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酒たまねぎや飲んべえ日記

平成21年9月分


第二の吉田清治 中島正人 華人虐殺人数

9月30日水曜日くもり時々小雨 △

 九月二十五日金曜日に書いた中島正人氏の「華人虐殺人数」についての記述ですが、オートラム監獄による華人虐殺について加筆させていただきましたので、再掲載させていただきます。

 中島正人氏の確実な証拠を示す事の無い、己自身の「推定」により断定するというこういった姿勢は犠牲者数および殺害方法にまで及んでいます。

 

<こうして理不尽に拉致された華僑たちは、逃亡を防ぐため例外無く両手を背後に回され、麻縄で固く縛り上げられた。それからトラックに乗せられ、人気の無い海岸や山林に拉致され、多くは機関銃によって惨殺された>

「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊) p五百三

 と、「多くは機関銃によって惨殺された」ように書くが、多くの敵性華僑の処刑方法は刺殺であることは、戦後の軍事裁判において争われた(実質的には一方的報復裁判であった)四件の華僑掃討に関する裁判(一件、スンガイルイ一九四二年八月である)で、一部銃を使った掃討はスンガイルイだけで、他の三件はすべて刺殺によるものであり、銃弾が使われていない事が明らかになっており、華人との間に殺害方法は争点とはなっていない。

 少なくとも、「多くは機関銃によって惨殺された」と書くのは事実に反している。

 

 軍事裁判開廷当時、六千人(日本側は千〜二千人)で争われていた犠牲者数が今では五万人〜十万人に膨らんでいるのは、中共支那の先の大戦における犠牲者数、南京における犠牲者数の増え方と同じである。

 中島正人氏自身も

<それでは、「マレー進行作戦」途次に行われた華僑虐殺事件で、いったいどれくらいの犠牲者がでたのだろうか。

 さまざまな推計が行われているが、前記の戦争裁判では、シンガポールだけで、一応、その数を六千人と推定している。

 この数字は、警備司令官だった河村と憲兵隊長だった大石の両者で、約五千人、近衛師団の西村が「近衛では約千人殺した」と証言したことが根拠となっている。

 略)

 また占領中、「反日分子」としてオートラム監獄に収容されていた者のうち、死者千六百十一人(死刑者百四十一人、獄中死千四百七十人)も、もちろん、先の数字には含まれていない。

 したがって、これらの数字を勘案、差し引き勘定し、総合判断すると、シンガポールだけで二万人以上の華僑が犠牲になったとみることができる。

 少なくとも私の取材では、大東亜戦争中、南洋地域にあるシンガポール、マレー半島、フィリピン、インドネシア、香港の五カ国で優に八万人に達する中国系市民(華僑)が、日本軍人の手によって虐殺されたことが確認できるのである。

 いま、これらの土地には、日本人観光客が訪うこともない閑散とした場所にそれぞれ慰霊碑が建てられ、当時の日本人による重い犯罪を冷厳に告発し続けている>

同p五百六

 と書いている。つまり、虐殺と言っている限りは、ゲリラに対する掃討は入っていないで華僑が最近騒いでいる五〜十万人という数字に近い犠牲者数を確認したという事になる。

 どのような手法により、その数を確認したかは書いていないが、これは、あったとされる南京大虐殺の犠牲者数が、中共支那が三十万人と言っているのをそのまま書いているようなものである。

 昭和四十六年(一九七一年)に出された「馬来亜華僑殉難名録」に収められた約八千六百名もの華僑について、中島みち氏は、全員について点検したが、その殉難時期は終戦後に及ぶものもあり、場所もシンガポール、マラヤ全土に広がっているそうです。

 ましてや、虐殺されたというその慰霊碑のある箇所をひとつでも精査してるのであろうか。もしそうであれば、その人数、背景等において種々の疑問点が浮かび上がってくる箇所も多くあり、このような数字は中々出てこないものだと思うのだが。

 それとも、華僑つまり、嘘のつく事を何も思わぬ支那人の言っている事をそのまま鵜呑みにしているだけで、取材と称しているのだろうか。

 

 中島正人氏のこのような姿勢は、中島氏が書いているオートラム監獄に於ける死者千六百十一人(死刑者百四十一人、獄中死千四百七十人)という華人の死者数にもよく現れている。

 オートラム監獄における我が国の戦犯とされた方々に対しての英国兵どもの醜い扱いについては多くの著書が出版されていますが、手元にある「戦犯叢書 戦犯虐殺の記録」に、オートラム監獄に関しても多くのページが割かれている。

 そして、英国人による醜い扱いについての記述だけでなく、当時の昭南陸軍刑務所(オートラム陸軍刑務所)における虐待責任とされた法務部長二名(南方軍 日高己雄法務少将、第七方面軍 大塚法務少将)、刑務所長二名(小林庄造少佐 、神谷春雄少佐)を含む四十四名もの人員が起訴された事件が掲載されています。

 

 起訴状記載の内容

<常軌被告等は一九四二年二月十五日より一九四五年八月十日に至る間、オートラム刑務所に於て行われた左の如き虐待行為に関係せるものである。

 即ち戦争の法規および慣例に違反して不当る虐待蛮行を加えた結果英国人、豪州人、オランダ人、その他一般市民計四十一名を死亡に至らしめ、その他米国人、英国人、豪州人、オランダ人および一般市民多数に肉体的精神的苦痛を与えたものである>

(「戦犯叢書 戦犯虐待の記録」(佐藤亮 国書刊行会 昭和五十七年刊) P百三十五)

 いかがであろう。各被告に対しそれぞれの個人責任を追求すべき起訴状において、かくの如く、漠然たる内容の起訴状が許されるような裁判においても、中島正人氏が記すような多くの華人に対しての記載が一切見当たらない。

 中島正人氏は、いったいどこからその多くの華人虐殺人数を導きだしたのか。

 

ちなみに、

英国軍による裁判は

シンガポール、ジョホールパル、クアラルンプール、タイピン、アロールスター、ペナン、ラブファン、ゼッセルトン、ラングーン、メイミョウ、香港。

死刑二百二十三名、無罪百二十五名、有期刑五百五十六名であった。

(「南十字星に抱かれて」(福冨健一 講談社 平成十七年刊) p二百四十九〜二百五十)

 そのうち、英領マラヤで戦争犯罪人とされた方々の起訴理由については、「マラヤ住民の殺害」であり、その「マラヤ住民」の九十九%が、華人である。

 訴え出た人々のほとんどが、イギリス人でもオーストラリア人でもポルトガル人でもない。マレー人、インド人も稀であり、殆ど華人なのである。

(「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(中島みち 文藝春秋 平成三年刊) P八十八)

 中島正人氏は華人が千六百十一人も犠牲になったと主張するが、その、オートラム監獄に於ける最高責任者を含む四十四人が起訴されている戦犯裁判において、その理由に華人虐殺および暴行が一件も入っていないのはどういうわけか。

 まさに第二の吉田清治という名前がピッタリの御仁です。


第二の吉田清治

中島正人 「華僑粛清計画書」

9月29日火曜日くもり一時小雨 △

 下記は九月二十四日木曜日に書いた中島正人氏の「華僑粛清計画書」に関するものですが、大幅に加筆いたしましたので、再掲載させていただきます。

 「反日華僑のゲリラ的抗戦に悩まされた第二十五軍が採った大規模な粛清・虐殺のあらし。山下軍司令官以下は、この実行に如何に関わったか。マレー攻略作戦に付随して起きた忌まわしき事件の全貌に迫る」

 と書く「シンガポール華僑虐殺事件」と題した(作家という肩書きの)中島正人氏による「丸」の別冊の文章についてです。

 中島正人氏が第一級資料を含む貴重な現代史資料であると書く「新馬華人抗日資料」(中島みち氏、松井やより氏の著書では「新馬華人抗日史料」)であるが、これは支那人らしい裏付けのない証言などを集めたものも多く、写真の間違いも多い著書です。

 

 中島正人氏はその「丸」での論文で 「華僑粛清計画」立案の背景として、

<じつは抗日華僑の摘発に名を借りた「華僑粛清計画」という、おそるべき陰謀が存在したことが主要因となっている>

と書き、下記のように書いている。


<当時極秘とされた「方針」と「要領」という二つの文章からなる「華僑工作実施要領」という通達(一九四二年四月十九日付け)が、第二十五軍軍政部長渡辺渡大佐の名で、マレー、スマトラの各州長官宛に発令されたのが、今も記録として残されているが、これなどは、その謀略工作の典型的なテキストといえるのではなかろうか。

 紙面の関係で全文を紹介出来ないのが残念だが、当時の日本軍の

華僑政策を知る上で誠に貴重な資料的価値をもっているので、その一部を次にあげておく。

「(方針)華僑の動向に重大な関心を持し、之が誘因工作を以て華僑対策の大部分なりとせるは既に過去のことに属する。今次大戦の勃発を契機として、特に占領地内の華僑対策は、従来の誘因工作に比し、その本質、動向ともに根本的転換の必要を生ぜり。即ちこの新たなる事態に当面し、現地の情勢に即応してここに華僑工作要領の大網を決し、以て馬来統治上の重大存在たる彼等華僑に対する処理上遺憾なきを期せんとす。」

「(要領)占領内における彼等の動向は彼等自らをして決せしめ、服従を誓い協力を惜しまざる者に対しては、その生業を奪わず、検疫を認め、然らざる者に対しては、断固その生存を認めざるものとす。」

「(同)協力に参加せざる者に対しては、極めて峻厳なる処断をもって処理す。即ち財産の没収、一族の追放、再入国の禁止を行うと共に、反抗の徒に対しては極刑を以て之に応え華僑全体に対する動向決定に資せしむ(後略)」

 後に戦犯裁判で耳目を集めた第二十五軍による「華僑虐殺事件」は、こうした「華僑工作実施要領」を下書きにして作られた「華僑粛清計画書」に拠ったのは明白である。>

(「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊)P四百九十八

 このように中島正人氏は「華僑工作実施要領」のを証拠に、それを下書きにして作られた「華僑粛清計画書」があったことは明白、とまで書くが、「華僑工作実施要領」の通達日である四月十九日は、すでにシンガポール、マラヤでの三次にわたる敵性華僑の粛清、掃討はほぼ終わっているという事はどう考えているのであろう。

 後はゲリラとして活動している華僑とそれを指導している英軍に対しての戦闘による掃討活動となっていることは、戦後に行われた軍事裁判における「華僑粛清」関係の四件の裁判のうち三件が一九四二年三月であることが、それを示している。

 「わざと」ではないと信じたいが、中島正人氏が略した「華僑工作実施要領」に何が書かれているか。

  残念ながら全文ではないが、中島みち氏の「日中戦争いまだ終わらず」に掲載されている部分を引用させていただく。

(中島正人氏は三つの「要領」のうちの「其の一の一 積極的誘因工作ハ之ヲ行ハズ」、「其の二の三 処断ノ峻厳ヲ期ス」の二つのみを引用掲載している。)

 <其ノ一 占領直後ノ応急要領

 四)彼等ノ利用ヲ必要トスル場合ノ対所要領

  軍需物資ノ交流等就中当面ノ食糧対策ニ対テハ彼等ノ実力ト経験トノ利用ニ俟ツコト大ナルモノアリ、此ノ場合ニ於ケル利用方法ハ一ニ命令ヲ以テ彼等ノ活動ヲ即シ方法、範囲等細部ニ亘ツテノ指導干渉ヲ以テ彼等ノ自由ニ委任スルガ如クシ而シテ其ノ活動ニ依ツテ得タル利益ハ後日有力ナル財源トシテ確保シ課税ノ対象トシテ保留スルモノトス

 五)排撃保護何レニモ偏セズ

  当分ノ間華僑トシテ特別ナル取扱ヲ為サズ支那人ト同一ニ取扱フモノトス

 資力商権共ニ他民族に優越セル現況ニ於テハ治安維持商店街ノ秩序ヒ彼等ノ力ニ負フ所大ナルベキヲ以テ此ノ大勢ニ対シテ特別ナル手段ヲ取ルノ要ヲ認メズ

 <粗ノ二 第一期作戦終了直後ニ於ケル対所要領>

 <其ノ三 将来ノ対処方針及要領大網

 一)全面的ニ利用ス

華僑ヲ弾圧排撃シ之ニ代ツテ日本人ノ進出ヲ期スベシト為スガ如キ軽断至ルコトナク宜シク彼等ノ実力ト商才トヲ我ガ南方経営ノ為に利用スベキモノナリ。

 二)財源対策トシテ活用ス

彼等ノ有スル資力、経済力は有力ナル財源ナルヲ以テ之ヲ培養確保シ以テ南方経営に資ス

 三)開発、生産ニ資力参加ヲ認ム

産業ノ開発、資源ノ獲得、交易ノ円滑等凡ユル部門ニ亘リ彼等ノ資本的参加ノ途ヲ開キ粗ノ商才ヲ活用スベキ方法ヲ講ズルモノトス

 四)蒋政権覆滅ノ謀略ニ活用ス

新嘉坡ヲ中心トスル南方華僑ノ総動向ヲ決定的ナラシメ然ル後彼等ヲ利用シテ蒋政権覆滅乃至日支関係ノ整調ニ活用ス

 五)南方全華僑ヲ率シム

南方一帯ニ商権網ヲ有スル全華僑約五百万人、資本総動員額見積約五十億元、此ノ人的資本力ヲ総動員シテ南方支那一円更ニ利用協力セシムル大方策ノ資源的推進力タラシメントス>

 「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」p六十〜六十三

 このように、占領地における敵性華僑を排除後は、一般華僑に対しどのように接して行くべきかを示しているのであり、「華僑工作実施要領」は決して「華僑粛清計画書」の存在を示す物にはなり得ない。

 一部だけを都合良く引用すべきでない例の一つではないかと思います。

 その後に、中島正人氏は

<それでは「華僑粛清計画書」とはいたいどのようなものか。果たしてそのようなものが本当に実在したのか。 様々な疑問がおこるところだが、不幸な事に、それが実在したことは戦後、シンガポールの戦犯裁判で法廷に立った元憲兵隊長大西覚によってすでに立証されている。>(同p四百九十八)

 と書いているが、戦犯裁判において大西覚氏が、「華僑粛清計画書」があったことを示すどのような証言をしたか具体的な証言について明示してはいない。

 他にも、中島正人氏が、<「粛清計画」の策定には、山下奉文以下、第二十五軍のすべての参謀が協議に加わり、なかでも辻政信を筆頭に山下、林忠彦、朝枝繁春らが粛清強行派としてその推進を積極的に主張した事がいろいろな証言、私自身の取材・調査からも推定出来る>

と書き、その「華僑粛清計画」があった有力な証拠のひとつとして、「華僑粛清計画書」を実際に此の目で見たという取材中にペナンで会ったという劉果因氏の徴用時代の証言、があります。

<その人は劉果因といって、戦前、日本の大学で歴史学と日本文学を勉強したという学者だった。戦時中、マレーで日本軍に徴用され、軍司令部付の通訳や華字翻訳などの仕事を当てがわれていたという経歴の持ち主だった。

「その計画書を見せてくれたのはある憲兵隊長でしたが、私はそれを見たとたん、『あ、こんなことを実行したら大変なことになるな』と直感的に思いましたね」

と劉氏は私に話してくれた。

 劉氏のいう「大変なこと」という意味は、まず日本軍が粛清の対象者として挙げているのが、「英語教育を受けたもの」「学校の教師」「ラジオを持っているもの」「貿易商人」といった知識人に重点を置き、そうした対象者をマレーやシンガポールから根こそぎ粛清してしまうことを、計画の基本としていた事だ。

略)

 考えてみると、じつに滑稽であり、こじつけとしか言いようがないが、もともと理由などはどうでもいいのであり、真の狙いは華僑粛清の為の名目であったことを考えると、かえってそれは、狡猾に仕組まれた罠のようなものだった。

 事実、この劉氏の証言は大枠でほとんどまちがいなかった。

(p四百九十八〜四百九十九)

<軍司令部で山下や辻が「シンガポールの華僑は皆殺しだ。シンガポールだけじゃあない、とにかくこの南洋から華僑を一人残らず追い出せ」と命令しているのを何度も耳にしたと話していた>

「丸」p五百

 これについて、中島正人氏は自身の著書でも同様の事を書いています。

<その時、劉氏は私(中島正人)に重大な発言をしたのである。「華僑粛清計画書」というのを自分も見たというのである。そればかりではない。劉氏は、またその徴用時代、軍司令部で山下奉文や辻政信が「シンガポールの華僑は皆殺しだ。シンガポールだけじゃあない、とにかく南洋から華僑を一人残らず追い出せ」と命令しているのを何度も耳にした、と話した。

 「あの山下奉文が、みずからそう言ったのですか・・・・・」

 と、私は思わず問い返した。

 「そうです。私は目の前で、山下自身が『華僑なんか皆殺しにしろ』と何度も口にしたのを聞いていますよ。」

(「謀殺の軌跡 シンガポール」(中島正人 p七十九〜八十)

(私は「日中戦争 いまだ終わらず」p二百二十六〜二百二十七より引用)

 と、書いているが、この劉果因氏について、その証言の確実性も、背景もなんら示していないだけでなく、その推定の元になった「いろいろな証言、私自身の取材・調査」によるというその他の証言、証拠をなにひとつ示さず、

<そういえば、戦犯に問われた大西覚も「華僑粛清に対する軍の方針は強硬で、その鼻息は荒く、馬奈木参謀副長も現地を視察したが、特に辻参謀、朝枝参謀の現地指導は常軌を逸したものがあった」と「秘録昭南華僑粛清事件」の中でこれを傍証している>

丸p五百

 と、どこが証拠になるのかわからない事を書いている。

 

 大西覚氏が書いている「華僑粛清事件」とは、華人ゲリラ相手の戦闘を含まない「敵性華僑」の粛清、掃討であり、それは第二十五軍がシンガポール占領直後に華人に対して行った検問による粛清、拠点となった華人村の掃討であり、短期間で軍法会議にもかけずに、処断するというやり方が、我が国のシンガポール占領史に汚点を残している事は事実であり間違いないが、だからといって、中島正人氏がいう「華僑粛清計画書」があったことには決してならない。

 

 そして、決定的なのは中島正人氏に対して、証言したという劉果因氏について、中島みち氏は原不二夫氏の論文「シンガポールの日本軍政の実像を追って」(「アジア経済」一九八七年四月号)を引用し、下記のようにそれを否定しているだけでなく、シンガポール軍司令部にいたことが無い事を調査し確認している。

 

 <この書評論文によると、劉本人が原に、「(自分が)言いもしないことを(「謀略の軌跡」で)証言として述べられた」と「憤りに唇をふるわせて訴えた」という

 劉は、開戦でベラ州カンバルからビドールに避難していたところを日本軍に駆り出され、以後終戦までイボーの憲兵隊で通訳をしており、イボーの粛清のほんの一端しかわからないという。

 原は、「(劉氏は)イボーについてさえ占領期の状況をほんの一端しかわからないと述べているのである。ましてや、縁もゆかりも無いシンガポールの軍中枢の様子が、劉氏の口から出る筈がない」と、さまざまな方向から中島正人の記述について「推測を史実に転ずる」ものとして重大な疑問を投じており、私自身はそれらを説得力あるものとして読んだ。

 略)

 (劉氏によれば、実際は、中島(正人)氏が「大虐殺に関係した軍人に会った」というので、「シンガポール占領後同値華人を皆殺しにする計画があったと、イボーの憲兵がふともらしたことがあったが、本当か」ときくと、中島氏は「確かにあった」と答えたのだという)

(同p八十六)

 しかし、日本人である中島正人が、シンガポール華僑の皆殺し計画が「確かにあった」などと答えたとしたら、その正気を疑う以外はない。

 略)

 中島は、劉の証言テープを持っていると原に言ったそうで、劉果因と中島正人のあいだにどうしてこのような行き違いが生じたのかについては、私には想像がつかない。

 しかしともかく、私はその後の調べでも、劉がシンガポールの軍司令部にいなかったことは明白であり、それであれば「華僑粛清計画書」なるものをみたり、山下泰文の華僑皆殺し発言などというものを直接耳にしたという華人も、今のところで滴定内ことも確実であろう。

 また中島正人は、劉が、辻、朝枝ら作戦参謀について、その発言を聞いたかのように記しているが、劉が辻や朝枝にあったことなど全くありえないわけである。

(「日中戦争いまだ終わらず」p二百二十七〜二百二十九)

 

 証言したという本人も否定し、なおかつその本人が軍司令部にいなかったことも証明されている。

 つまり、中島正人氏という人間は、ありもしないことをあったように書いたあの職業詐欺師吉田清治氏と同類である。

 こんな職業詐欺師の文章を掲載した「丸」・・・・・・・

 この中島正人氏は他の事でも同じ事を繰り返しています。

 第二の吉田清治・・・・・・


巡洋艦「羽黒」による敵兵救助

9月28日月曜日晴れ ○

 朝起きると、やっぱ、あっちこっち筋肉痛。今日は午前中に部屋を片付けた後、銀行に行った後、古本屋さんに寄って、数冊購入。

 昨日、読んでいた本の一冊に、恵隆之助氏の著書「敵兵を救助せよ」に書かれていたスラバヤ沖海戦においての工藤俊作中佐が艦長であった駆逐艦「雷」そして僚艦「電」による英国海軍将兵の救助以外に、巡洋艦「羽黒」による同じく英国海軍将兵の救助も掲載されていました。

以下引用

<「溺者あり、救助乞う」一番艦からの信号である。水兵でも落ちたのかと、内心思っていると救助に向ったボートから「敵兵は如何にすべきや」「全員救助すべし」という訳で、我が艦もやがて裸の白人兵二十名程収容する事と成った。

 見ると大きな奴が鼻から重油を垂れながら、へたへたと上甲板に座って元気が無い。士官が多かった。オランダ人が多いが、英国人の中尉もいた。

 

 さて、どう待遇するか。国際公法に則り、遺憾なきを期する事に成った。すなわち、士官には当方の士官の、下士官には下士官の、兵には兵の待遇を与えることである。

 さて士官連中を何処に入れるか。まさか士官室に入れるわけにもいかない。幸い羽黒には司令部が乗っていないので参謀予備室が空いている。「参謀予備室のシーツを取り替えよ」。全部洗濯したての真っ白なシーツに取り替えられた。

 軍医に見せたり、体を荒い、折り目のついた防暑服を支給した。食事も原則として士官と同じである。尤も日本食の時は困るだろうと、スープから始まるきちんとした洋食を支給した。連中はすぐに元気を取り戻した。

 「「この艦はどこに弾を受けたか」これが連中の最初の質問であった。全然被弾していない旨こたえると、「そんな筈はない」と頑張る。

 上甲板につれて行って大体見せ、どの砲身も余り続けて激しく撃ったので熱の為塗料が殆ど剥げているのを示し「被害とはこの位のもの」と説明すると大いに感心したような、がっかりし様子であった。

 連中も非常に良い所があった。礼に対しては礼を以て答えた。軍艦旗の上げ降ろしには、こちらは何も云わないのに、全員起立して敬礼した。>

「なぜ天皇を尊敬するか その哲学と憲法」(大野健夫 羽黒主計長著書より)

 私は「(「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」潮書房 昭和六十三年刊)p四百二〜四百三」

 今日は酒を飲まず。 

 


9月27日日曜日晴れのちくもり ○

 食事をした後、午後から高田馬場にある芳林堂さんに寄り、数冊の本を購入。

 その後、久しぶりにスポーツセンターに行く。今日は時間があったので、三時間近くかけて、有酸素運動までの一応一通りのメニューを消化。

 

 店に寄り、生ゴミを出した後、帰宅。

 今日、本屋さんで偶然見つけ購入したものだが、「ぼくと未帰還兵との二年八ヶ月」(松林要樹 同時代社 平成二十一年刊)などを読む。

 前にこの日記に書いたことがあるが、著者の松林氏はお世話になっている河岸の鮪仲卸「松長」のショウゴちゃんの友人。

 今日も、朝明るくなるまでいろいろな本を読んでいた。最近、毎日曜日の過ごし方のパターンになってしまったようです。

 今日は酒は飲まず。

 


 

9月23日水曜日晴れ △

 「九十七年間ありがとうございました」「完全閉店」という張り紙があったのは、部屋の近所にあった家具屋さん。

 我が国は世界一古い会社として有名な金剛組。その他、多くの古い会社、店があるが、どういう形にしても、その時代を乗り切り、続けるというのは、いい人材を常に育てなければいけないので、大変なことなのでしょう。

 

 今日は久々に新橋にて飲む。

 電車が無くなり、帰りはタクシー

 珍しく、記憶あり。


9月22日火曜日くもりのち晴れ ○

 今日は七時過ぎに起きて、そのままゴロゴロと夕方まで部屋にいて、夕方に飯を食いに外に出る。

 

 酒は飲まず。


9月21日月曜日くもり ○

 今日は部屋からはゴミを出すために出ただけで、それ以外は一歩も外に出ずに過ごす。

 昨日というか今朝までマンガ、雑誌、本を読んでいたが、九時頃には目が覚めて起きる。

 まあ、眠たければ、其の時に寝ればいいし。

 酒は飲まず。


横浜へ

9月20日日曜日晴れ △

 酒と残った刺身を持って、メキシコ滞在中から今まで、ず〜とお世話になっている長島さんの御自宅に伺うため横浜に行く。

 五月の連休以来で、久しぶり。

 

 今日はおばあちゃんから、奥さん、三人の御子さん、二人のお孫さんまで勢揃い。

 

 夜、店に寄り、生ゴミを出してから帰宅。

 


「日中戦争いまだ終わらず」によりわかる反日日本人の暗躍

高嶋伸欣と林博史

平成21年9月17日木曜日晴れ △

 中島みち氏の著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(文藝春秋 平成三年刊)を読む。

 この著書には先の大戦でマレー半島において日本帝国陸軍が行ったとされる「住民虐殺」の実態について、そして、売国奴どもとの繋がりなどが詳しく描かれている。

 何よりも、支那人とはどこにいても同じ事をやる、「平気で嘘をつく」民族だということがよくわかる。

 中島氏はシンガポールに行った時に戦争資料館において、中共支那にある「南京虐殺記念館」と同じ空気を感じる。

 そこには、広島に落とされ多くの方が虐殺された時の原爆雲の写真が展示され、記念品売り場には、一九八五年処版の黒地に鮮血飛び散る装幀にて、「1942−1945 日本統治下的新加城」と題する大判の写真集が、華文と英文で書かれた解説と共に売られていたそうである。

 これは、国立公文書局が同局主催の同名の展示会の内容を収めて出版したもので、その内容は、今後益々日本に対して告発して行く姿勢が伝わるものであった。

「シンガポールは英国の難攻不落の要塞都市であったが、住民の暮らしは素朴とはいえ平和で、みんな植民地生活に満足していた。

 ところが、ある日、コタバルに上陸した日本軍は、たった五十五日間でシンガポールを攻略し・・・・」(実際は五十五日間でシンガポール半島を攻略)

日本軍の華人虐殺と日本軍政を告発し

「自由は奪われ、食物は不足し、ビジネスは停止してしまい、今もシンガポールの古老たちは、まざまざと日治時期の塗炭の苦しみを思い返す」

「しかし、日本軍政側は関係書類を一切残していない。そこで我々は一九八一年にプロジェクトを作り、口述記録を集め、戦争と日本統治に関するかぎりの、ありとあらゆる文書、写真、身の回り品の類まで探し出し、後世に遺す作業に取りかかった」

「戦争と日治時期を知らぬ若いシンガポール人にこの経験を分かち与えたい。そして、まだまだ資料は足りない。語り伝えるべき話、写真、資料、あるいは品物を持っている人は、どんどん出て来て、このコレクションを充実させてほしい」

と訴えている。

 戦争資料館内のパネルで二万人以上となっていた第二十五軍による敵性華僑粛清、華僑側のいう「大検証」の犠牲者数が、この本では五万人にまでふくれあがっているそうである。

 中島氏は松井太久郎中将の長男に嫁がれた方であったが、この本に掲載されていたのは、松井太久郎中将ではなく、松井岩根大将の写真であったそうで、このような簡単なチェックもできない連中の仕事に疑問を持ち、調査をされている。

 街中で売られている一九八四年発売の華文の「新馬華人抗日史料」という本などでは、山本五十六大将、東条英機大将などの写真が並び「混世魔王群像及其罪行」と題されているそうである。

(同書P二十八)

 そして、なぜ今の時期に(一九八六年)告発なのであるか疑問を抱いている。

 その裏には、南京虐殺記念館には日本社会党の活躍?があったのと同じであるが、反日日本人どもが暗躍している事を突き止めている。

 「日治時期森州華族蒙難資料」(森美蘭中華大会堂出版)の出版目的として、あの我が国の教科書問題の誤報に端を発した教科書検定、そして、靖国参拝への「追討」まで掲げているそうである。

 キーワードとして、

「被害者としてのヒロシマから加害者としての広島の自覚へ」

「原爆都市ヒロシマは、加害の軍都広島であることに目を向けよ」

であるそうで、

 一九八六年十二月八日、マレー半島上陸から四十六年も経た時に、広島を本拠地とする第五師団および歩兵第十一聯隊の「住民大量虐殺の陣中日誌発見」という新聞記事が掲載されたそうである。

(同書P三十三)

 防衛庁防衛研究所図書館に遺されていたという歩兵第十一聯隊第七中隊の陣中日誌の内容は

「治安粛清の命を受け支那人掃討を行い、昭和十七年三月の約三週間で計五百八十四人を刺殺、八月には銃殺も交えて八十人殺したと記録されている」というものであり、この後、第十一聯隊関係者への風当たりが強まったようである。

 これらは、高嶋伸欣筑波大学付属高校経論(一九九六年附属高校教員を退職し、琉球大学教育学部教授に就任。二〇〇八年、同大を停年退職。現在、同大名誉教授、非常勤講師)と、林博史関東学院大学講師(現経済学部教授)の二人が、日本側での裏付け資料を探しているうちに、林氏が見つけたものであるという。

 ちなみに、開戦記念日にこの共同通信配信記事を掲載しているのは地方紙のみであったが、翌年二月には、目出たく?全国紙に掲載される。

 全国紙初登場は当然、朝日新聞(一九八八年二月二十七日)

「日本軍のマレー華人虐殺・・・生存者が証言、資料集に」

その記事は、マレーシア華僑による資料集「日治時期森州華族蒙難資料」の作成経過については、「歴史教科書を侵略でなく進出に書き換えた教科書問題をきっかけに、ネグリセンビラン州の華人団体が『歴史の真実を後世に残さなければ』と聞き書きした」ものであると説明するに留まるが、

 この「日治時期森州華族蒙難資料」そのものにも、現地新聞(「南洋商報」一九八七年一二月二十五日)にも出版自体が高嶋氏、林氏の二人の供出金(全費用日本円で三六万円のうち、二六万円)により初めて可能であったと書かれているのに、朝日新聞は一切報道していない。

(同書P三十四〜五)

 そして、中島氏はたった三六万円の寄付も集まらないような写真集についても疑問をていしています。

同書に書かれていた内訳は

 高嶋氏、林氏二六万円(現地通貨として四千五百五十元)

ネグリセンビラン州の「虐殺生き残り華人」より千元、中華交友会、華人公会など、約二十口、それぞれ三百〜二十元の寄付に過ぎなかった。

 反日日本人二人から二六万円を除いて、一元が五十七円として、一番多くだした華僑が五万七千円、その他は一万七千円から千百円程度の寄付しか集まっていない出版物を我が国の全国紙は隠して報道しているのである。

 これらは、先に書いたように、南京大虐殺記念館が、日本社会党が建設費から資料まで提供し「作らせた」のと同じ構造により、我が国の反日グループとの連携によりこれらが問題化させられたのである。

 

 六千〜一〇万人とされる粛清とされた華人の数も支那人、朝鮮人が得意とするところの嘘八百であることが、中島氏の調査より解明されている。

 あと、この中島氏の著書には我が軍の仕業であるとされる「赤ん坊を放り投げて銃剣で串刺しにする」事についての検証もされている。

 これについては、林氏、朝日新聞との連係プレーとして、華人粛清数とともに改めて書かせていただきます。

ちなみに、

林博史氏は藤原彰氏、高嶋伸欣氏は家永三郎氏に師事している。

 売国奴の系列というものがよく判る例です。

日本の為にならない事だったらなんでもする腐れ売国奴ども


支那という強盗国家との付合い方

平成21年9月15日火曜日晴れのち雨 ×

 支那系日本人である石平氏の著書に<「日中友好」は日本を滅ぼす>(講談社+α新書 平成十七年刊)というのがあります。

 この著書の最終章には「日本および日本人へ贈る、三つの提言」として下記の事が書かれています。

提言一、

 冷やすべし、一億総熱狂の中国進出ブーム

提言二、

 構築すべし、距離感を持ったクールな日中関係

提言三、

 警戒すべし、「東アジア共同体」構想の落とし穴

 特に、「提言二」に書かれていた、一九七二年の国交回復以来、高らかに叫ばれてきた「日中友好」という言葉が、いかに嘘であるかという指摘は重要であると思います。

 石平氏は今振り返ってみて、「日中友好」時代とは一体何だったのだろうとして、下記のように書いています。

<中国にとってのこの三十数年間は、「黄金の時代」とも称すべき輝ける時代であった。

 様々な紆余曲折を経験しながらも、経済は未曾有の発展を遂げ、国力は飛躍的に向上した。三十年前と比べれば、中国の存在感は世界で格段に向上している。

 この三十年間、特に改革・開放の初期段階は、海外からの資金と技術を導入すること、すなわち経済立て直しの決めてであったが、主な供給源はいうまでもなく隣の経済大国、技術大国・日本であった。

 一九七八年にト小平が初来日して「隣の貧しい友人をよろしく」と頼んだのに対し、翌年訪中した大平首相はさっそく、円借款を含めた大掛かりな対中援助経済協力を発表したのである。それ以来、日本は累計で三兆円以上の経済協力を実施して来た。

(木下注 アジア開発銀行などの間接的な援助を含めれば六兆円以上である)

 世界の対中国経済協力の六割以上を占める日本からの援助は、経済発展の基盤となるインフラ整備を急いでいた中国の大きな助けとなったことはいうまでもない。

 中国が日本から得たものはそれだけではない。一九八九年の天安門事件以後、西側先進国から経済制裁を受けて孤立している中国に、助けの手を差しのべたのは他ならぬ日本である。

 各国に先駆けて交流や経済の制裁を解除し、先進国首脳のトップを切って訪中したのも日本の首相である。日本との関係回復によって、中国は国際社会「復帰」の糸口をつかんだのである。

 いってみれば、国交回復以来の日中関係は、中国にとっては「良い事づくし」とまで言わないものの、実に益多きものであった。「日中友好」という念仏のように繰り返すだけで、これほどの「御利益」があるとは。中国も予想していなかったであろう。

 しかし、にっぽんにとってのこの三十数年間の「日中友好」には何の意味があったというのか。

 「友好」が数十年叫ばれた結果、日本は中国人から好かれるようになったか、理解されるようになったかと問えば、答えは勿論「NO」である。

 いや、むしろ逆であろう。日本に対する中国人の憎悪が日に増して増大しているのは明らかである。

 朝野を挙げて「日中友好」に尽力し、侵略戦争の過去を償ってきた結果、日本は「歴史問題」という負の遺産を清算出来たか。

 過去の呪縛から解放されたのか。答えはまたしても「NO」である。

 二十一世紀を迎えた現在も「歴史問題」は依然として、中国が日本を叩くための有効な材料となっている。>

(<「日中友好」は日本を滅ぼす>P二百三〜二百五)

 

 支那の指導者であった反日・江沢民は「歴史問題は永遠に日本に言い続けろ」と言い、支那全土に反日記念館を建てているから、歴史問題が解決しないのは当たり前の事である。解決しない方が支那に取って、善意を信じる日本人に対して有力な外交上の武器となるからである。

 自分たちがどのような歴史を持って生きてきたかを学習しない、知ろうともしない厚顔無恥な支那、朝鮮のアホ留学生どもが、我が国のテレビなどで「百年でも二百年でも言い続ける」とほざくのである。

 そして、石平氏は下記のように結論付けています。

<日本は「日中友好」から一体何を得られたというのか。確かに中国との経済交流が拡大したことは、日本にとっても大きなメリットであろう。二〇〇四年、中国は日本にとって最大の輸入国となった。

 しかし、それは「友好」云々とは関係ない。商売とは、双方に有利なものだから成り立つのであって、「友好」とは全く別の世界である。

 アメリカも欧州も、中国との間に「○中友好」を喧伝せずとも、日本と同様、中国ビジネスを展開し、中国で儲かったり、損したりしている。

 「日中友好」が結果的に、日本に何のメリットをもたらしたのか。

 何も無い、と私は思う。

 そして「日中友好」時代が始まって三十年後の現在、日本に対してむしろ「不友好」な姿勢を鮮明にしている中国が「大国」として台頭してきていることだけが、まぎれも無い事実である。

 一九八〇年代以後の中国の台頭とは対照的に、「日中友好」が高らかに叫ばれたこの二十数年間は、日本にとって悪夢の時代であった。

 略)

 少なくとも国交が回復し「日中友好」が叫ばれて以来、日中関係も、日本の国内事情も悪くなる一方だというのは、まぎれもない事実である。

 さらに、戦前の歴史を振り返ってみれば、日本を戦争の道へと導いた指導者たちの多くが、「支那との結合」や「東亜同盟」を声高らかに唱えた、ある意味では「日中友好論者」であったことも、忘れてはいけない。

 戦前の「大東亜共栄圏」と戦後の「日中友好」は、正反対に見えながら、実は一脈通じるものなのである。どう考えても、日本にとって「日中友好」は有害でこそあれ、無用の長物であった。

 日本が今後も中国との交流関係を保ち、さらに協力関係を強化していかなければならない分野もあるだろう。

 しかし、「日中友好」というお題目には終止符を撃つべき時が来ている。

 「友好」もなければ「非友好」もなきう、いわば普通の国同士、ただの「日中関係」でよいのではないだろうか。>

<「日中友好」は日本を滅ぼす>P二〇六〜二〇七

 産経新聞の古森義久氏も「日中関係は「友好ごっこ」である。」と著書「日中友好のまぼろし」(小学館 平成十四年刊)に書いていますが、まさにそれ以外の何ものでもなく、反論出来る政治家はいるだろうか。

 

 これらは、今までの自民党政府の支那に対しての接し方、特に「友好第一」と靖國神社参拝を取りやめた中曽根康弘氏を始めとする歴代首相と、どういう形にしても靖國神社参拝を続けた小泉信一郎氏の時に支那関係がどうなったか考えればよく判ります。

我が国にとってどこか悪くなったところがあったか。

 逆に、その後の安倍晋三氏、「お友達の嫌がることをあなたしますか。国と国との関係も同じです」と言い切った福田康夫氏、麻生太郎氏が靖國神社参拝を取りやめ、支那関係が我が国にとり良くなったか。反日政策が変わったか。

南京大虐殺記念館がどうなったか。何も変わらないのです。

 

 「友愛」を掲げたドス黒い鳩山民主党政権に対しての指摘でもあると思います。

 まあ、鳩山政権の場合は確信犯でしょうけど。

 

 Oさん、Kさん来店。Hさん二名様で来店。Hさん六名様で来店。

 Sくん来店。マロさん来店。

 Oさんの御子息誕生ということで、アンドレ・クルエを開けて御祝い。

 ドンチャン。

 記憶はあったと思っていたが、いろいろ覚えていない事が山盛り。

 サル・・・・・・

 


 


支那という強盗厚顔無恥国家

9月14日月曜日晴れ ○

 中共支那は我が国の沖の島について「岩」とほざいているそうです。 以下産經新聞の記事より引用

 中国、日本の大陸棚拡張に反対 沖ノ鳥島は「岩」!

2009.9.13 00:55 【北京=野口東秀】

中国は日本が国連に申請している沖ノ鳥島(東京都小笠原村)を基点とした大陸棚の拡張について、同島は「岩」であり「日本の排他的経済水域(EEZ)には含まれない」と強硬に反対している。

背景には、日本が同島を対潜ヘリコプターなどの自衛隊機が離着陸できるように造成すれば、中国海軍の外洋戦略にとって障害になることへの懸念があるようだ。

 沖ノ鳥島は、周囲約10キロのサンゴ礁からなる日本最南端の無人島。満潮時には2つの小島が海面に出ているだけで、満潮時に海に隠れてしまうとEEZが失われる恐れがある。日本政府は周囲に防護壁を造るなどの保全策を取っている。

 日本は昨年11月、沖ノ鳥島を基点とした大陸棚の拡張を国連大陸棚限界委員会に申請。これが認められれば、沖ノ鳥島だけでも日本国土に相当する約42万平方キロメートルのEEZで日本の主権的権利を及ぼすことができ、石油や天然ガス、レアメタル(希少金属)などの埋蔵海底資源の採掘権を行使できる。

 これに対し、中国は同委員会に覚書を提出し、沖ノ鳥島について、国連海洋法条約で「大陸棚を持たない」と規定されている「人の居住または経済的生活を維持できない岩」と指摘、日本の大陸棚拡張申請を取り上げないよう求めた。

 中国は5、6年前から、沖ノ鳥島周辺に船舶を派遣し調査を実施してきた。目的は資源探査だけでなく、海底の地形や水分調査など潜水艦の航行に必要なデータ収集とみられている。最近では6月に、沖ノ鳥島付近の海域で中国海軍の艦艇5隻が軍事演習のような活動をしていたとされる。 中国の軍事関係者は「(日本の申請が認められれば)西太平洋で日本の勢力範囲が拡大する」と指摘した上で、沖ノ鳥島は米軍拠点の「グアム島に近い」と言及した。

 中国は、台湾有事などで米国の軍事介入に対抗するため、九州南方の東シナ海から台湾周辺海域までの「第1列島線」を制海権の防衛ラインとし、さらに外側の小笠原諸島とサイパン、グアム島を結ぶ「第2列島線」への進出を意図しているとみられている。  中国国防大学の張召忠教授は沖ノ鳥島について、「非常に重要な軍事戦略的位置にある。日本の技術があれば大きな島に改修し、航空機の離着陸ができるようにすることも可能だ」と懸念を示している。

引用終わり

   流石は強盗国家中共支那というべきでしょうか。

 >「非常に重要な軍事戦略的位置にある。日本の技術があれば大きな島に改修し、航空機の離着陸ができるようにすることも可能だ」と懸念を示している。

どの口で言っているのでしょうか。

 自分たちが米軍が撤退後にベトナム軍を追い出して軍事基地化した西砂諸島に続いて、同じく一九九七〜九八年に一方的に占拠し、領土だと言い張っているのは、南シナ海に浮かぶというか満潮時には完全に姿を隠す南沙(スプラトリー)諸島というより岩礁です。フィリピンのスービック海軍、クラーク空軍より米軍が撤退後の一九九二年以降、フィリピン政府の抗議 を無視し、高床式の兵舎を建て 占拠している。

 現在では、対空砲や対艦砲、ヘリポートが設置され、大型艦船停泊が可能な突堤も建設され耐久施設化されている。

 

 ちなみに、中共支那政府が南沙諸島海域だけでなく、南シナ海は同国の領海というより内海であり、 軍に「(同諸島周辺の)領海侵犯者を実力で退去させる権限」 を与え、外国艦船が同海域を通過するさいに中国の許可を必要 とすると一方的に宣言したのは、一九九二年二月の領海法を制定からである。

 中共支那の臆面も無い覇権主義について黄文雄氏は著書に下記のように書いています。

<中国には古来から、「中華思想」にもとづく伝統的な固有領土観がある。それは日本の持つ近代的国家観とはあまりにもかけ離れたものである。

 終戦直前のカイロ会談(一九四三年)を前に、蒋介石はアメリカのルーズベルト大統領に、朝鮮半島の返還を要求した。

 また、中華人民共和国の樹立後には「農奴解放」を口実にチベットを占領した(一九五〇年)。これも同じように、台湾は中国の領土であると主張し続けるのも、すべてこの「領土観」が元になっている。>

(「日本人が知らない中国『魔性国家』の正体」成甲書房 平成二十年刊 P二七)

 <これまでの歴史の中で、帝国主義に侵略され続けた中国は国境紛争があるたびに「失地回復」「主権防衛」を口にする。だが、一九七九年に起った中越(ベトナム)戦争にしても、「ベトナムが中国を侵略したから」という主張を信じるのは中国人だけだ。

 二千年以上の中華帝国の歴史を振り返っても、それは中国がベトナムを侵略した歴史であって、その逆ではない。

 略)

 また、毛沢東が自ら編纂したという「近代中国小史」という附図には、「帝国主義に奪われた中国の固有の領土」として、いろいろな国や地域を挙げている。

 いわく、パミール高原、ネパール、シッキム、ブータン、アッサム、ビルマ、タイ、ベトナム、台湾、ルス諸島、琉球、樺太、これらがすべて中国の領土だというのだ。>

(同書P二十八)

古典思想にもとづく貪欲な空想的領土観として

<あれほど広大な国土を持っている中国が、さらに国土を広げようとするのはなぜだろうか。

 それは「天下は王土に非ざるものなし」(世界中の土地はすべて中国のものである)という領土観によるのである。有史以来、中国はこの考えをもとに「発展」「拡大」を続けて来た。

 この領土観には「ここまでが中国だ」という国境の概念は無い。つまり中国は、単なる国家ではなく天下そのものだったのだ。>

(P二十九)

< 中国人はかって、モンゴル人や満州人に制服されていた歴史がある。にもかかわらずモンゴル人や満州人が最盛期に征服していた全ての領土まで「中国の神聖にして不可分な固有の領土」と主張して後世に伝えるのは、まさしく膨張主義に他ならない。

 もし、こんな主張が通るのであれば、現代のトルコも、バルカン半島やアラビア半島の領土も、かってイギリスが支配していたミャンマー、スリランカだけでなく、南アフリカやオーストラリアさえもインド領と主張できることになる。>

(同書P三一〜三二)

 これについては、高山正之氏もコレムで下記のように同様の事を指摘し書いている。

<英国の植民地インドが独立して、「人口の多さでインドこそ大英帝国の正当な後継者だ。宗主国英国もマレーもビルマも俺のものだ」というのと同じ事だ。>

(週刊新潮 「変見自在」平成二十年四月二十四日号 P一五八)

 

 そして、黄文雄氏は同書で

「中国という国は、戦争を避ける努力をするような国ではない。

 いかに戦争に勝つかということしか考えない国だ。

 だからこそ、国を挙げて軍拡、戦争準備に邁進している」

(同書P三五)と書き、

その後に米国国務省の報告として

「すでに中国軍は、日本やベトナムなど周辺国との領土問題や資源採掘権を巡る紛争に呼応した動きを見せている。将来的には中国の指導者は、こうした問題の解決のため、軍事的手段に訴える可能性は否定出来ないと考えている」(二〇〇五年アメリカ国務省の報告)

 と書いている。

 この南鳥島での中共支那政府の発言だけでなく、尖閣諸島における動きもこの黄文雄氏の言葉を裏付けるものである。

 

 我が国はこのような国家に対して、ODAを直接間接的に六兆円も出し、軍事化を助長して来たのです。

 我が国が中共支那を軍事大国としてきたのです。

 衆議院議長が横路氏だそうで、土井、河野と続いて来た売国奴路線はまだまだ強固なようで、中共支那も喜んでいるでしょう。

 結局は、今朝、明け方近くまであれやこれやとゴソゴソと本を引っ張りだして起きていたが、九時前に目が覚める。

 今日は、十一時頃に出かけ、銀行、ビックカメラ、古本屋とまわり帰宅。

 ビックカメラでは、電動歯ブラシ、単三電池及び充電器、L字金具などを購入。

 古本屋さんでは、日系二世部隊関係の本を探したが、今回は収穫なし。

 帰宅後は、ゴロゴロと本を読んで一日が終わる。

 酒は飲まず。


 




匿名報道基準

9月8日火曜日晴れ○

 ニュースの価値

 ネットで流される下記のようなニュースに価値があるのだろうか。

以下引用

所得隠し:ご神体販売で10億円 金沢国税局が宗教家摘発

 金沢国税局は、自分のDNA情報のチップを張り付けた置物をご神体として販売するなどして、約10億円の所得を隠していたとして、金沢市内の宗教家を摘発した。宗教法人としての活動を装った所得隠しとし、追徴税額は5億円を上回る見込み。 国税局などによると、宗教家は、病気が治るなどの触れ込みで自らのDNA情報を組み込んだチップをガラス柱に張り付けて1体100万円でご神体として信者に売ったほか、写真などを販売。買収交渉をしていた宗教法人名義の預金口座を振込先にしていた。

 国税局は非課税扱いとなる宗教法人の所得を装った宗教家の個人的な収入と認め、悪質な所得隠しと指摘した。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090907k0000e040017000c.html?inb=yt

(毎日jp 平成二十一年九月七日)

 これを見たら、金沢在住のごく限られた方だけが、この宗教法人及び、個人を特定出来るだろうが、それ以外の大部分の人は、どこのお寺さんか、どういう宗教法人か、なんという名前か判らないままであろう。

 個人情報保護法のせいかも知れぬが、くだらない事であると思う。

 ネットで少し検索し、「歓信寺」というお寺の名前が出て来た。

「DNAご神体」販売、10億円所得隠し

9月7日13時35分配信 読売新聞

 金沢市の宗教家の男性(62)が、ガラス製の置物を「ご神体」として販売して得た所得を申告しなかったとして、金沢国税局から約10億円の所得隠しを指摘されていたことが7日、わかった。

 重加算税を含め追徴税額は約5億3000万円に上るとみられる。男性は修正申告に応じているという。

 指摘されたのは、石川県白山市宮丸町の宗教法人「歓信寺」で代表役員を務める教祖の男性。ご神体は高さ約30センチのガラス製で、上部には男性のDNA情報が入った電子チップが張り付けられているとされ、教祖の身代わりとして信者に1体100万円で販売されていた。

 関係者によると、男性は2004〜06年の3年間に1100体を販売していた。

 宗教法人の事務局によると、男性は宗教法人の設立や買収を試みたものの、失敗し、08年6月に「歓信寺」を1000万円で買収した。ご神体の原価は4万5000円で、「値段は信者が決めた」としている。

 事務局は「実際に宗教活動を行っており、宗教法人を隠れみのにしたわけではない。税務署と見解の相違はあるが、修正申告に応じ、すでに追徴分の一部を納めた」と話している。

最終更新:9月7日13時35分

「歓信寺」と同じく検索したら、「河内哲」という人のホームページが出て来た。

http://www15.plala.or.jp/sessyou/index.html

あと、こんなホームページも出て来た。

http://www.geocities.jp/joybraverman/kawachi_akira/index.html

なぜ、一〇億円も脱税した人の名前を匿名にする必要があるのだろう。

 毎日jpでは同じ脱税でも、もっと少ない人の名前も晒している。

 宗教家ということで、こんなのを匿名にしているのだろうか。

 しかし、やっている事は、腐れヤクザが潰れた寺を買い取り、宗教法人を名乗るのと同じ手口だろう。

 

 

 あっ、この腐れ宗教を信じている人、

私に呪いを掛けてくださっても結構ですよ。

 どうぞ、どうぞ。

 あほらし

 Hさん来店。

 カトリーヌさんが「やっぱり、水曜日(明日)テーブル席は空いていないか」といらっしゃるが、残念ながら、明日に限って、テーブル席にご予約を頂いている。

 めちゃヒマ。

 さっさと寝る。

 



日系部隊の生い立ち、性格について

9月1日火曜日 ×

 昭和十七年(一九四二年)六月五日、ホノルル港を発った軍用輸送船マウイ号には、急遽、ハワイ国土防衛軍から切り離されハワイ緊急大隊と名付けられた日系部隊一四〇〇名が行き先も告げられないまま乗船していた

 マウイ号を見送ったの、急を聞いて駆けつけたヒロに住む数名の日系兵の妻たちだけであった。

 同じ頃、アキキニ港を発ったカウアイ島からの日系兵を見送ったのはたった一人、シュウキチ・サトウ軍曹の身重の妻だけであった。

 サトウ軍曹は数ヶ月後に生まれた息子を抱く事無く、一年半後、イタリアで戦死した。

 この日系部隊のハワイ出発については、地元の新聞・ラジオで報道される事はなかった。

 マウイ号は一週間後の六月十二日にサンフランシスコ湾のゴールデン・ゲイトをくぐったのち、オークランド港に入った。

 普通、大隊というものは連隊の下にあるものであり、連隊は第一大隊、第二大隊、第三大隊の三つの大隊からなるが、第百大隊にはその親となるべき連隊が無く、第一、第二、第三でもないオークランド上陸時点で付けられた正式名称「第百大隊」という他には無い名称自体がこの日系部隊の立場をよく現している。

 そして、三つのルートに分けられて着いたウィスコンシン州キャンプ・マッコイにおいて、初めての演習で第百大隊の兵が持たされたのは、木製のライフルであったという事実が、その当時、日系二世部隊の置かれていた状況を何よりも端的に現している。

 第百大隊の「ワン・ゼロ・ゼロ」を隊員たちは「ワン・プカ・プカ」と呼んでいた。

 プカとはハワイ語で穴のことである。

 

 第百大隊隊歌「ワン・プカ・プカの歌」(意訳)

われらワン・プカ・プカ戦闘隊

ハワイの島からやってきた

君らの為に戦うぞ

星条旗のもとで闘おう

行くぞ最前線へ

そしてホノルルへ帰るのだ。 ルルルルル

アンクル・サムの子 闘うぞ

命がけだよ 一生懸命だ

敵よ、われらの銃の前に来て逃げろ

第百大隊よ、道も開け、導け

イムアイー 戦え 戦え 戦え

イムアイー 戦え 戦え 戦え

パール・ハーバーからイタリア フランス

イムアイー 戦え 戦え 戦え

勝利の前進だ

頑張れ 我ら戦闘隊

(「ハワイ日系米兵」p九十八〜九十九)より

 第百大隊の兵の大半が高校卒である。大学へ入ったものがその十二%、大学をすでに終えていたものがさらに五%であった。

 また入隊時に受けなければならない知能テストで、大隊の知能指数は一〇三という数字が出ていた。

 一一〇以上だと士官学校行きである。普通なら将校になるべき兵が、第百大隊の兵卒の中には多数いたのである。(注一)

 そのため、平均年齢は二十四歳と、逆に普通の歩兵より上であるし、平均身長は百六十センチにもかかわらず、肉体的能力にはすばらしい能力を発揮した。

 その他、この第百大隊が優秀であったかをこのドウス・昌代氏の著書に書かれています。

 歩兵が分解携行する機関銃を組み立て、備え付けて射撃可能にできるかという米国陸軍マニュアルは十六秒であり、フォート・ベニングの士官候補生学校の生徒は平均十一秒かかっている。

 これに対して、キャンプ・マッコイにおいて行われたテストにおいて、第百大隊兵士の平均組み立て時間は、五秒という驚異的数字をだしている。(注二)

 橋本明氏の著書「棄民たちの戦場」には、この機関銃は二人で操るM1919A4と書いている。(P百三十五)

 米国で、一九一九年に開発された機関銃だからこの名前があるこの機関銃の場合、A4は戦車などに取り付け使用されるタイプであるから、A1かそれを軽量化したA2ではないだろうか。

 その場合、重機関銃とされた水冷式のM1917と違い、水冷式でないM1919A1もしくはA2については純粋な意味では重機関銃とは違い、軽中機関銃とされていたから「重機関銃」としたドウス昌代氏の記述も少し違うように思います。

 第百大隊は純粋な日系二世ばかりではない。

 ジェームズ・カホロクラ軍曹という父はハワイ人、母が日本人の兵士やカホロクラの弟エディのように母違いのため、日本の血は入っていないものもいた。

  その他にもカホロクラ兄弟の外に、カレイアロハ、ケアロハの姓を持つ者、日本姓でもハワイ人との混血が二十名程第百大隊にはいた。

 中国人、フィリッピン人、ポルトガル人などとの混血もいた。(注三)

 注一、「ブリエアの解放者たち」P四十

 注二、「ブリエアの解放者たち」P六十四


 

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