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飲んべえ日記平成20年6月分

6月30日月曜日晴れ ○
 午前中に銀行に行き、店の賃貸料、直送分の酒代、インポーターさんへのシャンパン代金などを振り込む。帰りに古本屋さんに寄る。今日、購入したのは「論座」の古本数冊、「復刻版 サンデー毎日 天皇の昭和史」、「世界」昭和二八年一〇月、「社会主義はどういう現実か」(大内兵衛著 岩波新書 昭和三一年刊)など。
 大内兵衛氏は経済学者で私の故郷である淡路島出身。高校の同級生の玉置のおじいちゃんなどと、その玉置の家の納屋で勉強していたそうだというのを飲んだ時に聞いたことがあります。一応、「進歩的文化人」とかいう如何わしい連中の元祖大御所として、今でもいろいろと名前の出ることもある郷土出身の「有名人」として数少ない一人です。この「社会主義はどういう現実か」は、大内氏にとっては「心の故郷」とでもいうべき支那とソ連を「日本学術会議」の視察団の一員として、昭和三〇年に訪問したときの日記をまとめたものですが、「社会主義を勉強して四〇年になるが(略)ここへ来て、いろいろと見学して見て、それが科学であることはしかとわかった」などと、今、読むとお笑いとしか思えない記述が山盛り。進歩的?文化人といわれた人の程度がよくわかります。流石は美濃部元都知事の師匠だけのことはあります。
 まあ、あの土井たか子女史も憲法学者だったそうですから、進歩的とかいうのはそんなもんなのでしょう。
 一〇〇円で、このお笑いネタを得ることができたのですから、安いものです。ちなみに昭和二八年刊の「世界」も、「MSAと再軍備」という特集のなかに「再びあの道を繰り返すな」と題した大内氏の論文が掲載されていましたので購入したものです。ソ連、支那の軍備は脅威ではないが、自由主義国陣営、我が国の軍備は脅威というなんともわかりやすい考え方の皆様。
 
6月29日日曜日雨 ○
 今日は朝からひどい雨ということもあり、スポーツセンターに行く気にもなれず、新宿でデジカメ、パソコンの備品などを購入後は部屋で本を読んで一日が終わる。
 昨日、昼食でおじゃました店の近所の洋食屋さんは、青大将が近所のお家の郵便ポストに首を突っ込んでいて、保険所に電話する騒ぎになったという話題で盛り上がっていた。

6月28日土曜日くもりのち雨 ○
 今日は河岸に行かず。
 夕方よりへべれけさんに今日もMacの事でず〜とお世話になる。Cさん二名様で来店。Sくん来店。Mさん来店。Kさん来店。マロさん来店。

6月27日金曜日晴れ ×××
 バンブーさん来店。杉前さん、大野さん、塩月さん来店。Tさん二名様で来店。Tさん三名様で来店。芍薬の蝶さん来店。Fさん二名様で来店。四連ちゃん・・・・
へべれけさんに夕方からMacの事でお世話になる。
 営業終了後、高円寺のイタ飯屋さん、中野の「石松」さんでドンチャン。
帰りは「石松」のマスターと電車で朝帰り。

6月26日木曜日晴れ ××
 築地から帰って来てから、金融公庫に出かける。帰りにMacBook Proを買ってしまう。
 二名様来店。二名様来店。Fさん二名様で来店。金ちゃん、マロさん来店。
ドンチャン。

6月25日水曜日晴れ ××
昨日のドンチャンの影響で、スポーツセンターに行くも元気なし。
 四名様来店。五名様来店。Wさん三名様で来店。Fさん三名様で来店。一名様来店。Tさん来店。
どういうわけか、メチャ忙しい。


田麗玉ハンナラ党議員と北海道新聞小田紘一郎氏
6月24日火曜日晴れ ×

 下記の記事は南朝鮮の国会議員
田麗玉女史の朝鮮人の狂牛病気狂いデモについての記事です。
以下引用
ハンナラ党、田麗玉議員は冷めることないキャンドル・デモの政局に対して「実際にもうかった国は日本」と言いました。略)「北京オリンピックを控えて、多くの国の選手が転地訓練をするために韓国ではなく日本を訪れる」と言う話を伝え聞いて「よほど悩み苦しんだ」と言いました。
 それとともに「韓国が牛肉問題で混乱するから、北京オリンピックに参加する多くの選手たちが日本で転地訓練をするようだ」と伝えました。
略)
 GOニュース(韓国語)[動画]チョン・ヨオク「キャンドルデモ楽しさは日本がノ悩み苦しんで」
http://gonews.freechal.com/common/result.asp?sFrstCode=012&sScndCode=001&sThrdCode=000&sCod
e=20080614133144360


 どうして、日本を世界各国のオリンピック参加選手の滞在場所に日本を選んだ事が、「実際にもうかった国は日本」となるのであろうか。流石は過去に日本で一番尊敬されているのは小原庄助だと書いた「日本はない」、我が国では「悲しい日本人」という題のアホな本をだしただけの朝鮮人女性のことはあります。
 こんなアホ朝鮮人女が書いた本の巻末に推薦文を書いている報道人がいます。その人の推薦文は下記のとおりだそうです。
以下引用
「田麗玉さんは人間を評価するのに職業や貧富の差、地位の高低に関係無く
公平な目を持っています。これは先天的なものでしょうが、言論人としては最も資質だと言えます。このような田麗玉さんに写った日本の女性。この本の中には日本人として反省しなければならない点をたくさん発見できますが、同時に日本人に対する暖かい配慮が感じられます。略)口さきだけで友好だの親善だのという人を私は信じません。日ロ関係はもちろん、日韓関係でもどれくらい多くの嘘が本当の『友好』を歪曲してきたでしょうか。うわべだけの言葉で、韓国と日本の関係を話すのはもう終わりにしなければならないのではないのでしょか。田麗玉氏が書いた本が、その率直さで語る最初の一歩になることを期待して信じています。田麗玉さん、がんばってください」
引用終わり
 「韓国反日小説の書き方」(野平俊水著 亜紀書房)p二八

 この文を書いた人は、この田麗玉女史の本が南朝鮮で発売された一九九三年当時、北海道新聞政治経済部長の職にあった小田紘一郎氏です。
 すばらしい文ですが、この
田麗玉女史がそれに値しない、単なるアホ朝鮮人女性だというのは以前に書きました。
 そのアホ朝鮮人女性を「
公平な目を持っています」「言論人としては最も資質だと言えます」「日本人に対する暖かい配慮が感じられます」と賞賛するアホ日本人小田紘一郎氏。
 そこまでほめるのであれば、どうして、その後、この田麗玉女史が我が国でこのアホな本の日本語版「悲しい日本人」(たま出版 一九九四年刊)を出した時にも日本人向けに推薦文(野平氏はちょうちん文と的確に書いておりますが)を書かなかったのでしょう。
ちなみに、この田麗玉という朝鮮人は盗作にて、この「悲しい日本人」を書いていますが、その事を裁判でも証明されています。
中央日報二〇〇七年七月一一日
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=89203&servcode=200&sectcode=200
 まあ、盗用した相手も、同じアホ本を出した
柳在順女史からというのは笑えますが。
  田麗玉女史、柳在順女史どちらも朝鮮人の恥さらしでしょうが、そんなアホ朝鮮人を絶賛するアホ日本人も多いのです。流石は腐れ北海道新聞。

 こんなアホが国会議員やってる国・・・・・まあ、我が国の国会議員も河野洋平などアホが多いから一緒か。

 今日は珍しく忙しい。Sさん来店。Yさん二名様で来店。長野の諏訪から二名様来店。御湖鶴の近藤さんの御紹介。Tさん来店。Fさんと○○さん(決めたんですが忘れた)来店。昨日から禁煙だそうな。成就お祈りいたします。Tさん来店。Oさん二名様で来店。二名様来店。
 こんなに忙しいと明日が心配・・・・
 でっ、早い時間からドンチャン。明日は河岸がお休みということで、営業終了後、高円寺のイタリアンでマルガリータさんと合流しドンチャン。隣のお店に移ってドンチャン。中野の「石松」にてドンチャン。朝、中野の立ち食いうどんを食ってから帰る・・・・・サル、猿、申・・・・・・


山拓のたたり?
6月23日月曜日晴れ ○

 午後より新宿の国民金融公庫に行く。帰りに新宿のデパート、「やまや」さんとかに寄ってみましたが、ワイン高い・・・・・
 自衛隊の宮城県からの撤収について、あのアホテロ朝のフルタチ氏の番組で、
「早過ぎた自衛隊撤収の裏」として、「宮城県知事は防衛大卒だ」と報道していたが、防大卒と今回の宮城県知事の決断と何が関係あるのだろう。流石はテロ朝。
 飛騨牛の偽装についてもやっていたが、一四カ月以上岐阜で育てられたものを「飛騨牛」というそうだが、この前に淡路島に帰った時に、同級生から淡路島からも全国に子牛が送られているという話になった。淡路島のこういうのもいろいろな産地牛になっているのでしょう。
 私はそのまま淡路島で育った淡路牛の方がいいが商売としてはそうもいかんのでしょう。

  今日買ってきた「論座」の古本を見ていたら、山拓氏がアホを曝していたので、それをネタに部屋のパソコン(iBOOKの中古品)で、今日の日記を書いていたら、いきなりパソコンの画面が真っ暗!スリープした状態になり、どうしょうもなくなる。
 これって、山拓氏の祟りでしょうか。


支那人の犯罪者とは
6月22日日曜日晴れ

 人殺しをした未成年の支那人が、再入国して空港で捕まったという下記のようなニュースがありました。
以下引用
手配の中国人少年を逮捕 神戸・男性強殺
6月21日22時56分配信?産経新聞
 神戸市東灘区住吉本町のマンションで先月、住人の無職、毛利義一さん(61)が殺害され、キャッシュカードが奪われた事件で、東灘署捜査本部は21日、強盗殺人の疑いで指名手配していた住所不定、無職の中国人の少年(19)を逮捕した。事件後、現場近くのコンビニエンスストアのATM(現金自動預払機)で毛利さんの口座から計百数十万円が引き出されており、捜査本部は少年の犯行とみて追及する。
 調べでは、少年は先月9日夜、毛利さん宅で、毛利さんの胸や首を包丁で刺すなどして殺害したうえ、キャッシュカード1枚を奪った疑い。「殺すつもりはなかった」と殺意を否認しているという。

 少年は事件発覚翌日の先月13日に中国へ帰国したが、捜査本部は現場に残された遺留物などから少年の犯行と断定して指名手配。その後、少年が再び日本に入国するとの情報が寄せられ、少年が関西国際空港から入国したところを逮捕した。
最終更新:6月21日22時56分

引用終わり
 このニュースで驚くのが、強盗殺人という重大犯罪を犯した未成年の支那人が平気でまた日本に来るという事です。人殺しをして無事?に自分の国に帰る事ができたのに、もういちどその犯罪を犯した国に来るとは、たとえ未成年であっても、支那人にとっては人殺しなどなんともないということなのでしょう。犯罪のためにまた日本に平気で来るという事です。

 支那人にとっては日本の刑法など屁みたいなものでしょう。刑務所に入っても、我が国の刑務所は支那の刑務所からみたらこれまた天国です。外国において、自国民と外国人と刑法が違う国があるというのを以前に読んだ事があります。我が国でも犯罪目的で来た外国人に対しての刑法を変えるべきです。

 今日は明日、金融公庫に出す書類作り。


6月21日土曜日雨○ 
 営業前にYASUYOさん来店。サルサと三味線のお稽古は続けているそうな。もう随分長く続けている。一名様来店。福岡からという御夫妻来店。
 ヒマですが、今日はある意味丁度よい・・・・・・

6月20日金曜日くもり×××
 山口県からFさん来店。今回は出張だそう。Hさん来店。初めてのお客様Hさん二名様で来店。同じく初めてのお客様三名様来店。こちらのお客様も昨日の五名様と同じく、飯屋さんと勘違い?されたようなお客様。Fさん、Fさんと来店。
 営業終了後、Fさんと飲んでいたのだが、途中から爆睡。

6月19日木曜日晴れ×××
 三名様来店。酔狂師さん来店。Fさん二名様で来店。メシ屋さんと勘違い?されたような五名様来店。ナベちゃん来店。Sくん二名様で来店。Nさん、K議員と来店。大学の先輩だそう。二名様来店。大台さん来店。YASUKOさん来店。
営業終了後、大台さんとYASUKOさんとで「エムズバー」さんに伺う。もう一件高円寺のイタリアンにハシゴ。

6月18日水曜日晴れ○
 メチャヒマ。Sさん三名様来店。

宮崎勤死刑執行
6月17日火曜日晴れ △

 あの宮崎勤の死刑が執行されたそうですが、平成元年七月に逮捕され平成一八年二月の死刑確定まで一八年弱、そして、死刑執行まで二年四ヶ月。逮捕から二〇年経ってやっと死刑が執行されたわけです。
 二〇年というと、被害者の御遺族の中にはすでにお亡くなりになったかたもいらっしゃるのではないかと思いますので、この死刑の事を知らずにお亡くなりになったことになります。このような犯人が確実で、間違いのない場合、もっと迅速な裁判、刑の執行ができなかったのでしょうか。
 何度も書いているように、我が国は加害者は手厚く扱われ、何から何まで至れり尽せりです。
 加害者は弁護士をつけて貰うことができる。もちろんタダというか税金です。 加害者の写真、氏名などはプライバシーの侵害や未成年とかいうことで、報道されない事もあるが、被害者は未成年であろうが実名も写真も曝されるのが普通です。加害者が在日朝鮮人であった場合は通名という「偽名」しか報道せずに、本名どころか在日朝鮮人ということも隠している朝日新聞のような「朝鮮人」の人権を大切にする新聞社であっても、被害者の実名は報道します。
 加害者は少年院、刑務所で衣食住を保証されています。そのうえ、病気治療もただです。タダで歯の治療も受けられるので、虫歯の治療まで済ませて出所できますので、本国の刑務所が地獄である支那人加害者などにとったら、我が国の刑務所は天国でしょう。
 そして、加害者は自分が起こした事件の時に傷を負ったら、国が治してくれるが、被害者はその加害者から受けた被害の治療も自腹です。 あの気狂い集団のオウム真理教が起こしたサリン事件による、その後の加害者と被害者、御遺族も例外ではありません。教祖の麻原の国選弁護団の中心だった安田好弘弁護士など、人権派などといわれる連中による引き延ばし戦術により、第一審判決が出るまでに八年近くかかりました。その結果、弁護士たちは四億円以上の報酬を得ています。もちろんすべて税金から支払われているわけです。被害者、御遺族は、刑事裁判の後に加害者に賠償を求める民事裁判の弁護士費用だけでなく、すべての裁判に出ようと思ったら、旅費、宿泊費などすべて自腹で出なければなりません。サリンによる後遺症の治療もリハビリ、介護などの諸費用もほとんどが自腹です。

 更生施設と位置付ける我が国の刑務所では、出所後の事を考えて、職業訓練から教育まで受けられる。そのため、未成年で人殺しをし、名前も公表されず、出所後、司法試験に合格し、弁護士をして優々と暮らしている犯罪者もいるそうです。

これも、以前に書いた事ですが、国家が被害者、御遺族から「報復権(復讐権)」を奪っているのだから、被害者よりも加害者が優遇されるというこのような歪んだシステムを正す必要があると思います。
「心神喪失と報復論」

 今日はヒマ。お風呂帰りのマロさん来店。SUMIEさん二名様で来店。
 飲むが今日は記憶あり。


隠れ・・・・・
6月16日月曜日晴れ ○

 午後よりスポーツセンターに行き、短時間だけ昨日できなかった箇所のメニューを消化。その後、店に寄り資源ゴミを出した後、立川の歯医者さんへ。今朝まで起きていたので、ついついウトウトしてしまい、マルガリータさんから「眠たいんでしょ」と指摘される。
 今、発売中の小学館の雑誌「SAPIO」に工藤美代子氏が「関東大震災『朝鮮人虐殺』」を連載しているが、中川八洋氏が自身の著書「亡国の『東アジア共同体』(北星堂刊)にて、工藤氏の著書「われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇」(日本経済新聞社刊)において描かれている近衛文麿に対しての批判および工藤氏自身についての指摘などをされている。私がまったく知らなかった事ばかりですので、いろいろと楽しみです。
 因に、中川氏は同じ著書で、最近、雑誌「諸君」などに、朝鮮の思想などについて批判的な論文などを発表している筑波大教授の古田博司氏についても面白い指摘をされています。二〇〇二年九月の小泉総理の訪朝により、北朝鮮による我が国同胞の拉致という国家犯罪が明らかになりましたが、古田氏は、それまで授業を始める前に必ずやっていた金日成の主体思想を讃える北朝鮮製の宣伝映画の上映をただちに打ち切ったそうです。この変わり身の早さついては、筑波大学の学生さんなどの証言があるとこれまた楽しいのですが、どうでしょう。

 帰宅途中、「ロフト」のスポーツ店に寄る。いろいろと楽しい品物が揃っている。チューブを購入。同じく文房具店にて方眼紙を購入。


水滸伝の料理
6月15日日曜日晴れ ○

 午後よりスポーツセンターに行くが、今日は体調、気力ともイマイチ。
 高殿馬場にある芳林堂さんにて「中国人の胃袋」などを購入。店に一度寄った後に帰宅。
 今日買ってきた「中国人の胃袋」(張競著 バジリコ株式会社刊)は、紹興酒に砂糖とは、自家製の紹興酒に砂糖を添えて、「もし、不味いようだとこの砂糖を入れて飲んでくれ」という意味で贈ったのが始まりであり、それは謙遜しているようにみえて、内心は自信満々の紹興酒だからこそだそうで、それが紹興酒に砂糖という風習だけ我が国に入ってきて、今だにそれを守っている店があるなど、いろいろと面白い事が記されていました。
 「天念記念物を食べる」と題したページでは、食べる事には支那人は驚くほどの想像力と行動力を発揮するとして、現在日本在住の著者が、上海で食事した時に、レストランの水槽に泳いでいたカブトガニを食した事を書いていましたが、我が国でも、私が商売をはじめた二二年前はまだ築地の市場には、生きたカブトガニやウミガメのたまごが売られていていました。私は「まじかい。こんなの売ってええのか?」と面白そうでしたが、著者のようにいまいち食う気にもなれず、流石に購入しませんでした。カブトガニは大きいのから小さいのまで売っていましたが、結構高かったように思います。(そういや、香港ではでっかいナポレオンフィッシュがレストランの水槽で泳いでいて食べられるのを待っていたのを思い出しました)
 この本にはその他にも、「チャウチャウの寄せ鍋」「黒アリの茶碗蒸し」「蛇のヒレ肉」など面白いというかなんとも言えない料理が出ていました。「食からみた中国の歴史」としてのひとつとして、水滸伝、金瓶梅の中に出てくる料理がいろいろと紹介されているが、水滸伝に普通に書かれている事がどういうわけか書かれていない。
それは人間が人間を食らうという「食人」の事です。
 私の部屋に三冊の支那に関する本があります。「中国食人史」(太田龍著 雷韻出版刊)、「食人宴席」(鄭義著 光文社刊)、「戦争の歴史 日本と中国」(黄文雄著 ワック刊)ですが、いずれの本も支那における食人というものについて書かれている箇所があります。
 「水滸伝に出てくる食生活はほぼ正確」と書き、宗、明の時代だろうと想像し、その肉料理について調理法法まで推測で詳しく書いているのですから、どうせだったら「食人」についても書いてほしかったです。せめて、水滸伝の舞台になったであろう宗の時代の「食人」について。我国の軍隊が支那人を(わざわざ支那の食べ物である)餃子にして食ったというような発想ができる国の食文化という背景についてもう少し詳しく書いてほしかったです。

 今日も帰宅して風呂にはいった後は、朝まで時間を気にしなくて、乱読でいろいろ本を読んで終わる。


二日酔いについて
6月14日土曜日晴れ △

 酒を飲んだ後におつき合い?としてある「二日酔い」。これについて、面白い記事が随分前に(四月二七日)の毎日新聞にありました。

 それによると、 二日酔いは、分解しきれなかったアセトアルデヒドが翌朝まで残っているためと考えられてきたが、アルコールそのものが残っている、低血糖状態、疲労、アルコールの離脱症状の四つが考えられているそうです。
 一般に、肝臓が大きいとアルコール分解速度が増すため、体の小さな人、女性は分解が遅い。加齢で「酒に弱くなった」と感じるのは、分解能力とは関係なく、アルコールが溶け込みにくい体脂肪が増え、体内のアルコール濃度が高まるため、同量でもひどい酔いになるというのです。
 つまり、体脂肪の増加が大敵だそう。
 あと、肝臓がアルコールの分解が忙しくなると、肝臓でのブドウ糖産生が抑制され、低血糖状態になり、それにより、脱力や動悸、思考力の低下などが起きるそうです。
 そして、二日酔い防止についても掲載されていましたが、
 「適量を知る」というのはともかくとして(私には無理!)、「低血糖を防ぐために食べながら飲むこと」や、「アルコールの分解を速める果糖が含まれる果物を食べること」は大変参考になりましたが、きっと、同じなんだろうな〜

 本日の最初のお客様は、ありがたいことに筑波からわざわざ御夫妻でいらしてくださった方。Hさん二名様で来店。ステファニーさんお母さまのローズ・ナオミさんと来店。HIROKOさん来店。一名様来店。遅い時間というか店の片付けをしている時にハマちゃん二名様で来店。
 今日は昨日というか今朝までの酒のおかげでいまいち。


辛淑玉女史の日本国籍取得2
6月13日金曜日晴れ ×××

 先日、購入しました「日本国籍を取りますか」(白井美友起著 新幹社)には辛淑玉女史と著者との間に、帰化について下記のようなやりとりがあります。
 辛さん自身は韓国籍のまま変えるつもりはありませんか?
 「
私は自分の生き方として、朝鮮人で生まれて朝鮮人で死んでいきたいと思っています。もっと、具体的に言うならば、朝鮮人で幸せだったと言って死んでいきたいのです。今の条件のままで幸せになるという選択を放棄したくない、という思いもあります。」
 韓国籍のままで幸せになる、ということですね。
 「そうです。
国籍をわざわざ変える必要が自分の中にはありませんし、これからもっともっと豊かな日本社会を築いていこうという時に国籍を変えてしまうのは、この社会の多様性を否定することでしょう。私は、多様性のある社会作りに挑戦したいのです。
 「日本国籍を取りますか?」(新幹社)P132

 辛淑玉女史はこのように「朝鮮人で生まれて朝鮮人で死んでいきたい」と思っているそうで、「国籍をわざわざ変える必要が自分の中にはありません」「国籍を変えてしまうのは、この社会の多様性を否定することでしょう」とまで言っております。

 このように書く辛淑玉女史の帰化申請のウソについては過去の日記に浅川晃広氏の著書よりの引用などにより書きましたが、浅川氏もその著書で引用されている「福島瑞穂の新世紀対談」(明石書店)が、先日、古本屋さんで入手できましたので、改めて引用、追記したく思います。それによると辛淑玉女史は福島みずほ女史との対談で下記のように述べております。
 以下引用
辛「
私は帰化申請を何回かしたことがあるのよ。私が民族にこだわっているんじゃなくて、法務省が私を嫌いなの(笑)。
福島「帰化申請ってすごく大変じゃない。」
辛「おカネがないと帰化できない。それからルールじゃないんだよ。決められた条件をクリアしているんじゃなくて、法務大臣の裁量権なのよ。私も、すみません、これでお願いしますと、弁護士と一緒にいったわけ。そしたら『お名前は当用漢字にあるなかから使ってください』
『辛も淑も玉もありますからこれでどうでしょうか』といったら、「シンスゴという読み方は朝鮮的です』「じゃあシンシュクギョク、カラシヨシタマ、なんでも結構です』といったわけ。そしたら『いや、もっと日本人らしい名前をつけてくれ』と言うので、『でも、いまあなたは当用漢字にある名前だったらいいといいましたよね』
 そしたら目の前でババッと全部しまって、ポーンと立ったの。それで私の顔を見て、『あなたは帰化して良き日本人になろうとする意思が見られません』と言うわけ。
 福島「『良き日本人』というのが入るのよね。」
 辛「結局必要な申請書類も全部くれなかった。そのときにものすごくセクシャル・ハラスメントがあるんだよね。韓国の女性は偽装結婚が多いとか。
 あと、自分の家がないといけない。おカネがあってもだめなんだ。家、土地があって、もう一つは会社を経営していると、自分の会社が五年間継続して黒字でないといけないとか、いろんな条件が付く。それでいて一家単位なの。それから最後に警察の地域社会に対する聞き込み調査があるわけ。もう、なんでもやってくれるよね。
 申請書類をもらえるまでが大変で、もらってからも大変なんだけれども、結局もらえなかったので、そのまま法務省から出たわけ。そしたらうちの弁護士がパーンと私の頭を叩いて、『あれほど言ったでしょ。お上に逆らっちゃいけないって』。いま思えば、行く前にちゃんとレクチャーをして行っったわけ(笑)。こういうふうに衿をちゃんとして、紺と白の服できちんとした形で『ハイ』とか言ってやれ、と言われていたのよ(笑)。でも・・・・。
 福島「地が出たんだね」
 辛「うん、やっぱり頭にきちゃうもん。すごい苦しいよ。その基準でやって、いま日本の国民で国籍持っているやつが、何人日本人になれる?なれないと思うよ。
 福島「日本の国の負担になっちゃいけないんだ」
 
 辛淑玉女史は、何と、自身の体験を国会において厚かましくも参考人として下記のように開陳しています。
 以下引用
 これは法務省に行った時の話ですが、
私は帰化したいと思いました。というのは、百万回帰化したいと思うのですね。それから、帰化した私の周りの朝鮮人たちは威張るんですね。おれは帰化ができる人間だみたいな。結局、自分をそこいらにいる朝鮮人とは違うんだよということを誇りにしたいのかも知れません。
 引用終わり
(一九九九年八月三日、国会衆議院法務委員会議事録第二六号、十六頁)

 この発言のコロコロ変わる様はどうしたのでしょう。まあ、いくら息をするようにウソをつくとまで言われている朝鮮人でも醜いものです。流石は在日朝鮮人の恥さらし辛淑玉女史の面目躍如といったところでしょうか。それに賛同する福島瑞穂議員の頭の程度が良く現れています。

  Kさん三名様で来店。三名様来店。Tさん来店。Sくん二名様で来店。Hさん来店。Fさん来店。チヒロさん来店。Yさん来店。
 営業終了後Fさんと「エムズバー」「石松」とハシゴ。ドンチャン。

池田ダイサク氏の人生
6月12日木曜日雨のち晴れ ×××

 池田ダイサク(代作?大作?)氏について創価学会のホームページは下記のように書いています。
以下引用 
 昭和3年(1928年)1月2日。池田名誉会長は、東京・大森で海苔製造業を営む家の、8人きょうだいの5男として生まれた。
 父・子之吉は、寡黙な人。一本気で頑固だが、お人よしで面倒見のよい一面もあった。周囲からは強情さまモと呼ばれ、筋を通す父であった。
母・一(いち)は快活で明るく、働き者。父がリュウマチを発病し、家業が傾いたときにも「うちは貧乏の横綱だ」と明るく言うような、芯の強い女性だった。「人に迷惑をかけるな。ウソをつくな」と、口ぐせのように言う以外、子どもらの好きにさせ、叱るようなことはめったになかった。
 戦争が始まると、4人の兄は次々に出兵。病に伏していた父に代わり、懸命に一家を支えた。
昭和20年(1945年)5月の空襲は、一家を直撃。弟と二人で必死に長持を一つ持ち出した。一家の唯一の財産となった長持を開けると、雛飾りとコウモリ傘が一本入っていただけだった。家族が落胆するなかで母は言った「このお雛様が飾れるような家にきっとまた住めるようになるよ」
 剛毅な父と、明るく優しい母のもとで過ごした少年時代は、厳しい時代のなかにも、明るく、温かなものだった。
SOKANETより
http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/achievements/biography_06/index2.html

 そして、機関紙である聖教新聞には下記のように掲載されています。
以下引用
「もともと東京の蒲田区(現・大田区)麹谷三丁目の二階建ての屋敷に住んでいた。
 広い敷地には鯉や鮒が泳ぐ大きな池があり、楓や桜、さらにイチジクやザクロも植えられていた。
 とんぼ捕りなど、幼き日の楽しい思い出が光るこの家も、昭和一三年(三八年)、兄たちの出征と相前後して人手に渡り、軍需工場へと変わった。
 略)
 麹谷二丁目に移り住んだ立派な家も、東京大空襲の後、空襲の類焼を防ぐために取り壊されることが決まり、強制疎開させられた。そこで、当時、田園が広がる大森区(現・大田区)馬込のおばの家に、一棟建て増しさせてもらい、移り住むことになった。
 五月二四日。新しい家ができあがり、荷物もリヤカーで運び終え、あすから皆で暮らせるというその夜のことだった。
 「落っこちた!落っこちた!」と、防空壕の皆が騒ぎ始めた。
 無情なる空襲によって焼夷弾が、我が家に命中した。完成したばかりの我が家は全焼してしまったのである。父と母は人生をかけて築き上げてきた大切な幸福の城を、戦争はことごとく破壊してしまった。
 なんとか運び出した長持ちに入っていたのは、たくさんの「ひな人形」だった。それでも、「このおひなさまがかざれるような家に、きっと住めるようになるよ」と皆をはげましてくれる母の明るさが、我が家の希望の光りとなった。」
引用終わり
平成一九年八月二〇日気狂い新聞(通名聖教新聞)第三面

 同じ紙面に「小学校五年生の私も、海苔製造業の家業を手伝い、六年生からは新聞配達も始めた」と書いています。二年間京城にいた父親はやり手の海苔製造業者だったようです。

 ホームページと聖教新聞の紙面からわかる事は、父親は明治の末か大正の初めの二年間、韓国のソウルに滞在していた事があり、海苔製造業で蒲田区(現・大田区)麹谷三丁目の「広い敷地には鯉や鮒が泳ぐ大きな池があり、楓や桜、さらにイチジクやザクロも植えられていた二階建ての屋敷」で、その父親がリュウマチを発病し、家業が傾いた。その病に伏していた父親に代わり、懸命に一家を支えた。でっ、移り住んだ「立派な家」も強制疎開により取り壊され、「父と母は人生をかけて築き上げてきた大切な幸福の城を、戦争はことごとく破壊してしまった。」と戦争によりすべてを失ってしまったということらしいのです。
 まあ、生まれた家がどうだこうだというのはその本人と関係のない話でしょうから、どうでもいい事なのですが、下記のようなお話もあるようです。
 地元に残る数少ない小学校時代の同級生によると
「昭和一七年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は四組にいました。略)それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものです」
(「創価学会とは何か」(新潮社)p一五七)

 これも、まあ、どうでもいいことですけど。

 聖教新聞の同じ紙面に、池田氏の出征し支那から帰還したお兄さんの言葉として、<「日本軍はひどすぎる。あれでは中国の人たちが、あまりにも、かわいそうだ」>
 そして、ソウルに二年間滞在した事のある父親の言葉として、<「どうして日本人は、こんなに威張りくさって、傲慢なんだ。あんないい人たちを、苛めて、苛めて、苛め抜いて、日本はなんという国か!」と怒りを込めて語っていた。>。撃墜され、パラシュートで脱出し逮捕されたアメリカ兵の事を心配した心優しき母親の言葉として<「かわいそうに!かわいそうに!!かわいそうに!その人のお母さんは、どんなに心配していることだろうね」と言っていた。>と支那、朝鮮、米国の国民を心配する池田氏の心優しき聖人のような家族の事が掲載されています。
 そして、同じ紙面で、池田氏は世の指導者を峻別する、絶対に譲れない基準として「軍部権力と戦ったか、どうか。この一点であった」と述べています。
 過去に池田氏が永遠の友情を誓いあったパナマの指導者であるノリエガ将軍。ルーマニアのチャウシェスク大統領だけでなく、共産党独裁国家である支那についての池田氏の姿勢はどうなのでしょう。
 ここしばらくの聖教新聞は、池田氏が胡錦濤と会った事(胡錦濤と再会と書いてます)が大きな話題でした。胡錦濤はチベットの人々を弾圧した功績により出世しました。
 なによりも支那人民軍は共産党の軍隊であり、国軍ではありません。つまり、軍部権力そのものなのです。軍部権力そのものの代表である胡錦濤が軍部権力と戦えるはずもなく、そんな支那の指導者を称えるこの創価学会の指導者である池田ダイサクという御仁の如何わしさ。
 そんな如何わしい池田ダイサク氏を神のように崇め奉っているアホとしかいいようのない創価学会信者。
 アホは死ぬまで治らんのでしょうな。

 Fさん二名様で来店。二十日間、酒を飲まなかった満願?の日ということでFさんがお祝?にぐい飲みを持ってきてくださる。ありがとうございました。早速、解禁開けということでそのぐい飲みでドンチャン。解禁開けの酒は初亀の出品酒。マロさん来店。Kさん来店。一名様来店。
 営業終了後、「エムズバー」そして高円寺のイタリアンでドンチャン。

記憶無し・・・・・サル



天に唾する池田ダイサク氏
6月11日水曜日くもり ○20日め

 「総門私物化」、「東京 渋谷 世田谷に合計三〇数億円の豪邸」「今度は都心に時価二億円の物件」
 これらは、聖教新聞二〇年五月一二日の聖教新聞の見出しです。
 そして、「またもや日顕一味が大豪遊」「一泊三〇万以上一人七万円の高級料理」
 これも、六月二日の同じく聖教新聞の見出しです。
 対談内容はどちらも創価学会と敵対関係にある宗教団体「日蓮正宗」に対してのもので、いつものことながら激しい罵倒に終始しています。
 いずれも日蓮正宗という宗教界のトップについての事ですが、では、創価学会のイダイ?な指導者?である池田ダイサク氏はどうなのでしょう。

 <池田大作氏は「年一回しか使わぬ専用保養施設を全国に一〇〇ケ所あまり持ち、異常に多額な財務(お布施)を集め、大石寺に反学会系の売店があれば、訪れるたびに数珠一〇〇本、ヨウカン二〇〇本を買い、昭和四三年に開設された創価学園の前の鮨屋が反学会的だとわかると、毎日何十人分もの鮨を買った>
 「お笑い創価学会」(テリー伊藤 佐高信著 光文社)p47〜48

 <池田大作は、どれくらいの個人資産をもっているのだろうか。
 個人資産を知る手がかりは法人所得と同じく、所轄の税務署が公表してきた長者番付である。ここ数年、池田は毎年一億二千万〜三千万円を納税してきた。逆算すると、その収入は三億五千万円程度にはなるだろう。
略)
 また、唯一確認できる池田の個人資産は、信濃町・創価学会村の北側に位置する私邸。敷地は約四六二平方メートル、瓦葺きの木造二階建ての建物で、土地家屋とも池田個人の所有物である。>
 「池田大作なき後の創価学会」(宝島社)P119

 これだけだと池田氏個人の私邸は以外と質素と思えるが、同じ本に下記のような記述があります。
 <創価学会に造反し、公明党を離党した大橋敏雄衆議員議員の一通の質問注意書(八八年九月二日)だった。以下はその要旨である。
 ?学会は「財務」、「広布基金」、「特別財務」の寄付とは別に、名誉会長の就任祝い、その他の名目で国会議員や地方議員、学会本部職員などからその都度多額の金銭を集めている。これら贈与金に係る課税上の有無を明示せよ。
 ?全国に会館や研修所などの施設が数百あるが、その主要施設には例外なく『池田専用施設』が設けられている。これは池田の個人使用に供されるものだから、維持運営費には贈与税がかかるが、どうか。
 このような専用施設は、学会員はもとより学会幹部といえども容易に入室は許されず、池田の個人使用に供されている。その種類、取得年度、不動産取得税及び特別土地保有税の過去五年間の課税状況について調査のうえ明示を求める。>(同書p121〜122)

 創価学会において、池田ダイサク氏は名誉職にすぎない。その名誉職にすぎない池田氏のための専用施設が各地にある。他の宗教に対して厳しい指摘をしているが、これを創価学会はどう答えるのであろうか。
 宿泊費、食事の事などもでているが、私などは、どっちもどっちというか、目屎鼻糞だろうと思うが、アホのスケールだと流石は池田「ダイサク」ダイセンセイ、絶対に勝ってますよ!
 でも、天に唾するとはまさにこういう事ではないだろうか。

 今日は河岸が休みなので、午後から国民金融公庫に寄った後にスポーツセンターへ。今日もスロートレーニング。

 Sさん来店。Oさん二名様で来店。二名様来店。Kさん来店。ANNNAさん、Iさん四名様で来店。
 今日も飲まず。二〇日め。

池田ダイサク氏とピアノ
6月10日火曜日晴れ ○19日め

 四月三〇日水曜日版の聖教新聞には、一九九五年の写真として池田ダイサク(大作?代作?)氏がピアノを演奏する場面が掲載されています。
 さすがは池田氏。超人的としかいえない膨大な著作物。そしてプロ級の絵画、写真だけでなくピアノ演奏までするそうです。
 池田氏はいつ寝ているのでしょう。まさに超人(棒読み)

 ところで、一九六九年の東京オリンピックの開催されたその年に池田氏の面接で学会本部に入り、その後、芸術部書記長、文化本部副書記長などを歴任してきた小多仁伯氏はその著書『池田大作の品格 万乗の君あらず』(日新報道)の出版記念パーティー(三月一二日)で下記のような事を言っているそうです。
 「彼(池田会長)は神格化を演出するために、ある全体会議のとき、1000名以上の信者の前でおもむろにグランドピアノを演奏した。『荒城の月』『月光の曲』などを完璧に演奏し、万雷の拍手を浴びました。でも実際は、その当時できたばかりの自動ピアノ演奏に合わせて指を動かしていただけ」

 それ以外にも、
 <また、池田氏はよく会員の前でピアノを弾くが、これも鍵盤を叩くだけで、実際には自動演奏のピアノだったり、うしろからメロディーを流しているだけだそうだ>
(「創価学会とは何か」(山田直樹 新潮社)p一六六)

 このようにピアノ演奏ひとつだけでもいろいろな人から話題になる池田ダイサクダイセンセイ。すばらし〜
 さすがはコンプレックスの塊。富士短期大学を中退し消費者金融・大倉商事で金貸の手代をやったのちに二〇年近くも経ってから、卒論を桐村という教学部の幹部にダイサク(代作?大作)させてまで卒業しただけ事はあります。
(「創価学会とは何か」p一六七に掲載された元創価学会幹部・原島嵩氏の証言より)

 こういった慎み深さ、謙虚、奥ゆかしさなどという本来日本人が普通に持っているであろう美徳といわれるものと乖離した人間。
日本人らしさを微塵も持ち合わせない、日本人とはとうてい思えない人間である池田ダイサク(代作?大作)氏を神のように敬うとは御奇特な方もいるものです。
 あほかいな

 ちなみに、写真は先日、聖教新聞に掲載されたその池田「ダイサク」ダイセンセイのピアノ演奏の貴重なお写真でございます。まあ、この写真が池田ダイサクダイセンセイの自動演奏ピアノでの演奏かどうか定かではありません。悪しからず。スキャナーも故障のため、携帯電話で写したので、映像が見辛い。

 河岸から帰ってきて仕込みをしていると、先日、連絡のあったガス器具などのガス漏れについての点検のため東京ガスの人が来てくれる。
 Sくん来店。Fさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。KAZUMIさん三名様で来店。
 今日も飲まず。一九日め。




6月9日月曜日雨のち一時晴れ ○18日め
 今日は午後より銀行、店に寄った後に立川の歯医者さんにお世話になる。帰りはいつもの古本屋さんに寄る。今日は「遥かサハリン島」「写真 大空のサムライ」などとともに「もっとしっかり、日本人」という永六輔氏の著書を購入。
 この人は、辛淑玉女史との対談本「日本人対朝鮮人」(光文社)などという本も出したり、「七つの子」は強制連行された朝鮮人の歌だといってみたり「靖国の母っていうのは、息子を戦死させた母親でしょう。 その母親たちが戦争反対運動をしたのかと思ったら、してないんですね。 息子を殺されて、戦争反対を叫ばない母親たちがいたんですねェ。不気味な言葉ですね、靖国の母って」〔『無名人名語録』 永六輔一九八七年〕などと発言している人ですが、この「もっとしっかり、日本人」にも「『在日』という言葉」として、下記のような事が書かれています。
<一世の方の多くは、日本名を名乗らせれて強制連行されてこの国にやってきた皆さんです。>p六一
 一九九三年、平成五年に出された本ですが、在日朝鮮人のウソをそのまままき散らしているというなんとも醜い記述です。
 強制連行されてきたのなら、戦争が終われば帰るはずが居着いているのは変だと思わないのでしょうか。朝鮮に生活基盤がたった数年で無くなるはずがありません。あの犯罪国家の腐れ北朝鮮に拉致された皆様は二〇年以上も経ち我が祖国に帰ってこられました。それが、たった数年で帰れなくなるなどという事はなく、朝鮮半島が嫌で、我が国に居着く事が目的で密入国までしてきた連中とその子孫が今の在日朝鮮人のほとんどです。
 朝鮮人は愛国を叫びながらも、戦前からみるとず〜と裕福な今でも我が国に密入国までしてこようとするのはどういうわけでしょう。イヤなら来なければいいことですし、さっさと帰ればいい事です。
 
 あと、この本には<その朝鮮半島も、南北に分かれておりまして、皆さんの気持ちの中には祖国統一ということがあります。>と書いてあったが、本当に祖国統一を願っているのなら、同一民族でありながら、なぜこんなに長い間分断されたままなのでしょう。歴史的に北と南には差別など存在せず、同胞意識をやってきたのでしょうか。
まあ、どうでもいいことですけど。

 今日も飲まず。一八日目。


駆逐艦「雷」
6月8日日曜日晴れ ○17日目

 駆逐艦「雷」が救助した英国海軍仕官が、恵龍之介氏などの助力により、恩人である工藤俊作中佐の墓参りに来日されるというニュースが今日の産経新聞に掲載されていました。
 以下引用
 太平洋戦争はじめ、インドネシア沖で漂流中、旧日本海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」に救助された元英海軍士官が、当時の艦長行動に感謝し、墓参のため7月にも来日する。
 来日するのは元英海軍中尉、サムエル・フォール卿(89)。戦後、英外務省に勤務し、駐スウェーデン大使などを歴任した。
 フォール卿は、昭和17年3月、スラバヤ沖海戦で、乗り込んでいた軍艦が日本海軍に撃沈され、約450人の乗員とともに24時間近く海上で漂流した。参戦した雷は艦長の工藤俊作中佐の号令で、全乗員が救助にあたった。感謝したフォール卿は、工藤艦長をたたえる講演を続けながら、消息を探してきた。
 来日したフォール卿と知り合った元自衛官で作家の恵隆之介さん(54)が調査。工藤艦長は妻、かよさんと2人暮らしで昭和54年に77歳で他界、2人の墓が埼玉県川口市内にあることが判明した。存命する雷の士官では、ただ1人確認できた元航海長の谷川清澄さん(92)=静岡県在住=が戦後も工藤艦長と親交を続けていたことが分かった。
 フォール卿は「元気なうちに艦長の墓参りをし、関係者に礼を言いたい」と再来日を決意。谷川さんとの対面も楽しみにしているという。
 恵さんは「フォール卿が話さなければ、雷の英雄的な行動は歴史の闇に消えていた。艦長や乗員の行動は日英間の新たな友情のきずなとなるはず」と指摘。乗員の慰霊・顕彰碑建立のための事務局「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」を立ち上げ、フォール卿の来日と墓前祭の実現を呼びかけている。問い合わせは(電)090・8839・3783。
引用終わり
 
 この恵氏の著書「敵兵を救助せよ」(草思社)については、このホームページで紹介させていただきましたが、フォール卿の来日と墓前祭が無事執り行なわれる事を願ってやまない。(
工藤俊作中佐

 午後よりスポーツセンターに行く。今日は昨日できなかった肩、腕、下半身と有酸素運動でたっぷりと三時間。
 写真は高田馬場からスポーツセンターに行く途中にある無駄に列んでいる自動販売機。本当に無駄としかいいようがない。
 
 部屋に帰り、風呂に入った後は今日も時間を気にせずに本を読んでゴロゴロして終わる。


6月7日土曜日晴れ ○16日め
 冷蔵庫の一つを片付ける。

綾菊 

大吟醸秘蔵古々酒 (香川県)
 1974年2月醸造 1989年2月発売限定150本(720ml)  
地元のオオセトを酒米として使って何度も鑑評会で金賞をとっている蔵元さんの古酒。この酒も酒いわしや時代からの生き残りです。残りは2本になりました。いま綾菊さんから出ている古酒は500mlの瓶に入っています。

 綾菊 大吟醸古酒 500ml
 1980年 金賞受賞酒 平成7年出荷
 1981年 金賞受賞酒 平成8年出荷
 1984年 金賞受賞酒 平成8年出荷
 1986年 金賞受賞酒 平成8年出荷
 1989年 金賞受賞酒 平成8年出荷
 1991年 金賞受賞酒 平成8年出荷
 1993年 金賞受賞酒 平成8年出荷
大英勇 

吟醸 (栃木県)
 昭和49年醸造(1974年) 昭和61年1月出荷

 大英勇 

吟醸 (栃木県)
 昭和53年醸造(1978年) 昭和61年1月出荷
美少年

 蔵囲い二十年秘蔵古酒
 昭和45年醸造(1970年) 本醸造 1990年出荷 旨いかどうかは別にして20年古酒として発売された酒を当店の冷蔵庫に寝かせていたものです。
秀よし 

金色ひょうたんボトル (秋田県)
 昭和54年〜昭和59年醸造(1984年)古酒をブレンドし、平成元年ごろに出荷されたボトルです。今の状態は飲んでいませんのでわかりません。

 古酒に関しては、個体差、開けるタイミングなどいろいろ条件があるでしょうから、開けてみないと何ともいえません。そして、何よりも人それぞれの好みがあるでしょうし。

 午後よりスポーツセンターに行く。今日はベンチプレスなど上半身の胸部、背中のみ。今日も五秒で上げて、五秒で下げるスロートレーニング。

 Iさん二名様で来店。一名様来店。MAXさん来店。一名様来店。Yさん来店。一名様来店。マロさん来店。
今日も飲まず。一六日め

無惨
6月6日金曜日晴れ ○15日め

 河岸に行く地下鉄に今日は冷房が入っていた。
 午後、仕込みを終えて「よしや」さんに買い物に行く途中、赤城神社を通るとなんか、違う!

なにか変・・・・・・・・・

鳥居さんがない!

ありました。跡が・・・・・・

そして、無惨な鳥居さんが、

 境内には明治三九年に建立されたという陸軍大将大山巌元帥筆による日露戦争のりっぱな昭魂碑があったが、それも取り除かれていた。

 境内にある神輿を納めてあるこれらの建物はすべて壊され、神輿はなんと新しいマンションの地下に納められるそうである。神様を足で踏んづけるわけです。

 神社にもうひとつある鳥居さんに通ずる雑草だらけの石段が、赤来神社の現状をよく現している。

 今日、偶然、境内にて顔見知りの年輩の方とお会いし、いろいろと話しをさせていただいた。私のような他所者ではなく、ここで生まれ育った方だが、「赤来神社なんて、もう祭りなんかしなくてもいいんじゃないの」という言葉が心に残った。

 バンブーさん来店。Sさん来店。初めてのお客様三名様来店。ビールだけのお客様お断りと言ったのだが、通じなかったようで。KAZUMIさん、HIROKOさん、MIKIKOさん来店。大台さん来店。ステファニーさん二名様で来店。Kさん来店。
 今日も飲まず。一五日め


6月5日木曜日雨 ○14日め
 今日はメチャヒマというより今年初めてのお茶っぴき。
 去年は三回ありましたけど・・・・・
 飲まず。十四日め。


6月4日水曜日晴れ ○13日め

今日は河岸が休みなので、午後から銀座で開かれている北村さゆりさんの個展に行く。北村さんは、村松友視さんの短編「あかぎ坂」の挿し絵を書かれた方。手土産はグラシアン。あいにく北村さんはお仕事でお会いできず。その後、高田馬場のスポーツセンターに行く。今日もスロートレーニング。少しだけ筋力がもどってきたようです。

 一名様来店。三名様来店。二名様来店。大台さん来店。
飲まず。

 

6月3日火曜日雨 ○12日め
雨の時は傘をさすので、河岸での仕入れた後の荷物を持つのが大変。

 神楽坂の「よしや」さんにて買い物。果物は何でも好きですが、とくに柑橘類。その中でもデコポンが大好きなので、今日も三パック、九個を購入。大きいのは一個で四八〇円もするのでパス。マンゴスチンが出ていたので購入。随分前にタイで食べたのが最初。酒たまねぎやを昭和六十一年に早稲田で開いたころいらしてくださっていたお客様の高橋さんが、その後、単身タイに渡り、孤軍奮闘していたバンコクに遊びに行った時だったが、久しくお会いしてないがお元気だろうか。

 Sさん二名様で来店。Nさん二名様で来店。Fさん二名様で来店。
 飲まず。一二日め。


6月2日月曜日くもり ○11日目
 今日の産経新聞に、台湾の大使館にあたる台北駐日経済文化代表処で代表を四年近く努めた許世楷氏の送別会が、一日に安部晋三前首相や櫻井よし子氏ら八〇〇人が参加し、都内のホテルで開かれたというニュースがありました。
 許大使の夫人は「私の中のよき日本」などの著書のある廬千恵氏。独立運動を率いた許氏は国民党政権ににらまれ、我が国に留学後、三三年間台湾に戻れず、早稲田大学で修士課程、東京大学で博士課程を修了後、津田塾大で教壇に立っていたそうです。
 許氏ご夫妻との対談が、雑誌「正論」の二〇〇五年八月号に掲載されていました。許氏は一九五九年に当時の文部省よりの奨学金にて来日し、一九六一年に前年に国際基督教大学を卒業した廬夫人と結婚したそうです。
 そして、台湾独立運動に参加したことにより、許氏はパスポート没収第一号になったそうで、そして、日本からの強制的に出国させられる可能性があったそうです。その時、ご夫妻には二人の子供はいらっしゃったそうですが、童謡作家の阪田寛氏は「子供は預かるから、君たちは地下へ潜っても大丈夫だよ」。作曲家の服部公一氏は「北海道に家があるから、そこで隠れていてもよい」と言ってくれたそうで多くの人々に支えられたという事が書かれています。
 台湾に一九九二年一〇月に帰る事ができたときには、お二人の御両親はお亡くなりになっていた。そして、その時に廬夫人は御両親が準備してくださった嫁入り道具を初めて見ることができたそうです。

 この台湾という我が国にとって大切な国との絆が弱くなって来ている。一九七二年より三〇年以上国交断絶状態にありながら、我が国と多方面で繋がっていたのは五〇年間の日本としての統治によるものですが、それが今後も保証されるものではありません。我が国は支那に異常に気を使っていますが、もっと、この大切な国とのつながりを大切にすべきです。

 午後より、店によった後に立川の歯医者さんにお世話になる。
 帰りに古本屋さんに寄ったら、「青丘」(一九九六年)などを購入。この「青丘」という朝鮮関係の季刊誌は高橋宗司氏の論文など電波満載。あと、「戦争と性 韓国で慰安婦と向き合う」(かもがわ出版)などこれも電波満載本を購入。本日は大漁。

 飲まず。一一日目。


6月1日日曜日晴れ ○10日目
 店を片付けて、午後より高田馬場に出て食事をした後に、芳林堂さんに寄り数冊購入後、スポーツセンターに行く。昨日できなかったメニューを消化。今日は時間がたっぷりあるので、いろいろと普段出来ないメニューをこなし、ジムに三時間近くいた。一旦、店に寄り帰宅。
 帰宅後、雑誌を持ち込み長い風呂に入る。その後は、ジーパン二本の修理をした後は朝まで本を読んでいた。
 飲まず。一〇日目。

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