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「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画
(日本図書館連盟選定図書)
日韓共鳴二千年史と改題されて、明成社から発刊されました。その内容を勝手に紹介するコーナーです。(ページは日韓共鳴二千年史によります。)
朝鮮全権大使 李成玉 「李完用侯の心事と日韓和合」よりp303
朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉が各民族に接して みると、朝鮮人は米国人に軽蔑されているインディアンより劣り、
その他メキシコ、インドなどの民族より劣っていることを知り、衝撃 を受け、次のように述べています。
「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面
をもつことはできない。亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。
そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思って いるが、日本は違う。日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福
が受けられる道はない。
日韓併合が問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を 基に考察したのだ。」
朝鮮全権大使 李成玉
強制連行(P400~401)
◇その多くは自発的に来日
誤解の第一は、終戦時約200万人を数えた朝鮮人労働者の大部分は本人の自発的な意志によって渡航して来たもので、『強制的』に『連行』されたものではない、ということである。いわゆる『強制連行』は、大東亜戦争勃発に伴う労働力不足を補完するため、戦争中の昭和17年(1942)に、それまで自由募集であった朝鮮人労働者を『官斡旋』、すなわち朝鮮総督府が募集することにし、間に立った朝鮮人ブローカーが強引な徴用を行ったことを指して言う場合多いようだが、その実態ははなはだ不明瞭である。
そもそも日韓併合以降、貧しい韓国から豊かな日本へ移住しようとする朝鮮人は引きも切らぬ有り様だったのであり、朝鮮総督府や日本政府は法律の網の目をくぐってでも日本で働こうとする朝鮮人の密航者には、終始頭を痛めていた。法律を犯してでも日本に入国しようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で『強制連行』の必要があるのだろうか。その必要はなかったし、むしろ日本側は迷惑していた。昭和4年(1929)の『瀬戸方面に於ける朝鮮労働者事情』(名古屋地方職業紹介所)によれば、朝鮮と日本内地の賃金格差は二倍もあり、これに加えて毎年30万人に及ぶ朝鮮人の人口増加により、内地のみならず満州やシベリアへも多数の朝鮮人が移住しつつあった。日本内地への渡航希望者は度重なる日本側の規制にも拘わらず増加の一途をたどったのである。
昭和14年(1939)、内務省次官通牒『朝鮮人労務者内地移住に関する件』で、8万5000人の朝鮮人労働者の移住が認められると、炭坑の募集係のところには朝鮮人農民がどっと押し寄せ、夜中から列をなして待っていた有り様であったという。
また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人『強制連行』の起源と誤解している著作が多数見受けられるが(朝鮮人強制連行真相調査団「強制連行、強制労働の記録」、朴在一「在日朝鮮人に関する総合調査研究」等)、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19年9月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19年9月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月までの6ヶ月間に過ぎない。
◇徴用は強制連行ではない
誤解の第二は、『徴用』は『強制連行』ではないということだ。当時、内地でも日本人は戦時『徴用』されていた。併合の結果として日本に編入された以上(植民地ではない)、日本人たる朝鮮人を戦時『徴用』しても、『強制連行』の概念には当らない。今日の価値観を、体制の異なる戦時中にそのまま適用するのは歴史解釈として間違っている。
ベトナムの方がのべる韓国の残虐行為P672
第二次大戦後、我々はフランスとの戦争を含めて合計三十年間にわたって
侵略者と戦ってきた。そのため国土は破壊され、経済成長は遅れてしまった。
その中で特に残虐で野蛮なのは韓国軍であった。村を丸ごと焼け払い、死者の 耳までそいでいった。アメリカの捕虜になったほうが待遇がよかった。韓国の
捕虜になったら殺されるのである。
ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児 は名乗り出ないので、はっきりとした数は判らないが、一万人以上はいるはずだ。
日本人と「ハングル」p394
李朝時代の韓国は、中国をひたすら崇めて自ら「小中華」と称していることを誇り としていた。そのため漢文が重んじられ、ハングルは婦人や子供が使う字として
蔑まれていた。ハングルは日韓併合以前は、公文書にも、祝惚?文にも、全く使われ ていなかった。韓国人が全員読み書きできるようになったのは、日本統治時代に学校
でハングルを教えたことに始まっているのである。
総督府が編纂した「朝鮮語辞典」p394
これは、総督府に朝鮮固有の文化を尊重しようとする明確な方針があったためで、 そのほかにも朝鮮総督府は、明治四十五年に「朝鮮語辞典」に着手したり、大正十年
には「朝鮮語奨励規定」を設けて日本人官吏に朝鮮語の習得を奨励したり、大正十三年 には新設の京城帝国大学(現ソウル大学)に朝鮮語・朝鮮文字の講座を開設したりと、
朝鮮語の教育、普及に対策を講じている。「朝鮮語抹殺」の意図がもし日本にあれば、
総督府が率先してこうした施策を打ち出すはずがないからである。
韓国学長の言葉「戦わざる者は自ら滅ぶ」P638
私は平素学生に対して、韓国人としての自覚を促している。日本の韓国併合 に抗議する前に、韓国人自身が考えなければならないことがある。
日本の韓国併合に対してアメリカもイギリスも誰一人反対しなかった。世界 は当然のような顔で受けとめていた。それは何故か。清国軍がソウルを占領
しても韓国人は戦わなかった。だから日本軍が戦って清国を追い払った。ロシア が入ってきたときも我々は戦わなかった。日本軍が血を流して戦い、朝鮮から
ロシアを追い出した。だから日本はこれ以上トラブルはいやだと、朝鮮を併合して しまった。これに対して世界の列強は、日本がそうするのも無理はないとして、
ひと言も文句を言わなかった。このことを忘れてはならない。韓国は自ら滅んだのだ。日本の悪口を言い、責任を日本に押し付ける前に、我々は戦わなかったから
滅びたことを知らねならない。
加藤清正に感謝状を贈った朝鮮の王子たち!! P102より
(朝鮮成敗で活躍した)加藤清正が北朝鮮の会寧にまで攻め上ったとき、
二人の朝鮮の王子を捕らえたが、礼を尽くして処遇した。
翌文禄二年、講和談判が開かれるに及んで、秀吉の命令で、両王子を釜山 から首都・京城まで護衛(家臣・九鬼四郎兵衛)をつけて送り還した。両王子は帰還するにあたって感謝状を清正に贈った。
この書状は今も紀州徳川家に残っている。清正の娘が徳川頼宣の夫人となった縁故から同家に伝えられたものである。それを要約すれば次の通りである。
<壬辰元年七月二十四日に捕らえられてから礼遇され、厚い保護を受け、衣服糧食を与えられ、至れり尽くせりの待遇を受けた。このたび関白(秀吉公)殿下に上申して釜山から京城まで送り還された。その慈悲は仏のごとくである。
もし一行のものがこのことを忘れ、後日、日本及び清正公に対し、僅かでも背くようなことがあったら、人情を弁えぬ者であって、天地の神々もこれを知っているであろう。>
両王子は京城まで送り届けてくれた九鬼四郎兵衛にも感謝状を送り、その厚遇の 恩は永久に忘れない、と述べている。
このほか清正は両王子を一時、鍋島直茂に預けておいたことがある。そのため鍋島 氏の歓待を謝した書状が二通、鍋島家にも伝えられている。⊃静岨�悲の道を�?韻涼
に見る」という文言さえある。
清正の廟を作った朝鮮王子たち
両王子は京城に帰ってから、清正の恩を忘れないように、京城の南大門外に清正の廟を作った。そこには肖像画を掲げて生きながらの社とし、両王子は親しく祭文を読み上げたと言う。
清正に感激したのは、両王子ばかりではなかった。禮曹司という職にあった五人の高官は、秀吉宛に長文の手紙を書いている。この文書は現在熊本の本妙寺に所蔵されているが全文wA日本人の博愛」−辻善之助編−に載っている。
要約
<清正は利欲を求めず、ただ正事に奔走した。朝鮮北部を席巻すること、勇猛果敢であって、その姿は神か人か、男子中の男子であった。会寧で両王子を捕らえた時は辞を低くし、謙虚そのものであった。この姿に日本の風格を見る思いがした。両王子を釜山まで送るその態度は一貫していた。これこそ真の仁人であり、君子中の君子である。貴国の忠臣名将録に記録して明らかにすべきではないか。>
これら一連の資料に接しておれば、加藤清正という勇将の一面を窺うことができる。
清正が熊本人に今も「セイショウサン」として慕われている理由も判るのである。
佐藤栄作首相の陰徳
(刑死した韓国人である大日本帝国陸軍中将への恩返し) p492
佐藤栄作首相は満鉄の鉄道監察官時代、刑死した洪思秣中将に世話になった。
佐藤首相は遺族の未亡人と長男に会うと同情し、「大陸時代の洪氏への誼み にこたえょ唄別として些少だが受け取っていただきたい」として、自分の私財
百万円を贈与したという。
佐藤首相は当時現職であり、おおぴらに支援できなかったという。
遺族は六年間、日本に留まったが、五十年三月、未亡人は次男の留学先であるロスアンゼルスへ旅立ったという。
その年、築地の料亭で佐藤氏を囲む会が開かたおり、知人の安藤氏から遺族の近況を聞いた。知人曰く「遺族は総理からいただいた百万円は定期預金にしておいたので数十万の利息がつき、そのお金をもって未亡人は無事渡米し、次男宅
に落ちついた」と、報告をした。
すると佐藤首相は「安藤さんありがとう、気にかかりながらも立場上、充分なこと ができず、申し訳なかった。これで私も忘恩の徒にならずにすんだ」と人情味溢れる言葉で述懐したという。その直後、少し離れた席にいた福田聳夫氏と二言三言話した佐藤首相は安藤氏のひざの横に倒れてしまった。それ以後、佐藤首相は意識を回復
することなく、延々と眠り続け、六月三日に永眠したという。
戦前派の良識ある韓国人が述べる「歴史認識」P606
現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は
決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態
を打開しようと最後まで取り組んだ。それまでの日本はアジアのホープで
あり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それ
を呑むことは屈辱を意味した。事態ここに至る。座して死を待つよりは、
戦って死すべし、というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道 の発露であった。日本の武士道は、西洋の植民地勢力に捨て身の一撃を与え
た。それは大東亜戦争だけではなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調してもし過ぎることはない。
「日本文化研究所」設立者 朴鉄柱
閔文殖による「3・1独立運動」総括!
<日本政府は併合以来十年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、旧韓国時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらせた。にも拘わらず朝鮮人の性情が偏狭・我執に傾いているためか、口では感謝しながら、心では淋しさを感じ朝鮮人の自尊心を傷つけるなどという者が多い。
更に朝鮮人は米国を世界の自由郷を現世の楽園のように思っている者が多い。しかし、そこは白人の天国であって、有色人種の人権はほとんど認められない。パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提案したが、オーストラリアのヒューズ首相が
強硬に反対し、それを真っ先に支持したのはウィルソン大統領ではなかったか。米国の庇護に頼って栄光ある独立ができるなど不可能の事である。日本統治下の朝鮮人は、米国に比べてはるかに幸福であることを認識し、穏当な方法によって民権を
拡大していくことを講ずべきである。>
閔元殖 「朝鮮騒擾善後策−鮮民の求むる所は斯くのごとし」
安重根の伊藤博文公の暗殺に驚愕し、謝罪・追悼の意を表した官民多くの韓国人!
(安重根の収監されている監獄に面会する者一人もなし!)
衝撃が走ったのは、韓国の王室ばかりではありません。十一月四日の国葬(日比谷)には、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列しました。同じ日にソウルの奨忠壇
では、李完用首相の主催で、官民一万人が参列して追悼会がも催され、追悼会は全国 各地に及びました。
一ヵ月後の十一月二十六日には漢城府民会、その翌日は大韓商務局総会、十二月十三日
には永道寺がそれぞれ主催して、追悼式が持たれました。当時、旅順監獄に繋がれていた
安重根の所に面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等
の賛辞が続きました。
そればかりではありません。朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国十三道に呼びかけ、「渡日謝罪十三道人民代表臨時会議所」を設ける団体も現れました。また一方では、伊藤公
り諚帝廟のように、神としr濳る運動やら銅像ゃ踈徳碑を建立する運動も起こりました。
韓国農民の父・岩田平之助
(原始貧農・赤貧だった韓国の農業・農家を近代化したのはだれだったのか!)
日露戦争が終わって間もなくの明治三十九年春、岩田平之助は朝鮮に渡り 開墾事業に取り組んだ。(慶尚北道金泉)二三年後、彼は郷里和歌山からこの
地方の水田の条件に適合した品種の「早生神力」という種籾を持ってきて、自分 の農場に植えたばかりでなく、採種田を作り、その地方一帯の農場や農家に対して
まで広く普及させ、米の品種改良と増産に尽くした。農機具の改良や正条植(等間隔 に整然と苗を植えること)を教え、二毛作による増収もはかった。農民の生活の安定
と向上のために率先乗範すること、実に三十数年に及んだ。やがて「岩田公(アム ジュンクォン)」と呼ばれ、「農民の父」敬慕されるようになった。
今でも金泉地方には「アムジュンノンメンダー(岩田さんが水田の草を取る)」と いう言葉が残っている。木片を投げて競う子どもの遊びの中で、最高点になったとき
に喜びを表す時に使われる言葉で、岩田公が田の草を取る時の姿が蒲鉾の背中に似て いるところから来たものだそうである。昭和五十年頃、長男の岩田健吾氏が彼地を
訪ねたところ、「岩田公の御曹司来る」として大歓迎を受けたという。
我々日本人はこのことを決して忘れまい!
(インドネシアでオランダ軍に無実の罪で刑死させられた朝鮮人少年兵)
再度インドネシアを植民地にしようとするオランダ軍によって不当極まりない 軍事裁判の中に朝鮮人兵士朴成根少年が無実の捕虜虐待の罪で被告席に立たされていた。
裁判とは程遠いものだった。馬渕逸男司令官代理が気の毒に思い裁判の合間に面会に行った。
「真に気の毒な結末となって相すまぬ」というと「なあに運命ですよ。ここでは正邪曲直は
通りません。覚悟は決めていますから平気です。堂々と戦います」ときっぱり答えたという。
単なる復讐劇だからまともな判決が出るはずもなく朴少年も死刑の判決を受けた。
父親の代理ということで馬渕少将が死刑の直前朴少年に面会した。
「戦争が負けたばかりに君にこんな目にあわせて何とも申し訳ない」と云うと少年は 「何、仇に裁かれては仕方ない。しかし、アジアは独立しますよ。日本の勝ちですよ。
おかげで朝鮮も独立できます」最後に愛国行進曲を歌うといって少年は歌い始めた。
少将は聞いていて涙がこぼれたという。そして少年は
「私は一人息子で姉一人妹一人。親にかわいがられて育った。父は亡くなり姉は嫁いだ。
母は私の死を悲しむだろう。妹に私に代わって孝行して呉れと、(少将に同行した朝鮮の
友人に)遺言を頼みました」と云った。
制限時間はとっくにすぎたので千万無量の手を握り合って訣れたが。彼の瞳は澄み、
「もう、これで思い残すことはない」と云った。
処刑にあたっては卑劣なオランダ人の兵士達の前で威風堂々とした態度であったという。
刑木に縛られる前に見物人を一わたり見渡し、
「大韓国独立万歳、万歳、万歳」と偉大なる祈りを三唱した。
ときに昭和二十二年一月、朴成根少年享年十九歳。
良識ある韓国人の当たり前な意見 P663
「日本の首相は、訪韓するたびにお詫びをするが、口先だけのお詫びは
もうたくさんだ。そこには謝罪をしておけば済む、という安易さがある。
韓国をなめているのではないか。日本人に誠意があるのなら、当時の日本 の立場はこうだった。しかしこの点は気づかず行き過ぎもあり、申し訳な
かった、と具体的に言えば、我々も納得ゆくのに」
「日韓関係は基本条約の締結以来、好転しつつあった。それなのに日本の首相 が全面的に謝罪するようになっておかしくなった。そんなに謝罪するのなら
条約で決めた補償金にさらに上乗せして、多額の資金を支払わなければ、筋が 通らないではないか」
戦前派の良識ある韓国人
「近世以来の受難な歴史の中で、島山先生(韓国独立の父、安昌浩)のような偉大 な指導者がいることを在日の方が知らないことを憂いて、この本を発行しました。
日本は吉田松陰や福沢諭吉ら先覚者が出て明治維新を成功させて独立を守り抜いた。
しかし、韓国は余りに形式にこだわって改革を進めることができず、国を弱くしてしま った。島山先生は吉田松陰に似ていて、古い封建体質を改造して国の力を強くしようと
しました。責任は私たち自身にあるのであり、日本を恨む暇があるならば、自らの実力 の向上に努めるべきであると島山先生は訴えていました。
だから暴力に訴えるとか、日本人を恨むとかはしなかった。お互い、日本、韓国、中国
がそれぞれに立派になって東洋精神を持って世界に貢献しようと、島山先生は訴えておら
れたのです。
その島山先生の精神に基づいて、アジアの文明の主人公である私たちが世界のために尽く
そうではありませんか」
元KBS(韓国放送公社)会長 徐英勲
韓国は白村江の戦いで百済に救援軍をさしのべた天智天皇の像を!P63
現在、韓国の国定歴史教科書には、新羅軍が唐軍と連合して百済を攻撃し、滅亡 し、滅亡させたことは特筆していますが、日本軍が(海を渡り)救援に出かけたこと
は触れていません。また、百済の亡命者が大量に日本に赴いた記述もなく、それら百済 の政治亡命者を日本が暖かく受け入れたことも触れていません。こうした日本の役割が
無視されていることは残念でなりません。
さらに現在、靖国神社には大東亜戦争中、日本軍人として戦った朝鮮の戦死者二万一千余
が合祀されています。私は靖国神社に参拝した時、異民族でありながら日本のために戦死し
た人々の事を忘れたことはありません。だとすれば、白村江の戦いの時、負けたとはいえ
百済のために戦死した多くの日本兵を韓国側も「忠玲潭」に合祠したらどうでしょうか。
毎年繰り返される慰霊祭には、日本の神職や僧侶を招いて慰霊の行事を共済したら如何でしょうか。
いま、扶余の郡庁前に階伯将軍の巨大な銅像が建ち、また、別の場所には当時の敵将だった
金庚信将軍の銅像も建っております。さらには仁川には朝鮮動乱の時、国連軍を指揮して上陸
作戦に成功したマッカーサー元帥の銅像もたっております。だとするならば、白村江に、百済
を救援しようとした天智天皇の銅像を建てたらどうでしょうか。
韓国が日本の立場を理解し、大らかな立場に立てば、日本も韓国を尊敬し、日韓の友好は更に
増すように思われてならないのです。
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竹島はいうまでもなく、鬱陵島(ウルルン島)も日本の領土である!P680
もともと、日本と韓国(朝鮮)の領土争いは竹島よりはるかに韓国側に位置する 鬱陵島を巡って行われてきました。韓国は李朝初期より明治維新に至る四百五十年
間、鬱陵島を空島とする政策をとっていたため、鬱陵島より遠くにある竹島へ朝鮮人 がたどり着くことは困難でした。日本側は慶長年間以前から多くの漁民が竹島を経由
し鬱陵島まで進出し、漁業を営んでいました。元和四年(1618)には米子の大谷 甚吉、村川市兵衛が正式に江戸幕府の許可を得て、あわび、アシカの漁猟、せき木、
桐等の木材伐採を行っています。
元禄年間になると朝鮮人も鬱陵島へ渡航し始めたため、元禄六年、(1693) 日本側は鬱陵島で朝鮮人安龍福らを捕らえて、宗対馬守を通じ朝鮮政府に引渡しま
した。対馬守は、鬱陵島に対する朝鮮漁民の侵入を禁じる旨を伝え、朝鮮側は安龍福 らを処罰することを日本側に伝えています。
韓国国旗の誕生P156~8
壬午軍の乱の結果、韓国の謝罪使節団は日本の明治丸に乗船して仁川港から日本に
向かった。この船中で現在も使われている韓国の国旗(太極旗)が生まれたのです。
その国旗が初めて日本で掲揚された事情を李博士が書いている。
<明治丸は船長だけはイギリス人のジェームスを雇っていたがこの船長が好奇心を持って
珍客朴泳孝修信使一行と話を交えているうちに「朝鮮国王の使節が礼訪するのだから 貴国の国旗を貸してくれればマストに掲げる」という話を持ち出した。
その時まで国旗の
制定・使用をしていなかった朝鮮国王は、あわてざるを得なかった。幸い一行が出発する
前に政府要路の間で、国旗問題が論議され、修信使は「必要なときには適当に作って使用
せよ」という国王の内諾を得ていたから朴泳孝以下の使節団幹部は、明治丸の船上で、あら
かじめ構想していた太極八卦を出し、アストン総領事の意見を求めた。旗に関してアストン
よりも詳しいジェームスは、「太極の図案はよいが、周りの八卦は複雑だから、四卦だけを
四隅に配するほうがよかろう」と言い出して、一行これに同意して決定となり、ジェームス
の好意で最初の国旗標本として大、中、少の三本を画いてもらった。一行が神戸に着いてから、八月十二日、宿所西村屋の屋上に韓国旗が初めて掲揚された。その日から神戸に駐屯する
国外外交官は、この珍奇な国旗を写していった.> 「民族の閃光」より
中国・韓国以外のアジアの日本観
今から十五年ほど前、アジア各国の軍部代表がマニラに集ったときのことだ。例によって韓国軍の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を打った。列席のアジアの親日家たちは「韓国代表の演説は痛烈無残で聞くに耐えなかった。だが列席の日本の自衛官はひと言も発しなかった。」
そこで、列席していたインドネシアのアリ・ムルトブ准将は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した。彼はASEAN結成の仕掛け人である。
「日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。/ここで、インドネシアの日本民族の価値について申し上げる。今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。近くに強力な競争相手がいることは素晴らしいことだ。/つまり日本の近くに位置していることは幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けているといってよいくらいだ。インドネシアが日本に近ければ今のような貧弱なインドネシアではない。
つまり、我々インドネシア人は「日本はなにもしてくれなくてもよい。」と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分アジア・アフリカに尽くしている。
だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体の一員とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか。」