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「降伏日本軍人」という身分と英軍による捕虜虐殺
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成19年9月24日月曜日曇り
「降伏日本軍人」とは
<この作業のとき、私は奇妙な一群を見た。インド兵のような服装をした日本兵の集団で、私たちと同じ作業をしている。なぜか私たちをさけている。ものも言わない。やがて私たちは気がついた。戦時中の捕虜、投降者たちである。それは、捕虜、または戦争捕虜(戦犯者ではない)として私たち降伏軍人または非武装解除軍人から区別され、中央監獄に収容されている人々であった。
私は、行き会った一人に「やあ」と声をかけてみた。顔をそむけて応答してくれなかった。
「話しようとしても物をいってくれないな。気の毒だから無理に話しかけることはないけれど、ひどくひがんでいる」
と小隊長は言った。日本軍の教育はおそろしい。「捕虜」たちは、戦争が終わったその時でも、私たちが軽蔑の目で見ているとうたがい、全身でそれに反撥している。しかも、自分を恥じている。私たちは、自分達を立派だと思っていない。ことにろくろく戦闘もしなかった渡しなど威張れるわけがない。しかい、こういう人たちを目の前にすると正直なところ、おれは投降はしなかったという気分がわき、優越者みたいな気になるのを抑えきれなかった。>(p72〜73)と会田雄次氏の著書「アーロン収容所」にも書かれているが、これについて、「日本の反論」(米田健三著)には下記のように書かれています。
<英軍は国際法が定める捕虜の待遇を与えないために「降伏日本軍人」というあらたな身分をあみ出した。その日本軍人に対して、粗末な給養で、危険な、あるいは不潔な労働を強いられたのである。この問題については「軍事史学」(第三五巻第二号)に掲載された喜多義人論文に詳しい。
それによると、一〇万六〇〇〇名もの将兵が昭和二一年七月以降も「作業隊」として東南アジアに残され、昭和二三年一月の送還完了までに九〇〇〇人近い死者がでたという。>
自分達はシンガポールなどにおいてさっさと投降しておきながら、そんな事は忘れて、「アーロン収容所」に書かれているように、もともと、捕虜の立場を厭がる日本軍の意向が、逆手に取られたのである。
また、日本軍将兵が課せられた作業は、
<「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、一〇〇キロ入り米袋の運搬」などで、明らかにハーグ陸戦法規と一九二九年の捕虜条約が禁じた、過度で、不健康、危険な労働であった。まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすための復讐に他ならなかった。
英軍についていえば、一九四四年六月二二日、インド・アッサム州のミッションで、一〇〇人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された(「世界戦争犯罪事典」文芸春秋)。アッサムの英軍根拠地インパールの攻略を目指した牟田口中将の第一五軍は、コヒマを占領したものの、英軍の猛反撃を受け後退を開始した。ミッションを防衛していた歩兵第六〇連隊も移動を始めたが、逃げ遅れて担架に乗せられたまま路上に放置された夜戦病院の重傷患者一五〇名は、英軍グルカ兵の手でガソリンをかけられ焼き殺されたのである。>
以上、引用および参考
「日本の反論」(米田健三著 並木書房)
「アーロン収容所」(会田雄次著 中公文庫)
戦場においては日本軍だけがいかにも残酷な行動を取り、連合軍が紳士的な行いをしたような事をいう人が多いが、決してそういうことばかりではない。どちらにも、英雄的な行動もあり、感動的な出来事もあるが、醜い行いもある。一方的に先人を断罪するような事は慎んでほしいものである。