋氏の著書には同乗した陸上自衛隊員がマグロになっている写真も掲載されています。)

 この時、「おじか」補給艦「とわだ」がともに派遣されています。

 

 宮嶋氏は同書で、「女もいるフランス外人部隊」として

<隣の町には、一個小隊のフランス外人部隊が駐屯していて、こことはときどき交流があった。

 さすがはフランス、三十人ほどの部隊なのに、宿舎にはちゃんとバーがあり、ケシカラヌことに、女もいるのであった。そして、もっとケシカラヌことに、奥の部屋にはベッドなどあるのであった。>

P百五十二

 ピースボートさんは、どうせだったらタケオ自衛隊基地まで行っているのですから、すぐ側のフランス外人部隊の兵舎まで行って見学させていただくと、もっと有意義だったと思うのですが。

 尾形氏が鬼の首を取った様に書いている

<一日百メートル程度だというが、補修を要する道路は百五十キロあるという。選挙に間に合わせる様に急いでいるというが、気の遠くなるような話だ。>

ということに関しては、

宮嶋氏は下記の様に書いている。

 <あまりにも多いドロボー

 コブラもサソリも恐かったが、なにより一番悩まされたのは、ドロボーであった。とにかく、一瞬でも目を離したり、支局の外に置いておいた物は、すべて盗まれた。別に窃盗団とかポルポト派とかいうのではなく、要するにかなりの現地人がドロボーなのであった。

 これには自衛隊も随分悩まされたらしい。自衛隊の任務は道路工事であるが、基地から随分離れた所の工事をしている際も、決して機材はそこには置かない。毎日すべて基地までもって帰り、また朝運んで行くのである。

 通常国内の道路工事などでは、現場に機材を置きっぱなしにするのは常識である。ブルドーザーまでいちいち引き揚げていては、手間がかかって仕方がない。しかし、タケオではそれが必要なのであった。

「そんなもん、現場に置いといてごらん。翌日行ったら、外せるものはすべて外して盗まれてるよ」

 口を揃えて隊員たちは言う。

 基地のフェンスがまだ完成していない初期には、随分いろいろ盗まれたらしい。

 盗むのは道具ばかりではない。ある時、自衛隊のトラックが脱輪したことがあった。

 隊員が引き上げの機材を取りに基地まで戻り、ほんの一、二時間目を離して帰ってくると、もう車の周りは黒山の人だかり。皆手に手に、バケツや鍋を持っている。

 彼らは、ガソリンを盗みに来たのである。脱輪して車体が傾いているので、ポンプがなくともタンクのフタを外せば、自然に流れ出すガソリンが手に入るのであった。こういう時にはひじょうにスルドイ反応を示す人びとなのである。>

P百三十九〜百四十

 宮嶋氏は支局の盗難を防ぐために、現地で拳銃(口径九ミリのマカロフ)を入手し、ベルトにこれ見よがしに挟んで歩き始めた翌日から盗難はピタリと無くなったそうです。

 話せば分かる・・・・・・無防備宣言・・・・・・・

 ピースボートのみなさんには、その精神を貫いてほしいものです。

 

 同じく尾形氏が書く

<なお、十月にここに来てから、二ヶ中隊はもっぱら基地づくりで、道路工事は一ヶ中隊でやっていたという。>

ということに関しても、

宮嶋氏は

<しかも、こうした現状を、大マスコミのみなさんはほとんど日本に伝えてない。私も現地に来て初めてしったのである。

 たとえば、自衛隊派遣の初期、基地の設営がずいぶん遅れたことがあった。大朝日などは、やれ見込み違いだの計画に無理があっただの、さんざん自衛隊の無能ぶりを書き立てた。

 しかし、こちらに来ていろいろと調べると当初の想像をはるかに上回る、現地人たちとのカルチャー・ギャップがその原因、もっとはっきり言えば。こんなにドロボーとヒマ人が多いとは、いかなる自衛隊でも考えおよばなかったのである。

 たとえば、基地を設営するにあたり、地雷を警戒して、無人のリモコン・ドーザーを走らせた。ところが、ドーザーを見るのはもちろん初めて、ましてや無人で動く物を、現地のヒマ人どもが見逃すわけがない。きっと、中に小人がはいっているのだとか、アクマの仕業とか言っているのだろうが、周りを取り囲んでしまうので危なくて仕方がない。万一轢きでもすれば、明日の朝日の一面は間違いないであろう。

 このころ基地にいたのは、先遣隊として乗込んだ優秀な技術者たちばかりであった。

 それぞれが他に代えがたいスペシャリストたちである。

 しかし、背に腹は代えられない。自衛隊は、彼らを総動員して、ドーザーの周りを取り囲ませ、事故の絶無を図ったのだ。

 なんのためのリモコン・ドーザーかといえば、地雷が危ないからである。その周りを隊員たちが囲んで歩く滑稽さ。しかも、これに技術者を取られたため、基地設営のさまざまなところで齟齬をきたし、当初の予定が大幅に遅れたのであった。

 そんなこと、知ってましたか、あなた。>

P百四十二〜百四十三

 到底、こういったことを知って帰ったとは思えません。タケオまできて、何を見たのか、何を感じたのか。

 それでなかったら、あんなアホな行動とか、アホな質問はせんでしょう。

 自衛隊の任務の妨害をするという当初の目的は果たしたのでしょうけど。 

 今日は河岸が休みなので、比較的早くスポーツセンターに行く。

 今日もスロートレーニング。ベンチプレスはナカちゃんと一緒になる。

 アップとして六十キロ六、スローで百キロ四、九十キロ七、八十キロ八、七十キロ八、最後に普通のペースで六十キロをできるまで。(今日は二十一回)

 二人だったので、インターバルは約二分。

 一応、上半身のメニューは消化。

 Sさん来店。Nさん二名様で来店。ケイザブロウさん来店。今日は池袋で山形県の蔵元さんの出品酒のパーティが開かれていたそうで、それに友情蔵としての参加だったそうで、

 出品酒と今度新しく出したお酒をお土産に持ってきてくださる。

輸出も視野にいれたワインぽいボトルデザイン。山田錦五十%精米。まだ少し固い感じ。

 淡路島の三中時代の同級生だった奥野のお子さんのミカさんが、奥野が送ってきたという釘煮を持って来てくれる。

 今年は不漁で釘煮を作るのが大変なんだそうな。

 早速、みなさんでいただく。

 奥野の家は淡路島でも旧家で四十六代目。


ピースボートな頭 尾形憲、辻元清美

慰安婦 鄭玉順について

4月29日水曜日晴れ ×××

 尾形氏は北朝鮮へ行き、いわゆる慰安婦だったという女性の証言も著書「わが『平和への船旅』(ピースボート)」に掲載している。

<元慰安婦の人たちの涙ながらの叫びはとくに痛切である。

 一四歳で強制連行されたチョン・オクスンさんは慰安所で抗議した女性が拷問のあげく首を切り落とされたのを目の前で見たという。

 一日三十〜四十人、最高六十二人の相手をさせられた。耐えきれず何人かの女性と逃げ出したが、二日後つかまって連れ戻され、頭を鉄の棒で滅多打ちにされるなど拷問を受けた。

 その挙句気を失ってしまったのを死んだと思われ山中に捨てられ、助かった。死んでも忘れない日本帝国主義の野獣どもの蛮行は断じて許すわけにはいかない、という。

 パク・クンミョンさんは十七歳のとき製糸工場で働いていたのを、ソウルの工場へ行くとだまされて慰安所へ連れていかされた。仲間の中には乳首を噛み切られて死んだり、腹を蹴られて死んだ女性もいた。すきを見て脱出し、助かることが出来た>

P百六十七

 これだけしか書いていませんので、あまり突っ込むことが出来ませんが、少なくとももし、せっかく連れて来た女性を抗議しただけで首を切る必要はどこにあるのでしょう。

あと、気を失うのと死ぬのとは違います。蘇生したとしても不自然過ぎます。

 普通、頭を鉄の棒で滅多打ちにされたら、死ぬでしょう。石頭ってもんじゃあないみたいです。

 この二人の女性のうちチョン・オクスン(鄭玉順)についてはネット上でも詳しい資料を見つけることが出来ます。

 他の多くの朝鮮人慰安婦と同じく証言がめちゃめちゃみたいです。

以下その一部を引用させていただきます。

 <「クマラスワミ報告」によると、同女が入れられた恵山(中国東北地方と朝鮮の国境地帯)の守備隊には約四百人の朝鮮人女性がいて、毎日五千人以上の兵隊の相手をした。一日に約四〇人もの兵隊の相手をさせられる時もあり>

五千人の兵を四百人の慰安婦で相手をしたとすると、

五千÷四百=十二・五人となります。

 四十人を相手にする必要もなく、もし、四十人をひとりの女性が処理したとすると、四百×四十=一万六千人の相手をした事になります。

 慰安婦は何人の兵隊に一人の割合かというのは数十人から百人と

諸説ありますが、

 この慰安婦の方の証言では四百人の慰安婦ですから、一人に百人の場合は四万の部隊。八十人の場合は三万二千人の部隊となります。

 一日五千人を相手にするという事は、普通、慰安所などには月一回としても五千×三十=十五万人の大部隊となります。

 その他の証言として

<「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。>

<慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、無理やりその汁を飲ませた>

<慰安婦が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された>

<梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた>

<鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた>

<足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだので、前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った>

<全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ>

<兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにした>

 尾形氏たちピースボートの面々に対してどこまで語ったか著書よりは不明ですが、もし、こういった話をしたとして、尾形氏たちがそれを信じるのであれば、アホとしかいい様がありません。

 

 午後からスポーツセンターに行くと、流石に大勢の人が来ていた。

 

 初めてのお客様Tさん御夫妻来店。Mさん二名様で来店。Bさん四名様で来店。「石松」でご一緒したKさん三名様で来店。

 ドンチャン。記憶なし。サル・・・・

 ドンチャン。サル・・・・・・・


ピースボートな頭 尾形憲、辻元清美

おまけ

タケオ自衛隊 宮澤喜一 北村哲 大朝日新聞

4月23日木曜日晴れ △

  宮嶋氏の著書には当時の宮澤喜一首相が、バンコクまで来ていながら、足をのばせばすぐのタケオに来なかったことが書かれている。

<それだけに、私は言っておきたいことがある。PKO乞食・宮嶋にこれだけ情けをかけてくれた隊員たちに、国はいったいどれだけの情けをかけたというのか。

 ケシカランのは、宮沢首相であった。バンコクまで来ていながら、なぜタケオまで足を延ばせぬのか。バンコク・・・プノンペンは一時間。プノンペンからタケオまではヘリコプターを使えば、数十分であろう。軽井沢までゴルフに行く時間で、慰問をできるのである。

 アメリカのブッシュ大統領は、まだ治安も不安な中、ソマリアの米軍を慰問した。首相と大統領、どちらも国軍の最高司令官である。こうした、トップの違いが、末端の将兵の士気に微妙な影響を及ぼすことは歴史が語るとおりである。>

P百六十二

 でも、宮沢氏にそれは無理でしょう。

 宮沢喜一という男は、我が国の害になるようなことこそすれ、何か我が国のためになるようなことしましたか?

 国を愛するとか憂国とかに一番遠い存在が河野洋平氏、加藤紘一氏、村山富市氏、土井たか子氏(あといっぱい)などとともに宮澤喜一氏だとおもいます。

 

 教科書問題における近隣諸国条項のそもそもの原因は宮澤喜一氏ですし、戦時売春婦問題でもそうです。

 当時国会議員だった石原慎太郎氏が特攻の母と言われた鳥浜トメさんに国民栄誉賞をという話を当時の宮沢首相にしたら、「そんなことやっていたら、きりがありませんから」というような言い方をした。それに対して「罰が当たって、野垂れ死ぬぞ」と書いていました。

 

 「大朝日新聞の書かぬこと」として、

 国会議員の当時の社会党、北村哲氏がタケオ基地にやってきた時は、滞在時間はすべてを含めてたった七十分だったそうです。

 宮嶋氏は

<社会党の方と聞いて、ウシのようにしか歩けないのかと思ったが、ちゃんとスタスタと歩いておられた。

 なにしろ、PKO法案の審議にあれだけ時間をかけられる政党である。きっと、何日も野営されて現地調査をなさるのかと思ったが、やたら早く営内を移動される。

 天敵である自衛隊の幹部とは席を同じゅうせず、なのかと思ったが、渡辺大隊長と記念写真までお撮りになり、幹部九名の敬礼に送られて去って行ったのである。

 この発想の柔軟さ。さすがは、資金が足りなければ、ソ連共産党からでも援助を受けた政党である。大したものである。なおかつ、北村議員の滞在時間はすべて含めて七十分であった。

 電光赤化、もとい、電光石火の早業もあれば、牛歩もある。この行動の柔軟さ、大したものである。

 この時北村議員がしつこく質問していたのは、少し前に起きた自衛隊輸送車による交通事故についてであった。

 不幸にも現地人一人が死亡したこの事故は、大朝日新聞が大々的に採りあげ、私も出発前に読んでいた。それだけ読んでいると、あたかも侵略軍のような自衛隊が、か弱い現地の人々を蹂躙しているかのような印象を受けた。議員もそれを読み、質問したのであろう。

 交通規則のないカンボジアでは、車の運転はムチャクチャである。事故をよしとはしないが、そんなに騒ぎ立てることではないとおもうのだが。

 ちなみに、その大朝日新聞の車が、タケオ近くで大事故を起こされたことを、多くの日本人は知るまい。しかも、それを救助したのが自衛隊であることも、多くの日本人は知るまい。それは、当の朝日新聞が一行も報じていないからである。

 しかし、隊員たちは知っている。人身と自損事故の違いこそあれ、隊員は起こした事故は、運転手の名前まで内地で報じられ、新聞社が起こした事故は、報じられない。

 そういう仕組みを知った隊員たちが、帰国後新聞を読むとき、いままでとは違った読み方をするようになるだろう。>

P百六十八〜百七十

 

 

 ちなみに、文春タケオ支局とは、UNTACの規則として自衛隊は、基地内に泊めるなど便宜供与は一切できないというため、宮嶋氏が鉄条網が張り巡らされたタケオの自衛隊基地の「外側」に設営したテントと現地の大工さんに金七千円なりを奮発して建設した小屋のことです。

 ここで、寝泊まりしながら自衛隊の取材をしたのです。

 でも、著書によると、現在の防衛省、当時の防衛庁広報課・森田二佐は

「自衛隊といえども、鬼ではない。基地の外は危険であるから、二、三日我慢すれば中に泊めてくれるであろう。(ホントにこう言った)。

 それに、ナニ、六百人のメシも、六百一人のメシも同じことだ。そのうちメシも食わしてくれるだろう。要は人間関係だ。施設はいい奴ばかりだから、必ず面倒を見てくれるはずである。(ホントにホントにこう言った)」

 となっています。笑わせてくれます。

 

 宮嶋氏は我が国の自衛隊についてまえがきで下記のように書いています。

 <ただ惜しむらくは、彼らを送り込んだ日本国の腰が据わっておらず、不完全な形で行ってもらったことだ。私は思う。行く以上は完全武装の「軍隊」として、国連の指揮下、フリーハンドの権限を持って行くべきであったと。

略)

もっとも、現実には現地での自衛隊は「軍隊」として扱われていた。

「一尉」は「キャプテン・・・・大尉」であった。隊員たちは、お互いの名誉を背に軍人同士として交流していた。その時の隊員たちの顔のなんと誇りに満ち、輝いていたことか。>

p十二まえがきより

 現在の我が国の姿をよく現しています。

 あと、私は下記のような自衛隊施設が、尾形氏が 「部隊は本部、医療室、食堂などがプレハブで冷房がついている。宿舎は三十五張の高床式でつくられているが、他の三十一カ国はすべて既設の学校その他を利用しており、独自の建物をつくっているのは日本だけだという。」と書くような「豪華な」施設とはとても思えませんでした。

 本部、医療室、食堂などがプレハブで冷房がついていてどこが悪いのでしょう。

 過酷な作業の後、写真のような一日の疲れをいやす風呂ぐらいいいのではないでしょうか?

 

 

 今日、「草薙剛」という芸人が酔っぱらって裸になって逮捕されたとかいうニュースがありました。

 掲示板にも書いたのですが、酒を飲んでの失敗だったら山ほどあり、とても他人様を批判などできる身分ではございません。

大学時代は

金沢の浅野川にかかる橋の欄干の上、

犀川の土手

中央公園

ヤクザの事務所の親分のベッド・・・

店を開いてからも

外苑東通りの中央分離帯、

自分の部屋のドアの前、

高円寺の駅前の植え込み・・・

あっちこっちで、寝て恥をさらしました事ありますから。

裸にはならんかったですけど・・・

 後、大学時代の事件?で記憶がないのは

トレンチコートが左肩からびっしょり血だらけ・・・・・

 これは今でもわかりません。

 飲んだ翌日に思い出さずに、三日後ぐらいにそのトレンチコートを着ようとして「なんだこれ」となったのですから、

それまで記憶になかったのでから、三十五年も経っている今時、解るはずがない。

 今日は店の前に置いてある植木鉢の植え替え。

大家さんが冬の間家の中に入れてあった月下美人の大きな鉢を外に出しているので、私もこの際やってしまおうと決断。

 いつかやろう、いつかやろうと思っていながらず〜と時間が経ってしまって、子供のときの夏休みの宿題と同じ。

確定申告が最終日になる今でも同じですけど。

根が張ってるのを切り、枝を落として土を入れ替える。

 たったこれだけの事ながら、二時間もかかってしまった。

  メチャヒマというより今年初めてのオチャピー。一昨年は三日、去年は二日、そして、今年は何回だろう・・・・

 で、遅い時間から飲むが今日はしっかりと記憶あり。




辻元清美

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