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ミクロネシア 大日本帝国の輝ける遺産


読み書き算盤、神社の掃除に、子守の手伝い‥‥遥か南洋の島で日本の美徳は生きていた
D.A.ヴァレンドルフ グアム大学教授 /小倉慶郎〔訳〕近畿大学講師
 大日本帝国の終焉から半世紀以上が経過した。その間、中国や朝鮮における大日本帝国の汚辱の歴史が語られることは多々あったが、一方で誰にも語られぬまま忘れ去られていく大日本帝国の「輝ける遺産」もある。私が今から語るのもそうした「忘れられた物語」のひとつだ。それはミクロネシアの島々における日本の物語である。
 私が米国の平和部隊の指揮官として初めてミクロネシアを訪れたのは、一九六六年のことであった。平和部隊の活動の一環として、我々はミクロネシアの島々の歴史を研究する必要があり、そこで初めて私は、大日本帝国が一九一四年から一九四四年にかけてミクロネシアを植民地統治していた事実を知った。私が派遣されたカロリン諸島西部のパラオには、まだ日本の統治時代を知る島民が多数生存しており、私は彼らからさらに詳しい話を聞くことができた。

 本論に入る前にミクロネシアの地理と歴史について簡単に説明しておく。「ミクロネシア」とは、北緯五〜二十度・東経百三十〜百八十度の北太平洋南西部に広がっている島嶼群の集合体であり、具体的には、マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、ギルバート諸島の四つの島嶼群から成っている。総面積こそ米国本土に匹敵するが、総陸地面積はというと、日本の九州にも満たない。
 ミクロネシアを最初に発見したヨーロッパ人は、一五二一年、グアムに立ち寄ったかの有名なマゼランである。
マゼランの寄港により、スペインが領有権を主張し、以後スペインのミクロネシア支配(マリアナ諸島のみ)は一八九八年の米西戦争後にドイツに売却されるまで続いた。ドイツは「ミクロネシアの金」と呼ばれたコプラ(ココナツの果肉を乾燥させたもので、上質で用途の広いヤシ油がとれる)に投資し経済発展を図ったものの、台風と害虫に悩まされ、母国からの移住者に永住を決意させることもできなかった。そして第一次世界大戦が勃発すると、大日本帝国が計算され尽くした戦略行動により、ドイツを破りマーシャル、マリアナ、カロリン諸島の中心部を全て占領したのである。

 日本人とミクロネシア人の初めての邂逅は、十二世紀にまで遡る。十三世紀に編まれた日本の説話集『古今著聞集』には、姿形からミクロネシア人と思(おぼ)しき「鬼」の描写がある。
「承安元年七月八日、伊豆の国奥島(おきのしま)の浜に、船一さうつきたりけり。〔中略〕かの鬼八人船よりおりて、海に入て、しばし有て岸にのぼりぬ。しま人粟酒をたびければ、のみくひける事馬のごとし。鬼は物いふ事なし。其かたち身は八九尺計にて、髪は夜叉(やしゃ)のごとし。身の色赤黒く、眼(まなこ)まろくして猿の目のごとし。皆はだか也。身に毛おひず、蒲(かま)をくみて腰にまきたり。身にはやうやうの物のかたをゑり入たり。まはりにふくりんをかけたり。各々六七尺計なる杖をぞもちたりける」(『古今著聞集』橘成季著・日本古典全集/与謝野寛編集/日本古典全集刊行社より抜粋)
 この「鬼」が本当にミクロネシア人であったとすると、これがミクロネシア人を描写した世界で最古の記録ということになる。
 また一八三〇年代後半には、約二十人の日本人がグアム島の海岸に流れ着き、余生を島でおくった。彼らは共同体精神をもって地元社会に同化し、住民たちに水田を使った稲作を伝えるなど、島の発展に尽力した。今日でもミクロネシアには日本名をもつ家系があり、彼らの先祖が百年以上前にこの島にやってきた証となっている。
だが日本とミクロネシアの本格的な交流が始まるのは、第一次世界大戦以降である

大日本帝国海軍の進出
 一九一四年十月、第一次大戦が勃発すると大日本帝国海軍は日英同盟を後盾にしてミクロネシア地域に進出、島々の中心部を占領し、そこにいたドイツ人たちを抑留した。
 日本軍が一九十四年にミクロネシアにやってきたときのことについて、当時サイパン島に住んでいたペドロ・エイダ氏は次のように語っている。
「サイパンの沖合に一隻の船が現れたのを覚えています。それは『カトリ』という名の、日本軍の軍艦でした。
大体午前十時ごろだったと思います。午後には、水兵たちが降りてきて、ガラパンの街へと入っていきました。
当時の私はやっと十歳になったぐらいでしたが、浜に座って一部始終をながめていました。
 日本兵は上等な白い軍服を着ていて、ドイツ兵の軍服は濃紺でした。ドイツ兵の一人は自分の軍刀を外して、日本兵に引き渡していました。夜になると、日本兵たちは街でお祝いをして、私たち子供には日本の将校が米でできたお菓子をくれました。みんなそれをとても気に入りました。日本兵とドイツ兵との間で、争いはほとんどなく、ドイツ人はすぐ降伏しました。ドイツ人は本当にわずかしかいなかったものだから」

 状況はパラオのコロール島でも同じだったが、後にパラオの首長となったロミサング氏は、「日本兵がドイツ人を処刑しようとしたところ、日本の民間人の何人かが間に入って、日本兵を説得し、処刑をやめさせたんだ」と語っている。
 日本軍によるミクロネシアの占領は迅速かつ完全に行われ、占領活動を通じての日本側の犠牲者は限りなくゼロに近く、唯一の負傷者は船のボイラー室で足を折った船乗りだけであった。こうして一カ月もかからぬうちに、太平洋におけるドイツの占領地は永久に失われたのである。
 第一次大戦が終わると、日本は米国のウィルソン大統領の主張により、国際連盟への加入とミクロネシア地域の委任統治を申請した。そしてパリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約において、ミクロネシアを日本の「C式委任統治領(注・委任統治は植民地人民の発達の度合いに応じてA、B、Cの三方式に分けられていた)」とすることが認められたのである。

 歴史的な出来事は、当事者が事の重要性を認識しないままに起こることしばしばであるが、この「国際連盟によって日本のミクロネシア委任統治が認められたこと」もその例のひとつであろう。北西太平洋地域が国際管理下におかれたのは、これが初めてだった。
 一九二二年、パラオのコロール島にミクロネシアの行政の中心となる南洋庁が置かれた。そこには日本から赴任した歴代の南洋庁長官が住んだ。日本統治時代の歴代長官は、手塚敏郎・横田郷助・堀口満貞・田原和男・松田正之・林寿夫・北島謙次郎・近藤駿介・細萱戊子郎の九人である。日本人の手で、過去ミクロネシアを植民地化した大国のいかなる施設よりも立派な学校や病院などがミクロネシア全域に建てられた。ミクロネシアの子供たちには三年間の義務教育が施され、選抜された優秀な生徒は、パラオ、ヤップ、ポンペイ、ヤルートなどの中心地でさらに二年間の教育を受けた。ミクロネシア人の半数以上が宗主国の言語で、初めて実用的な読み書きができるようになったのだ。

 病院では、ミクロネシアの住民全てに対して、数種の疾病に対する予防接種を受けさせた。漁業や農業をはじめとする産業も発展し、特に卓越した日本人実業家松江春次のもと、マリアナ諸島の製糖業はめざましい発展を遂げた。アンガウル島、ロタ島、ファイス島では、リン鉱石の発掘まで行われた。こうしてミクロネシアにおける公衆衛生状況、生活水準は日本のおかげで著しく向上し、住民の完全雇用が達成されたのである。

 島民の証言
 日本統治下のミクロネシアの住民の生活は具体的にはどのようなものだったのか。以下一九七〇年代から八〇年にかけて採録した島民へのインタビューから興味深い証言を抜粋する。前出のペドロ・エイダ氏(一九〇三年ガラパン生まれ)は、ミクロネシアにおける教育の状況について次のように語っている。

 <私が生まれた当時は、ドイツ人の学校が、今のカトリック教会の裏の丘の上にありましたが、私はその学校には三年ほどしか行きませんでした。というのも一九一四年には日本軍がやってきたからです。〔中略〕間もなく、日本人たちはかつてドイツ人たちの学校があったあたりに学校を開きました。私はその学校に通い、日本語を学んだのです。日本語の会話とヒラガナ、カタカナ、カンジなどの読み書きを習いました。私はよく勉強して、成績も良かったので、間もなくもっとも日本語の上手な生徒のひとりと見なされるようになりました。日本人の先生の名前は「オオタセンセイ」といい、サイパン人のアシスタントの名前はグレゴリオ・キリリ・サブランといったのを覚えています。私の記憶では、日本語以外の勉強はしなかったように思います
 一九一六年、私は「カンコーダン(観光団)」に便乗して日本へ行きました。観光団のメンバーはミクロネシアの各地から集まった二十人ぐらいからなり、私はミクロネシア人のお年寄りの通訳兼お手伝いとして同行したのです。このことからも私の日本語がいかにうまかったかはお分かりいただけるものと思います。一カ月近くの滞在で、横浜、東京、大阪、日光をまわりました。私たちは神社や名所旧跡を訪ね、映画にも行きました。時には日本人の家庭で過ごし、たくさんパーティをしてダンスを見ました。とても楽しかったです。この旅の間中、私たちはシャツにズボンというお決まりの服装で、着物は着ませんでした。多くのミクロネシア人は歩くときに靴を脱いでいました。なにせ靴を履くのに馴れていなかったものですから。これは可笑しかったです。
 その後、サイパンに戻り学校生活を再開し、ほどなく日本語の授業の助手となりました。日本人は私の成績がよかったのを知っていたのでさらに勉強するために日本に戻るよう私に勧めました。だから私は教師になるための訓練をする「オヤマシハンガッコウ(小山師範学校)」に入るため再び日本へ戻り四年のコースを修了しました。その後さらに勉強し、「ジョウチタイガク(上智大学)」に入ったのです。その間は日本人の一家と暮らしていました。しかし一九二三年、日本では東京と横浜を壊滅させた関東大震災がおこりました。大変恐ろしかったです。それで私はグアムに帰りました>

 またニコラス・ゲレーロ氏(一九二八年ガラパン生まれ)も日本人の教育熱心については次のように語っている。
<私は一九三五年、だいたい八歳ぐらいのころから学校に通いはじめました。「ホンカ(本科)」と「ホシューカ(補修科)」で計五年間、公学校にいきました。もっとも公学校に入る前、父親によって「スズキギジュク
(鈴木義塾)」という民間経営の学校にいれられました。おかげで他のサイパン人の子供より有利な位置にあり、公学校に入ったときには一番になっていました。
 公学校の最初の先生は「ハッタンダ先生」で、次の先生は「ソエジマ先生」でした。私たちは朝勉強しました。
”ガラパン神社″を綺麗にして整えておくのも私たちの仕事でしたので、朝とても早くに起きて、神社まで散歩してから、運動場へいったものです。それから先生たちがその日一日の予定などを発表する朝礼の時間があり、「キミガヨ(君が代)」も歌いました。学校では日本語の会話と読み書きを勉強しましたが、算数も学びましたし、午後には庭仕事と農作業がありました。野菜を育てていたのです。
 私の記憶では一年目は男女別学で二年目から男女混合になりました。そうそう、行事もたくさんありました。
ひとつは「ウンドウカイ(運動会)」という運動競技の大会です。それは年に一回の大イベントで、学校にいる間はずっとありました。またニ年に一回は、海岸や山に遠足にもいきました。
 私は早くに父親を亡くしたため、母親によって日本人の「トモミツ」という一家に養子に出され、「ヒロシ」という名前を与えられました。彼らは私にとてもよくしてくれ、少なくとも一週間に一回は私は母のもとへ帰ることが出来ました>  エリボサン・ユンゲル氏(一九二四年生まれ)は、日本人の大工のもとで働いていた。
<私は「モッコウトテイヨウセイジョ(木工徒弟養成所)」を卒業するとすぐにパラオ支庁に雇われ大工仕事をするようになりました。そして三カ月後には、支庁を辞めて日本人の大工「コバヤシ」に弟子入りしました。私はコバヤシを「オヤカタ(親方)」と呼び、彼のアシスタントして働きました。プロの大工の日給が六円だったんですが、彼は私に四円払ってくれました。いい仕事でした。コロール地区のリバウストリートに幾つかの家を建てたのを覚えています>
 その他、使い走りから身をおこして、日本の会社に雇われ、会計の仕事をまかされたた者や、「ジュンケイ(巡警)」として島の治安の維持に携わった者などもいた。
 こうして島民は日本人に勤勉とよき倹約の美徳を学んだ。公学枚に通っていた島民の子供たちは、放課後になると日本人家庭で家事を手伝い、子守りをし、お使いをして、そこで得たわずかな賃金を島の郵便貯金口座に貯金していったのである。

「ナンボウ」の誕生
 日本人はミクロネシアを「南洋」と呼んでいた。「南洋」は彼らにとってはビジネスチャンスのある地域を意味した。実をいうと、ミクロネシアが日本統治下に入るはるか前、ドイツ統治下の時代から日本人事業家の一団はミクロネシアを投機の対象とみなし、進出していた。時にはドイツ植民地政府の疑惑と規制のもとにおかれながらも、小さな商業店舗を営み、自前の小型帆船の甲板でコプラなどの島の生産品と雑貨を交換することからはじめ、ついにはドイツ領ミクロネシアの貿易量の相当部分を支配するようになった。
 本国の支援もなく常に資金にこと欠く状況の中、彼らの人数に全く不釣り合いな経済的影響力を行使するようになったのである。
 そうした先駆者の苦闘のなかから、一九〇八年までに「南洋貿易会社」、通称「ナンボウ」が生まれた。ナンボウはコプラの生産や小売店のチェーンなどの成長著しい商業ネットワークをもち、貨物・郵便・乗客を島間輸送する五隻の船を所有していた。

 第一次大戦後、ミクロネシアにおける日本の委任統治が認められると、南洋貿易会社は海軍と契約し、島間ばかりでなく日本本土とミクロネシアとの貨物・人員の輸送に携わり、莫大な利益を挙げた。一九一七年の時点で
その資産は、当時の額で三百万円を超え、競争関係にあった会社をも吸収して、二〇年ごろには南洋全域に確固たる影響力と知名度をもつに至った。
 南洋貿易会社の事業の根幹をなしたのは、海上輸送であったが、特に南洋庁との取決めで、一九二二年に始まった定期島間サービス(日本領の島々と隣接する英国領の島々を結ぶ海上輸送)は、ミクロネシア全域に散らばっていた小さな商店を一大ネットワークに編成するのに大きな役割を果たした。
 そうした小さな商店の持主は、南洋貿易会社と契約を結んだ単独の貿易商人であり、彼らのお蔭で、ナンボウはミクロネシアに根をおろし、島の人達に多様な日本の商品とサービスを提供することができた。日本人商店の商品とサービスは、島民の嗜好やライフスタイルをより好ましいものに大きく変えたのである。

 もっとも始めから全てがうまくいったわけではない。特に委任統治が始まってからすぐに移住してきた移民団は悲惨だった。当初日本の民間資本が期待していたのは、マリアナ諸島における製糖業であった。台湾における日本の製糖業の成功もあり、一九一六年には、サイパン島に西村拓殖・南洋殖産といった会社が設立されたが、彼らはサトウキビ栽培や砂糖精製の知識はほとんど持ち合わせていなかった。結局その無分別な計画の犠牲者となったのが、投機家達にそそのかされてやってきた最初の移民団(小笠原諸島の小作農民、日本の貧しい漁民、朝鮮人労働者など)であった。彼らは南洋の強い日差しに焼かれ、作業で疲労困憊し、第一次大戦後の世界不況のあおりをくって(もともと倒産寸前だったが)西村拓殖・南洋殖産の両社がミクロネシアから引き揚げた後は、路頭に迷うほかなかったのである。こうした初期の事業の失敗をみた帝国議会や官僚からは、「南洋なんか見捨ててしまえ」という声もあがったが、海軍の説得により撤退にまでは至らなかった。こうした初期の失敗は、しっかりとした計画と技術そして本国の援助なしに行われる熱帯への移住は恐るべき人的被害を伴う、という教訓を残した。
 日本の産業がミクロネシアに確固たる基盤を築くには、固い決意と誠実さをもち、製糖業の技術を学んだ事業家が現れるのを待たねばならなかった。

 松江春次は米国のルイジアナ州立大学に留学、ハワイの製糖会社スプレッケルズ社で修業し南太平洋の「砂糖王」とまで呼ばれた事業家であり、すでに台湾で成功し、富と名声を得ていた。彼がマーシャル諸島においてサトウキビ栽培の可能性を調査していたちょうどその頃、南洋庁初代長官手塚敏郎は、朝鮮の経済発展に大きな功績のあった「東洋拓殖会社」に、数年前にサイパンに置き去りにされた日本人を救済する経済活動への協力を要請していた。
 松江は運良く、東洋拓殖会社から資金を調達し、政府からは事業許可と、西村拓殖と南洋殖産の資産を受け継いで、一九二一年「南洋興発会社」(通称「ナンコウ」)を設立することができた。そしてサイパンに取り残されていた日本人を雇い入れ、さらに沖縄や東北からも移民を募り、土地を開墾し、労働者にサトウキビの栽培と収穫の仕方を教え、砂糖精製所を建設したのだった。

 しかしながら、当初の松江の努力は実らなかった。害虫、胴枯れ病、インフラの欠如、農夫・労働者の未熟、そして大戦後の不況による砂糖価格の下落。様々な要因が一時に襲いかかり、さらに追い打ちをかけるように、初めて横浜に出荷した砂糖の積荷は、関東大震災が引き起こした大火災によって、市場に出回ることなく、倉庫の中で文字通り「灰燼に帰した」のである。相次ぐ失望と失敗のため、松江の事業は倒産寸前まで追い込まれてしまった。
 並の実業家であれば、事業を断念する他なかったであろう。しかし不屈の精神と天賦の才をもちあわせていた松江は、この困難を乗り切るために、南洋庁の資金援助をとりつけるなどして、わずか一年あまりで会社を立て直してしまったのである。一九二五年にはサイパンにアルコール製造工場と製氷所を建設、千ヘクタール以上の土地でサトウキビを栽培し、一九二〇年代末には五千人以上の労働者がマリアナ諸島にやってきた。
 本国政府もミクロネシアの経済発展のためには、島民よりもむしろ日本人の労働力が必要だとして、ミクロネシアへの移民政策を推し進めた。第一次大戦時は百人程度だった日本人は、太平洋戦争が勃発する頃には島民の数を上回るほどになった。「ナンコウ」は、そうした移民に対して、妥当な条件で土地を貸し、比較的寛大な経済援助を与えるなどして彼らの成功を助けたのである。

 こうして「ナンコウ」はサイパン近隣のテニアン、ロタにとどまらず、メラネシアやオランダ領東インドにまで進出し、さらに事業を多角化して、タピオカ、ココナツ、海産物、リン鉱石を扱い、倉庫業をも手掛けるようになった。
 松江は大正・昭和にわたって活躍したが、彼には公への奉仕と自らの蓄財を同時になし遂げようとする明治の企業家精神が息づいていた。彼は南洋での成功が、遠く離れた母国日本の威信を増し、同時に南洋地域自体の発展に貢献するという信念をもっていたのである。明治時代の日本の「殖産興業」の研究者にとっては、松江のサクセス・ストーリーとミクロネシアの経済発展のプロセスは、お馴染みのものだろう。というのは、松江と南洋庁の関係は、そのまま明治時代半ばの民間企業と日本政府との「相互的援助関係」にあてはまるからである。

 松江自身の事業家としての才覚と努力は疑うべくもないが、それでも南洋庁からの多大な援助なくしては、「ナンコウ」の成功はありえなかったのだ。タダ同然の借地料に加えて、必要な土地の開墾・整地と実際の栽培
作業には多くの助成金が出され、さらに南洋での砂糖産業に対しては優遇税制がとられていた。
 その一方で、「ナンコウ」が、ミクロネシアから物品を輸出する際に南洋庁に支払う出港税は、南洋庁にとって重要な収入源となり、一九三〇年代初めまでには、南洋庁の収入の実に六〇%を占めるようになった。ミクロネシアの経済発展は民と官の理想的な協力関係によって支えられたのである。
 こうして「ナンコウ」はサイパン近隣のテニアン、ロタにとどまらず、メラネシアやオランダ領東インドにまで進出し、さらに事業を多角化して、タピオカ、ココナツ、海産物、リン鉱石を扱い、倉庫業をも手掛けるようになった。
 松江は大正・昭和にわたって活躍したが、彼には公への奉仕と自らの蓄財を同時になし遂げようとする明治の企業家精神が息づいていた。彼は南洋での成功が、遠く離れた母国日本の威信を増し、同時に南洋地域自体の発展に貢献するという信念をもっていたのである。明治時代の日本の「殖産興業」の研究者にとっては、松江のサクセス・ストーリーとミクロネシアの経済発展のプロセスは、お馴染みのものだろう。というのは、松江と南洋庁の関係は、そのまま明治時代半ばの民間企業と日本政府との「相互的援助関係」にあてはまるからである。
 松江自身の事業家としての才覚と努力は疑うべくもないが、それでも南洋庁からの多大な援助なくしては、「ナンコウ」の成功はありえなかったのだ。タダ同然の借地料に加えて、必要な土地の開墾・整地と実際の栽培
作業には多くの助成金が出され、さらに南洋での砂糖産業に対しては優遇税制がとられていた。
 その一方で、「ナンコウ」が、ミクロネシアから物品を輸出する際に南洋庁に支払う出港税は、南洋庁にとって重要な収入源となり、一九三〇年代初めまでには、南洋庁の収入の実に六〇%を占めるようになった。ミクロネシアの経済発展は民と官の理想的な協力関係によって支えられたのである。

 南洋貿易会社(ナンボウ)・南洋興発会社(ナンコウ)の成功は、ミクロネシアにおける商業・農業・漁業などあらゆる産業の富の蓄積を推進し、ミクロネシアの自給自足を可能にした。ミクロネシアは行政府の補助金を必要としなくなったばかりか、増加する黒字は、わずかではあるが本国政府の国庫に歳入として加えられるようになった。民官の絶妙なるコンビネーションが、植民地の債務を資産へと転換させたのだ。

日本統治が遺したもの
 日本とミクロネシアの良好な関係は一九三〇年代半ばまで続いた。その後、植民地政府は、欧米との戦争の準備を始めた本国軍部の影響をうけるようになった。その意味でミクロネシアにおける日本統治は、常に二つの時期−南洋時代(太平洋戦争以前)と太平洋戦争時代−に分けて考える必要があるだろう。太平洋戦争時代は本当にひどい時代であった。戦争は関わったもの全てに災厄をもたらすのである。  太平洋戦争以後のミクロネシアが歩んだ道を簡単に振り返っておく。一九四二年から一九四四年まで二年半に及ぶ激戦の末、日本は米国にミクロネシアを奪われた。米国の兵器は日本人が築いた社会基盤をほぼ完全に破壊し尽くした。戦争終了後、日本国籍をもつ者は、本国に送還され、ミクロネシアの人口は七万七千人減少、経済も壊滅的な打撃をうけたのである。以後米国が国連合意に基づいて統治をおこなってきたが、一九六八年にはかつて豊かにリン鉱石を産出したナウルが独立、一九七九年には英領ギルバート諸島が独立した。そして一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、ミクロネシアの米国信託統治領は、新たな四つの政治的地域に分かれた。すなわち@北マリアナ諸島連邦(グアム島以北のマリアナ諸島)が米国自治領になり、Aパラオはパラオ共和国となり、Bマーシャル諸島はマーシャル諸島共和国となり、Eポンペイ、コスラエ、トラック(現チューク)、ヤップの四島はミクロネシア連邦として米国との間で自由連合関係に移行(ただし自治国家であり国連に如盟している)したのである。
 私は十五年以上にわたって、グアム大学でミクロネシア人の学生たちに、南洋時代のミクロネシアを講義してきた.彼らは私の講義に大変興味をもち、日本統治下の発展も自国の歴史の一部だと考える。それは実際に歴史上の事実なのであるから、当然の姿勢である。

 しかしながら私の講義を時折受講する、日本人留学生は講義には大変興味を示しながらも、「こんな歴史は日本では習わなかった」と言う。全く残念なことだと思う。日本人は自国の歴史を知るチャンスをみすみす逃しているのだから。
 日本統治が島民におよぼした利益・恩恵は極めて大きかったといえば十分であろう。今日、南洋時代に子供時代を過ごしたミクロネシアの政治指導者たちは、日本人が教育を通して彼らに、健全な価値観と規律を教えてくれたと感謝している。この価値観と規律こそが、現代の世界で彼らが活躍する際に何よりも役立ったのである。

諸君! 一九九九年六月号p一七四〜一八一より

D.A.ヴァレンドルフ
一九三九年米国生まれ。ハーバード大学教育学博士。E.O.ライシャワー教授に師事し、日本を研究。現在グ
アム大学教授。「パラオにおける日本統治の口承史」などの論文がある。

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