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酒たまねぎや飲んべえ日記

この日記の文責は、すべて酒たまねぎや店主である木下隆義にございます。



前田利貴大尉 その一 オランダの捕虜虐待

平成21年4月10日金曜日晴れ △

 私が前田利貴大尉の事を知ったのは、SAPIOに連載されている小林まこと氏の「ゴーマニズム宣言」が最初だったと思います。その後も何冊かの本に書かれていたのを読んだ記憶があります。

 随分前に高田馬場で開かれていた古本市で購入した「南海の死刑囚独房」(山口亘利著 国書刊行会 昭和五十七年刊)に掲載されていましたが、この本は昭和二十八年に飛鳥書店より刊行された「戦犯六人の死刑囚」を再刊したもので、 その本には「はしがき」として下記のように書かれている。

 <南海の孤島蘭印チモール島クーパンに、戦犯死刑囚として六人が残された。誰か一人でも助かって、死刑囚の悲痛な最後を祖国の同胞に知らせて欲しいとは、明日に銃殺を控えた死刑囚の血の叫びであった。幸い私が奇跡的に減刑の恩典に欲して祖国に帰った。

 この手記は、戦犯死刑囚の諦めきれない死の呪いをありのまま概要を記したものである。

 なお、クーパンにおいて悲痛な最後を遂げられた方々は、次の通りである。

 前田利貴君

 穴井秀夫君

 楠元信夫君

 西條文幸君

 笠間高雄君

 最後に本書の出版にあたって、多大の厚意と御努力下された巣鴨同人矢島七三郎氏、および飛鳥書店時女郁男氏の御好意を感謝します。

                山口亘利>

 著者の山口氏は愛知県豊川市出身、憲兵隊少尉候補二十一期生、憲兵大尉として蘭印スンバワ島にて終戦。昭和二十三年死刑求刑。

 その後、この巣鴨同人矢島七三郎氏と書かれているように、山口氏は減刑、帰国後も巣鴨拘置所の獄中にありながら、この本を出版されたのです。

 昭和三十一年恩赦。

   この本にはオランダの復讐裁判によるいわれなき罪により、獄につながれ、虐待を受けた様子が描かれています。  (下記の私とは山口氏、同じく文中にある「司令」とは刑務官に相当する者のことです。)

 <四月三日は神武天皇祭として異境の空でも相変わらず慶祝の意を表していた。この日はキャンプから特に御馳走を送るからと連絡が来ていた。ところがこの日のチモール人の司令は恐ろしく悪い男であった。

 六時頃、衛兵所に夕食が来た事を罐の音で知った。司令の中には特に忘れる者があるので、薄暗くなってからも夕食をくれない時は、こっちから扉をノックして大声で請求するのを通例としていた。七時半頃房の中は暗くなってきた。電灯がないので夜間は真っ暗である。腹は空いてきた。

 略)

 穴井君が、「夕食をもらってないからください」と請求した。

 司令の足音が衛兵所の方に遠ざかって行ったが、すぐに引き返してきた。私は夕食を持ってきたと思ったので立ち上がって食器を揃えた。鍵の音がして穴井君の房の扉が開いと思う瞬間、穴井君がしきりに謝っているが、その中ワッといって泣き出してしまった。おそらく固い靴で蹴られたのではないかと想像された。

「俺は忙しいのだ、食事の事は判っている」 と捨て台詞を残し、扉を荒々しく閉めて司令は立ち去った。腹は空いていたが、二度と請求できなくなった。

 時間は九時、十時と過ぎて行く。諦めて寝ようと思ったが、空腹で眼はかえって冴えてくる。十一時過ぎ、やっと扉を開いて食事をくれたが、取り方が遅いと因縁をつけ、靴で膝を蹴りつけた。皮膚が破れて血がにじみ、ひりひりと痛む。

略)

 翌日午後二時過ぎ、歌を唄えと注文された。黙っていたところ、穴井君が蹴りつけられたらしく悲鳴を上げながらしきりに謝っている。次いで私の房に来た。

「なぜ唄わんか」 と言いながら靴で蹴り上げた。仕方なくインドネシアの歌「ノナマニス」を穴井君と一緒に唄った。一度唄って止めたところ、 「止めと言わんのになぜ止めた」 と言って蹴りつける。

十回近くも唄うと喉はかすれて声が次第に小さくなり、自然に止まる。するとまた来て蹴りつける。仕方なく続けて唄う。こうしたことを二時間近く繰り返され、私は生きた心地もしなかった。

 この司令は一週間後に再びやってきた。廊下に穴井君と二人曵き出し、「腕立て伏せ」を体操と称して五十回も繰り返させ、膝をつけば蹴りつける。

 続いて廊下を匍って犬の泣声、猫の泣声をやらせる。今度は日本軍得意の匍匐前進をやらせる。額からは玉のような汗がぽたりぽたりと落ち、体は骨が解体するのではないかと思われるようにこたえた。司令は自動小銃を構え、もし若干でも抵抗の様子を見せたら射殺せんと眼を光らせている。

 死刑は目前に迫っており、たとい銃口をつきつけられても少しもおそらしい気持ちは起こらなかったが、もしこうしたところで射殺されたならば、逃亡しようとしたから射殺したと報告するのは明らかで、いまさら命を惜しんでの卑怯な逃亡の汚名をかぶせられることは自尊心が許さない。彼らのいうままに動くほか仕方がなかった。

 この夜見物に来ていた本国兵も、二、三日後来た時早速これを真似てやりだした。

 この青蛇司令が三回目に来た時、夜遅く衛兵所につれ出し、コンクリートの上に坐らさせ、ニュームの食器一杯に盛った飯を土人の食べる方法で指先で少しずつつまみ食べろと言う。

 粘り気のない土民特有の米粒は指先に五、六粒しかつまめない。一粒でもこぼせば泥のついたものをわざと食べさせる。

 コンクリートの上に坐っているので足が痛む。私は幸い永い間坐禅をしてきたため割に苦痛を感じなかったが、時々膝を崩す穴井君はそのつど股をしたたか蹴りつけられた。食器一杯の食事を一時間半もかかって強迫の下に食べさせられた。  翌日水浴の時、便器の罐を胸に両手でしっかり抱かせられたため臭い汁が時々顔にとばしってきた。

 午後は相変わらず歌を唄わせる。水浴に言っても二、三回水をかぶるとあがれと叫ばれ、便器をさげ駆足で房まで帰される。房に入ると汗がじっとり出てきてせっかく水浴してきたばかりでもう体中の汗をぬぐわねばならない。

 永い間部屋の中に閉じ込められていたので、時たまこうした過激な運動を強要されると、全身が痛んで寝付かれず、翌日発熱した。

 キャンプではこれ以上の虐待にも生きんが為と思ってじっと耐えて着たがこのように死刑囚として精神的にあえいでいる者を面白半分に虐待し凌虐する卑怯さに、いっそ兵器を奪って復讐をと幾度となく思い立った。しかしそうした自分の行動が穴井西條両君をも虐死させることになるだけでなく、キャンプの日本人が復讐を受けることは必定で、血で血を洗う修羅場を引き起こす事になると思うと、 「今しばらくだから耐え忍ぼう」 と逆流する血を抑えて眠られぬ夜々を過ごした。> p四十二〜四十五

 私はこの文を読んでいて、涙がとまりませんでした。

 この「戦犯叢書」シリーズには他にも「戦犯虐待の記録」などもあり、戦後、捕虜となられた同胞に対しての醜い扱いが書かれています。

続く

 午後からスポーツセンターに行く。

今日は水曜日にできなかった肩、腕、下半身のメニューを消化。

 Kくん二名様で来店。敏行さん二名様で来店。初めてのお客様Iさん三名様で来店。(みなさん、女性ばかり)

Oさん三名様で来店。奥様がおめでただそう。元気な赤ちゃんが授かりますように。

ドンチャン。珍しく記憶あり。

営業終了後、酔っぱらって作った卵焼きだったが、それなりにうまくできた。

 

前田利貴大尉 その二 絶筆

4月14日火曜日くもりのち大雨 ○

 四月十日金曜日に書いた前田利貴大尉についての続編です。

 前田利貴大尉は加賀藩始祖である前田利家の末裔で、華族の長男であり、学習院から法政大学に入り、学生時代に世界一周もするなど、名誉も地位もある裕福な家庭に育った。

 馬術が得意で、学生時代優勝もしばしばし、次期オリンピックの出場予定候補でもあった。

 卒業後は三井物産に勤務していた。

 

 下記はこの誇り高き前田利貴大尉の絶筆となったものです。

<親愛なる皆様、先ほどは御親切な御激励の辞をいただき厚く感謝いたします。今まで遺書の清書をしておりましたので御返事が遅れて申しわけありません。大変面倒見ていただいた同胞も金内さん(注 弁護士)も引き揚げられ、我々は兄弟以上の間柄でありました。

 一本の煙草も分けて喫い、助け合い激励し合ってきましたが、いよいよ私達二人先発することになり、今までの御厚情に対し深く感謝いたします。二番目と四番目(注 判決)が行く事になったので名主殿(注 私(木下注 著者の山口氏)が一番最初に入房したため牢名主ともいわれていた)と五セルの旦那(注 西條君)はひょっとすると・・・・とも思いますが、我々の気持ちはお互いに知り過ぎていますので、また赤飯情報(木下注 死刑は無くなったという情報)を繰り返す気はありませんが、私の最後の希望としてもし四人の中一人でも無事ならば私達の最後の状況をいつの日か同胞に知らせていただきたい。

 もし後から来られるなら見晴らしのよい席を、鈴木、和田、久保田(注 昨年逃亡自決)、村上(注 昨年処刑)諸氏と予約して置きます。

 私の最後の申し出として、

    これは屍体を処理する者に対する私個人の心遣いであります。

五、 遺書遺品送付

    検事は皆送る算段だったようです

 当日私の決心は、

 自動車から降りたら裁判長並びに立会者に微笑とともに挙手の礼をし、最後の遺留品として眼鏡を渡し、それから日本の方を向いて脱帽最敬礼、国歌奉唱、両陛下万歳三唱、合掌しつつ海ゆかばの上の句をとなえつつ下の句を奉唱し、この世をば銃声とともに、はいさようならという順序に行くつもりで、私のような凡人に死の直前に歌が唄えるかどうか、これが最後の難問題だと思います。

 皆様に対し遺留品として糸、針、古新聞、本(注マレー語)アテコスリ(注マッチ)その他手拭、歯ブラシ、衣類なんでも申し出に応じます。

                          前田>

p百五十〜百五十一

 山口氏の著書には、前田大尉が一緒に処刑される穴井秀夫兵長に対しても細かい注意を与えた事も記されています。

 

<「穴井君、左のポケットの上に白布で丸く縫い付けましたか」

 「はい、今日の明るい中につけて置きました」

 「白い丸がちょうど心臓の上になるのだ。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら永く苦しむだけだからね。

 それから発つ時毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。

 それでないと砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えると嫌な気がするからね。

 死んでからどうでもよいようなものもせっかく毛布があるんだから忘れずに持っていきましょう」>

p百五十二

 昭和二十三年九月九日、午前五時四十五分、チモール島においてこの通りに前田大尉と穴井兵長は行動し、

そしてオランダ軍に銃殺処刑されました。

このとき、前田利貴大尉三十一歳、穴井秀夫兵長三十歳でした。

 その夜、衛兵所でその処刑の状況を現地兵の会話として、

「歌を唄った?」

「さよう、とても大きな声で唄った」

「大きな声で」

と他の兵隊が聞き返した。

「そうだった大きな声だった」

「・・・・・・・・」

「何で笑ったのか」

「判らない・・・・笑っていた」

「何がおかしかったのか・・・・」

 これは、前田大尉が

「できるだけ大きな声で唄い、微笑を浮かべて射撃を促す」

と言っていた事を表しています。

 そして、現地の兵隊が前田大尉の死に臨んでの毅然とした態度に感銘を受けたその後の変化について、

山口氏は続いて下記のように書いています。

<日本人の死生観を理解できない土民兵は、刑場で大声で唄ったり、微笑を浮かべて死んで行く日本人を不審がって、永い間謎の解けない顔をしていた。

 翌日、水浴の途中、兵隊や兵隊の家族が平素と異なって我々をじっと見ていたが、私は二人の立派な最後に、

日本人としての誇りと肩身の広い思いがして久々に晴々しい気持ちになった。

 「死刑は上等か、死刑はこわくないのか」

と剣をつきつけ、我々を揶揄し、馬鹿にし、軽蔑していた兵隊が、こうした言葉を使わなくなり、また従来意地の悪かった兵隊の態度もすっかり変わった。これは両人の最後がいかに立派であったかを物語るものであった。>

「南海の死刑囚独房」(山口亘利著 国書刊行会 昭和五十七年刊)p百六十〜百六十一

 

 国のため棄つる命は惜しまねど

 心に祈るはらからの幸

 身はたとえ南の島に果つるとも

  留め置かまし大和魂

 前田利貴大尉が遺された歌だそうです。

 

 このように、オランダだけでなく、アメリカ、イギリス、支那、ソ連などによる理不尽な復讐劇が戦後繰り返された。

 それだけでなく、戦犯とされた方の日本でお住まいの御家族の皆様に対して、我が国国民は「悪いのは軍部だ」とした連合軍の思惑通り、手のひらを返したように冷たい仕打ちをした人たちも多い。

 先にも書きましたが、この前田大尉の最後も含めて、これらは六人の死刑判決を受けた中で、たった一人残った山口 亘利氏が、

一人でも無事ならば私達の最後の状況をいつの日か同胞に知らせていただきたい。」と前田大尉の絶筆にもあるように、

御自身も巣鴨拘置所の獄中にありながら、悲痛な最後をとげた同胞を忘れないで欲しいと昭和二十八年に出版された 「戦犯六人の死刑囚」(飛鳥書店)を昭和五十七年に「南海の死刑囚独房」として再刊したものです。

 恨みは忘れても、この事実、この先人の無念は忘れることは日本人として許されないものだと思います。

そして、そのような中で、堂々と振る舞い散っていった武人らしい行動も日本人として立派な先人と誇りに思い忘れてはならないものだと思います。

 都合の悪い事だけ忘れて、ない事をあった事のように騒いでいる腐れ連中にも読んでほしいものです。

 今日は夕方から雨が降り出し、ヒマだろうと思っていたら、

 初めてのお客様二名様来店。二名様来店。Hさん来店。

 オチャピーでなくてよかった。

 今日は飲まず。

 


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