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飲んべえ日記平成19年10月

10月31日水曜日晴れ
 Yさん二名様で来店。Oさん来店。フィッシャーさん二名様で来店。Kさん@ソウルさん来店。タカさん@浜松さん来店。
 飲む。ドンチャン。


マオリ戦士の首
10月30日火曜日晴れ ○

 先日下記のようなニュースがありました。
以下引用
<マオリ戦士の首>故郷NZへの返還に仏政府が「待った」
10月27日18時40分配信?毎日新聞
 【パリ福井聡】フランス北部ルーアン市が、自然史博物館所蔵の「マオリ(ニュージーランドの先住民族)戦士の首」をニュージーランドに返還しようとしたところ、「事前に相談がなかった。勝手に返還するのはまかりならん」と仏政府が「待った」をかけた。
 同博物館は24日、返還協定を在仏ニュージーランド大使館と結んだ。しかし、アルバネル仏文化相が返還停止を求める行政訴訟を起こし、裁判所は協定締結前日の23日、返還停止を命じた。このため、返還協定締結にもかかわらず、首は当面、フランスにとどまることになった。

 返還が停止されたのは、顔の表面に入れ墨が施されたマオリ戦士ミイラの首。1875年に同博物館に寄贈され、96年まで一般展示されていた。同博物館は10年間の改築を経て今年再オープン。これを機にルーアン市側は「異文化と人間の尊厳への敬意を示すべきだ」(アルベルティーニ市長)、「忌むべき前世紀の密売史を閉じるべきだ」(同博物館館長)と返還を決めた。
 同博物館によると、
西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。ニュージーランド側は「遺体の尊厳を守りたい」と92年に返還を呼びかけ、これまでに数カ国が応じてきた。
 仏文化省の顧問弁護士は「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」と警戒、マオリの首数点を所蔵するパリのケ・ブランリー博物館も返還には慎重な姿勢を示している。
最終更新:10月27日18時40分
引用終わり

 「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」

なんという醜い言い種でしょう。

<西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。>
 白人というものが、どのような人種であったかということがよく現されているニュースです。

 ニュージーランドのことではありませんが、オーストラリアにおけるアボリジニの運命も同じです。
 一七一七年から一七七六年の間、約四万人の囚人がイギリスからアメリカの植民地に送り込まれている。囚人はイギリスの監獄から船主たちに売り渡され、新大陸に到着すると今度はプランターへと転売された。それが、アメリカの独立戦争により崩壊した。アメリカがイギリスの囚人を受け入れなくなったのです。
 そのため、イギリスは行き場のなくなった流刑判決の囚人たちをテムズ川や軍港の牢獄船に収容し、公共事業などにその労働力を利用しようとしたが、年々増える流刑囚により収容しきれなくなり、オーストラリアに囚人を送り込む事となった。一七八八年一月二五日にシドニー湾に到着した一一隻の船団にて送り込まれた囚人の数は史料により男性五六三〜五六八人、女性一八九〜一九二人、合計七五二〜七五九人と異なるそうです。囚人の男と女の比率が四対一という事はどういう結果を招くか。囚人の男達は原住民であるアボリジニの女性を性欲のために強姦した。
 オーストラリアは流刑植民地であったために、流刑者だけでなく、一八〇〇年代になっての一般植民者も多く入植してくるようになる。オーストラリア人にそのルーツを尋ねると、ほとんどは一八〇〇年代にオーストラリアに来たと答えるそうであるが、つまり、わが家の祖先は囚人ではないと言っていることなのです。ところが、この一八〇〇年代の入植者とは本国にいる事の出来ない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。
 
 これらの白人が、オーストラリアの原住民であるアボリジニの人々に対してどのような感覚を持って接してきたかが手元にある「オーストラリアの歴史」(藤川隆男著 朝日新聞社刊 朝日選書四〇七 一九九五年)に書かれています。それによると、
 <イギリス政府は、アボリジニを文明人とは見なさなかった。イギリス法上では、タスマニアは征服されたのではなく、発見と植民により獲得された領土であり、そこに住むアボリジニは、市民権のないイギリス臣民として取り扱われた。タスマニア全島はいまやイギリス国王の所有地であり、征服された国民としての権利さえ失ったアボリジニの土地を守る戦いは、単なる犯罪行為に過ぎなかった。
 「アボリジニはイギリス法の保護の下にある」との宣言が副総督によってしばしばなされたが、実際に保護の手が彼らに差しのべられたことはなかった。イギリス法はアボリジニを殺す権利があるということの偽善的な言い方に過ぎなかったのである>p二九〜三〇
<「アボリジニを民族として把え、その一般的な進歩やそれが習得した事物を比較考量してみると、たとえ野蛮人の間においてさえも、彼らは確実に極めて低い地位にいる。彼らはおそらく、ホッテントットや寒風吹きすさぶマゼラン海峡に住む部族と順位争いをするのがせいぜいで、繊細なアフリカ人や忍耐強く用心深いアメリカ人や、優美で臆病な南海の島の住民と較べれば非常に見劣りがする。・・・・これほど文明から懸け離れた状態はほとんどないと主張できるだろう」
「自然状態は、崇高な研究や無限の推論をすることができる存在の幸福を増進するには、最も適さないものである。荒野の中の獲物を求めてさまよい歩く野蛮人は、我々の本性を堕落させ、苦しめるすべての感情によって醜悪な姿となった生き物である」>(シドニーの最初の四年間)士官ワトキン・テンチ)p四七〜四八

 これらはどういう事か。アボリジニを人間として見ていなかったのです。その結果、下記のような悲劇が起こされる事になる。
以下引用
 <一八二六年一一月、副総督アーサーは、入植者たちの強い要求に押されてアボリジニを武力で追い払う権利を彼らに与え、必要ならば軍隊による支援を行なうと宣言した。『コロニアル・タイムズ』紙によれば、これはアボリジニに対する公式の宣戦布告にほかならなかった。
 略)
 一八二九年一一月一日、副総督アーサーは定住地にいるアボリジニに対して戒厳令を布告した。これによって、理由のいかんを問わず、ヨーロッパ人がアボリジニを射殺しても起訴されない法的根拠が与えられたのである。ここににアボリジニに対する絶滅戦争は最終局面を迎える。戒厳令とともに、定住地に残るアボリジニを掃討するための小規模な遠征隊が組織され、内陸部へ分け入ってアボリジニを捕獲あるいは射殺する任についた。一八二八年から三〇年にかけて、遠征隊によって殺されたアボリジニの数は約六〇、捕えられた者は約二〇人と報告されている。
 略)
 彼の部隊(ジョン・バットマン率いる遠征隊)はペントモンド山の東側の斜面でアボリジニのキャンプ地を発見した。バットマンは奇襲攻撃かけようとしたが、銃が暴発したのでこれに失敗し、逃げるアボリジニに銃を乱射して、逃げ遅れた子供と女一人を捕らえただけでに終わった。しかし、農場への帰途で「幸運にも」彼は二人の傷ついたアボリジニを発見する。この二人の男は歩けなかったので殺さざるをえなかった、とバットマンは述べた。バットマンは遠征の功績を認められ、二〇〇〇エーカーの土地を副総督アーサーから与えられた。彼は後にこれを売って七五〇ポンドの利益を得た。人間狩りには十分すぎるほどの報酬であろう。>p五三〜五四

 <ヴァン・ディーメンズ・ランド会社に雇われた牧羊夫たちは、アボリジニの女性を誘拐した。これを取り戻そうとしたアボリジニは、牧羊夫に攻撃をしかけ一人の男に重傷を負わせたが、逆にこの攻撃のリーダーだった人物も殺される。アボリジニは、再度報復の為に二〇〇フィートの岸から三〇頭の羊を追い落とした。これに対し四人の牧羊夫は、アボリジニの部族に奇襲攻撃をかけて三〇人を虐殺して、同じ崖から突き落としたのである。この崖はこの時の戦功を記念して「勝利の丘」と呼ばれるようになった>p五四〜五五

 <一八二九年の冬に、アーサーは定住地域に残るアボリジニの数を約二〇〇〇人と見積もっていたが、実際には一〇〇人にも満たなかった。それにもかかわらず、アボリジニの抵抗は弱まらなかった。
略)
 一八三〇年、アーサーは定住地に残るアボリジニを完全に相当する作戦を決定した。この作戦は地図のラインから出発して、アボリジニを捕らえるか殺しながら徐々に南に追い詰め、最終的にタスマン半島に追い込むことを目的としていた。
 一〇月七日、約二〇〇〇人の兵士、囚人、自由人が長大な人間の鎖を造って、アボリジニを南へ追い立てる作戦が始まった。カンガルー猟を思い越させる人間の鎖は「ブラックライン」として語り継がれていく。彼らは一〇〇〇丁の銃と三万発の弾丸、三〇〇の手錠を用意して、七週間にわたって作戦を継続した。しかし、この作戦で捕えられたアボリジニは二人しかおらず、ほかに二人を射殺しただけに終わった。当時の人々は、この作戦を大失敗であると批判したが、実はほぼ完全な成功を収めていたのである。アボリジニが二人しか捕獲できなかったのは、入植者の予想に反してアボリジニがもはやほとんど生存していなかったからであった。>p五六
 
 これは、今回のマオリ戦士の首の話と共通するもので白人というものをよく現す例です。
 オーストラリアでは二〇世紀になっても獲物としてのアボリジニ二狩りは行なわれていました。
<ニューサウスウエールズ州の国会図書館所蔵の日記には『一九二八年、今日の収穫、ウサギとアボリジニ二七人・・・・」という記述があった>(「残酷な楽園」莱獸学著より)私の引用は「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂)p一七三より

 当然のことながら有色人種差別を制度化して白豪主義をとり続けていたオーストラリアでは、辛うじて生き残ったアボリジニの人々は、一九六〇年代までオーストラリア国民としてさえ認められていなかったのです。
この項続く 


 河岸にてレインボーレッドというキウイ購入したが、近所の「よしや」さんというスーパーマーケット(ここの社長さんも時々来店してくださる)で売っていた同じキウイの方が一パック一五〇円も安かった。スーパーマーケットは厳しい価格競争にさらされている。河岸もある意味の古い体質からの脱却が必要と思う。
 活けアンコウを購入。
 龍星さん、大学時代からの親友というIさんと来店。Fさん、Eさんと来店。アンコウ鍋でドンチャン。マロさん二名様で来店。Eさん来店。
 ドンチャン。記憶無し・・・・・・


長谷川酒店東京エキナカ
10月29日月曜日晴れ △

 昼ごろに長谷川酒店さんに電話をすると社長は東京モーターショウにいっているそうな。でっ、夕方に長谷川さんより電話あり。東京駅の中に最近というか先週オープンしたばかりのお店に蔵元さんたちといるそうな。
ということで、初めて東京駅にできたエキナカへ。
 きれいなお店で、当たり前だけど人通りも多く大にぎわい。
 その後、私は一度店に寄り荷物を置いて、店に置いてあった長谷川さんへの開店祝いのワインを持って、長谷川さん、東洋美人の澄川専務、伯楽星の新澤専務と六本木「酒友」にて合流。
 写真はドンチャンのため写す余裕なし。
 一応、その日のうちに無事帰宅。・・・・・・めずらしい。
 

ライム
10月28日日曜日晴れ ○

 店を片付けた後にスポーツセンターに行く。
 帰宅後、部屋でテレビを見ていたらテキーラ村の事をやっていた。相変わらず「リモン」の事を「ライム」「ライム」と言っていた。日本のバーでテキーラを注文した時にライムがついてくるが、それはリモンがほとんど入手できない日本では仕方ない事だと思うが、取材でわざわざハリスコ州のテキーラ村まで行っているのだから、「リモン」と発音しているものをライムという事はないと思う。(少しはメキシカンライムという名前で輸入されているそうだが)テキーラと一緒に山盛りで出される果実は向こうでは「リモン」と言われている果実で、香もあきらかに日本で出回っているライムとは違うもので、大きさはスダチほど。ライムとの共通点は形が丸いのと緑っぽいだけしか思い浮かばない。
 まあ、日本ではしゃーないと思うが、取材時ぐらいはもう少しまともな取材をやってほしいものです。
 テキーラ村に行ってただ飲んでいただけというような内容の腐れ番組でした。

小春ちゃん
10月27日土曜日大雨 ○

 
台風の影響で、大雨。当然、めちゃヒマ。ETUKOさん来店。
 いろいろと仕込みなどしながら、一日が終わる。
 ところで、写真はよく買ってくる当店ではお馴染みの茨城の「小春ちゃん」という美味しいトマト。
でも、なんか・・・・ひょうたん型。
 食べたら味は普通に小春ちゃんでした。当たり前ですけど。

歴史の共有?
10月26日金曜日雨××

 昨日の南朝鮮の記事です。
以下引用
日帝, 伊藤博文追慕はがき発行した
韓国日報 | 記事入力 2007-10-25 18:33
26日安重根義士ハルビン義挙 98周年
安意思崇慕回が公開
中国ハルビン(哈氏?)駅で安重根義士が暗殺した伊藤博文を追慕するために日本で発行したはがきが公開された.

安重根義士崇慕回が中医者義挙 98周年(26日)に合わせて公開したヨブでは日本郵政局が1910年代発行したことでハルビン駅構内の全景を盛っている. はがきには伊藤の暗殺を‘遭難’ (遭難: 航海やなどで災難を出会い)と表記, 追慕の意味をはっきりと明らかにしているし五人の男が駅プラットホームに立って伊藤博文の被殺地点を表示している.

安重根義士崇慕回関係者は “侵略元凶を審判したことをまるで英雄の崇高な死のように美化するために日本から記念はがきまで発行したという事実に怒りを隠すことができない”と“日本の侵略根性を広く知らせるためにこのはがきを公開した”と明らかにした.

一方崇慕回は全国雄弁大会(26日, 安重根義士記念館), 特別写真展示会(11月1~3日,漢陽大), 記念音楽会(11月2日, 瑞草文化芸術会館) など多様な追悼行事を開く.

引用終わり
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=038&article_id=0000405064 (朝鮮語)

 自分勝手な理由をこじつけ、我が国の偉大な政治家である伊藤博文公を暗殺したテロリスト安重根に対して、当時の朝鮮の世論がどのような反応をみせたか。そして、そんなバカテロリストに我が国は法治国家としてどのような対応をしたか。
 
世界で一番間抜けな朝鮮人テロリスト安重根

 今日は、このテロリストにより我が国の偉大な政治家のひとりであった伊藤博文公が支那のハルピンで暗殺された日です。
 そのようなアホテロリストを英雄とする朝鮮。そんな国と歴史の共有などできるはずがない。(テロリストしか英雄がいない??)

 バンブーさん来店。香港からHIME、先輩のマレーシアのエルサさん、妹さん、ボーイフレンド、お友達の方など大勢様来店。マルガリータさん、Sさん来店。Uさん四名様で来店。ケイザブロウさん二名様で来店。
 HIMEのお誕生日祝いということで、HIMEも大好きで、今月末にシャンパーニュの蔵元を訪れる予定という「アルフレッド・グラシアン キュヴェ・パラディ」のマグナムを開けてみなさんでお祝。エルサさんも妹さん、ボーイフレンドもお刺身が大好きだそうで、マグロ、ウニ、カワハギをおかわり。今日飲んだお酒では「磯自慢愛山」「磯自慢35%」「初亀 出品酒」「東一 出品酒」がお気に入りだったそうな。
遅くまでドンチャン。

 写真は随分前にいらしてくださったグラシアンのオーナーですが、大ヨッパライでこの写真を写した記憶がない・・・・・


蔵元さん来店。
10月25日木曜日くもり ×

 今日、東京駅のエキナカに長谷川酒店東京駅店がオープン。
 夕方、舍泉の山田社長から電話あり。六名様来店。
 磯自慢の寺岡社長、初亀の橋本社長、美丈夫濱川社長、松の司の松瀬社長。雑賀の雑賀社長。
 でっ、ヒマなので早い時間からいろんなお酒を開けてドンチャン。
 Kくん二名様で来店。


ボジョレーヌーボー
10月24日水曜日晴れ ×
 
今年もあの「お祭り」であるボジョレーヌーボーの予約についてのメールなどが酒屋さんから届く時期になりました。
ちなみに今年は一一月一五日の木曜日だそうです。
当店は・・・当然な〜んにもイベントはありません。
 しかし、メールのワインについての「世界最高」「気絶するほど美味し〜い」「最高の作り手」「奇跡」「門外不出」「超激安旨ロマネコンティ」などというコピーはなんとかならんのでしょうか。
 今回も、ある酒屋さんからいただいた中に、「門外不出」?だそうなワインを<ビジネスのためでもなく、自己表現のためだけでもなく、神様のためにワインを造る・・・世界でたった一軒だけの
そんな修道院のワインを御紹介させて頂く使命を、何故か私共が仰せ付かることになったのか・・・何か運命のようなものを感じ、感謝の気持ちと共に、身の引き締まる思いがいたします>と紹介していましたが、
何か違和感ありあり。

一番高いのが「一万九千八百円」・・・私はりっぱにビジネスになっているように思います。

 河岸が休みなので、店を片付けた後にスポーツセンターにいく。日曜日に行こうと思いながら行きそびれたので、二週間ぶり。
 ベンチでのウエイトがメチャ重く感じる。また明日あっちこっち痛いんだろうな。

 初めてのお客様二名様来店。Sくん来店。初めての客様Kさん二名様で来店。マロさん来店。Yさん三名様で来店。初めてのお客様Sさん来店。
ドンチャン。


シベリア抑留2 北朝鮮への移送による悲劇
10月23日火曜日晴れ △

 ソビエトによる違法強制収容がおこなわれた日本人軍民のうちシベリアにおいて、重労働に耐えられないとみられた病弱者は、劣悪な環境の満州などの収容所に送り返され、多くの方が命を落としました。
 このうち北朝鮮に送り返された日本軍人などについては平成一七年になって、ロシア軍事古文書館(モスクワ)からモスクワの日本大使館 に資料が提供されたというニュースが随分前にありました。
以下引用
シベリア抑留、北朝鮮に2万7千人移送…露が資料提供
 【モスクワ=五十嵐弘一】モスクワの日本大使館は31日、ロシア軍事古文書館(モスクワ)から同大使館 にこのほど、第二次大戦後にシベリアで抑留された日本軍将兵らのうち、当時のソ連から北朝鮮に移送された人に関する資料が提供された、と発表した。
 シベリア抑留者が北朝鮮に移送されたことが公式に確認されたのは初めて。
 資料の正確な内容は現時点では不明だが、同軍事古文書館の説明によると、ロシア語で書かれた約2万7000人の名簿が含まれていた。
 北朝鮮に移送されたのは「労働力とみなされなくなった人々」とみられ、病人、けが人、栄養失調者などが対象となったとみられる。移送は、船や鉄道などで、終戦翌年の1946年(昭和21年)春ごろから始まった可能性があるという。
 厚生労働省によると、シベリア抑留者は約57万5000人で、うち47万3000人が日本に帰還、抑留中に死亡した人が5万5000人、旧満州・北朝鮮に移送された人が4万7000人とみられている。旧満州・北朝鮮への移送者のうち相当数が行方不明となっている。
産経新聞平成一七年四月一日
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050401i211.htm
引用終わり

同じく
以下引用
北朝鮮に送られたシベリア抑留者たち
今年、ロシア国立軍事アーカイブから、日本政府に、シベリアから北朝鮮に移送された抑留者27,755人の名簿が渡された。ロシアが抑留者の名簿を公開するのは、1991年ゴルバチョフ訪日の際に渡された38,00 0人の名簿以来14年ぶりのことだ。この名簿によって、シベリア抑留者の一部が北朝鮮に移送させられていた事実が初めて明らかになった。さらに軍事アーカイブからはスターリンの北朝鮮への移送命令書が発見された。それによれば、スターリンは1946年4月「病弱になった抑留者を選別し、5月25日から8月20日
の間に北朝鮮へ移送するように」と命じていた。当時、ソ連は、極東開発、特に第2シベリア鉄道の建設に労働力が必要となり、屈強な抑留者をバイカル湖付近に集めていた。その際、収容所ごとに病弱者のみを選別し、北朝鮮へ移送しようとしたのだ。

北朝鮮に送られた抑留者には過酷な運命が待ち受けていた。今まで一度もその体験を話すことはなかった
北朝鮮からの帰還者たちも名簿公開を機に、初めて厳しい体験を語り始めた。中川清さんによれば、ピョンヤン郊外のサムハプニ収容所では、強制労働に従事する中で、6,000人のうち1,000人が死亡、コレラで一度に300人が亡くなったこともあったという。また、橋詰正雄さんがいたチョンジン収容所では、日本人は屋外に寝かされ毎日10人以上が死んでいったという。「私たちは満州で捨てられ、ソビエトに捨てられ、二度にわたって捨てられた。あまりに過酷な生活で家族にも語ったことはなかった。北朝鮮には、今も亡くなった仲間たちの遺骨が多く眠っているが、墓参のすべもないことが心痛い」と橋本さんは語る。
厚労省によれば、シベリア抑留者57万5千人にうち帰国した人は47万3千人、現地での死亡5万5千人で、残る4万7千人が消息不明だった。今回明らかになった北朝鮮へ移送された2万7千人はその消息不明者たちと推測されている。さらに、北朝鮮からの日本への帰還者は47年末までに大体終了したとされているが、その時1263人の抑留者が現地に残ったとされている。その消息はいまだ不明である。
番組では、今回初めてロシアのアーカイブから公開される北朝鮮移送関連文書や、抑留者たちが語る北朝鮮での抑留の詳細から戦後60年間、謎とされていた抑留者の北朝鮮移送の真相に迫る。
引用終わり
NHK教育 ETV特集 平成一七年一〇月二二日
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2005/1022.html

 この違法行為である醜い強制連行についての謝罪、補償などは厚顔無恥な当時のソ連はもちろん北朝鮮は何も言っていません。日本に対して五月蝿く言っている嘘つき朝鮮人とその先兵となっている反日日本人はこのような事はどう思っているのでしょう。
 現在日本にいる朝鮮人は、ほとんどが戦前、戦後に日本に職を求めてきた者およびその子孫です。不法入国してまで我が国に殺到したのです。それは平和な現在も続いています。朝鮮人の密入国数、不法滞在数の多さがそれの何よりの証明です。強制連行という言葉は朝鮮人には当てはまりません。
 「強制連行された」という言葉は先人が悲惨な目にあった我々日本人こそソ連、朝鮮に対して言うべき言葉なのです。

 今日は初めてのお客様Oさん三名様来店。のみ。
明日は河岸が月二回の休みということで、ドンチャン。

日中韓文化交流フォーラム
10月22日月曜日晴れ ○

 「グローバル化時代における東アジア3国の文化交流のあり方を探る」とかで、日中韓文化交流フォーラムとかが開かれたというニュースが読売新聞に掲載されていましたが、そのパネリストというのが、日本からは売国奴の平山郁夫氏、朝鮮からは金容雲氏だそうです。
 パネリストのひとりである金容雲氏は手元にある「醜い韓国人が醜い日本人に応える」(林永春著、萎求栄訳)というどうしようもないアホな本に序文を書いています。
以下引用
 私はこれまで、日本人の歴史観というかその意識の貧弱さ、身勝手さをいく度となく繰り返し発言してきた。それは、日本人が本来的に歴史という厳粛な事実にうといのではなく、既成のエスタブリッシュメント(体制)の操作による結果だと訴えてきた。既成の体制は「学校教科書」などを通じて、日本人を歴史観の希薄で身勝手な人間に仕立ててきたのである。
引用終わり
 お前らがなと思わず言いたいこの序文だけで、金容雲氏という朝鮮人の程度がよく分りますが、この序文を書いた本を出版した会社というのは、売国奴であり職業詐欺師の吉田清治の「私の戦争犯罪」を出版した三一書房です。
 この金容雲氏の著書「韓国人と日本人」(サイマル出版)には、下記のような記述があります。
<伝統的に、韓国は日本に対して防衛しか考えていなかった。万葉の詩人さえ、韓国侵略を夢みていたころ、新羅の詩人たちの関心は、いかにしてそれら倭人を防ごうかということにあった。
略)これほど侵略され続けながらも、一度もこちらから侵略しなかったのは、その風土の条件によるものであろう。
 しかも、韓国は、ひきつづき文化的な文物だけを日本に流している。なんとも不公平な交流もあったものである。>P二六七〜二六九
 そして下記のように二つの国の特徴を書いています。
? 韓国 日本
政治 統一しやすい 統一しにくい
意識 平等主義 階級主義
歴史 民衆中心 支配者中心
基本意識 傲気・待つ心 アッサリ・参った
価値体系 人乃天、天乃人 上=神
文化 筆(士=ソンビ)

朱子学

自然主義

文中心

名分

正統性 

防衛
刀(士=サムライ)

陽明学

人工主義

武中心

名分と実利

習合性

侵略
価値観 善 美

 P二七一
 
 そして、朝鮮人について下記のようにも書いてホルホルしています。
<戦う目的がはっきりと自覚され、各自に神風が湧くとものすごく強くなる。ペリーの黒船さわぎのあったとき、あまりにも驚いた江戸市民は「大平の眠りさますじょうきせん たった四杯で夜も眠れず」と自嘲し、また勇猛をもって名を知られた攘夷論者の本拠地である下関と鹿児島は、西洋人の威嚇砲撃で一夜にしてその主張を変えている。
 一方、韓国では農民義勇軍が主核となり、大同江へ侵入したアメリカ軍艦シャーマン号を焼き払い(一八六六年)、また同年、江華島に来寇したフランス海軍を撃退した。一八七一年には、江華島でアメリカ海軍も撃退している。韓国大衆のこのしぶとさは、自覚された儒教の価値観がまったく国策と一致したためである。韓国民が神風を湧かせると死をもいとわないことは、前に説明したとおり、李舜臣水軍の奮戦に際しても発揮している>P二七五
 そんな日本人に併合された朝鮮人はどうなのでしょう。矛盾を感じないのでしょうか。
 
 土地調査事業についても下記のように書いています。
<韓日合併、すなわち韓国が植民地化されたとき、日本人が韓国人の農土を収奪した方法が、証文を知らない農民の純真さを利用したものであった。それは「土地台帳整理」の名で知られる悪法であり、いまでも韓国農民の老人の呪の対象である。
 だいたい、韓国の農土は、何代にもわたって耕されてきたものであり、村の者ならだれでも知っている所有権にたいして、べつにこれといった証文などというものがなかった。この弱点を知った日本人は、「証文を出せ!それみろ、ないだろう。じつはこれは、おれさまのものだ」と強弁をふるい、その後ろ楯を警察・憲兵がした>P二六〇〜二六一
土地調査事業についての朝鮮人のウソについては既に書きましたので、ここでは触れませんが、一九二七年に東京に生まれて、早稲田大学を四七年に中退後、南朝鮮に渡り、その後アメリカ、カナダの大学で学んだという金容雲氏ですらこの程度なのです。
 そんな程度の朝鮮人をパネリストとして招いての講演などあまりにもアホ過ぎます。

 今日は部屋にてゴロゴロして一日が終わる。

舍泉の飲んべえの会 
10月21日日曜日晴れ ×

 今日は夕方かゆ?泉の蔵元である玉泉堂の山田敦社長も御参加いただき、「飲んべえの会」
 出品酒

 NO.1 平成15年 舍泉正宗 純米大吟醸 2002年醸造年度

 NO.2 平成16年 舍泉正宗 純米大吟醸 2003年醸造年度

 NO.3 平成18年 舍泉正宗 純米大吟醸 2005年醸造年度

 NO.4 平成19年 舍泉正宗 純米大吟醸 2006年醸造年度
 
 NO.5 平成19年 舍泉 蘭奢待 大吟醸 2006年醸造年度

NO.6 平成19年 舍泉 純米大吟醸   2006年醸造年度
  
 NO.7 平成19年 舍泉 純吟 山田錦  2006年醸造年度
 
 NO.8 平成19年 舍泉 純米 山田錦  2006年醸造年度

 NO.9       舍泉 黒糖梅酒


 出品酒はすべて本日の朝に開栓してあったもの。酒はもちろんでしたが、日本酒と米焼酎のブレンドという九番の梅酒が好評。それぞれ、梅の品種も熟成も違うものを使うという工夫をして造っているそうです。

 多くのお客様御参加頂きありがとうございました。
 会の終了後、山田社長と御近所の「エムズバー」さんにお邪魔する。その後、店に帰ってきて二人でワイン(CH・コス)を一本飲んで御開き。

10月20日土曜日晴れ △
 今日も、「酒くせ〜」「今頃の時間そんなに臭ってたら、おかしいよ」「電車の周りの人かわいそ〜」とみなさんからボロクソに言われながらも河岸で仕入れ。
 Oさん来店。HIROKOさん来店。マロさん来店。一名様来店。

 同年代のOさんとは子供の時のマンガに出てきた戦闘機や戦艦などの話で盛り上がる。ちなみに、これは実家に帰った時に掃除していて出てきた二冊の「丸、エキストラ版」のうちの一册。昭和四四年一〇月一五日発売とありましたので、私が中学生の時に購入したもの。
 今日も早い時間から飲む。ドンチャン。


シベリヤ抑留
10月19日金曜日晴れのち一時雨

 ソ連は一九四五年二月四日から一一日にかけてのヤルタ会談により、八月八日、日ソ中立条約を一方的に破り、対日宣戦布告。翌八月九日は満州、樺太南部、千島列島に侵略を開始した。その結果、膨大な数の日本人民間人がソ連兵の略奪・暴行の餌食となった。軍民も約六〇万人が拉致・連行された後に、強制的な重労働により約六万人が死亡した。「早期に捕虜を本国に送還する」というポツダム宣言に明らかに違反する行為である。
 これらは、朝鮮人がよく言うウソの強制連行ではない。すべて事実である。
 八月二三日にスターリンが発した命令は
「強制労働に耐えうる健康な捕虜五〇万人を選別する。捕虜を一〇〇〇人ずつの建設大隊に編成する。捕虜の被服や寝具は戦利品から調達すること」
という盗人のソ連らしいものであった。捕虜のほとんどは軍人であったが、技術や通訳の能力を持っている軍属・満州国政府や満鉄の日本人職員、そして従軍慰安婦などの女性五〇〇〇人も連行された。それぞれが、重労働に狩駆り立てられ、女性は慰安婦というものを最初から考えていず、現地の女性を強姦するというソ連軍の習性により恥辱の対象とされた。
 これについては、多くのホームページがあります。当ホームページにも
ソ連軍の残虐性などがございます。よろしければ御覧下さい。

 ソ連軍が捕虜とした外国軍民は、ドイツや日本をはじめ四一二万人にのぼる。これだけの大量の捕虜を捕獲連行した理由は、戦後復興のためのタダの労働力にするためだった。したがって、このソ連により捕虜という名目で奴隷にされた日本軍民の収容所はシベリアに限らず各地に設置された。モンゴル、中央アジア、ウクライナ、モスクワ近郊を含むロシアそしてヨーロッパ各地である。
 ハーグ陸戦法規やジュネーブ捕虜条約の精神を踏みにじり、捕虜たちは食糧や医療も不十分で極寒の中、危険で厳しいさまざまな作業に酷使された。石炭・石油の採掘、木材の伐採、河川・港湾の整備、鉄道の建設、各種工場での労働、農場での労働などで、ノルマが課せられ、目標を達成できない場合は労働時間の延長、減食などの懲罰に付された。
 平成一二年(二〇〇〇年)一二月一九日に公開された害務省(通名として外務省ともいう)外交文書で、シベリア帰還者の証言が明らかになった。それによると、収容所はバラックや旧囚人収容所。一人当りの居住面積は平均わずか一・三平方メートルで、やっと横になれる程度。衣服や暖房が不十分なため、凍死者があいついだ。食事も重労働に値するものではなく、一日、一九〇〇〜二〇〇〇カロリー、収容当初は一食三〇〇グラムのパンとお茶だけで氷点下四〇〜六〇度のなか労働を強制された例もある。
 抑留者がさらされた恐怖は、重労働だけではない。約三〇〇〇人が弁護人もつかないデタラメな略式裁判で「スパイ罪」、「反革命罪」、「資本主義幇助罪」などに問われ、五年から二五年の強制労働に処せられたのである。
 これら犠牲者の取り調べの模様について、外交文書はこう記している。
 「足を縛ってつるされた」
 「等身大の箱に八時間閉じ込められた」
 「銃で脅され調書に署名させられた」
 手元にある、「シベリア捕虜収容所」(若槻泰雄著 サイマル出版)によると、
 取り調べと裁判の実態として、同書に収められている「ソ連長期抑留者同盟」の調査による結果による拷問の実情として、下記の数字が揚げられている。
 絶食    一二四
 減食    三一七
 水攻め   三八
 寒冷攻め  六一
 睡眠を与えず九九
 脅迫    一五七
 暴力    一五八
 その他  一〇一七
 備考 1)一人で二つ以上の拷問を併用された場合は、主たる方が記載されている。
    2)拷問なしと答えた者が一八二名
 「シベリア捕虜収容所」(若槻泰雄著 サイマル出版)上 P三〇三
 
 一方、共産主義の洗脳教育に同調し、日本帰国後はソ連の先兵として日本共産化に挺身するであろうと目された者のみは、食事・衣服・労働量などで優遇されたのである。
 死亡者は約六万人とされているが、実際には実数不明である。公開されている日本人墓地とされるところにすら、墓碑名もないただの土山しかない、いや、土山すらない原野で氏名や身元不詳の無縁墓地が多く残されている。

 このような無法国家であるソ連が極東軍事裁判において、裁く側にいたと事だけでもあの裁判の異常さがよくわかります。
 日本人に対してこのような残虐非道な行いをしたソ連、そしてその指導者であった残虐なスターリンが昭和二八年三月六日に死亡した時に、あの朝日新聞は翌日三月七日の夕刊で「子供好きのおじさん」とその死を称えて報道しました。流石です。流石は朝日新聞です。

 以上引用および参考図書
 「シベリア捕虜収容所 上・下」若槻泰雄 サイマル出版 
 「日本の反論」米田健三 並木書房 平成一八年刊 

 バンブーさん来店。初めてのお客様MAYUNAさん、ANNAさん来店。Nさん二名様で来店。KくんNさんと来店。Sくん来店。初めてのお客様一名様来店。
 Nさんのお連れさんによると、「南京大虐殺はあった。日本刀で首の皮一枚残して切った」「一年以上かけて虐殺した」「証拠写真もある」だそうです。
 イヤ〜中々ここまで言ってくれません。戦争ですから、それなりの事はあったでしょうが、検証もせずに支那のいう事をそのまま書いたという本多勝一氏なみでした。あの朝日新聞の攻略後の「平和」な南京の写真は捏造?正規兵と更衣兵、ゲリラというものの違いも知らず、死体処理の検証もせずに堂々とアホを平気で宣う。

 営業終了後、Kくん、マルガリータさん、Sさん、Hさん御夫妻と高円寺にてドンチャン。


倉沢愛子の醜いウソ
10月18日木曜日晴れ △

 倉沢愛子女史は他のその手の人間と同じく、自分のイデオロギーのためだとウソをついて人り輾すのも何も思わない人間です。
 それについては今までも指摘してきましたが、倉沢女史の著書にはまだまだ多くの歪んだ書き方がされている箇所があります。
 
 <終戦から何十年もたって、外交的には両国の関係は非常に良好になっているいまでも、オランダやイギリスの一部の人たちは日本に対して非常に悪い感情をいだいているのよね。それは単に、かって戦火を交えた相手国だからということではないようよ。ひとつには日本との戦争がきっかけとなって、広大な植民地を失った(とくにオランダの場合)という恨みもあるんだろうね。ただ、それ以上に強いのは、これらの国の少なからぬ人たちが、戦争中日本によって収容所に入れられ、言語に絶する悲惨な目にあったという。個人的体験からくる恨みだと思うの。骨身に染みるような恨みが、いまだにその人達の対日イメージを形作っているのね。>P一一八
 <日本がオランダ人やイギリス人の恨みをかったもうひとつの要因は……………実はこの方がより深刻な意味をもっていたようだが………、戦闘員だけでなく、占領地に居住していた民間人も含めて、すべての敵性国人を収容所に隔離したという事実である。これはそれまでの戦争ではあまり例をみないことであった>P一二一
「『大東亜』戦争を知っていますか」講談社現代新書

 収容所での醜い行いは他国でもあった事は今まで書いてきたが、それ以外にもいかにも我国だけが、占領地において民間人を収容所に入れたような書き方である。
インドネシアにおいてオランダ人などの非戦闘員に対する我国の扱いについては倉沢女史自身がその著書に書いているが、下記のようなものであった。
 <当時の今村均司令官が民間人は拘束しないという方針をとり、一九四二年四月一日付けで公布を出し外国人に登録をさせ、日本軍に忠誠を誓った者には自由を許した。>P一二二
略)
 <最終的にジャワ抑留所が開設されたのは、一九四四年三月になってからのことで、それまでは、さまざまな形で居住の制限がおこなわれていた>P一二三〜四

 これに比べて、東南アジアにいた民間人の日本人、そして当時日本であった台湾・朝鮮の人々が、男女そして子供までもが昭和一六年一二月八日以降どのような目にあったかを意図的か?倉沢女史は正確に書いていない。
 倉沢女史はその著書で「捕虜になった日本人」という箇所に、下記のように書いている。
<ビルマ、マラヤ、シンガポール、インド、セイロンなど、英領に住んでいた日本人の場合は、インドで抑留生活を送った。当初は、蘭領東インドの場合と同じように、それまでの移住地の地元の学校や刑務所に収容されていたが、日本軍の侵攻の前に徐々にインドのキララプラナに移送された。その数、約三〇〇〇人といわれる。その後デオラリー、そして最終的には亜ジュメールへ移され、ここで終戦までを過ごした>P一〇〇
と、これだけしか書かれていないが現実はどうであったか。 

 私の手元にある「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」(峰敏朗著 朝日ソノラマ 一九九五年刊)によると、シンガポール、マレー半島などの日本人は早朝に連行されたり、街を歩いていてそのまま連行されたり、婦女子も途中で荷物を取られたりして、着の身着のまま収容所に送られている。
(この同じ強制収容所に入れられた日本人インド在住者だけは、自分の手荷物をそれなりに所持して入所してきたようです。)

 著者の峰敏朗氏は昭和四八年四月から三年間、インドのニューデリー日本学校に教論として勤務し、その時の住まいの近くに古城「プラナキラ」があったが、そこに大東亜戦争中に東南アジアの各地、インド、イギリス、アフリカに居住していた日本の民間人を強制的に収容されていたことを知らなかったが、その後、滞在記を出版をした後に、その存在を知る事となる。
 当時の収容者のひとりである木村次郎氏の手紙によってである。
 木村氏は全国に散らばった非収容者を掘り起こし、親睦の連絡誌「インドワラ通信」を年に二回発行していた。
 小林博氏が作成した書類を元に名簿も作成していたので、それを元に取材を始める。
その中で、このインドの収容所にもブラジルと同じような「勝ち組」「負け組」による争い。暴動、そして、イギリス軍による銃による鎮圧。そして犠牲者があったことが書かれている。

 倉沢女史が書いているインド・プラナキラ(倉沢女史はキララプラナと表記)の収容人数約三〇〇〇人のうち一〇〇〇人は婦女子であったが、倉沢女史はそれを表記していない。決して、日本だけが、敵性国の一般人を強制収容したのではないのです。
 そして、「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」には下記のような記述がある。
<英国官憲は、シンガポールおよびマレー半島で一二月八日、一斉に日本男子を逮捕した。そして各地の警察署に留置した。女子供は各地で異なっているが、数日遅れて捕らえられている。>P四四
 明らかになっているだけでも、二九九四名の日本人の方々が抑留されそのプラナキラ抑留生活四百一〇数日間にでも、一一七名の方が亡くなっている。
それ以前、昭和一六年一二月八日の囚われの日から、プラナキラに到着するまでの死者も四名ある。
 それは英国軍の日本人の扱いを物語るものです。その状態は下記のようなものでした。
ポート・ステイハムでは
<監獄当局は、戦時中であること、材料の入手困難を理由に、十分な材料を支給しなかった。そのため、当収容所の食事は劣悪なものだった。以後続く一連の収容所生活を通じて、この食事が最悪であったと、三宅定次は記憶している>p五一
 ポート・ステイハムからシンガポールのチャンギー監獄までの移動の船中では、四〇時間も狭い船底に押し込まれ、食事はもちろん、ひとり一杯の水しか与えられなかったことが書かれている。

 チャンギー監獄では
<朝の粥にはお菜一つつけられてはいなかった。また箸もスプーンもくれない。そのためインタニー(intemee非収容者)は漠?の縁に口を当てて、粥を流し込まねばならなかった。冷めて糊のようになった白粥は、思うように喉を通らない。
多くの人はやむを得ず、人さし指をスプーン代わりにして、喉に流し込んだ。
 食事の前に一応手を洗うのだが、指は垢と脂汗で固めたように真っ黒である。伸びた爪の裏には、帯のように汚れが固まっている。しかし、監獄では爪切りはもちろん、金具類は一切持たせない規則だった。だから爪は伸び放題である。
不潔このうえない人さし指がスプーン代わりとなった。>p六二

 婦女子ばかり集められてカルカッタへ向かう船中では
<マレー半島とシンガポールの婦女子九一六名は、一二月一二日エチオピア号でカルカッタへ向かった。略)
 エチオピア号の船中では、パルソバ号やラジエラ号の場合と違って、極めてひどい虐待が行なわれた。英国人は婦女子には人道的に接するだろう、という男達の期待は完全に裏切られた。
 乗組員は英国人の監視兵が主だった。その中でも、特に上級監督官ミセス・ハミルトンと、係長のミス・ジンゲーは彼女たちを残酷に扱った。それに英国かぶれの中国人とアングロインデアン(英国の男性とインドの婦人との間にできた混血児)の付添い婦とが、この虐待に加わっていた。
 乗船の日、所持品はすべて取りあげられた。喫煙者が見つかると、その者は数日間、船底に監禁された。
 朝の点呼は厳重を極めた。何人も点呼から逃れる事は許されなかった。病人も同様だった。起きる事のできない病人は、枕を蹴って引き起こされた。そしてブイをつけさせ、甲板に引きずり上げて点呼した。
 
重病人がいて、入院を希望していた。その答えは「敵国人は入院させない」といういものだった。入院できないまま死亡した人がいると、橋本敦子は船中で聞いた。
 
食事は非常に少量であるうえ、不規則にしか配給されなかった。とくに一二歳以下の子供は一人前と認められず、ごく少量の食糧しか与えられなかった。三、四人の子供を持つ母親は、自分に食べずに、子供達に食糧を与えなければならなかった。その母親たちはみるみるうちに痩せていった。けれども、他の人たちもすべて空腹に悩んでいた。彼女たちを助けようとする者はいなかった。
 
赤ん坊の食べ物は考慮されなかった。船中で橋本敦子も赤ん坊の食べ物に悩まされた。多少の用意のあるものはよかったが、何もない者は途方に暮れた。>P八〇〜八一

 そして、婦女子が冬のプラナキラに到着した様子を下記のように書いています。
<
一一、二歳の女の子が毛布一枚にくるまって、素足でバスから降りてくる姿があった。衆人の中で身内のこのような姿を見るのは堪え難いことであった。
略)
 オーバーを着ているものは少なかった。
この寒空で浴衣の人が何人もいた。タオル地の寝間着の婦人もいた。多くの人は捕らえられた時、二、三日で帰宅できるという甘言を信じていたのだ。着の身着のままでインタニーになったのである。
 婦女子のテントでは、あるだけの薪を積み上げて焚き火をした。その焚き火は深夜から朝まで怨念のように天に向かって燃え続けていた。>P九二

 戦争という平時と違う状態において、我国の国民もこのような異常な体験を強いられたのです。何度も書くように、倉沢女史のように日本だけをいかにも異常な行動、非人道的な事をしたと攻めたて、反省しろ、謝れと自虐を強いるだけでは物事の解決にはなりませんし、なによりも事実を語っていません。

 二名様来店。Sさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。Sさん来店。
今日はSさん以外は全員カップルの方ばかり。
 昨日は飲む元気もなかったが、本日は回復。でッドンチャン。



アルメニア人虐殺非難決議案
10月17日水曜日曇り ○
 今日の産経新聞に「アルメニア人虐殺非難決議案米下院外交委で採択へ」という古森義久氏の記名記事が掲載されていました。
以下引用
 90年以上前のアルメニア人虐殺に関して当時のオスマン帝国を非難する決議案が米国下院外交委員会で10日に審議されることとなった。オスマン帝国を継承した現在のトルコ政府は、同決議案が事実の一方的解釈であり、その採択はトルコと米国との関係を深く傷つけるとして激しく反対しており、日本糾弾の慰安婦決議案とも類似する局面が注視される。
 米国議会下院の外交委員会(トム・ラントス委員長)は、1915年からの数年間に起きたアルメニア人大量虐殺を公式に「ジェノサイド」(事前に計画された集団的虐殺)と呼び、その悲劇への理解などを米国の外交政策に反映させるという決議案を10日の公聴会で審議し、採決するという予定を発表した。
 同決議案はこの虐殺をオスマン帝国の責任だとし、アルメニア人の犠牲者を150万人としている点などで、現在のトルコ政府が激しく反対している。しかし、米議会側ではアルメニア系米人の意向を受けたカリフォルニア州選出のアダム・シフ下院議員(民主党)らが提出し、すでに下院で226人、上院で31人の共同提案者を得るにいたった。
 トルコ政府はこの動きに対し「いわゆるアルメニア虐殺の実態はなお不明確な部分も多く、ジェノサイドと呼ぶことには問題があり、決議案の採択はトルコ国民を激怒させて、トルコ・米国関係に重大な打撃を与える」として反対し、5日付の米紙ワシントン・ポストにも決議反対の全面意見広告を掲載した。
 同広告は、エルドアン首相が歴史調査のためにアルメニアとの共同委員会を設けることを提案した点を強調し、この種の決議は「真実を求める側への不公正」だとして、その採択は両国関係を悪化させると警告していた。
 トルコ政府は今年2月には当時のギュル外相を米国議会に送りこみ、もし、この決議案を通せば、トルコは米国のイラク作戦に不可欠なトルコ領内のインジルリク基地の使用を拒むことまでも示唆していた。こうした点は日本政府の慰安婦決議案への対応とは対照的だった。
 米国政府もこのトルコ政府の主張に同調し、議会に対し同決議案への反対を明確にしていた。またヘンリー・キッシンジャー氏をはじめ過去8人の国務長官歴任者たちが連名で9月末、下院外交委員長あてに同決議案への反対を伝える書簡を送っていた。
引用終わり

 慰安婦決議案の時の日本政府の対応とトルコ政府の対応との大きな違いを感じずにはいられません。
 ただ、トルコ政府もアメリカ人からこんな事は言われたくはないでしょう。
 アメリカ人は今回、問題にしているトルコのアルメニア人虐殺といわれている一八〇〇年代終わりから一九〇〇年代初頭にアメリカは何をしていたか。
 一八四六年から四八年によるメキシコとの戦争。
 一八六三年、南北戦争が終わり、やっと黒人奴隷制度が廃止された後も、インデアンに対しての虐殺は続いていたのです。
 一八六四年一一月二九日早朝、シャイアン族の居住地サンドクリークを酔っ払った七〇〇人の騎兵隊が襲撃し、女性、子供一〇五人含む一五〇人近くのシャイアン族を虐殺。昼頃まで続いた虐殺で、その死体から頭の皮を剥ぎ、死体を砕いたりして損傷。指輪を取るために、指を切断。子どもも合わせた男性部族員の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。男性器と合わせ、女性部族員の女性器も「記念品として」切り取られ、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った。
 一八六八年一一月二六日の夜明け頃、オクラホマ州シャイアンのワシタ川の川岸に野営していたシャイアン族達は、ジョージ・アームストロング・カスター将軍指揮下の第七騎兵隊によって不意打ちの襲撃を受けキャンプの人々のほぼ全員が、無抵抗な女・子どもを虐殺。
 カスター将軍率いる第七騎兵隊は一八七六年六月二五日、インディアンの野営地を発見し、それを襲うが、バカな司令官に率いられた二二五名の直属部隊は輸送馬車に二万四〇〇〇発の弾薬を置いたまま全滅した。カスターは兵士達には一二四発ずつしか弾薬を装備させていなかった。
 一八九〇年一二月二八日にはサウスダコタ州ウンデット・ニーで野営しゴーストダンスに酔っていたスー族の集まりを、大砲や機関銃で武装したジェームズ・フォーシス大佐率いる第七騎兵隊が一方的に襲撃し、虐殺。
 その時、スー族の1人がナイフを持って手放さなかったという理由で酋長ビッグ・フットをはじめとする約一五〇名が虐殺された。
 この第七騎兵隊には議会勲章まで授与されている。

 一八九八年にハワイを武力弾圧で併合し、一九〇〇年、ハワイ王家を廃絶し、一市民に格下げ。


 一八九八年のパリ条約によって、スペインより二千万ドルでフィリピンを買い取ることにより植民地とする。
 この時にフィリピン民衆の抵抗に対して、アメリカ軍は下記のような行動に出る。
 それで、スペインの植民地支配に抵抗するアギナルドに独立の援助をほのめかして戦端を開いた。一八九八年春のことである。

以下引用
 「フィラデルフィア・レジャ」紙のルポ
「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな反乱分子であれ容疑者であれ、一〇歳以上なら片端から殺しつくした」「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、一時間後には橋の上の立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
「これは文明人相手の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。われわれはだから、通じるべき手段で実行しているのである」P一七二〜一七三より
 ルソン島南部の指揮官ジェイムス・F・ベル准将
「二年間(一九〇一年五月までの)にルソン島住民の六分の一が殺されるか、またはテング熱で死んだ」P一七四
つまり、二年間に六一万六〇〇〇人が殺されている。
 サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に壊滅させられたC中隊の報復として、
「捕虜はいらん。全部殺し、焼き尽くせ。殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、私は満足だ」
 一時的に指揮下にあっ海兵隊旅団長L・ウォーラー少佐が、「何歳が限度ですか」 と訊ねると、「一〇歳だ」と答えた。
略)
 ウォーラーは全住民に海岸への移動を命じた。二日後、内陸にあるすべての村の組織的破壊と皆殺しが開始された。家はもちろん、市場に出すための食糧や麻など一切焼き尽くされ、家畜のすべては殺され、舟の類も手当たり次第沈められた。米軍の軍服なり装備なりの一片でも見つかった村は、それがC中隊の遺品とみなされ、女子供を含む全住民が皆殺しにされた。
P一七四〜一七五
(「殺される側の論理」本多勝一著 朝日新聞社 一九七八年刊)

引用終わり

同じく
 一八九八年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイン領キューバが米国の不安材料だった。「いつか敵対国の手にわたったら」という危惧は、実際に六十年後、あのキューバ危機で現実のものになったが、米国はそれを先読みして戦端を切った。ただ、自国の安全保障という直截な言い方はしなかった。「植民地支配にあえぐ人々の自立のために」、米市民が立ち上がった、と。

 このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は友人のアルフレッド・マハンの言葉を入れ、太平洋戦略の基地としてスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてスペインに抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共同戦線を張った。

 米上院へのレポートでは、サマール島で三十八人の米兵が殺された報復に、この島とレイテ島の住民二万余人が虐殺されるなど、二十万人が殺された。

 この中には拷問死も多く、アギナルド・シンパとされた市民が逮捕され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書は伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それでも白状しないと「膨れた腹の上に尋問の米兵が飛びおりる。彼らは口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」(同報告書)

 マニラ湾南のアギナルドの故郷バタンガスでは、住民を銃で殺害こそしなかったが、すべての田畑や家屋を焼き払い、家畜を皆殺しした。食べるものを家も失った住民は、飢餓地獄の中で死んでいった。その数は五万人ともいわれる。
 「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂出版 p一七〇〜一七二

 ちなみに、このような残虐な米軍の指揮を執ったアーサー・マッカーサーは、日本占領軍司令官になるD・マッカーサーの父であり、ウィリアム・タフトは後に米大統領となる人物。
下記の言葉がそんなアメリカ人をよく表している。
以下引用
 その辺の国民性について、ニュージャージーに生まれたノーマン・メイラーは「米国人は自分の間違いや国家の過失を無視するという不愉快な資質を持っている。だから米国人は直視したくないことは、なかったことにしてしまう」(日本版「プレイボーイ」)と説明する。
高山正之の異見自在 [2000年07月29日 東京夕刊]
引用終わり


 そうやって平定したことを記念する米西戦争の前述の碑には、一八九九年に終わったはずのスペインとの戦争の年号が一八九八年から一九〇二年の四年間を刻み、「植民地支配にあえぐ人々に自由の手を差し伸べた米軍兵士たちに」と記す。戦争はスペインがさっさと降伏して翌一八九九年には終わったが、ロサンゼルスにあるこの戦争記念碑には「一九〇二年」とある。これは、アメリカに裏切られて抵抗するアギナルド将軍とその一派を、米軍が完全に掃討し終わった年を意味している。
 このように一九〇二年までかかって、二〇万人ものフィリピンの人々を虐殺(上院報告書)し続け、ベトナムでも虐殺を続け、我が国には無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下。そんなアメリカからトルコも五月蝿い事を言われたくはないでしょう。


 先日書いたインドネシアの慰安婦施設は、砂漠の中にあるネバダ州の公認売春施設と何処が違うのでしょう。

 昨日というか今朝までの酒が残っており、体調最低。
 Sくん来店。仙台のIさん新幹線までの時間ということで来店。Wさん四名様で来店。Iさん来店。
 今日は飲まず。



欧米列強の植民地統治による王族の運命
(イギリス)
10月16日火曜日くもり一時小雨
 ×××
 朝鮮王族を存続させた我国の朝鮮統治と当時の列強による植民地における国王の処置と比べてみる。
 イギリスはインド・ムガール帝国最後のバハダールシャー王を一八五七年、セボイの反乱で王族を皆殺しにし、ビルマ・ラングーンに流刑にし、王妃、側近と共に幽閉する。一八六二年一一月に王が没したのちも、遺体を故国に埋葬する事を許さず、同じ場所にモスクを兼ねた霊廟が置かれた。
 現在でもそのモスクは最後まで仕えた側近の末縺が、イスラムの金曜導師を務めながら霊廟を守っているそうである。「レッド・フォート」と入口に文字が書かれたその棺室の名前は、故国ニューデリーにあるムガール王朝の居城の名だそうである。
 イギリスはビルマにおいてもインドと同じように、一八八五年、国民の求心力を奪うため、ビルマ国王夫妻と四人の王女をインド・ボンベイ近くのラトナギリに流刑にする。ティボー直筆の英国政府宛書簡(一九一一年五月付)に「せめて一家が食べていけるよう、年金を上げてもらえないだろうか」と書かれているそうで、生活費にも事欠く悲惨な生活を強いられていた。
 困窮と辱めに加え、英国側は王朝復活の望みを断つように王位継承権第一位にあった第一王女、パヤ(ファヤ)王女を身分の低い英印軍軍属のインド人ゴバルと結婚させたと消息をほぼ一世紀ぶりにインドの英字新聞ヒンドスタン・タイムズ紙がこの王家の悲劇にもふれています。
 一九九五年九月一六日付けの同紙によると、王女は結婚させられた英印軍属には正妻がいることがわかり、愛人となる。肉親とも離れ、インドの最下層の社会の貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツはビルマ語も忘れ、教育も資産もないまま、最貧困層のインド人の妻となり、六人の子供を抱え、街角で造花を売って生計を立てている。その顔立ちに王族らしい気品を備え、それが哀れだったと伝えているそうです。
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)より引用(写真も)

 今日は肌寒い。河岸に行く時に半袖のTシャツだけで地下鉄に乗っていたのは私だけだったが、河岸に近付くにつれ、仲間?が増えてきた。河岸にはいるといっぱい! 活けもの、アンコウなどでお世話になるノブちゃん、フミちゃんの兄ちゃんなど真冬でも半袖だし!
 先週と同じようなと思っていたら、金チャン来店。マルガリータさん来店。大台さん二名様で来店。仙台のIさんHさん来店。
 明日は河岸が休みということで、営業終了後に久しぶりに「エムズバー」さんにお邪魔する。その後、中野の「石松」
帰りは石松のマスターと動き出した地下鉄で朝帰り・・・・ドンチャン。記憶は・・・自信無し・・・・



マハティール元マレーシア首相の演説
10月15日月曜日晴れ

 下記は手元にある「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)のP一二五〜一三二に掲載されていた香港でのマレーシアのマハティール元首相の演説ですが、元はSAPIO一九九九年四月一四日号に掲載されたものだそうです。
以下引用
 過去のヨーロッパ中心の世界では、東アジアとは即ち極東だった。そして極東は、異国情緒あふれる中国と龍のイメージ、お茶、阿片、高級シルク、風変わりな習慣を持った珍しい人々など、奇妙で神秘的な引用を思い起こさせる場所だった。
 いまや極東は東アジアになり、気の毒だがヨーロッパのロマンチストの興味の対象は減った。その代わりに政治家とエコノミストの関心の的になっている。ヨーロッパがアジアに対して懸念を抱いている事実は、この地域が、すでに今世紀前半の日本軍国主義以上に深刻な脅威になっていることを示唆している。こうした見方の底流には、不信感と恐怖がある。その理由は、東アジアの人々が自分達と異なっている、つまりヨーロッパ人ではないという点にある。
 
 そのため、第二次世界大戦の枢軸国であったヨーロッパのドイツとイタリアが平和国家になって復興、繁栄するのは応援、歓迎されたのに、同じように平和国家となった日本と極東の「小さな日本」の経済発展はあまり歓迎されないように見える。
 それどころか、ヨーロッパとヨーロッパ社会を移植したアメリカはともに、様々な手段を使って東アジア諸国の成長を抑え込もうとしてきた。西側の民主主義モデルの押し付けにとどまらず、あからさまに東アジア諸国の経済の競争力を削ごうとしてきた。
 これは不幸なことである。東アジアの開発アプローチから、世界は多くのことを学んできた。日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術力とエネルギーを貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。
 質をおとすことなくコストを削減することに成功し、かってw?沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは、日本人である。まさに魔法もつかわずに、奇跡ともいえる成果を創り出したのだ。
 日本の存在しない世界を想像してみたらよい。もし日本なかりせば。ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していただろう。欧米が基準と価値を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界中の国はその価格を押し付けられていただろう。
 自国民の生活水準を常に高めようとする欧米諸国は、競争相手がいないため、コスト上昇分を価格引き上げで賄おうとする可能性が高い。社会主義と平等主義の考えに基づいて、労働組合が妥当だと考える賃金を、いくらでも支払うだろう。
 ヨーロッパ人は労働側の要求をすべて認め、その結果、経営側の妥当な要求は無視される。仕事量は減り、賃金は増えるのでコストは上昇する。貧しい南側諸国から輸出される原材料品の価格は、買い手が北側のヨーロッパ諸国しかないので最低水準に固定される。その結果、市場における南側諸国の立場は弱まる。輸出品の価格を引き上げるかわりに、融資と援助が与えられる。
 通商条件は、常に南側諸国に不利になっているため、貧しい国はますます貧しくなり、独立条件はいっそう失われていく。さらに厳しい融資条件を課せられて<債務奴隷>の状態に陥る。
 北側のヨーロッパのあらゆる製品価格は、おそらく現在の三倍にもなるため、貧しい南側諸国はテレビやラジオも、今では当たり前の家電製品も買えず、小規模農家はピックアップトラックや小型自動車も買えないだろう。一般的に、南側諸国は今より相当低い生活水準を強いられることになるだろう。
 南側のいくつかの国の経済開発も、東アジアの強力な工業国家の誕生もありえなかっただろう。多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国々に投資したのは、日本と競争せざるを得なくなったからに他ならない。
 日本との競争がなければ、開発途上諸国への投資はなかった。日本からの投資もなっから、成長を刺激する外国からの投資は期待できないことになる。
 また、日本とのサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は模範にすべきものがなかっただろう。ヨーロッパが開発・完成させた産業分野では、自分達は太刀打ちできないとと信じ続けただろう。
 東アジアでは、高度な産業は無理だった。せいぜい質の劣る模造品を作るのが関の山だった。したがって西側が懸念するような「虎」も「龍」も、すなわち急成長を遂げたアジアの新興工業経済地域(NIES)も存在しなかっただろう。
 東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国は、あえて挑戦し、自分達も他の世界各国も驚くような成長を遂げた。
 東アジア人は、もはや劣等感に苛まれることはなくなった。いまや日本の、そして自分達の力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
 もし日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言って過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、錫を掘り、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう。
 このシナリオには異論があるかもしれない。だが、十分ありうる話である。日本がヨーロッパとアメリカに投資せず、資金をすべて保有していたらどうなるか想像すれば、その結果は公平なものになるのではないだろうか。ヨーロッパ人は、自国産の製品に高い価格を払わねばならず、高級なライフスタイルを送る余裕がなくなるだろう。
(略)
 実のところ、ヨーロッパ人は身分不相応に暮らしている。ヨーロッパ人は、仕事量が非常に少ないにもかかわらず、あまりにも多額の賃金を受け取っている。ヨーロッパは世界の他の国々が、この浪費を支持してくれると期待することなどできない。ヨーロッパ諸国は、国民のために高い生活水準とより健康的な環境を求めているが、犠牲を払おうとはしない。
 「ヨーロッパは、もっと低い生活水準を受け入れ、環境を維持すべきだ」と提案されたとき、ヨーロッパ諸国は激しい不快感を示した。だが、ヨーロッパは、北側諸国の環境維持に必要だという理由で、貧しい国々に国内の天然資源を開発しないように求めている。それは要するに、「貧困国は富裕国のために犠牲になれ」ということである。しかし、豊かな国々は、何の犠牲も払おうとしない。
 
 アジア諸国が「ルック・ウエスト_で欧米に指導やモデルを仰いだ時期があった。いまやヨーロッパが逆に「ルック・イースト」で、逆にアジアにそれらを求める時期が来ているのかもしれない。
 
 皆さんが私を、東アジア人とみなすかはわからない。どちらであれ、私は自分の見解が「私は東南アジア人であるだけでなく、発展途上国の出身でもある」という事実に影響を受けていることを認めなければならない。
 マレーシアは、ある野心を抱いている。私たちは、いつの日か先進国になりたいと考えており、不必要に妨害されて不満を感じている。私たちは自由貿易と公正競争の妥当性を信じている。
 ASEANの経験によって、友好的な競争と互いに学び合おうという意志があれば、経済成長を促進することができるとわかった。東アジア諸国が競争しながら学ぼうという意志をもっていれば、同じ結果を達成できるだろう。ヨーロッパ〜東アジア間の公正競争と協力を発展させれば、すべての国々が繁栄するうえで役立つだろう。
 たとえヨーロッパやアメリカが保護主義を採用しても、東アジアは保護主義に頼らないだろう。東アジアには競争力があり、そのことをはっきりと証明している。
 たとえば一九六〇年には、東アジア全体のGDPはECの四二%、アメリカの二三%、NAFTAの二一%だった。一九九〇年には、それがECの六七%、西ヨーロッパの四七%、アメリカの七三%、NAFTAの六四%に達した。
 東アジアの域内貿易も、絶対額と世界貿易に占める割合の両方で成長している。東アジアは、保護主義に頼ることなく、しかも多くの障害をものともせず、これを達成したのである。
 その課程で東アジア諸国は、自国民だけでなく世界中の貧困者の生活の質を高めた。東アジアの他の国々も程度の差こそあれ達成することができたのである。同様にヨーロッパもそうすることができる。
 この成功の主な要因は、高い生活水準を維持する余裕のない時期には低い生活水準を受け入れようとする意志である。東アジア諸国は進んでそうしている。無理して高い生活水準を維持すれば、競争力を失ってしまう。
 むしろヨーロッパ人のほうが、自分達のやり方が賢明なものかどうか自問し、現実を受け入れなければならない。そうすれば、ヨーロッパと東アジアは相互の利益のために協力することができる。
 ただし、どのような事情があっても、東アジアの成長を止める事はできない。東アジアには、発展する権利があるのだ。
 (欧州・東アジア経済フォーラム 一九九二年一〇月一四日 香港にて)
 「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)のP一二五〜一三二

 著者の高山氏は続けて下記のように書いています。
 マハティールの主張の素晴らしさは、歴史を実に公平に見ていることだ。
 日本と、それまで『政治的禁治産者』と見下されてきたアジア諸国が、独立後に示した力を率直に見つめた。その上で、それまで世界が、というか欧米が禁句にしてきた二〇世紀における日本の歴史的位置、評価をはっきり口にした。
 このマハティール演説では、話が進むにつれ、会議場にいた欧米諸国の代表が何人か席を立ち、あるいは憤然として靴音高く退席していった。という。なぜ、「という」をつけたかというと、この会議に出ていた香港在住の日本人記者、あるいは日本からこの会議に派遣された記者のだれもが、マハティール演説の真髄を記事にしなかったからだ。
 いや、ただ一人いた。朝日新聞の編集委員船橋洋一だ。翌日の紙面で、ごく客観的な記事「東と西のすれ違い」を書いたものの、その真意に触れた記事は翌九三年四月二一日付けの経済面コラム「マハティールの情念」まで待たなければならなかった。実に半年も経っていた。
 そして重要なのは、この文中で日本人ビジネスマンに、「米政府がEAECに反対したはずだ」「マハティールは裏で糸を引いていると思われる日本」と語らせ、さらu�秧曲磧β耋儿�商協進協会理事長に「日本の企業に支配されないようにどうやって対抗したらよいのか(とマハティールから聞かれた)」といった言葉を伝える。
その記事から浮かぶのは、銃をパソコンに持ち代えてアジア経済支配に乗り出そうとする強欲な日本企業のイメージであり、そしてその道具立てとしてマハティールにEAEC構想を語らせているという「SIy and obsequious(へらへらしながらずるく立ち回る)」日本人像である。
 ちなみに、この「SIy・・・・」の形容詞は、サマセット・モームなどが好んで日本人向けに使った言葉だ。
 そういう見下した、軽蔑した言い方を一つの民族、国家に対して使うのは、まさに人種差別、Racismにほかならないが、そのニュアンスには、劣等民族のアジア人種のくせに醇炙睇ナマをやる、という腹立ちの意識も含まれている。
 そういう、もう百年も前からの、カビの生えた日本蔑視にたった論調を、日本のジャーナリストが日本人の読む新聞に堂々とというか、慇懃にというか、偉そうに書くものだろうか。
 日本人の見方でなく、欧米人の言葉で日本人を表現する。この辺が国際派といわれる彼の限界なのだろう。 
 もちろんマハティールの演説を送稿しなかった記者、特派員たちもまさに同じ意識の持ち主でしかない。日本の読者は、その読者を見下す「勘違いした特派員」の記事を読ませられ、マハティールが日本に対して送ったメッセージも知らされていない。国際政治に関して格段の音痴にさせられているのだ。 
 新聞だけでなく、もっと高い聴取料を取るNHKなどはこの演説のあったことすら報じない。国民は金を払って、国際音痴にされているのだ。
 同じ事はEAEC構想がマハティールの口から語られたあと、それをつぶしにかかった外務省の幹部たちにも言える。言葉を選ばなければ国賊と言っていい。そしてEAECの代案にアメリカの意向を体したAPECをつくりあげ、クリントン大統領の御機嫌を取って喜ぶのである。
引用終わり
「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之著 廣済堂出版)のP一三二〜一三五

 古館氏が拉致問題についてテレビで「僕達が拳を振り上げてやってきたが、何も変わっていない」と言っていたが、一体どのように「拳を振り上げて」やってきたのであろうか。
安っぽい口先だけといういかにもこの古館氏の人柄をよく表している。
 テレビ局が拉致の被害者のみなさんにどのように協力してきたのであろうか。義援金でも送ったことがあったのだろうか。無料で拉致についての訴えのコーナーでも作った事があるのだろうか。

10月14日日曜日くもり 
 朝起きると、頭が痛い。昨日の酒かと思っていたら、夕方になっても同じなので、風邪・・・・
 スポーツセンターに行く元気もなく、店を片付けただけで帰る。


男女共同参画という発想の根拠にある捏造
10月13日土曜日晴れ ×××
 
<「ジェンダーフリー」のシンボルはカタツムリだそうで、男らしく、女らしくというのは男女差別だそうですが、まったくバカバカしい事です。
 男性とまったく同じ能力を女性に求めるほうもおかしいし、その逆もおかしいです。お互いに足りないところを協力しあって補っていけばいい事だけののですが、「ジェンダーフリー」とかを叫んでいる連中は違うらしいのです。単純な生物上の区別や「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定し「ひな祭りや端午の節句は男女差別につながる」とかいっているバカどもです。> 

 以前、日記に(平成16年八月16日)にこのように書いたら、「どこに男性とまったく同じ能力を女性に求めているか」と書いて来た女性がいました。当然、御自分の名前も何も書いていません。

 私は誰が言ったと引用するわけでなく、書き方に誤解をまねいたかもしれませんが、その後に続いて書いていますように「ジェンダーフリー」を叫ぶひとたちが、単純な生物上の区別(男と女という)および「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定しているということに続いているように書いているつもりです。
 ただ、平成十六年十一月二十七日に開かれた湘南地区教職員組合の「母と女性教職員の会」の「自立と共生」分科会において神奈川県教職員組合女性部代表、大貫佳久美氏は「私の子供たちが通っていた東京の小学校は徒競走などもずうっと男女一緒でした。私の子供が男女一緒の徒競走で一番を取った時、『やっぱり男の子は速いわね』と、周りの方々から声をかけられました。違うんです。うちの子が速いんです。なぜなら息子は地域のサッカーチームに入って、毎日走る練習をしていました。男の子だか上位になったのではありません」とおっしゃっています。

 私は「男と女は生まれながらではなく、意識や育ち方により生物学的性別が変わる」という考え方がおかしいというこということを言っているつもりです。大沢真里氏や船橋邦子氏の考え方はおかしいと思います。病気の方以外は男は男、女は女であり、男らしさ、女らしさというものが必要であると思いますがいかがでしょう。と返事を書かせていただいたのですが、その後はなしのつぶてです。

 八木秀次高崎経済大学助教授が「嘘から始まったジェンダーフリー」という論文を正論二〇〇五年二月号に書かれています。それによると、ジェンダーという概念について大沢真理東大教授は「生物学的性差は、セックスだけど、それとは一応区別されてる、ありとあらゆる文化や社会が作りだした男らしさや女らしさの通年、つまり男女を区別している線、これは人工的に作りだされたものだから、人の意識的な営みによって崩していくことができる」
「セックスが基礎でジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている。けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということです」
(「上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば」平凡社より)
ましてや、同書では大沢女史は「女で妊娠したことがある人だったらメスだといえるかもしれないけれども、私などは妊娠したことないから、自分がメスだと言い切る自信はない」とまで宣わっているそうです。
 大沢女史が監修に名を連ねている高校教科書では「生物学的性差について明らかな事は、妊娠の可能性を女性はもつが男性はもたないということだけである」(高校家庭科教科書「家庭一般21」実教出版)
となっているそうです。

 同様に
 「生物学的性別は多様なのですが、女/男と二分化する社会的性別によって生物学的性別も二つに分けられているのだということが明らかにされました。このことは、今まで生物学的性別が社会的性別を決めているという常識をくつがえしたことになります。
 今日では、生物学的性別であるセックスが社会性別であるジェンダーを決めるのではなく、社会的性別・ジェンダーが生物学的性別・セックスを規定するのだと、女性学ではいわれています」
(知っていますか?ジェンダーと人権一問一答」解放出版社 二〇〇三年より 船橋邦子和光大学教授)

 八木氏はこの大沢女史、船橋女史の依拠にしている学説として、子供達の性のアイデンティティを決定づける主要因は生物学的なものではなく、その子供がどう育てられたかであるというアメリカの性科学者ジョン・マネーの学説をあげています。
 そして、このジョン・マネーという学者が一九六七年にカナダ生まれの一卵生双生児に対しておこなった人体実験ともいうべきものは結果的に失敗に終わっています。この一卵生双生児の兄の方が生後八ヶ月の時に包茎手術を受けた際に医師の過失により電気メスでペニスが焼き焦がされてしまった。マネーは女性として育てれば精神的には女性として成長し、男性に対して性欲を抱くようになるだろうとその子供の良心に性転換手術をすすめ、それを実行した。
これにより兄はブレンダという女の子として、弟はブライアンとして育てられる事になった。
「乳児期にはこの双生児のうち支配的なのは女の子の方だったが、子どもたちはが四歳になった頃には、どちらかが女の子でどちらかが男の子か誤解するようなことはなくなった。五歳になると、幼い女の子はすでにズボンよりスカートを好み、髪にリボンを飾ったり、ブレスレットやフリルのついたブラウスを着るのを喜び、パパの小さな恋人であることを嬉しがった。(中略)母親の報告では、五歳のときのクリスマスにもらいたいプレゼントのリストの筆頭は人形と人形用の乳母車であり、男の子とは正反対にきれい好きで好みがやかましく、長い髪を喜んでいろいろなヘアスタイルを試したり、台所仕事をしばしば助けようとしたという」
(マネー「性の署名」人文書院 一九七九年 原文は一九七五年刊)

 ところが、これは嘘だったのである。八木氏はこのことを「ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス大学病院で何が起きたか」(ジョン・コラピント著 無名舎 二〇〇〇年)を基に書いている。
 それによると、ブレンダには最初から女らしいところは微塵もなかった。ドレスは引き裂こうとし、父親v遒剃りに興味を持った。去勢後もおしっこは立ってしていた。思春期には声変わりもし、体毛も生え、誰がどう見てもブレンダは男であったのである。
 ブレンダの行動は母親からマネーに報告されているが、マネーは「時間が経てば全て解決する」などと言いながら、これらの事実を隠し続けた。そればかりか、マネーはブレンダに対して女の子としての自己認識を植え付けようs禊形手術を要求し続け、豊胸のための女性ホルモンを飲ませた。また、ポルノを見せたり、弟のブライアンと性行為の真似事までさせた。
 ブレンダは十四歳の時に両親から事の真相を告知され、それを切っ掛けに男に戻ることを決断する。一九八〇年にはディヴィッドと名前を改め、男の人生を取り戻す。
 マネーはその頃より「双子の症例」について言及しなくなる。同僚たちには「追跡不可能」になったと嘘をつき続ける。
ディヴィッドはペニス再形成手術を受け、三人の連れ子を持つ女性と結婚生活を送るが、二〇〇四年五月に三八歳の若さで自殺する。
母親は「ディヴィッドにはつらい思いをさせた。あの惨たらしい実験がなかったら、あの子はまだ生きていたでしょう」と言っている。

 「ブレンダと呼ばれた少年」はどういうわけか売れ行き好調にもかかわらず突然、絶版にされ、一時、古本として高値で取り引きされた後に、扶桑社から再刊されました。それに対してマネーの「性の署名」は破綻した学説であるに関わらず、増刷され女性学のテキストとして読み継がれているそうです。

 我国が現在九兆円以上もの国家予算を組んでいる「男女共同参画」はその根拠が破綻した学説が元になっているからには、その抜本的見直しが早急に必要なのですが、その気配すらない。腐れマスコミもこの九兆円の無駄遣いを報道しない。



 ホセさん二名様で来店。マルガリータさんSさん来店。アンコウ鍋。Sさん二名様で来店。Kさん二名様で来店。わ。さん彼女と妹さんと来店。あとで一名様来店。Tさん二名様で来店。マロさん来店。
ドンチャン。営業終了後、西荻で「ひげ」のマスターとドンチャン。記憶無し。


初アンコウ
10月12日金曜日晴れ ×××

 河岸に行ったら、活けアンコウが入っているとのこと。一・八キロで価格も安いので購入。
 帰って来て、さばいたらなんと胃袋にヒラメ二匹とちっこい「アンコウ」。そのちっこいアンコウをさばいたら、またちっこいヒラメ。
う〜ん、自然界。


 今日はどういうわけか大忙し。
Kさん来店。バンブーさん来店。Oさん二名様で来店。Aさん四名様で来店。Tさん二名様で来店。横浜からFさん来店。Tさん四名様で来店。御結婚おめでとうございますということで、ドンチャン。 KさんEさん来店。Kくん来店。
ドンチャン。磯自慢の14BYを開ける。旨し。

月下美人
10月11日木曜日晴れ ×
 
 今日も御予約もないからヒマかなと思っていたら、Hさん四名様の御予約の電話あり。七名様の来店あり。あとでおひとり追加来店。金チャン、マロさん来店。初亀の橋本社長、瀧自慢の杉本社長来店。そのすぐ後に、美丈夫v?川社長と岡崎さんが来店。ということで、席もなく、びっしりのところに、高校時代の同級生の玉置から「今、新橋で飲んどる。いまから三人で行く」という電話。「あかん、珍しくいっぱいや。今度にしてくれ」
 う〜ん、上手くいかないものです。
 ドンチャン。
営業終了後、インターネットで内藤・亀田戦のニュースを見ていたら、こりゃ、総合格闘技かと思うような写真が続々。ボクシングじゃあなさそう。なんともわかりやすい家族。

当店の大家さん(の息子さん)が育てている月下美人がきれいに咲いていた。というか、昼間今日あたり咲きそうと思って写しておいたものと、営業が終わって、深夜に咲いているものを写したものです。ただ、今年は暑過ぎたのか、蕾のままポロポロ落ちる現象などもあり、去年は八回ほど咲いたと思いますが、今年はまだ三回目。小さt絏もあるからあと二回ぐらいは楽しませてくれるかも。


 

体育の日
10月10日水曜日曇
 
 今年の体育の日は一〇月八日でした。来年は一〇月一三日です。第二月曜日を体育の日として、連休を増やすということで、このようなことになっているのですが、このことにより、そのうち何十年もするうち、日本人の大部分は今日が東京オリンピックの開会式の日であり、本当の意味で体育の日であるという事を思い出す事もなくなるのでしょう。祝日には、本来なぜその日が「日本」の祝日であるかという意味があります。それぞれの祝日の意味など関係ない、意味も知らない方がいいということは、日本人の根幹にかかわるものを隠す。日本人の精神的な破壊。それが、戦後教育ですが、今、アメリカではなく、公明党など日本人自身によりそれが行われている。
 午後よりスポーツセンターに行く。調子がイマイチ。手首も少し痛い。回数は少なくしてそれなりにメニューを消化。
 初めての女性の方おひとりで来店。
 お客様がお帰りになった後、ヒマなので、ついつい飲み始め、そのまま営業終了・・・・・


慰安婦と軍人の給金の比較
10月9日火曜日小雨のちくもり △
 今日、河岸に行くために日比谷線築地駅から出るとすぐに男性が乞食の真似事をしていた。真似事と書いたのは、男性がやっていたのはあくまでマネゴトであり、乞食ではないと感じたからです。
 えらそうにあぐらをくんで座り、前にカンを置いている。
 この男性は私より少し年齢が上なだけと思います。働こうと思えば働ける年齢でしょう。汗水流して働く事を放棄し、自分では働かずに見ず知らずの人から金を恵んでもらうという卑しい根性。
 現在でも部落差別差別と騒ぎながら、公務員の就職枠など特別扱いを受け、カラ出張、カラ残業代を受け取り平然としているダニ連中。
 ウソをついても、もらえるものだったら何でももらう。金を寄越せと叫んでいる朝鮮人慰安婦、インドネシア慰安婦などと同じようなものを感じます。

 その金学順など朝鮮人戦時売春婦の証言については湊郁彦氏が著書「昭和史の謎を追う」(文春文庫)、杉本幹夫氏の著書「植民地朝鮮の研究」(展転社)など数々のみなさんが強制連行についてそのウソについて指摘しています。
 金学順は訴状(全文は平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』日本図書センター一九九二年刊収録)では「一九二三年生まれ。金泰元の養女となり、貧しさのため十四歳で四十円で養父に妓生として売られ」
 文玉珠は訴状では「一九二四年貧家に生まれ、女中をしている時、宋という朝鮮人から『食堂で働かないか』と誘われ、四二年釜山から船でビルマに渡った。慰安婦として働いて、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送った。」
となっています。
 文玉珠という慰安婦は、平成四年に二万六千百四十五円の郵便貯金返還の訴訟を起こして敗れている。
 連合国軍がビルマの朝鮮人慰安婦に尋問した結果 報告によると、「一カ月三百−千五百円の稼ぎを得て、 五〇−六〇%は経営者の取り分だった」
となっています。つまり、慰安婦としての稼ぎは月収にして百五十円から 七百円ほどにもなります。
 当時の日本人の月収はどれほどだったか 。
 警察官の初任給が四十五円、 大学の年間授業料は早大が 三百四十円、慶大が三百五十円
『値段の明治大正昭和風俗史』(週刊朝日編)

 そして、下記にその慰安婦に対して料金を払っていたであろう我が国の軍人がどれだけ給料を得ていたかを記します。

武官俸給

階級

? 年額 円
大将 ?

六、六〇〇

中将同相当官 ?

五、八〇〇

少将同相当官 ?

五、〇〇〇

大佐同相当官 ?

四、一五〇

中佐同相当官 ?

三、二二〇

少佐同相当官 ?

二、三三〇

大尉同相当官 一等

一、九〇〇

? 二等

一、六五〇

? 三等

一、四七〇

特務大尉 一級

二、〇七〇

? 二級

一、九一〇

中尉同相当官 一等

一、一三〇

? 二等

一、〇二〇

特務中尉同 一級

一、七四〇

? 二級

一、六三〇

少尉同相当官 ?

八五〇

特務少尉 一級

一、四七〇

? 二級

一、三七〇

階級 ? 年額 円
一等樂長 一等 二、一五〇
? 二等 一、九〇〇
? 三等 一、七五〇
二等樂長 一等 一、五四〇
? 二等 一、三九〇
三等樂長 一等 一、二四〇
? 二等 一、一三〇


陸軍

准士官 一等

九六〇

? 二等

九〇〇



海軍
准士官 一級

一、二二〇

? 二級

一、一五〇

? 三級

一、〇四〇

? 四級

九〇〇



下士官

陸軍下士官

海軍下士官

階級 ? 月額 円
曹長同相当官 一等

三九・〇

? 二等

三四・五

? 三等

三〇・〇

軍曹同相当官 一等

二二・五

? 二等

一八・〇

? 三等

一五・〇

? 四等

一三・五

伍長同相当官 一等

一〇・五

? 二等

九・〇

階級 ? 月額 円
一等下士官 一級

五五・四

? 二級

四九・〇

? 三級

四一・七

? 四級

三四・七

二等下士官 一級

二八・九

? 二級

二七・四

三等下士官 一級

二三・二

? 二級

二一・六

「知識の宝庫」学習社 昭和一三年版二九九頁(私は「正論」平成一九年一〇月号P四〇九〜四一〇より引用)

 大将でも年間六六〇〇円の金額であった時代に、文玉珠という売春婦は二万六千百四十五円の郵便貯金を持ち、ためた一万五千円のうち五千円を実家に送ったのです。
 ちなみに、郵便貯金の二万六千百四十五円は確認されたが敗訴になっている。つまり、間違いなく、その時代にその大金を慰安婦をする事により稼いでいたのです。
 何度も書きますが、売春婦は歴史的にも今も世界有数の売春大国であリ続ける朝鮮はもちろんの事、我国にも存在します。需要があり、そして、お金になるからです。ましてや、今よりも貧しい時代であり、売春も合法であった時代ということを考えればおのずとわかることです。
 それを強制だと騒ぐ嘘つき朝鮮人慰安婦。
 まあ、一番の問題は、そういったダニを焚き付ける朝日新聞などの腐れマスコミとアホな日本人連中です。


 二名様来店。Kさん来店。
 飲む。



生ゴミ
10月8日月曜日雨 ○

 今日は一日中部屋に居た。
 写真は昨日やった店のツタの刈り込み。いっさい肥料もやらず、当店から出る生ゴミだけで元気に育ってくれているが、それがまたゴミになる。それも45Lのゴミ袋二つ・・・・


 
 野茂英雄投手が中南米ウインターリーグに参加するというニュースが先日あった。三九歳だそうだが、がんばってほしいものです。野茂選手が切り開いたからこそ、今のアメリカメジャーリーグでの日本人の活躍があるのだと思います。少なくとも、一番最初に切り進む者が一番大変ですから。

ダイセンセイが語る聖教新聞とは
10月7日日曜日曇り ○

 昨日の気狂い新聞(通名聖教新聞)にはこの新聞の「果たすべき使命と役割」として池田大作ダイセンセイのお言葉が掲載されていました。
以下引用
「一般の新聞は、暗いニュースに満ちている。それは、社会の反映だから仕方がないにしても、そうした社会のなかで、人びとが、どうすれば希望を見い出していけるのか、歓喜をわき立たせていくことができるのかを考え、編集している新聞はない。
 また、人生の苦悩に対して、いかに挑み、克服していくかを教えている新聞もない。しかし、社会が最も必要としているのは、そういう新聞だ。
 それをやっているのは、聖教新聞はまさに人間の機関紙という以外にない」
「聖教新聞の使命は極めて大きい。学会にあっては、信心の教科書であり、同志と同志の心をつなg甄になっていかなくてはならない。また、社会にあっては、不正、邪悪と戦い、仏法の慈光をもって、まことの人間の道を照らし、万人に幸福と平和への道を指し示していく使命がある」

 (聖教新聞平成一九年一〇月六日第四面)

 第一面に毎日のように池田大作ダイセンセイが
金で買った名誉を掲載することが、「人びとが、希望を見い出していける」「歓喜をわき立たせていくことができる」「人生の苦悩に対して、いかに挑み、克服していくかを教えている」ということなのでしょうか。
 自分の食い残しを他人に
食べさせて喜んでいる変態が、ここまで言うかという感じです。

 ちなみに、今日はギリシャ国際作家・芸術家協会とかいうところが、「桂冠詩人」の池田大作ダイセンセイを顕彰だそうです。

これほど、世界で有名といわれているお方も少ないでしょう。

あほらし

 店を片付けてから、ツタを刈り込む。スポーツセンターに行く。昨日できなかったメニューを消化。
 高田馬場にある芳林堂による。店に寄り生ゴミを出してから帰宅。
 途中、コンビニにて明日一日分の食糧を購入。
 

10月6日土曜日晴れ ×
 河岸に行く。昨日入荷していなかった活けアンコウがたった一匹入荷していたが、四キロ以上もあるでかいもので、三名様で召し上がっていただくわけにいかず、あきらめる。
 アンコウの上キモを購入。
 
 午後より、スポーツセンターに行く。今日、ベンチプレスで同じ組になった人は百三十キロを二回もあげる人。身体も180センチ以上とでかかったけど。

 清水さん三名様で来店。アンコウ鍋ができなかったので、刺身、アンキモソテー、クエ鍋ということで。横浜からAさん三回目の来店。大台さん二名様で来店。わ。さん来店。一名様来店。
 ドンチャン。

倉沢愛子 朝鮮語抹殺
10月5日金曜日晴れ一時小雨 ×

 この倉沢女史は大学教授と思えぬほどの無知ぶりを発揮しています。
以下引用
 朝鮮では一九三八年から学校教育において朝鮮語の学習が禁止され、翌一九三九年には朝鮮人も日本名に改名する事を命ずる法令が公布(P80)

 周知のように、朝鮮、台湾では日本語が「国語」として位置付けられ、教育の場から民族の言葉を抹殺する試みが行なわれた。朝鮮では、授業時間外に友人どうし会話する時にも「国語=日本語」の使用を義務付け、それをチェックするために、校内に「国語常用箱」を設置した。朝鮮語を使用した聖徒を見たら、その名を書いてこの箱に入れることになっており、投書された生徒は週末に処罰されるというほど徹底していた。(P199〜200)
<「大東亜」戦争を知っていますか。>倉沢愛子 講談社現代新書より引用終わり

 とても正気とは思えません。
 何度も書いていることですが、我国が統治している間に、朝鮮語が禁止された事は一度もなく、ハングル文字が普及したのは我国の朝鮮統治時代であるのは明らかです。
 日本が朝鮮半島の普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは一九四一年(昭和一六年)であるが、授業が無くなっただけで、禁止したわけではない。一九三八年には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとの事です。
 いずれにせよ、我国の統治時代のそれまで三〇年近くは朝鮮語が必修科目であったばかりでなく、官庁では一九三九年まで朝鮮語の学習を奨励する朝鮮語奨励費が支出されている。約三〇年為政者は朝鮮語を学び、朝鮮人には日本語を学ばせ、意思の疎通を図るように努力したのです。

 明治四三年(一九一〇年)併合後の日本は朝鮮半島における学校教育で朝鮮語を必修科目とし、その後、朝鮮半島では昭和一二年(一九三七年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。
毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していたし、京城帝国大学では朝鮮語学科および朝鮮史も終戦まで続けられていた。
 倉沢女史はこのような事実も無視して、「教育の場から民族の言葉を抹殺する試みが行なわれた」と書くのです。

 この倉沢女史は他の本の巻末にも下記のような事を書いています。
以下引用
「占領地インドネシアにおける日本語教育で重要なことは、植民地であった朝鮮や台湾のように、被支配民族の言語を否定して、学校教育の場で日本語だけを使うよう強制するようなことはせず、あくまでインドネシア語の使用を第一とした点でである」
引用終わり
「日本占領下 バリ島からの報告」(鈴木政平著 草思社刊)の巻末解説p二九七より

 事実を事実とせずに、自分のイデオロギーに基づいた考え方によってしか、物事を見ていない典型的な例です。

 バンブーさん来店。Aさん三名様で来店。金ちゃん、マロさん来店。Sさん二名様で来店。
 ドンチャン。美丈夫のゆずリキュール旨し。


倉沢愛子 慰安婦と補償問題
10月4日木曜日晴れ ○

なぜ、戦時売春婦に対して我が国が補償をしなければいけないのか。倉沢女史はそれについて下記のように書いています。 
以下引用
 こういった訴えに対して、一九九四年に、女性のためのアジア平和国民基金(通称アジア女性基金)という民間団体が設立され、民間からの寄付金を集めて、元従軍慰安婦であったことが認定された女性に対して、償い金を支払うことになった。この組織の運営には、政府の補助金が拠出されているが、あくまで民間団体である。補償は民間の団体ではなく、日本政府が直接取り組むべきだという反対意見などもあるが、すでに、韓国やフィリピンの一部の被害者には、償い金が支払われている。しかし、インドネシア政府社会省は、一九九六年に、「アジア女性基金からのお金は個人的に受領する事は認めない。養老院などの社会福祉施設の充実の為に使う」という方針を発表した。そしてその目的のために、アジア女性基金は、三億八〇〇〇万円を一〇年間でインドネシア政府の社会省へ支払う事になった。しかし、恥を忍んで名乗り出た元従軍慰安婦の人たちは、当然それでは不服であり、前述のマルディエムさんもそれを怒っていた。年老いて、医療費も十分払えないような状況にいる老女たちにとって、ともかくいますぐ必要なのは現実的な解決方法ではないだろうか、と私は思う。なぜなら、マルディエムさあんが言うように、もう時間がほとんど残されていなにのだから。
引用終わり
P168〜169
<「大東亜」戦争を知っていますか。>倉沢愛子 講談社現代新書より引用

 これだけで、売春婦に対して我が国が補償しなければいけない理由を見い出す事ができる方はいらっしゃるでしょうか。売春という仕事をして稼いで、年をとったから日本政府が金を出せと言っているだけなのです。

<もう時間がほとんど残されていなにのだから。>どうぞご勝手に!

 同じく我が国の戦後補償について倉沢女史は下記のように書いています。
以下引用
 ところで日本が独立を回復したのち、最初に片付けなければならなかった問題は、何だったと思う?そう、戦争の傷跡をなんとか癒して、各国との間にあるしこりを取り除いていくことよね。つまり、単に条約というような法的な解決だけじゃあなくて、本当の意味で「仲直り」しねくちゃならなかったの。そしてそのための第一歩としてまず問題になったのが、戦争賠償の支払いという問題だった。他人に何か迷惑をかけたとき、「損害賠償」を支払うでしょう?それを国と国との間でもやりましょうというわけ。
 それで、実際日本は、どんな形でいくらぐらい支払うべきかを、相手方との話し合いのなかで決めて行く事になり、それが戦後最初の本格的な日本の東南アジア外交の課題になったのよ。そして一九五〇年代を通じて支払い対象国との間に賠償交渉が行なわれ、それが妥結してからは、分割でその支払いが行なわれたの。
 略)
そんなふうに日本は一応きちんと賠償を払ったの。でもそれでも、実はいまだに、戦後処理が未解決だっていわれるのよね。P234
略)
 ところが、一九八〇年代になって、東南アジア諸国の開発政策も一定程度の成果を生み出して一段落してくると、日本に対する眼差しも多極化してくるようになった。そんな時、一九八二年に、文部省の検定で、日本の高等学校の歴史の教科書の記述をアジアへの「侵略」から「進出」という曖昧な用語に書き換えさせたという報道がなされ、これに対し、アジア諸国が激しく異義を唱えたのであった。これ以降、日本政府も歴史教科書検定基準として「近隣アジア諸国間の近代史の歴史的事実に対する取扱いに国際理解と国際協調の見地で配慮する」という、いわゆる「近隣条項」を導入せざるをえなかったほどである。このことは、アジアにおいて日本が残した戦争の傷痕は、決して経済協力によって免罪されてなどいないということをはっきり示していた。
 そのようななかで今度は、一九九〇年代初めに韓国において、元従軍慰安婦だったとして名乗りを上げる女性達がでてきて、日本への個人補償要求が持ち出された。これまで日本は個人補償はいっさい拒んできた。そしてそれまで支払われた賠償は、あくまで国家に対するものであり、個々人への補償ではなかったのである。
P239〜240

 これはつまり、正式に結ばれた国家間の条約だけではない。もっと金を出せといっている朝鮮人売春婦や支那の国がらみの集りと同じ事をこの倉沢女史はいっているのです。他の売国奴と同じくこの近隣条項が誤報が発端となり結ばれたという経過を書いていません。また、同じく「アジア各国」ではなく、支那、朝鮮だけがその時に馬鹿マスコミの御注進により騒いだという事も書いていません。
 我国の大東亜戦争による被害を騒ぐのであれば、どうしてこの倉沢女史は専門であるはずの三〇〇年以上にわたるオランダのインドネシア植民地統治を騒がないのでしょう。そして、そのインドネシアがオランダより独立する時に、オランダはインドネシアに対して残した資産の代金として莫大な金を要求し、インドネシアはオランダにその金を支払った事を書かないのでしょう。
 同じ事であれば、我国は支那、朝鮮、台湾に莫大な資産を残してきており、その国々が独立する時にそれぞれの国々に資産を買い取らせることができたはずなのに、逆に朝鮮には賠償金という名目ではないが金をやっています。
このような事を倉沢女史などはどうして指摘しないのでしょう。
胡散臭い女性です。
 
 今日は珍しく多くのお客様が来店。初めてのお客様Yさん五名様で来店。Yさん来店。Y岡さん二名様で来店。Mさん二名様で来店。Iさん二名様で来店。Sさん三名様で来店。



倉沢愛子 慰安婦
10月3日水曜日晴れ ×

 手元に倉沢愛子女史の著書が三冊あります。
 「二〇年目のインドネシア」 草思社 一九九五年刊
 「女が学者になる時」 草思社 一九九八年刊
 「大東亜」戦争を知っていますか 講談社現代新書 二〇〇二年刊

 東南アジア社会史が専門だという倉沢愛子女史の著書「『大東亜戦争』を知っていますか」には貴重な?マルディエムというインドネシア慰安婦の証言が掲載されています。
 その女性の当時雇い主から付けられた名前が「ももえ」だそうです。
「も・も・え」
 笑っちゃあいけません。笑っちゃあ・・・・・・
でも、戦前に「モモエ」て名前をわざわざつける日本人関係者のセンスに脱帽。というか、ホンマかいなとなってしまいます。百恵ちゃんというと、日本人だと思い出すのは・・・・・
以下その証言よりの引用ですが、史料としてある意味貴重だと思いますので、なるべく全てを記させていだだきます。


以下引用
 私の一家は祖父の代からクラトン(ジョクジャカルタのスルタンの王宮)に仕えており、ジョクジャカルタの町で育ちました。一九四二年のある時、日本人がボルネオのパンジェルマシンのレストランと劇団で働く少女を募集にきました。その先頭にたっていたのはドクター・ショウゲンジという日本人です。戦後になって分かったことですが、どうやらその人は戦前歯医者としてパンジェルマシンに住んでいた人のようでした。戦前ジョクジャカルタからボルネオのパンジェルマシンへ行って劇団に入っていたアンボン人の娘や、その他何人かがいっしょについてきて説得したので、私たちは信じて応募したのです。
 ジョクジャカルタから四八人がいっしょに出発しました。うち八人はアンバラワから行った女性でした。汽車でスラバヤへ行き、駅につくと軍のトラックが迎えに来ていました。ホテルで一週間船待ちをし、また軍のトラックが迎えに来て港へ生きました。そこからニチイ丸で出発しました。
 パンジェルマシンへ着くと、四八人のうち八人はチカダという日本人が経営していたレストランに振り分けられ、一六人は劇団へ入れられていたのですが、残る二四人は、なんと慰安所へ連れていかれたのです。私もその一人でした。
 その頃の私はまだ一三歳で生理も始まっておらず、男性と付き合った経験もありませんでした。慰安所に到着した翌日、日本人医師による診察がありました。その時何人か衛生兵が同席していました。部屋に帰ってくるとその衛生兵のうち一人がわたしのところにきて強姦しました。出血して痛くて痛くてしかたないのに、引き続きいきなり六人の客をとらされ、一二回行為をしました。
P159〜160

慰安所のつくり
 慰安所は、日本人の「チカダ」という民間人が牛耳っていました。彼は慰安所と道路を隔てた向い側に住み、日本料理屋も経営していて、日常的にはそちらに多く顔を出していました。歳は三〇代中頃くらいでインドネシア語がうまかったですが、怒鳴る時は日本語でした。手も早く、無口だが粗野でした。お手伝いの女性を妊娠させたこともありました。
 慰安所は事務所のある本館を中心に、Uの字に建物が建てられ、二四の個室に区切られていました。私は一一号室をあてがわれました。各部屋は三メートル×メートルくらいの広さで、ベッドの他にテーブルが一つと椅子が二つありました。部屋の隅に体を洗う場所があり、消毒薬の入った水がおいてありました。その部分はカーテンで仕切られていました。女性たちには日本名が与えられました。
私は「ももえ」と呼ばれました。いまでも昔の仲間たちとはこの名前で呼び合っています。
 慰安所での食べ物は最初の一年は、肉もスープもついてまあまあでした。お皿もありました。食事は料理人が台所で作り、出来上がると声がかかります。我々は自分の皿をもって取りに行き、部屋にもって帰って食べました。まだ客がいる場合には、部屋に運んでおいてあとで食べました。しかし戦争後半になってくると食事も悪くなり、一日二回になりました。衣服は二回しか支給されたことがありません。石鹸や煙草もありました。
 慰安所に来る人はまず、本館で所定の金額を払って切符を買います。
昼間は一時間当たり二円五〇銭を払うと切符とコンドームを二枚支給されました。夕方五時からは民間人対象で一時間三円五〇銭、夜中の一二時以降は「泊まり」で一二円五〇銭でした。私たちは客の切符だけ受け取りました。その切符はあとで勤めが終わってジャワへ帰る時お金と引き換えてくれるということだったので、ベッドのマットレスの下に入れてしまっていました。でも最後は終戦時の混乱の中で解散したので、ついにその切符を現金と取り替えてもらう機会はありませんでした。時々入るチップだけが私たちの収入でした。
 事務所には、ダヤク人(ボルネオの種族)一名、バンジャル人(ボルネオの種族)一名、中国人一名がいました。切符を書いた慰安婦たちの名札が掛かっていて、先客がある時は裏返しになっていました。その場合男性は隣の待ち合い室でしばらく待ちます。空くとボーイさん(戦前からパンジェルマシンに住んでいたジャワ人)が部屋まで案内してくれるのでした。
 将校たちは多くは自宅で妾をもっていたので慰安所へは来ませんでした。男達は、一時間に何度も要求しました。料金は回数でなく時間で計算されたからです。一回で満足する者は少なかったです。一時間たっぷり利用しないで早く帰る人がいると、すぐ続いて客をとらされました。空くと、ドアの前の表札に「空き」と記されました。中には自分から売り込んで客を多くとろうとする女性もいました。
 日本人にも優しい人がいました。「ワタナベ」という特警隊員は、娘が二人あるそうで「もし自分の娘がこんなことを強要されたら、私はそいつを殺してやる」といって私に同情し、二・三時間分の切符を買って私を休ませてくれました。彼は私に助言も与えてくれました。会話はほとんどが日本語で、時折インドネシア語を交えて行なわれました。
 慰安所はいつも満員で空いている時がありませんでした。仕事はいつも忙しく、一年たたないうちに、仲間のうち五人が体を壊して帰郷させられました。それで残った者たちはさらに忙しくなりました。
 
故郷との通信は許され、送金もできましたが、何の仕事をしているかは言いませんでした。
 毎日衛生兵による検査があり、その他週に一度軍医による検査がありました。病気だと休む事ができ、ドアの表札に「休業」と書かれました。一九四三年以降、検査官はインドネシア人になりました。時々私たち自身でお互いに検査しあいました。
月に一回、毎月五日は慰安所全体が閉店で、私たちも休日がもらえ、映画や芝居を見に行きました。
 P161〜163
 
妊娠
 二年目の一九四三年に私は妊娠してしまいました。普通はコンドームを使うのですが、なかには使うのを嫌がる人もいて、私たちはそんな時抵抗できないのでした。
 略)
 
中絶後三カ月は休ませてもらえるということで、慰安所とは別の場所で療養していましたが、一カ月たったところで、ある日、朝の九時頃に連合軍の空襲があり、住んでいた家が爆撃を受けました。ちょうど水浴びをしようとしていた時でした。それで、下着姿のまま逃げ出し、他に助けを求められるところがなかったので慰安所へもどりました。
 その時「チカダ」がひどく怒って殴りました。「なんで爆撃で死ななかったんだ」ということでした。あまりひどく殴られ、失神して気がついたら夕方四時頃でした。私は着るものも食べるものもなかったのですが、仲間が出して分けてくれました。
 その夜彼が私を家に呼び出し、「さっきはどうも感情的になってすまなかった」と謝ったが、その後で彼が私を強姦しました。三カ月休めるということでしたが、私はそれ以後仕事に戻らされたのです。
P164〜165 
 第二陣の到着
 ちょうどその頃、ジャワから第二陣が到着しました。ジャクジャからだけでなくジャワ各地から集められた者で五〇人ほどがいました。ほとんどが、周辺の村から連れてこられた女性達で、ジャグジャの町の出身者が中心だった第一陣とは違っていました。人数が増えて仕事は少し楽になりました。とはいえ、田舎の人たちは、お化粧をするにもほお紅を真っ赤に塗るなど野暮ったかったため、やはり、第一陣の都会の子の方が人気がありました。第二陣が来ても部屋は増えませんでした。彼女たちは専属の部屋がなく、その時空いている部屋…………
生理や体の故障で休まざるをえない人も結構たくさんいたのです…………を使っていました。部屋が足りない時は、道路の向こう側の、チカダの家の隣に設けられた休憩所で待ちました。そこには、本来その日仕事を休む者が療養する部屋でした。
 第三陣はバリックパパンから移ってきた人たちです。彼女たちはバリックパパンへ到着して三カ月ほどしたところで、町が連合軍の手に落ちたので逃げ出し、歩いてパンジェルマシンへやってきました。一五人がいっしょに出発したそうですが、途中で七人が脱落し、八人だけ到着しました。彼女らが来て間もなく終戦になりました。
P165〜166

終戦そして結婚
 終戦になると、私たちの慰安所の跡には、ロームシャが集まってきました。私たちは、今度は連合軍の相手をさせられるのではないかと恐れて、ダヤク族の集落へ逃げました。仲間の一人がダヤク人と結婚しました。事務所で働いていたダヤク人の甥です。それで私も彼女といっしょにその御主人の村へ逃げました。
 そのころ、いまの夫と出会いました。彼は元々蘭印軍(KNIL)の兵士で、戦争が始まると日本の捕虜になり、
日本の監督下で、われわれの慰安所へ野菜を納入する仕事をさせられていました。だから顔見知りでした。終戦前に彼はバリックパパンに移り、そこへ上陸した連合軍といっしょに、再びバンジェルマシンへやってきました。そして私を探し出してくれました。二二歳も年が離れていましたが、同じジョクジャの出身なので結婚することになりました。夫はその地でインドネシア国軍に入り、私は子供を出産しました。
元慰安婦だった仲間のうち六人ぐらいは、私と同じように元の蘭印軍兵と結婚しました。私は幸い子供に恵まれましたが、他の多くの仲間は子供を産めない体になっていました。
引き続き連合軍相手に売春婦になり、かなりお金を溜めた者も四人ほどいます。
 一九九三年春に、法律援護協会が元従軍慰安婦の登録を開始したと知って、私も名乗り出ました。それまで息子もその妻子も私が慰安婦だったということを知りませんでした。息子夫婦の理解が得られたので、名乗り出たのですが、その時、近所の人や親戚の中には、私に対して「恥ずかしいことをするな」と言って怒る人もいました。
(支援団体に招かれて)日本へ二回行きましたが、帰ってきた夜に、私がお金を持って帰ったかと思って強盗が入りました。私は強盗に「あんたバカじゃあない?日本がそんなに簡単にお金をくれると思っているの?」と言ってやりました。近所の人は口がさない人も多いです。「あんなに何度も日本へ行って、結局まだお金もらえないじゃないの」などと陰口をたたく人もいます。多くの者はもう、歳をとって、長くありません。早く解決して欲しいと思います。
P166〜167
証言の引用終わり

 この証言から、私はただの職業売春婦としか思えません。
 <昼間は一時間当たり二円五〇銭を払うと切符とコンドームを二枚支給されました。夕方五時からは民間人対象で一時間三円五〇銭、夜中の一二時以降は「泊まり」で一二円五〇銭でした。>
<故郷との通信は許され、送金もできましたが、何の仕事をしているかは言いませんでした。>
<中には自分から売り込んで客を多くとろうとする女性もいました。>
<月に一回、毎月五日は慰安所全体が閉店で、私たちも休日がもらえ、映画や芝居を見に行きました。>

 当時の軍人の給与は大将で年六六〇〇円ですから月五五〇円でした。下士官で曹長だと約四〇円弱、伍長だと一〇円程度です。いかに売春婦が高級取りであったかを示す例です。今も売春婦として働く女性が多いのはそのためです。
 そのお金を<その切符はあとで勤めが終わってジャワへ帰る時お金と引き換えてくれるということだったので、ベッドのマットレスの下に入れてしまっていました。でも最後は終戦時の混乱の中で解散したので、ついにその切符を現金と取り替えてもらう機会はありませんでした。>
と証言していますが、それは日本人も同じです。戦争のドサクサで総てを無くして帰国したのです。
 ましてや、現在でも、我が国で売春をして生活している女性が「私は売春で生活している」と親や友人、知人にしゃべっている方はどれだけいるのでしょう。
 そして、旧日本軍が引き揚げた後も、連合軍相手の売春婦として稼いでいるのですから、ぜひとも連合軍相手にも訴えを起こして欲しいものです。
 そんな戦時売春婦が銭が欲しいと名乗り出ただけなのです。
あほらし

 今日は河岸から帰って来て仕込みを終えた後に、スポーツセンターへ行くつもりが、ついつい遅くなり、スポーツセンターへ行く事が出来ずに終わる。
 Yさん二名様で来店。初めてのお客様Mさん三名様で来店。Eさん来店。大台さん二名様で来店。遅い時間にKくん二名様で来店。ドンチャン。でも記憶あり。

やっぱ
10月2日火曜日雨一時曇り

 昨日、メールをおくってくださった方に「一応、本日9月27日の当店の日記に、貴殿よりのメールについての感想など気づいた事を書かせていただきました。
ご覧いただければ幸いです。酒たまねぎや」と送らせていただいたが、それに対して、
下記のようなメールが来ました。
以下引用
<pierrot-猫@t.vodafone.ne.jp>
>ネタありがとう!
いぇ�◆△海舛蕕海蹴擇靴泙擦督困�ました♪笑”
ぶっちゃけ、うち女子高生でーすVこれはマジで本当。どんな反応返ってくるかと思ってキャラ変えてからメール送ってみたんよぉ。(ァドがPierrotだからバレるんじゃないかとちょっと心配だった笑)何通かで返信来なくなっちゃったから、つまらん!って思ってたらHPにUPされちゃったし↑↑笑”友達に自慢しちゃろ☆
あ、最初の喧嘩うってる感じのメールは何かの本の引用で、“小生”の方は昔の古文の先生の口調を真似して書きましたぁ♪さすがに“小生”が“喧嘩の人”とは別だっていうのを信じてもらえることまでは期待してなかったけど。でも仏教徒の合祀取り消せってやつはどっかで読んだはずなんだけどなぁ…違ってたのか(-.-;)まぁとにかく面白かったっす!!こんな人も居るのかと勉強になったしVまた暇になったらメァド変えてメールしちゃうかも!?(>艸<)
ちなみにぅちは左翼でも右翼でもありませーん

引用終わり

 この方は今までのメールはアホを装っているもので、ホントはアホじゃあないよと思っているかも知れませんが、本質は変わらないようです。
 この方が勘違いされているのは、女子高生だったらどんなアホでもゆるされるのと思っているのでしょうか。女子高生が免罪符になると思っている時点で、アホを曝け出しています。
 私は相手の年齢、職業を想定して返事を出させていただいているわけではありません。いただいたメールの内容そのものに対して返事を出させていただいているのです。
 「何かの本の引用」って書き方は普通はしないと思います。引用先が自分でもわからない本の引用とは何でしょう。それで「引用」できるのか???「「引用」という単語の意味さえ理解できない可哀相なお方です。
 「仏教徒の合祀取り消し」とかいうアホな事についても、メール以前に普通で考えれば、我が国ではそのようなことがおこりうる可能性がない事と理解できる事です。それさえ理解できない可哀相なお方。

 河岸に行くと、久しぶりにベビーキウイが入荷していた。トマトの「小春ちゃん」とともに購入。ワサビなどでお世話になっていたお店が先月末で閉めて、本店のみになった。う〜ん、厳しい現実。

 K@ソウルさん来店。今回は短期の滞在で、明日ソウルに帰られるそうな。南北朝鮮の首脳会談については南朝鮮では冷めているそうです。インチキラクターさん来店。Iさん来店。ドンチャン。記憶あり。
 
アホな番組
10月1日月曜日雨一時曇り

 N23では、集団自決を目撃したという証言ばかりで、「軍による強制」を証言している人は誰もいなかったのに、「軍強制」を復活をというのはどういうことなのだろう。
 長崎のことについても被爆地を「強制連行された中国人と朝鮮の人たちが刑務所に入れられていました」としゃべっていた。日本は偽善的と兵役拒否ドイツ人に言わしていた。そして、ドイツと日本は違うとも言っていた。あと、「長崎平和資料館」のスタッフのひとりが、支那で加害体験があると言っていたが、その体験が「中国人の子供たちの帽子を取って投げたりしていた」というのは笑った。
 しかし、こんなアホなところでボランティアしているとはドイツ人とは哀れな人です。
ナチスが支配し、民族抹殺しようとしたドイツと我国が違うのは当たり前です。
 アホはところをアホなテレビ局が取材し、毒をまき散らす。
 なんともわかりやすい構図です。


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